ミラ、覚悟の仕掛け
先頭集団の策が炸裂しレースが停滞する。前が低速化に伴い追い込み勢がどん詰まりになる。人間同様、サラブレットも減速後の再加速にはかなりの体力を要する。脚が止まれば致命的だ。
今日の馬場状態を考えれば、差しや追い込み、マクリが決まりやすいはずだ。位置を下げて競馬をするのは正常だ。
あっ、さっきのユリアの言葉、そういう意味もあるのか。こうなることをユリアは……
周囲の先生たちの反応も含めさほど驚いた様子はない。それどころか余裕の面持ちである。
「どうするのさ。ミラ」
アスペンドリームに跨るミラが視線を地面に落とすのが見える。勝ち上がれるのは5人だけ。最低でも5着に入らなければならない。先頭集団5人の壁をかわすなり崩すなりする必要がある。
口の割れた前5頭と走りには余裕の感じられるドリーム。同じなのはギリギリの精神状態の騎手か。全員動きが硬くなっている。このまま決まるのか。
「わたしは……負けられないんです!」
その時、コースの方から叫び声が上がった。視線が声の主に注がれる。誰の声かははっきりしている。その声の主は、果敢にも馬を外へと出してアクセルを踏み込んだ。
「ここで仕掛けたのは、アスペンドリーム、ミラ・ウィンゲートだ!!」
行った! ミラが仕掛けた。選んだのは、外。横を走る馬に進路が被さる形でドリームを進める。審議のランプが点灯する。しかし、お構いなしに加速する。
会場のボルテージが一気に高まる。間違いない。ミラが会場の視線を一気に掻っ攫った。
アスペンドリームは、左手前でぐんぐんと距離を詰める。
それを見た後続も外へと流れて行く。先行勢の中にも外へ出そうとする者たちがいるが、後続に外へと出る進路塞がれているため上手くいっていないようだ。
誰よりも先に仕掛けたミラが勝利の女神の微笑まんとしている。
馬場の内と外で伸び方に差はないだろう。だが、アスペンドリーム号に乗ったことのある身として言えるのは、彼女は末脚勝負で負けるような馬ではないということだ。
右に寄れる癖も疲弊している様子も出ていない。行った! このレースはミラが勝つ。
ミラのステッキを受けてドリームはストライドを大きくしてさらに加速する。周囲の馬も追走するが背中を捉えることができない。パワーが違う。
先頭集団の外に並ぶ。先頭集団も懸命に馬を走らせるが伸びてこない。ドリームはその勢いのまま一気に抜け出した。
その差は、半馬身、1馬身と徐々に広がっていく。それと同時にドリームの後ろにいた馬の旗手たちが馬を追う手を緩めた。ドリームの走りが力強すぎるのだ。
ラスト300メートル、この時点でトップスピードに乗ったドリームが完全に抜け出した。出走者たちの思考は二着以降の勝負に切り替わっている。
入線が早い順に決勝戦の枠番を選ぶことができる。もちろん全員枠入れが後になる偶数番のそれも内枠が欲しいはずだ。俺だって欲しい。
いや、俺はレースに出られないんだ。俺がフィリアに無理を強いたばかりに。
本当は俺だってレースに出たい。出たところで5着入線狙いしかないことは分かっていた。しかし、そういった問題じゃない。俺もレースに出て思いっきり馬を走らせたかったのだ。
俺にその権利はない。クヨクヨしても無駄だ。俺はここにいるべき人間ではない。
こうしてはいられない。責任感を持ってフィリアの面倒を見るしかない。それこそが俺の贖罪である。
席から立ち上がってその場を後にしようとする。
「まだレースは途中ですよ」
ユリアはレースを注視したまま呟いた。
「結果は分かりました。もう満足です」
こちらも目を向けることなく受け答える。自分以外の誰に聞こえるのかという声で。
しかし、意外にも俺の言葉を受け取ったユリアは静かに笑うのであった。
「何が可笑しいんですか? ここから何か起こるとでも?」
「それはないでしょう」
「それならどうして……」
「5着争い君なら誰が来ると予想しますか」
あくまでもレースに集中している様子で視線を外す素振りはない。分からない。どんな答えを想定しているのだ。何と答えれば満足するのだ。
返答することができない。このレースで最も幸運な者。それが5着という順位を掴むのだ。
「ゴメンね。深いことを聞いたつもりじゃなかったんだけど。ただ私としては一度目を付けた馬のことをそう簡単に見捨てられないんですよ」
「えっ?」
「こんなところで終わるのかなって気がしちゃうんです」
そう言い切るなりこちらに顔を向け、目線でレースを見るように合図をした。その合図を無視することができず、思わず目線が馬場の方に移った。
その瞬間、あり得ない光景が飛び込んで来た。
「なんということだ! 馬群を割ってピエログリフが前に出て来た!!」
スタンドから一斉にどよめきか歓声か分からない地響きのような声が上がった。反響した声がその声をさらに増幅させて大きなものにしている。
揺れている。足がふらつく。違う。スタンドが縦に揺れているのだ。
方向感覚を失いそうになる大歓声の中を明確な進路をもってピエログリフは歩んでいく。
誰もが躊躇するような壁を勇気でもって打ち破ったのだ。
抜け出したピエログリフは勢いそのまま前にいる馬たちを捲っている。一度は10番手以下にまで落ちたその順位は、8番手、7番手、6番手……と背中を捉えて上がっていく。
そして、そのままゴール板を駆け抜けた。
その走りに迷いはなかった。




