学園生活初日、何も起こらないわけがなく
蹄鉄が擦れあって、火花が散る。
それまで馬場の中心を走っていた馬たちがコーナーに侵入して突っ込んで来た。少しでも内側、内側という意識から団子になったのだ。
11.5…12…12.5…13.0……13.2秒。
速い。1ハロン12秒代で流れている。ウラノス号の半マイル(800メートル)通過時のタイムが51秒フラット。異常事態だ。
コース全体が起伏に富むテリーベリー競馬場は平均して1ハロン13秒代後半で流れる。特に初め(テン)の半マイルは勾配4パーセントの上り坂である。控えるのが鉄則だ。
それがこのレースでは12秒前半で流れている。オーバーペースである。
前の3頭がハナを争って速いペースになっているのだ。先団、少なくともハナを取り合っている3頭は勝手に落ち(タレ)てくる。無視していい。だが、実質レースを作っている4番手の馬が13秒フラットで走っている。
どうすべきだ……
この場面、脚質が追い込みのウラノスはもっとペースを落としてよい。いや、落とすべきだ。でも、怖い。ウラノスより力のある馬の後方で走るのだけの勇気はない。ウラノスの力を信じ切れていない。
大一番という緊張感から頭が正常に働かない。
坂を超え平坦地に入る。さらに馬の速度が増す。この次はカーブ。流石に無視できない速度だ。
「落ち着けウラノス。らしくない」
手綱を緩め、ハミを取らせない。口笛を吹いて落ち着かせる。
よし、落ち着いた。まずはタイトなカーブだ。コーナーで馬ごみに包まれる。競られたときは馬に息を入れて休ませるべきだ。
距離を使って大きく息を入れる。念には念を入れる。
手前を変えて減速する。馬の頭を外に向け、左の鐙に体重を載せて内ラチピッタリに寄せる。ここは体力勝負。最も脚を使わないオーソドックスなコーナリングをする。
前の馬とわずかに距離が開く。
一流の騎手はそのスペースを見逃さない。
ほとんどスペースはないのにもかかわらず、自分の馬をウラノスと前の馬との間に割り込む。7枠13番の馬。確か6番人気で騎手はベテラン騎手だ。
今の場面、俺がウラノスとの折り合いを欠いている状態ならば馬同士が衝突し事故になりかねない。思い切った騎乗である。下手をすれば騎乗停止になる。自分の技術を信じていなければできない。勝負師の乗り方だ。
感心している場合ではない。囲まれた。
ウラノス号の左には柵、前後右には馬と閉じ込められた。ピッタリとくっ付いている。押してもビクともしないだろう。10センチでも外にヨレれば弾かれる。負けるのは体の小さなこちらの方だ。
強い馬というのは往々にしてブロックされる。ブロックすることで馬の走ろうとする意識である前進気勢を削がしたり、コース取りの邪魔をするのだ。
だがこの馬は違う。所詮はマークされていない馬だ。競馬新聞では「逆鉄板」なる初めて見る印が打たれていた。それだけの馬だ。周りにしてみれば、偶然ここにいただけで、どの馬でも同じような乗り方をしていたはずだ。
ウラノスには父馬のような周りが勝手に避けて行くような強者の風格もなければ、母馬のような込み合った馬群を捌く器用さもない。それに加え2歳馬のウラノスには圧倒的に体力も競争の経験が足りないのだ。
……悔しい。誰もこの馬の素質を知らないのだ。ゆえに付け入るスキがある。
2つ目のカーブは下り坂になっている。この後は緩い左カーブを曲り、最後の直線に入る。ここはどうしてもスピードが上がってしまう。馬のリズムを崩さずにスピードを上げ過ぎないことが求められる。
すぐ側にいた馬たちは自分よりも外にいる馬を壁にしてコーナーを曲がる。馬群が横に広がっていく。
ゴール直前までこの下り坂は続く。そしてラスト4分の3ハロンが上り坂だ。脚を貯めたウラノスならラスト600メートル(上がり3ハロン)を34で走ることができる。だが周りは全て格上。このタイムは決して早い方じゃない。決め脚では分が悪いまである。
直線に入る。馬群のスピードがグッと上がる。7割までギアを上げる。そんな中、何頭かの馬が引っ掛かってスピードアップする。
不意に邪な考えがよぎる。
ウラノスはここまで不利を受けたり、競られて脚を使わされていない。しかも、十分なぐらい息を入れている。
