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4話 名無しの女は名前を貰う

 街道を抱く大都市、ウシャールティはその日も微風の吹く穏やかな晴れ空に包まれていた。渡り鳥たちがくるりくるりと飛び回る空の下、朝食を済ませた無法都市の人間たちは街のあちらこちらで忙しなく動き回っている。道沿いの屋台の店主たちは声を張り上げて客を呼び、広場の野市では客たちが目の色を変えて品物を競り合っている。裏路地に目を向ければ家を持たぬ物乞いたちがか細い声を振り絞っては、道行く者たちに慈悲を求めて縋っていた。渡り鳥の一羽は気紛れに群れを抜け出し、ゆるりゆるりと空を下り始めては、人々の喧騒から離れたごくごく小さな円形の広場に舞い降りた。広場の中央にひっそりと息づく大樹の梢に止まってその大きな羽を休めると、彼は旅の疲れを癒すように赤く艶めいた果実を啄み始めた。

「……アラシワタリか。珍しいな」

 こじんまりした雑貨店の前で箒を手に持った女が渡り鳥を見て呟いた。店の前に吹き溜まっていた落ち葉や埃をあらかた掃き終えて、既に仕事が終わったも同然だったが、彼女は店内には戻らず掃き掃除のふりを未だに続けていた。彼女が僅かに首を曲げ店の中を見ると、店内のソファでレイニオがしかめっ面をして来客と話している最中だった。眉間に皺を作りながら来客の話を聞いている様子はいかにも不機嫌そうで、女は中に入るのを躊躇い続けていた。

 彼女が店内に入るのを諦めて広場の方を振り返ると、黒く艶めいた渡り鳥は休息を終えて梢から飛び去ったところだった。すると空の旅人が群れへ戻るのと入れ替わるように、女のもとに新たな訪問者がやって来た。彼女の視界に映ったのは、眼鏡を掛けた白髪頭の老婆だった。

「ラダさん! こんにちは!」

 雑貨屋に通い詰める老婆は嬉しそうにニコッと笑うと、掃き掃除をする女の「名前」を呼んだ。

「あらぁ、しっかり働いているのね。レイに苛められてないかしら? ナムリースちゃん」

 ナムリース。呼ばれたその名の意味するところは、名無し。己の置かれた状況を無遠慮なまでに的確に表した呼び名を反芻しながら、名無しの旅人は雇い主との会話を思い出していた。


◇◇◇


「……つうかよ、名前も記憶も無いってのは本当かよ? だったら今までどうやって生きてきた?」

 女がレイニオに雇われたその日の夜のこと。一日の流れや商品の配置場所などを教わった後、彼女は雇い主と一緒に螺旋階段の奥にある鍵のかかった裏口を抜け、小さな中庭の向こうの別棟へ向かった。食堂と厨房を兼ねた小部屋の真ん中に置かれたテーブルを挟んで向かい合いながら、レイニオと褐色の女は遅い夕食を頬張っていた。雑貨屋の若大将は言葉遣いと同じく料理の方もがさつで、狭い食卓に並んだパンは何の手も加えられていない上、保存のし過ぎで木片のように硬かった。そのままではとても食べられたものではない。だからだろう、レイニオは手元のコップに動物の乳を並々と注ぎ、そこへパンを浸してはバリバリと音を立てて噛み千切るのを繰り返していた。旅人の女は歯を折りかねない鋼鉄のパンに内心辟易しながら、雑に盛り付けられた青菜のサラダを口に運んだ。すぐに彼女の舌に何とも言えない苦味が広がる。ろくに味付けもしていないらしい。

――この男は酒の飲み過ぎで味覚が鈍っているのかもしれない。もしくは食事自体に元々興味が無いのか。何にせよ次からは余が料理をしよう――。

雇われた上、寝床と食事まで提供してもらった身だ。女は表情に出さないよう努めながら、苦いサラダと一緒に不満を飲み込んだ。

「ああ、本当だ。ある日、一人で目覚めた時、余はそれまでの何も覚えていない有り様だった。……自分が何者なのか、目覚めるまでどこで何をしていたのか。何故そこで目覚めたのか、その場所までどうやって来たのか。極めつけに……自分の名前さえも分からなかった。……とにかく不安で気が狂いそうだったから、あちこちで色々な仕事をしながら余を知っている者がいないか必死で探し回ったよ。名前は仕事を変える度に、自分で考えた偽名を名乗ってきた。……結局今に至るまで自分のことは何も分からない。この旅も最早惰性で続けているようなものさ。最近では偽名を考えることにも飽きてきてな、自分から名を名乗るのがこの世で最も嫌なことだ」

