表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

5話 赤い扉

 小さな広場に面した雑貨店の中から、涼やかな音色の鼻歌が漏れ出ている。暖簾の向こう、歌声の主はこの店で働き始めたばかりの麗しい女だった。彼女は薄茶色のゆったりとした長衣に身を包み、長めの青紫の頭髪は頭の高い位置で一本に縛って、商品棚の前を忙しなく動き回っては、棚の上の雑貨の配置を何度も何度も変えていた。その姿を雑貨屋の主が会計台に肘をつきながら、訝しげに見ている。

「よお、何だか知らねえが、今日は朝から随分と機嫌が良いもんだな」

 ナムリースは手を止めない。品物の配置換えに夢中で、レイニオに顔も向けなかった。

「ふふっ、機嫌良く見えるか? そうだぞ、例え何処かの誰かが余の精一杯の優しさに気付かなくても、今、余はすごーく機嫌が良いのだ」

 レイニオのしかめっ面が酷くなる。

「だから、掃除に気付かなかったのは悪かったって言ってるじゃねえか。てめえも案外しつっけえなあ……。んで? なんでさっきから商品の位置をせかせか変えたりしてんだ?」

 ようやくナムリースは振り返り、いたずらっ子のようにニヤリと笑った。

「これは余が考えた、売り上げを増やす為の工夫だ」

「はあ? 売り上げを増やすだあ? 一体急にどうしたんだよ」

 困惑も露わにレイニオは眉を寄せた。すると新米店員はしたり顔で頷きながら、ふっと息を吐いて遠くを見た。

「この仕事がな、楽しくなってきたのだ」

 いよいよ訳の分からなくなったレイニオの眉は、今にも端と端が繋がりそうな勢いで歪んでいる。

「向こうの棚に金と水晶で出来た豚の小銭入れの置物があっただろう? あれが……昨日売れたのだ! しかも余が定価の10万ダファで売ったんだぞ!」

 そう言うと、目を輝かせたナムリースが長衣のポケットから台帳を取り出して、レイニオに手渡した。半信半疑のレイニオは会計台を囲む柵をこじ開け、店の端の木棚まで歩いて行った。一瞬の後、彼はドタバタと大きな足音を立てながら、カッと見開いた目をして慌てた様子で戻ってきた。そして再び柵の中に戻ると、会計台の下方にある鍵付きの引き出しを開ける。その目に眩い黄金に輝く六角形をした10枚の1万ダファ硬貨が飛び込んできた時、レイニオは店中に響く素っ頓狂な叫び声を上げた。

「おいおいおい! てめえ本当にあれを売り捌いたのかよ! ノリと勢いでつい買ったは良いものの、あまりに高いから全く売れずに後悔していたあれを……。そろそろ知った顔の誰かに騙して売り付けようかと思ってたんだけどな。一体どうやっててめえはあんな無用の置物を売ることが出来たんだ?」

 褒められて気を良くしたナムリースは再びしたり顔でふっと笑った。

「それはひとえに余の努力ゆえよ……。なに、身なりの良い裕福そうな客だったんだが、何を買うか大層迷っていたものだから、余が店の端から端まで丁寧に案内してやったのだ。親身になって話に付き合っていたら、お礼とばかりにあれを買ってくれてな。それで余は思ったのだ。色々と工夫をすれば、この店の商品はもっと売れるとな。だから今もこうしてあれこれと試行錯誤しながら努力しているのさ」

 そう言ってナムリースは店主に背を向けて、再び自分の思うまま、商品の配置換えに勤しみ出した。すっかり気を抜かれたレイニオは、新米店員の背中で左右に揺れる青紫の頭髪をぼーっと眺めながら呟いた。

「……まあ、別にてめえの好きにすりゃいいけどよ。しっかし店に来た時から思ってたんだが、よくそんな偉そうな喋り方で売り捌けたもんだぜ。言っちゃわりいが、てめえの言葉遣いはまるで老いぼれ貴族みてえだな。……そうだ、老いぼれと言えば、結局てめえ幾つなんだっけ?」

