帰郷
潮風が頬を撫でる。生温い風。磯の匂いに顔をしかめる。フェリーとは名ばかりの、渡し船と言ったほうがしっくりくるような船から、半井都は港へと降り立った。都の他に降りる者はいない。瀬戸内にある小さな島の、限界集落と呼ばれるこの場所が、都の故郷だった。
「変わってないな」
都は誰にともなくそう呟いた。この町は変わらない。今も昔もずっと。変わらないことに耐えられず、都はこの町を出たのだ。もう、十年も前に。
都はこの町が嫌いだった。何もない町だ。あるのは古い地縁と、因習と、夏ミカンの樹だけ。この町の住人の大半は漁師か夏ミカン農家で、都の実家もその例にもれず、夏ミカン農家だった。都は農家の一人娘として当然のように家業を継ぐことを期待されて育ち、そしてその『当然のよう』な両親の要求に激しく反発して、高校卒業と同時に家を出た。私は両親の願望を叶える機械じゃない。成し遂げたい夢も、未来への希望もあった。そしてそのどちらも、この小さな島には無いものだった。
都は上京し、奨学金で大学へと進んだ。東京は何もかもがきらびやかで、故郷で手に入らないあらゆるものがここにはある気がした。卒業後はそれなりに大手と呼ばれる企業に就職し、恋人もできた。故郷を捨てたことは正しかった。そう思っていた。
しかし東京は、都が思い描いていたような楽園ではなかった。運命の相手だと思っていた男には別の女がいて、問い詰めると手ひどく振られた。傷心で仕事が手に着かず失敗を繰り返した彼女に、相談に乗るという名目で近づいてきた上司とは泥沼の不倫関係になった。妻と別れるという言葉を信じて待ち続けたが、五年が経過しても状況は変わらなかった。別れを切り出した彼女に上司は態度を急変させ、ささいな失敗をあげつらってはひどく叱責されるようになった。不倫の噂も職場に流れ、都は会社に居場所を失って逃げるように退職した。
愛も、仕事も、居場所も、何もかもすべて失くしてしまった。もっとも、愛は最初からなかったのかもしれないが。いずれにせよ、もはや東京は都にとって夢でも希望でもなくなっていた。小さなバッグに入るだけの荷物を持って、他のものはすべて処分して、都は東京を引き払った。そして、東京を引き払った後に向かう行先は、都には一つしか残っていなかった。大嫌いだった故郷以外、彼女には何も残っていなかった。
港から実家へと続く道を歩く。人影はまるで無く、数匹の野良猫――地域猫と呼ぶのだったか――が道端にだらしなく寝そべっているのが見える。不愉快なほどに青く澄んだ空には、二、三羽の海鳥が飛んでいた。
――ふぅ
足を止め、我知らずため息を吐く。バッグの肩紐が肩に食い込み、都はうらめしげにバッグを見遣った。バッグの重さはそのまま、都の気持ちの重さだった。
「お母さんみたいな生き方、私は絶対にしたくないのよ!」
十年前、都は母にそう言って家を出た。そのときの母の、寂しそうな、苦しそうな顔は、今でもはっきりと憶えている。父は良く言えば昔気質の、悪く言えば横暴な男で、農家の嫁として夫に尽くし、家族のために身を粉にして働く母の姿は、古く閉塞した田舎の呪いそのものだった。これが自分の未来かと愕然としたのは、中学生のころだっただろうか。理不尽に耐え、不満も不安も飲み込んで笑う母は、当時の都の目にはただ臆病に映った。
父は三年前に他界し、母は今、一人で住むには広すぎる家に独りでいるはずだ。果樹園も一人で維持することは難しく、人手に渡ったと聞いた。母はどんな気持ちであの家にいるのだろう。良い思い出など何一つなさそうな、あの家に。
重くなるばかりの足を鞭打つように前に出し、都は再び歩き始めた。実家は港から歩いて十分ほどの距離にある。緩やかな登りが続く。ひび割れたアスファルトが太陽の光を反射している。すれ違う人は誰もいない。
自分の靴音だけを聞きながら歩いていた都の視界に、古い記憶と重なる景色が映った。ブロック塀に囲まれた、広い庭を持つ古い平屋。母屋の隣には作業場があり、収穫した夏ミカンの仕分けや出荷のための箱詰めをしていた。嫌で仕方なかったことを今でもはっきりと思いだせる。それでも少し懐かしいのは、十年という年月の賜物だろうか。
音を立てないように注意しながら、緊張した面持ちで門をくぐる。こそこそする必要などないのだろうが、後ろめたさが背筋を伸ばして歩くことを許してくれない。事前の連絡もせずに突然、十年も音信のなかった娘が目の前に現れたら、母はどんな顔をするだろう。怒るだろうか、罵るだろうか、呆れるだろうか。父親の葬儀にも出席しなかった、不義理な娘を。
