表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

1話 名無しの旅人

 名前を呼ばれる。物思いから呼び戻される。空を切る風が頬を撫でて行く。眼下を見る。森が、山が、川が、集落が、次から次へ後方に流れゆく。そっと、笑う。硬く冷たい身体に肌を寄せる。そしてまた名前を呼ばれて……。

「……いった……!」

 地べたに転がる石ころでも踏みつけたのだろう。荷馬車は大きく揺れて、今日一番の振動が荷台を襲った。簡素な屋根を支える柱のひとつに頭を預けていた旅人は、打ち付けた後頭部を摩りながら呻き声を上げた。先ほどまで見ていたぼんやりとした夢は、無慈悲な痛みのせいで今や遠い彼方へ霧散してしまった。未だに重たい瞼を擦る頃には、もはやその内容も思い出せなくなっていた。

 北の果ての大陸。その最南端に位置する港湾都市ルシーブを旅人が出立したのは、早朝のことだった。北方ならではの冷風を避けるべく、いや或いはその身を周囲の目から覆い隠すべく、灰色の粗いローブに身を包んだ旅人は大街道をひた走る荷馬車の隅に縮こまっていた。空を見ればいまや時は夕刻。陰鬱な午後の曇り空は何処かへと消え、橙色の光が空を染め上げている。辺りには、旅人が乗っているものと同じような荷馬車の群れが大街道の上にあった。その数は数えるのが億劫になるほど多い。ひっきりなしに行き来する荷馬車の中には、仮眠を取る者、歓談を楽しむ者、早めの夕飯を頬張る者など、旅の風景が無数にあった。

 夢から覚めた灰色の旅人も周囲の荷馬車にぼうっと目を向けながら、次なる目的地に想いを馳せていた。この調子だと目指す王都に辿り着くまでにあと数日は掛かるだろうか。しかし急ぐ旅でもない。旅人は考えるのをやめ、中途半端に終わった眠気を散らすように大きく欠伸をした。伸ばした背筋が痛み、フードの下で旅人の顔が歪んだ。ずっと同じ姿勢だったからだろう。凝り固まった肩を揉み、首を回した時、旅人は行く手のすぐ先に予想もしていなかった光景を見つけた。大街道の両側にへばりつくようにして都市が広がっていたのだ。突如現れた大都市と荒野の境界線には石壁が立ち、街道で分断された都市の西側と東側を繋ぐようにして、街道を跨ぐ巨大なアーチ状の橋が架けられていた。

「なんだ……随分と早く王都に着いたものだな」

 思っていたよりも早く目的地に辿り着いたことで旅人は幾分か安堵したような、だがどこか寂しそうな声音で呟いた。生粋の旅人にとって旅が短い時間で終わってしまうことは、案外名残惜しいものでもあるのだ。

「おいおい何言ってるんだ、あんた。あれは王都なんかじゃないさ」

 旅人は再び荷馬車の中を振り向いた。声を掛けてきたのは同じ荷馬車に乗る男だった。厳めしい顔つきにさも可笑しそうな笑みを浮かべた浅黒い肌の男は、右手に持った酒瓶を一気に呷った。すぐに中身を空にすると、彼はきょとんとした様子の旅人を見て笑い声を上げた。男の頬に皺が刻まれ、左目の下に走る刀傷も歪む。

「その様子だと、あんたこの国は初めてだな。ここダルファナに初めて来る奴は大体皆、あれを王都だと勘違いするものさ」

「……では聞きたいのだが、すぐそこに見えるあの街は一体何なのだ?」

 刀傷の男は口元をにやりと曲げた。よくぞ聞いてくれたとでも言いたげな様子だった。

「あれはな、誰にも支配できない無法の街さ。光と影が交差する掃き溜めの街、眠らない大都市ウシャールティだ」

 ウシャールティ。灰色の旅人がその不思議な響きの都市の名を反芻しているうちに、荷馬車は既に街の入り口へと差し掛かっていた。大街道を往来する荷馬車の数はますます増し、人々の喧騒が大きくなる。先の方には大街道の上を東西に横切るアーチ状の大歩道橋が今やはっきりと見え、その上をひっきりなしに行き来する住民たちの影も確かめることができた。

