3話 雑貨屋の男
北方の大陸の朝。涼やかな空気に包まれて、旅人は目を覚ました。結わいを解いた青紫の長髪が目にかかり、彼女は煩わしそうに手で軽く振り払う。質素な白の寝巻に身を包んだ旅人は名残惜しそうにシーツを掴んでいたが、窓辺で忙しなく鳴き続ける鳥のさえずりを耳にすると、それ以上横になるのを諦めた。そして多少ふらつきながらも深酒の影響を感じさせない足取りで起き上がると、細かい傷や曇りが目立つ古鏡の前に立つ。旅人は何の迷いも無く、纏っていた寝巻をするりとほどき、板張りの床に脱ぎ落した。鏡面に女の一糸纏わぬ褐色の裸体が映る。旅人は瞬きもせず、己の裸をただじっと見つめた。ずっと変わらない。何一つ変わらない。染み一つ、傷一つない褐色の肌はハリが良いままで、形の良い胸も一向に垂れる兆しが無い。目元も皺とは無縁だ。何一つ変わらず、いつまでも若々しい己の肉体。旅人はそんな自分の身体に恐怖心にも等しい寒気を覚えていた。
「……誰か教えてくれ。余は、何者なのだ……?」
窓辺に止まった鳥は相変わらず高い声で鳴くばかりで、旅人の呟きに応えることは最後までなかった。
◇◇◇
階段を下りた旅人の目に飛び込んできた一階の酒場の様子は、昨日と打って変わって落ち着いていた。酔いどれたちがこぼした料理のカスや酒の跡は綺麗に片付けられ、木製のテーブルにはいずれも真っ白な卓布が敷かれている。昨夜の喧騒はどこへやら、給仕たちも憑き物の取れたような晴れやかな笑顔で宿泊客たちに朝食を運んでいた。店内の変わり様に唖然としていた旅人も給仕の一人に促され、テーブル席に着く。程なくして料理が運ばれた。やや硬そうな黒っぽいパンが三個、その脇に野菜のサラダの山が盛られている。傍らの深い皿には小ぶりな肉が入った亜麻色のスープがたっぷり注がれていた。
「よう、おはよう。あんた、本当に酒につえェみてェだな。あれだけ飲んだのに何でも無さそうな顔しやがって」
パンを頬張ったまま旅人が顔を上げると、用心棒のヴァークがやって来てそのまま向かいの席に座った。彼は料理には手を付けず、給仕に水を頼むとそれを一気に飲み干した。男の瞼は重そうで、しきりに額に手を当てていた。男は酒の匂いが残る息を辛そうに吐くと、目の前で料理を平らげつつある女に言った。
「あんた、この後はどうするんだ? 本当に雑貨屋に行くのか?」
旅人はスープの最後の一滴を飲み干すと、眉をしかめた。
「やけにしつこいな、ヴァークさん。そんなに余を働かせたくないのか?」
「いや、そういうわけじゃあねェんだが……。あんたが会いに行くヤツはな、なんというか変わった……や、癖のあるヤツでな」
もごもごと口ごもるヴァークを尻目に、旅人は食べ終えた料理の皿を木製の盆に乗せて、立ち上がった。そして厨房に戻しに行く前に、思いついたように言った。
「そんなこと、実際に会ってみないと分からぬだろう。……そうだ、ヴァークさん。その店主と知り合いなら、余を店まで案内してくれないか?」
◇◇◇
木戸を押し開け、路面に出た旅人の女とヴァークは街を照らす朝日に目を細めた。ウシャールティの住人たちも既に目を覚ましていて、あちこちの家々から人々の話し声が聞こえてきた。やや冷たい風が吹き、家々の物干し竿に掛けられたシーツや衣服がパタパタと揺れている。ぼろきれを身に纏った子供たちは朝から笑い声を上げながら、道端にうずくまる物乞いの横を駆け抜けていった。
