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願・猫飼い  作者: 杜月 佑衣
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願 猫飼い 2

夢なのか、夢じゃないのか。

 すっかり、わけのわからない感覚に陥っていた。

 現実なのか、現実じゃないのか。

 シャワーが降らす水滴の粒の群れが、体をいいだけ強く打ち付けるたび、ここが正しい世界なのかと、問いかけてくるような気がした。

 これでいいのか。

 これでいいのか。

 そう言われているように、皮膚のすべての小さな穴という穴を打ち付けてくるような気がする。

 本当にいいのか。

 これでいいのか。

 沙緒は、胸が苦しくなってきていた。

 さっき洗面台の上に脱ぎ捨てた、ジーパンの中に入っている十万円。

 あれだけでは本当は足りない。

 もっと集めないといけない。

 沙緒はシャワーの真下に顔を動かし、顔全体に降り注ぐ無数の水滴をぶつけ始める。

 足りないんだ。

 今の手もちと合わせても。

 あの子たちを救うには、もう五万くらいないと無理かもしれない。

 どうしたら。

 どうしたらいい。

 また、こんなことを別の人としなくちゃならないんだろうか。

 ―――そんなの、嫌だ。

 沙緒の顔が悲しみで歪む。

 痛いほど降りしきるシャワーの水滴は、沙緒の顔が歪んだ時に溢れた涙を一緒に洗い流していた。

 どうしたらいい。

 どうしたら。

 湧きあがる不安と怖さは、止むことなく胸を突き。

 この怖さと闘っても、結局お金は目標額に足りないこともどうしていいのかわからず。

 このまま、声を上げて泣いてしまいたくなっていた。

 ずっとシャワーの雨粒の中で、顔を手で覆って動けないままでいると。

 急に、ドンドンッとドアを叩く鈍い音がした。

 沙緒は心臓を殴られたような気持ちで、勢いよく振り返った。

 大部分が薄曇りのアクリル板のようになっている浴室のドアの向こうに、丸めの小太りなおじさんのシルエットが映る。

 気持ち悪い。

 沙緒は思わず、後ずさりをした。

「ミィちゃん、大丈夫かい?かなり時間が過ぎているけど、具合でも悪いのかい?」

 呼びかけてくる太い声が、悪魔のような声に聞こえる。

 沙緒は自分の体を抱きかかえると、その場にしゃがみこんだ。

「ミィちゃん!ミィちゃん!!」

 命の危険でも危惧しているのか、おじさんはドンドンとさっきよりも荒く大きくドアを叩いてくる。

 ガチャガチャッと鍵をかけてあるドアノブを乱暴に回す音が聞こえた時。

 沙緒の頬に、一筋、涙が流れ落ちて行った。

「ミィちゃん!困ったな、どうしよう」

 おじさんのうろたえた声と、ドアの前で右往左往する姿が見える。

 沙緒はまだ、ドクドクと大きな音を弾ませる心臓の上あたりに手を押しあてた。

 手のひらのぬくもりが、思いのほか心を癒していく。

 落ち着け、落ち着け、と。

 手のひらの温もりが、そう伝えてくれているようだった。

 シャワーはずっと頭の上から、大雨警報でも出ているかのような勢いで降り注ぎ続けている。

「ミィちゃ」

「うるさいな!」

 沙緒の大きな声に、ドアのおじさんの体がビクッと大きく震えた。

「何度呼べばいいのよ!うるさいって言ってんでしょ!キモい!」

 荒れた気持ちそのままに、やけっぱちにめいっぱい大声で叫んだら。

 少しだけでも気持ちが晴れるかと思った。

 でも、何も晴れない。

 顔は歪んだままで、心も鉛を飲み込んだように重い。

「そ・・・そっか、ごめん。そうだよね。キモいよね。向こうにいるからね」

 おじさんはそう言うと、うなだれるような姿勢で、すごすごとドアの前から姿を消していった。

 沙緒はドアを睨みつけるように見ていたが。

「・・・っ」

 どうしようもならない思いが溢れて、また涙が両目から溢れていく。

 この場所も、この時間も、苦痛以外の何物でもない。

 沙緒はそのまましゃがみこんだ姿勢で、しばらく声に出して泣き続けた。

 シャワーだけは無機質に、ただ止めどなく降り注ぎ、沙緒の体を濡らし続けた。











「・・・あ」

 沙緒が、服を全部着込んだ状態で浴室から出てくると。

 窓の傍のテーブルと椅子のセットの椅子に腰をおろしていたおじさんが、沙緒を見て中途半端な微笑みを浮かべた。

 どう扱っていいのか分からないような顔だった。

「その・・・大丈夫かい?」

 気遣う言葉にも、凍りついて固まったようになっている沙緒の心は解けることはなく。

 ただ、この空間が気持ちが悪く、辛いだけだった。

 こんなところに居たくない。

 シャワーをただ、頭から浴び続け、泣き続け。

少しでも気持ちが落ち着くかと思ったが、逃げ出したい気持ちは変わらない。

今だって、ちょっと背中を押されたら、泣いてしまいそうだった。

気持ちの不安定さが、体中から漂っているのだろう。

おじさんは沙緒から目をそらすと、太ももの上で軽く両手を組みあわせ、頭を下げた。

どうしていいのか、わからない。

そう体中から漂ってくるオーラのようなものを、沙緒も感じとっていた。

「あの」

 沙緒はおじさんに声をかける。

 おじさんは、沙緒を窺うように顔を上げた。

「さっきのお金、やっぱ足りないんですよね」

「え?」

 怪訝な顔が沙緒を見つめる。

「十万って言いましたけど、私初めてなんで。良く考えたら、相場で考えたら、足りな過ぎると思って」

 相場なんか全く知らなかったけれど、こっちの世界ではそうなんです、とでも言いたげな顔で、沙緒はおじさんを見下しながら話した。

「あれくらいでもいいかなと思ったけど、やっぱ足りないから」

「いくら欲しいんだい?」

 おじさんの声に、沙緒は淡々と答える。

「二十万」

「二十・・・」

 おじさんは目を丸くした。

「払えないって言うならいいです。普通に生きてて、十九歳の女の子、しかも初めての子とやれることって、もう人生ではないんじゃないかと思うんですよね。よっぽどじゃないと」

