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願・猫飼い  作者: 杜月 佑衣
3/3

願 猫飼い 3

それから、また。

あっという間に二週間が経過した。

 沙緒は、毎日仕事をかけもちをしながら、必死に働き続け。

 おばあちゃんの家にも相変わらず、十五時頃にお弁当やおかずを届けるのを続けていた。

 沙緒は仕事にも慣れ、てきぱきと動けるようになり。

 おじさんと奥さんも沙緒に頼ってくれるようになり、沙緒は仕事の楽しさを感じられるようになっていた。

 あれほどまでに何もなかった頃が嘘のように、働き続け。

 居酒屋から戻ると、喫茶店の奥の部屋には、拾った時から三倍程、大きくなった猫たち四匹が、沙緒をいつも出迎えてくれる。

 猫たちはすくすくと大きくなり、四畳半ほどの部屋に沙緒と暮らすには窮屈になってきていて。

 沙緒はあともう一ヵ月しっかり働いて、病院へ残りの代金を支払ったら、アパートを探し始めようと思っていた。

「はい。いいよ」

 沙緒は、猫たちにエサを用意してあげると。

 猫たちは一目散に、それぞれの器のところへ走ってきて、一気にエサを食べ始める。

 カリカリという歯でエサを噛み砕く音が、部屋の中にこだましていた。

 沙緒は、これから居酒屋へと働きに行かなくてはならず、

 猫たちが飲む水の器を二ヶ所、新しい水へと取り替えてあげると、いつものリュックを背負って出かける準備を始めた。

 ふと、沙緒は。

 使わないからいいよ、とおじさんがくれた、折り畳みの小さなテーブルの上に目をやった。

 そこには、奥さんがお客さんにお土産に貰った、円形で直径十センチ程の、以前はお菓子が入っていた缶があり。

 沙緒はリュックを背負ったまま、その机の前まで来ると、缶を手に取り、蓋を開けた。

 そこには、二週間前。

 おばあちゃんからもらっていた、白い折り畳まれた紙が入っている。

 折り畳まれた上に『願』という言葉が書かれたものだった。

 沙緒は紙を指で掴むと、、缶をまた机の上に置き。

 手にした紙を両手の指で開いていった。

 そこには沙緒が書いた願い事がある。

 『四匹の猫たちが安心して暮らせるアパートに住めますように』

 開かれた紙に書かれた、『願』という文字の下。

 沙緒が書いたのは、その一文だった。

 沙緒が振り返ると。

 まだ、一生懸命にエサを食べ続けている猫たちの、可愛い四つのお尻が見える。

 ネットを見ていると、キャットタワーや猫用のベッドや、いろんなおもちゃを用意した状態で猫を飼っている人たちばかりで。

 でも、沙緒はどれもこれも満足に与えてあげられてなかった。

 ダンボールの中にタオルを敷き、それを猫ベッド代わりにしていて。

 あとは奥さんからもらった座布団を部屋の二ヶ所に置いているため、そこに乗って猫たちは丸まっていたりする。

 おもちゃも満足いくようなものはなく、百均で売ってる物しか用意できず、遊んであげてもすぐ壊れてしまうため、結局はロープを買ってきてロープを振り回したり、アルミホイルで小さなボールを作って投げたりしては、四匹の猫たちと交互に遊んであげている。

 まず、猫たちが落ち着いて暮らせる部屋を準備してあげたい。

 それは、自分がのびのびと暮らせるためというよりも、猫たちにもっと自由に楽しんでもらいたいという気持ちからだった。

 猫を拾う前、こんなにも猫が大好きになるとは思ってもいなかった。

 それくらい、今の沙緒の心には猫たちがしっかりと居座っていて、猫たちが生き甲斐になってしまっている。

 沙緒が夜中に帰ると、甘えてゴロゴロ言いながらすり寄ってきたり。

 撫でてと言うように、頭を擦りつけてきたり。

 一緒に手作りのおもちゃで遊んでいる時間が、とても幸せで満たされていて。

 それは沙緒の心を、ほがらかに柔らかくしていっているような感じがしていた。

 実家に暮らしていた頃。

 ずっとどこか、ひねくれてしまっていた気がする。

 今の沙緒には、可愛いと抱きしめられる存在も、甘えてくれる存在も居て。

 働いてやりがいを感じられる場所も、自分が関わると喜んでくれる、鎌田のおばあちゃんも居てくれる。

 沙緒は今が一番、幸せだと思うようになっていた。

 沙緒は、願い事が書かれた紙を確認するかのようにじっと眺めると。

 また折り畳んで、『願』という字が上になるようにしたまま、机の上の缶を手に取り、蓋を開けて中にしまい込んだ。

 今すぐでなくてもいい。

 いつか、叶いますように。

 沙緒はそう祈りながら、缶を机の上に戻した。

「じゃあ、行ってくるね」

 沙緒は猫たちに声をかけると、その小さな四畳半の部屋を後にした。

「沙緒ちゃん」

 喫茶店の物置のような部屋を通り抜け、また扉を開けて喫茶店の中へと出てくると。

 沙緒に奥さんが声をかけてきた。

「沙緒ちゃん、最近、鎌田さんどう?」

 奥さんの問いかけに、沙緒は笑顔で答える。

「そうですね・・・たぶん元気だとは思うんですけども。でも、力がない感じには見えます」

「そう」

 奥さんは心配そうに顔を曇らせた。

「どうしたんですか?」

 沙緒が尋ねると、奥さんは、うーんと小さく唸る。

「食事も、朝も昼も半分くらい残すようになったし。食べる気力がないのか、食欲がないのか、どっちなのかと思って」

「・・・そうですよね・・・」

 沙緒は少し視線を下げた。

 沙緒がお弁当を届けに行った時。

 雑談後、前の日の容器を回収して帰るのだが。

 いつも中身は、半分以上残った状態になるようになっていた。

「おじいちゃんに会ってからかなって、気にはなっていたのよ」

 奥さんは心配そうに、息を長めに吐く。

「鎌田さん、本当におじいちゃんが帰ってこれないってなった時、ずっとここでも泣いていてね」

 奥さんの話に、沙緒は思わず息をのんだ。

「おじいちゃんを連れて帰りたい、連れて帰りたいって、毎日ずっと泣いて。でも、息子さんがかなり反対されてね。当初は、施設におじいちゃんを預けたら、自分のところへおばあちゃんを連れて帰るつもりだったのよ」

 沙緒は初めて聞く話に、そのまま耳を傾け続ける。

「おばあちゃんは、おじいちゃんから離れたくないって、泣いてね。必ず連れて帰るんだって言い続けて。無理だって息子さんが説き伏せてもダメでね。息子さんは仕方なく、一度自分が暮らしている県まで戻ったのだけど、何も出来ない分、私たちにおばあちゃんの事を託していったのよ。何かあったらすぐ連絡くださいって言って」

「そうだったんですか・・・」

「おばあちゃんがこのまま元気がないようなら、一度息子さんに連絡しなくてはいけないわね」

 奥さんは心配そうに、また深く息を吐きだした。

「沙緒ちゃん、おばあちゃんの様子で何か心配な事があったら、すぐに教えてね」

「わかりました」

 頼むわよ、とでも訴える奥さんの瞳に、沙緒は力強く頷いた。











沙緒は、居酒屋のバイトに向かいながら。

ふと、ここのところ、気になる事がある事を思い返していた。

 おじいちゃんの施設に行ってからだったかの記憶はないが。

おばあちゃんの家にお弁当を届けて、家に上がって話をし、帰ろうとした時。

 小さな声が、聞こえるような気がしていたのだ。

 それは、気づくと、帰る時だけではなくて。

 おばあちゃんの部屋に居る時も同じだった。

 時々、か細い声が聞こえるような気がして。

 沙緒はそのたび、辺りをきょろきょろとしてしまっていた。

 おばあちゃんは、「どうしたの?」って聞いてきたが。

 まったく何も聞こえていないようなおばあちゃんの顔を見て、沙緒はずっと、気のせいだと思っていた。

 疲れているのかな、私。

 沙緒は首をかしげながら、おばあちゃんの家にずっと通っていたのだが。

 それが、一体なんだったのかを、沙緒が知ったのは。

 おばあちゃんが倒れた後のことだった。











「沙緒ちゃん・・・」

 沙緒はおばあちゃんの手を、しっかりと握りしめながら。

 病室の中で、ずっと眠り続けるおばあちゃんの顔を眺めていた。

 奥さんが沙緒の横で、沙緒に話しかける。

「疲れてない?あまり休めてないんでしょう?」

「大丈夫です。今日は休みなんで」

 沙緒は、隣に居る奥さんにそう言って微笑むと。

 奥さんは困ったように微笑み返した。

 おばあちゃんが倒れている事に気付いたのは、沙緒だった。

 いつものように一五時頃、お弁当を届けに行くと。

 おばあちゃんは、ドアの前でいくら待っても出てこなかった。

 沙緒は何度かピンポンを押し続けたが、中から声も聞こえず。

 近寄ってくるような人の気配も感じられなかった。

 おかしいと思った沙緒は、ポケットの中に入れていたスマホを取りだし、おばあちゃんの家の電話を鳴らした。

 おばあちゃんは家に居るはずだった。

 つい三十分ほど前、「これから行きます」と電話をした時。

 おばあちゃんは、言っていたのだ。

 『待っているよ』と。

 沙緒は、おばあちゃんを呼びながら、ドンドンと力強くドアを叩き。

 その様子にただ事ではないのを感じたのか、心配した隣の家の人が外に出てきてくれ。

 沙緒が、「おばあちゃんが呼び掛けに応答しない」と言うと、隣の人はすぐに近隣に住んでいるという大家さんに連絡をしてくれた。

 沙緒はその間、スマホから奥さんに電話をし。

 とにかく救急車を呼んで欲しいと言われ、救急車を呼び。

 慌てふためいてアパートへやってきた大家さんが、おばあちゃんの部屋の合鍵を使って扉を開けて中へ入って見ると。

 おばあちゃんは、居間の机の側でうつ伏せのまま倒れていた。

 その時、救急車がやってきて、沙緒は救急車から降りてきた救急隊員に駆け寄り、状況を説明すると。

 おばあちゃんはすぐさまタンカで運ばれ、救急車に乗せられ。

沙緒も一緒に救急車に乗り込み、そのまま病院へ向かった。

 おばあちゃんは、くも膜下出血を起こしてしまっていて。

 意識が戻らないまま、緊急手術となり。

長時間の手術が終了した後、集中治療室に運ばれた。

 沙緒は、すぐさま駆けつけてきた奥さんと看病を交代し、その日は居酒屋のバイトに行き。

 次の日は土曜日で喫茶店は休みだった為、朝から病院にやってきて、奥さんと看病を入れ替わろうとしていた。

 奥さんは昨日、おばあちゃんの息子さんに電話をしてくれたのだが。

 息子さんはタイミング悪く、海外に出張中で連絡が取れず。

 息子さんの会社に本人に伝えてもらうように伝言をしたものの、息子さんが帰ってくるのは一週間後とのことだった。

 集中治療室の中にいるおばあちゃんの側で、沙緒はずっと手を握りながら。

 おばあちゃんが助かるように、祈り続けていた。

「沙緒ちゃん、私、おばあちゃんの荷物を少し持ってこようと思うんだけど、離れても大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

 奥さんの問いかけに、沙緒は力強い笑顔で答えると、奥さんは沙緒の肩をぽんと叩いた。

「頼むわね」

 奥さんはそう言うと、集中治療室を後にして。

 沙緒は、ずっとおばあちゃんの手を握り、その手を額につけた状態で。

 ただ、ひたすらおばあちゃんの意識が戻る事を願い続けていた。

 それから三十分後。

 奥さんから沙緒のスマホに電話が入り。

 沙緒はおばあちゃんの手を離すと、一度電話を切ってから、電話が許可されている場所まで移動して、奥さんに電話をかけた。

「もしもし」

 沙緒が、繋がった奥さんに声をかけると。

 奥さんは、せっぱつまったような声で話し出した。

「沙緒ちゃん、おばあちゃんから猫たちの話は聞いている?」

「猫?」

 沙緒の脳裏には、サキとマルの二匹の猫の姿がよぎる。

「サキとマルですか?」

「違うのよ。押し入れの中に居る子猫たちの事よ」

「え?」

 子猫?

 子猫って何?

 奥さんの言う言葉の意味がわからず、沙緒は困惑していた。

「おばあちゃんの家に着いてみたら、何か声がするような気がしてね。着替えも用意しなくちゃいけないしと思って、押し入れを開けてみたの。そしたら中に、六匹の子猫が居て」

 沙緒は予想もしていなかった話に、言葉をなくしていた。

「押し入れの中でずっと暮らしていたみたいで、エサと水とトイレの砂場が置かれているのよ。布団が一枚敷かれた上に、六匹の子猫が歩き回っていてビックリして」

 奥さんはそこまで一気に話すと、沙緒に再度問いかけた。

「おばあちゃんから、猫を増やした話は聞いていない?」

「知らないです・・・全然、聞いていませんでした」

 沙緒はそう言いながら。

 ここずっと、部屋の中に入ると、小さな声がしていたのは。

 子猫たちの鳴き声だった事を知った。

「この子たち、何とかしないと行けないんだけど、どうしよう・・・」

 奥さんは、電話の向こうで困り果てた声を出す。

 沙緒はとりあえず、奥さんに自分が猫たちの様子を見ますと伝え、奥さんに看病を変わってもらうようにお願いした。

 奥さんは快諾し、すぐさま病院へと向かうと言ってくれ。

 沙緒は電話を切ってから、この後どうしたらいいのかを考え始めていた。











 沙緒が、おばあちゃんのアパートへ辿り着き。

 奥さんからもらった、おばあちゃんの合鍵で部屋に入ると。

 そこには、サキとマルの二匹の猫がいて、沙緒が入ってくると、鳴きながら近寄って来た。

「よしよし・・・」

 沙緒は、足元にすり寄ってくる二匹の猫を撫でながら。

 畳の部屋にある押し入れへと目をやる。

 その押し入れに近寄って、扉を開けてみると。

「ミィ」

 小さなか細い声が、何匹か重なって聞こえてきた。

 沙緒が育てている四匹の猫を拾った時よりも。

月齢で言うなら少し大きめに感じる子猫が六匹、そこに居た。

 布団の上をよちよちと歩いたり、布がよれたせいで出来た起伏を登ったりしながら移動をしている。

 ・・・小さいけど、もう、ミルクじゃなくてもよさそうな子たちだ。

 おばあちゃんも、それはわかっていたんだろう。

 押し入れの中に置かれていたエサはミルクや缶詰ではなく、カリカリを少しふやかしたようなものが置かれていた。

 六匹・・・すごい数・・・。

 沙緒はさすがに、その数に圧倒されていた。

 沙緒の足もとには、サキとマルがまたすり寄ってきている。

 うちの子たちと合わせると、全部で十二匹にもなる。

 そんなに自分で育てられるとは思えない。

 沙緒はさすがに、内心焦りに襲われていた。

 どうしたらいいんだろう。

 どうしたら。

 沙緒が困り果てていると、沙緒のジーパンのポケットに入っているスマホから着信音が鳴り始め。

 画面をスワイプして電話を受けると、奥さんの声が耳に届いた。

「沙緒ちゃん、おばあちゃん、なんとか意識を取り戻したから」

「ほんとですか!」

 沙緒は嬉しさのあまり、大きな声を出した。

「でもね、お医者さんはまだ楽観できないって言うのよ。私、しばらくこっちで看病するわね。主人にも言っておいたから」

「わかりました」

 沙緒は、未だ油断のならない状況が続いている事に落胆しながらも、それでも意識を取り戻したことだけは救いだと思っていた。

 なんとか、助かって欲しい。

 沙緒はスマホをぎゅうっと強く握ったまま、心で願った。

「沙緒ちゃん、おばあちゃん、さっき少し話が出来そうだったから、猫の事を聞いてみたのよ。そうしたら、たまたま寄って来た二匹の子猫にエサをあげていたら、どんどんと兄弟らしき猫たちが集まってきてしまって、毎日どんどん増えてしまったんですって。それで困って、とりあえず寄って来たのをすべて家の中にいれて、なんとか家の中で育てようとしていたって言ってたわ」

「そうなんですか・・・」

 沙緒はそう答えながらも、目の前の敷布団の上で、よちよちとおぼつかない足取りで歩き回る子猫たちを眺めていた。

 どうしたらいいのだろう。

 答えの出ない自問自答は続く。

「沙緒ちゃんに、おばあちゃんちに住んでくれていていいから、なんとか育ててくれないかっておばあちゃんが言っててね」

「え?」

 沙緒は目を丸くした。

「え?ここに?」

「そう。その子猫たちをどうしていっていいか、おばあちゃんも困っていたみたいなんだけど・・・沙緒ちゃん、なんとかなりそう?」

「なんとか、ですか・・・」

 沙緒は困った声で呟いた。

 ここに住んで、猫たち十二匹と暮らす・・・?

 沙緒は子猫六匹と、自分の飼い猫四匹と、サキとマルの世話をしながら、毎日、今のように働くことは想像できなかった。

 どうしたらいいんだろう。

 沙緒は何とも言えないまま、黙りこくってしまった。

「沙緒ちゃん、うちの仕事の方はセーブしてくれていいから。もちろん、お願いするんだから、こちらからお給料を減らすことはしないから、その猫たちの事、出来る限り引き受けてあげることは出来る?」

 奥さんの無謀ともいえる提案に、沙緒は困り果ててしまい。

 何も言えないままでいたが、結局は何かしないとどうにもならない事にも気づき。

 沙緒は「わかりました」と短く答えた。

「なんとか、します」

「ありがとう、沙緒ちゃん・・・!」

 奥さんのすがるような声に、沙緒はためらいがちな顔と声で「はい」と答えた。











 沙緒は、押し入れの中に居る子猫たちを、一度一匹ずつ捕まえては全員取り出して。

 両手で抱えながら、子猫の健康状態を確かめていた。

 専門的な事はまったくわからない。

 それでも、この子たちより小さかった子を育てた分、大丈夫かそうではないかはわかる気がしていた。

 沙緒は一匹ずつ確認し、とりあえず、どの子も特に問題はなさそうだと思っていた。

 毛づやも悪くなく、ちゃんと砂場でトイレも出来る。

 カリカリのエサをふやかしたご飯もしっかりと食べるし、顔をそれぞれ見ていっても、目がふさぎがちとか、涙が止まらないなどの、何か病気を持っていそうな感じには見えなかった。

 そこまで確認すると、沙緒は子猫たちをまた押し入れに閉じ込め。

その日のうちに、喫茶店に戻って荷物と飼い猫四匹をキャリーに入れて運び、おばあちゃんの家に簡易的に引越しをしてきた。

大家さんにも事情を話して了承を得、沙緒は猫の面倒を見るという理由で、おばあちゃんの家に一時住むことになった。

沙緒が飼っていた四匹の猫たちは、環境の変化にうろたえ、部屋の端っこで身を寄せ合って怯えていたり、サキとマルを恐れていたが。

可哀想だけれども、事情が事情だから頼むからなんとか慣れて、と、沙緒には四匹の猫たちに願うことしかできなかった。

沙緒は、おばあちゃんの部屋の中を掃除し始め。

タンスや食器棚や本棚の中に詰め込まれている書類などを、綺麗に重ねてまとめていたところ。

重なりあった書類から、沙緒が通っていた動物病院の領収書と、出された薬についての説明書を見つけた。

子猫たちは、何度か病院へ通院している事がわかった。

どうやらおばあちゃんが、なんとか自力で連れて行っていたらしい。

薬もきちんと処方されていて、日数的にもそれらを飲みきっているのが確認できた。

沙緒は、子猫たちを病院へ連れて行かなくても大丈夫という確証が出来た事に安堵し、この子たちをどうするか、居間のテーブルの前の座布団に座って考え始めていた。

沙緒の飼い猫四匹は、沙緒が座布団に座りだした瞬間、わらわらと周りに群がってきて、膝の上に乗ってきたり、肩の上に乗ってきたり、折り曲げた足の側で丸くなって座りだす。

沙緒はその子たちを交互に撫でてあげながら、考え続けた。

 病院に行っていて治療も済んでいるのなら、人にもあげる事は出来るだろう。

 だけど、どうやってあげていったらいいのか・・・。

 沙緒は困りながら、良い手はないかと考え。

 結局、考えてもダメだという結論に達した。

 こうなったら、もう、動くしかない。

 既に時刻は、午後十五時を回っていたが。

 沙緒はそう決めると、必要な物を揃えるために準備を始めた。










 