 名無しの旅人はそう言うと愁いを帯びた表情になって、疲れたような笑い声を漏らした。対して雑貨屋の若大将は何を考えているのか分からない真顔のまま、相変わらずバリバリと音を鳴らしながら鋼鉄パンを胃に流し込んでいる。

「……そうか、そりゃあ難儀なこったな。まあしかし、この街は同じような訳アリ者ばかりだ。案外居心地も良いかもしれねえぜ? 気持ちは分かるが、あんま気に病まずにゆっくり過ごすと良いさ」

 悪人が気紛れに善行をすると、善人以上に善人に見えることがある。それと同じで、レイニオが口に出した想定外の慰めに、名無しの女は感動にも似た驚きを覚えた。

「ん? そういやあ、てめえ。旅を続けてきたって言うが、一体いつから旅してんだ? ……そもそも、てめえ歳いくつだよ? 俺と同じくらいか?」

 前言撤回。名無しの女は眉間に皺を作って、口を尖らせた。女に年齢を聞く男は善人ではない。

「歳なんぞ数えていない。そんなことをしていたら日が暮れるからな」

 頬を膨らませた女は不機嫌も露わに、サラダの残りを勢い良くかき込んだ。そんな彼女を見て、レイニオは訳が分からないといった顔をしていたが、何かを思いついたように突如声を上げた。

「ああ、そうだ、そうだ。歳はともかくとして、だ。てめえの名前を何かしら決めないといけねえって思ってたんだった。いつまでも呼び名がねえんじゃ不便で仕方ねえからな。何か希望の名前はないのかよ?」

 女は顎に手を当てて少し考え込んだが、すぐには何も思いつかなかった。

「いや……特にはないな。正直何でも良い」

「そうかよ。んじゃ、どうすっかな……。名前が無いんだろ、名前……名前……名無し……」

 レイニオはしばらく唸っていたが、閃きと一緒にぱっと顔を上げた。

「名前を意味する“ナイム”と、何も無いことを表す“リス”。ナイムリスじゃあ、そのまま過ぎるから少し訛らせてよ……ナムリースなんてどうだ? 響きも良いし、てめえにぴったりじゃねえか。よし、決めたぜ、この店で働く間はてめえの名前はナムリースだ」

 女は呆れていた。目の前の男は口の利き方と料理の腕だけに止まらず、どうやら名付けのセンスまで悪いらしい。

「ナムリースって……それではただの“名無しちゃん”ではないか」

「おいおい、不満なのかよ。何でも良いっつっただろうが。それに名は体を表すって言うだろ? 分かりやすくて良いじゃねえか」

 一度決めたらもう変える気は無いらしく、満足げに頷いたレイニオは再び食事に戻ってバリバリと音を立て始めた。既に質素な夕飯を平らげたナムリースは鼻を鳴らし、目の前の悪漢をじっと見た。勝手な奴め、今に見ていろよと。


◇◇◇


「……あらぁ、レイは相変わらずしかめっ面ねぇ。これじゃ入りづらいわけだわ。ナムリースちゃんも大変でしょう、あんな不良の下で働くなんて」

「いや、まあ……ここ数日一緒にいて多少は慣れたな。というか、ラダさんこそ、そう言う割にはいつもここに来るではないか」

 白髪に眼鏡のラダはひょこひょこと忙しなく動きながら、店内の様子を覗き伺っている。商談はどうやら上手く行っていないらしく、店内から響くレイニオの声は次第に大きくなり、悪態が混ざり始めてきた。駄目だこりゃと呟くと、ラダはナムリースの方に振り返ってにんまりと笑った。

「まあねぇ。レイはあんなだけど、何だかんだでこんな婆さんの相手もしてくれるからねぇ。この歳になると人恋しいもんだから、構ってくれる人間のところについつい寄っちゃうのさ」

 ラダの笑顔の奥にはどこか寂しげな様子が見え隠れしていた。彼女の何気ない言葉にナムリースは心の中で思わず同情した。そうだ、時が経てば経つほど人間は人恋しさを覚える。最初のうちは大丈夫でも次第に耐えられなくなるのだ。それはナムリースにとっても同じだった。終わりの見えない長い時間の中を彼女は彷徨ってきた。目を覚ましてから今に至るまで、ずっとずっと一人きりで。だから彼女は行く先々で誰かとの繋がりを求める。今もそうであるように。どうせ長くは続かないと分かっていながらも……。