 途端にナムリースは手を止め、頬を膨らませて振り返った。

「失礼だな、余がこの話し方しか出来ないと思うか? これでも色々な仕事をしてきたのだ。客にはちゃんと合わせて話しているとも。あと、女に歳を聞くな。無礼者め」

 雑貨屋の主は非難されても気にも留めず、むしろにやにやと笑い始めた。

「ははーん、そんなに聞かれたくないってことは、案外俺より上なのか? 結構若作り頑張ってんじゃねえか」

 ナムリースは呆れ果てて、首を横に振った。

「本当に何というか、お前は……」

「おいおい、皺が出来てんぞ」

 なおもレイニオはにやつきながらナムリースをからかっていた。しかし呼び鈴の音が鳴ると、その視線は店の入り口に向かって止まり、口元の笑みも固まった。ナムリースが振り返るとそこには窮屈そうに暖簾を潜り抜けた黒い肌の大男がいた。ヴァークはにやりと歯を見せて、入り口脇の壁に掛けてある黒い木札を手に取ると、これ見よがしに左右に振った。

「仲良くしてるとこわりィな。よお、レイ。ちょっとした頼み事があるんだが」

 親友の来訪を受けてレイニオは神妙な顔をしながら、会計台を囲む柵をこじ開けた。いつもと違う様子のレイニオを見て、ナムリースは首を傾げた。

「なあ、レイニオ。前から不思議に思っていたが、あの木札は何なのだ? 青と黄色と……それから黒の」

「あ? ああ……あれな。言ってなかったか? 求人の張り紙にも書いたと思うが……俺は雑貨屋だが品物を店で売るだけじゃない。俺の出来る範囲で街の人間から簡単な頼み事や仕事も受けてるんだ。要するに便利屋ってとこだな。あの三色の札は、依頼人が俺に仕事を持ってくる時の為に作った札だ。青の札は人探しとか日曜大工とか日常的な仕事を頼みたい時、黄色はこれこれこういう雑貨を注文したいとか特別に作って欲しいとかっていう、品物に関わる仕事を頼みたい時に客が持ってくる。黒は……まあもっと複雑な仕事の為の札さ」

 ナムリースはヴァークの持つ札をじっと見て呟いた。

「……複雑な仕事?」

「ああ、複雑な仕事さ。色々とあんだよ。……ほら、てめえに地図とカネやるから今日の昼は好きなとこで食って来いよ。あと市場で夕飯の材料を買ってきてくれ。好きなモン買って来ていいぞ。そんで日暮れまでに戻って来てくれりゃ構わねえからよ」

 ナムリースはおっかなびっくり地図と数枚の硬貨を受け取ると、恐る恐る聞いた。

「しかし、それだと店番はどうすればいいのだ」

「それは気にするな。今日は俺がやるから。ほら、いいからゆっくりしてこいよ」

 釈然としない様子で硬貨を皮袋に仕舞い込み、ナムリースはヴァークに挨拶をしてから暖簾を潜り抜けた。その背中にヴァークが野太い声を掛けた。

「気を付けてな。いいか、大通りだけ歩けよ。喧嘩には近付くんじゃねェ。もし誰かに絡まれたら、すぐに逃げるか大声を出すんだぞ。いざって時は俺とレイの名前を出しな!」

 暖簾の向こうから一度、「ありがとう」と間延びした声が聞こえ、後にはレイニオとヴァークが残された。女が完全にいなくなった後、ヴァークはレイニオに向き直った。

「彼女を一人で行かせて良かったのかよ。危なくねェか?」

 雑貨屋の主は酒とグラスを用意しながら答える。

「ふん、ガキの遣いじゃねえんだ。親みたいに付いて行けるかよ。それに今までだって何度か買い出しに行ってもらってるし、あの女はああ見えて機転も利いて馬鹿じゃない。何も問題ねえよ」

