6話 宝石職人
静寂の中、微かな炎が夜風に揺れていた。焚き木をゆっくりと焦がす音だけが、夜闇の中に吸い込まれていく。胡乱な光を宿した黄金の瞳は何を語ることも無く、揺れる炎の曖昧な輪郭を見つめ続けた。全てに退屈しきったかのようなその瞳には何の感情も読み取れなかったが、背後に尋ね人の降り立つ音を耳にした途端、それは嘘のように生き生きと輝き始めた。
黄金の双眸は振り返った。口元も楽しげに歪む。腰を上げて、豪奢な絹服を纏った華奢な腕を伸ばし、見下ろす尋ね人に触れた。そして蠱惑的な唇の奥から鈴の音で囀るのだ。
……さあ、今宵もいざ踊らん。我らはぐれ者の舞を……。
◇◇◇
両腕にじわじわと広がる痛みのせいで、雑貨屋の新米店員は不快な寝覚めを味わうことになった。じんじんと痛む腕で寝ぼけまなこを擦りながら、彼女は暫し辺りを見回した。視界に広がるのは、年輪の目立つ梁や板壁、そして薄暗い雑貨屋に相応しい雑多な品々の数々だった。ナムリースは会計台のすぐ近くに置いてあるソファーに腰掛けて、上半身をテーブルに投げ出し、うつ伏せになって居眠りをしていたのだった。
まずいと感じたナムリースは思わずソファーから跳ね上がったが、生憎なことに店番中に居眠りをした彼女を怒鳴り付ける人間はそこにいなかった。彼女を雇った気紛れで口の悪い店主、レイニオ・アルバーシュは昨日から体調を崩し、店の地下にある寝室で寝込んでいる最中だった。時折微かな呻き声が聞こえてくるような気がしたが、起き上がってくる様子は一向にない。朝まで寝ていれば治ると本人は強がっていたが、この様子だと今日の夜まで待っても治るか怪しいものだと、ナムリースは思っていた。
求人の謳い文句に惹かれて雑貨店に勤め始めてからまだ半月ほどしか経っていなかったが、ナムリースはこの店にはあまり多くの客が来ないこと……、要するにあまり流行っていないことに薄々気付き始めていた。一日に来る客の数は多くても10組程度。中には買わないで帰る客もいる。こんな有り様でよくやっていけるものだと、新米店員は呆れを通り越してある意味感心していた。
「……一番の問題は場所が悪いんだろうが、それはどうしようもないよな……」
どうせ客など来ない。そう決めつけ、再びテーブルに肘を付いた彼女の眠気を吹き飛ばしたのは、唐突に鳴った呼び鈴の音だった。慌てた彼女が立ち上がって入口の方を見ると、何故か暖簾は揺れていなかった。ナムリースの視線は徐々に下に動く。果たしてそこに佇んでいたのは、暖簾には掠りもしないほど背丈の低いずんぐりとした男だった。口元は鬱蒼とした黒い髭で覆われていた為、表情は読めなかったが、男の目付きはレイニオに負けず劣らず鋭かった。
――ドワーフ族だ――。伊達に旅をしてきていないナムリースはすぐに分かった。ドワーフ族は石の民と呼ばれ、鍛冶や鉱山の開発を生業とする種族だ。総じて背が低く筋肉質な体格をしているものの、平野の民と呼ばれる人間族に非常に近しい種族とされる。それもその筈で、遥か昔に存在したドワーフ族の祖先と人間族の祖先は同じ生き物だったと言われている。
ただし今では人間族の数の方が遥かに多く、ドワーフ族の治めている国は公に知られている限り、世界に三カ国しかない。その為なのか彼らは人間族に対してかなり当たりが強く、非常に自尊心が高いのだ。そのことを知っていたナムリースは予期せぬ来客の気に障らないよう、笑顔を作って努めて明るい声を掛けた。
「いらっしゃいませ! 本日はどの「アルバーシュはどこだ?」
挨拶を遮られて固まるナムリース。ドワーフはそんな彼女をぎろりと見上げた。