 沙緒は表情を動かさず、淡々と伝えていく。

 これくらい出して当然、という態度で。

 おじさんは困惑した顔で、また少し俯いた。

 考えているようだった。

「払えないなら、これで」

 沙緒はそう告げると、おじさんに背を向け、踵を返した。

「・・・ま、待って!」

 沙緒が部屋のドアの前まで来て、ドアノブに手をかけた時。

 制止するおじさんの声が響いた。

「待って。用意してくるから」

「え」

 沙緒が振り返ると、おじさんは椅子から中腰で立ちあがり、沙緒に片手を伸ばして引きとめるポーズを見せていた。

「下ろしてくる。確かめたらしていいんだね」

 『していい』の言葉に、瞬間、背中にザワッと嫌悪感が駆け抜けたが、沙緒は嫌な気持ちをぐっと押し込め、つんと突き放すような表情で黙って頷いて見せた。

「わかったよ・・・行ってくるから、待ってて」

 おじさんは、ためらうような言い方をしていたが。

 中途半端な姿勢からしっかりと腰を上げると、諦めたような表情のまま沙緒の方へと歩を進めてくる。

 沙緒は身構えて、壁へと背中をつけ、おじさんの挙動を厳しい視線を送りながら見つめていた。

 おじさんは静かに沙緒の前を通り過ぎ、黙ってそのまま部屋のドアを開くと、外へと出て行った。

 沙緒は、おじさんが手を離したドアが、静かに戻ってくるのを見守ると、ふうと大きく肩から息を吐き出した。

 シャワーの雨に打たれ、泣きながら。

沙緒はどうしたらいいのかを考えていた。

おじさんとやったって、また他にも何人かまたいでお金を集めるのが嫌だと思った沙緒は、価格を吊り上げる提案をする事を、いちかばちかでやってみたのだった。

 もしこれで拒否されたら、また掲示板で募集すればいい。

 買いに来る人は減るだろうし、値段が値段なだけに変な人が来るかもしれない不安もあったが、それでもどんな結果になるかやってみないとわからないからと、おじさんに強気で吹っかけてみることにし、どうやら良い結果に繋がったらしい。