「俺は商人でね。このウシャールティのもっと先にある王都まで行くんだが……。ところで顔の見えない旅人さんよ。あんたは一体何を求めて旅をしているんだい」

 旅人は商人が投げかけてきた突然の質問に面食らい、顎に手を当ててしばらく唸った。そして絞り出された答えはやけに自信の無さそうなものだった。

「……はっきりと説明できない。ただ……自分が何者なのか、それを探す為にずっと旅をしておる」

 ほう、と呟いた商人は面白そうに目を見開き、茶褐色の口髭を撫でつけた。

「訳アリってやつかい。だったら王都に行く前に一度この街に寄ることを勧めるよ。ウシャールティにはなあらゆるカネと情報が集まる。あんたみたいな訳アリさんには打ってつけの街さ。……ほら、もうすぐそこに関所が迫ってきてるぜ」

 旅人は外に目を向けた。荒野と都市を隔てる石壁に密着するように背の高い建物が建てられている。いわば監視塔だろう。そこから大歩道橋の手前までの一帯には、街道沿いに石造りの頑強そうな建物が並んでいた。その前に乗客を乗せた荷馬車たちが次々と立ち止まり、建物の中から街の衛兵たちが緩慢な動きで現れる。衛兵たちに促され、荷馬車を降りた訪問者たちは順に関所の内部へと吸い込まれていった。その光景を目にした灰色の旅人は商人に背を見せて、前で手綱を握る御者へ大声を掛けた。


◇◇◇


 もうすぐ日も沈むというのに随分と賑やかな街だ。街の一番南にある関所の一帯から解放された旅人は、その関所のすぐ北側にある大広場の縁に立ち尽くしながら、そんなことを思った。広大な都市の南部に掛かる大歩道橋の付け根に広がる広場は、丁寧に研磨された白い石材と黒い石材で彩られた美しい場所だった。しかしその美しい白黒の石畳の上では、酒に酔った者たちが踊るように歩き回り、中には身体を折り曲げて嘔吐している者までいた。更には酔っ払いを介抱すると見せかけて金品を掠め取っていく者や、酒の勢いに付け込んで娼館に呼び込もうとする女たちまでいる始末。人々の往来とともに罵声があちこちで飛び交う南の広場は夜の静けさを掻き消すくらいに混沌としていた。

 旅人は首を傾けてすぐ後ろに広がる関所の一帯を見た。背の高い柵は今や完全に下ろされ、警備の衛兵も石造りの建物の中に引っ込んでいた。建物の窓辺からは灯りが漏れ、時折内側から兵士たちの笑い声が聞こえた。一日の仕事を終えて束の間の酒を楽しんでいるのだろう。

 時間が時間だっただけに関所の端にでも泊めさせてもらえればと旅人はうっすらとした期待を持っていた。だが生憎、ウシャールティの関所を守る兵士たちに慈善の心は無かった。街に入る者の審査さえ氏名と簡単な人相書きの記録だけで終え、身分を証明するものの提出すらも厳格に求めないような衛兵たちだ。自分たちの本来の仕事ですら満足に行わない彼らに、それ以上の優しさを求めるなど、まったく無駄なことだった。

 幸いなことに旅人は今までの旅路の中でそれなりの路銀を稼いでいたので、宿さえ見つかれば路頭に迷うことは無かった。関所に宿の役割を求めたこと自体がそもそも筋違いだったのだと気を取り直し、旅人は広場を真っ直ぐ北に向かって歩き始めた。広場の北西部一帯は特に治安の悪い娼館地区だと衛兵から聞いていた為、広場の真北に広がる商業地区を目指す。何人もの酔っ払いをひらりと躱し、真新しい吐瀉物の上を何度も飛び越えた後、旅人は広場を渡り切った。目に映るのは未だに街灯の光と人々の喧騒で彩られた商店街だった。やや広めの本道はごつごつとした薄桃色の石材で拵えられ、無秩序な街の中に幾つもの側道を伸ばしながらぐねぐねと曲がって先の方へ消えていく。道に迫り出すようにして屋台が軒を並べ、外に置かれたテーブルはどこもかしこも食事と酒を楽しむ客で満席だった。切れ目なく声を掛けてくる店の呼び子たちと酔いの回った客たちを尻目に旅人は本道を歩き進んだ。全身を粗末な灰色のローブで覆い、きょろきょろと辺りを見回す様は傍から見れば不審者のそれだ。だが、ウシャールティの酔いどれたちは誰も灰色の旅人のことなど気にしない。この眠らない街はどんな者でも受け入れるからだ。全てを捨てて逃げてきた逃亡者も、おぞましい罪を犯した大罪人も、はたまた顔を見せないさすらい人も。