「……あらら、ありゃ駄目ね。レイのやつ、すっかりお冠になってるわ。おっと、そろそろ終わりみたいよ」

 覗き見をしていたラダがひょいと身を脇に躱すと、暖簾を押し退けて雑貨屋の中から一人の男が現れた。脂ぎった肌の中年男は頭髪もまばらな頭をぼりぼりと掻きながら、にやついた笑みを浮かべていた。いかにも卑屈な感じのする笑みだったが、バツが悪いから笑っているのではなく、むしろ何かに勝ち誇ったかのような笑顔だった。緑色のシャツに桃色のベスト、そこに赤い蝶ネクタイという、まるで冗談のような恰好をした男は傍らの老婆には目もくれなかったが、ナムリースを視界に入れるとたちまち出っ歯を剥き出しにして、卑屈な笑顔をより一層輝かせた。

「これは、これは! 何とお美しいお嬢様でしょうか! 例えるなら空虚な荒野に咲く、一輪の可憐な花といったところですな! わたくしはファウツ・グリナンと申しまして、さる高貴な御方の執事をしております。いやはや、それにしてもお嬢様の美しさには感嘆致しました。どうでしょう、もしお暇ならこんなところにいないでわたくしと一緒に紅茶でも……」

 手を揉み合わせながら擦り寄ってくる中年男にたじろぎ、箒を持ったままのナムリースが一歩下がった。それとほぼ同時に、暖簾を引き千切る勢いで店内からレイニオが飛び出してきた。

「おい、クソ豚!! てめえこの野郎、ふざけた注文を無理やり通しに来た上に、俺の従業員にまで粉かけてんじゃねえぞ! 挽き肉になってご主人様のところに帰りてえのか!?」

 悪鬼の形相で凄まれた中年男は小さな悲鳴を上げた後、例のにやけ面で「では、宜しくお願いしますぞ」と言って小走りで去って行った。暫くの間小さな広場には、気色の悪い卑屈な笑い声の残響がしつこく留まり続けた。それがようやく収まると、ラダがぽつりと呟いた。

「相変わらず趣味の悪い服着てるわねぇ、あの人も」

 レイニオが嫌そうに鼻を鳴らす。

「けっ、そりゃそうだろうよ。豚と人間じゃ感性が違い過ぎるからな」

「あんたは相変わらず口が悪いねぇ」

「そーかい、そーかい。そりゃどうもありがとうよ」

 そして何もなかったかのようにあっさりと店内に戻ろうとするレイニオを、ナムリースは慌てて引き留めた。

「ちょっと、待て、レイニオ。今のは誰だ? 彼と何の話をしていたのだ?」

 レイニオは面倒臭そうに溜息をついて、裾を引っ張るナムリースの手を振りほどいた。

「あれか? ありゃ見ての通り人語を話す豚だ。珍しいだろ……って冗談だよ、冗談。そんな渋い顔してんじゃねえよ。てめえは接客担当でもあるんだからもっと笑顔でいてくんねえと困るぜ」

 雑貨屋の若店主は心底嫌そうに長い息を吐くと、苦々しい様子で話し出した。

「あの豚は西の港の女狐にひっついてる腰巾着野郎だ。あんなツラでしかもブクブクと太ってる癖に、悪名高い女好きだっつーんだから本当に救いようがねえよ。……俺の店を汗臭くしやがって、クソが。毎回毎回、殺したくなるぜ」

「西の港の女狐とは……?」

「んー? ああ、そうか。てめえはこの街に初めて来たんだもんな。……二区の海沿いの土地はよ、全部港になってるんだ。北半分が漁港で南半分が商港だ。西の港の女狐ってのは、その西の商港を牛耳ってる女商人のことさ。もともと一介の船乗りだったらしいがあれよあれよっつー間に大商人になって、今じゃあカネで貴族の地位まで買っちまった野郎だ。さっきの豚はその女狐の小間使いってとこだな」

 レイニオがファウツのことをしきりに豚と罵る間ずっと、ナムリースは無性に空腹を覚え続けていた。彼女は飲酒と同じくらい食べることに目が無く、それこそ豚肉が大の好物だったからだ。そんな彼女の上の空の様子を感じ取ったのか、レイニオの声が刺々しくなり始め、ナムリースははっと意識を取り戻した。

「そ、それで? 一体何の話をしていたのだ? 随分と怒っていたようだったが……」

 ファウツとの商談を思い出したのだろう。レイニオの眉間に皺が寄った。

「だからよお、今言ったじゃねえか。西の港の女狐が無茶な注文を寄越してきやがったんだよ。……貴族同士のパーティーだかなんだか知ったこっちゃねーが、特注の宝飾品を三日後までに納品しろって話さ。材料用意すんのだけでも面倒くせえが、その上取引先の職人に加工してもらわないといけねえ。あー嫌になってきた。こんな急な話を持って行ったら、俺の頭が金槌でかち割られちまう……」

