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レースを前に

 学園に行く準備を整え、学帽を手に取る。準備とはいっても、昼に食べるサンドイッチ、レースで穿く乗馬パンツとあぶみをかばんに入れただけである。馬乗りの道具は、この鐙を除いてほぼすべて学校に置いたままにしている。

俺の道具は、使い古されておりほとんど価値はない。嫌がらせ目的以外でなくなることはない。

 

「あっ、オトもう行っちゃうの?」

 ドアの方に歩く俺に対してアビゲイルが驚き思って尋ねる。普段は、アビゲイルの方が先に準備を終わらせ、俺の手を引っ張って登校している。しかし今日は、アビゲイルに急かされることなく完了した。

 いや、まだ準備すらはじまっていないアビゲイルにしてみれば、もう行くのと言った感じであろう。残念、もう行くのである。意外であろうが、俺の体が行くんだと語りかけている。


「行くことにするよ。アビーは、ミラのレースに間に合わせるように来る感じ?」

「うん。そのつもり。オトも午後なんだからそうだとばかり……」

 歯切れ悪そうにもじもじとしている。そして、机の引き出しをゴソゴソし始めた。言いたいこととか、したいことがあるならはっきり言えばいいのに。靴下の色が左右で違うとか、パンツに穴が空いているとか。


 机の中からは縦長の箱のような物が取り出され、それを背中に隠したままこちらの方に駆け寄ってくる。

「あのね、これ使って」

 そう言って手渡された箱の中身はゴーグルであった。しっかりとした作りのケースに入れられレンズも丈夫そう。俺が現在使っているような安物ではなく、かなりの値打ち物だ。

「これは?」

「オトに使って欲しいなと思って先輩と相談して決めたんだ。最初は鐙がいいかなって思ったんだけど、オトの好みが分からなくてゴーグルにしたんだけど」

「さすがアビー! サイズもぴったり!! やっぱりいいセンスしてるね」

「そうかな。そう言ってもらえると嬉しい。このゴーグルなら学園対抗のギルバードステークスでも使えるみたいだよ」

 照れた様子のアビゲイルはやっぱりもじもじしている。カワイイやつ。試しにゴーグルを試着してみる。レンズは歪曲が一切なく、軽くてとても見やすい。


 ゴーグルを外しケースの中に入れ鞄の上の方に仕舞う。アビゲイルからの大事な贈り物だ。大切にしていこう。

「ありがとね」

「へええ。とんでもないです」

 どうやらアビーは照れ顔を隠せない様子で下を向いている。そんな様を見ていると意地悪がしたくなる。


「本当にありがとう。愛してる!」

 そう言ってアビゲイルを強く抱きしめた。

「え! ちょと、あっ!」

 思いがけない出来事にアビゲイルが言葉にならない何かを言っている。自信がないアビゲイルには、ここまでしなければ気持ちが伝わらない。きっとこれくらいでお釣りがくるくらいだ。と自分に言い聞かせて自分の行為を適法化する。

 アビゲイルは抵抗することなく俺の体に身を預けている。性格が良く気遣いが出来て、可愛くて、頭が良くて、性格が良い。やっぱりアビーは最高の妹だ。


 そんなことを思っていると、ドスンドスンと足音がしてドアが強く叩かれた。

「応援行ってあげるから、帰って来てからやりなさいよ!」



 芝の状態を確認するため校舎の横を通り抜けて競馬場の方に行く。当日の朝は実際のレースコースが開かれており、人の立ち入りができる。スタート地点とコーナー、ラストの直線、それぞれの芝状態を実際に目で見て、触って確認する。

 コース上には、レースに参加する学生のほかにも上級生や教員がいる。こんな風に学年の違う学生が交じり合うのは、昼時の学食以外では思いつかない。

 あれ? 今日は学食やっているのかな? 今日は土曜日であるが授業はお休みである。土曜日なのに授業が休みだからレースが行われるというのが正しいか。普段学食の人はお昼どうするのだろうか。


 ここ最近は雨が降っていないため、芝は乾いている。しかし、怖いのはコースの芝が長いことだ。ミリのようにパワーが少なく、高く跳べない馬は芝に脚を取られるリスクが高くなる。

ユリアがこの地域の芝は俺の出身地域とは芝の質が違うのだと言っていたが、その通りである。

 俺の出身地域は、もっと芝が短い。南部の芝は、ここまで長く伸びず芝が浅い。加えて平坦な土地が多いのだ。それが原因かは分からないが、プロが行うノーブル・レースではダート競争の方が人気がある。

 そうは言ってもしっかりと手入れのされた芝は、一面きれいである。俺が出場する第5レースまでに芝が荒れたていければいいのだが……


「……オト君……オト君!」

 名前を呼ばれていることに気が付いて慌てて声の方を確かめる。大シカトをかましていたかもしれない。

「オト君。やっと見つけましたよ」

 声の主は、先ほど俺の中で登場していたユリアである。どこか慌てた様子である。はて、どうしたのであろう。


「いかがしましたか先生」

「オト君、ミリーが、ミリーが大変なんです。とにかく来てください」

 俺の返事の有無を聞くまでもなく手を握ってミリーのいる厩舎の方に走っていく。

 この感じは、ただ事ではない。ミリーに何があったのか見当もつかないが、彼女に何かがあったのは間違いない。


 馬房の中では、ミリー大粒の汗を流していた。これは普通じゃない。

 刺激しないように斜め前からゆっくりと近づいていく。俺の姿に気が付いたミリーは、苦しそうに目で何かを訴えかけている。

 ミリーの正面に来て分かった。彼女は、右前肢を庇うように立っている。患部はここで間違いない。骨折していれば、最悪のケースもありえる。


「ベルナールは知っているんですか?」

「もちろんです。今指示を仰いでいます。でも、まずは検査になるでしょうね」


 話をしているとくだんのベルナールが現れた。3人ほど厩舎スタッフを連れている。ベルナールは俺の姿を見つけると、なんと声をかけるのか悩んだ様子で一瞬口を歪ませた。俺もどうしたらいいのか分からない。だが、ベルナールはその後すぐに口を開いた。

「ユリア、それとオトか。来ていたんだね」

「先生どうしますか?」


「ギレムには話をしてきた。検査をしてもらえるそうだ」

「酷いんですか?」

「ワシに聞かないでくれ。だが熱を持っているのは間違いない。とにかく連れて行くぞ」


「ギレムって誰ですか?」

「うちの学園の臨床獣医の一人です。先生と仲が良いみたいで、うちの厩舎の馬はギレムに見てもらっているんです。信頼できる人ですよ」


「先生ミリーはどうなんだ?」

「今見てるとこ。ちょっと待って」

 ギレムは映し出された画を見て右前脚の状態確認している。見ているのはレントゲン写真のようなものだ。骨が見えている。


「分かりました」

「で、どうなのですか? ミリーは大丈夫なんですよね」

 ユリアが答えを急かすように言葉を発する。一同に緊張が走った。誰しもが思わず唾を飲み込んだ。


「結論から言えば、折れてません。大丈夫ということです」

 その言葉を聞き、思わず「良かった」という言葉が漏れる。命に別状はないということだ。それまでの厳しい顔つきが嘘のようにお互いに顔を見合わせて、笑い合う。

 しかし、俺にはもう一点聞かなければならないことがある。


「レースには出せるのですか?」

 誰もが気になっていたであろう禁断の質問を問いかける。再び一同の顔が真剣になる。

 ギレムは、質問した俺の方をじっと見つめる。そして、ふっと息を吐いて口を開いた。

「結論から言います。出走は取り消すべきでしょう」


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