 ヴァークはいささか驚いた様子で親友を見上げた。

「なんだ、珍しいじゃねェか。お前が他人をそんなに良く言うなんて」

 ヴァークの向かいにどかりと腰を下ろしたレイニオは、長い息を吐いてから酒を注ぎ始めた。

「まあ……あいつは気が利くし、やる気がある。ババくさい喋り方を除けば、今のところ良い手伝いだ」

 ヴァークは意外そうな目でレイニオを暫くじっと見つめていたが、やがて視線を下に落とし、酒に口を付けた。

「……ふーん、そうか。まあ、ところでよ、レイ。改めて頼みたいことがあるんだよ」

 カンと音を立てて大男は黒い木札を磨かれたテーブル上に置いた。艶めいたテーブルの一点に、まるで深い闇を湛えた穴が穿たれたかのように、レイニオは思えた。

「モノをさ、預かって欲しいんだわ」

 雑貨屋の店主は途端に顔を顰めた。

「おい、それは個人的な依頼か? それとも」

「ウチの組織からだ」

 間髪を入れずに即答した親友を睨みながら、雑貨屋は強く舌を鳴らした。だが、大男はそれを気にもしなかった。相手の返答を待つかのように、ただ黙って酒を腹に流し込む。

「……冗談言うんじゃねえよ。お前も知ってんだろ、俺は同じ依頼人から一度に何個もモノを預からねえと決めてんだ。お前のところは俺に預けっ放しのモノが既にあるだろうが。また預けてえんなら、今俺が預かってるモノをまずは持って帰ってくれ」

 嫌そうにかぶりを振って立ち上がりかけたレイニオだったが、いまだ姿勢を崩さないヴァークが静かに、だが有無を言わせない口調でそれを引き留めた。

「レイ、お前こそ分かってるはずだぜ。……こいつは俺からの依頼なンかじゃねェ。俺のボス、つまりウチの頭目からの依頼、いや命令だ。お前にも俺にも選択肢なンかねェんだよ」

 レイニオは黙って腰を戻し、鋭い眼を細めて親友を睨み据えた。ヴァークも一切引かずに鋭利な視線を受け止め、負けじと見返した。

「頭目からの命令には逆らえねェ。お前も俺もこの街じゃあ所詮少し名が売れているだけのチンピラだ。そんな俺たちが、街の均衡を司る人間に牙を向けるか? 向けられるはずねェ。俺たちはよく知ってるはずだ、あの時だってエイ」

 雑貨屋の店主は歯を剥き出し、ソファーの間のテーブルを掴んで思い切り横に引き倒した。机上の酒瓶とグラスはその身を躍らせ、ナムリースが磨いた床に叩き付けられて甲高い断末魔を上げた。

「うるせえ、その話はやめろ!」

 一瞬呆気に取られたヴァークは視線をまた下に戻し、心なしか小さく身を丸めて黙りこくった。まだ呼吸の荒いレイニオは立ち上がると、苛立ちを隠すかのようにヴァークに背を見せた。

「……お前の言いてえことは分かってるさ、ヴィシュ。ここでどんな返事をしようが後でどのみち受けることになんだ。すぐにでもモノを持って来いよ。お前のとこの頭のことだ、どうせろくでもない品物か表に出せねえカネだろ。毎回毎回、クソみてえな代物を持ってきやがって。手数料は相応の額を貰うからな」

 親友が最早座り直す気も無いのを見て取ったヴァークはおもむろに立ち上がった。そして口を開きかけて何かを言いたそうにしたが、何も言わずに出入り口へと向かった。彼の拳はぐっと強く握られ、所在なさげに丸太のような太ももにぴたりと添えられていた。親友の方を見ないまま暖簾を潜ろうとしたところで、彼は全身に逡巡を纏わせつつ立ち止まった。

「なあ、レイ。彼女には、名前の無いあの娘にはこっちの仕事は教えねえのか?」

 レイニオは再び舌打ちをした。だが今度の舌打ちは幾分、力のないものだった。

「……けっ、あいつはたまたま流れてきた旅人で、次の目的地が決まるまで俺の店を手伝うだけの店番だ。そんな奴に何を教えてどうするってんだ?」

 ヴァークは暫し押し黙った。

「次の目的地が決まるまで、か。そうだな、確かにそうだよな」

 そう言って今度こそ暖簾を潜り抜け掛けた大男のことを、今度は雑貨屋が呼び止めた。

「おい、ヴィシュ。この前よ、お前の唯一の欠点は小言が多過ぎることだって、俺は言ったよな。あれは訂正する。もう八年近い付き合いになるんだ、お前の小言なんて慣れた。……お前のたった一つの欠点はな、あんな男の下にいつまでも付いていることだ」