 嫌そうに唸りながら頭を抱えているレイニオを見て、ナムリースは不思議で仕方がなかった。この傍若無人な男が渋々ながらもそんな無茶苦茶な仕事を受け入れるのは何故なのだろうかと。

「断ってしまえばいいじゃないか。どうしてそうしないんだ?」

 レイニオの舌打ちが響く。

「けっ、断れるんだったら俺だってとっくに断ってんだよ。……あの女狐にはでけえ借りがあるんだ。この店の為にカネ貸してくれたんだよ、昔な。今もまだ返済の途中だし、言うこと聞かねえわけにゃいかねえのさ、不本意だけどな」

 そう言うとレイニオは一旦店の中に戻り、すぐにまた出てきた。手には真新しい紙の巻物が握られていた。先ほど、人語を話す豚ことファウツが持ってきた特注品の見取り図だ。

「おい、ナムリース。俺はこれから職人のとこに行って話をしてくるからよ、その間の店番頼むわ。ラダもどうせ暫く入り浸るだろうし、退屈はしねえだろ」

 言うだけ言ってさっさと出掛けようとするレイニオを、ナムリースはまたまた裾を引っ張って引き留めた。雑貨屋の若店主は苛立ちも露わに地団太を踏んだが、今度は女の手を振り払うような真似はしなかった。

「待ってくれ、レイニオ。余もその職人のところに行っては駄目か? 今後の為の学びにもなるし、何より興味がある」

 ナムリースは真剣な顔だったが、相変わらず渋面のレイニオはにべもなく断った。

「好奇心旺盛なのは結構だけどよ……今日は駄目だ。今から会いに行くダルガンってのは元から気難しい石頭野郎だが、初対面の人間に対してはいつもの数倍きつい態度を取っちまう、絶望的に人付き合いのできねえ奴なんだよ。いつかは会わせてもいいが、今日だけは駄目だ」

 雑貨屋の若店主はきっぱりと言い切って今度こそ広間を後にし、裏路地の向こうへと消えてしまった。その背中を恨めしそうに眺めていたナムリースも最後には諦めて、暖簾の奥の薄暗い店内に戻った。すると少し消沈した彼女を、木棚の上の宝石たちが静かに迎えた。口数の多い店主とは対照的に静謐なこの空間が、ナムリースは好きだった。外から差し込む薄明かりに照らされる物言わぬ宝石たちや、隅の方で薄っすらと埃を被る置物たち。レイニオの手で集められた様々な雑貨の数々に囲まれていると、どこか落ち着く自分がいることにナムリースは気付いた。

「……口は悪いが、品揃えだけは良いな」

 ナムリースが思わず呟くと、木棚の向こうで品物を物色していたラダが笑顔で近づいてきた。手には木製の小さな置物が収まっている。よくよく見ればそれは眼の部分に緑色の宝石を填め込んだ、竜を模した置物だった。

「ナムリースちゃんもそう思うかしら? 店主はがさつだけど、置いてあるモノはどれもこれも素敵なのよ、この店。とりあえず今日はこれ買うわね」

 新米店員は置物をラダから受け取ると、底面に貼ってある値札を見た。

「50ダファになります」

 値段を聞いたラダは懐から黒い革製の財布を取り出し、その中から一枚の硬貨をナムリースへ差し出した。親指の先よりもやや大きい長方形の硬貨は、薄く茶色がかった鈍い銀色の輝きを放っている。ナムリースは大事そうに受け取ると、前掛けのポケットから小銭入れを出して、その中に硬貨を仕舞い込んだ。そして持ち運び用の小さな台帳に売り上げた金額を書き入れた。

「……しかし、ラダさんは毎回毎回そんなに小物を買って、一体どうするのだ?」

 ラダは竜の小物を愛おしそうに撫でながら、にっこり笑って答えた。

「もちろん、お店の装飾として飾るのよ。うちのお客さんからも評判良いのよ、ここの雑貨は」

 ラダは第三区の最北東に位置する場所で服屋を営んでいる。丁度、大街道に面した店で、結構な繁盛店だ。

「そうだ、ナムリースちゃんも今度、私の店に来てちょうだいよ。古着からピカピカの新品まで品揃えには自信があるの。何なら特注も承るからね」

「分かった。……レイニオが帰ってきたら、今度いつ休みが貰えるか聞いてみる。ラダさんの店の休みは、毎週、“火産(かさん)の日”と“水落(すいらく)の日”で合っているか?」