ここで追い出せば最後の急坂の直前で先頭に立てる。しかし、その後はキツイ上り坂だ。多くの馬はここで失速する。そして2歳馬でまだまだ成長途中のウラノスも例外ではない。力がない馬たちは馬場に負けてしまうのだ。
ウラノス号は史上最強の競走馬と呼ばれた牡馬の唯一の産駒である。見せ場さえ作らずに終わるようなことがあってはならない。
手が動きそうになる。今仕掛ければ、ゴールまでに一度は先頭に立てる。その後馬群に消えたとしても、それは乗り役である俺が仕掛け所を間違えたということでウラノスの名誉は守られる……
笑える。信じられないくらい弱気だ。俺たちは上位入線したいわけじゃない。あくまでも目指すのは一着。優勝だ。
現在、先頭までの距離は13馬身。先頭集団はここまで息を入れずに走っている。しばらくすれば脚が上がる。無視してよい。本当に強い馬はすぐそこにいる。究極的にはゴール板でこの馬たちよりも前にいればいいのだ。
スパートの合図である鞭を入れるのはまだ早い。
ただし追い出すタイミングに根拠はない。レース中マークする馬よりも後に仕掛けるか、有効射程に入ったら仕掛けるかぐらいにしか考えていなかった。いや、考えられなかった。なんせ、いくらシュミレーションしても一着になる結果を得ることができなかったから。
あとはゴール板前での押し引きぐらい。余計な力を抜いてウラノスの思考をトレースする。ウラノスのリズムに乗る。
ウラノスに身を預けていたら意識がぼうっとしてくる。まるで馬が揺りかごになったかのように感じられる。ウラノスの首がわずかに右を向く。スタンドが気になったのだろうか、目線の先を確認する。
ふと、視界にシャーロット先輩が映る。直感的に感じた。あの馬は勝負になる。
それに借りもある。マークを絞るならばあそこだ。
ラストの直線。各馬、各人の思いが交差する。
< イントロデュース 初 >
「入学式の開始時間って本当に9時でしたっけ?」
食パンを頬ばるアビゲイルに正直な疑問をぶつける。
俺とアビーは、国一番の学び舎であるセント・ローレンス学園に通うために一週間前からこの街で寮生活を送っている。そして今日が初登校。学園の入学式だ。
時刻は8時の10分前。気味が悪くなるくらいに晴れ渡った空。同室の彼女は、そんな天候に似つかわしくない不吉なことを言う。そんなこというと、折角のモーニングが台無しだ。だが、悲しいことに母親譲りの彼女の予感はほぼ間違いなく当たる。無駄だと思いながらも精一杯強がる。
「9時だよ。9時」
言葉とは裏腹に、学校から渡されていた予定表に目を通す。あくまでも平静に。慌てれば相手の思うつっ。
「どうしたの固まって。見せて」
俺の手から書類を取り上げた彼女も予定表を確認する。そして動かなくなった。そこには、太字で黒々と登校時間8時の文字が刻印されていた。言葉が出ず二人で見つめ合う。
仲良し二人の間に言葉はいらないのだ。一瞬のうちに相手の言いたいことが分かった。
「オト。行きますよ。────ついて来てくださいね」
「そんな心配はいりませんよ。俺の方が早いから」
全速力でシェルコーの街を駆けていく。学園都市であるこの街は、王立学園であるセント・ローレン・カレッジを中心として形作られている。この街では、市役所も司教座教会もすべて学園の周囲に追いやられているのである。つまり、そんなことが許されるほど学園の権限が大きいということだ。
そして、言いたいことはこれだ。
「その割に寄宿舎と校舎の距離と遠くない?」
うちの寮からだと学園に向けてしっかり走っても20分近くかかる。
「そんなこと言ってないでしっかり走ってよ。というかその鞄、何入れているんですか。今日は教科書いらないはずでしょ」
「ああ、これ? これは本だよ『世界の呪い大百科』」
この本には鼻の上が痒くなる呪いや足首を捻挫させる呪い、果ては100年くらいかけて死に至る呪いまで世界中の呪いが集められている名著である。唯一の欠点が滅茶苦茶分厚くて重いということだ。
「そんな本置いてきたらいいのに」
「実は返却期限が今日なんだよね。わざわざ学校から帰ってまた図書館まで行きたくないじゃん」
アビーは絶句という顔をしている。まあ、分からなくない。
「いっそ歩いて行くのもいいかもね。遅刻確定だし」
アビーはスピードダウン。この子歩くつもりだ。開き直った彼女は強い。俺も速度を合わせる。
