間抜けなロバと緊急事態
「これどうやって乗るの?」
気の早いブレアはさっそく馬に乗りたいようである。授業なら引き運動から始めるのだから急がなくてもよいと思うのだけど。
しかし、そんなことには気を留めない様子のブレアはユリエの補助を受け、ランサーに騎乗してしまった。
「手綱は両手で持ってください。もう少し両手の間隔を近くして手綱が弛まないように・・・・・・」
ユリエはてきぱきとブレアに指示を送る。見事に先を越された。俺が先に乗りたかったのに・・・・それはともかく、ユリエは何を考えているのだろう。ブレアの格好は明らかに乗馬するための物ではない。
あんな薄手の運動着では股がズタボロになってしまう。また、ヘルメットも手袋も持ってきていないようだ。危ないったらありゃしない。仕方がない。俺がもらってこよう。
臭い。馬房の方から悪臭が漂う。厩舎の中は吹き抜けになっており、しっかりと換気がなされているが、それでも微かに異臭が漂ってくる。やはり都会の馬房である。
うちの地元では馬の餌である飼葉は、干し草か、放牧中に勝手に食べている牧草と決まっていた。そのため、栄養価がないからなのかそこまで臭くいと感じることもなかった。
ここの馬房は違う。明らかに腐った匂いが漂ってくる。良いものを食べているのである。
鼻をつまみながらベルナールを探す。
いないな。入口の反対側まで来たがベルナールの姿はなかった。きっと近くに控室か何かがあるはずだ。もしくは離れにでも行っているのだろうか。
呑気なことを考えていると、突如、緊張が走った。
────いる。背後に何か。後ろから気配がする。存在感を主張してくる存在感を主張してくる。
何となくではない。間違いなくそこに何かがいる。姿を確認できているわけでもないのに断言できてしまう。
なぜなら、そいつは俺の服を引っ張っているからだ!
パっと、半回転しバックステップで距離をとる。
人はいない・・・・・・代わりにそこにいたのはなんと。ウマ科ウマ属。
「ロバだ」
俺もロバもお互いに驚いている。ロバと俺はお互いに見合って動きが止まる。
この間はなんだ。俺は服を引っ張っていたのが人間だと思っていた。そしてこのロバは自分が遊んでいたのが別な人だと思っていた。そんな感じかもしれない。だとしたら、まあ間抜けである。
「おい、そんなところでどうした?」
ベルナールの声がする。声に合わせて俺もロバも反応する。
「揃いも揃ってどうしたんだよ」
馬装具やら弓矢やら縄やら物騒なものを色々と抱えたベルナールが不思議そうな顔をしている。
「なぜか突然、このロバに服を引っ張られ始めて」
起きたことを簡潔にありのまま説明する。要点を得ていない様子のベルナールは頭をかしげている。俺も同じ気持ちだ。正直、ロバとかよくわかんない。馬よりも耳が長いくらいでそれくらいしか違いを知らない。ロバなんて初めて見たくらいだ。
「珍しい。ロバというのは内向的でそんなことをするとは。特にお前の横にいたフィリアは人見知りがすごいんだがな」
どうやらロバの名前はフィリアという名前らしい。メスだろう。すでにフィリアは俺の傍を離れ、ベルナールによって懐いている。もしかして間違われたのか。俺ってそんな老けて見えるの?