 でも、油断はできないから。

 沙緒は壁から離れると、部屋中を物色し、何か武器になるようなものを探し始めた。

 もし、お金を持ってくると言いながら、変なものを持ちこんで脅しだしたら闘う為に。










 約、二十分後。

 ドアノブが開く音がし、沙緒はさっきまでおじさんが座っていた椅子から腰を上げると、ドアの方まで近づいて行った。

 部屋の奥へいれば、何かあっても逃げにくくなる。

 この後、おじさんがどういう挙動に出てくるかわからないだけに、沙緒はかなり警戒しておじさんを迎える気だった。

 おじさんは、出て行く時と同じように、静かにドアを開いて入ってくると、またドアから静かに手を離し。

 ドアはそのままゆっくりと閉じていった。

 沙緒は、おじさんに変わらずツンとした表情のまま、顔を少し右側へ傾ける。

 沙緒のジーパンの後ろポケットには、部屋中をくまなく物色した際に見つけた、机の後ろ側に落ちていた小さなハサミがねじ込まれていた。

 ホテルの人が清掃時か、利用していた人が何かをしていた時に落としてしまって、取るのを諦めたのかもしれない。

 ほこりが相当かぶっていたが、今の沙緒には打ってつけの武器を見つける事が出来、心から安堵していた。

「下ろしてきた?」

 ゆっくりと大げさに腕を組む。

 沙緒は壁に軽く背中をつけ、見下すようにおじさんを見た。

「下ろしたよ」

 おじさんはズボンの後ろポケットから折り畳んだ財布を取り出すと、おもむろに財布を開き。

 札入れの中から、ごそっと一万円札の塊を出した。

 沙緒は思わず、目を開く。

「数えてごらん」

 おじさんはまた、笑ってるんだか泣きたいんだかわからない中途半端な顔で、沙緒にお金を差し出した。

 沙緒が手を出さず、睨むようにしていると、おじさんはそのまま沙緒の前を通り抜け。

 さっきも置いたドレッサーの前に、手にしていたお金を置いた。

 おじさんはそのまま、また窓の下の椅子まで歩くと、どっこいしょ、というひとり言のような掛け声とともに椅子へ腰を下ろした。

 沙緒は腰をしっかり下ろしたのを確認すると、腕を組んだままドレッサーまで近づき。

 そこに置いてあるお金を手だけ伸ばして掴むと、ドアの方へ少し後ずさりした。

 ある程度まで下がり、おじさんが急に動いても逃げだせるくらいの距離を保つと、沙緒はそこでお金を数え始める。

 さっきと同様、ゆっくりと一枚一枚確認するかのように。

 一、二、三・・・。

 沙緒は心の中で数え続ける。

 それが十枚、確かにあることを知ると、沙緒は十万を手にしたまま、しばらくそこに立ちつくした。

「ちゃんとあっただろう?」

 おじさんの声が遠くから聞こえる。

 沙緒は黙っていた。

 これで、もう。

 逃げられない。

 とうとう観念しなくてはならない時がやってきた。

 手にしたお札が急に冷えて、凍っているような感覚になっていた。

 もう、逃げられない。

「・・・ミィちゃん」

 お札に目を落としたまま、沙緒がじっと立ちつくしていると。

 おじさんは気遣うような声を沙緒にかけながら、沙緒へと距離を詰めてきた。

 沙緒はもう、動けなかった。

 どうしていいか、わからなかった。

 おじさんはそのまま沙緒に近づき、沙緒の目の前に来る。

「ポケットにしまっていいよ」

 おじさんはそう言うと、沙緒にお金をしっかり受け取るように促した。

 それはもう、沙緒とおじさんとの間で、しっかりと契約が成立したという現実を突きつけてきたのと一緒だった。

 沙緒は黙っていた。

 目の前に、おじさんの少し突き出たお腹が見える。

 本当ならば、突き飛ばしたいくらいの体だ。

 気持ちが悪かった。

 でも、もう、どうにもならない。

 ここまでずっと気を張って、つんけんとした態度を取り続けてきたけれど。

 今の沙緒は、崩れ落ちてしまいそうなくらいに弱くなっていた。

 このお金をポケットに入れてしまうと、もう私は。

 この人に抱かれなくてはならないんだ。

 ずっとお札を掴んだまま、沙緒は動くことが出来ず。

 人形のように固まった沙緒に、おじさんは沙緒の手からそっとお金を抜き取ると。

 沙緒の横に回り、お札を二つに折り畳むと、体を少し横へ傾けるようにしながら、沙緒のジーパンの右側のポケットへ両手を伸ばしてきた

きっちりと蓋を閉じているポケットの、重なっている上の生地を片方の指で掴んで広げ、もう片方の手で掴んでいた折り畳んだお札をゆっくりと開いた空間へ差し込む。

 けっして乱暴な事はしないとでもいうような、優しい手つきで。

 無理やりぎゅうぎゅうと奥へ差し込むことはせず、ただ静かに差し込んで行った。

 沙緒はずっと立ちつくしていた。

 何も出来ず。

何も言えなかった。

 おじさんはポケットから手を離すと、沙緒を横から見つめ。

 握っていたお札を抜き取られた後、ただ、だらんと下げていた沙緒の右手を、そっと掬うように手で掴み。

 そっと優しく握った。

 生温かい、ふっくらとしつつも、堅めのおじさんの手の感触を感じていても。

 沙緒はそれでもなお、立ちつくしていた。

 おじさんは、沙緒の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出し。

 沙緒はその手に引かれて、体を前方へと傾けた。

 おじさんは何も話さず、自分の意思で動くことが出来ない人形のような沙緒を、振り返り見つめながら、手を引き、ゆっくりと歩き続ける。

 沙緒は軽くよろめくように、おじさんに手を引かれ続けた。

 その動きが止まったのは、ベッドの真横に来た時で。

 沙緒はおじさんが足を止めるのと同時に、足を止めた。

 おじさんは、ずっと黙って表情を失くしている沙緒を見つめながら。

 ゆっくりと沙緒が着ているパーカーに両手をかけ、静かに脱がしていった。

 沙緒の背中へ、脱がされたパーカーがゆっくりと落ちて行く。

 そのまま両手から、パーカーがベッドの上へ滑り落ちて行くと、おじさんは着てるシャツのボタンをはずしていった。

 沙緒はぼんやりと、そのボタンが太い指ではずれる様子を見ていた。

 おじさんはチェックのシャツを脱ぐと、その下に着ていた同じく白い丸首の下着のシャツを脱ぐ。

 小太りのだらしない体が目に入ってくる。

 筋肉がなく左右に垂れている胸と、ビール腹の突き出たお腹は、中年という象徴のように見えていた。

 おじさんは、ズボンのベルトに手をかける。

 太い指でベルトをバックルから外し、ボタンをはずし、チャックを下ろすと。

 そのまま下へと、ズボンを一気に下ろしていった。

「はは」

 おじさんは、両手で床へと落としたズボンを、足から抜き取ろうとしていたところだったが。

 沙緒の声がして、屈んだ姿勢のまま、顔だけ上に向けた。

 沙緒は、真正面をぼんやりと見詰めたままで。

 ただ、力なく笑っていた。

 私、何やってんだろ、とでも言いたげな顔で。

「は・・・はは・・・」

 沙緒はずっと、急に何かおかしくなったかのように、力のこもらない声で笑い続ける。

 バカみたい。

 沙緒はやっと、自分の心が意思を持って話せるようになったのを感じた。

 バカみたい。バカみたい。バカみたい。

 笑っているうちに。

 沙緒の顔が、一気にくしゃくしゃに歪んできた。

 震え始める唇を噛み締めるかのように、グッとへの字に曲げると、

そのまま顔も体も、小刻みに震え始めた。

「はは・・・ははは・・・」

 力ない声で笑いながら、沙緒の顔は歪み続ける。

 そのうち耐えきれないように、沙緒の目にはまた涙が浮かび始め。

 時を待たず、それはボタボタッと溢れては、下へ下へと繰り返し零れ落ちてゆく。

 沙緒を、眉間に思いきり深い皺を何本も刻んだ表情で見上げていたおじさんは。

 片方の足だけズボンを抜き取った状態で、おもむろに体を起こした。

「ミィちゃん」

 おじさんは急に泣き出した不安定な状態の沙緒に対して、うろたえるような顔で沙緒の肩へと手を伸ばす。

 沙緒の右肩に、その丸い手が乗った瞬間。

 沙緒は、反射的に手を動かし、思いきりその腕を払いのけた。

 おじさんの体がよろめくほどの勢いで。

「イヤ」

 沙緒は初めて、素直な気持ちを発した。

「こんなのイヤだ。絶対イヤ!」

 沙緒は、心のままに気持ちを口から放つと。

 体を翻し、ベッドの上に落ちたパーカーを拾い上げ、そこから駆けだした。

「あっ!ミ、ミィちゃん!」

 おじさんは慌てて沙緒を追いかけようとしたが、片方の足にズボンが残っていたので、絡んでうまく動けず。

 沙緒は、声を無視したまま一気にドアの前に行くと、ドアノブを掴んで勢いよくドアを開いた。

「ミィちゃん!」

 沙緒はドアの外へ転がるように飛び出すと、そのまま廊下を駆け抜けた。

 エレベーターの横にある階段を使い、一気に下まで駆け下りて行く。

 足を止めると、あの太くて丸い手と指に、体を無理やり捕えられてしまいそうで怖かった。

 沙緒は一目散に一階まで辿り着くと、廊下に出て、外へ繋がる玄関へと一気に向かっていった。

 いろいろな部屋を写真で紹介している場所を通り抜け、そのまま自動ドアを抜けると外へ飛び出し、どっちから来たか分からなかったが、体が求めるままに右折すると、方向が分からないまま闇雲に走り続ける。