二人が細い路地を折れて本道に出ると、通りに並ぶ店の人間たちが店内から椅子やテーブルを持ち出して営業の準備を始めているところだった。支度が出来た店のテーブルには早速客が座り、店員に朝食の注文を始めていた。徐々に賑わいを見せ始める通りを行き交う人々の容姿は様々だ。肌の色、髪の色、瞳の色……。どれを取ってもばらばらで、統一性が無い。そして街の様子も旅人が今まで巡ってきた都市に比べて、やはり纏まりがないものだった。所狭しに並ぶ建物は木造のものもあれば石造りのものもある。使われている木材や石材は多種多様だ。木材は白、褐色、赤茶、そして黄色のものが多い。石材はごく普通の灰色から黒、白、そして薄い青色のもの、通りの敷石と同じ薄桃色など、目が回るほど色彩に富んでいた。
「余はこの街ほど雑多な街を他に見たことが無い。人種も風景もごちゃごちゃだな……。初めからこんな街だったのか?」
旅人の女は横を歩く髭面の大男を見上げた。
「いや、ウシャールティはな、初めはごくごく小さな宿場町だったよ。今じゃ街道を跨いで西と東、もっと細かく分けて六つの地区に分かれているが、最初はこの第三区の北にある第二区の市街地しか無かったんだ。……だが、いつからか王国が貿易を重視し始めると、南端の港湾都市と北方の王都の間にあるこの街に人が集まり始めた。王都や港湾都市に住めねェ身分の低い連中や流れの連中も自然に入り込んでくる。一度そうなると人の流れってのは誰にも止められやしねェ。ようやく国が慌て出した頃にゃ時すでに遅しだ。ウシャールティは、犯罪者だらけの北方でも有数の大都市になったってわけだ。この街の景色がめちゃくちゃなのは、近隣の地域から所かまわず流れ者が辿り着いちゃ根を張ってくからさ。そんな街に纏まりなんぞあるわけねェ」
ヴァークは歩調を変えないまま、道行く人を目線で指し示しながら、更に説明を続けた。
荷馬を連れて集団で歩く、浅黒い肌に黒髪や茶髪の集団。薄黄色のゆったりとした衣装で身体を覆った、目付きの鋭い彼らはピアリタ人。ダルファナ王国のある、このルルブム大陸南方に浮かぶポーンス島から来た商人の一族だ。元々は島を根城にしていた海賊の子孫たちでもある。
明るい白色の肌に褐色の頭髪、そして色とりどりの派手な衣服を着込んだ者たち。彼らは西岸三国人と総称される。ダルファナ王国の北西部に並ぶ海岸沿いの三つの王国、北から順にベルティア、ナレフ、パノーテ王国の人間たちだ。元は三つ合わせて一つの大王国だった過去があり、国は違えども民族的な差は殆ど無い。
ウシャールティで見られるエルフ族は二つの民族に分かれる。まずはシルハニケル族。ダルファナ王国の北東部、西岸三国の東側に広がる広大な《黒い森の王国》を治める、他種族にも友好的な変わり者のエルフの一族だ。頭髪は眩い黄金、肌は北方の新雪のように白く、瞳は海を映したような青。髪が自慢なので被り物はしないが、一方で肌焼けは嫌う為、常に長袖で過ごす。酒と音楽と歌が好きで、道端や広場から歌声が聞こえてきたら、出所は大抵酔ったシルハニケル族のエルフだ。
もう一方のエルフ族がヘルバルプス族。ルルブム大陸の南西、ポーンス島の西に位置するパラニア大陸東端の《白草の王国》を治める厳格な一族である。陽光を弾く白金色の毛髪、陶磁器を思わせる白色の肌、そして瞳に深緑を湛える彼らは非常に自尊心が高く、他種族を例外なく下に見る。その為かどこへ行っても厄介ごとの原因になり、それはウシャールティでも同じだった。