「何故この店に高慢ちきなエルフが、しかも砂のエルフなんぞがいるのかは知らんが、お前に用は無い。アルバーシュの馬鹿はどこにいる?」
ドワーフ族は自尊心が強い。そして総じて頑固者が多い。分かってはいたがいきなりの物言いにナムリースも流石に笑顔のまま額に青筋を浮かべた。
「お客様、まず店長のことですが彼は本日体調不良で床に臥せておりますので、もし御用があるのであれば私より彼に伝えて、後ほど彼自身から対応させていただければと思います。ですので、まずはお客様のお名前と御用件を伺ってよろしいですか?」
「ごちゃごちゃうるさいぞ、砂のエルフ。お前はどうでもいいからとにかくアルバーシュのアホたれを出さんか」
未だに笑顔を崩さないナムリースだったが、眉はピンと跳ね上がり、額の青筋がもう一つ増えた。
「……お客様、体調の悪い人間を無理やり叩き起こす訳には参りません。それと付け加えておきますが、私はダークエルフ族ではございません。確かによく周囲からは似ていると言われますが人間族です。……また、森のエルフが高慢という意見には同意しますが、砂のエルフはそうではありません。彼女らの中には私の知り合いもいますので、お客様の乱暴な物言いには許容しかねるものがございます」
今度は髭もじゃのドワーフ族の眉が釣り上がる番だった。彼は焦げ茶色の瞳をぎょろぎょろと動かし、その分厚い口髭は彼の怒気にあてられたかのように、ぶわっと膨れ上がった。
「さっきからいちいち喧しいわい! エルフなんぞに上から説教される筋合いは無いわっ! お高くとまって屁理屈ばかり抜かしとらんで、とっととアルバーシュを呼んで来んか!」
髭面を赤く染めて怒り出すドワーフを前にして、いよいよナムリースの忍耐も吹き飛びかけた。しかしその時、一触即発の二人の間に地獄の底から漏れ出て来るような低い呻き声が割って入り、名無しの旅人の衝動を押し留めた。思わず彼女が声のした方を振り向くと、そこには螺旋階段を這い上がってきたレイニオ・アルバーシュの悪鬼のようなしかめっ面があった。
「……てっめえら……人様が悶え苦しんでるってのに、下まで響く大声でキーキー喚きやがって……! 喋れねえ置物にして、そこの棚にでも置いといてやろうか? え?」
相変わらずの口の悪さで凄む雑貨屋の店主だったが、額には汗が浮かんでおり、顔は薄っすらと青白かった。足取りも覚束なく、どう見ても調子の戻っていない有り様だった。思わずナムリースは駆け寄ったが、レイニオはそれを嫌そうにして、手を振って追い払った。
「よお、ダルガン。随分と早く来てくれたな、助かるよ」
名前を呼ばれたドワーフの男はむすっとした顔で、鼻を鳴らした。
「ふん、まずはありがとうくらい言わんか、相変わらずのクソガキが。俺様がどれだけ苦労したと思っておるんだ」
再び顔が赤くなり始めたダルガンの怒りを遮るように、レイニオが首を振りながら笑った。
「分かってる、分かってる。だから、落ち着いてくれ、ダルガン。俺だってこんな急な仕事をあんたに持って行きたくなかったんだ。けど、この街じゃあんた以上の宝石職人はいないじゃねえか。申し訳なかったとは思うけど勘弁して欲しい。話通り謝礼もはずむから」
すると、案外単純な性格なのか、レイニオにおだてられたダルガンの顔は幾分緩み、顔の赤みも引いて行った。
「……ふん、まあそうだろうな。俺様以上の職人なんぞ、そうそう居るもんじゃない。せいぜい感謝するんだな」