 これ以上、早くなんて走れない状況で歩道をひたすら走り続け、何本目かの交差点まで来て赤信号に引っかかると。

 沙緒はようやく足を止め、後ろを振り返った。

 そこには、さっきのおじさんの姿はなく。

 ただ、縦、横の通りを行き交う人たちと車だけが目に映る。

 はぁはぁと、止まることなく、激しく息が口から溢れ出る。

沙緒は体を折り曲げ、肩を上下させながら呼吸を整え始めた。

 その時。

 お尻から、ぐっと鈍く押されるような感触がして。

 沙緒はそこに、ハサミが入っていたことを思い出していた。

 同時に、右側のポケットにはお札が入ったままだったことも、思い出す。

 ・・・ヤバイ。

 沙緒は肩を揺らしながら、視線だけジーパンの右ポケットに向けた。

 ・・・このままだと、私、ただ、おじさんからお金を巻き上げた人だ。

 沙緒は荒れる息と、早鐘のような心臓が軽く痛みを訴えている状態のまま、辛そうに体をゆらりと揺らしながら起こすと。

 右ポケットに手を差し込んだ。

 指先がすぐ、紙の感触を知る。

 分厚く重なり合う紙幣をポケットから抜き出すと、止めどなく溢れる息を吐きつつ、バラけていたお札をすべて同じ位置で重ね合わせてから、改めてお札を数え始める。

 間違いなく、二十万、そこにはあった。

 沙緒は紙幣を二十枚、綺麗に半分に折り畳むと、改めて後ろを振り返る。

 そこにはやはり、おじさんの姿はなかった。

 沙緒が立っている向かい側から、横断歩道を歩いて渡ってきた人たちが、沙緒の横を通り抜けても、なおずっと。

 沙緒は振り返ったまま、走り抜けてきた道を見つめていた。

 ブルル・・・と何台もの車が小さなエンジン音を立てながら、沙緒の横を左折し、交差点を曲がっていく。

 まだ、陽射しは暑く、沙緒を照らし続け。

 時折、吹く風は生ぬるかったが、沙緒の体を撫でるように流れていき、顔の横を流れる汗を少しずつ冷ましていく。

 沙緒はじっと、来た道を見つめ続ける。

あそこに戻りたくはない。

 イヤだ。

 でも、このまま逃げたら、私はただの窃盗犯だ。

 気の良さそうなおじさんを騙して、お金を持って来させ、奪っただけの人になる。

来た道を見つめながら、じっと考える。

 ・・・こんな形でお金を得たらダメだ。

 その言葉は、様々な感情に支配され、すすけたようにくしゃくしゃになっていた沙緒の気持ちに。

 きちんと、ちゃんとしなくちゃいけない、という、小さな勇気を与えた。

 沙緒は来た道へ踵を返すと、ゆっくりめに走り始めた。

 さっき逃げるように出てきた、ホテルへ向かって。

 