「・・・いやいや、大変な事になったな」

 おじさんは頭を掻きながら、カウンター席に座って大きめのポスターを作っている沙緒に同情した。

 おじさんはカウンターの向こうに立って、沙緒がポスターを描いている姿を眺めている。

 沙緒が書いているポスターは、子猫六匹を譲渡するためのポスターで。

 四切カレンダーの裏面を四枚貼り合わせて作ったものだった。

 大きさ的にはそこそこあるので、人の目には止まるだろう。

 十色のサインペンで、目立つように字を太くしたり、囲ったりしながら、通る人に見てもらえるように工夫しながら描いていた。

「六匹って、また多いな」

「そうなんですよ。でも、なんとかしなくちゃ」

 沙緒は目立つように、赤字で『急募!』と大きく書いた。

「ケージがあればいいんですけれど」

「それは俺が買ってやるよ」

「ほんとですか?」

 沙緒が、おじさんの提案に顔を明るくすると。

 おじさんは優しく微笑んだ。

「しかし、駅前に座り込んで猫の譲渡を促すなんて・・・上手くいくかな」

「もうこれしか思いつかなくて」

「まぁなぁ・・・」

 おじさんはまた、頭をポリポリと掻く。

「一匹なら、飼ってもいいかなと思うけど」

「ほんとですか!」

 沙緒は、さっきよりももっと声を張り上げ、顔をほころばせた。

「うん。でも一匹だけだけど」

「いえ、十分です。ありがとうございます」

 素直に嬉しそうに笑顔でお礼を言う沙緒に、おじさんは照れたような顔をした。

「しかし、あれだね」

「え?」

「沙緒ちゃんが本当に頑張り屋なのは、働いている姿を見てよくわかってたけどさ。一番最初の出会いあれってなんか、今では思えないね」

 ハハハと、おじさんは小さく笑った。

 沙緒は言われて、ああ、と思い出していた。

「そうでしたね・・・すっかり忘れてました」

「だろ。俺も忘れていたよ」

 沙緒とおじさんは二人で顔を見合わせると、そのまま苦笑しあった。

「・・・あれも猫きっかけだったなぁ」

「そうですね」

 沙緒は小さく微笑みながら、ポスターにでかでかとオレンジのペンで大きな字を躍らせる。

 『どの子も健康でみんな可愛いです!』と。

「聞いていいですか?」

「ん?何を」

 沙緒は、一度間を空けてから、尋ねた。

「なんで私を買おうとしたんですか?」

 ずっと聞きたかった事を。

 沙緒は思いきって、聞いてみる事にした。

 沙緒の問いかけに。

 カウンター越しのおじさんは、少し体の動きを止めた。

「マスターを見た時、優しそうな人なのに、どうしてこんなことするのかなって思ったんですけど、働いてからが余計にずっと思ってました。あんなに奥さんと仲も良くて、見てても奥さんの事も好きそうだし」

 ポスターから目を逸らさずにおじさんに聞くと、おじさんは黙っていたが。

 やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「・・・俺が容子に愛されてないからだよ」

「え?」

 沙緒は思わず顔を上げた。

 何言ってるんだろう、と思ったからだった。

「嘘です。それは絶対ないです」

「いや、そうなんだ。容子は俺を愛していないんだよ」

 おじさんは、沙緒から少し顔をそむけると。

 寂しそうな目を遠くへ向けた。

「だからもうどうにでもなれって。すごくムシャクシャしてて。あんなところに電話してしまったんだ」

 そうだったんだ。

 理由には相槌は打てたけど、沙緒はなんで、おじさんが奥さんにそんな事を思っているんだろう、と思っていた。

 沙緒にはただ、疑問しか湧かなかった。

「マスター、奥さんの事が好きですよね」

「好きだよ。愛してる」

 おじさんは驚くほど躊躇いなく、そう言った。

 沙緒は、そのストレートすぎる物言いにちょっと面食らったが、続けて言った。

「私から見たら、奥さんも同じように思えます」

「そうかな。そうは思えない」

「女性から見てそう思います」

「沙緒ちゃん、処女じゃなかったか?」

 意地悪そうな顔を向けられて、沙緒は思わず嫌悪感を顔に出した。

 おじさんは慌てて、ごめんと小さく呟いた。

「経験がなくったって、相手を好きかどうかって、見てたらわかるとこあると思います」

 沙緒がそう言うと、おじさんは曖昧な微笑みを浮かべた。

「何かで噛み合ってないんじゃないんですか?気持ちが」

「何かって・・・何」

 たぶん、思いもかけなかった言葉だったんだろう。

 おじさんは沙緒を、ちょっと驚いた目で見つめた。

「何かって・・・何かです」

 沙緒はツッコまれると思わず、もごもごと言葉を濁した。

 そのへんは、経験値が必要かもしれないと思っていた。

「気持ちがただ、通ってないだけとか。そんな感じかな」

 もごもごと自信がないように言いながら、沙緒はまたポスターへとペンを走らせる。

「・・・そうだといいけど」

 おじさんの諦めたような言い方に、沙緒はまた顔を上げた。

「それ、聞きました?」

「何を?」

「奥さんに」

「だから何を」

「俺の事嫌いなのかって」

「聞いてないよ」

「じゃあ聞けばいいじゃないですか」

「そんなこと・・・今更聞けないよ」

 今度はおじさんが、もごもごとしだす。

「怖いからですか?もし、本当に嫌いって言われたら」

 沙緒の言葉が図星だったのか。

 おじさんはうっと一瞬顔をしかめると、そのまましゅんとうなだれた。

「沙緒ちゃん」

「はい」

「男ってのは君が思っているよりも、ずっとずーっとデリケートなんだよ」

「デリケートだからって誤魔化していたら、何にもわからないままで、こうかなああかなって言ってるだけじゃないんですか?」

 沙緒の言葉がイチイチ刺さるのか、おじさんはううっと顔をしかめ続ける。

「話さなきゃ分からないことってたくさんありますよ。きっと」

 沙緒はそう言いながら、自分でも何を言ってるのかと思っていた。

 全然、人生経験もないのに。

 めっちゃ偉そう。

 沙緒は自分にそうツッコんでいた。

「そんな気がします」

 沙緒が、湧いてくる気持ちを誤魔化すようにそう言うと、おじさんはまた沙緒から視線を外し。

 やりきれない思いを抱えているような顔で、どこか遠くを見つめていた。












 早朝、六時。

 今日は日曜日。

日曜日は、喫茶店の営業もしない為。

 沙緒は朝から、おじさんが昨日買って準備してくれたケージ二つと、折り畳み式の黒板が付いている看板を持って、最寄りの駅へとやってきた。

 荷物は一度に運べない状況だったので、何度も往復しようと思ったのだが。

 そこはおじさんが車を出してくれると言ったので、沙緒は二台のキャリーに三匹ずつ子猫を入れると折り畳まれているケージと共に車に詰め込み。

 折り畳み式の看板と、おばあちゃんの家にあった、キャンプの時にでも使うようなパイプ式の小さな折畳み椅子を車に詰め込ませてもらった。

 あとはいつものリュックを背負い、おじさんにそのまま駅へと運んでもらうと、沙緒は駅の中に居る誰かに許可を得ることもなく、勝手に人が通りそうな場所にケージを二台置いて組み立て。

 組み立てが終ると、中にトイレになる容器に砂を入れて置き、水やエサを置ける場所も用意して。

 タオルを敷いた、小さなダンボール製の猫ベッドも中に置いてあげると。

 そのケージ二台に、キャリーから猫を三匹ずつ入れた。

 子猫たちは、よちよちと中を歩き回っていたが、そのうちトイレを済ませると、水を飲んだり、子猫同士でじゃれあっていたりしたが。

 やがて、小さなお手製の猫ベッドに入り、身を寄せ合うように三匹は固まりだした。

 それは、もう一台のケージの中の子猫たちもそうで。

 これだと、外からどんな子たちか見えづらいかな、と思ったものの。

 猫の性格を考えても、まだ子猫だという事を思っても無理には出来ないと思い、そのまま見守ることにした。

 沙緒は、その横に、折畳み椅子を置いて。

 ケージの反対側の横には、看板を開いて置いた。

 丸めてリュックに差し込んでいた昨日作ったポスターを、広げた看板にセロハンテープで貼り付けていく。

 日曜日だからほとんど、仕事が休みの人ばかりだろうが、かえってその方が目に留めてくれる人がいるかもしれない。

 沙緒はそう思っていた。

通勤中だと、忙しくて見てくれる事さえないかもしれないから、とにかく今日、必死に頑張ろう。

沙緒はそう思いながら、一度、ケージの前でしゃがみ。

ケージの猫ベッドの中で、三匹ずつ固まって寄り添っている姿を見つめながら、ケージの柵を指で撫でた。

必ず、里親を見つけてあげるからね。

沙緒はそう思いながら、動き回る子猫たちに「頑張ろうね」と声をかけた。












「よろしくお願いします。ほんと、可愛いんで。癒されますよ」

 ケージの前で屈んで、中に居る猫たちを眺めているお母さんと小さな子供にそう声をかけると、沙緒はまた「お願いしまーす」と声を辺りにかけ始めた。

 朝から、ずっと、辺りを通る人たちに声をかけ続け。

 沙緒の呼びかけに、通り過ぎる際、気にしながら行く人には積極的に声をかけて行った。

 大半は、沙緒の方をちらりと見ただけで、通り過ぎるばかりだったが。

 子連れの人や、猫好きらしき人たちは足を止め、ケージに寄ってきてくれていた。

 早朝六時からずっと、一人で譲渡会を始め。

 今は既に、午後十二時。

 太陽は空の真ん中に居座り、沙緒を明るく照らし続けている。

 以前ほど、陽射しは暑くなくなり、過ごしやすくなってきている分、猫と沙緒の体の負担も軽く、沙緒は足を縦横無尽に動かしながら、通り過ぎる人たちへ声をかけ続けて行った。

そこに。

「何やってんの」

 沙緒はいきなり、降ってわいた声にビックリして。

 反射的に声をかけられた方向へ顔を向くと。

 一人の細身の女の子が立っていた。

 明るいピンクのTシャツに、すらりと伸びたデニムのショートパンツから出ている生足が綺麗な子で。

 長い黒髪は、沙緒に向けて顔を傾けた時に、サラリと頬の横へと流れて揺れる。

 年はきっと同じくらいだろう。

でも、その仕草や容姿は、沙緒から見ると少しなまめかしくさえ感じる女の子だった。

 綺麗な子。

 沙緒は素直にそう思った。

 でも、誰だろう。

 沙緒は誰か分からないまま、その子を無表情で眺めていると。

 その女の子は、肩にかけていたショルダーバックを、再度、肩に掛け直しながら、言った。

「元橋さんでしょ。何やってんの、こんなところで」

 沙緒はいきなり、自分の名字を言われてビックリし。

 この人は誰だったっけ、と必死に考え始めた。

「あ、忘れた?だろうねぇ。全然話さなかったもんね、私と元橋さん」

 クスクスと、女の子はおかしそうに笑う。

 その顔はうっすら化粧をしているらしく、ピンクに染まった唇は愉快そうに開いていた。

「吉田ですけど」

 名乗られて、しばらくして。

 沙緒は、ハッと気がついた。

 その人は、高校二年と三年の時、同じクラスだった吉田さんだということを。

 確かにいた。

 綺麗な感じの子だ。

 でも、沙緒は不思議に思っていた。

 なんで声をかけてきたんだろう。

 高二の頃まで、沙緒は友達と思える人たちの輪の中にいたけれど。

 その間も、吉田さんとは一度も関わったことはなかった。

 どちらかというと、吉田さんは、クラスの中でも華やかで明るいグループの中に居て。

 男子といつもワイワイ話しているようなイメージがあった。

 沙緒は割と地味なグループに居たので、よほど連絡事項や伝えてほしいなど、何か理由でもない限り、吉田さんと話した事はなく。

 高三になって、沙緒がクラスの中で孤立し始めてからは、余計に話す事はなかった。

「里親探し?」

 吉田さんは、ケージの横に置かれている看板を上から下まで眺めていた。

「そう・・・ですけど」

「なんで敬語」

 吉田さんは沙緒を見ると、ブッと吹きだした。

 悪かったね。

 沙緒は思わず心で毒づいた。

「同じクラスに居たのに、敬語で話すのおかしいでしょ。やめてよ」

 言い方が上からでカチンと来たが、沙緒は確かに言ってる事はわかると思い、「そうだね」と短く答えた。

「へぇ。エライね。こんなことするタイプだと思わなかった」

「そうだよね。ホントに」

 沙緒がそう言うと、吉田さんはまた吹きだした。

「素直なんだか、ひねくれてんだか、わかんないんだけど」

「ひねくれてるとは思うけど、自分でも」

「いっつも一人だったもんね、三年の頃」

 沙緒には、そう言う吉田さんの顔が。

 勝ち誇っているようになぜか見えて。

 渦巻く嫌悪感に、顔を横に逸らした。

「あ・・・別に悪いって言ってんじゃないよ。誤解しないで」

 吉田さんはそう言うと、ケージの横に置いてある折り畳み椅子の横に、自分のショルダーバックを置いた。

「じゃ、私も参加しよ」

「は?」

 沙緒が驚いて、バックの上に腰を下ろした吉田さんに「ちょっと!」と言いながら近づくと。

 吉田さんは、沙緒にいたずらっぽい目を向けて。

 ピンク色に染まった唇の両端を上げた。

「いいじゃん。お手伝いするよ」

「いや、いらない。必要ない」

「そうでもないかもよ」

 吉田さんはそう言うと、お尻でつぶしていたショルダーバックの横のポケットからスマホを取りだし。

 誰かに電話をかけ始めた。

「お疲れちゃん。あのさ、子猫引き取ってくれる人探してるんだけど、誰かいない?すんごい困ってんの。あ、もちろん、大事にしてくれる人でね。猫飼っていてもう一匹欲しいとかさ。いると思うんだー。そうそう。じゃあ、連絡待ってるね」

 吉田さんは、そう立て続けに電話口の人に言うと。

 スマホをショートパンツの後ろのポケットに差し込んだ。

「協力してるから、いいでしょ」

 またいたずらっぽく見上げてくる目に。

 沙緒は何も言い返せず。

 仕方なく不満げな顔のまま、折り畳み椅子に腰を下ろした。

「そうこなくっちゃ」

 楽しそうに吉田さんが言う言い方を、どこか腹立たしく思いながらも。

 沙緒はまた、通りすがる人に声をかけ始め。

 吉田さんも立ち上がると、沙緒に続いて一緒に動き回りながら、辺りの人に声をかけていった。











 それからまた、六時間が経ち。

 沙緒たちはずっと、駅前の一角で、通りすがる人に声をかけ続けた。

 自宅への帰り道に、たまたま通りすがってケージを見に来てくれた夫婦が、しばらくケージの中を眺めたのち。

家で猫を飼っているのだけど、うちで引き取ってもいいよと言ってくれ。

 明日、喫茶店で引き渡す約束をして、連絡先を交換した。

 また、その後も、二十代らしき女性で、猫を飼いたくて我慢していたけど、これは運命だと思うと言ってくれた女性が居て。

 この人も、明日、仕事が終了後に喫茶店へと出向いてくれる事になった。

 吉田さんが、沙緒に声をかけた時に、電話していた先からも連絡がきて。

 なんと二人も引き取ってもいいと言ってくれている人がいるのがわかり。

 これで、おじさんのところへ行く一匹を含めて、全部で五匹。

 貰い手がついたことになった。

 残るは一匹となった。

「あと一匹かぁ・・・」

 うーん、と、吉田さんは、沙緒の隣で大きく両手を上げて、体を伸ばした。

「どうしよっかなぁ・・・」

 吉田さんは、すでに陽が落ちて暗くなっている辺りを、トン、トン、と体を揺らし、陽気な感じでステップを踏みながら、ケージへと近づいて行った。

 子猫たちは、途中、動き回って疲れたのか、今はそれぞれのケージの端っこで身を寄せ合って眠っている。

「うーん・・・」

 吉田さんは、ケージの前に腰を下ろすと。

 眠っている子猫たちを一匹ずつ、しっかり眺めていった。

「ねぇねぇ、元橋さん」

「何?」

 沙緒はそろそろお開きにして、また明日頑張ろうと思い。

看板に貼っていたポスターを、破かないように剥がしていた。

「私さ、一匹貰おうかなーとか思ってて、今」

「えっ、マジで?」

「そう。マジで」

 吉田さんはそう言いながら、ケージの柵をつつーっと細い指で撫でおろしていった。

「さっき声かけていった人たちさ、どれがいいって言っていたっけ」

「ああ・・・えぇっと・・・」

 沙緒はポスターを丸めながら、ケージへ近付く。

「吉田さんの前に居る茶色の子と、茶白の子かな。マスターは・・・どの子がいいんだろう。まだ聞いてない」

「ふぅん・・・」

 吉田さんはケージの柵をゆっくりと指で撫で続ける。

「私、この子がいいかなぁ」

「どの子?」

 沙緒が、吉田さんが指差した方向を覗き込むと。

 黒猫を指差しているのがわかった。

「あ、黒猫ね。可愛いよ、とても」

「ほんと?」

 吉田さんは、キラキラした目で沙緒を見上げる。

「アニメの映画にもあるじゃん。黒猫で喋る猫。可愛いよね」

「うん。黒猫、私も飼ってるけど、甘えっ子で可愛いよ」

「そうなんだ・・・いいな。やっぱり。この子にしよう」

 吉田さんはそう言うと、沙緒の前へと立ち上がった。

「じゃ、契約しよ、元橋さん」

「連絡先交換ってこと?」

「そうそう」

 楽しそうに言いながら、吉田さんはショートパンツのポケットからスマホを取りだす。

 沙緒も、ジーパンのポケットからスマホを取りだした。

 そのままLINEの交換を済ませると、吉田さんは一人で「よしっ」と呟いた。

「ね、片付けたら、一緒にご飯しない?」

「ご飯?でも私、無駄遣い出来ないから」

 沙緒がそう断ると、吉田さんは笑って「大丈夫」と言った。

「コンビニでいいよ。安いもの買って、どっか公園にでも行こう」

 吉田さんは、歌うように楽しげに話し続ける。

「いいじゃん、私のおかげで最後の一匹だって里親見つけたんだし」

「まぁ、そうだけど・・・」

 沙緒は困ったように、もごもごと呟いた。

 確かに、吉田さんのおかげで、六匹の内、三匹の子猫の譲渡先は決まった。

 半分、吉田さんのおかげ、って事になる。

「全部一日で決まったって、奇跡だと思わない?」

「まぁ、確かに・・・」

「でしょ、お祝いしようよ、これからさ。おにぎりだけでいいから」

 沙緒は、いくら断っても諦めそうにない雰囲気を感じ。

 仕方なく、コクリと一度、頷いた。











 沙緒たちは一度、すべての貰い手がついた子猫たちを二つのキャリーの中に入れ。

片づけを済ませていると、おじさんが、車で迎えに来てくれた。

本当は沙緒は、なんとか自力で行ったり来たりして戻ろうと思っていたのだが。

譲渡の声かけをしている時、おじさんから電話が入り、迎えに来てくれると言うので甘える事にした。

おじさんは、十九時頃に車で迎えに来てくれ。

沙緒以外に、急に一人増えていたのでビックリしていたが。

吉田さんが綺麗なので、少しドギマギしているのが見てとれた。

沙緒は、そんなおじさんに内心呆れつつ苦笑して、吉田さんと一緒に車の中にキャリーと畳んだケージを運び。

一度、子猫たちを喫茶店の奥の部屋へと運んでいった。

子猫たちは、明日、譲渡する人たちに手渡されることになる。

吉田さんは明日、猫を引き取るだけの準備を整えたら、喫茶店に来ると言い。

吉田さんが声をかけてくれた、引き取り手になってくれる二人も、吉田さんが再度連絡を取り。

どちらの人も、明日中に喫茶店へと引き取りに来てくれる事になったので、沙緒はホッとしていた。

おじさんも、奥さんが猫を引き取るための準備をしてくれるので、明日の閉店後に家に連れて帰ってくれると言ってくれ。

ひとつひとつ、綺麗な形で収まったことに、沙緒はホッと安堵していた。

明日が終われば、すべて落ち着く。

おばあちゃんがあとは戻ってくるだけだ。

沙緒は、喫茶店の奥で暮らしていた部屋に荷物を運び、畳んでいたケージを二台組み立てると、キャリーから子猫を取り出し、それぞれのケージに三匹ずつ入れた。

そのまま一泊はそこで過ごしてもらい、明日の朝、また働く前に世話をする事にした。

沙緒と吉田さんは、そのまま喫茶店を後にして。

 途中コンビニに寄っておにぎりを買うと、駅の方まで戻り、近くにある児童公園へと向かった。











児童公園の一角のベンチに。

 二人は腰をおろしていた。

公園内には四隅に四か所、外灯があるおかげで、手元だけは少し明るく見える。

 周りは住宅街で、夜八時過ぎの公園と周辺は静まり返っていた。

「美味しかったー」

 吉田さんはそう言うと、食べ終えたツナのおにぎりのラッピングを、何も入っていないコンビニのビニール袋にしまい込んだ。

 沙緒も同じように鮭のおにぎりを一個買い、その最後の一口を放りこむと、同じようにコンビニの袋の中に、おにぎりを包んでいたラッピングを捨てた。

「元橋さんさぁ」

 吉田さんは、沙緒の隣で。

 捨てたゴミを入れた、コンビニの袋を丁寧に縛っている沙緒を、なんとなく眺めながら話し出した。

「めっちゃ暗いよね、元橋さんってさ」

「え?」

 沙緒は、怪訝な顔を吉田さんに向けた。

 吉田さんは少しバカにするような顔をして笑う。

「すんごい根暗でしょ、元橋さんってさ」

 あからさまに失礼な事を言われたが。

そのあまりに正直な物言いに、沙緒は思わず少し笑ってしまった。

「あ、笑ってる。笑えるんだ」

「なにそれ、普通に笑えるけど」

 ツッコんで来た言葉に、すぐさま反応すると、吉田さんも笑顔になった。

「ツッコめるんだ」

「いや、だからさ。さっきから何を言いたいわけ」

 すぐさま言い返す沙緒に、吉田さんはクスクスと笑って、隣に居る沙緒の二の腕辺りを軽く手のひらで押してきた。

「だっていっつも喋らないしさ。黙ってんじゃん。黙々と本ばっか読んでてさ。みんな受験や就活で必死な中、一人だけ違う世界に居て。なんなのあの人って、みんな言ってたけど」

 知ってるよ。

 沙緒はそこだけ心で返答した。

「ちゃんと喋れば、全然普通じゃんね」

 クスクス笑いながら、何度も手のひらで二の腕をぐいぐいと押してくる吉田さんに、沙緒は体をよろめかせながら言い返した。

「普通って何よ。それヤなんだよね、言われるの」

「なんで」

「なんでってさ・・・」

 なんでって聞かれると思わず、黙りこむ。

 なんて説明していいのか分からなかった。

 親がおかしいんだよね、って?