ドワーフのあまりに偉そうな物言いにナムリースは血の気が引く思いで雑貨屋の店主を見た。だが彼女の予想に反してレイニオは何でもないような顔をして、懐から革製の財布を取り出しているところだった。意外と気にもしない気質なのか、もしくは……ただ単に体調が悪いからそこまで気を回す余裕が無いだけなのか。ナムリースには判断がつかなかった。
「ああ、ダルガン。勿論感謝しているさ、あんたには毎回無茶な頼みを聞いてもらってるからな。……謝礼の150万ダファだ、全て紙幣で用意した。その財布ごとやるから、今この場で中身を確認してくれ」
レイニオがダルガンに向けて分厚く膨れた皮財布を放り投げる。難なく受け取ったダルガンは暫くの間注意深く紙幣の一枚一枚に目を通した後、初めて満足そうな表情を浮かべて顔を上げた。
「流石だな、アルバーシュ。カネの用意に関してはとにかく信用できる。確かに受け取ったぞ。それじゃ、俺様からもだ」
そう言ってドワーフは肩から掛けていた布袋を外し、レイニオに手渡した。雑貨屋の主は分厚い袋の中から黒く輝く木箱を丁寧に取り出し、留め金を外した。ナムリースが覗き込むと、木箱の中には見事な六角形にカットされた深紅色の小さな宝石が純金の台座に収まり、そこから延びる細い鎖は白銀の輝きを放っていた。雑貨屋の店主は青い顔に笑みを浮かべると大事そうに木箱を閉じて、再び袋の中に仕舞い込んだ。
「恩に着るよ、ダルガン。あんたのお陰であの女狐の機嫌を取れる。また何かあったら頼むわ、勿論なるべく余裕をもってな。それじゃ」
「おい、待たんか」
懐に袋ごと宝石を仕舞い込んで地下に姿を消そうとした雑貨屋の店主を、ドワーフが低い声で呼び止めた。ちらりと首だけを曲げた雑貨屋の主の顔は、話は終わっただろうとばかりに不満げだった。
「アルバーシュ、お前またヤクザな連中からの仕事を引き受けたんだろう。やめておけと言ったはずだぞ」
レイニオは聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさで舌を打ち、一瞬目を閉じた。開かれた目はダルガンを見ておらず、どこか遠くの何かを睨み据えているようだった。
「……仕方ねえだろ、俺にはそれしか生き残る道がねえんだからよ」
ダルガンは短く鼻を鳴らすとくるりと背を向けた。だが、暖簾の下を潜り抜けるその時に一度だけ立ち止まって、はっきりと響く低い声で呟いた。
「それがお前自身をますますこの街に縛り付けるとしてもか?」
レイニオが翡翠色の目を見開いて身体を思い切り捻った時には、ダルガンの姿は既に店の中に無かった。雑貨屋の店主の瞳の奥には、ぶつけどころを失った怒りの炎がいつまでも燻り続けていた。
◇◇◇
頑固者の宝石職人が帰路に着いた後、体調が戻って来たらしいレイニオは店舗の奥に佇む居宅に戻り、ナムリースが作った昼食を口に運んでいた。まだいくらか怠そうな様子でスプーンを口に持って行き、ただの一言も発しない。彼の向かいでナムリースも自分が作った豚肉の煮込みスープを頬張っていたが、場に漂う妙な緊張感のせいで味はいまいち感じ取れなかった。
(……気まずい……)
食事を摂りながら彼女はレイニオの顔をちらちらと見やったが、雇い主の男は明らかに自分から話し出す気が無い。仕方なしに新米店員は曖昧な笑顔を浮かべながら口を開いた。
「そ、それにしてもダルガンという職人はさっきのドワーフだったんだな。いやはや話に聞いていた通り彼の性格は……なかなかキツイものだったな。ドワーフ族には何度か会ったことがあるが、あそこまで短気な者はそういない」
わざと明るい調子でたわいのない話題を振りかけるナムリースだったが、レイニオは黙々と手を動かすだけだった。こりゃ駄目だと感じた新米店員はすぐに次の話題に取り掛かる。