街の面倒ごとの原因はヘルバルプスのエルフだけではない。道一杯に広がって肩で風を切りながら歩く、青白い肌に灰黒色の頭髪の傭兵集団もそうだった。彼らはパラニア大陸から渡ってきた戦闘民族、オルキー人とサマリ人だ。彼らの故郷であるオルキア王国とサマレア王国は元々一つの国家であり、サマレアの独立とその後の領土争いを巡って激しく対立している。しかしウシャールティの他の住民から見れば両者の区別は難しく、オルキー人にしろサマリ人にしろ、短気な迷惑者として一括りにされていた。
「……他にこの大陸の最北にゃシパールっつードワーフ族の王国と、岩石人たちが治めるセプルって国がある。シパールのドワーフたちは頑固だが道具作りが上手い。この街にもそれなりの数が暮らしてる。だが、セプルの岩石人たちを見ることはまず無いな。あんた、岩石人なんて知らねェだろ? とにかく珍しい種族でな、全身の殆どがかてェ灰色の鱗みてェな皮膚で覆われてンだ。石の声が聴けるらしいんだが、見た目のせいで誰からも差別されるから滅多に外に出てこないのさ」
旅人はいつか岩石人の国にも行ってみようと思いつつ、ヴァークの黒い肌に目を向けた。
「ところでヴァークさんはどこの出身なんだ? 肌の色を見る限り、ピアリタの人間たちに似ているが……」
用心棒は遠ざかっていく商人の集団を見ながら笑った。
「確かに似てるが、俺はピアリタ人じゃねェ。俺の両親はここからずっとずっと南西にあるミラダ大陸のシュキラっていう国の出身だ。もっとも俺はこの街で生まれ育ったから、シュキラの風景は知らねェ。ただ話を聞くにゃ、この街よりもろくでなしの多いところらしい。ついでに言うと俺が属している黒影商団の連中は、殆どが俺と同じで南方に出自がある奴らさ」
言いながらもヴァークの長い足は前へ動き続ける。彼の歩幅は大きく、名無しの旅人は付いて行くのも一苦労だった。
「旅人さんよ、この街で長く過ごすんならそれぞれの民族の特徴はよく覚えときな。俺もそうだがこの街の住民は民族同士で派閥を作り合ってる。しきたりや信条ってのも全部ちげェから、そこを間違えると面倒のもとだ」
不意にヴァークが立ち止まった。目の前には街路樹が立ち並ぶ大きな通りが、薄桃色の敷石の本道と直角に交差するように東西に延びていた。この大きな通りがウシャールティの第三区と第二区を分ける境界線だった。だがヴァークはその境界線を越えることは無く、十字路の右手前にある細い裏道を曲がっていった。裏道は石畳で綺麗に舗装されていたが、幅は大人二人がやっとすれ違うことのできる広さで、建物の間を縫うように延びていた。ヴァークと旅人が薄暗い通りを進むたびに、足元から黒ネズミがチチチと鳴きながら素早く逃げ出した。
この迷路のような裏路地は一体いつ終わるのだろうか。旅人が微かに不安を覚えながら、苔むした黄褐色の石壁を曲がった瞬間、彼女の視界にごくごく小さな広場が現れた。広場の中央には赤い実を鈴なりに付けた一本の木が植わっており、小鳥が飛び回っては地面に落ちる実を夢中で啄んでいた。誰もいない広場を包む午前の柔らかな光の中で、旅人は思わずぼうっと立ちすくんでいたが、そんな彼女を尻目に用心棒の大男は中央の樹木の横を通って広場の奥に佇む小さな店へと入っていった。続けて暖簾を潜った旅人の女の目に映ったのは、色の褪せた幾つもの木棚とその上に雑然と並べられた色とりどりの原石や宝飾品たちだった。やや薄暗い店内に差し込む陽光に照らされて、宝石たちは淡い光を四方へと放っていた。輝きに魅せられて旅人が黄金色の原石に手を伸ばそうとしたその時だった。店内の中ほどからしわがれた大声が響き渡った。