 親友の辛辣な指摘を耳にした大男は怒ることもせず、ただ短く笑い声を漏らして雑貨店を去って行った。レイニオは床に散乱した酒瓶とグラスを光の無い眼で見つめ続けた。


◇◇◇


「ゆっくりしてこいとは言われたが、一体何をすれば良いのだ?」

 レイニオから半ば強制的に店を追い出されたナムリースは、地図を片手に一人ぶつぶつと呟きながら路上を彷徨っていた。大通りだけを歩け。ヴァークに言われた忠告を忘れなかった彼女は、第三区と第二区を分ける並木の大通りを西に向かって歩いていた。このまま真っ直ぐ進めばやがて西の商港地区に突き当たる。一般町民向けの市場は商港地区とその北にある漁港地区の間に広がっている為、突き当たった後で更に北上しなくてはいけないが、地図を見る限り大した距離ではない。昼食も商港の中かもしくは市場の近くで摂ればいい。そう考えたナムリースは通り沿いの店を眺めながらひたすら真っ直ぐ進むことにした。

 青々とした並木の下には露店が立ち並び、ナムリースを忙しく目移りさせた。レイニオの店のものには及ばないが眩く煌めく小さな宝石、大きめの笊にたっぷりと入った干した果物、動物の形を模した金属製の置物や木の枝と蔓を組み合わせて編み込んだ籠、そしてあちこちが黄ばんだ古びた書物。何てことのない品物の数々が沿道を彩り、道行く人々の足を度々止めさせていた。ナムリースも例に漏れず、ゆったりと歩きながら活気溢れる通りを眺めていた。するとどこからか食欲をそそる香ばしい香りが漂ってきて彼女の鼻をくすぐった。見れば露天商の一人が屋台を広げ、串に吊るした一頭の豚をじりじりと焼き上げているところだった。その光景にナムリースは思わず魅入り、その場で足を止めた。急に立ち止まった彼女と向かいから歩いてきた者がぶつかり、鋭い調子で非難の声が上がった。

「ちょいと、あんた! どこ見て歩いてんだい!」

 見るだけで空腹を呼び起こす豚の丸焼きに見惚れていたナムリースは、どこか聞き覚えのあるしわがれた声を耳にするや否や、慌てて振り返った。旅人の目に飛び込んできたのは、茶色い頭髪を短く刈り込んだ、高い鷲鼻の目立つ老婆だった。老婆は暗い青の瞳を真ん丸に見開いて、旅人を見た。

「あら、なんだい。あんた、レイのところにいる名無しの娘っ子じゃないか。こんなとこで何してるんさね」

 ぶつかったのが知り合いだと分かったネルバの顔は幾分和らいでいた。同じくナムリースもほっと胸を撫で下ろした。

「こんにちは、ネルバさん。さっきまで店番を続けていたんだが、ヴァークさんが来た途端、レイニオに追い出されてしまって。ちょうど今、昼食と買い物の為に市場に行こうとしていたところなんだ」

 ネルバは市場と聞くと、眉をピンと上げた。

「あんた、今から市場に行くつもりかい? これからの時間はえらく混むんだから、危ないやつもいっぱい出て来るのよ。……ちょうど良いさね。昼食ならあたしの家に来なさいな」

 今度はナムリースが目を丸くする番だった。

「え? ネルバさんのところで? しかし、他人の余が家に上がるのは……」

「他に家族もいないんだから、気にしなくて良いさね。あたしは一人暮らしだからさ。ほら、いいから来なさいな」

 尻すぼみになるナムリースを急き立て、褐色の華奢な手首を掴んだネルバは、ごみごみと混み合う通りを力強く横切った。彼女が立ち止まったのは、先ほどの豚の丸焼きを出す露天商のところからさほど離れてもいない、小さな木造の家の前だった。二区と三区を分かつ境界通りを行く人の群れは絶えないのに、通りに面したその家の周りにはあまり人がいない。可愛らしい赤色の扉の周りには広い植木鉢が幾つも置かれ、土の上を這う虫たちを食べに小鳥たちが絶えず立ち寄っていた。