「ああ、そうそう。まあ、あんな石頭の職人のことはさておいて、先ほどレイニオが受け取ったあの宝石は何と言うものなのだ? 何とも深みのある紅色でとても美しかった。この店には置いていないのか? 余も少し欲しくなってきたぞ……なんてな」
冗談も交えつつナムリースはニコリと微笑みかけた。しかし、それでもレイニオは黙ってスープを飲み進めるだけ。いよいよ諦めたナムリースは心の内で溜息をつき、皿でも洗うかと腰を少し浮かせた。
「聞かねえのか?」
雑貨屋の店主が漏らした一言で、名無しの旅人は浮かせかけた腰を戻した。
「聞かねえのかよ? 色々と気になってんだろ? 顔に書いてあるぜ」
赤みが戻ってきた雑貨屋の主の口元には皮肉っぽい笑みが微かに浮かんでいた。そんな彼の顔を正面から見て、ナムリースは一瞬の間逡巡し、すぐに目線を戻した。
「ああ、そうだな。勿論、気になるとも。だけど何も聞かない。レイニオが余に教えても良いと思う時までは、何も聞く気は無いさ」
雑貨屋の店主はスプーンを動かす手を止め、笑みを作るのも忘れて、褐色の旅人を見た。旅人は真面目な顔で、黄金の目をしばたたかせた。根掘り葉掘り聞かれるのだろうと思っていた男は、思わず小さな笑い声を漏らした。普段は子供のように何でもかんでも聞いてきてペラペラとよく喋る癖に、果たして狙ってやっているのかいないのか、ふとした瞬間に急に静かになる。その落差に雑貨屋は、今まで雇ってきた者達には無かった面白みを感じた。
彼はにやりと笑うと、傾けた皿を口に付け、スープを一気に流し込んだ。慌てるナムリースの目の前でスープを飲み干し終えたレイニオは、机上に皿を置くと同時に立ち上がった。
「よお、ナムリース。てめえ、ウシャールティに来てどれくらい経つ?」
急に聞かれた女は目線を上に彷徨わせて、指を折り始めた。
「ええと……そうだな、二週と半週間ほどだから……ちょうど半月くらいになるか」
レイニオは、そうか、もう半月も経つんだなと一人呟き、何かを思いついたように手を叩いた。
「てめえは旅人だから色々なことを知ってるんだろうが、この街のことはまだよく知らねえ筈だ。俺もほとんど案内してなかったし、思えば初めて雇った時からまだ一日も休ませてねぇ。……どうだ、ちょっくらウシャールティを歩いて見ようじゃねえか」
行くぞと言って、食堂からすぐさま出て行こうとするレイニオの背中に向かって、ナムリースがあたふたと声を投げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、レイニオ。店の方はどうするのだ? あと、まだ皿も洗っていないぞ」
振り向いたレイニオはすっかり呆れ返っていた。
「てっめえはホント変なところで急に真面目になるよな。店なんて休みだ、休み。今日はもう営業終了に決まってんだろ。皿なんてもっとどうでもいいさ、寝る前に軽く洗っておきゃいいんだよ」
長い足で歩みを再開させるレイニオに置いて行かれないよう、名無しの旅人は急いで後を付いて行った。その時、内心で少しだけワクワクしていたのは、彼女だけの秘密だった。
◇◇◇
雑貨屋の店主は暖簾を下げて店内に放り投げると、店の引き戸を閉めて鍵を掛けた。支度が出来た彼が広場の方を振り返れば、そこには薄灰色のぶかぶかとした長衣に身を包んだナムリースが買い物袋を提げて立っていた。お洒落には程遠いその恰好を見るなりレイニオは眉をひそめた。