「いやったあああああ! 白面が三つ! こりゃ今回は私の勝ちだね!」
声の主は、分厚いレンズの眼鏡を掛けた白髪の老婆。店の中ほど、向かい合った二つのソファのうちのひとつに腰掛けて、歓喜の声を上げていた。磨かれた木のテーブルを挟んで向かいのソファに座る茶色の短髪と鷲鼻が目立つ老婆が、テーブル上に転がる三つのサイコロを見て鼻を鳴らした。
「ふん、最後に30点取ったからって何さ。あんたは三回全て終えて全部で40点。ところがあたしはまだ二回しか振っていないけど、もう既に36点だ。あたしの番はあと一回残ってる。負けるわけないさね」
眼鏡の老婆は余裕たっぷりの鷲鼻の老婆を睨んだ。鷲鼻の老婆はそんな視線など意にも介さず、手元の金属製のカップの入り口を右手で塞いで激しく振り始めた。六面を異なる色で塗られた三つのサイコロがカップの中で踊り回り、カラカラと高い音を響かせた。そして鷲鼻の老婆がテーブル上にサイコロを放り出すと、眼鏡の老婆は目を見開き、前のめりになった。彼女の隣に座る細目で小太りの老婆は既に最下位が決まっていたので、別段慌てる様子も無く、微笑みながら勝負の行方を楽しんでいた。
テーブル上に躍り出た三つのサイコロの面は、白、白、……そして黒。途中まではにやけていた鷲鼻の老婆は黒面が上になったサイコロを見るや、その顔を引き攣らせた。対して眼鏡の老婆は満足そうに頷いた。
「黒の面が一個でも出れば、あとの二個が何色であってもその番は0点となる。……だね?」
鷲鼻の老婆はぶるぶると身体を震わせ、悔しそうに歯軋りを響かせた。
「いよっし! 残念だったねえ、ネルバ! たまには負ける悔しさを味わいなさいな。今回の半額券は私のものだよ!」
鷲鼻のネルバが唸っているのを横目に、勝者となった眼鏡の老婆は隣に座る小太りの老婆と手を合わせて黄色い声を上げた。盛り上がる二人に割って入るように、用心棒のヴァークが大きく咳払いをした。気付いた老婆たちは一斉に男の方へ顔を向けた。すると、眼鏡の老婆の目が途端に輝き出す。
「あらぁ、用心棒の旦那じゃない! もしかして私たちを遊びに誘いに来てくれたのかい? 今日はどこに行こうかしらねえ」
「冗談言うんじゃねェよ、ラダ婆さん。まったく毎日放って置かれてるあんたの旦那が気の毒でしかたねェ」
「あらまぁ、嫌ね。あんな老いぼれ、賭けの相手にもなりやしないんだから、しょうがないじゃないの」
からからと笑うラダには取り合わず、ヴァークは薄暗い店内の端から端にまで目を通した。目当ての人物を見つけられなかった彼は、ラダの隣に座る小太りの老婆に声を掛けた。
「ところでよ、マロタ婆さん。あいつ、どこ行ったか知らねェか? また奥で寝てンのか?」
マロタは細い眼を更に細めて笑いながらかぶりを振った。彼女の皺だらけの指が差したのは、店内の奥に佇む螺旋階段だ。
「大将さんは今、地下室に行っていますよ。私たちの為に半額券を取ってきてくれているの」
途端にヴァークは呆れたように笑い出した。
「おいおい、また半額券か。あんたらも熱心なもンだな。毎回毎回、半額券なんて配ってたら、あいつも損ばっかじゃねェか」
「なーにを言うさね! 損ばっかなんてとんでもないよ! この店はあたしら常連が支えてるのさ。もっと感謝してもらってもいいはずだよ」
半額券を逃して意気消沈していたネルバもここぞとばかりに声を上げた。老婆たちと用心棒が向かい合って笑っていると、その声を遮るように階段を上がってくる軋んだ足音が店内に鋭く響き渡った。