 駆け足気味に、来た道を戻っていると。

 さっき飛び出してきたホテルが目に入って来た。

 あと二十メートルくらいでホテルに着きそうな時、ホテルの玄関から出てきた一人の男の姿に目を止め。

 沙緒はそのまま、足を止めた。

 さっきのおじさんだった。

 しょげたような姿で、とぼとぼとホテルの玄関を出てきて、大きく体を揺らし、息を吸って吐いてと深い溜息をつくと、沙緒が走って来た方向とは逆の左側へと体を向けた。

「待って!」

 沙緒は思わず、大声で叫び。

 おじさんはビクリと体を震わせると足を止め、恐る恐る振り返り。

 沙緒を見ると、目を大きく見開いた。

 沙緒は黙ったまま、軽く小走りにおじさんへと近づき。

 目を見開いたまま固まっている、おじさんの五メートル先くらいまで来ると、再び足を止めた。

「お金を返しに来ました」

 沙緒はおじさんにそう言うと、おじさんは『えっ』とでも言うような表情をした。

 沙緒はそのまま、おじさんへとゆっくり近づき、ポケットに入っている二十万を引き抜くと、おじさんの胸に向けてお金を差し出した。

「ごめんなさい」

 なんて言っていいかわからず。

 沙緒はとにかく、それだけを告げた。

 おじさんは沙緒の姿に、何か言いたげな顔をしていたが。

 そのままおじさんは手を伸ばして、沙緒からお金を受け取った。

「・・・ごめんなさい」

 心配するような、何とも言えない顔で見つめてくるおじさんに。

 沙緒はまた、もう一度謝った。

 一体、何をしに来たのだか。

 おじさんだって、訳の分からない状況だろう。

 沙緒にもそれは、わかっていた。

 だけど、何も言うことは出来ないし、説明する気もなかった。

 ただ、それでも。

 また会えて、返せてよかったと、沙緒は思っていた。

 それだけで、もういいんだ、と。

 前と何一つ、追い込まれている苦しい状況は変わらない。

 沙緒は自分でも、一体何をやっているんだろうと思い。

 おじさんには見えないように、小さく自嘲した。

 アホらしかった。

 何もかも

おじさんは視線を少し下げ、何かを考えているように小さく顔を左右に振りながら、唇を何度かモゴモゴと動かしていたが。

 沙緒はおじさんが何かを言う前に、ペコリと頭を一度深く下げると。

 すぐにおじさんに背を向けて、来た道を走りだした。

 さっきよりもずっと早く走りだし、どんどんとさっき立ち止まった交差点へと向かって行く。

 何も手に入らなかったし、何の意味もない時間だったけれど。

 でも、逃げだした時より、ホテルへ戻って来た時よりも、ずっと足取りは軽く。

 胸の中はスッキリとしていた。











 沙緒はそのまま、あちこち歩いている人に確認しながら、おじさんと待ち合わせをした三谷駅まで戻ると。

 自分の家と、物置と猫を預けている病院がある、三駅隣の東橋駅まで電車に乗って行った。

 電車に揺られながら、沙緒はスマホをずっと眺めていた。

 なんとかお金がないなりの工夫は出来ないかと、考えていたのだ。

『動物病院、お金が無い』などで検索をかけて、参考になりそうな記事を探す。

 いろいろと記事を見て行く中、どうも分割が出来るような事に気付いた沙緒は、一度、猫たちの様子を聞きに行きがてら、先生に直談判で相談しようと思っていた。

 クレジットカードも何もないけれど、どうにか分割にしてくれないかと。

 どれくらいずつなら分割が可能か、相談に乗って欲しかった。

 もし分割が出来るならば、沙緒は、普通のアルバイトを朝と夜でかけもちでもすれば、きっと高くても払っていけると思っていた。

 実際、仕事を決めてみないと何とも言えないが、写真も履歴書もある。

 自分の住んでる場所は物置だけど、親の家があるから、一応住所も書ける。

 それを思った時も、やはり、親の家って・・・と思いがよぎりそうになったけれど、沙緒はそれ以上あまり深く考えないようにした。

 ごちゃごちゃ考えて、自分が虚しくなるのは嫌だった。

 仕事さえ決まれば、住む家だって探せるだろう。

 まずはとにかく、仕事を決めよう。

 東橋駅に着くと、沙緒は駅の周辺に立てかけてある無料の求人誌のラックから、一冊求人誌を引き抜くと、そのまま背中のリュックのチャックを開けて中にしまい。

 駅からすぐの動物病院へと向かっていった。

 昨日と打って変って、静かに自動ドアが開くのを待ち、開いてからゆっくりと歩を進め、建物へ直接繋がる扉を前方へと開く。

「あ・・・こんにちはー」

 受付のお姉さんは、今日は一人だけだった。

 沙緒に気づいて、お姉さんは沙緒に声をかけながら、にこりと微笑む。

 沙緒は軽く微笑んで会釈すると、左手の待合室へ顔を向けた。

 今日は、待っている人は一人しかいなかった。

 中年の女性がベンチに座りながら、雑誌をゆっくりと眺めていて。

その女性の隣に置いてあるケージはかなり大きかったので、たぶん犬ではないかといった感じがしていた。

「どうしました?」

 受付のお姉さんは座っている椅子から腰を上げると、沙緒に首を傾けながら優しい声で問いかけてくる。

「あの・・・えっと・・・昨日の治療費なんです、が。少し相談したいことが、ありまして・・・」

 沙緒が言いにくそうに切り出すと、お姉さんはその手の相談は慣れているのか、普通にニコニコしながら「そうですか」と言い、沙緒は待合室の方へと促した。

「少し待っててくださいね。今日はたまたま空いてますから、先生とすぐ話せますので」

 差し向けられた手の方向へ、沙緒は体を向けて歩きながら、「有難うございます」とお姉さんに会釈をした。

 お姉さんは笑顔で頷きながら、また席へとつき、パソコンに何かを入力し始め出す。

 沙緒はそんなお姉さんの姿を見ながら、こんな仕事もいいかもしれないと、なんとなく思っていた。

 でも、沙緒は、特に何か資格があるわけではない。

 パソコンの入力や、エクセルやワードは授業で使っていたから出来るけど、この年でこんなフラフラしているような状況で、そんな仕事に就けるんだろうか。

 無理だろうな、とよぎった気持ちにひとりでツッコミを入れると、沙緒は待合室で雑誌を読んでいる女性から、人一人分くらい間を空けた場所に腰をおろし、そのまま背後にある白い壁に体をつけた。

 ぼんやりと、向かいのベンチの壁に貼られている、フェラリアの予防接種のポスターや、手洗いうがいの大切さをうたうポスターを眺め続ける。

 五分くらいすると、待合室からお礼と共に三十代位の女性が会釈をしながら出てきて、隣の中年の女性の名前が呼ばれ、入れ替わりで入って行く。

 診察が終わった女性は、ホッとしたような顔で、中くらいの大きさのケージを抱えるようにしながら、沙緒の近くへと腰を下ろした。

「良かったねぇ・・・安心したよ」

 優しい声でケージの中に女性が声をかけると、ニャアと小さな鳴く声がした。

 沙緒は思わず、その女性が見ているケージの方へと目を向ける。

 女性はケージの蓋部分を指で撫でるようにして触れながら、何度も何度も「良かったね、良かったね」と声をかけ続けていた。

 私も、ああなれたらいいのにな。

 沙緒はその女性の姿を眺めながら、そんなことを思っていた。

 そして背中に背負っているリュックを下ろすと、中から先ほど持ってきた求人誌を取り出す。

 リュックをそのまま横に置くと、沙緒は太ももの上で求人誌を開きだした。

 どこか、今すぐ雇ってもらえるところを見つけて、明日からでも働きたい。

 どこでもいいから、すぐ雇ってくれそうなところを見つけよう。

 沙緒は真剣に求人内容を確かめつつ、一ページ一ページ指で紙を送りながら自分に出来そうな職業と場所を検討していった。

「元橋さーん」

 ふと気付くと名前を呼ばれ、沙緒は雑誌から顔を上げる。

 どうやら、さっき沙緒の前に入っていた中年のおばさんは、いつのまにか既に診察を終えていたらしく。

 常連なのか、受付のところへ行って、なんやかんやお姉さんと楽しそうに雑談をしていた。

「元橋さーん?」

「は、はい!」

 沙緒は、慌てて求人誌を丸めるようにしてリュックの中に詰め込むと、チャックを閉めずにそのまま手に下げ、診察室へと入って行った。

 扉を空けてすぐ、看護師さんがにこにことした笑顔で、中へどうぞと促してくれ。

 昨日見た先生が、「おー来たね」と沙緒に声をかける。

「どうした? 支払いの件だって?」

 先生は沙緒が会釈し、リュックを床に置くと、すぐに用件を尋ねてきた。

 沙緒の胸はドキッとしたが、コクリと頷き、先生の前の丸椅子へと腰をかける。

 先生は今日は頭ではなく、自分のデスクの上でボールペンを繰り返し上下に指で揺らしながら、コツコツとボールペンの頭の部分を机の上にぶつけていた。

「すみません・・・あの、その、相談が」

「うん。どんなこと」

 先生が聞き慣れたような状況で尋ねてくるので、沙緒は思い切って、顔を上げて先生を見ながらお願いをする事にした。

「私、実は家出をしていて」

「ほぉ」

 先生はビックリした目で沙緒を見る。

「住む場所と就職先もまだ決められてなくて、今手持ちのお金が少ししかない状況です。昨日はなんとかして、お金を集めて来ようと思いましたが、失敗しました」

「・・・うん」

「でも、なんとか必ず払います。こういうこと言う人、たくさんいるのかもしれないのはネットの記事で見ましたけれど、でも、本当にお約束します」

「うん」

 先生はネットのくだりを沙緒が話すと、何とも言えない顔で苦笑した。

「今すぐこれから面接できる場所を探して、アルバイトでも何でもいいので、仕事を決めてきます。朝と夜とかけもちすれば、一人で生活しながら支払うことは大丈夫だと思うんです。自分に使う分はどこまでも削ってもいいので、必ず支払います」