「ここがネルバさんの家か? 大通り沿いなのに静かだな……」

 家を見上げるナムリースに構わず、ネルバはさっさとドアに向かい、鍵をガチャガチャと鳴らし始めた。

「そりゃ、そうさね。なんたって今は昼の閉店時間だからね」

「え? 閉店時間?」

「ほらほら、いいから入りなさいな」

 中に入ったナムリースは圧倒されて思わず声を出した。古びた木の棚とそこにぎっしり詰まる古い本の数と来たら、外から見た小さな家の規模には似つかわしくないほどだった。そして木棚と身を寄せ合うように置かれた数個の机の上にも、棚に入り切らなかった本たちが平積みになっている。

「言ってなかったね。あたしは本屋をやってるのさ。まあ、街の子供たちにとっちゃ、有料の図書館でもあるよ」

「図書館……」

「ま、有料と言ってもほんの少し。おやつ代程度のもんさね。それに本当にお金の無い子もいるから、そういうのからは取らないよ。……あんたも本は好きかい? なら、昼食の後にでも少し見て行きなさいな」

 そう言ってネルバは奥の食堂へと、ナムリースを手招いた。褐色の旅人は蔓で編んだ椅子に座らされ、台所で食材を広げるネルバの背中を眺めた。

「ネルバさん、余も手伝うぞ」

「結構だよ。あんたはお客さんだ、ゆっくり待ってるといいさね」

 ひらひらと手を振ったネルバの手際は良かった。狭い台所の中で忙しなく動く彼女の動きに無駄は無い。火打石で手早く火を起こし、鉄板に切り分けた動物の肉と脂を乗せる。しっかりと焼き色が付くまでの間、傍らで根菜と青菜を細かく切り、香辛料を振って皿に盛り付けた。サラダを作り終えると、戸棚からガラス瓶を取り出し、中に入っている濃褐色のソースを鉄板に注いだ。ぱちぱちと焼ける肉に調味料を良く染み込ませながら、肉を満遍なく何回も引っ繰り返す。その間、ナムリースは漂う香りに空腹を抑え切れず、自分の腹が鳴っていることにすら気付いていなかった。

 平皿に盛られたサイコロ状の肉は十分すぎるほど焼き目が付いていて、ソースの香ばしい芳香を纏っていた。染み出した肉の脂が皿にゆっくりと広がり、油膜がまるで宝石のようにきらきらと輝いている。ネルバに促されたナムリースはいそいそとフォークを手に取り、茶色い宝石をゆっくりと口に運んだ。一噛み、二噛みして、口の中で脂と一緒にとろけるその食感にナムリースは幸せそうに目を細めた。

「どうだい、美味いだろ? そいつはこの大陸の北方に生息するルルブム豚の肉さ。寒いところにいるから、肉がしっかり詰まっていて脂もたっぷりさね。……さっき、露店の丸焼きにあんたが見惚れていたもんだから、ああ好きなんだろうなと思ったのさ」

「ふまっ、ふまひぞ。ねふばさん」

「食べながら喋るんじゃないよ」

 ネルバがようやく半分ほどを食べ進めた頃には、ナムリースの皿の上にはもう何も無くなっていた。すると椅子から腰を上げた彼女は老婆が止めるのも構わず、台所に向かって汚れた皿や料理道具を洗い始めた。客に皿洗いをさせてしまうなど我慢がならないネルバだったが、楽しそうに鼻歌を歌いながら食器を磨いている女の姿を見てしまうと、声を上げる気も自然と無くなってしまった。


◇◇◇


 食事と片付けを終えたナムリースは、古本がぎっしりと詰まった棚の前に椅子を持ってきて、一人静かに黄ばんだページを捲っていた。他に音はしない。店の前の通りには相も変わらず人々の流れが絶えなかったが、古本屋の中は外の喧騒とは無縁だった。じっと紙面を眺めるナムリースは、声を掛けられるまで店外に看板を置いて戻ってきたネルバの存在に気付かなかった。