 しばらく歩き、本道から右手に折れ曲がった路地の先に旅人は一際大きな店を見つけた。店の軒先には木製の大きな看板が立っており、何を営んでいるのかを示すシンボルが刻まれていた。上から順に、持ち手の付いた大きなジョッキ、三日月に重なる鳥の羽毛、紐でまとめられた筒状の巻物。それぞれが酒場、宿屋、仕事の斡旋所を示すものだ。旅人は真ん中と一番下に刻まれた二つの印を見て満足げに頷き、店の木戸を引いた。軋んだ音を立てて扉を開けると、旅人は店内に広がる酒臭い空気と人々の騒ぎ声に飲み込まれた。酒場は円形で中央に大きな支柱が立っている。テーブルはざっと見ただけでも三十ほど。それぞれのテーブルには椅子が六つ並べられていて、どのテーブルも満席だ。奥には忙しさで混迷を極める厨房が見えた。そのすぐ右横には厨房とは対照的に、白髪の男が一人立つ落ち着いた雰囲気のカウンター席があった。客が誰も座っていないのを見るや否や、旅人は迷いなく奥のカウンター席に向かい、グラスを磨く男の正面の席に座った。

「……ようこそ、いらっしゃい。旅のお方と見受けますが、この店は初めてですか?」

「ああ、先刻着いたばかりだ。貴方が店主か?」

 白髪の男は微笑みながら頷いた。棚に並んだ無数の酒瓶を背後に立つ店主は、白髪を綺麗に後ろへ撫で付け、白い髭を口元に蓄えた背の高い老人だった。

「見ての通りもはや老体ですが、常連さん方のお陰で未だに続けさせてもらっていますよ。最初はね、このカウンター席だけだったのですが、この街もどんどん人が増えたものだから、今は御覧の通り。……まあ少し騒々しいですがごゆっくりしてください。二階と三階では宿もやっておりますから、もし良ければそちらもどうぞ」

「それはちょうど良かった。睡眠は何よりも大切だ」

 寝床の心配が無くなった旅人は、店主の後ろに並ぶ色とりどりの酒瓶を眺めてにやりと笑った。

「だが睡眠と同じくらい酒も大切だ。……店主、お任せで一杯頼む」

 老人は静かに笑って背後の棚から酒瓶を二本見繕い、台に並べた。木の栓を開け、磨いたグラスの中にそれぞれの酒を半分ずつ注ぐ。溶け合う酒を木製の棒で軽く掻き混ぜ、最後に少量の氷の塊を入れ、白髪の店主は旅人に酒を差し出した。

「お待たせしました。街の郊外で採れるナランの実の果実酒と、イファの実と若葉を発酵させた酒を合わせた一杯です。爽やかな酸味と苦味を上手く混ぜたつもりです。お口に合うと良いのですが」

 旅人はグラスに口を付けて薄い橙色の酒をゆっくりと喉に流し込んだ。最初に強めの苦味が広がり、後から果実の酸味が苦味を包み込む。喉元を過ぎる熱さをしばらく楽しんだ後、旅人は美味いと満足げに一言呟いた。

「それは良かったです。……ああ、ところで申し遅れました。私はランサルと言います。これも何かの縁です。よろしければ今後ともご贔屓を。失礼でなければお客様のお名前を伺ってもよろしいですか」

 灰色の旅人は少しずつ氷の溶けてゆくグラスをカウンターの上に静かに置き、脈絡もなく小さな笑い声を上げた。酒場の主は名を尋ねたのは不味かったかと思い、木製の棒を拭く手を止めた。

「申し訳ありません。いきなり不躾なことを……」

 旅人は笑いながら手を振って、謝る店主を遮った。そして褐色の細い指で長衣のフードの端を摘まんで、ゆっくりと捲り上げた。

「いやいや貴方は何も悪くない。名前……名前か。悪いが余は、どこに行っても名乗らない。……いや、名乗れないのだ」

 旅人は粗末な灰色のフードを完全に取って首の後ろへ畳んだ。白髪の老紳士の視界は一瞬の間、全てがくすんだ灰色に染め上げられた。ただ一点、目の前にある女の姿を除いて。旅人の滑らかな褐色の肌は、酒場の安っぽい灯りのもとでも艶めかしい輝きを見せた。一束に纏められた長髪は、毛先に向かい濃い紫から鮮やかな青に変わっていく、何とも面妖な毛色をしていた。言葉を発することも忘れた酒場の主を前に、旅の女は黄金に光る眼を細めて疲れたように笑った。

「余は名無しの旅人。忘れた自分の名前と過去を探す哀れな女だ。どうか好きに呼んでくれ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