「……前から気になっていたんだが、てめえはそういうつまんねえ服しか持ってねえのか? いつも灰色だの茶色だの地味なモンばっか着てるが、それじゃ面白くねえだろ」
一方のレイニオは黒地に幾つもの空色の花と黄金色の葉を描いたよく目立つ衣装を着込み、鍔の広い濃紺の帽子を被っていた。面と向かってダメ出しをされたナムリースは口を尖らせた。
「ふん、つまらない服で悪かったな。余は目立つのが嫌いなのだ」
レイニオはよく分からないといった様子で首を傾げる。
「目立つのが嫌い、ね。良い女なのに勿体ねえな」
その率直な一言に、ナムリースは満更でもない顔をして、悩まし気に息を吐いた。
「うーむ、そうだな。それは自分でも重々分かっておるのだが……男が寄ってくるのが嫌なものでな、仕方ないんだ」
「……てめえも大概な性格してるぜ。そんなこと、頼むから外で軽々しく言うんじゃねえぞ」
誰もいない広場を横切り、レイニオは細い裏路地に入った。ナムリースもその後に続く。狭い通りの路面を駆けずり回る黒ネズミたちを避けること数分、二人は裏路地を抜けて商店街を真っ直ぐ南北に貫く薄桃色の本道に出た。左に曲がって南へ下れば、第三区の歓楽街が広がるが、レイニオは右を向いて第二区と第三区を分ける境界通りを北に越えた。後から小走りで付いてくるナムリースが雑踏のざわめきに負けないよう声を張った。
「レイニオ! 今日はどこに行く気なのだ?」
境界通りを渡り切って第二区に入ったレイニオが、ナムリースの方を振り返る。
「どこに行くかって、別に目的地なんかねえさ。休みの日は何も決めずに歩いて楽しむのが俺のやり方だからな。今日はとりあえず二区の商店街と大広場を見て、良い品物があったら買って帰る。夕飯もどこかで食って帰ろうじゃねえか。……三区にも面白い店があることにはあるんだが、如何せんこの広い街の中でも一番タチのわりい連中が住み着く地区だからな。そっちは俺がもうちょい元気な時に紹介してやるよ」
ということはまだ体調が万全ではないのだなと思うと同時に、一応この男なりに自分のことを気遣ってくれているのかと感じたナムリースは少しだけ暖かい気持ちになった。口も態度も悪いが性根の部分には隠し切れない独特の良心が幾らかあるのだろうと、彼女は目の前の男の複雑さに俄然興味を覚えた。
「ところで今、大広場と言ったが、大広場というのは三区の関所のすぐ北にある広場のことだろう? それともあれの他にもあるのか?」
横に並んで首を傾げながら尋ねる女の顔を見ずに、雑貨屋は得意げな顔で答えた。
「ナムリース、てめえはこの街がどれだけ広いかまだ全く分かっちゃねえな。いいか? ウシャールティの西側には上から順に一区、二区、三区の三つの地区があって、大街道を挟んだ反対の東側には下から順に四区、五区、六区が並んでる。大街道は事故を防ぐ為に基本的に乗り物の往来しか認められてねえから、街の住民は街道を跨ぐ大歩道橋を渡って西と東を行き来するんだが……。その橋は一つじゃなくて三つある。一区と六区を結ぶ北の歩道橋、二区と五区を結ぶ中央大歩道橋、それから三区と四区を結ぶ南の歩道橋だ。で……広場は一つしか無いかって? そんなこたねえさ、それぞれの歩道橋の両側に大広場が設置されているから、ウシャールティには全部で六つの大広場があるんだ」
長々と説明するレイニオは、どうだと言わんばかりだった。何だかんだ聞かれるのが好きなんだなと、ナムリースは内心で苦笑した。
「では、今から余らが向かう広場というのは……中央歩道橋の西の広場か」
雑貨屋は満足そうに頷いた。
