閑人
「嘘……どうして?」
ミラの歩みが止まる。
「実はミリーなんですけど、脚が熱を持っていてて走れそうにないんですよね」
「何を言ってるの? ミリーのことあれだけ労わっていたじゃない。どうして今日になってそんな話になるのよ!」
ミラの肩が震えている。感情を仕舞い込んだ俺とは対極的だ。何が起きたのかわかっていない様子のドリームは、耳が立ち上がっている。
タイミングが悪かったかもしれない。伝えればこんな感じの反応になることは、分かっていたはず。いや、正直予想以上だけど。
「俺の管理不足だよ。ミリーにも申し訳ないと思ってる」
「……そう…………貴方も大変だったのよね」
今度は急にしおらしくなった。
「付き合わせちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
そう言うなり、俺の手から馬具を取り上げた。
「なにをす……」
いつもの調子で返答しようとするも、言葉が続かずに途切れた。彼女の瞳には怒りが滲んでいた。
お互いに言葉を発しない。時間が止まったように動かない。というよりも動けない。突き刺さるような視線は反抗する気力を失わせた。
一言でも他愛のない言葉でも相手にかけることができたなら、この空気感は一気に吹き飛ぶだろう。俺とミラの気持ち、双方の思いを救い出すような言葉が見つからないのだ。
「私は、ドリームの乗り役として、私よりも上手にドリームに乗ったあなたと戦いたかった」
俺よりも早く、溜息を吐くように、すべてをさらけ出すように、思いを吐露した。「じゃあね」と風にかき消されるような声で呟いたその背中を俺は見ていることしかできない。
その視界は歪んだもので、とてもじゃないが歩けそうになかった。
スタンドに戻るとアビゲイルに見つかった。彼女は仲のよい友達と一緒にミラの凱旋を待っているようであった。
ここで次のレースを見るのであれば、準備などで余計な気を遣わせてしまうような気がしたし、悪い話は早めに伝えた方が良い気がしたためスタンドの外にある見晴らしの良い丘に連れてきて、レースへの出走を見送ることを伝えた。
アビーは、はじめこそ狼狽したようなリアクションを見せたものの、今では落ち着いたようで話を寄り添うように聞いてくれている。
そう。この問題はすべて答えが出ているのだ。今から何かをしようとも、できるとも思わない。
「そっか。残念だったね」
すべてを聞き終えた彼女は残念そうにミリーのいる厩舎の方に視線をやった。仕方のないこと。今回の一件はそのように片付けなければいけない問題なのだ。
「大事を取って、しばらくはミリーには乗れなさそうだよ」
「でも折れてなくて本当に良かったね」
「そうだね。そこだけが救いというか、希望だよ。本当に安心してる」
上空には青い空。かなり上空にある雲たちは、風のあおりを受けて速いスピードで流れていく。俺の気持ちも雲のように綺麗さっぱり流してくれたらいいのに。
「ごめん。話はこれだけなんだ。戻ろっか」
アビゲイルに手を差し出す。彼女は差し出され手を素直に握り返す。
さて、気合いを入れてアビゲイルを引っ張って帰ろう。スタンドでは、予想を裏切るような心躍るレースが4レースも残っているのだ。
「あれ? ちょっと待ってね」
おかしいな。走って帰りたいはずなのに足の反応が鈍い。どうしちゃったんだろう。
「ねえ、オト。このままここにいよう?」
アビーは不思議なことを言う。友達が待っているはずだ。それにミラが戻ってきたときにその場にいなければ、友情に傷が付きかねない。いいはずがない。
「ダメだよ。待ってるでしょ」
「いいんです!」
彼女は、俺の手を両手で掴んで地面に投げ飛ばす。予想外の行動に対して俺は反射できずに受け身をとる間もなく地面に叩きつけられた。
「イタタ。もうなにするのさ」
「いいじゃないですか。ほら、目を閉じて。気持ちいいですよ」
珍しくアビゲイルが主張したものだから、反抗するという考えも思い至らずまぶたを閉じる。
ほのかに立ち上がる草の香りと、吹き抜けていく風の音が聞こえる。風にのって小鳥のさえずりや太陽の匂いが感じられる。
「分かる? この感じ」
「分かるよ」
「ならそのままで時間なんて気にしないで、このまま楽にしていようよ」
自分に言い聞かせるように静かに「うん」と静かに頷いた。雲の流れは依然として早いままである。
どのくらいの間こうしていたのだろう。遠くからは、ファンファーレの音や歓声が聞こえ過ぎ去った。これが何を意味するのかは知らない。というかどうでもいい。
「ねえ、ミリーのこと見に行かない?」
アビゲイルはおもむろに立ち上がり前髪を整えながら言った。ミリーか。自分の失敗をほじくり返されるような気もするため、会いたくないもするが状態も気になる。
何より心を入れ替える時間を作れたのは大きい。客観的には、確認しに行っても差し支えない。となれば答えは一つである。
「行きましょうか」
ミリーが生活している厩舎に着いた。アスペンドリームも同じ厩舎の馬ではあるが、幸せなことにミラはいないようだ。安心した。
厩舎の中にある治療室にその姿はあった。治療とは言っても冷水に脚を突っ込んで冷やしているだけである。手術が行われたような形跡はない。
ただし、当のミリーは退屈そうに建物の外を眺めている。全然大丈夫そうである。自分の目で見て安心することができた。
「ごめんね」と声をかけながら鬣から背中にかけて痒そうなところを手で撫でていく。あんまり需要がないのか、心ここにあらずなのか、ミリーは特段反応することもなくぼけーとしている。やっぱり脚は大丈夫なようだ。




