スタート前、馬場にいて
ミラが被っていたヘルメットを受け取りアスペンドリーム近づく。ドリームの馬体は太くはあるが、腰回りの筋肉など競走馬として必要な筋肉はまだ残っているように感じられる。
当のドリームは見覚えのない人間が現れ、一度は警戒したもののしばらくして背中を許した。俺はそのことを確認してドリームの鞍に跨った。
その瞬間、ドリームの感情が体の中に流れ込んでくる。馬と人が同化していく。なるほど、そういうことか。
「どうですか? ドリームの乗り心地は?」
傍で様子を眺めていたユリアが満足そうに尋ねる。
「乗り味はまだ分からないですけど、感触は悪くないですよ。今は落ち着いているみたいですし」
ドリームには先ほどまでの気性の悪さは感じられない。この感じならば普通に走りそうである。ひとまず心配なさそうだ。
「脚元に不安があるとかじゃないから、その心配はいらないわよ」
「ありがとう。ミラ」
「準備はいいですか? ルールの説明をします」
シャーロット先輩の声がする。他の出走馬たちは準備ができたらしく馬場の中央に集まっている。俺たちも早く向かわなければならない。ヘルメットは被った。パンツは一瞬だから履き替えなく十分。あと必要なのはムチか。
「そういえば鞭を貸してもらえませんか?」
俺の言葉に反応してミラから鞭を受け取ったアビゲイルが手渡そうとすると……
キューン。
ドリームがいなないてアビゲイルに警戒感を示す。ゆっくり近づくアビゲイルに対してカニ歩きで距離を取る。アビゲイルが怖いのか。いや、違う。ドリームの瞳にはアビゲイルが手に握っているものが映っている。
「鞭が苦手なのか、ドリーム」
ドリームは答えることはない。だが間違いないだろう。それなら答えは一つだ。鞭には頼らずに走らせて見せる。
「鞭はいりません。行ってきますね」
「気をつけてください。ドリームはほとんど鍛えていないので無理をさせないようにしてください」
「6割まででセーブして走らせてきます」
右手を挙げつつユリアの注文に返事をする。さて、難題だぞ。まずは上手くコミュニケーションを取れるかだ。
馬群に集合しつつそんなことを考える。馬に乗るのなんて2か月ぶりだ。しかも相手は格上。どんなレースになるか楽しみだ。
「それでは確認になりますがルールを説明します。今回は1800メートルのコースで右回りのレースを行います。スタートはあそこの赤旗を持った先輩のところで、ゴールはスタンド前のゴール版です。スタートに関しては、発馬機は使わず掛け声で発走します。厳密には求めませんが、あの先輩がスタートの5秒前からカウントダウンするのでスタートの合図よりも前に先輩の前を通り過ぎないように助走してください。疑問点はありますか? 大丈夫ですか、オト君?」
疑問点を挙げる者は誰もいない。というより俺以外はあらかじめ知らされていたようだ。分かるよな、みたいな視線が送られる。疑問点らしい疑問点もない。ゴール版と周回方向さえ分かっていれば大丈夫だ。質問があるならば。
「そうしたら一つだけ。確かこの競争は馬術部の先輩対新入生という形で行われるって聞いたんですけど、対戦相手の先輩はどなたですか?」
一同の視線が示し合わせたかのように集まる。こいつマジかよという視線。呆れた視線。あれ、一応知らされていないし、確認的に聞いただけのはずなんだけど。この感じは何なのだろう。もっとワイワイするところじゃないの?
「そうですね。もちろん私ですよ。なんなら1対7でも構いません」
シャーロット先輩はそのような雰囲気を気にしない様子で朗らかに答える。シャーロット先輩の馬は一頭だけ青いゼッケンをしている。遠めでも分かりやすくなっている。優勝宣言のように感じられる。
「大丈夫です。作戦がまだ立っていないので緩めに走らせます」
各馬が馬場に散らばっていく。この競馬場は土地を整理して作られた競馬場らしく、コーナーがキツい。このような直線が短くコーナーが急なコースは内側が有利である。必然的に内側に馬が寄っていく。そんな中、大外にいるのはシャーロット先輩。俺とドリームは内から6分目あたりに陣取る。
内側の方から3頭の馬が近づいてくる。ニヤニヤしながら顔すら知らない新入生たちが3人ほどやって来た。
「君はそんなところでいいのかい?」
「そもそも乗り替わりでしょ。その馬のことどのくらい知ってるのかな?」
相手騎手は敵意を出すことなく尋ねる。敵情視察という感じではない。どちらかというとバカにしに来た感じだろう。本気で相手をしてあげる必要はない。
「実はさっき初めて顔合わせしたところなんだよね。本当に何も知らない感じ、無事一周できたらいいかなって本気で思ってるくらいさ」
「マジかよ、聞いたか今の……ウケるんだが」
「無理もない。急に乗るんだからよ」
3人は我慢できなくなったという様子で声を上げて笑う。遊びだからって、俺の言葉を本気にするか普通? 走るからには一着を取れるように頑張るさ。何よりスタート前だ。穏やかに世間話をするくらいで丁度いいだろう。
まあ、社交辞令を本気にするタイプといえばそれまでだが、少なくともスタート前の抱負を疑いもせず信じるような騎手はいない。馬はともかく乗っている人間は大したことないだろう。
「君は馬術の授業取ってるよね。グループは何グループ?」
「Cだよ、何とか馬に乗れるくらいかな」
「私はもちろんAですよ。そしたら乗ってる馬は? 重賞何勝?」
「ドリームは重賞なんて走ったことないと思いますよ。確か3勝したって言ってましたから、オープンには届いていない条件馬だと思いますよ」
「おいおい、しかっりしろよ。一体どの面下げて来たんだ。俺の馬は重賞で2勝もしてるんだぞ」
ドリームの成績を聞いて一人が声を上げる。その成績に対抗するようにあとの二人が続く。
「それいえばこの馬はGⅡで勝ってるさ」
「全く、一緒に走るということが驚きだよ。本当に一周するだけのつもりとは……ちなみに私の馬はGⅡで2勝した馬で、適正距離は1800メートル。そして外車ですよ」
「へぇー。凄いですね。一体どなたが優勝するんでしょうね」
好き勝って言っていた3人は俺の問いかけに黙り込んだ。答えは出てるだろ。今回のレースは助走有りのため、距離は実質1600メートル。適性のある外車が勝つ。
外車とは外国産馬のことである。わざわざ海外から高い関税を払って輸入するのだから、期待値の高い超良血馬だ。そして結果も残している。間違いなく強い。この3頭なら間違いない。
しかしそのことを認めたくないがために二人は黙ってしまったのだ。当然自分の馬に愛着がある。負けることなど考えないだろう。騎手の感情は馬に伝播する。あのような不安定ない状態では馬は能力を発揮できない。
「どうしたんですか? スターターが旗を振っていますよ」
気まずい雰囲気になった3人から馬を離して、右足の鐙革をわずかに長くする。馬にも俺の気合が伝わったようだ。ドリームの息遣いが変わる。腰を浮かせる。
ドリームがゆっくり駆け始める。次第にテンポを上がっていく。そしてカウントダウンが始まった。
「5、4、3、2、1……ガシャン」
各馬がスタートラインを超える。
100メートルほどで第1コーナーだ。さて、どこにつける…………