 今日喋ったばかりの、元クラスメイトに言う話か?

 沙緒はどう説明していいのか、言葉をしばらく探していた。

「・・・普通って言葉が嫌いって、変わってない?」

 意地悪そうな目が沙緒を見つめる。

「変わってるってば。変わってる。私は本当に変わってるの」

 沙緒は投げやりに言うと、両足を乱暴に投げ出すように前に出した。

「みんなと違って、何もしたい事もなければ、やりたい事も見つからない。夢も希望もない。何にもない。親だって・・・」

 そこまで言うと、沙緒は黙った。

 ベンチの下にある足を、なんとなくただ、ぶらぶらと上下に揺らし続ける。

 少しでも重たく感じる空気を、足でかき混ぜる事で雰囲気を軽くしたいような気持ちにもなっていた。

「親だって、変だしさ。変な親から生まれてるから、私も変なんだよ。当たり前のようにね。別にどうしようもないし、仕方ないじゃん」

 ぶらぶらぶら。

 大きく上下に揺れる足を見つめていると、こんな話をしている自分に対する居心地の悪さが、少し解消されるような気がした。

「なんでそう思うかな」

 疑問でいっぱい、とでもいうようなトーンの声が響いて、沙緒は思わず吉田さんを見た。

「なんで元橋さんだけだって思うのよ」

「え?」

「そんなん、みんな同じだよ」

 吉田さんは、沙緒の隣で同じように足を上下に振りだした。

 そのまま、前を見つめた状態で話をし出す。

「誰だって、そこまでやりたい事なんてないよ。まぁ、中にはいるけどさ、これがやりたいからここに行くんだとか、受けるんだとか。でも、そんな目的とか夢なんて持ってない人、私の周りにも結構いたよ。そんなもんじゃない」

 そんなもんなのか。

 沙緒は、吉田さんにあっさり言われると。

 本当にそんな気がしてくるように思えていた。

 ぶらぶらぶら。

 同じスピードで、2人の足がベンチの下で揺れている。

 右、左と、前へ足を出すタイミングも、いつの間にか一緒になっていた。

「つまんないなぁって思いながらの毎日だよ、私だってさ」

 吉田さんが話す言葉が、なぜだか。

 とても心の近くで聞こえた気がした。

『みんな同じ』

そんなこと、考えても来なかった。

私以外の人は、みんな目標を持っているか、やりたいことがあって。

毎日が、怒ったり笑ったり泣いたり落ち込んだりと、感情も豊かで。

私だけが人形みたいだ、なんて思ったりもしていた。

吉田さんの揺れる足を見、そのまま隣にある顔を見た。

鼻筋の通った綺麗な横顔が目に映る。

「なんか、勘違いしてたんじゃないの、元橋さんさ」

「そうなのかな」

「そうだよ」

 吉田さんはこっちを見る。

「みんな、なんか出来て、みんな、何かで満たされてるように見えてさ。もういいやってなったんでしょ。諦めてさ」

 沙緒は、ドキッとしてうろたえた。

 ・・・なんで・・・わかるんだろ。私の気持ち。

 表は平静を装っていたが、内心は動揺していた。

「もっとさ、みんなの中に入れば良かったのにね、元橋さん」

 やだよ。

 小さな呟きが心の中で響く。

 そんなことしたって、意味ない。

 一時期は仲が良かった気がした友達だって、私が話題に付いていけなくなってくると、急に変な気を使うようになってきて。

 徐々によそよそしくなっていった。

 私が、会話に入らないのにグループ内にいるのは、他の友達も居心地が悪かったんだろう。

 少しずつグループに入らないで距離をとり、一人で過ごすようになっていったら、グループ内は和気あいあいとしだして。

 とても楽しそうに将来の事や、進学の事で盛り上がっていた。

「みんな口に出さないだけで、寂しかったり、苦しかったり、悩んだり、迷ったりしてるもんだよ」

 吉田さんの言葉はまるで。

何かを悟っているようにさえ、聞こえる。

 仕方ないんだよ。

 そう言われている気がした。

 みんなわからないままだけど、それ以上のものは求めずに。

どこかで少し、諦めてるんだよ。

 そう聞こえた。

「・・・苦しいのはみんな一緒って言いたいってこと?」

 沙緒がそう言うと、吉田さんは「そう」と短く答える。

「元橋さんだけじゃない。暗くなるのも、未来に希望が持てないのも。絶望感や孤独感に襲われて怯えてるのも。みんな同じ。同じだよ」

「そんなことないんじゃない」

 沙緒の声は、急に冷たく辺りに響いた。

 吉田さんはその言葉の鋭さに、目を見開いた顔で沙緒を見る。

「そりゃ、みんなそこそこは同じかもしれない。でも、私は」

 私は。

 沙緒はそこまで言うと、思わず、口をつぐんだ。

 うちはおかしいから。

 そう言うには、何かの勇気がいるような気がした。

 自分の家の事を誰かに話すなんて、思いもしなかったから。

 沙緒が思わず押し黙ってしまうと、吉田さんはふーんとでも言いたげな顔で沙緒を見る。

「なに?たとえば、うちは人の家と違って不幸だからとか?」

 沙緒はまた、自分の心が読まれたような気がして、ギクリとする。

「え、何が不幸なの?何が大変なの」

 そんなズケズケ聞くか、普通。

 沙緒はデリカシーの無さに、非難するような目を向けた。

「なんでそんなこと聞くのって顔してるけど」

「そりゃそうでしょ」

「そこもあれでしょ、自分だけ大変とか、苦労してるとか思ってんでしょ」

「・・・だったら何よ」

 思わずいらついた声を出すと、吉田さんは鼻で笑った。

「じゃあ、どんだけ不幸か言ってみなよ。自分だけ可哀想だって、言いなよ」

「あんたに何がわかるのよ!」

 思わず声を荒げたけれど、吉田さんはビクともしない。

 顔色、表情を一切変えず、沙緒を冷静に見ている。

「自分の家庭がどれだけ不幸か、不幸自慢してみたらって言ってるのに、言わないの?」

「そんな言い方ないんじゃない」

「なんなら、私が言おうか?」

 淡々と吉田さんは話し続ける。

 吉田さんに、沙緒は最初、バカにされてると思っていた。

 でも、あまりに態度を変えず淡々と話す吉田さんに、沙緒は少し恐れを感じて始めていた。

 もし。

吉田さんが話す話が、自分よりも、辛い経験だったら。

 そんな事が頭をよぎる。

 そうなったら、どうしよう。

 沙緒は内心、うろたえ始めていた。

「私さ。親居ないんだよね」

「え」

「聞こえなかった?親、居ないの」

 沙緒は、言われた言葉を一瞬理解できず。

 ただ、ポカンとしてしまっていた。

「元橋さんは実の親でしょ。私には実の親も、ついでに仮の親もいないの」

 ぶらぶらぶら。

 さっきよりも激しく、上下に足を交互に揺らしながら、吉田さんは話し続けた。

「親戚に引き取られたけど、それも親の遺産目当てだったから。お金さえあればいいって感じで、あとは適当に邪険に扱われてさ。高校まで行ったら後は好きにしていいって、笑顔で言われてたよ。要は出て行けって事。そこまで行ったらもう義務は果たしたって言いたかったんでしょ」

 吉田さんの話は、まるで。

 どこかのマンガか小説に出てきそうな話に、沙緒には聞こえていた。

「それに比べたら、元橋さんは、実の親だし。お金にはそんな困ったことなさそうに見えたけど。私は学校の経費みたいなのは出してくれてたけど、お小遣いも無かったよ。バイトしろって言われてた。だからみんなが受験勉強に明け暮れていた時、バイトばっかりしてたよ。高校卒業したら就職しなくちゃならなくて、就活もしなきゃならなかったけれど、バイトしてるのにそんな余裕ないじゃん。だから、今もそのバイト先で働いてる。相変わらずバイトのままだけど」

 吉田さんはそう言うと、隣にいる沙緒を見た。

「生きていく為にだけ働いてる。そんな状況。で、元橋さんは?」

 吉田さんに振られて。

 沙緒は、なんて言っていいのか、わからなかった。

 吉田さんの話は。

 想像以上に重く、辛い内容に聞こえていた。

「自分の居場所がない中で、ずっと肩身狭く暮らしてきたんだよね、私。いっそ早く結婚でもしたいと思ったけど、でもまだ子供だしさ。そっちへ向かおうとしたけど、付き合ってもあんま上手くいかなくて」

 吉田さんは、沙緒の隣で振る足の速度を緩めると。

 ぴたりと止めて、地面へ下ろした

「なんとか楽になろうとか、誰かに縋って生きる方が楽だから、そうするにはどうしたら、とか、そんなことを考えて生きていくより、まずは自分の生活をちゃんとしようかなって。そうしたら自然に何かが変わっていくのかなって。今は一人で暮らしながら、そんなことを思ってる」

 沙緒は。

 隣に居る吉田さんを、静かに見つめていた。

 なんて言っていいのか。

 ただ、沙緒は気づいていた。

 この人は、大人だと。

 自分よりも、ずっと大人だと。

 そう思っていた。

 何かを言いたかったけれど、何も浮かばず。

 沙緒はそっと、吉田さんから顔を逸らし。

 足を振って動かすのをやめて、吉田さんのようにベンチの下へと両足をしっかりつけた。

「私、も・・・最近は、少し。そういうのはわかってきたような気は、する」

 沙緒は、なんて言っていいのか分からないまま。

 少しずつ、区切るように、考えながら言葉を紡いだ。

 今度はそんな沙緒を、吉田さんは静かに見つめていた。

「吉田さんの言うとおり。私は親はいる。お小遣いになるお金も貰ってた。交通費だって貰ってた。私は、親が嫌だって、嫌いだって、こんな家出て行きたいって言いながら、そうやって生活してた」

沙緒はそこまで言うと、一度、喉を詰まらせた。

別に、今も。

親に何かプラスの事を思っているわけではない。

それどころか、マイナスの気持ちはいくらでも湧くし、否定もできる。

それでも。

沙緒は、気づいていた。

この時、初めて気づいていた。

「私、親に甘えていたんだね。そういう事だなって、今気づいた」

 沙緒は思い切って、言葉に出すと。

どうしてだろう。

ますます、自分が恥ずかしく思えてきて。

 自然に顔が俯いてしまっていた。

急に。

 自分はいつのまにか、ものすごく小さな世界にいたのだと思った。

 先に諦めだけを確実に決めて、あとは不平不満だけを並べながら、親に用意してもらっていた食事を食べて。

用意されている部屋に、備え付けられてあるベッドで毎日眠り。

それが死んでいるのと同じだと文句を言いながらも、ずっとそれを甘んじて受け続けてきた。

好きな物を、お小遣いを貰っていたから好きに買えたし、行く気になれば、あちこち行ける交通費まで貰いながら。

そうやって甘え抜いて暮らしてきたのだ、と。

沙緒は、客観的に自分を眺め始めると。

ただ、ただ、自分がどうしようもなく、恥ずかしくてしょうがなく思えてきた。

「なんか・・・」

「え?」

 沙緒は、なんとか顔を上げると。

 隣で見つめてくる吉田さんを見た。

「・・・なんか、恥ずかしいなって、思って」

 沙緒の言葉に。

 吉田さんは、一瞬、表情を止めた。

 沙緒は笑ってるような、笑っていないような中途半端な情けない顔を上げて。

ためらってはいたが、どうしてか。

今の気持ちを素直に伝えた方がいい気がして。

思いきって、吉田さんを見た。

どんな顔をしていいか分からなかったから。

きっと表情は曖昧な感じに思えたかもしれない。

どこか、しかめてしまっていたかもしれない。

それでも。

吉田さんに、伝えた方がいいような気がした。

自分の気持ちを、吉田さんを見て。

「自分がすごく、恥ずかしいなって思った。今までの自分が」

 吉田さんは。

 そのまま表情を動かさず、黙って私を見ていた。

 それは、きっと三、四秒くらいだったと思う。

 でも、その後、吉田さんは。

 本当に、華奢な小さな蕾が、今この場で花開かせたように。

 柔らかく、優しく、微笑んだ。

「私もだよ」

「え」

「私も。そんなこと何回も思ってる。昔から」

 沙緒は。

 思いもかけない吉田さんの言葉に。

何度かゆっくり、瞬きを繰り返す。

「生きていて恥ずかしいって思う事もいっぱいあったし、なんで生きているんだろうって思う事も、今までもたくさんあったよ」

沙緒は、吉田さんの顔を静かに見つめていたが。

ただ、見つめていたが。

 徐々に、その輪郭が、ゆらゆらと歪んできているのがわかった。

「・・・そっか」

「そうよ」

 ふっと吉田さんは微笑む。

「みんな、同じよ。同じ」

 その優しい微笑みにつられるように。

 沙緒は唇の両端を上げた。

 その瞬間。

両の眼からは、急に。

ボタボタッと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「恥ずかしくていいじゃん」

 吉田さんは微笑みながら、沙緒の右肩の上辺りを、軽くぽんっと手のひらで押した。

「それでもみんな生きてるじゃん。一生懸命さ。それでいいじゃん。それだけでいいじゃん。十分だよ」

 沙緒は、吉田さんのその言葉にまた。

 小さく頷きながら、唇の両端を上げる事で応えた。

 涙は、溢れ続けるけれど。

 心はなぜか、淡いぬくもりのような温度で満たされているのを感じていた。

 その淡いぬくもりは。

 沙緒の、どこか固まって凍りついていた部分を優しく撫でて、溶かしてくれた気がした。

 何とも言えない思いが溢れ、それに押されるかのように溢れる涙は、沙緒の頬を流れ続けたけれど。

 沙緒のその表情には、暗さや曇りはなかった。


 










沙緒は吉田さんと別れると、そのまま真っ直ぐおばあちゃんの家に戻り。

 待っていた自分の猫四匹と、サキとマルに「遅くなってごめんね」と言いながらエサをあげると。

 子猫たちがいた押し入れの中を掃除し始めた。

 子猫たちが過ごしていた敷布団を床へ下ろすと、カバーを洗濯するために外し。

 台所にあった雑巾を濡らして、押し入れの中を拭き始める。

 おばあちゃんが退院して戻って来たら。

 もう、ビックリしたよ、って、わざとちょっとだけ不満げに言ってみよう。

 おばあちゃん、きっと『沙緒ちゃんごめんね』って言うだろうから。

 今度拾わなきゃならなくなった時は、私も手伝うから言って、って、言ってみよう。

 おばあちゃんが、どうしてこんなに猫を一度に拾ったのかはわからないけれど。

 たぶん、小さい子猫たちを放っておくわけにはいかなかったんだろう。

 おばあちゃんに、本当にもう、と困ったように、ちょっとむくれて話したら。

 おばあちゃんはきっと、少しだけ申し訳なさそうな顔をするんだ。

 でもその後、また一緒にテーブルで向かい合って。

 おばあちゃんが淹れてくれる美味しい緑茶を、二人で飲むんだ。

 おばあちゃんが出してくれる、おせんべいを食べながら。

 おばあちゃんから、もう何回も聞いている話を、また繰り返し聞いたりして。

 それ、前にも聞いたよ、って、少しだけ笑ってツッコんで。

 おや、そうだったかい?っておばあちゃんも、笑うんだ。

 沙緒はそんなやり取りを想像しながら。

 小さく微笑んだ。

 早く、おばあちゃんにここで会いたいと願いながら。


 









沙緒は次の日。

 喫茶店にいつもより早く出勤した。

 喫茶店の合い鍵は、沙緒も貰っている。

 沙緒は、七時頃に喫茶店に着き、扉の鍵を開けると。

 一目散に喫茶店の奥に続く扉に向かっていって、開き。

 そのまま奥の部屋に入っていった。

「おはよう」

 沙緒が笑顔で声をかけると、ケージの中で子猫たちは、それぞれじゃれたり、コロコロと転がっていたりと。

 思うように過ごしていた。

 沙緒は、子猫たちの朝ご飯を用意し。

 子猫たちにあげると、自分もそこでおばあちゃんの家でご飯を炊いて作って来た、おにぎりを子猫たちと一緒に食べた。

 朝、おばあちゃんの様子を奥さんに電話をして聞いてみたところ、今はまた意識が少し朦朧としているため、絶対的に安静にしていなくてはならないらしく。

 奥さんは、このまま明日もずっとついているから大丈夫よ、と、沙緒には力強くそう言ってくれた。

 沙緒は、今日、休憩時間に一度、おばあちゃんの様子を見に行きたいと思っていた。

 決して安心してはいけない状況なんだ、と思うと、少しでも側に居て、おばあちゃんが元気になる事を側で願いたかった。

 沙緒はおにぎりを食べ終わると、ふと、机の上の缶に目を止めた。

 あそこには、おばあちゃんがくれた願い事を書ける紙が入っている。

 あれは一体、どういうものなんだろう。

 おばあちゃんから、どういう物なのかをちゃんと聞いておけば良かった。

 どこかの神社とか、お寺とかで貰える物なのか。

 それとも、おばあちゃんの作った物なのかもわからない。

 沙緒はその缶を見つめながら、ふと、思いついていた。

 どこから手に入れたものかわからないけれど。

 似たような物を作ってみようと。

 そして同じように缶の中に入れて、毎日お願いしようと思っていた。

 お願いの内容は、もちろん。

 『おばあちゃんが一日も早く元気になって戻ってきますように』

 そう書くつもりだ。

 沙緒は、時間がある時にでも、おじさんから、隣の部屋にあるプリンターに入っている白い用紙を後でもらって、仕事が全て終っておばあちゃんの家に戻ったら早速作ろうと。

 そう思っていた。

 そうこうしていると、おじさんが出勤してきた音がして。

 時計を見ると、八時近くになっていた。

 沙緒は子猫たちを眺め、動きや状態に特に問題はなさそうだなと判断すると、おにぎりを巻いていたラップをゴミ箱に捨てて、部屋を出て。

 喫茶店の中へと戻って行った。

「おはようございます」

 仕込んだ材料が入った容器を、めいっぱい重ねた状態で喫茶店の中に入って来たおじさんに、沙緒は声をかけると。

「おう、おはよう、沙緒ちゃん」

 おじさんは笑顔で、カウンターの方へ歩きながら応え。

 沙緒は足早に近づき、積み重ね過ぎているようにも思える、おじさんの顎のラインを超えているその容器を上から何個か奪うと。

 後ろから一緒についていき、おじさんと一緒にカウンターへと入っていった。

「どうだい、猫たち」

「大丈夫そうですね。みんな元気です」

「そっか、良かったな」

「はい」

 沙緒は微笑むと、容器を冷蔵庫へとしまっていった。

「おばあちゃんが心配なんですよね」

 沙緒は、おじさんが調理場になっている場所に重ねて置いた容器を手に取ると、順番に冷蔵庫にしまっていく。

 おじさんや奥さんが使いやすいように、容器を後から探さないようにと、入れる場所はいつも決まっていた。

「そうだなぁ・・・昨日、まだ安堵出来ない状況だって言ってたからな・・・」

 おじさんは心配そうに眉を寄せる。

 沙緒も、そのおじさんの言い方と表情に、気持ちと一緒に顔を曇らせた。

 大丈夫なのかな・・・本当に・・・。

 沙緒は、急に不安が湧き、落ち着かない気持ちになってくる。

 おばあちゃんに、もしもの事があるとかを、倒れたと聞いても一切考えてこなかったけれど。

 このおじさんの顔を見ていると、そう楽観はできないような気がしてきた。

「くも膜下出血って、そんなに怖い病気なんですか」

「うーん・・・あんまり、良くはないよね」

 おじさんは言いづらそうに答えた。

「そう、ですか・・・」

 沙緒が、全部の容器を冷蔵庫にしまうと。

 そのまま立ち上がる事が出来ず、しばらくしゃがんでしまっていた。

 おじさんはそんな沙緒を気にして、振り返り。

 沙緒の背中を見て、労わるように声をかけた。

「でも、大丈夫だ。あまり心配するんじゃない」

 沙緒はなんて言って返事をしていいのか、わからなかった。

 でも、これだけは伝えたかった。

「マスター」

「うん」

「私、今日の休憩、おばあちゃんのところへ行ってきていいですか?」

 しゃがんだまま、少し振り返って。

 おじさんを見上げるように言うと。

 沙緒を、心配そうに見つめていたおじさんは、口元を柔らかく緩めた。

「もちろん、行っておいで。ランチさえ過ぎればいつでもいいよ」

 おじさんの優しい言葉に、沙緒はやっと。

少しだけ微笑んで、応えた。


 