「それよりもどうして弓なんて持っているんですか」
ロバを外に連れ出したベルナールは馬装具を取り付けている。ロバに乗ることがないわけではない。しかし、弓を持っているのはどういった了見だろう。狩りにでも行くつもりなのか。
「これか。これはちょっと逃げたポニーを探しに行かないといけなくてな」
分かった。逃げたポニーとはおそらく俺たちが乗るべきだったポニーのことだ。ポニーが自力で戻ってこない限り探しに行かなければいけないのだ。それも弓という武器が必要なところまで。代わりを申し出るべきだろうが、生憎と次の時間も授業が入っている。
「いいですよ。後で私たちが探しに行きますから。ベルナール先生は腰を痛めているんですから安静にしていてください。それにお腹がすいたら勝手に戻ってきますよ」
「そうか。そしたら任せた」
一瞬、ベルナールは怪訝そうな顔をしてユリエの提案を了承した。年寄り扱いされたのが気に食わなかったのかもしれない。でも、ユリエの言うことに間違いはない。馬は賢い生き物だから、放っておいても大丈夫な気もする。
「それで次は何するの?」
「次はトロット(速足)ですね。これはリズムが大事ですよ。“Ta-ROT”という声で走り出すのでリズムに乗って人馬一体でお願いします・・・・・・」
少し離れたところからブレアたちの声がする。ユリエが馬の乗り方を教えているらしい。
”私の生徒”とかいっていたけど、もしかするとユリエは本当に授業をするつもりなのかもしれない。早く本体に合流した方がいいと思うのだけど。
ただし、俺も馬との触れ合い方だの乗馬・下馬の手順だのを一から教わる気にはなれない。それにブレアはすでにトロットを教わっている。トロットは奥が深いが様子を見ていると簡単にマスターしそうだ。天才かもしれない。
「こっちも準備できたぞ。乗ってみなさい」
あれ、話しかけられたかな。
「乗るって・・・・そのロバにですか?」
「そうさ。もしかして乗馬は初めてだったりするのか?」
乗馬? ロバに乗ったことがあるのかということだろうか?
誰が整備したのか、この世界は馬車による移動が発達しており、都会の付近ならば市営バスやタクシー感覚で馬車に乗ることができる。ロバに乗って移動することはまずないのである。
残念ながら馬がいるのに、わざわざ気まぐれで体の小さく脚の遅いロバに乗る人はいないからだ。つまり、当然に騎乗経験はない。
「乗馬経験はあります。でも、ロバに乗るのは初めてで」
「同じだ。乗ればわかる」
いわれるがままフィリアに跨ってみる。
「ポニーですね。どっしり感はないです」
「走らせてみろ」
いや、ヘルメット。落ちたらどうするのさ。それにロバというのは気分屋だから逃走した時に制御できるだろうか。不安は尽きない。
「あの・・」
言葉を遮るように突然、フィリアがいなないた。頭を高く上げ、しきりに空気の匂いを嗅いでいる。これは馬の警戒時の反応である。周囲を確認している様子だ。ランサーもぴったりと動きを止め同じ様になっている。
地響きが起こり、森の中にいた鳥たちがめいめいに飛び立っていく。何かが起こっている。
「馬だ!」
ブレアが叫ぶ。視線の先には二頭のポニー。そして、ポニーを猛スピードで追撃する巨体が現れた。あれは間違いない。
「ウルスノア―だ!」
ランサーが興奮して後ろ足で立ち上がる。
「うわぁっ」
落とされそうになったブレアはうまくバランスを取り落馬を免れる。そして、もう一度立ち上がった後、ウルスノアー目がけて走り出した。
ランサーは何を考えているんだ。ウルスノアーとは熊の種類である。馬が相手をできる生物ではない。しかもウルスはただの熊ではない。この熊は魔術が一切効かない上、戦闘能力が非常に高く下手な騎士でも集団でなければ相手をすることができないという凶暴な生物なのである。
「ウルスノア―って隠者の森の主じゃないですか。どうしてこんなところに」
「ベルナール先生、弓矢を貸してください」
「待て、何をする気だ」
二人が俺の方を毅然と見つめる。迷っている時間はない。
ベルナールの手から弓矢と馬を掴めるための縄、鞭を奪い取る。
「頼んだフィリア」
フィリアに合図を送り、その合図を受けたロバはランサーを追いかけるように走り出した。
「止まれ! “Whoa”(止まれ)」
「ランサーを連れ帰ります」
フィリアへの声による扶助をかき消すように叫ぶ。ウルスノア―が走って行ったのは授業が行われている方だ。アビゲイルたち生徒や先生が危ないかもしれない。
一生懸命手綱をしごく。