「……感謝だあ? 毎回朝っぱらから居座る挙句、値打ちもんを半値で買い漁っていくババアどもが何言ってやがる。で? 今日は誰が勝った? いつも通りネルバだろ?」
黄ばんだ紙を左手に鷲掴み、猛禽を思わせる鋭い眼をした男が老婆たちのもとに近づいて、ネルバの隣にどかっと腰を下ろした。そしてくしゃくしゃの半額券を机上に放り出すと、右手に握った酒瓶の蓋を開け、勢いよく呷った。男が顔を上に向け喉を鳴らす度、毛先だけを真紅に染め上げた長い金髪が揺れ動いた。彼が瓶の中身を空にしてテーブルの上に置くと、ラダがそれを待っていたかのように身を乗り出した。
「レイ! 違うのよ、今日は! 今回の半額券は私のものだよ」
すると雑貨屋の店主は意外そうに目を丸くして、隣に座る鷲鼻の老婆を見た。
「へえ、そりゃ驚いたぜ。ついにてめえの連勝記録も途切れちまったってわけか、ネルバ。残念だろうが今日は定価で買って行ってくれや。ほら行った、行った」
ネルバは心底悔しそうに唸り声を上げると、立ち上がって商品が並ぶ棚の奥へと消えて行った。その後を追うラダは対照的ににこやかな顔で、足取りも軽快だった。最後に細目のマロタがゆっくりと腰を上げて、ヴァークと名無しの旅人に会釈をして行った。三人の老婆が買い物の為にいなくなると、ヴァークは当然のように店主の向かい側に尻を落ち着けた。雑貨屋の店主は身に纏った裾広の衣の胸元に手を突っ込み、中から二本目の酒瓶を取り出した。そして木のテーブルの下方にある取手を掴んで開き、陶器のカップを引きずり出すと、その中に酒を並々と注いで、用心棒の大男に手渡した。雑貨屋の店主が、所在なさげに佇む名無しの旅人に気付いたのはそれからだった。
「ところでよ、ヴィシュ。この若い女は誰だよ? お前、まさか俺の為に客連れて来てくれたのか? こりゃあ明日は朝から雪が降るかもしんねえな」
ヴァークは三分の一ほどを飲んだ酒を置いた。
「ちげェよ。客ぐらい自分で見つけてくれや。……彼女はな、ランサルさんの店で求人を見てよ、お前の店で働きたいんだと。店の場所が分からねェだろうから、俺が案内してやったンだ。せっかくだから面接でもしてやってくれ」
雑貨屋の店主は気怠そうに足を組み、テーブルから少し離れて立つ旅人をじっと見つめた。翡翠色の瞳は眼光鋭く、他人を委縮させる雰囲気を纏っていた。その剣呑な目付きに旅人の女は一瞬気圧され、喉を鳴らしたが、緊張を振り払うように頭を下げた。
「よっ、よろしく頼む……。いや、よろしくお願いします!」
しんと続く沈黙に耐え切れず、旅人がそろそろと顔を上げようとした瞬間、おもむろに雑貨屋はソファから立ち上がった。
「んじゃ、採用な。共通語が話せるんだったら問題ねえよ。仕事は明日から教えてやる。……ああ、あとそうだな。ランサルのとこで求人を見たってんなら、てめえ、どうせ流れの旅人だろ? この街に家がねえんなら、店とは別の離れの部屋を貸してやるけど、どうするよ?」
旅人の女が信じられないという顔で返答に窮していると、雑貨屋は目に見えて苛立ち始めた。
「だから採用だって言ってんだろ。何度も言わせんじゃねえ。それで? 住み込みの部屋は貸した方がいいか? 貸さなくてもいいのか? どっちなんだ?」
女はようやく我に返り、男が自分を雇うと言っていることに気が付いた。
「……確かに余は旅の者だが、部屋まで貸してくれるのか? 貸し賃はいくらなのだ?」
「貸し賃だあ? んなモン要らねえよ。その代わり、部屋の掃除はてめえがやれよ」