怒涛の勢いでお客さんが来ていたランチが終り。

 沙緒は、一五時過ぎに喫茶店を出て、おばあちゃんが入院している病院へと向かった。

 道中、気持ちが落ち着かず。

 どこかソワソワした気持ちで向かっていた。

 ちょうど、喫茶店から最寄りの駅までは十分程で着き。

 そこからおばあちゃんが入院している病院までは、二駅乗るだけだ。

 その病院は、駅のすぐ前にあると言ってもいいくらいの近さにあって、立地的に良いせいもあるのか、利用者はとにかく多いと聞いている。

 この辺りの総合病院の中では、トップクラスに名前を知られた病院だった。

 沙緒は電車に乗りこむと、そのままおばあちゃんが入院している病院がある駅まで、気持ちが落ち着かないまま吊革に掴まりながら揺られ。

電車を降りてからは、ずっと小走り気味で病院まで辿り着くと。

 病院の正面玄関から入り、受診に来てる人や、お見舞いや付添いの人や、職員でごった返している一階を泳ぐようにくぐり抜けて行き。

 エレベーターの前に辿り着くと、素早く中に乗り込んだ。

 階数ボタンを押しながら、はぁはぁと口から溢れる荒れた息を整える。

 胸に手を当てると、ドッドッと言う心臓の音が、かなり早めに打ち続けていた。

 大丈夫、大丈夫。

 沙緒はそのまま、胸に当てた手をゆっくりと撫で下ろす。

 手のひらに、ドッドッと言う早めの音が響いてくる。

 ちゃんと生きているんだ、って思えるくらい、体から溢れそうなほどの大きな響きで。

 エレベーターが目的の階に着くと、そのまま真っ直ぐ集中治療室のある部屋に向かった。

 沙緒は、トントンと扉を小さくノックをしてから、中に入る。

「沙緒ちゃん」

 何台か、ベッドが並んでいて。

 そのうちの一台に、奥さんの姿が見えた。

「どうですか・・・おばあちゃん」

 沙緒がそう言って近づくと、奥さんは少し曖昧な微笑みを浮かべた。

「うん・・・そうね。意識が朦朧としている感じ。目を覚ましたかな、と思った時に話しかけてみたけど、特に反応がなくて。そのまま目を閉じて、眠ってしまったのよね」

「そうですか・・・」

「よくあの時、一瞬でも話せたなって。今は思う」

 奥さんは、眠り続けるおばあちゃんの顔を見つめながら、そっと手を伸ばし。

 おばあちゃんのしわしわの手を、そっと手で優しく撫でるように包み込んだ。

 おばあちゃんのベッドの周りには、いくつかの計器や点滴などがあって。

 おばあちゃんの手や腕には、チューブのようなものがいくつか繋がっている。

 頭は手術をしたので、ネットの包帯のようなものが掛けられていた。

 沙緒は黙って、奥さんの側に行くと。

 壁の方に置かれていた折畳みのパイプ椅子を持ってきて、奥さんの隣に置き、腰を下ろした。

「休憩時間?」

「はい」

「そうしたら、少し家に戻っていいかな。私も着替えたりして来たいから」

「はい、大丈夫です」

「一時間半くらいしても戻らなかったら、沙緒ちゃん戻ってきてくれる?また私すぐこっちへ来るから」

「はい、わかりました」

 沙緒は隣で話しかけてくる奥さんに、笑顔で頷いた。

 奥さんはずっとついていたせいか、少し疲れ気味の顔をしていた。

「少し、ゆっくり休んできて下さい」

「ありがとう」

 沙緒に礼を述べると、奥さんはすぐに立ち上がり。

 ベッドの下に置いていた小さめのハンドバックを掴むと、沙緒の肩を一度ぽんと叩いてから、後ろを通り過ぎて行った。

「奥さん」

 沙緒が声をかけると、扉の手前で奥さんが振り返った。

「マスターに聞いたら、子猫はどれでもいいよって言っていたんですけども、もし見てみて希望の子がいたら教えてください。決まっている子が茶白と茶色の子と黒猫なんですけども、吉田さんのお友達の人もまだ決まってないので、今なら選べますから」

 そう言うと、奥さんは優しく微笑んだ。

「わかった、有難う」

 奥さんはそう言うと、そのまま扉の外へと消えて。

 沙緒は、奥さんが座っていた椅子へと体を移動させた。

 奥さんと同じように、布団の上に置かれている、おばあちゃんのしわしわの手をそっと両手で包み込む。

 小さな、小さな手。

 沙緒は切なさに駆られながら、おばあちゃんの手を包み込んだ状態で。

 そっとそこへ額を近づけ、自分の手の甲の上に額を乗せた。

 じっと息をひそめるようにして、目をぎゅっと閉じる。

 『おばあちゃんの意識が回復しますように』

 沙緒はそう、静かに強く念じ始めた。

 しばらく繰り返し念じていると。

 少しだけ手が動いた感じがして。

 沙緒は慌てて、自分の手から顔を上げると、おばあちゃんの顔を見据えた。

 おばあちゃんの眉が少しだけ、ピクリと動いた気がする。

「おばあちゃん」

 沙緒はいてもたってもいられず、おばあちゃんに声をかける。

「おばあちゃん!」

 さっきよりも強めに声をかけてみる。

 あまり大きな声は出してはいけないのはわかっていたが、どうにかして気づいて欲しかった。

 沙緒の呼びかけに、おばあちゃんは、ピクピクと小さく眉を動かすことで応えているように見え。

沙緒は、顔をおばあちゃんに近づけると、耳元でハッキリと呼びかけた。

「おばあちゃん、沙緒だよ。おばあちゃん、沙緒!」

 そう言うと、おばあちゃんは。

 少し頬を引き攣らせるように、一度動かした。

「おばあちゃん」

 また呼びかけると、おばあちゃんは。

 瞼をピクピクと震わせて。

 やがて、ゆっくりと、開いていった。

「おばあちゃん!」

 沙緒は嬉しくて顔を破顔させると、顔を上げておばあちゃんの顔を見つめた。

「おばあちゃん、沙緒だよ。沙緒!」

 声をかけて自分の名前を呼ぶと、おばあちゃんは朦朧とした顔をしていたが。

 少しだけ目を見開くと、そのまま、震えるような動きで少しずつ顔を横に傾けていき。

 その目はやがて、沙緒をとらえた。

「おばあちゃん・・・!」

 沙緒は思わず、嬉しさと感激で。

 声が自然に涙声になってしまっていた。

 一瞬にして思い返す。

 アイドルタイムになると、おばあちゃんのところへお弁当やおかずを届けに行って。

 おばあちゃんと一緒にお茶をしながら、おばあちゃんがお弁当をどれだけ食べるか見守り。

 沙緒はおやつを食べさせてもらいながら、おばあちゃんと談笑する。

 周りには、サキとマルが居て。

 沙緒にすり寄ってきたり、おばあちゃんの近くにすり寄ってきたりしながら、二人でそれぞれの猫を撫でる。

 サキとマルは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らして。

 沙緒は、おばあちゃんのところで嬉しそうに甘える二匹を見るのも好きだった。

 とても穏やかで、優しくて。

 大好きな時間だった。

「おばあちゃん・・・!」

 沙緒の声が、涙声になればなるほど。

 沙緒の想いは、瞳から溢れていき。

 やがてそれは、ベッドのシーツの上に、ポタポタと滴になって零れ落ち、濡らしていった。

 おばあちゃんの瞳は、弱々しい光で。

 沙緒を見つめていた。

「・・・沙緒ちゃん・・・かい」

 小さな小さな掠れ声で。

 おばあちゃんは、沙緒を呼ぶ。

 沙緒は、おばあちゃんの手を両手で握り締めたまま、うんうん、と、強く縦に首を振った。

「・・・よく来たね・・・」

 沙緒が、お弁当を届けに来たのかと思ったのかもしれない。

 沙緒は涙を流しながら、うんうん、とまた繰り返し首を縦に振った。

「おばあちゃん、どっか痛くない?苦しいとこない?」

 沙緒は泣きながらも、おばあちゃんにハッキリとした声で問いかけ。

 おばあちゃんは沙緒の言葉を理解したのか、震えるように首を小さく縦に動かした。

「おばあちゃん」

 沙緒が呼び掛けると、おばあちゃんは、また震えながら唇を動かした。

「サキとマルは・・・」

「家に居るよ。私がおばあちゃんちで面倒みてるから心配しないで」

「そうかい・・・」

 おばあちゃんは、ゆっくりと沙緒から視線を外すと。

 どこか遠く離れたところを見つめていた。

「沙緒ちゃん」

「うん?」

「・・・サキを・・・連れてきてくれないかい・・・」

「え・・・こ、ここに?」

 無理だよ。

 沙緒は思わず心で呟いたが、おばあちゃんは遠くを見つめたまま、唇をゆっくりと開く。

「サキ・・・おじいちゃんが一番可愛がっていたんだ・・・サキに伝えたい事があるんだよ・・・」

 沙緒は、そのおばあちゃんの言葉に。

 瞬間、不安がドッと押し寄せてくるのを感じていた。

 それは気を緩めてしまえば、一気に。

 沙緒の心を押し流して、暗闇の淵へと落としてしまいそうなほどに。

「・・・おばあちゃん、大丈夫だよ」

 おばあちゃんの手をしっかりと握って。

 沙緒はまた、おばあちゃんの顔へと顔を近づける。

「元気になったら、おじいちゃんのところへ行こう。サキを連れて。元気になってからでいいじゃない。ね」

 沙緒は、不安を無理やり押し込めて。

 笑顔を作って、おばあちゃんになだめるように伝えた。

 でも、おばあちゃんは遠くを見たまま。

 表情は変えなかった。

「沙緒ちゃん・・・」

「ん?」

「・・・お願いだよ・・・サキを連れてきてくれないかい・・・」

 震えるような声で頼まれて。

 沙緒はもう、ダメだよ、とは、言えなかった。

 少し遠くを見ているおばあちゃんが。

 本当にそのまま遠くへ行ってしまいそうで。

 沙緒は、小刻みに震えてくる唇をぎゅっと引き締めた。

 考えたくない。

 そんなの、考えたくないのに。

 沙緒の思いは、強く心の中でほとばしる。

 けれど、それは安易に打ち消されてしまいそうで。

 涙がまた、大きな粒となって、シーツへと零れていった。


 









 沙緒は、そのまますぐに、おばあちゃんの家に戻った。

 六匹の猫たちはそれぞれ、固まったり一人で寝たりしていたが。

沙緒は壁側に置いてある、おばあちゃんちのキャリーを掴むと、サキの側へと行き。

サキだけをキャリーに入れた。

 入れる際、抵抗するかと思ったけれど、サキはあっさり、キャリーの中に入ってくれて。

 沙緒は、キャリーの蓋を閉めて鍵をかけると、サキに「有難う」と伝えた。

 サキは、ただ静かに体を丸めて。

 キャリーの中でひっそりとしている。

 沙緒は、サキが入ったキャリーを持ち上げたものの。

 これで病院に行けば、すぐに動物だとバレてしまうので。

 何かの袋に入れる事にした。

 おばあちゃんの家をいろいろと探したら、大きめのボストンバックが出てきたので。

 サキには申し訳ないけれど、チャックは締めないで、中にキャリーを詰め込み、そのまま肩からかついで、おばあちゃんの家から運び出した。

 なんとか看護師さんたちに見つからないで集中治療室まで運べますように、と願いながら。


 









 悪い事をする時というのは、傍から見ると、挙動がおかしいように思われるのではないかと考えてしまう。

 沙緒としては、普段通りに病院の中へ入ったつもりだったけれども。

 どうも周りを通り過ぎる看護師が、こちらを見ているような気がしてならない。

 チラチラと見られている気がして、落ち着かなかった。

 でもそれはきっと、沙緒が病院の中に、ペットなんて持ち込んではいけない物を持ちこんでいるからで。

 沙緒が、必要以上に周りを気にしている状況だからだろう。

 沙緒はそのまま、なるべく平然を装いながらエレベーターへと乗り込み。

 また、おばあちゃんが待っている、集中治療室へと向かって行った。

 あの時は、おばあちゃんが、たまたま意識が戻ったから話せたけれど。

 今、戻ったら、おばあちゃんの意識がなかったり、混濁していたりしていたらどうしよう。

 ここまで来て今更ながら、沙緒は心配に思ってくる。

 あの時だって、まだいつものように、ちゃんとしっかりしていない時だったから、たまたま夢を見ているような感覚で、口からついて出ただけの言葉だったからかもしれない。

 そう思うと、沙緒は自分がやっている事が大丈夫かなと、また不安になってくる。

 とりあえず、エレベーターが目的の階に着いた為、そこで降りると。

 真っ直ぐに集中治療室へと向かっていった。

 沙緒は、集中治療室のドアまで来ると、なるべくそぉっと扉を開けて。

 中へと静かに入っていく。

 看護師さんたちは、何人かで別なベッドの患者さんの方についているのが見えて。

 そちらの方が大変な状況らしく、こちらに気を向けるような余裕はなさそうに見えた。

 沙緒は滑り込むように、おばあちゃんのベッドのところまで来て。

 おばあちゃんのベッドの横にある、畳まずに置きっぱなしにしていた二つの椅子の一つに腰を下ろした。

 隣の椅子には、運んできたボストンバックを置く。

 おばあちゃんは、静かに目を閉じていた。

 沙緒はどうしようかと、バッグとおばあちゃんとを交互に何回か見やっていたが、先におばあちゃんに声をかける事にした。

 内容が内容なだけに、大きな声は出せない。

「おばあちゃん、沙緒だよ。おばあちゃん」

 沙緒は、おばあちゃんの耳元へ口を近づけ。

 おばあちゃんに何度も呼びかけた。

「おばあちゃん、沙緒だよ。サキも来ているよ。サキだよ、おばあちゃん」

 沙緒が、「サキだよ」とハッキリ言うと。

 おばあちゃんは、急にまた、顔を少し震わせた感じがして。

 沙緒は顔を上げて、おばあちゃんの顔を真上から見た。

 おばあちゃんは顔を小刻みに震わせた後、先ほどのように瞼を震わせたまま目を開き、沙緒の方へと顔をゆっくりと向けた。

「おばあちゃん・・・」

「サキは・・・」

 沙緒はおばあちゃんを呼んだが、おばあちゃんの目は、沙緒ではなく違う誰かを見ているように見えた。

 沙緒は少し寂しく思ったが、隣のボストンバックに手を伸ばし、チャックがある部分を両手で掴んで大きくめくるように開きながら、中のキャリーを出していく。

 キャリーがすっかり外へ出ると、沙緒は静かに扉の鍵を開いて。

 静かに扉を開けると、中で丸まっているサキを引っ張り出した。

「お願い、鳴かないでね」

 沙緒はサキを抱っこすると、サキの頭に唇をつけて、サキに小声で懇願した。

 サキは黙って沙緒に抱かれたまま、おばあちゃんを見ている。

「サキ・・・」

 おばあちゃんは、掠れた声でサキを呼び。

 沙緒はサキを抱っこしたまま、椅子に一度腰を下ろし。

そのまま、おばあちゃんの顔の側へ、サキの顔を近づけた。

 おばあちゃんは、どこか焦点が合っていないような目でサキを見ていたが、やがてゆっくりと片手を上げて。

 サキへと弱々しい動きで、震えながら手を近づけていく。

 サキは、おばあちゃんの小さな手のひらが頭に乗ると、そっと目を閉じた。

 いつもされているような顔をして。

 穏やかな顔をして。

「サキ・・・」

 おばあちゃんは、サキの名前を呼びながら。

 震える手で、ゆっくりと撫でていく。

 サキはじっとおとなしく、撫でられ続け。

 やがてその手は動きを止めると。

 サキは静かに瞳を開けた。

 おばあちゃんも、サキをじっと見つめている。

 沙緒は、そんなおばあちゃんとサキを、固唾を飲んで眺めていた。

 どれくらい、そうしていたんだろう。

 おばあちゃんとサキは、ただじっと見つめ合っていた。

 何も言わず、ただじっと。

 沙緒は、そんなおばあちゃんとサキを見ていて。

 沙緒には聞こえない、何かの会話をしているようにも見えていた。

 おばあちゃんは、何を伝えたいんだろう。

 サキに。

 沙緒が、じっと静かにその様子を見守っていると。

 おばあちゃんの手は、パタリと、サキの頭から滑り落ちて。

 布団の上へと落ちていった。

「おばあちゃん!」

 沙緒はビックリして、サキを慌ててキャリーの中に入れると。

 キャリーの扉を閉めて鍵をかけ、ボストンバックのチャックの部分を片側ずつ掴み、キャリーを包み込むように持ち上げた。

 キャリーはすっぽりとボストンバックの中へと包まれ、見えなくなる。

「おばあちゃん!」

 沙緒は、おばあちゃんの顔の側で声をかける。

 おばあちゃんは一度目を閉じていたが、また、瞼を震わせながら開くと。

 沙緒の方へと、ゆっくり顔を向けた。

「沙・・・緒ちゃん・・・」

「なに?おばあちゃん」

「・・・サキ・・・サキを・・・おじいちゃんにまた、見せて・・・」

「おじいちゃんにサキを?」

 おばあちゃんに聞き返すと、おばあちゃんはどこか焦点が定まっていない目のまま、震えながら小さく頷いた。

「わかったよ。おじいちゃんに会わせればいいのね」

 沙緒がそう言うと、おばあちゃんは、その時やっと。

 本当に小さく。小さく。

 口元を緩めて、沙緒を見た。

 その表情は通常よりは、ずっと固かったけれども。

 沙緒には、おばあちゃんが嬉しそうに微笑んでいるように見えた。

「わかったよ、おばあちゃん。わかった」

 沙緒がそう言うと、おばあちゃんは顔を震わせながら、目を少しだけ細めて。

 また、瞳を閉じていった。

「おばあちゃん!」

 沙緒が驚いて声を荒げると。

「どうしました?」

 シャッと、おばあちゃんの横にかけられていたカーテンが勢いよく開いて、看護師が二人ベッドの横へと入って来た。

「おばあちゃんが、また意識がなくなって」

 沙緒が泣きそうな顔でそう言うと、看護師同士は目配せをして、沙緒にどけるように依頼し。

 沙緒は邪魔にならないように、ボストンバックを抱えると、ベッドから離れた。

 看護師たちは、おばあちゃんの脈を見たり、目を開かせたりしてライトで照らしたり、側にある計器の確認をしている。

 沙緒はどうしていいのかわからず、集中治療室の扉の近くでずっと佇んでいたが。

 そのうち、看護師が一人、沙緒の側へとやってきた。

「今のところは大丈夫そうです。様子は常に確認しておりますが、何かあったら声をかけてください。まだこちらにはいますか?」

 沙緒の事を、きっと孫か何かだと思っているんだろう。

 沙緒は一度、「はい」と言って頷いたが、ふと壁にある時計に目をやると。

 既に、十七時を過ぎているのがわかった。

最初に病院に来てから、二時間が経過している。

奥さんは自分が戻らなければ、一度喫茶店へ来てほしいと言っていた。

 マズイ・・・一度、喫茶店に戻らないと。

 あと二時間もすれば、夜ご飯を食べにくる常連さんが何人かやってくる頃だ。

 そうなると、奥さんは喫茶店から離れられなくなるし、私も二十時になれば居酒屋に行かなくてはいけない。

 沙緒は去ろうとした看護師を引きとめると、しばらく誰もいなくなるがいいかと尋ねた。

 看護師は「どれくらいで戻りますか?」と聞いてきた為、「二時間以内には」と答えると、看護師は笑顔で「わかりました」と答えてくれた。

 沙緒は少し微笑んで頭を下げると、そのまま集中治療室を後にした。












 奥さん、どうしたんだろう。

着替えをしたいと言っていたけど、いざ喫茶店に戻ったら、何かあって動けなくなっちゃったのかな。

沙緒は、そんなことを考えながら病院から出ると、小走りに駅まで行き。

タイミング良く来てくれた電車に飛び乗り、喫茶店がある駅まで行く。

駅に着くと、沙緒はサキを置いてくるため、おばあちゃんの家まで走れるだけ走って戻っていった。

背中にはいつものリュック。

肩には五キロのサキ。

相当重く、走るのが辛かったが、なるべく足を止めずに、片道十五分の道のりを駆け抜けていった。

沙緒は、荒れた息のまま、おばあちゃんの家に辿り着くと、すぐさま部屋の鍵を開けて中へと入り。

絨毯の上にボストンバックを置くと、中からキャリーを取り出して、扉を開け、サキを家の中へと出してあげた。

「サキ、少しダイエットしないとね・・・」

ぜぇ、ぜぇと、大きく肩を揺らしながら沙緒は言う。

サキはキャリーから出ると、そんな沙緒を振り返り。

じっと静かに見つめていた。

沙緒は、そんなサキと少し見つめ合っていたが。

こんなことはしていられないと、まだ息が苦しいながらも、大きく息を吸って吐きを繰り返し。

なんとか無理やり呼吸を落ち着かせると、喫茶店まで十分の道のりを、少しでも早く着けるようにと、また小走りで駆け抜けていった。

そのまま喫茶店の扉までやって来た時には、駅から出て、まだ十五分くらいしか経っていなかった。

良かった・・・割と早く着けて。

安堵しながら、また荒れてしまった息を整えつつ、喫茶店の扉を開くと。

そこには、誰もいなかった。

え・・・?

沙緒は、誰もいないことを怪訝に思いながら、キョロキョロと周りを見たものの。

やはり、中にいるはずのマスターや奥さんは見当たらず。

お客さんも誰もいない状況だった。

沙緒は喫茶店の扉を閉めると、変だなと思いつつも、いつもの自分が寝泊まりしていた部屋へ行こうと、喫茶店の右奥の扉まで歩いていき。

その扉を何気なく開けた時。

沙緒は、中から声が聞こえる事に気付いた。

大きく開きかけた扉を、また静かに戻し。

二十センチ程開いた状態で、中を窺うと。

おじさんと奥さんが話をしているのが聞こえてきた。

沙緒は、なんとなく、二人の声の雰囲気が尋常でないことに気づき。

そのまま声をかけず、扉の隙間から二人の様子を見る事にした。

 何か、話してる。

 沙緒は、扉の隙間に、もっと耳を寄せる。

おじさんと奥さんの会話が、少しでも鮮明に聞こえるように。

「・・・あなたは子供が生まれなくて、私を責めているのかと思ってた」

「なんで・・・」

 奥さんが、自嘲したような息を吐く音が聞こえる。

「私はあなたが欲しいものを、一番欲しいものを、あげられなかったから」

 その声は。

 寂しさが混じっていた。

 沙緒は、一瞬。

 息を詰めてしまった。

 子供・・・?