「何を読んでいるんだい?」

 名無しの旅人は読んでいたページに指を挟みながら、表紙を見る。

「……『ウシャールティ 街道と共に生きる街の光と影 繁栄の歴史書』だ」

 題を聞いたネルバはおかしそうに笑った。

「なんだい、また随分とつまらない本を読むんさね。もっと面白い本もあるよ」

 そう言ってネルバは手近の棚から小説や料理本を引っ張り出したが、ナムリースはどこか儚げに微笑むだけだった。

「実は歴史書が好きなんだ」

「へえ、そりゃまた変わってるね。なんでだい?」

 ナムリースは本に目を落とし、しばらく考え込んだ。そして小さく呟いた。

「……自分のことが載っているかもしれないから」

 それを聞いたネルバは思わず笑い声を漏らした。

「あんた、面白いことを言うんさね。まだまだ若いのに何言ってんだい」

 大笑いする老婆を尻目に、旅人はやはり微笑んでいた。ネルバの笑いもやがて収まり、彼女は顎に手を当てて思い出したように言った。

「そういや、あんた。自分の記憶が全然無いって言ってたね。自分の生まれも分からないのかい?」

「余は……」

 旅人が顔を上げて言葉を言いかけたその時、図書館の扉が大きな音と共に開け放たれた。すると同時に、薄汚れた古着を身に付けた子供たちが屋内へどやどやと流れ込んできた。子供たちは埃を巻き上げながらバタバタとネルバのもとに走り寄ると、黄色い声をわいわいと上げ始めた。

「お婆ちゃん、こんにちはぁー!」

「ネル婆、今日も本読ませて!」

「本、読んでー!」

 小鳥のように一斉に騒ぎ出す子供たちに囲まれたネルバは顔を顰めたものの、同時に少し嬉しそうでもあった。

「相変わらず品の無い子たちだね! 図書館は静かにするもんだよ!」

 注意されたことにも構わず、子供たちは笑顔ではしゃぎ続け、ネルバの周りを飛び跳ねた。そのうちの一人が好きな本を取りに行こうと振り向いた時、褐色の旅人と少年の目が合った。少年はしばらくじっと旅人を見つめ、やがて目を輝かせて大声を上げた。

「うわーっ! 綺麗なエルフのお姉ちゃんがいるーっ!」

 すると、ネルバの周りを取り囲んでいた子供たちは、今度はたちまちナムリースの周りに集まって彼女を囲み始めた。

「エルフをこんなに近くで見たの初めて!」

「耳が長いねー、髪の色も綺麗……」

「でもでも街にいるエルフたちはお肌が白いのに、この人は違うよ。なんで?」

 子供たちは好奇心のままに思ったことを次々と口にし始めた。ナムリースが困った顔で笑みを作っているのを見たネルバがずんずんと歩み寄り、団子のように固まった子供たちを追い散らした。

「ほらほら、エルフのお姉さんが困っているじゃないか! いいからまずは好きな本をさっさと取っておいで!」

 ネルバがしわがれ声でがなり立てると、子供たちはやはり無邪気な笑顔のまま狭い図書館の中で縦横無尽に散り始めた。老婆は鼻を鳴らし、すまなさそうに旅人を振り返る。

「悪いね。いい子たちなんだけど、見ての通り元気がちょいとばかし有り余ってるのさ」

 ナムリースは読み掛けの本を静かに閉じると、そっと机の上に置いた。

「何も気にしていない。いつの世でも子供たちは元気でいることが一番だ」

 優し気に微笑んだナムリースをネルバはしばし見つめた。

「……さっきあの子たちも言ってたけど。あんたは確かに見た目だけならエルフに似ているね。ただ……エルフと比べたら少しばかし耳が短いような……。それとその肌の色、この街じゃ見たことは無いけど、南方には褐色の肌をした砂漠のエルフたちがいるらしいさね。あんた、もしかするとその一族なんじゃないのかい?」