 こんな話を人生でしたことがなかっただけに。

 沙緒の声は、緊張で無意識のうちに少し上ずっていて。

 手は、緊張でいつのまにか、がっしりと組み合わせてしまっていた。

 先生をしっかりと見つめながら、一生懸命に沙緒は話し続ける。

 先生は、指先で上下に揺らすボールペンに目を落とし。

途中から沙緒の顔を見ずに、話を聞き続けていた。

 こっちを向いてもらえないことに不安を感じていたが、沙緒はなんとか理解してほしくて。

 必死で先生に訴え続けた。

「お願いします。どうか、一度には無理なので、支払いを分けてもらいたいんです。ただ、クレジットカードも持っていないので、信頼してもらうしかないんですが。でも、必ず支払います。少しずつでも支払います。お願いします」

 沙緒は一生懸命、一生懸命、伝えた。

 人生で、こんなに誰かに何かをお願いした事なんてなかった。

 沙緒は一度椅子から立ち上がると、両手を前にして太ももに重ね、これ以上は無理というところまで深々と頭を下げた。

 先生が何かを言ってくれるまで、ずっと頭を下げ続けた。

 どれくらい経ったのか。

 コン、コン、という、ボールペンが机の上にぶつかる音だけが、定期的に聞こえ続け。

 先生は何も言わず、ただじっと黙っている。

 コン、コン、という繰り返す音は、時間と共に沙緒に孤独を与えた。

 気持ちを受け容れてもらえないかもしれない。

 そんな不安を抱えながら、沙緒は泣きそうな気持ちを歯に力をこめながら必死でこらえた。

 先生・・・お願い・・・。

 コン、コン、という音が、どれだけ繰り返されただろう。

 沙緒の心の孤独だけが増していく中、ようやく先生が口を開いた。

「・・・元橋さん」

 先生の声に、沙緒は少しだけ頭を上げた。

「・・・まぁ、体を起こしなさい」

 先生の声に、沙緒は少し躊躇しながらも、体を起こした。

 先生はじっと、机の上のボールペンを眺めている。

 音は立てずに、指先でぶらぶらと上下に揺らしていた。

「僕はね、この仕事をしていてね。そうやって言ってきた人を、何人も何人も見ているんだよ。君がネットで見てきたようにね」

「はい・・・」

 沙緒は、先生が一向に沙緒を見ないことに、ずっと不安を抱えたまま、弱々しく返事をした。

「君のように一生懸命頼んだ後、その後は一切連絡が来ない人もいた。まったく連絡がつかなくなる人もいた。君よりずっと大人な人たちでも、そんなもんだよ。君よりもっとずっと稼げそうな人たちでもね」

 先生は今度は、ボールペンを指で器用にくるくると回しだす。

 ボールペンは先生の意のまま、指ではじかれるたびにくるくると回転し、またはじかれることを繰り返し続ける。

「大人でも出来ないことを、君のような今仕事もない、家もない状態の人に対して、どうか信用してほしいと言われても、なかなか難しいと思わないかい?」

「・・・はい・・・」

 沙緒はさっきよりも小さな声で、返事を返した。

 言ってる通りだと、思っていた。

「僕からの提案は、ひとつ。まず、君が家出をやめること。そして、家に戻って両親に相談し、両親が猫の保護に反対するなら、両親に頼みこんでお金を借りてくること。そのお金で猫を引き取り、君が親にお金を返す。これが一番いいと思う」

 先生はそう一気に言うと、沙緒にやっと目を向けた。

 沙緒は先生から向けられた目を、顔ごと横にそらした。

 斜め後ろにいつのまにかいた看護師が、先生の言う話がもっともだというような顔で何度も頷いているのが見える。

 それでも沙緒は、頷くことは出来なかった。

「分割の相談は、君がまず両親との約束を取り付けてきてから話しあおう。僕から言えるのはそこまでだね」

 沙緒はそう言われても、何も返事が出来なかった。

 家に戻る気は毛頭ない。

 沙緒は、その提案を呑むわけにはいかなかった。

「・・・以上だよ。一度お帰り」

 先生はそう言うと、立派なデスクチェアの背もたれを揺らして、机の方へと体を向けた。

「私」

 沙緒は顔を横にそむけたまま、声を出した。

 斜め後ろの看護師は、沙緒を怪訝そうに見る。

 先生は顔だけ、ちらりと沙緒を振り返った。

「体を売ろうとしました」

 その言葉に、先生は目を見開き。

 後ろの看護師も同様の表情をした。

「お金を一括で払うのには、たくさんのお金を作るには、もうそれしかないと思ったんです。だから、ネットで必死に調べました。出会い系でお金のやり取りを出来そうなところを見つけて、そこに書きこんだら、一人のおじさんが会うと言ったので、さっきまで会ってたんです。ホテルで」

 先生は呆気にとられたまま、声も出せずに居て。

 看護師もとんでもない話を淡々と話し続ける沙緒に対し、どうしたらよいのかわからない表情で見つめるしか出来なかった。

「でも、出来ませんでいた、何も。お金も貰いませんでいた。先に渡されていたんですが返しました。あのままあそこにいて、貰ったまま、必要な事をやっていたら、あのお金は貰えていました。二十万あったので、さっき窓口で一度に前払いで一気に払えました。あのまま、そのままやってたらですが」