 沙緒は動揺したように、目を泳がせる。

 確かに、二人から子供の話を聞いたことはない。

 いつも二人で喫茶店を切り盛りしているのだから、子供がいるのなら喫茶店に顔を出したりもするだろうし、奥さんだって子供の年齢にもよるだろうけれど、育てなきゃならないから、こんなにも喫茶店にはいないのかもしれない。

 沙緒は以前。

 おじさんと面接時に話していた事を、ふと思い出した。

 娘みたいな子を襲えないと、おじさんが言った時。

娘さんがいるんですか、と、沙緒が尋ねると。

 おじさんは、急に寡黙になった事を。

 そうか・・・。

 沙緒は、なぜこの夫婦が。

 一見、仲が良さそうに見える夫婦が。

 どこかで擦れ違っていると感じている理由が、初めてわかった。

子供が欲しかったのに。

出来なかったんだ。

沙緒はそれに気付くと。

グッと、胸が苦しみに覆われてくるのがわかる。

さっきの奥さんのセリフは。

すごく寂しそうに聞こえていた。

本当に寂しそうに。

私はただ、あなたの為に、あなたが欲しいものをあげたかった。

 沙緒には、そう、聞こえた気がした。

 沙緒は気になって、もう少しだけ扉の隙間を開けると。

 顔だけを室内の方へと押し込んだ。

 そうすると、扉の右手側に積み重なっている、様々な道具が並んでいる向こう側に。

はっきりと奥さんの背中が見えて。

その向こうには、おじさんの顔が小さく見えるようになった。

 おじさんの顔は、悲しそうに歪んでいた。

 でもそれは、何かを悲しんでいると言うよりは。

 自分を責めているような顔に目に映っていた。

「ごめんなさいね・・・」

 奥さんの声が、小さく聞こえる。

 ニャオ。

 小さな子猫の声がする。

 奥さんはどうやら。

子猫を抱っこしているようだった。

想像ではあったけれど、子猫はきっと、奥さんを見ていて。

 奥さんは、その子猫を撫でているような気がした。

 沙緒からは奥さんの背中しか見えず、表情はわからなかったが、そんな気がしていた。

「お互い、自由になりましょう」

 奥さんは、顔をおじさんに向けて。

 優しくそう告げた。

 おじさんは、一気に顔を悲しみでくしゃくしゃにした。

 沙緒は、猫を譲渡出来る人を探しに、駅に行こうと準備をしていた際。

おじさんと二人で、カウンター越しに話していた会話を思い出した。

おじさんはとても。

奥さんを愛してる。

けれど、子供が作れなかった事に対して、擦れ違ってしまった気持ちがあって。

でもそれはきっと、おじさんは自分を責めている部分もある気がした。

 奥さんから愛されなくなった、と思っている理由が、きっとそこにあって。

 おじさんはただ、自分を責め続けて。

 ヤケになってしまって、沙緒と連絡を取ってしまったんだろう。

 ムシャクシャしていて、もうどうにでもなれと思っていた、と。

 あの時、言っていたから。

 沙緒が、奥さんはおじさんを愛していると思うと言っても。

 おじさんは納得いかない表情で、沙緒から顔を逸らしていた。

 孤独。

 愛する人と愛し合えない、孤独。

 それしか、無かったんだろう。

 また子猫が小さく、ニャオと鳴いた。

 奥さんは、子猫を優しく撫でているような仕草を見せる。

 沙緒には背中しか見えなくても、その優しい姿はまるで慈母のように目に映り。

 胸が切なさでいっぱいになっていた時だった。

「容子」

 おじさんの声が響く。

 低めだけど、落ち着いた、穏やかな声だ。

 奥さんを諭したいような響きに聞こえた。

「お前は、俺をもう愛していないかもしれない。子供を授からなかった事を、俺はお前がずっと責めていると思っていた」

 おじさんの言葉に。

 奥さんは子猫の方に向けていた顔を、おじさんに向けていた。

「俺はずっと、自分を責め続けてきたよ。ずっと」

 おじさんの零すような言い方が。

 孤独を感じ続けてきた寂しさを漂わせていた。

 沙緒は、無意識に。

 ぎゅっと手を握りしめていた。

 おじさん、頑張れ。

 お願い、伝わって。

 沙緒はいつのまにか、手にしっかり力をこめながら。

 強く願っていた。

 おじさんの想いが、愛情が、奥さんに届きますように、と。

「容子を幸せに出来ない原因が、俺なんだって。ずっと自分を責めていた」

「あなた・・・」

 奥さんが気遣うような声がする。

「だから・・・だからそれもあるのよ」

 今度は奥さんが、おじさんをたしなめるような声で話す。

「あなたは優しすぎるから。そうやって私が原因でもあなたは自分を責めるから。私はそれが余計に辛かった」

「辛くない!」

 おじさんは大声で張り叫んだ。

 奥さんはビクッと体を大きく震わせる。

「俺が辛かったのは、容子に愛されてないと感じることの方だ。子供なんかどうでもいい。俺はただ、容子に愛されたい。前のようにずっと仲良くしていきたい。ただ、それだけだ!」