玄関の前まで来て、大きく深呼吸をする。インターフォンを押そうとして、指が止まった。ここまで来て逃げたくなる。でも、どこに? 他に逃げる場所がなくてここまで来たというのに? 目を閉じて、もう一度深呼吸をする。意を決し、再びインターフォンに手を伸ばす。インターフォンに指が触れる、その直前――
ガラッ
「あっ――」
唐突に玄関が開いた。玄関を開けた本人は、おそらく人がいるとは思っていなかったのだろう、目を丸くして都を見つめている。白髪交じりの、六十歳くらいの女性。いや、まだ六十にはなっていないはずだ。彼女は三十の時に都を生んだのだから。今、都の目の前に唐突に現れたのは、間違いなく、母であった。
「みやこ……?」
母が信じられないものを見たように呟く。都はここ数日間ずっと考えてきた、母に会ったら最初に言う台詞のリストをすべて忘れて、呆けたように言った。
「お、かあ、さん……」
「都! あんた、いつ!? 言うてくれたら迎えに行ったのに!」
母は都の手を取り、意外に強い力でぶんぶんと振った。その顔は驚きと、そして喜びに満ちているように見えた。都は怒られることも罵られることも呆れられることもなかった。拍子抜けしたように都は答えた。
「うん、ごめん……」
「さあさあ、入って。こんなところに突っ立っとらんと、中に」
母は都の手を掴んだまま、引っ張るように家の中に都を招き入れる。
「出かけるところだったんじゃないの?」
「ええのええの。ちょっと買い物に行こうと思っただけやけ」
母の声はどこか浮ついている。手を離したら消えてしまうと思っているのかと思うほどに、母は固く都の手を握ったまま居間へと向かった。手を引かれながら、頭一つ分背の低い母を見下ろす。白髪が増えたな。少し痩せただろうか。足を悪くしたのか、右足をわずかに引きずっている。十年という歳月がそこにあった。
母は居間に都を座らせると、自分は台所に行き、やかんに水をいれて火にかけた。
「おみやげにもろうたようかんがあるから、出そうねぇ」
ようかんを棚から出して包丁を入れる母に、都は腰を浮かせて「手伝おうか?」と尋ねた。母は首を横に振る。
「ええよ。座っときんさい」
やかんがシューッと蒸気を吹き出し、フタがカタカタと金属音を響かせる。ガスの火を止め、母は棚の扉を開いて茶筒を取り出した。茶筒から煎茶の葉を急須に移し、やかんからお湯を注ぐ。皿に盛りつけたようかんと急須、そして湯飲みをお盆に載せて、母は再び居間に入った。
「でも急にどうしたん。仕事は?」
母がようかんの皿を都の前に置く。木の机がカタリと音を立てた。
「……辞めた」
「ほうか」
一言だけそう答えて、母は湯飲みに急須からお茶を注いだ。煎茶の良い香りが広がる。
「はい、いただきます」
合掌し、目をつむって、母はようかんに向かってお辞儀をする。何かを食べる前の儀式。東京に行ってからはついぞすることがなかった。都も母に倣い、「いただきます」と呟いた。
竹を削りだした爪楊枝でようかんを刺し、口に運ぶ。さらりとした上品な甘さが口に広がった。
「あ、おいし」
「よかった」
思わず口をついた都の言葉に、母は屈託のない笑顔を浮かべた。しわが増えたな。痩せたことで余計にしわが目立つようになっているのかもしれない。
「ちゃんと食べてる?」
都の問いに、母はバツの悪そうな表情に変わる。
「一人だと、作るのもおっくうでねぇ」
「ダメよちゃんと食べなきゃ。足も悪いの? 引きずってたみたいだけど」
「ひざが、ちょっとねぇ」
歳を取ったのよ、母は言い訳のようにそう言って笑った。都は呆れたような顔を作る。そして脇に置いていたバッグから緑色の箱を取り出した。不思議そうな顔で箱に視線を向けた母に、都は少しぶっきらぼうに言った。
「お土産。これ飲んで栄養摂って」
「青汁?」
「そう。一袋で一日に必要な野菜の半分が摂れるんだって」
「へぇ。そりゃすごいねぇ」
「コラーゲン配合でひざの軟骨の磨り減りにも効くんだって」
「はぁー。でも高いんじゃない? そういうの」
「そんなことないわ。初回の注文なら一ヶ月分が通常価格四千九百八十円のところ、千円で買えるのよ」
「それはとってもお得だねぇ。でも初回だけ安くっても、続かないよ」
「大丈夫。定期購入すれば一ヶ月三千三百円で毎月決まった日に新鮮なものを送ってくれるのよ」
「本当かい? それは今すぐ申し込まなきゃ」
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