 沙緒は淡々とそう話し続けていたが、だんだんと涙腺が緩んできてしまい。

 声も少しずつ震えてきてしまっていた。

「私、本当は家に一度、戻ったんです。そこを母親に見つかりました。猫を連れて来たと知ると、その猫を家に入れるなら、私ごと家から出て行けと言われました」

 看護師はその沙緒の言葉に、驚いて両手を口にあててしまい。

 先生も信じられないような顔で、眉を寄せていた。

「だから、どうしようもなかったんです」

 ぽたっと。

 沙緒の目の淵からこぼれ落ちた涙は。

 病院の白い升目の床を、小さく濡らした。

「どんどん弱っていく子たちを見ているのは辛くて。自分がなんとかしてあげたくて。でもどうにも出来なくて。お金を作れなかったので、なんとか相談に来ました」

 沙緒はそこまで言うと、顔を俯かせ、溢れる涙を指でぬぐい。

 先生をもう一度、しっかりと見た。

 先生はさすがに困惑したような顔で、沙緒から少し目をそらす。

「うちの親は、普通じゃないんです。普通の会話が出来ない親なんです。だからこうするしか出来ませんでした。先生の話は、すごくわかります。信用してもらえないのも当然だと思います。でも、今の自分にはこれしか出来ないんです」

 沙緒は涙声のままそう言うと、少しずつ膝を折り。

 床に両ひざをつけて、ペタンと座り込んだ。

「ちょ、ちょっと、元橋さん」

 看護師が慌てて近寄り、沙緒の両肩に手を乗せ、そこまでしなくてもいいとでも言うように、両肩をつかんで立ち上がるように引き上げたが。

 沙緒は首を横に激しく振って、抵抗した。

 そしてそのまま、看護師の手より強い力で体を前傾させ、両手を重ねあわせて床につけ、そこへ深々と下げた頭を重ねた。

「元橋さん、いいんですよ、そこまでしなくて」

 土下座をする沙緒に、看護師は必死で肩を抱きしめるように抱え、立ち上がるように促すが。

 沙緒はどれだけ看護師の手に体を引き上げられようとしても、床へとグッと重心を傾けて立ち上がることを拒否し続けた。

「お願いします。本当に返し続けます。必要最低限の物以外、自分の物はいりません。この子たちの為に払いに来ます。どうか信じてください。私にはもう、これしかないんです」

 沙緒は、顔を重ねた手の上に乗せたまま、ずっと先生に頼み続けた。

 看護師は、沙緒のどうしても立ち上がりたくない気持ちをなだめるように、背中をずっと大きく撫で続ける。

「先生・・・」

 看護師の声がする。

 先生にどうするか問いかけるような声だった。

 ボリボリと、大きく何かを掻く音がする。

 たぶん、先生が頭を手で掻いているような音に、沙緒には聞こえていた。

 しばらく誰も話さず、部屋は静まり返り。

 入院している場所からなのか、猫や犬の鳴き声が、診察室までかすかに聞こえている。

 キィ、キィという、先生が座る椅子のきしむ音が続き。

 やがて、大きな深い溜息の音が、沙緒の耳に届いた。

「困ったな・・・」

 先生の呟きは、ほとほと困ったという気持ちが、ありありとこめられていて。

 看護師はずっと、沙緒の背中を大きく力強く撫で続けた。

「元橋さん、頭を上げましょう。ね?」

 何度も何度も優しく、沙緒の耳元で声をかけてくるが、沙緒はびくともせず、頭を下げ続ける。

 先生の深い深い二度目の溜息が、診察室中に響き渡った。

「・・・あー・・・じゃあ。もう、今回だけ」

 先生は、不本意極まりないと言うような言い方だったが、沙緒を見ずに投げやりにそう答えた。

 沙緒はそこでやっと上体を起こした。

「先生・・・ほんとですか?」

 沙緒は先生に尋ねた。

 すがるような気持ちで、先生を見つめていた。

先生は沙緒に体を向けず、乱暴に頭を大きな手でガリガリと掻き回した。

 薄めの頭皮が、かなり赤くなりそうな勢いだった。

「・・・今回だけだからね。人に言いふらしたりしないように。友達にも話さないで。あと、誓約書を書かせるからね」

「はい・・・」

沙緒は嬉しくて、何度も何度も頷いた。

「あと、三日以内に仕事を決めてきなさい。職場が決まったら、その職場の連絡先を教えるのと、そこの上司と話をさせて。必ず週一でここに顔を出して、近況を報告すること。給料日には、実際、給料をどれだけ貰っているかを確かめさせること。振込なら通帳持参、手渡しなら袋ごと持ってきて、僕の前に見せなさい。あと、手持ちで今いくらある?」