 おじさんが、ほとばしる感情のままに叫ぶ声は。

 奥さんへの愛情が溢れんばかりこめられていて。

 沙緒はおじさんの強い想いに、揺り動かされるようになって。

 目の際が熱くなってきているのを感じていた。

「・・・あなた」

 奥さんの動揺するような声がする。

 どうしていいのかわからなくなっているんだろう。

 沙緒は、奥さんの背中を見つめていた。

 どうか、おじさんの気持ちを理解してほしい、と。

 受け容れてほしいと。

「でも私と一緒に居ても、あなたは幸せになれな」

「容子と一緒に居られない方がずっと不幸だ!」

 おじさんが叫んだ、その時だった。

 急に電話が鳴り響いた。

 おじさんと、奥さんは。

 一斉に側にある電話台に目を向ける。

 なぜだろう、沙緒には。

 ただの着信をお知らせするだけの電子音でしかない、その電話の音が。

 激しく、けたたましく聞こえたような気がした。

 まるで警告のような。

 サイレンのような。

 沙緒の体に、急に震えが走る。

 それは一気に、沙緒に恐怖を与えた。

 おじさんと奥さんは、少し気まずそうに顔を合わせた後、すぐに顔を逸らしたが。

 おじさんが頭を掻きながら、電話台の電話に近づき。

 受話器を持ち上げる。

「はい、喫茶店『結』です。あ、はい。どうも・・・」

 そう言った後。

 おじさんは、言葉を失った。

 奥さんもそのおじさんの反応に、一気に気配を固くする。

 緊迫した空気が漂った。

「・・・今すぐ行きます」

 おじさんはそれだけ震えるような声で言うと。

 受話器を電話機へと戻した。

「あなた・・・?」

 奥さんが信じられないような声で、おじさんへと近づく。

「おばあちゃんが、危篤状態に陥った」

 おじさんは顔をこわばらせながら、奥さんに言うと。

 奥さんは両手で顔を覆い。

 子猫はその腕から飛び降りて、一気にどこかへと走り抜けていった。

「何言って・・・」

「・・・時間の問題らしい。行こう、早く」

 おじさんのくぐもった声が。

 現実の重さを辺りに響かせる。

 奥さんが、顔をもっと深く両手で覆うと。

「そんな・・・」

 同じようにくぐもった声を出す。

 それ以上、言葉は続かなくなっていた。

「・・・容子」

 おじさんは奥さんに近づくと、顔を覆って俯いている奥さんの肩を抱き寄せ。

 そのまま、奥さんの体を腕の中へと引き寄せた。

 奥さんは、吸い込まれるようにおじさんに抱きしめられたまま、顔を覆っていて。

 肩と背中が震えているのを見ると、泣いているように思えた。

「・・・行こう。一人で逝かせてはいけない」

 おじさんの落ち着いた言葉が、奥さんの上に降り注ぐと。

 奥さんは、声を上げて泣き始め。

 奥さんはそのまま、おじさんの背中に腕を回してしっかりと抱きついた。

 おじさんは、傍から見てもわかるほど、思いきり強く奥さんを抱きしめて。

 愛おしそうに背中を撫でていた。

 沙緒は。

 その姿を、どこか意識の遠くで眺めていた。

 理解が、出来なかった。

 どういうことなのか。

 何を言っていたのか。

 聞こえていはいた。

 内容もわかっていた。

 けれど、認めたくなかった。

「・・・すみませーん」

 後ろから急に降ってわいた声に。

 沙緒は驚いて振り返る。

 カランカランと大きな音が響くほど、勢いよく開かれたドアの向こうから入って来たのは。

 吉田さんだった。












「沙緒ちゃん・・・」

 おじさんの声が後ろから聞こえて。

 沙緒は吉田さんを見た後、また後ろを振り返る。

 おじさんと奥さんは、体をすぐに離したらしく。

 二人は抱き合ってはおらず、横に並んで立っていた。

 奥さんの顔は、涙と悲しみで歪んでいて。

 沙緒はその顔を見た瞬間、自分の奥にある何かがはじけ飛んだ気がしていた。

「沙緒ちゃ・・・」

「いやっ!」

 沙緒は大きく叫んだ。

 その瞬間、涙が一気に溢れ出る。

 嫌だ。

 違う。

 そんなことなんて、絶対ない。

 だって、今、会って来たんだから。

 話してきたんだから。

 おばあちゃんと、ついさっき。

「沙緒ちゃん」

 おじさんと奥さんは、慌てて沙緒の方へと近づいてくる。

 沙緒はその二人から離れるように、ドンドンと後ろへと下がって行き。

「元橋さん」

 背中がドンとぶつかって止まった時には。

 後ろから声がした。

 振り返ると、吉田さんの驚いた顔があった。

「どうしたの、何があ・・・」

「あんたには関係ない!」

 沙緒は半ばパニックのように叫んでいた。

「沙緒ちゃん」

 おじさんは沙緒に駆け寄ると、沙緒の両肩をつかんだ。

「嫌だ!離して!そんなの嘘だ!」

「沙緒ちゃん!」

「沙緒ちゃん・・・」

 奥さんとおじさんが沙緒を呼ぶ声がする。

おじさんの手はすごく力強く。

 身じろぎして暴れても、沙緒の体はおじさんの手から逃れることは出来なかった。

 顔をくしゃくしゃにして泣きながら、奥さんは沙緒に近づくと、沙緒の背中を撫で続けた。

「沙緒ちゃん、沙緒ちゃん、わかるわ。ショックよね、私もそうよ」

「嫌・・・そんなの嫌ぁ!」

 沙緒は暴れながら叫び続ける。

 涙が両目から止めどなく溢れ続けた。

 信じられない。

 信じたくない。

 沙緒の心の中には、訳の分からない黒い嵐が吹き荒れて。

 自分を一気に吹き飛ばしてしまいそうに思えていた。

 もうそのままいっそ、その黒い嵐に吹き飛ばされてしまえばいいとさえ思っていた。

 何もかもわからないくらいに。

 理解する事なんて必要ないくらいに。

「沙緒ちゃん」

 おじさんは沙緒の肩を強く掴んだまま、前後に揺する。

 沙緒は、される勢いのまま、力の入らない人形のようになって、ガクガクと体を揺らした。

「沙緒ちゃん、良く聞いて。俺たちはもう病院に行かなくてはならないんだ。おばあちゃんに会わなくてはいけない。看護師から連絡が来ているからね」

「~~~っ!」

 沙緒はうめき声のような悲鳴を上げた。

「沙緒ちゃん、沙緒ちゃんはここに残るんだ」

「嫌!」

 沙緒は想いもかけない言葉に目を見開くと、おじさんに向かって信じられないとでも言うように叫んだ。

「行きます!私も行きます!」

「元橋さん」

 後ろから冷静な声がする。

 吉田さんの、高めの声が。

「元橋さん、これから猫を引き取りにみんなが来るでしょう。元橋さんが行くわけにはいかない」

「勝手な事言わないでよ!」

 沙緒は体をねじ曲げて力任せに振り向くと、後ろにいる吉田さんに叫んだ。

「冗談じゃない!私、絶対行く!おばあちゃんに会う!」

「じゃあ猫は誰が引き渡すの!」

「知らない・・・!猫なんてもうどうでもいい!」

「おばあちゃんから託されたんでしょ!」

 吉田さんは大きな声で、沙緒に鋭く言った。

 沙緒はその声の大きさにビックリして、一度体を固くすると。

 目を見開いたまま、吉田さんを見た。

 吉田さんは、自分でも出したことがないくらいの声だったのか。

 叫んだせいで一瞬熱くなったのか、顔をほてらせていた。

「その猫たちは、おばあちゃんの為に、元橋さんが譲渡先を探したんでしょ」

 吉田さんはわざと。

 淡々と冷静に、沙緒に話していた。

「沙緒にはやらなきゃならないことがある」

 吉田さんに、名前を呼び捨てにされて。

 沙緒は一瞬、何がなんなのか分からなくなった。

 淡々と話す吉田さんは。

 沙緒のパニックを少しずつ鎮めていた。

「いいです。私がいるんで」

 吉田さんは、おじさんと奥さんに、そう短く言うと。

 二人にコクリと小さく頷いた。

 沙緒はその姿が嫌で、おじさんの手が少し緩んだ隙に、体をよじっておじさんの手から逃れ。

吉田さんに一直線に駆け寄ると、思いきり吉田さんの頬を横殴りに引っぱたいた。

「あんたに何がわかるのよ!」

 心突き刺される痛みのまま。

 沙緒は心がわめくままに叫んだ。

 吉田さんは、沙緒に思いきり平手打ちをされたのに。

 顔を横に向けたまま、何も動かず、何も言わない。

 沙緒は、感情のまま平手打ちをしたものの。

 あまりに吉田さんが何も言わず、動かないので。

徐々にだが、少しずつ、我に返り始めていた。

 吉田さんは、そんな沙緒の雰囲気をつかんだのか。

 ゆっくりと、顔をおじさんと奥さんに向けると。

 また、少し微笑んだ。

「大丈夫です。行ってください」

 力強いその言葉に。

 おじさんと奥さんは、顔を見合わせてはいたが。

 吉田さんが凛とした態度で佇んでいるのを見ると、心を決め。

 『頼むね』と言って、吉田さんに会釈をしながら横を通り抜け。

 喫茶店から出て行った。

「ダメ」

 沙緒がその後をついて扉まで走ろうとすると。

 吉田さんは両手を広げて、沙緒の行きたい方向を塞いだ。

「どけてよ!」

「ダメ。沙緒にはやることがあるでしょ」

「人の事、勝手に呼び捨てにするな!」

 沙緒は感情のまま叫び続ける。

 呼吸は荒れているし、顔も熱くなっていて真っ赤になっているだろう。

 変な汗が体中から吹きだしているのもわかっていた。

 でも、止まらなかった。

 止められなかった。

 吉田さんは、冷静に沙緒を見つめる。

 まるで氷で熱を冷ますかのように。

「なんなのよ、一体!私の気持ちなんて全然分かんないくせに!」

「わかるよ」

「わかんないわよ!」

「わかる。私が一番わかる」

 吉田さんは、まるでジャッジを下す裁判官のように冷静に言った。

 沙緒は判決を食らったように、一度黙る。

「そうでしょ。私が一番わかる。私は両親を事故で一度に失ったから」

 沙緒は。

 その時、やっと。

 頭の芯が、ザッと冷えたような感覚を感じていた。

「私が一番わかる。沙緒の気持ち。どれだけ辛いか。苦しいか。痛くてしょうがないか。信じたくなくて訳が分からなくなっているのも、何もかも、わかる」

 吉田さんは、冷静に。

 淡々と言い続ける。

 沙緒は。

 その羅列された言葉を聞きながら。

 その全てが、今の自分のありのままだと悟っていた。

「沙緒。沙緒には今、出来る事がある。だから、それから逃げないで」

 吉田さんの頬は。

 赤く腫れ始めていた。

 沙緒が思いきり力任せに叩いたからだった。

 少し青く斑点のようになっている部分も出てきている。

 ケンカをしたことがない沙緒には、力の加減なんて出来なかった。

 ただ、自分の中に暴れまくる感情を、全て吉田さんのせいにしてぶつけてしまった。

 その事実が、頬に跡をクッキリと残していた。

 沙緒は、徐々に。

 暴れる力を失っていった。

 心は悲しくて痛くて、引き攣れてしまいそうだったが。

 さっきのような感情の塊みたいなものは、沙緒の中で暴れることはなかった。

 何をしてしまったんだろう。

 少しずつ、荒れた気持ちが落ち着いてきて、沙緒は徐々にうろたえ始める。

 沙緒の雰囲気が変わってくるのを見て、吉田さんは広げていた両手を下ろした。

「沙緒、もう私の友達が来るから」

 吉田さんが冷静に告げると。

「すみませーん」

 カランカランと扉が開く鐘の音がして。

 吉田さんと沙緒は扉の方を見た。

 そこには、二人の男女が笑顔で喫茶店に入ってくるところで。

「絵里!」

 吉田さんの顔を見ると、二人は嬉しそうに笑いかけ。

 吉田さんは二人に同じように、嬉しそうに微笑んだ。











「・・・」

 沙緒がずっと黙っていると。

 吉田さんは、沙緒の隣で呆れたような顔をする。

「もういいって。落ち込みすぎだって」

 沙緒はそう言われても。

 すっかり青黒くなってきている吉田さんの頬に、ただ申し訳ない気持ちに襲われ続け。

 うなだれるだけだった。

「帰っていいよ」

 沙緒は、吉田さんにようやくそう言うと。

 吉田さんは横目で沙緒を見ながら、ぽつりとつぶやいた。

「やだね」

「は?」

 沙緒は思わず顔を上げて、吉田さんを見て。

 その方向に腫れた紫色の頬を見つけると、またうなだれた。

「帰んないよ。一人にしたらどうなるかわかんないし」

「別に変な事なんてしない」

「わかんないでしょ。そんなの。こういうの経験するの初めてでしょ」

 吉田さんにたしなめられるように言われて。

 沙緒は言葉を返せなかった。

 喫茶店に、吉田さんの友達が来た後、すぐ。

 譲渡の場所で、引き取りに来てくれる約束をしてくれた夫婦とOLさんも来てくれて。

 結局あっという間に引き渡しは完了した。

 ただ、おじさんと奥さんが飼う事になっていた子猫は、物置の中を逃走したままだったので、吉田さんと一緒に探し。

 何とか捕まえる事に成功すると、ケージに吉田さんが引き取る分の猫と一緒に戻しておいた。

 今日はここで、二匹で過ごしてもらう事にして。

 エサや水などをあげ、砂を取り替えてあげると、二匹はじゃれながら遊び始め。

しばらくすると、ダンボール製の猫ベッドの中で寄り添って眠り始めた。

 途中、いつも来る常連さんが何人か来たが。

 事情が事情なだけに、沙緒は今日は何も提供できないことを伝え、深く謝り。

 常連さんも、仕方ないねと、理解して帰ってくれた。

そんなことをしていると、おじさんと奥さんが病院に行ってから三時間が経過し。

 喫茶店も閉店の時間を過ぎたので、沙緒は吉田さんの手を不本意ながらも借りながら閉店準備をし。

 喫茶店の鍵をかけて、おばあちゃんの家へと二人でやって来た。

 吉田さんは、何度帰れと言っても帰らず。

 沙緒の隣にずっといた。

 猫たちは最初、吉田さんを見たことがなかったので警戒していたが。

 吉田さんは、自分から触って歩くような事をしない為、そのうち猫たちから興味を持って近づきだし。

 寄って来た猫たちを、微笑みながら優しく撫でてあげていた。

 沙緒は、吉田さんを平手で殴って腫らせてしまった頬が申し訳なく。

 濡れたタオルを渡して冷やすように声をかけていたが、吉田さんは適当にタオルをあてると、もういいやと言って、テーブルの上に置いてしまっていた

 慣れてるからって。

 そのうち引くから大丈夫って。

 言われたその言葉に。

 沙緒はまた、言葉を失ってしまっていた。

 吉田さんは一体。

 自分が知らなかっただけで、裏でどんな生活を送っていたのか。

 沙緒は徐々に明かされていく吉田さんの状況に、何も言えず、ただ俯くばかりだった。

 それから一時間後。

 沙緒のスマホが鳴った。

 取りたくなかった。

 でも、仕方なかった。

 おじさんからの着信を見て、沙緒は。

 スマホの画面をスワイプすると、電話に出た。

 その後、言われた言葉は、案の定の言葉で。

 沙緒はその瞬間から、堰を切ったようにまた涙を溢れさせた。

 吉田さんは、電話を切った後、床に崩れるように倒れて泣く沙緒の背中を抱きかかえるようにして。

 そのままずっと、沙緒の隣に居た。

 沙緒は、自分を包み込む、吉田さんの体を押し返す力もなく。

 ただ、吉田さんの体温に包まれたまま、絨毯に突っ伏して泣き続けた。

 おばあちゃんにもう一度会って。

 話したかった。

 沙緒はずっとそう思いながら、ワンワンと声を上げて泣き続けた。

 吉田さんはずっと、沙緒の丸めた背中を抱きしめながら。

 沙緒の肩から腕にかけて、力をこめて撫で続けていた。











 いいだけ泣き続けて。

 沙緒は疲れて、そのまま床で眠ってしまった。

 吉田さんはそんな沙緒に、押し入れから布団を持ってきて、体の上にかけていってくれたんだろう。

 沙緒が目を覚ました時には、沙緒の体には厚めの掛け布団がかけられていた。

 床に倒れている状態で、壁にある時計に目をやると。

 既に昼の十三時頃になっていた。

 沙緒は、床で寝ていたせいで、あちこち痛む体と、心をそのまま表しているとしか思えない重い体を無理やり起こした。

 そこへ、猫たちがそれぞれに寄って来て、「ニャア」と鳴きながら沙緒の周辺に群がり始める。

 沙緒はぼんやりとしていたが、猫たちが沙緒に力強く体をすりよせてくるのに気づき。

 ご飯を用意するために、よろよろと立ち上がった。

 猫たちは後ろを群れて付いてきて、沙緒の行動を見守っている。

 沙緒はよろよろしながらも、頭数分のエサを用意して、いつものエサ置き場に持っていってあげると。

 猫たちは、一斉にそれぞれの器に群がっていった。

 テーブルには、吉田さんからの書きおきがあり。

 そこには、仕事に行ってくるねと書かれていた。

 沙緒はそれを手にとって眺めると、また机の上に戻し。

 猫たちがエサを夢中になって食べている姿を、立ったままなんとなく眺めていた。

すると、ふと。

サキが、顔を上げる。

 沙緒とサキは、そのまま少し見つめ合った。

 五秒もしなかっただろう。

サキがまた、エサが入っている器に顔を向けた時。

 沙緒は、ふと、思い出していた。

 おばあちゃんが、サキに会いたがり、サキを撫で続けていた姿を。

 サキは、黙々とエサを食べ続けている。

 沙緒はその姿を見つめながら、サキをまた、おじいちゃんのところへ連れていこうと心に決めていた。

 おばあちゃんは、サキに何かを託したかもしれない。

 ただじっとサキと見つめ合っていた姿を思い返すと、サキをおじいちゃんに会わせなくてはいけない気がしていた。

 おばあちゃんが亡くなった事も、おじいちゃんに伝えなくてはならない。

 沙緒は、一度自分の両頬を、パンと力強く叩き。

 自分に気合を入れると、洗面所へと歩いていき、顔を冷たい水で洗った。

 体の芯からちゃんと、動いていけるように。

 おばあちゃんから託された目的を果たせるように。

 何度も何度も、水で顔を洗い続けた。











 沙緒はバスに揺られながら。

ついさっき、奥さんから受けた電話の内容を思い出していた。

 おばあちゃんのお葬式の話だ。

 息子さんは早めに海外から戻ってこれるようになったが、息子さんの都合に合わせて、三日後にお通夜、四日後に告別式となった。

 おばあちゃんは生前から、もしもの時は、本当に親しい身内と友人だけ集まるようにしたいと言っていたとの事で。

 家族葬のような、小さなお葬式にするとの事だった。

 沙緒はバスに揺られながら、窓の外の遠くを見やる。

 沙緒の視界を流れて行く景色は、ただ淡々として目に映る。

 生活感を感じる家並みと、人と車。

 そんな景色を、ただ目の奥で黙々と流し続ける。

 その中を走るバスに揺られながら、未だにどこか、現実味を感じられない自分がいた。

 まだ、信じられない。

 まだ、信じたくない。

 沙緒の心は、もどかしく、小さく葛藤している部分があった。

 それは現実を認めたくないという、抵抗でしかないのだけれども。

 沙緒はまだ、抗っていたかった。

 おばあちゃんと、もっと、話したかった。

 沙緒の素直な、気持ちだった。

 『ニャア』

 隣からサキの声がして。

 沙緒はふと、隣の座席の上に置いてあるキャリーを見つめた。

 声がしただけで、特に中で動いている気配はない。

 その声は、まるで沙緒の気持ちに同調するかのようで。

 沙緒は口元を小さく緩めた。

「・・・サキも会いたいよね」

 沙緒は小さな声で、キャリーに顔を近づけると、扉近くからサキに声をかけた。

「信じられないよね、まだね」

 そうやって話しかけていると。

 また、目の淵が熱くなってくるのを感じた沙緒は、それ以上喋るのをやめて、また窓の方へと顔を向けた。

 流れて行く景色を見ていれば、少し気が紛れる気がした。

 どうせなら。

この苦しみも、胸が詰まったような痛みもみんな一緒に流れていって。

おばあちゃんが帰ってくればいいのに。

沙緒はそんなことを思いながら、バスの窓にこつんと頭をつけた。

まだ夏だけれど。

ほんの少しだけ、窓ガラスが冷たく感じた。

どうにもならない感情で熱くなっている頬の分だけ、冷たく感じた。












「こちらですよ」

 この前とは違う人だった。

 おじいちゃんの部屋へとテキパキとした動作で案内をしてくれる、施設職員の女性の背中を眺めながら、沙緒は黙って歩いていく。

 おばあちゃん。

 沙緒は、心で呟く。

 目の奥には、あの、小さな皺がいっぱいだった、小さな顔が浮かぶ。

 優しい笑顔で。

 まあるい笑顔で。

 沙緒は、施設の玄関に入り、すぐに隣の事務所に寄ると。

 沙緒を案内してくれている職員に、おばあちゃんが亡くなったことを告げた。

 驚いて声を失っている職員に、葬式等の話もし、今は自分がおばあちゃんの代わりにおじいちゃんに面会に来た事を伝えていた。

 職員は「わかりました」と答え、沙緒をおじいちゃんの部屋へと案内してくれている。

 そんな中。

沙緒の横で、サキが入っているキャリーが、沙緒の動きと共に小刻みに揺れ続けている。

 部屋が近づくにつれ、沙緒は、気持ちが重たくなってきて。

 その分なのか、サキのキャリーも重く感じるようになっていた。

 重たい・・・。

 沙緒は、右手が引きずられるような重さを感じつつも歩き。

 職員がおじいちゃんの部屋のドアまで来ると、軽くノックをした後、サッと素早く扉を開けて、中へと誘導してくれた。

「じゃ、私はこれで」

 この前の人とは全く違い、あっさりとした人だ。

 笑顔でそう言って、沙緒に会釈をすると、すぐに部屋から出て行った。

 今、何かしなくてはならない事があるのかもしれないが、ベッタリと職員に部屋に居られたこの前の時よりも、ずっと気が楽だった。

 沙緒はベッドへと近づく。

 おじいちゃんは、今日は横にはなっていなかった。

上体を起こすように、ベッドの半分からマットレス部分が立ち上がり。

その立ち上がっているマットレスに背中をもたれさせ、真正面のどこかを眺めていた。

お人形のように、静かに身動きもせず、座っている。

 沙緒は、一度床にキャリーを置くと、おじいちゃんのベッドの横に折り畳まれているパイプ椅子を二つ並べて開き。

 片方のパイプ椅子には、サキが入っているキャリーと、背負ってきたリュックを置いた。

 沙緒は、その隣に腰を下ろすと、改めて目の前で体を起こした姿のおじいちゃんを見る。

 おじいちゃんは、沙緒が横に座っても、真っ直ぐ前を見たままだ。

 気配にさえ、気づいていないように思えた。

「おじいちゃん」

 沙緒は試しに呼びかけてみる。

 おじいちゃんは、何も反応しない。

 沙緒は思い切って、もう少し体をおじいちゃんに近づけると、大きな声で呼びかけた。

「おじいちゃん!」

 そう呼びかけると、おじいちゃんは、ピクリと頬を動かした。

 沙緒はその姿を見ると、隣のキャリーへと手を伸ばして、キャリーの扉の鍵を開けるとサキを中から引っ張り出した。

 サキは大人しく、沙緒の手に引かれるままに体を預けている。

 沙緒はそのままサキを抱っこして、椅子の前で立ち上がった。

「おじいちゃん、サキだよ。またサキを連れてきたよ」

 沙緒は、まるで赤ちゃんを抱いてあやすように、サキを抱っこしたまま体を左右に揺らしつつ、おじいちゃんに声を掛けた。

 おじいちゃんは、気が抜けてしまったような顔で、口をぼんやりと半開きにしたまま、真っ直ぐ前を見続けている。

 どう話しかけていいのか、沙緒は戸惑っていたが、まずはサキを抱っこしたままおじいちゃんの足の方へと回り、ベッドの柵にお腹をつけたまま、おじいちゃんの視界の前に立ってみる。

 おじいちゃんは、焦点の合わない目で、沙緒のどこかを見ていた。

「おじいちゃん、サキだよ。わかるかな」

 沙緒は両手で、サキの脇を抱えるように持ちながら、サキだけが良く見えるように、おじいちゃんの前へと差し出してみる。

 おじいちゃんは差し出されたサキに、最初は反応を示さなかったが、何かに気付いたのか徐々に視線をサキのお腹の方へと向けた。

 沙緒は、しめたと思い、そのまま体をなるべく前へと倒しながら、おじいちゃんの前へ、もっとサキを近づける。

 柵がお腹に食い込むし、沙緒の二の腕はサキの重さでプルプルし出したが、沙緒は耐えれるだけ耐えて、おじいちゃんの目の前にサキを差し出し続けた。

「ニャオ」

 サキも、両脇を支えられたままの体が辛くなったのか、ひと声鳴いたので、沙緒はおじいちゃんの足元の布団の上に、サキをそっと下ろしてみた。

 またこの前みたいに逃げちゃうかな。

 沙緒は、キャリーをチラリと見、サキを見たが。

 サキは驚くほどに、布団の上で落ち着いて座っていた。

「・・・」

 おじいちゃんは聞きとれない声を出す。

 なんて言っているのかはわからない。

 うぅ、えぇぇ、みたいなような声だった。

 サキは、大人しくおじいちゃんの足元で座っている。

 沙緒は、そのままベッド横のパイプ椅子の前まで回ると、一度腰を下ろした。

 おじいちゃんは、喉から何かを出すような声を出しているものの、苦しげな様子ではなく。

 何か言葉を出したいけれど、上手く出ないような感じに聞こえていた。

 サキはじっと、おじいちゃんを見つめている。

 そのうち、サキはお座りの姿勢から、一度四つん這いの姿勢になり。

 ゆっくりと、おじいちゃんの胸の下辺りまで歩いて来ると、そのままくるんを体を回転するような仕草で、おじいちゃんの胸の前で体を丸めた。

 おじいちゃんはサキが動くのに合わせて視線を動かし、目の前の胸の前で丸くなったサキを見つめ続けると。

 掛け布団の下に潜り込ませていた手をゆっくりと出し、サキの体を撫で始めた。

 沙緒は、嬉しくて思わず椅子から立ち上がった。

「おじいちゃん!サキがわかるの?」

 笑顔で話しかけたが、おじいちゃんは静かにサキを見ながら撫で続けるだけで。

 沙緒には特に反応を示さなかった。

 沙緒の事を知らないから、興味を持たないのも仕方ないかもしれない。

 沙緒は無反応のおじいちゃんに、仕方ないかと思いつつ、また静かに腰を下ろした。

 それでも、おじいちゃんがサキに反応を示してくれたのは嬉しかった。

 サキは、ずっと大人しく体を撫でられ続けていたが、ふと顔を上げると、おじいちゃんの顔を見上げ。

 そのまま体を持ち上げると、おじいちゃんの胸の辺りに前足を当てたままで立ち上がり。

 おじいちゃんの首の下辺りに頭を寄せると、何度も何度も頭を動かしながら擦りつけていた。

 それはなんだか。

まるでサキが、おじいちゃんに想いを伝えるかのようにも見えた。

 サキはずっと、その状態を続け。

 おじいちゃんは、擦り寄り続けるサキの背中を、またゆっくりと撫で続ける。

 サキはずっと、ゴロゴロと喉を大きな音で鳴らし続け。

 おじいちゃんは今度は、自分の首元で頭を擦り続けるサキの頭を撫で始めた。

 サキはそこで、頭を動かすのをやめ。

 顔をおじいちゃんの方へと持ち上げる。

 おじいちゃんは、自分を見つめてくるサキと、そのまま顔を見合わせて。

 そのまま、じっと見つめ合っていた。

 おじいちゃんは、サキの後頭部をゆっくりと撫でていたが。

 やがてその手も、静かに止まった。

 それでもサキは、おじいちゃんを見つめ続け。

 おじいちゃんもまた、サキを見つめ続ける。

 ただ、じっと。

 音もない世界に静かに映る、一人と一匹の姿がなぜか。

 沙緒には、不思議に、一枚の絵を見ているような気持ちになっていた。

 それは柔らかくて、とても暖かい色遣いの絵で。

 本当は簡素で質素な、ただ寝起きだけを中心に考えられたような無機質な部屋なのに、何故だかとても微笑ましく、心安らぐような環境に見えてくる。

 同じ部屋なのに、急に違う部屋に居るようだ。

 沙緒はそんなことを思ったまま、呼吸をするのを忘れたかのように。

 サキとおじいちゃんを、じっと見つめていた。

 サキが、真っ直ぐにおじいちゃんを見つめている姿に。

 沙緒は、おばあちゃんが、いつもおじいちゃんの話をする時に。

 寂しそうな姿だったのを思い出す。

 会いたくて、会っても。

 おじいちゃんは、自分をもう覚えていなくて。

 おばあちゃんは、どれだけ寂しかっただろう。

 辛かっただろう。

 サキが甘えているのは、おばあちゃんの気持ちを伝える為なのかな。

 おばあちゃんとサキは、ずっと見つめ合っていた。

 今のサキと、おじいちゃんのように。

「ニャア」

 サキが可愛い声で鳴く。

 高い高い声で。

 その声は、まるで子猫のような声に聞こえた。

 子猫特有のあどけない素直さが混じったような、澄んだ響きのある鳴き声。

 おじいちゃんは、その鳴き声を聞くと。

 しばらく静かにサキを見つめていたが。

 急に。

 ふっと。

 小さく微笑んだ。

 その微笑みは、今の今まで、全てを忘れて魂が抜けてしまっているような人の微笑みではなかった。

 意思を持って、微笑んでいた。

「ニャア」

 サキはその微笑みに応えるように、またあどけない可愛い声で鳴いた。

 おじいちゃんの微笑みはとても暖かく、優しく。

 サキを柔らかく見つめていたが、また手をサキの頭に当てると、ゆっくりと撫でだした。

 サキは、安心したかのように目を細める。

 その手を嬉しく思っているように。

 沙緒は、何も出来なかった。

 その光景を、ただ見つめているだけで。

 何かをしてはいけないような気がしていた。

 だから、ただじっと、黙っていた。

 サキとおじいちゃんの姿を、見つめ続けていた。












 沙緒は、おばあちゃんの家に戻るとすぐに。

 猫たちの晩ご飯をあげていった。

 結局、沙緒は、サキとおじいちゃんがずっと見つめ続けていた為。

 いつ何をどうしていいのか分からず、ただ座って状況が何か変わるのを待ち続けていた。

 けれどそれは、どれだけ時間が経っても変わらず。

 サキとおじいちゃんは、飽きることなく、ずっと寄り添い続け。

 サキは、おじいちゃんに喉を大きく鳴らしながら顔や体を擦りつけ。

 おじいちゃんは、ずっとそんなサキの体を微笑んだままで優しく撫で続ける。

 沙緒はその状態を一時間見つめたまま、サキとおじいちゃんが何もしなくなるのを待っていたが。

 状況が変わらないまま、二時間近くが経とうとする頃。

いよいよ沙緒は立ち上がり、サキとおじいちゃんに声をかけた。

というのも、廊下が賑やかになって来たからだ。

そろそろ施設内は晩ご飯の時間らしく、職員が慌ただしく動く足音や、声を掛け合っているのが聞こえている。

もう、行かなくちゃ。

「サキ、おじいちゃん。もうご飯の時間みたいだから、そろそろね」

 もういいだけ長時間、見つめ合い触れ合い続ける、サキとおじいちゃんを見守って来たのだから。

 遠慮はしなくていいはずなのに。

 なんだかカップルを引き裂くような気持ちになって、沙緒はすまなそうに言いながら、お願いをした。

「サキ、もう帰ろうね。うちにもご飯を待ってる子がいるから」

 沙緒がそう言って、おじいちゃんに撫でられ続けるサキに手を伸ばすと。

 サキは急に沙緒を振り返り、シャーッと声を出して毛を逆立て、沙緒を拒否した。

 そんなことをされたことがなかった沙緒は、ビックリして思わず差し出した手を後ろへ引いてしまうと。

 サキはしばらくその状態で沙緒を見ていたが、またおじいちゃんの方を見ると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、頭を擦りよせていた。

 沙緒がどうしたら、と、困惑していると、後ろにある部屋のドアがノックと共に開かれ。

 沙緒を案内してくれた、サバサバした感じの女性が入って来た。

「さ、ご飯の時間ですよー!鎌田さん!」

 元気なカラッとした声を出しながら、女性職員は素早くベッドへ近付く。

 職員は沙緒に微笑みかけると、沙緒がいる反対側の方から車イスを動かして運んできて。

 沙緒が座っているパイプ椅子のところにつけた為、沙緒は慌ててパイプ椅子をどかした。

 職員は沙緒に礼を言いながら、沙緒がどかした椅子の場所に車椅子をつけて、おじいちゃんにまた声をかける。

「鎌田さん、食堂に行こうね!」

 おじいちゃんの耳元で大きな声で呼びかけると、おじいちゃんはそれまで微笑んでいた表情を、ぴたりと止めて。

 また、沙緒が来た時と同じような、魂が抜けたようなぼうっとした顔へと戻っていった。

 沙緒はキャリーを手にし、サキを連れて帰るためにサキの側に寄っていったが。

 サキも、おじいちゃんから体を離し、掛け布団の上で体を丸めると、そのまま眠るように目を閉じていた。

「サキ、サキ。もう行くよ」

 沙緒は眠っているサキに手を伸ばしかけ、またシャーってやられるかと、思わず手を少し引っ込めたが。

 サキが目を閉じたままでいたので、沙緒はまた手を伸ばして、サキの頭に手を置いた。

 サキは急に、ゴロゴロと喉を鳴らしだす。

 沙緒がそのまま撫でると、嬉しそうに頭を沙緒の手の平に押しつけてきた。

 ・・・いつもの、サキだ。

 沙緒は、そう感じていた。

 サキは穏やかで、大人しい猫だ。

 あんな風に威嚇するような姿を、今まで一度も見たことがなかったし、他の猫たちにもそんな真似をしたことがない子だったので。

 沙緒はまるで、さっきまでのサキが中身が変わった別な猫だったような気がして、不思議な気持ちになっていた。

 職員が、おじいちゃんを車椅子に移動する為に柵などを外し始めた為。

 沙緒はすぐにサキを抱っこして抱えあげると、一度床に置いたキャリーの扉の中へサキを入るように促しながら入れた。

 サキはいつものように、大人しくキャリーの中に入っていく。

 沙緒はホッと胸を撫で下ろすと、キャリーの扉を閉め、忙しそうに動いている職員の背中に声をかけた。

「すみません、有難うございました」

「お気をつけて!」

 職員は沙緒を見て、ニッコリ笑うとそう言い、またおじいちゃんの介助に戻った為。

 沙緒は職員の背中に、再度ペコリと頭を下げると、リュックを背負い、キャリーを手にして部屋を後にした。

 家に戻って来たのは、もうすぐ十九時になるところだった。

 沙緒は猫たちのエサを一通り準備すると、今度は自分の晩ご飯に取り掛かった。

 ご飯は炊いてあったので、玉ねぎとハムを刻み始める。

 今日は、オムライスにしようと思っていた。

 ある程度刻み終えると、沙緒は冷蔵庫から卵を取りだし、器の中で卵を割り入れて溶き始める。

 ・・・不思議な光景だった。

 沙緒は、箸を回すたびにぼんやりと渦を巻く卵を眺めながら、心で呟く。

 サキ、あの時ずっと、別な猫みたいになっていた。

 おじいちゃんも少し経つと、まるで正気に戻ったような顔で笑っていたし。

 なんだったんだろう。

 沙緒はそんなことをぼんやりと思いながら、着々とオムライスを作っていく。

 出来あがったケチャップライスを皿に載せ、その上に焼いた薄焼き卵をかけると、ケチャップを上から適当に回しかけた。

 それを居間のテーブルに運び、一人で「いただきます」と言って、食べ始めた頃。

 沙緒のスマホに着信があった。

 奥さんからだった。

「はい。沙緒です」

 もぐもぐと口を動かし、オムライスを食べながら名乗ると。

 沙緒は、奥さんが慌てたように話してきた内容に絶句し。

 噛む事を忘れ、言葉を失った。

 沙緒は、何が起きたのか、まったく理解できず。

何も言葉は出なく、思いつかなかったが。

ただ、部屋の端の方でご飯を食べ終え、体を丸くして眠っているサキを見つめた。

サキは沙緒が見ても、何も反応しない。

だけど・・・。

「沙緒ちゃん、沙緒ちゃん。大丈夫?」

奥さんの慌てるような気遣う声が耳元で響く。

沙緒は何も答えられないまま立ち上がると、サキが眠っている場所へと歩いていき。

サキの前に、ペタンと両足を右側に折り曲げて座り込んだ。

「サキ」

沙緒はサキに声をかける。

サキは何も言わず、目を閉じていた。

沙緒は空いている手で、サキの体を撫でると。

サキはようやく目を開けて、沙緒の方を見る。

沙緒はそんなサキを撫でながら、短く伝えた。

「おじいちゃんが、亡くなったよ」

 その言葉に、サキは。

 何も言わず、沙緒を見つめていた。












 沙緒は、あまりのショックに何も出来ないまま。

まったく感覚がない時間を丸一日過ごしていた。

次の日。

沙緒は前日とあまり変わらないような状態のまま、壁にもたれて座っていた。

呆然自失って、こんな感覚なのかな。

 沙緒は、どこかで聞いた事がある言葉を思い出していた。

 おばあちゃんの家の中。

 沙緒は、ぼんやりと両足を前に伸ばした姿で、床に座り続けていた。

 おじいちゃんは、沙緒たちが帰ってから、割とすぐ。

 急に心臓が停止したとの事だった。

 あまりの事で職員も驚き、救急車でおじいちゃんを運ぼうとしたが。

 救急車が着いた頃には、おじいちゃんは完全に息を引き取ってしまっていたとの事だった。

 おじいちゃんの葬式は、おばあちゃんと一緒に行うとの事だった。

 明日、息子さんが日本へ戻って来るらしい。

 喫茶店は明日は営業するから、沙緒は出なくてはならない。

 おばあちゃんとおじいちゃんの事は、息子さんが後は一手に引き受けてくれるとの事だったが、奥さんは、自分が出来る事があるなら手伝うと、明日は喫茶店には出ず、息子さんと一緒に行動するらしかった。

 居酒屋も、本当は昨日も今日も出勤だったが、体調不良と言って休んでしまっていた。

 それも明日からは、ちゃんと出なくてはならない。

 おじいちゃんとおばあちゃんのお通夜と告別式の日は、喫茶店は早めに営業を終了するのと臨時休業で対応するとの事だった。

 部屋の中をぐるりと見回すと。

 自分の猫と、おばあちゃんの猫たちが寄り添って眠っている。

 これから、どうなっていくんだろう・・・。

 命ってこんなに軽いんだっけ?