 服屋の店主は目の前の若い女が自分の店の店休日を当てたことに驚いた様子だった。

「そうよ。服屋は大体が火産の日と水落の日に休むんだけど、よく分かったわねえ」

「……服は燃えてしまえば直せない。水に濡れては着ることができない。だから、服屋の定休日は大体その二日と決まっている。昔、知り合いからそう聞いたことがある」

「あらぁ、ナムリースちゃんったら結構物知りなのね。あ、お店の時間は10の刻から19の刻までだから、間違えないでね。私もそろそろ戻らないと……それじゃあまたね」

 暫くの間は店にいるだろうと思われた白髪の老婆は、そう言って案外短い時間で雑貨屋を後にした。薄明るい店内には、ナムリースだけが一人取り残された。次の客がいつ来るかは分からない。雑貨屋の客入りというのは、なかなか読みにくいものだ。どうせやることもないので、ナムリースは次の客が現れるまで、店の中の掃除をすることにした。狭く見えるこの雑貨屋も中は案外と広く、暖簾を潜って真っ直ぐ少し歩いた正面に古びた二つのソファーと小さな木のテーブルが置いてある。ソファーのすぐ奥には柵で囲まれたスペースがあり、その中に会計台と奥の別棟に続く扉がある。柵の右側には螺旋階段が鎮座し、それを下ると地下に繋がっている。地下の階では商品の在庫などが日の目を見る日が来るのを静かに待っている。

 レイニオはがさつな男だから掃除をしたところでどうせ気付きもしないだろうとナムリースは思ったが、それでもやらないよりはマシだと、彼女は雑然とした店内の掃除を始めた。原石や宝飾品、それに木製や鉄製の置物などありとあらゆる小物を置いた木棚の数は十以上あり、掃除する場所は意外と多い。建物の壁沿いにも棚が設置されてあるので尚更だ。店内で常に綺麗に保たれているのは会計台の目の前にあるソファーとテーブルぐらい。商品棚の隅や角には綿埃が溜まっているし、建物の隅には蜘蛛が巣を張っている。虫嫌いのナムリースは思わず身震いをしながら、てきぱきと埃や木くずの類を掃き集めて、屑籠に放り込んだ。

 そうして彼女が掃除を始めて二刻は経っただろうか。そろそろお腹が空いてきたなとナムリースが感じる頃には、店内は見違えるほどに綺麗になっていた。額を伝う汗を拭い、彼女は一旦暖簾を押し退けて外を覗いたが、広場には人っ子一人いない。渡り鳥が落とした赤い実の残りを小鳥たちが囀りながら摘まんでいるだけだった。

「……誰も来ないな、これでは」

 いささか落胆して店内に戻ったナムリースは奥にある螺旋階段に目を付けて、意気揚々と降りて行った。店内より更に薄暗い地下室は思った通りの埃まみれで、実に掃除のやり甲斐があった。ナムリースは両手で頬を叩いてやる気を出すと、はたまたせかせかと働き始めた。地下に眠る在庫の置物たちはとても不憫で、まるで埃で出来た衣服を着ているような有り様だった。そんな哀れな置物たちに出くわす度に、ナムリースは一階に戻り、店と別棟の間にある井戸まで行っては水を汲み、濡らした布巾で彼らを磨いてやるのだった。

 彼女の努力が報われて地下の粗方の場所が清潔になったが、ひとつだけやり残した場所があった。地下の一番右奥。古びた赤い木製の扉。その奥にあるはずの部屋だ。そこはレイニオが顧客から預かった特に大事な品物を保管している部屋で、ナムリースが働き始めた二日目に、絶対に入るなと言われた場所でもあった。その扉の前でナムリースは腕組みをしながらじっと立っていた。鍵が掛かっているのでそもそも入れる筈もないのだが、彼女の手には何故か空き巣が持つような鍵破りの針金が握られていた。掃除の最中に転がっていた針金を見つけて、自分の手で曲げたのだ。

「ここまでやって、この部屋だけ掃除しないというのも何とも気持ちが悪いというか。むしろレイニオに申し訳ないというか……」

 それっぽい言い訳を口にしてはいたが、ナムリースの口角はにやにやと上がり、黄金色の目は好奇心に光り輝いていた。開ける、開けない、開ける、開けないと内心で繰り返しながら迷いつつ、彼女はとりあえずその開かずの扉に近づこうとした。だがその刹那、一階の方からチリンチリンと涼やかな鈴の音が大きく響き渡った。来客を知らせる呼び鈴の音だ。新米店員はハッとして螺旋階段の方を振り返ると、一度だけ名残惜しそうに赤い扉をちらりと見やって、階段を駆け上がった。

「はーい、いらっしゃいませ! ただいま伺います!」

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