 老婆の推測は今までの旅の中でナムリースが何度も何度も聞かされてきたことと殆ど同じだった。未だ自身の素性も知らぬ旅人は遠い眼をして、書店の天井を見上げた。

「ネルバさんの言うように、最初は余もそう思った。だから勿論、荒野のエルフたちの国を訪ねたこともある……それも何度もな。彼らと一緒に荒野の大岩の陰に潜みながら狩りをして、月明かりの下、夜の砂漠の上を共に踊った。同じ屋根の下で暮らし、己のことを知る者がいないか探し回った。首長に占ってもらったこともある。荒野の砂のエルフたちは、森のエルフと違って気高く快活な一族でな。本当の同胞のように思ったものさ。……だが結局、彼らの国で答えを見つけることはできなかったんだ。だから最後にここに来た、今まで余とは関係が無いと思って見向きもしなかった最北の大陸にな」

 旅人は笑っていたが、その黄金の瞳は悲壮と寂寥の色に染まっていた。ネルバは旅人の目の中に計り知れないほどの孤独の念と、長い長い歳月を何故か見たような気がして、思わず身震いをした。

「ネルバさん」

「……な、何だい?」

「またここに来ても良いだろうか? ネルバさんの集めた本をもっと読みたい」

 頷く老婆を見て、ナムリースはにっと歯を見せて笑った。そして彼女は椅子から跳ねるように立ち上がると、先ほどまでの調子が嘘のように明るく振る舞いながら老婆に帰りの挨拶をした。その勢いのまま扉を開けて出て行こうとした背中に、老婆が慌てて声を掛けた。

「ちょいと、あんた! あんまし一人で思い詰めるんじゃないよ……! あたしが集めた本なら幾らでも読ませてあげるから、いつでも来ると良いさ。言ってくれりゃあたしもあんたの自分探しを手伝うよ。……あ、それにそうだ、あんたのすぐ近くには大抵の頼み事なら聞いてくれる便利屋がいるじゃないかい! 試しにまずはレイにでも悩みを話してみたらどうだい? 案外真面目に聞いてくれるかもしれないよ」

 ナムリースは取手を掴んだ手を止め、少しの間考え込んだ。

「……ふふっ、そうか。確かにあの男は街の人たちの頼み事を聞くと言っていたな。ネルバさん、ありがとう。そのうち気が向いたら、一人の客として彼に頼んでみようと思う。いくら取られるか分からないから、今のうちに蓄えを貯めておかないといけないな」

 くすくすと笑ってナムリースは今度こそ書店の扉を静かに閉め、大通りに出た。ネルバの鉢植えの周りで虫を啄んでいた小鳥たちはとっくのとうにどこかへ飛び去っていた。通りには相変わらず人々が行き交っており、ナムリースもその流れに身を任せた。ウシャールティの道を行く人々はいつも雑多だ。肌の色、服の種類、髪の色、種族……。世界のあちこちから辿り着いた異なる者たちが、時にいがみ合い、時に笑い合いながら、この巨大な街道都市で生きている。流れ着いてまだ半月ほどしか経っていないのに、そんなウシャールティのことをナムリースは好きになっていた。この街では、誰も自分のことを気にしないからだ。己の素性さえ知らない怪しい女が紛れ込んでも、ウシャールティはそれすら包み込んで受け入れてくれる。その居心地の良さが、長い旅で疲弊した女の心の傷をほんの少し和らげていた。

(ネルバさん、ありがとう。貴方は良い人だ。……だが、自分でさえ自分のことが分からないのに、どうして他の誰かが本当の余を見つけられようか。どうせ答えなど分かるまい、貴方にもあの男にも、この世の他の誰であっても。……そして余自身でさえもな)

 微かに口元を歪め、旅人は市場に向かって早足で歩き続けた。今晩はやはり好物の豚肉を食べようと、沈むその心に刻みながら。


◇◇◇


 褐色の旅人が市場で買い物を終えて、勤める店に戻って来たのは、既に日が暮れて夜が顔を見せようとし始めた頃だった。市場の賑わいに心が躍り、いささか寄り道をし過ぎた彼女は、汗を掻きながら慌てた様子で細い裏路地を抜け、雑貨屋の面する小さな広場に足を踏み入れた。広場は既に薄暗くいつものように人は誰もいない。奥に目をやると、レイニオの雑貨屋からはまだ灯りが漏れていた。