 こんなにも急に目の前から消えてしまうものなんだろうか。

 おじいちゃんまで、本当に後を追うかのように行ってしまった。

 沙緒は一人で、体も心もまったく力が入らない状態で。

 ぼんやりとどこかを見続けていた。

 体がだるくなり、ごろりと床に寝転ぶと、沙緒はそのまま右へ体を回転し。

 辛い気持ちを抱えたまま、そのまま床で少し仮眠をしようかと思っていた。

 その時。

寝転がった沙緒が、少しだけ顔を上げると。

 たまたまそこに、寝室にある仏壇が目に入った。

 窓から差し込む、柔らかな陽の光に照らされて。

 木の色が深く、優しく目に映る。

 それをぼんやりと見ていたが、沙緒はふと、思い出した。

 おばあちゃんが教えてくれた話を。

 そのまましばらく、おばあちゃんとの話を詳しく思い出すかのように、じっと動かないままでいたが。

 沙緒は思い立って、床から立ち上がると仏壇へ近付き。

 おばあちゃんが教えてくれた、仏壇の引き出しの前まで来た。

 ・・・おばあちゃん。

 沙緒は心で呟く。

おばちゃんに懇願されて、泊まった日。

 おばあちゃんの小さな丸い背中が、沙緒の目の前にあった。

本当に小さな体に、小さな手。

 その姿で、沙緒に差し出してくれた、小さな紙。

 それは『願』と書かれた、折り畳まれた小さな紙。

 おばあちゃんの願いは、あそこにあると言っていた。

 沙緒は、仏壇の前に立ったまま。

 中段の引き出しを見つめていた。

 開けるべきか、開けないべきか。

 沙緒は迷ったが、聞きたくてももう、おばあちゃんはいない。

 確かめられない現実に、虚しさと寂しさが押し寄せてくるのをムリヤリ遠くへ押し流しながら、沙緒は思い切って引き出しに手をかけた。

 ゆっくりと手前に引いてみる。

 そこには、小さな折り畳まれた『願』と書かれた紙が見えた。

「・・・」

 沙緒がそっとその紙を開いてみると。

 そこに書かれていた言葉は。

 おばあちゃんの真っ直ぐな気持ち、そのままで。

 沙緒の心を一気に捕らえた。


『願』

『おじいさんとまた一緒に暮らせますように。ずっと一緒にいれますように』

 

 その言葉から。

 どれだけ、おばあちゃんが。

おじいちゃんと一緒に暮らしたいと、強く望んでいたのか。

その強い想いが、言葉からじわりと温度になって伝わってきそうだった。

「・・・っ」

 沙緒の口から、言葉にならない声が溢れ。

 同時に、ボタボタと両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 おばあちゃんは、長い間。

 どれだけ、寂しかったのだろう。

 おじいちゃんが足腰を痛めて、入院し。

 それからずっと、家には戻れなくなり。

 たった一人で、この家に取り残されて。

 ずっとずっと、おじいちゃんと暮らせる日を待っていて。

 なのに、現実は残酷で、おじいちゃんはおばあちゃんと暮らせないだけでなく、おばあちゃんの事も忘れてしまい。

 おばあちゃんは、どれだけ、悲しかったんだろう。

 沙緒に、おばあちゃんが泊まっていってほしいと言った日。

 おばあちゃんの姿から感じるのは、ただただ寂しさだけだった。

沙緒の涙は、繰り返し落ち続け。

『願』の紙の上に降り注ぎ、零れる涙の分だけ丸くシミを作っていく。

おばあちゃんの、たった一つの願い。

沙緒は『願』と書かれた紙を、そっと胸に抱き寄せた。

おばあちゃんの願いと想いを包み込むように。


おばあちゃん。

辛かったね。

寂しかったね。


沙緒は、両手で胸に『願』の紙を抱きしめ、ぎゅっと目を閉じながら、そう呟いた。

強い愛情のこもった願い。

おじいちゃんから見たら、きっと。

とても嬉しい願いだろう。

愛おしい願いだろう。

「ニャア」

 沙緒は。

 足元から聞こえてきた鳴き声に気づき、顔を上げた。

 声がする方を振り返ると、少し離れた場所に、サキが居た。

 サキは沙緒をじっと眺めている。

「サキ・・・?」

 沙緒はサキがじっと見つめ続けるので、何かあったのかと思い。

 『願』の紙を抱き寄せたまま、サキの方へ体を向けて、そのままその場でしゃがみこんだ。

 するとサキは、沙緒を見つめたまま距離を縮め。

 沙緒のしゃがんだ膝の前に来ると、スルリとしなやかな体を動かして立ち上がり。

 沙緒の両ひざに小さくて可愛い足を二つ乗せた。

 サキはそのままじっと、沙緒の顔を見つめている。

 沙緒は見つめてくる瞳に抗えず、そのままじっとサキを見つめていた。

 ・・・あ。

 沙緒は見つめてくるサキの目から。

 ふと、何かを感じ取った。

 手のひらの中にある、胸に押し当てられたままの『願』の紙が。

 何故だろう。

 少しだけ、熱を持ったような感覚があった。

 手のひらが、少しだけ熱くなったような気がする。

 サキがじっと見つめてくる顔は。

 いつものサキではない気がした。

 おばあちゃんとも、サキは向きあい。

 おじいちゃんとも、何時間もサキは向き合った。

 沙緒はそんなサキと見つめ合いながら。

 ふと、気づいて。

 涙が溢れた。

「おばあちゃん・・・?」

 ようやく、紡ぎ出した声。

 涙がどんどんと溢れだす。

「おばぁ・・・」

 沙緒はもう、名前を呼べなかった。

 サキは、涙を流し続ける沙緒を静かに見つめていたが。

 やがて、沙緒の膝に登ろうと、膝に掛けていた前足を動かし始めたので、沙緒は涙を流したままぺたりと床に座りこみ、膝を床につけた。

 サキはすぐに、沙緒の太ももに飛び乗ると。

 おじいちゃんにしたように、太ももの上で立ち上がり。

沙緒の両肩辺りに、前足をかけて。

すり・・・と。

泣いている沙緒の頬に、自分の顔を擦り寄せ始めた。

「・・・え・・・っ」

 沙緒は、声を出して泣き始め。

 サキは、泣きじゃくり始める沙緒の頬に、何度も何度も顔を擦り続けた。

 とても愛おしそうに、何度も何度も繰り返し。

 沙緒は泣きながら、『願』の紙を掴んだままで、サキをそっと包み込むように両手で優しく抱きしめた。

 サキは、泣きじゃくる沙緒の頬の涙に、小さな唇をつけると。

 こぼれ落ちる涙を、何度も舐めてすくいとった。

 ザラザラとした舌が頬を撫で続ける。

「痛いよ・・・おばあちゃん」

 沙緒はちょっと笑いながら、サキの背中を右手で撫でる。

「ニャア」

 小さく答えるように鳴くと、サキはまた。

 沙緒の頬に愛おしそうに、自分の顔を何度も強めに擦りつけ始める。

 沙緒が、また、その押し付けてくる勢いに、思わず笑って笑顔になったのを確かめると。

 サキは、すり・・・と、優しく沙緒の頬を撫でるように頬を重ね。

 そのまま、沙緒の太ももへ前足を下ろし。

 太ももの上で丸くなった。

 サキはそのまま、静かに目を閉じる。

「おばあちゃん・・・?」

 沙緒は、太ももの上で丸くなったサキに話しかけ、頭を撫でたが。

 サキはゴロゴロ・・・と小さく喉を鳴らしただけで、そのまま眠ってしまった。

 背中が静かに、上下するのが見える。

 行ってしまった・・・。

 穏やかに眠るサキの姿に。

 寂しさが湧いて、よぎる。

 でも、沙緒は感じていた。

 わかっていた。

 おばあちゃんが伝えたかった事を。

「サキ・・・」

 沙緒はサキの名前をそっと呼びかけると。

 優しく優しく、サキの頭を撫でた。

「有難う・・・」

 そう呟くと。

 心の中にずっとあり続けた大きな荷物が、すとんと落ちて行ったような気がした。

 座ったまま、振り返ると。

 後ろには、さっきまで『願』の紙が入っていた仏壇が見える。

 おばあちゃん・・・。

 沙緒の涙は、もう、止まっていて。

 涙の代わりに、その顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。

 

おじいちゃんに、会えたんだね。

 きっと会えたんだね。

 そう、言いたかったんだよね。

 伝えたかったんだよね。

 教えてくれたんだよね。

 

沙緒は、心の中で、そう語り続けた。

 

願いは叶ったんだよ、って。

 言いたかったんだよね。

 

そう語ると。

沙緒はしっかりと微笑んだまま。

左手の中にあった『願』の紙を、もう一度開いてみた。

 そこで、沙緒は。

 息をのんだ。

 『願』という字と、願い事が直筆で書かれた紙だったのに。

 そこには、なぜか。

 願い事だけが消えてしまっていた。

 あまりに驚くと、人は何も出来なくなるらしい。

 沙緒は、息を呑んだまま固まってしまっていた。

 ・・・さっき、まで・・・あったよね、文字。

 震えるように心で呟く。

 沙緒は、ふと、自分がさっき何度も紙の上に落としてしまった涙のせいなのかと思い、その紙をひっくり返してみたり、窓の外から射す陽光にかざしてみたりしてみたが。

 涙の跡も残ってはおらず、字が涙のせいで薄くなったような形跡も何もなかった。

 まるで最初から、そこには何も書かれたことのないような紙のままで。

 沙緒の手の中にあった。












 沙緒は仕事に復帰し、喫茶店と居酒屋と平行に働く生活に戻った。

 忙しくしていると、いろいろ考え込まなくていい事を、沙緒は初めて経験として知った。

 喫茶店に残した二匹の子猫も、奥さんとおじさんと吉田さんがちゃんとそれぞれ引き取ってくれていて、 沙緒がサキに乗り移ったおばあちゃんに会えた次の日、喫茶店に出勤した時には、そこには何も残っておらず、ただケージだけが置かれていた。

 その次の日のお通夜には、沙緒は居酒屋の仕事がある為、途中で退席して居酒屋に向かい。

 告別式は、おじさんが喫茶店を臨時休業にした為、最初から参加し。

 奥さんとおじさんとともに、二人が火葬場へ行くのを見送る事にした。

 沙緒は、奥さんから喪服を借りて参列し。

 その日、おばあちゃんとおじいちゃんの息子さんと初めて会い、挨拶をさせてもらった。

奥さんとおじさんが、間を取り持ってくれたので、二人がしてくれた説明に合わせ、沙緒はペコリと、頭を下げた。

「両親が本当にお世話になったね」

 息子さんはそう言うと、微笑んでくれたが。

 その微笑みには力がまったくなく、憔悴しきっていて。

 沙緒はどうしていいかわからず、ただ、両手を重ね合わせてギュッと握ると、俯いた。

息子さんは見た目、ガタイの良い、働き盛りの中年の男性だった。

仕事がいかにも出来そうな雰囲気に思えたのは、おばあちゃんから聞いていた話があったからかもしれない。

でも、そんな息子さんも、おばあちゃんとおじいちゃんを同時に失った悲しみは、相当強く。

式が進行していく中、一番後ろの列に座っていた沙緒は、親族席の息子さんの背中が視界に入るため、時折視線を向けていたが。

その背中は、ガタイが良いとは思えないほどに丸めており。

悲しみに耐えられないのが、見てとれていた。

その背中は、おじいちゃんの事を思い、寂しさに耐えているおばあちゃんの背中と同じように目に映り。

沙緒は、胸が押し潰されそうな切なさを感じていた。

告別式が終了し、出棺に移り。

二つ並べられた棺に、参列者がそれぞれ花を手向ける頃。

沙緒は二つの花を手に、おばあちゃんから花を手向けた。

その顔は、本当に穏やかで。

少し微笑んでいるようにも見えた。

次におじいちゃんの棺へ行くと、同じように花を置き。

おじいちゃんもまた、穏やかで微笑んでいるような顔をしていた。

二つの棺が並んでいるのを見つめていると。

沙緒の目には、じわっと涙が浮かんできた。

やっと、二人。

ここで一緒になれたんだな、と。

 沙緒には、そう思えて仕方がなかった。

火葬場に移動する為、会場から移動する為のバスが用意され。

 わずか十人ほどの親族は、それぞれバスへ乗り込み。

 沙緒と、奥さんとおじさんは、その姿を玄関で立ったまま見つめていた。

「・・・沙緒ちゃん」

 後ろから声をかけられ、沙緒が振り返ると。

 そこにはいろいろ荷物が入っているのか、カバンをぶら下げた姿の息子さんが立っていた。

 とても寂しそうな顔で。

 何もかも失った、というような姿で。

呼ばれた沙緒は、憔悴しきっている息子さんの顔を見ているのも辛い心境だったが、立ったまま待っている息子さんの近くへと寄っていった。

 息子さんは、目の前まで来た沙緒に、そのまましばらく黙っていたが。

 やがて、少しずつ口を開き始めた。

「本当に、親父とお袋が世話になったね」

「い・・・いえ。私は何もしていないです」

「そんなことないよ。マスターたちから聞いてる」

 低いけれど、穏やかな声で。

 息子さんは、沙緒に話し続ける。

「お袋がすごく可愛がってたと聞いたよ」

「そんなことないです」

「僕が出来なかった事をいろいろしてくれてたんだよね。本当に有難う」

「い、いえ、本当に。何もしてないんで」

 沙緒は、向かいで深々と体を折り曲げる息子さんに、どうしていいかわからず、慌てて早口で言った。

 しかし、なかなか起こしてくれない体に、沙緒はしびれを切らし。

ずっと下げっぱなしの背中に、失礼になるかもしれないとためらいつつも、そっと手を当ててみた。

 ぴくりと小さく、背中が震える。

「私、あの、すみません。その、いろいろと出しゃばったことをしてしまって」

 沙緒がそう言うと、息子さんはゆっくりと体を起こし。

 悲しげな顔のまま、首を横に振った。

「何も出しゃばってなんかないよ。本当に、親父とお袋に良くしてくれて有難う」

 沙緒が必死に首を横に振ると、息子さんは小さく微笑んだ。

「僕は、ね。君から見ると、酷い息子だと思うかもしれないけれど」

 沙緒は目を見開いて、息子さんを見た。

 そんなことは思ってない。

 そう伝えたかったが、息子さんは少し沙緒から目を反らし、どこか遠くを見たままで、ぽつりぽつりとひとり言のように呟き続ける。

 その姿のすべてが沙緒には、悲しく、寂しく、目に映っていた。

「親父の為にも、お袋の為にも、これが一番いいと思っていたんだよ」

 悲しげな声に、沙緒はなんて返していいか分からず。

 唇を小さく噛んで、一瞬だけ、頷いた。

「親父はもう何にも反応しないから、せめてお袋だけでもこっちへ連れてきて、なんとか二人で暮らせないかと思っていたんだけど。なんせ、頑固で。ここが住みやすいからだろうけれど、どうしてもこっちに居るって聞かなくてね」

 違う。

 沙緒は心で否定した。

 頑固じゃなくって。

 おばあちゃんは、ただ。

 おじいちゃんといたかった。

 少しでも、近い場所にいたかった。

 ただ、それだけだったんだ。

 沙緒は、心の中で、そう呟いた。

 それが、小さくて、でも強い。

 おばあちゃんの、たった一つの、願い。

「お袋が倒れた時、猫をそんなに増やしてしまっていることも知らなかったから、本当に迷惑をかけてしまったね」

 息子さんは、すまなそうな顔を沙緒に向けて。

 沙緒は、いいえと言って、首をまた横に振った。

「聞いたんだけど、君、住む場所が決まってないんだって?」

「え?」

 沙緒は驚いて目を見開き、おじさんと奥さんを見たが。

 おじさんと奥さんは小さく微笑んで、沙緒を見返しただけだった。

「今、お袋の家で、お袋に頼まれて、飼っていた猫を育ててくれてるって聞いたよ」

「あ、はい・・・」

「もし良かったら、そのまま住んでやってくれないか?」

「え?」

 沙緒は、またビックリして、さっきよりももっと目を丸くする。

「お袋が頼んでいたし、猫の引き取り手も探さなきゃならないところだけど・・・沙緒ちゃんさえもし良かったら、あの家に住んでくれて、そのままサキとマルを引き取ってくれないかと思っててさ。もちろん、あの二匹にかかる経費等はあるだろうから、家賃はいらないよ。僕が払う」

 思いもかけない申し出に、沙緒はなんて返事をしていいのかわからないまま。

 ただ、うろたえつつ、立ちつくしていた。

「その代わり、サキとマルを最後まで看取ってくれないか。勝手なお願いで悪いけれど。お袋と親父が可愛がっていた猫たちだから、そうしてやってくれると嬉しいんだけど」

「え、でも・・・それは」

「やっぱりダメかい?」

 悲しそうな顔で見つめられ、沙緒は慌てて首を横に振った。

「サキとマルを引き取ることは、全然嫌じゃないです。なついてもくれていますし。おばあちゃんとおじいちゃんの形見として、大事に引き受けて育てていきたいとは思います」

 そう言うと、息子さんは初めて。

 嬉しそうな顔を見せてくれた。

 沙緒はその顔に勇気づけられた気持ちになったが、それでも、なお。

 家賃も払わずに、あそこに住み続けるのはダメなのではないかと思い、息子さんにそう伝えたのだが。

 息子さんは口元をほころばせながら、首を横に振った。

「そんなことは、一切ない」

「で、でも」

「住んでくれたら、僕も嬉しい。僕もたまに寄って、形見の猫たちに会いたい。あの家が残ることは、僕にとって帰る場所がまだあるって。なんでか、そう、思えるんだ」

 息子さんは、沙緒にお願いするように伝え。

 沙緒は申し訳ない気持ちになりながらも、真摯に見つめてくる息子さんの気持ちを受け取り、コクリと頷いた。

 息子さんはホッとしたように微笑んだ。

「有難う。本当に」

「いえ・・・なんか、私申し訳ない気がして」

「そんなことないよ。本当に助かったよ。こんな若い子にたくさん面倒をかけてしまった事は心苦しいけどね」

「面倒なんて」

 沙緒は否定するために、しっかりと息子さんを見つめた。

 そんなこと一切、思った事はなかったからだった。

「私は、全然。迷惑とか、面倒とか思ってないです。むしろ」

 沙緒はそこまで言うと、ふと。

 今までの自分の虚しさや、空虚感を、改めて思い出した。

 あの空っぽで、何もなかった頃の自分が。

 こんなにも、何かや誰かのために動けるんだって。

 わかっただけで、沙緒にはもう。

 それだけで十分だったから。

「私は、やれることがあるだけで、幸せでした。本当に、嘘でも大げさでもなく、です」

 沙緒がそう言うと、息子さんは口元をゆっくりと緩めた。

 優しそうな目尻が一緒に下がっていく。

「君は、いい子だね」

「え?い、いえ。全然ひねくれてます」

 沙緒が否定すると、息子さんはゆっくりと首を振った。

「そんなことない。君は本当にいい子だよ」

 息子さんはそう言うと、片手に下げていた革製の茶色いカバンのチャックを開き。

 中に手を入れて、ごそごそと何かを探していたが。

 やがてその手は、ひとつの封筒を掴んだ状態で、カバンから外へと現れた。

「・・・これ。良かったら、受け取ってくれないかい」

 息子さんは封筒ごと、沙緒に向けて差し出してきた。

 沙緒は何か分からず、戸惑っていたものの、「はい」と小さく答え、差し出された封筒をつかんだ。

 角二型の封筒の封を開いてみると。

 そこには一枚の大判の写真が入っていた。

「親父の荷物を整理した時に出てきたんだ」

 その写真は。

 おじいちゃんとおばあちゃんが、仲良く二人で。

 施設内で、おじいちゃんのベッドの上に腰をおろし、手を繋いだ状態で写っている写真だった。

 カメラのレンズに向けられていたのは、とてもにこやかな笑顔で。

 二人とも穏やかで優しい表情をしている。

 その形が、ここに残っていた。

「僕が撮った写真なんだよ」

 息子さんは、懐かしそうに写真を見つめる。

 沙緒は、まだこの頃の元気そうなおじいちゃんの笑顔が、いつも見ていた顔と全然違っていたのと。

 サキに甘えられていた時に見せていた微笑みが、これに近かった事を思い出していた。

「最初は足と腰を悪くしてね。でももう病院には居られない日数になったから施設に入所したんだ。あの施設には最初、数カ月の予定で入ってたんだよ。だから、出る予定だったんだけどね。でも親父はどんどんと寝込み続ける中で、始まっていた痴呆が進んでいって。お袋はひどくなる前に自分が介護するからと、施設から親父を出したいって、ずっと言ってたんだ。でもそれを僕がダメだと言い続けた」