二人のやり取りを横で聞いていたヴァークは、呆けたような表情で、酒を飲むことも忘れているようだった。
「お、おいおい、レイ。お前、普通は面接くれェするモンじゃねェか? ダチにこんなこと言いたかねェが、そんなンだから毎回毎回、人を雇っても長続きしねェんだぞ」
友人の説教じみた小言を耳にした雑貨屋の男は、露骨に嫌そうな顔を見せ、話は終わりだとばかりに酒瓶に残っていた酒を飲み干した。
「ヴィシュ、お前はこの街の人間にしちゃ良いヤツだが、小言が多過ぎんのが唯一の欠点だ。いいか? 俺はこの店の主で、雇う側なんだ。長続きするように気を配るべきなのは、俺じゃねえ。雇われる方だ。それが筋ってもんだろ?」
「……レイ。俺もお前のことが好きだからよ、優しさとして欠点を教えてやろうと思ったンだが、お前の欠点は多過ぎてどこから注意したらいいのか分かんねェわ」
ヴァークは完全に呆れ返った様子で首を振っていたが、雑貨屋のレイは何でもないような顔をしていた。
「そりゃ最高の褒め言葉だな、ヴィシュ。欠点のねえ人間なんざ、人間じゃねえ。魔物なんかより遥かに気色がわりいってもんだ。その点、欠点だらけの俺は最高に人間らしい人間ってこった。だろ?」
ヴァークはもはや何も言わずに、目を閉じて酒を飲み始めた。そんな様子を肯定と受け取ったのか、レイは満足そうな顔をして、旅人の方に向き直った。心なしかその顔は先ほどよりもずっと晴れやかだった。
「じゃーよ、旅の女。てめえがどれだけ長く続けてくれるか知らねえが、当分の間はよろしく頼むぜ。俺一人じゃ、あのババアどもの相手もそろそろきついと思い始めてた頃だし、ちょうどいい時に来てくれて助かるよ。てめえは顔もいいし、店の前に立っててくれりゃ客の数も増えそうだから期待してるわ」
部屋を案内すると言って歩き出した男の背中を見ながら、旅人は暫し呆気に取られていた。ヴァークが言っていたことは間違いではなかった。この男は癖が強い、強過ぎる。野蛮で粗野で、いかにも暴力的だ。出会ってまだ僅かな時間しか経っていなかったが、旅人の女が雑貨屋の男に抱いた第一印象は最悪だった。これほど傲慢で口の悪い人間は、場末の酒場にだってそうそう居ない。男は、彼女が今まで関わったことのない類の人間だった。
……だと言うのに。いや、むしろだからなのか、旅人はそれまでに感じたことのないほどの人間的な興味を、目の前の傲岸不遜な男に覚えた。どうせこの女だって長く続きはしないと、そんな風に高を括っているこの男の鼻を明かして、腹の底を暴いてやったら。目の前の悪漢は何を言うのだろう、どんな顔をするのだろう。その時、自分はどんな感情を抱くのか、旅人はいまや知りたくて仕方なかった。
(……面白そうだ)
目的を見失いかけている長い旅路。その中で彼女はいつ振りかも思い出せないくらい久々に、沸々と湧き上がる高揚感と反骨心に胸を高鳴らせた。口汚くて失礼な態度のこの男を見返して、絶対にぎゃふんと言わせてやる。どうせ何の手掛かりも見つかっていないのだから、旅を再開するのはそれからでも遅くない。内心でにんまりと笑い、女がやる気を固めた時、雑貨屋の男がふと思い出したように後ろを振り返った。
「おー、忘れてた。そういや名乗ってなかったわ。……俺は、レイニオ・アルバーシュ。街の連中は大抵レイって呼んでくる。女、てめえは何て言うんだ?」
その質問を待ってましたとばかりに、旅人は笑みを浮かべた。ちょうどいい、まずは手始めにここから驚かせてやろう。
「余の名前か? ふふっ、余はな……」