「レイニオ、すまない! 少し遅くなってしまった」

 ナムリースは暖簾をさっと潜って、なるべく申し訳なさそうな調子で店内に声を掛けた。すぐに店主の罵声が飛んでくるかと思っていた彼女は、拍子抜けした。肝心の店主がそこにいなかったからだ。おかしいなと思い、彼女は店の端から端までを見て回った。それでもレイニオの姿は無かった。まさか自分が遅いからもう既に夕食の用意を始めてしまったのだろうか。そう考えた旅人は、奥の扉を開けて居宅と店との間に広がるこじんまりした中庭に飛び出した。そこにも目当ての人間がいないことを確認すると、己が住まわせて貰っている居宅に入る。食堂、物置、寝室、浴場、……そしてナムリースに宛がわれた客室。小さな居宅の全てを探したが、レイニオは見つからなかった。

「レイニオ~、レイニオ店長~! いったいどこにいるのだ?」

 もしかしたら痺れを切らして外出してしまったのか? それともまさか盗人に入られて攫われた? ナムリースは焦りながら店の方に戻って大声を上げた。返答が無いことに途方に暮れていた彼女だったが、ふと螺旋階段が視界に飛び込んできた時、彼女はほっと一安心した。

「あ、そうか。地下室があったな。まったく返事くらいしてくれれば良いものを」

 口の悪い店主は奥の居宅よりも手前の店の中で寝ることも多い。そのことをようやく思い出したナムリースは買い物袋に包んだ豚肉を機嫌良く振り回しながら、意気揚々と地下室へ降りて行った。

「レイニオ店長~、遅くなったお詫びに今晩は余がとびきり美味い焼き豚を振る舞ってやる……ぞ……?」

 階段を降り切ったナムリースは思わず絶句した。地下室の奥、赤い扉の前で己の雇い主が倒れていたからだ。彼女は高い声を上げ、買い物袋を取り落とすと、必死の形相でレイニオに駆け寄った。そしてレイニオの首元に手を当てて、まずは脈があるかを確認した。

「おい、レイニオ! しっかりしろ、何があったのだ!? 盗人か!? 息はあるな……医者を呼ばないと……」

 焦燥も露わに立ち上がりかけたナムリースの裾をレイニオが弱弱しい力で引っ張って引き留めた。ナムリースは座り直し、ぼそぼそと喋るレイニオの口元に耳を近づけた。

「……いい、医者はいらねえ……それに盗みに入られたわけでもねえ……。ちょっとばかし、きつい頼みを引き受けてよ……そいつでちっと疲れただけだ……」

 レイニオの眼光はいつものように鋭かったが、その顔色は青く、額には汗粒が浮かんでいた。

「し、しかし、その様子だと相当体力を消耗しているぞ。診てもらった方がいいのでは?」

 レイニオは舌打ちを漏らしながら、苦しそうに首を振った。

「大丈夫だ、必要ねえ。……明日の朝まで寝てりゃ治る。……ナムリース、悪いが動きたくねえ。この地下の左奥の部屋ん中に毛布が敷いてある。そこまで俺を運んでくれねえか……?」

 いつになく弱弱しい様子のレイニオを見たナムリースは、ぶんぶんと頷き、完全に伸び切ってしまっている店主を床から起こして背中に背負った。華奢な雑貨屋の店主は骨ばっていてごつごつとしていたが、旅人が思ったほど重くはなかった。彼女は腰に力を入れて踏ん張り直すと、地下の狭い通路を歩き出そうとした。……と、その前に彼女は一瞬だけ背後を振り返る。視線の先には赤い扉が物言わず佇んでいた。ナムリースは怪しげなものを見る目で、その赤い扉をじっと見つめた。何の変哲もない木で出来た赤い扉だ。だが、何故だろう。ナムリースにとってその扉はとても不気味で、そしてとても心惹かれるものだった。

(……いったい何を隠しているのだ……?)

 きっと何かがある。ナムリースは確信したが今は何も言わず、背中でうわ言を呟いている雑貨屋の店主を寝かせることを優先させた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