 息子さんはまた、悲しそうな顔をする。

「介護なんて、一人で出来るわけがない。お袋の事を考えたら、このままでいいんだって、僕はずっとお袋を説得し続けた。お袋は相当抵抗して、ずっと退所させる、退所させるんだってずっと言い続けて。僕とお袋は何ヵ月も平行線だった。その間も親父の認知症はどんどん進んで、とうとう何も出来なくなって」

 息子さんの声が少し。

 涙でくぐもった気がした。

「僕のことも、お袋のことも、何もかもわからなくなった。人形みたいに、表情もなくなって。親父が親父でなくなったんだ」

 鼻をずずっと、すする音がする。

 沙緒は、息子さんを見ないようにした。

 その方がいいような気がしていた。

 だから、じっと写真の二人を見つめながら、息子さんの話に耳を傾け続けた。

「僕は、結局。正しかったんだろうか」

 思いもかけない問いかけに。

 沙緒は思わず、顔を上げた。

 息子さんはその時には、少し顔を伏せていて。

 沙緒から表情はしっかりと窺い知れなかった。

「・・・今になっては、そう思っているよ」

 小さく小さくなる声と共に。

 涙がいくつか、こぼれ落ちて行く。

 沙緒は慌てて、また視線を写真へと戻した。

 見てしまうのが申し訳ない気がした。

「・・・君の方が、ずっと、ずっと、お袋と親父の子供らしい事をしているよ」

 涙で声を詰まらせながら、息子さんは後悔をにじませたような声で呟く。

 沙緒は下を向いたまま、必死でぶんぶんと首を激しく横に振った。

「僕の出来ないことをしてくれて、本当に有難う」

 沙緒はそう言われた瞬間、もう一度顔上げて。

 写真を掴んだまま、息子さんに近寄ると。

息子さんの腕をぎゅっと掴んだ。

「違います。私はそんなことはしていないです」

 体を固くし、俯いたままの息子さんに、沙緒は必死で訴える。

「息子さんは息子さんで、精いっぱいのことをしていたのは、おばあちゃんは知ってたと思います。おばあちゃんは息子さんを、優しくて親思いの良い子だって、言ってましたから」

 そう言うと、息子さんは、より一層、顔を深く下へと下げて。

 息を詰まらせたような声を出し、体を震わせた。

「おばあちゃんは、息子さんを一個も責めていないです。ただ、おばあちゃんは、おじいちゃんの傍に居たかっただけなんです。本当にそれだけだったんです」

 沙緒はそう必死に訴えた。

 息子さんは鼻をずずっと音を立てて、大きくすすった。

「おばあちゃんのたった一つの願いがそれだったんです。おじいちゃんと一緒に暮らしたいと。それだけだったんです。息子さんの事を悪くなんて一度も言った事もなかったし、聞いてません。仕事の出来る良い息子なんだよって褒めていました。だから、自分は何も出来ずに悪かったなんて、責めないでください」

 息子さんは手で鼻の下を拭うと、顔を少し斜めに上げて、沙緒から顔を反らし、遠くを見つめた。

「息子さんがこれからもそうやって自分を責め続けたら、きっと、おじいちゃんもおばあちゃんも悲しみます」

 そう言うと。

 息子さんの眉が、ぎゅっと悲しそうに寄せられた。

 そのまま、ふう、とひとつ。

 長めの息が吐き出され。

 悲しみが少し追いやられたようになったのか、息子さんの体を覆っていた張りつめていたような雰囲気が緩んでいった。

「・・・そうかな」

「そうですよ。絶対そうです」

 ひとり言のように呟く言葉に、沙緒は必死に訴えかけるように強めに言い続ける。

「・・・そうか。そうだね」

 息子さんは自分にも諭すように、そう言って。

 また、沙緒の方を見た。

 沙緒は目がかち合うと、ハッとしたかのように、慌てて息子さんの腕から手を離し。

 すみません、と小さく呟きながら、頭を勢いよく下げた。

「・・・君は本当にいい子だよ」

 息子さんはそう言うと、沙緒の手に握られている写真にそっと触れた。

「持っていてくれ。親父とお袋が喜ぶから」

 息子さんにそう言われ。

 沙緒は、涙腺が緩んでくるのを感じていた。

「本当に、本当に。有難う」

 息子さんはそう言うと。

 沙緒に、心からの感謝をこめて微笑み。

 深く、穏やかに頭を下げてから、静かに沙緒の目の前から去っていった。

 息子さんは、最後の乗客を待っていたバスに乗り込むと。

 そのままバスは、目的地へと発車して行き。

 バスの中の親戚の人や息子さんは、去り際、沙緒たちに深々と何度も礼をしてくれて。

 沙緒たちもまた、何度も頭を下げて、バスが行くのを見送った。

「行っちゃったね・・・」

 おじさんが、沙緒の横で呟く。

 沙緒はその言葉に、小さく頷いた。

 沙緒は、先ほど手に残された写真を、もう一度眺める。

 おじいちゃんとおばあちゃんの幸せそうな顔を、じっと見つめていると。

 本当に有難う、と、二人から言われている気がした。

沙緒は写真を一度、胸に抱き寄せて。

そのまま体に染み込ませるように、ぎゅっと胸に押し付けると。

渡されていた封筒に、大事に写真をしまいこんだ。

 この写真は、ずっとずっと、飾っておこう。

 いつかちゃんと。

自分の力で部屋を借りられる日が来たら、この写真を置く場所を一番に決めよう。

 そう思っていた。











 沙緒たちが、会場を出て歩きだした時。

 沙緒は驚いて足を止めた。

 思いもかけない場所に、思いもかけない人がいた。

吉田さんが、居たのだ。

 葬式会場の敷地の門の場所に、ぽつんと一人で立っていて。

 沙緒を、穏やかに微笑みながら見つめていた。

「・・・な、に、してんの。こんなとこで」

 沙緒が、思わず駆け寄って声をかけると。

 吉田さんは小さく微笑んだ。

「大丈夫かな、って、思って」

「え?」

「あんなに泣き崩れていたから。どうにかなっちゃうんじゃないかなって、心配だったから、来た」

「来たって・・・」

 沙緒は、何やってるんだというような顔で吉田さんを見ていたが。

 吉田さんが穏やかに微笑んで沙緒を見つめているので、仕方なく「もう」と呟いた。

「大丈夫。自分でも意外だったけれど、泣き崩れたりパニックになったりしなかったよ」

「そう。良かった」

 笑顔で、吉田さんはサラリと答える。

 おじさんと奥さんは、沙緒と吉田さんに「僕らは行くね」と声をかけると、そのまま家に戻るためにタクシーを拾いに行った。

 今日は喫茶店は休みだから、この後二人でゆっくり家で過ごすんだと言っていた。

 沙緒は、二人が並んで歩きだした背中を見つめていたが。

 ふと、おじさんが隣に居る奥さんを見ると。

 奥さんは、隣にいるおじさんの顔をゆっくりと見上げた。

 奥さんは、とても優しく、暖かな顔で微笑んで。

 隣にいるおじさんの手に、自分から自分の手をそっと絡めた。

 おじさんはとても嬉しそうな顔で、奥さんを見つめ。

 目尻をうんと下げた後、奥さんの手をぎゅっと強く握った。

 沙緒の頬には、自然に笑みが浮かび。

 沙緒の心の中には、暖かな光が灯った。

 二人はきっと、これからずっと。

 一緒に寄り添って暮らしていく。

 擦れ違っていた想いが、今はしっかり重なり合っているのが、沙緒には見てとれていた。

 その背中を見つめながら、沙緒はまた、小さな祈りを運んだ。

 強い願いと共に。

 どうか、二人が一番望んでいるものが。

 ここまで、ずっと頑張って来た二人に、どうか訪れますように、と。

 沙緒は、願いを祈りに乗せた。

 ゆっくりと歩を進めて行く二人の背中に。

 空からは無数の陽の光が注ぐ。

 なぜだか、その光の一筋が二人の背中を照らした時。

 沙緒はこの先、奇跡が訪れるような。

そんな気がしていた。

 「沙緒、これから次のバイトまで用事あるの?」

 吉田さんが、おじさんと奥さんを見つめ続ける沙緒に尋ねてくる。

 沙緒はそう言われて、特に用事はないし、どうしようかと思っていた。

ここへ来る時、沙緒も、おじさんと奥さんのタクシーに相乗りさせてもらった為、会場から喫茶店までは、車で五分かかるかかからない位の距離なのは知っていた。

と、いうことは、歩いてもそんなに遠い距離ではないかもしれない。

「なんとなく、歩かない?」

 沙緒は、吉田さんに声をかけ、とりあえず歩きだした。

 どこへ行くとも、決めないままに。











「すごいね」

 隣で吉田さんが感心したように言う。

 沙緒と吉田さんは、隣同士、並んで歩き続けていた。

 とりあえず、おばあちゃんの家に向かいながら。

 今となっては、沙緒の家でもある。

 それは、どれくらいの間になるかはわからないけれども。

「うん、すごい」

 沙緒は同意して頷いた。

 沙緒は、吉田さんに話していたのだ。

 おばあちゃんが書いていた、『願』の紙の話を。

「そんな願い事が叶う紙なんて存在するんだね」

「うん、ビックリした」

「しかも、叶ったら願い事が紙から消えたんでしょ」

「うん・・・それが一番ビックリした」

「だよね、ちょっと怖いわ」

「うん、ちょっとね」

 沙緒は吉田さんの言葉に苦笑した。

 そして、ふと、気づいた。

「あ・・・」

「なに?」

 問いかけてくる吉田さんの顔が、沙緒に向けられる。

「そういえば・・・」

 沙緒は、おばあちゃんから貰って書いていた。

 自分の願いを書いていた紙を思い出していた。

「沙緒?」

 沙緒は吉田さんの顔を見ると、そのままガシッと吉田さんの両腕を掴んだ。

「ちょっと、ごめん。喫茶店に付き合ってよ」

「え、なんで?」

「・・・私のとこにもあるの。『願』の紙。おばあちゃんから貰っていたの」

「へえ、そうなんだ」

「それも、叶ってる事に気付いた、今」

「えっ、マジで!」

「うん、マジで」

 沙緒は真剣な顔で、吉田さんに言う。

「ちなみに何の願い事だったの?」

 吉田さんは、沙緒の願い事に興味ありげな眼を向ける。

「着いたら見せてあげる」

 沙緒はそう言うと、急に小走りに歩きだし。

「ちょ、ちょっと待ってよ、早!」

 吉田さんは慌てて沙緒と同様に小走りで、喫茶店へと向かい始めた。












 沙緒は喫茶店に着くと、持っていた合い鍵で喫茶店の扉を開け。

 吉田さんと一緒に中へと入って行った。

 真っ直ぐに奥の、自分が寝泊まりしていた小さな部屋に向かうと。

 部屋の中にあるテーブルの上に置いてあった、お菓子の缶を手にする。

 そこに沙緒は、入れていた、おばあちゃんから貰った『願』の紙を取りだす。

 緊張しながら中を開いてみると。

 そこにはやはり同様に。

 願い事は書かれていなかった。

 ただ、『願』の言葉だけが残っていた。

「こわ・・・」

 ぶるっと体を震わせながら、沙緒の隣で吉田さんが言う。

 沙緒もさすがに、怖いと思っていた。

 願いが叶ったのは嬉しいが、なぜ願い事が叶うと消えるのか。

 不思議でしょうがなかった。

「まぁ・・・いっか・・・叶ったんだし」

 吉田さんは、とりあえず、現実を受け容れる気になったようだ。

 沙緒も同様の気持ちで、頷いた。

 沙緒は喫茶店に辿り着くと、吉田さんに願い事の中身を説明していた。

 猫たちがみんな安心して暮らせるようなアパートに住みたい、という内容を。

 吉田さんはそれを聞いて、「優しい、沙緒」とボソッと呟き。

 沙緒は急に恥ずかしくなり、顔を少し赤らめながら「そんなことないから!」と言い返していた。

「・・・で、どうすんの、これ」

 吉田さんが、対処に困ったような顔で呟く。

 そりゃそうだろう。

 沙緒も同じ気持ちだった。

「おばあちゃんが書いた、願い事の紙はどこにあるの?」

「・・・ここ」

 沙緒は喪服のジャケットのポケットから、『願』の紙を取りだした。

 本当は、おばあちゃんの棺に花を手向ける時、一緒に入れようかと思っていたのだが。

 急に紙を入れられても親族も嫌だろうと思いなおし、止めたのだった。

「どうすんの?」

 沙緒は、右手には自分の『願』の紙。

 左手には、おばあちゃんの『願』の紙を手にしたまま、しばらく立っていたが。

 なんとなく、こうした方がいいのかな、という映像が脳裏に描かれていた。

 それは、まるでその紙が望んで映してくれたようにさえ思えるほど、鮮明に思えた。

「吉田さん、河原へ行こう」

 沙緒はそう言うと、『願』の紙を二つ重ねて、ジャケットのポケットへとしまい込んだ。












 沙緒は、吉田さんと喫茶店を出ると。

 そのまま五キロほど共に歩き、街を大きく縦断する川へと一緒に辿り着いた。

 芝生のように草が敷き詰められた土手を下りて行くと、ジョギングや、サイクリングの人たちが、時折、川べりの道路を走り抜けていく。

 親子連れや、犬の散歩をしている人たちも、遠くに見えていた。

 沙緒と吉田さんは、川の一番近くまで降りてやってくると。

 しばらくそこで立ったまま、川の流れを見つめ続けていた。

 あと二十センチも前に出れば、川の中に入ってしまう場所まで近づくと。

 沙緒はポケットから、二枚の紙を取りだす。

 『願』と書かれた紙を。

「いいの?」

「ん?」

「だって、その紙、やっぱすごいでしょ」

 急に吉田さんは、もったいなさそうな顔をする。

 手放すとなると、惜しくなってきたのかもしれない。

「また、新しい願い事を書けばいいんじゃないの?さっきの叶ってるんだから、沙緒」

「・・・そうだけど」

 沙緒は改めて。

手のひらにある二つの『願』の用紙を、どちらも開いてみる。

「私なら次の願い事を~」

 吉田さんは歌うように言い、自分の肩を沙緒の肩に横から押しつけてくる。

 沙緒は苦笑した。

「吉田さんなら、何願う?」

「私?そうだなぁ・・・お金が欲しいとか。服が欲しいとか」

「めっちゃ物欲」

「なによ、いいじゃん。正直でしょ」

 吉田さんがツラっと言うので、沙緒は笑った。

「なによー」

 不満げに口を尖らす吉田さんに、沙緒は「無理だよ」と答えた。

「え?」

「きっとこれ、そういう願い事をするものじゃない気がするよ」

「じゃあ何を願うのよ」

「わかんないけど・・・」

 沙緒は紙を見つめながら。

 今までの事を思い返していた。

 おじさん。

 奥さん。

 おばあちゃん。

 おじいちゃん。

 自分と関わったたくさんの猫たち。

 吉田さん。

 願いにかかわらず、共通しているのは、唯一つ。

 誰かが誰かや何かを想って。

 誰かや何かの為に行動する時。

 いろいろな事が、少しずつ、変わっていったということ。

「誰かが、誰かや何かを思う気持ちが強い時、叶うんじゃないかなって」

「え?」

 訳が分からない顔をする吉田さんに、沙緒は微笑んだ。

「誰かや何かの為に何かをしたい、というような気持ちに応えてる気がする。これ」

 沙緒はまた、どちらの紙も小さく折り畳んだ。

「願いって、もしかしたら、そういうものなのかもしれない」

 ひとり言のように呟く。

「自分を満たす欲を叶える為と言うより、何かに向ける真っ直ぐな愛情とか気持ちに応えている気がする。そんな気がする」

「真っ直ぐな愛情ねぇ」

 わけわかんないわ。

 そう言いたげな顔が、沙緒にはおかしかった。

 きっと、おばあちゃんだけじゃなかったんだと思う。

 沙緒にはそう、確信めいた気持ちが湧いていた。

 おばあちゃんだけが、おじいちゃんと住みたいと思っていたんじゃない。

 きっとおじいちゃんも、同じ気持ちだったんだ。

 おばあちゃんがサキに乗り移って、おじいちゃんをきっと迎えに行ったとしか思えなかった、あの時。

 おじいちゃんはきっと。

迎えに来てくれたおばあちゃんが嬉しかったから、あんなふうに微笑んだんだ。

ずっと嬉しそうに、サキを撫で続けながら微笑んでいたのは。

おじいちゃんとおばあちゃんが、互いに一緒にいたいという気持ちはひとつだったんだと思える。

きっとおじいちゃんは、おじいちゃんで。

一緒に暮らしたいのに暮らせなくて。

何もわからない意識の奥では、それが辛かったのかもしれない。

一人残されてるおばあちゃんを、本当はずっと心配していたかもしれない。

早く帰りたいのに帰れないと。

思っていたのかもしれない。

だから、あの時、きっと。

やっと来てくれた。

迎えに来てくれた。

おじいちゃんは、そんな気持ちだったのかもしれない。

自然と、二人の願いは互いに向け合う双方向の願いだった。

そんな気がした。

「だから、もういいの」

 沙緒はそう言うと、そっと二つの『願』の紙を重ね合わせると。

 目の前で止まることなく、緩やかに流れ続ける川の水面へ。

 そっと静かに、置いた。

 紙はくるくると、水流に押されながら回り続け。

 そのまま、どんどんと川の中央へと向かい、流れの勢いに乗りながら下流へと進んでいく。

「いっちゃったー・・・」

 名残惜しそうに、吉田さんは呟く。

「本当に惜しいなーって、思ってないでしょ」

 沙緒は、腕に絡みついてきた吉田さんを見て言うと。

 吉田さんは、ん?とでもいう顔で沙緒を見る。

「なんでよ」

「言い方がわざとらしいもん」

 沙緒の突っ込みに、吉田さんは口の端を上げる。

「バレたか」

「バレてた」

「そっか」

 吉田さんは、沙緒の肩に顔をつけて。

 沙緒と一緒に紙を見送り続けた。

「沙緒が良いこと言うから。照れくさくなってふざけた」

 吉田さんの素直な言葉は。

 沙緒をちょっとびっくりさせて。

 沙緒が吉田さんを見ると、吉田さんは川を見つめたままで。

 そっと優しく微笑んでいた。

「沙緒の言ってる事、正しいと思うよ。私も、そう思う」

 微笑みと同じ、優しい言い方に。

 沙緒は同じように、また流れゆく川を見つめる。

 もうあの紙は見えない。

 でも、想いはある。

 ここに。

 胸に。

 全ての人の胸に。

「・・・沙緒」

「ん?」

「うちら、ずっと頑張りながらさ。幸せになろうね」

 沙緒の肩にもたれ。

 腕をからめたまま。

 吉田さんはそう言った。

 沙緒はその腕の重さや、肩に触れる吉田さんのぬくもりが。

 とても温かく、優しいものだと強く感じながら。

 深く、頷いた。

「一緒に、頑張ろう。ずっと、ずっと」

 沙緒の言葉に、吉田さんは、コクリと首を縦に振った。

 沙緒は、吉田さんの同意も、感触も、ぬくもりも。

ただ、ただ、嬉しくて。

何よりも力強く、心強かった。

 目の前の川の流れから、立ち上るかのように小さな光がたくさん生まれる。

 陽の光に照らされて、いくつもの光は輝きを放つ。

 人が人を思う気持ちは、こんなにも純粋で。

 こんなにも尊いのだと。

 沙緒の目の前に映る光は、そんな事を教えてくれている気がした。

川が願いを包み込んで放つ光は無数に輝きながら、 人の優しさを尊び謳う。

沙緒は、その光の集まりを。

泣きたいほど素直な気持ちで見つめていた。

何もかも無いような世界から飛び出して、辿り着いた場所にあったものは。

とてもシンプルな、誰かが誰かや何かを想う愛情。

ただ、それだけなのだと。

それは沙緒の心に、勇気を与えた。

なぜなら、それは、いつでも誰しもの心にあって。

ただ誰かや何かに向けるだけで、いつだって気づけ、手に入れられるものだから。

沙緒は光の集まりに、そっと小さく、願いをかけた。


どこまでもずっと。

知り合った全ての人が。

誰かが誰かや何かを想い続け。

そして幸せになりますように。


沙緒の心に宿る。

素朴な優しさは。

川が生み出す無数の光と共鳴し合い。

同じく輝いて応えた気がした。

 目の前に輝く光の集まりが。

 そうだね、と。

 沙緒の優しさに言ってくれた気がした。




 そんな気がした。




















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