「ああ、その通りだ。六つの大広場の中でも一番賑わう場所だ。流れの露天商がおもしれえモンを売っていたりするからな、仕入れにも丁度いい場所なのさ」
そう言って大股で歩くレイニオ。ナムリースも早足で男に付いて歩く。二区の商店街には無数の飲食店や露店がひしめき合うように軒を連ね、細い道はぐねぐねと曲がっていた。ナムリースは境界通りを越えてからそれなりに歩き続けてきたような感覚を覚えたが、実際のところはまだまだ広場には辿り着かなかった。彼女は通りの屋台に惹かれ度々立ち止まっては涎を垂らし、渋面のレイニオに引きずられる始末だった。それを何回か繰り返し大広場まであと半分ほどというところまで通りを進んだ頃、ナムリースは視界の左、通りの飲食店の遥か向こうに巨大な建物の影を見た。彼女は通りの混雑も忘れて立ち止まる。遠くに見えたのは幾つもの尖塔を抱き、朱色の屋根に染められた王城のような建造物だった。呆れた様子で戻って来たレイニオが言う。
「気になるか? ありゃ魔術大学校だ。才能に恵まれた若い魔術師の連中が通うとこさ。まあ、俺らには関係のねえ場所ってことよ」
ナムリースはむっとした。
「今、俺ら、って」
「あん? てめえも魔術はからっきしなんだろ? ヴィシュから聞いたぜ? てめえがウシャールティにやってきた最初の日に、ランサルの酒場でやったっつー大立ち回りをよ」
さも可笑しそうな顔つきでニヤニヤとするレイニオを見て、ナムリースの眉根はたちまち歪む。彼女のそんな分かり易い反応が気に入ったのか、レイニオは上機嫌に笑った。
「そんなにあの学校が気になるなら今度見に行ってみるか? 定期的に飛び込みの編入試験もやってるらしいぜ。お得意の蝋燭魔術を披露するなら俺も応援してやるよ」
「……レイニオ、燃やすぞ……?」
「そりゃ楽しみだ。俺が燃え尽きるまで何時間掛かるかな……って、冗談だっつーの、冗談。そんなに怒るんじゃねえよ。てめえの反応は面白くて、ついな」
流石にイラっときたもののナムリースは一方で気付いていた。レイニオがこの手の意地の悪い冗談を言う時は、割りあい機嫌が良い時だということを。雑貨屋の店主は機嫌が悪い時は明らかに何も言わなくなる。それを思うと自分は目の前のこの男に嫌われているわけではないと、ナムリースはそっと胸を撫で下ろした。初めに雑貨屋を訪れレイニオと相対した時こそ、このいかにも気難しい人間と上手くやれるのか不安に思った彼女だったが、今では変わり者の雇い主との奇妙な関係にも少しずつ慣れ始めていた。
「ふん、レイニオこそ、そのよく回る舌を披露すると良いさ。口喧嘩の試験さえあれば間違いなく首席合格だろうとも」
反撃の一言を聞いたレイニオは目を丸くして愉快そうに笑った。
「ほーほー、良いねぇ。言うじゃねえか」
上機嫌のまま通りを歩き続け、あとほんの少しで大広場に踏み入るというところで、レイニオは通りの脇の露店に目を留め、じっと立ち止まった。彼は露天商が並べた陶製の壺を値踏みしているようだった。そのまま店主との長話が始まった為、しばらく後ろから様子を見ていたナムリースはくるりと背を向けて先に広場に入ろうとした。
「あ……」
振り返った彼女は、向かいから歩いてきた人間と目が合って思わず声を上げた。相手の男も彼女に気が付いたようで、濃紺の瞳を細めて邪な笑みを浮かべた。
「これはこれは……。誰かと思いきや記憶喪失のお嬢ちゃんじゃねーか。あのムカつくジジイの酒場以来だなあ。今度はどんなすげえ魔法を見せてくれるんだ?」
名無しの旅人は思わず舌を鳴らす。青白い肌の傭兵は濃い灰色の短髪を掻きながら、二人の手下と共に下卑た笑い声を上げていた。