「足痛いでしょ。靴合ってないんじゃない」
「それはまあ。成長すると思って大きめの革靴買ったんだよね。そしたら靴擦れして」
「見せて、治してあげる」
「いいよ。これくらいなら」
他愛もない会話が弾む。ちなみに、開き直った俺も強い。
「アビゲイル・ストックウェルさんですね」
そんな中、突然空から声がする。そこにはなんと。
「空飛ぶマント!」
地上3メートルのところでホバリングしているではないか。そこから一人の男性が降りてくる。
「私は学生会のマクシム・マルティーニと申します」
「えっ、はい。アビゲイルです」
「良かった。こちらに乗って来てくださいますか。入学式の前に打合せしたいことがありましたので」
「はっ、はい。行きます」
とても丁寧に話すマクシムとやらと、いつも通り人見知りなアビー。制服だし見た感じ上級生なのは間違いない。内容的にもこれは乗らないといけないでしょう。よし。発破をかけておくか、マクシマに。
「そんなこと言って誘拐するつもりじゃないんですか」
「君は・・・・」
マクシマはこちらを一瞥する。しかし、何も見なかったかのように視線をアビーに向けて。
「それでは参りましょう」
地上に降りてきたマントに二人は乗り込む。そこには、すでに3人も乗っていた。本気で探しに来たのか。流石、主席は扱いが違う。
「オトは乗らないの?」
アビーを除く4人が怪訝な顔をする。分かってますよ。
「乗らなくていいかな。歩いて行くよ」
「そうしてください。これ以上人を乗せる余裕もないので」
そう言うなり、マントは猛スピードで学園に向けて飛んで行った。めっちゃ速い。あの速度なら遅刻しなくて済みそうだ。
置いていかれちゃったぜ。のんびり歩いていくことにしよう。それにしても。
「一言多いよ。残念系イケメン」
「初日から遅刻とはいい度胸してるな。時計は見てなかったのか」
指定された部屋に入るなり、いきなり知らないじいさんに声を掛けれられた。無精ひげでいかにも武骨な様である。年齢的には60に近いだろう。あのマントは確か、魔術系の教員だ。しかし、魔術を扱う人間には思えない。どちらかとういと武闘派な印象だ。
「そうなんですよ。時間に縛らない生き方を目指してまして」
「ははん」
俺の答えが面白いとみえ、遠慮なく笑う。仕方ない。今のは笑うところだし。
「ベッカー先生。彼が来たらすぐ教えてくださいと言ったじゃないですか」
「今来たところだよな」
「そうでしたか? 私はベッカー先生と8時前からずっとおしゃべりしていましたよ」
「おう。そうだった。俺が忘れてたみたいだ」
「冗談はいいですから。みんな待っていたんですよ」
教室中を見渡す。これは、同級生だろう。5クラスに分けられている。125人はいるはずだ。
「すみません。どこに行ったらいいですか」
「一番右のクラスです。私のクラスですよ」
「一応、俺のクラスでもあるな。どうする? 先頭の席と一番後ろの席が空いてるぞ。どっちに座る」
言葉通り一番前の席と後ろの席が一名分ずつ空いている。この選択肢は簡単だ。
「いやだな~。そんなの先頭に決まってるじゃないですか」
「だよな~。詰まんねえ質問だったな」
「その席は駄目ですよ。先約があるので。一番後ろの席でお願いします」
「ハリエット先生。揃ったようですね。もう移動ですよ」
「そうでしたね。失礼しました」
生徒たちが立ち上がる。その並びを維持したままどこかに移動するようだ。俺もついて行くしかあるまい。一番後ろにトボトボと付いてく。
「先頭になれなくて残念だったな」
「別に俺はどこでもいいんですけどね」
「そうか。折角だからウォーミングアップ付き合うぞ」
「何ですかそれ? 今から運動でもするんですか?」
不思議な言葉を聞いた。こちらも冗談で返してみる。
「まったく何も知らないのか。お前は一学年末席入学なんだから、主席とあと真ん中のやつと3人で入学式の中で行われる模擬戦に参加するんだぞ。よっ、選ばれし3人」
そういえば、パンフレットに書いてあったかもそんなこと。それにしても俺が? 成績最下位だぜ。
「──────マジすか」
「マジもんのマジよ」
「相手は?」
「2年の上位3人。強いぞ」
「巫山戯てますね」
「分かったろ。行儀よく詰らない話聞いている場合じゃないのさ」
本編は32話からです。