レースペースとハンデ
各馬が堰を切ったようにスタートする。
流れに乗るようにランサーも走り始めた。
忙しく上下に揺れる馬体。すぐ横からは馬、そして人間の息遣いを感じる。久しぶりの感覚。レースが始まったのだと認識させられる。
レース序盤。飛び出したのは馬は2頭。3番と7番の馬である。レースを引っ張るのは3番で、ペースをコントロールするのが7番だ。
その先行馬たちを馬なりで追っていく。すると、早くも3番手以降のペースが落ち着いてきた。横に広がっていた馬群が次第に細く、縦長になっていく。
スプリングランサーと俺たちも外を走る馬たちに押されて進路が内側へと寄っていく。
一つ目のコーナーを抜け400メートルを通過するころには、隊列はほぼ2列になってしまった。
ランサーは、先頭から14番手あたりで隊列の内側を走る。まさか北部のレース態様で走ることになるとは。俺自身、このようなレース展開は初めてだ。
しかし、ランサーは現役時代、北部の厩舎にいたはずだし、北部でG1、重賞勝ちをしている。勝手知ったるレース展開。迷ったらランサーに聞いていけばいいのだ。
馬郡は、隊列を維持したまま進行する。オトは前から後ろから6番手あたりでジッとしており動く素振りはない。観客席いる私たちもレース展開同様に静かにレースを見守っている。
「停滞してるわね」と、ミラが口を滑らした。周囲の視線がこちらへと向けられる。
それに対して「最後の直線まで脚を溜めるのが北部的な乗り方ですから、ペースが遅いのは自然なことですよ」とユリアが応答する。
「オトにとっては有利なの?」とブレアが質問を投げかける。私たちにとっては、ユリアの説明だけでも十分だったが、これまで馬に乗る機会がなかったブレアにとっては物足りなかったようだ。
「ランサーは、北部で厩舎を構えたオーエン・ライアンという名伯楽に管理・調教されていましたら、このような展開にも慣れていると思います。それに適正距離から見ても、1900メートルは少し長いですから、脚を残せるのは有利に作用すると思います」
「それならいいてっこと?」
「そうとも言い切れません。正直、今のペースはあまりにも遅すぎます。遅いペースは、前にいる馬たちに有利に働きます。特に、今は先頭と番手の馬たちが何もしていない状態ですから、単に距離的なハンデを与えているような状態です」
「それってマズいんじゃ」
「ああ、マズいな」と、どこからともなく渋い声が聞こえてきた。
「先生。来ていらしたんですね」
ベルナールである。現在ここでランサーのお世話をしている人物であり、オトに対してランサーでレースに出るように勧めた人物でもある。
ベルナール先生はその言葉にあえて答えることはしないまま語り始めた。「このまま行けば、1位、2位は3番と7番。残りの3枠を19頭で奪い合うことになる」
「掲示板に載る順位であればいいんですもんね」
「その通り。だが、ライバルは強敵だ。特に問題なのが、ジャックとキングに代表されるロード系の馬たちだな。スピードとバランスの取れた血統で、このレースも確か21頭中14頭がロード系だったはずだ。そのうち、オープンまで出世したのが8頭。実力馬が揃っている」
「しかもロード系の馬たちの主戦場は、1800(9ハロン)~3200(16ハロン)。その中でも14番カスパージャックと16番リファレンスキングは、2000メートル前後、いわゆるクラシックディスタンスで活躍した馬です」
「ロード系は追い込み型で末脚に強みを持つ血統ですから、ランサーと被るという問題もあると思う。加えて、ランサーは本来スタミナ血統の馬ですし」
「オトに見込みはないってこと?」
「そんなことはないよ。馬の調子にだって左右されるものですから」
「ランサーの仕上がり(じょうたい)はどうなの?」
ブレアの言葉によって、先生への注目が集まる。注目しているのは私たちだけではない。その周囲にいる人たちもみな一様に耳を傾けている。それだけランサーは注目されているのだ。そのことを理解したうえで、ベルナールは口を開いた。
「現役時代の完璧に仕上がっている状態と比べれば3割。今の能力で言えば7割」
その言葉を聞いても誰も答えられない。かろうじてユリアが反応した。
「ギリギリでしょうか?」
「このまま行くならば、ギリギリアウトだ」
レースは淀みなく進行する。馬の出し入れがないため、ペースも非常にゆったりとしており安定している。ランサーはストライドが大きいためバランスを取りやすい。乗り味の良い馬である。
その一方で恐ろしくもある。この調子を保っていけば、ラストの直線に入るまでは、何もできない。ゆったりとしたペースは、先行馬たちに有利に働く。
特に3馬と7番。これまでの流れは、あまりにもこの両馬にハンデを与えている。もし俺たち後方集団が運ではなく、実力で勝とうとするのであればあの馬たちを捕まえに行かねばならない。
前の馬たちが600メートルを通過する。もう少し走らせるとコーナーだ。足の間から後ろを確認すると、最後尾にいる騎手と目が合った。リファレンスキングに跨る男の子だ。ロフト家の家紋の入った勝負服を身に着けている。
強張った顔をしているがわずかに口元が動いている。何かを言っている。
ええと、つ…か…ま…え…な…い……と。捕まえないと。頭を上げて先頭を確認する。前にいる馬たちは、かなり余裕をもって走っている。確かにペースを上げて貰わないと、後方勢としてキツイものがある。
先頭馬たちに競りかけてペースを上げて欲しいというのは、最もな願いである。
でも俺にはできない。ロングスパートだなんてこんな局面で選べるのは、勇者か愚者のどちらである。ミラだったらできるかもしれないが、賢者タイプの俺には土台無理な注文だ。
もう一度、股の間からロフト家の子息を覗き込み、首を振って無理だと合図を送る。その合図を受けた少年は、首を横に振りダメだという意見を表明する。
彼の言うことは良くわかる。このままで、勝てる見込みは満に一つの可能性だ。それでも、ここで前に出て自滅するリスクよりは遥かに安全で確実だ。あの子が自分で行かないのはそれが分かっているからだ。
俺も行かない。彼も行かない。というか、展開を理解している人ならば、“行かないと”と頭では分かっていても“、行けない”。辛い状態だ。
リスクは少なく抑えつつ、勝機を引き寄せるためにはどうしたらいい? 考え事をしながら、周囲を見渡していると前から芝の塊が飛んできた。危ない。もう少しで口に入るところだった。
芝を巻き上げた犯人は、斜め前のカスパージャック。この馬もまた余裕の走りを見せている。それどこから前に行きたそうである。
そっか。他の馬にお願いすればいいのか。
再度、股の間からロフトに視線を送る。「どうするの」とか聞いてきたので、ウィンクを返した。今ので伝わったらいいな。
さて、俺の勝負が始まる。ここからは騎手の仕事だ。