「確か七万です。見せます」

 沙緒はそう言うと、床から立ち上がり。

 床に落としていたリュックを拾って、中から財布を取り出した。

 先生はやっと沙緒へと椅子ごと体を向けて、厳しい顔で沙緒を眺めた。

 沙緒はリュックをまた床に置くと、財布からお札を全部とりだし、先生の机の上に置いた。

 取りだした札は、記憶で万札は七枚だったが、千円札がまだ二枚あり、合計で七万二千円だった。

 沙緒は、小銭も財布の中から全部とりだし、札の上に置いた。

 こちらはいくらあるかわからなかった。

「確かめてください。リュックの中も探していいです。服の中も」

 沙緒はそう言うと、財布とリュックも机の上に置き、調べていいように両手を広げた姿勢を見せた。

 先生は沙緒をじっと見つめていたが、やがて机の上のお金に目を向けると。

 まず、小銭を手で避けて、札だけを手に取り。

 そこから五万を抜いて、二万二千円を沙緒の近くの机の上に置いた。

「さっきの君の言葉を信用する為に、五万は先にもらう」

 先生は枚数を確かめるように、札を何度も指ではじいていた。

「はい!わかりました!」

 沙緒はまるで軍隊に所属している兵士のように、大きな声とハッキリとした口調で答えた。

 命令にはあくまでも忠実に行動する、とでも言うような、声の張り方だった。

 先生は、沙緒にちらりと目をやった。

 試すような目で沙緒を見上げる。

「なんなら、まだもらってもいいけど」

「先生・・・」

 小さな声で看護師がたしなめてくる。

「大丈夫です。履歴書も買いましたし、写真ももう撮っています。求人誌も手に入れてます。あとは履歴書を書いて写真を張って、応募先に行くだけです」

 沙緒は、力強く、真っ直ぐ先生を見つめて答えた。

「好きなだけ持っていってください。ご飯だけ食べれればいいです。安いカップ麺なら百円しないで食べられます。大丈夫です」

 先生は黙って沙緒を見つめる。

「・・・じゃあ、あと一万二千円もらうぞ」

「わかりました」

「ちょ・・・先生・・・!」

 看護師がさすがに止めに入るように、沙緒と先生の間に割り込んで来た。

「女の子なんですから・・・!何かあったら大変な事に」

「大変な事になるのを覚悟で、体を売りに行ったんだろ?」

 先生は淡々と冷たく言い放つ。

「・・・はい」

 沙緒は変わらず、真剣に先生を見つめたまま。

 コクリ、と、深く頷いた。

「じゃあ、何でも出来るな」

「はい、大丈夫です」

「先生!本当に何かあっては大変ですよ!」

「じゃあ君の取り分はこれだけだ」

 先生は、沙緒の前に置いた札を再度手に取り、一万二千円をそこから抜いた。

 残りの一万円を、沙緒の前に置き直す。

 小銭も共に先生の手で押し返され、置かれた一万円の横になだれるように積み重なっていった。

「六万円、前払いで受け取ったからね」

「はい。よろしくお願いします」

 沙緒はそう言うと、再び深く深く、頭を下げた。

 沙緒の足の下に、先生のかなり使いこんだ様子の、しわしわになった革のサンダルが目に入る。

 その足はゆっくりと、上下に床を踏んでは上げるを繰り返していた。

 沙緒を試している。

 そんな動きに沙緒には映った。

 沙緒はそれに、真っ直ぐに応える気持ちだった。

 私は絶対に、先生にお金を払い続ける。

 その為に行動する。

 あの子たちのために。

 沙緒の心には、今までに感じたことのないような強い炎が燃え盛るように宿っていた。










 黙々と、沙緒は物置の中で、履歴書を書き続けていた。

 働いたことがない沙緒は、履歴書の職歴に書くことはないので、個人情報と、学歴と、志望動機くらいを書くだけで済んだ為、思っていたよりも作業はどんどん進み。

 無料の求人誌で目星をつけた店や会社に、どんどんと電話をしていって、面接の予約を取って行った。

 三日以内に就職を決める事。

 沙緒は、先生のその言葉を受け容れ、診察室を出た後で。

 受付のお姉さんから渡された、たぶん今作ったのであろう『誓約書』という紙に、名前、実家の連絡先、現在の居場所、必ずどんなことがあっても支払いを続けるという内容と、先ほど先生から口頭で聞いた内容を理解したという意味で、サインと拇印を押してきた。

 黙々とベンチに座ってそれを書いていると、さっきまで診察室で沙緒の話を聞いていた看護師が、とても心配そうな顔で沙緒の隣に腰を下ろした。

「大丈夫なの・・・?」

 沙緒の顔を、横から窺うように覗きこんでくる。

 話しかけられた沙緒は、看護師に顔を向けた。

 本当に心配だという顔をしている看護師に、沙緒は少し微笑んだ。

「大丈夫です。頑張ります、私」

「・・・あのね、元橋さん」

 看護師はたしなめるような顔で、足を揃えて沙緒の方へ体を向けると、ペンを握っている沙緒の手に、そっと小さな白い手を重ねてきた。

「私も元橋さんよりは小さいけど、女の子の子供がいるのよ。横で聞いていて、本当に他人事じゃないと言うか。お母さんはね、ひどい言い方をしたけれど、あなたを憎くて言った訳じゃないと思うのよ。子供が可愛くない親なんて、誰もいないのよ」

 看護師さんは沙緒の手を撫でるようにそっと動かしながら、言い聞かせるように沙緒の顔を横から見つめてくる。

 沙緒は、看護師の優しい気遣いには感謝を感じていたが、小さく口元を緩めると、首を横にゆっくりと振った。

「元橋さん・・・」

「きっと、看護師さんだったら、普通にいろんな話を聞いてくれる親だったんだろうなって、思います」

 沙緒は、重ねてくれる温かい看護師の手の上に目を落としながら、そっと空いている手を温かな手の上に乗せた。

「でも、うちの親は、本当に普通じゃないんです。今までもずっと、そうでした。何を話してもまともな答えが一度も帰ってこないんです。何かが狂ってしまったみたいに」

 沙緒は、そう話しながら。

 ふと、また小さな孤独が胸に疼くのを感じていた。

 世界には、こんな風に、他人でも自分の子供と置き換えて心配してくれる親もいて。

 自分には、形として親は居ても、こんな人ではなく。

 他人よりも冷たい。

 そんなものが存在している。

 そんな生き物が。

 私は子供であるけど、本当は子供じゃないのかもしれない。

 そんなことを思っていたら。

心の中がまた。

 空っぽになったような気がした。

 カラカラと、乾いた音が響くような気がする。

「でもね・・・」

 なんとか沙緒に、親としての気持ちを理解してもらおうと思っているのだろう。

 看護師は、沙緒が重ねた上にもう一つの手を乗せて、そのまま沙緒の両手を掴むと、優しくいたわるようにそっと握ったが。

 沙緒は握られたまま、首をまた横に振った。

「心配してくれて、有難うございます」

「元橋さん」

「看護師さんが言うような親だらけだったら、きっと」

 沙緒は看護師に顔を向けると、確信しているような顔で微笑んだ。

「虐待もなければ、テレビで流れるような悲惨な事件もないと思います」

 その沙緒の言葉に、看護師は一瞬、言葉を詰まらせた。

「うちはそこまでの状況ではないかもしれないですが、世の中が看護師さんみたいな親ばかりがいてくれたらいいのにな、って。今思いました」

 沙緒はそう言うと、優しく包んでくれている看護師の手をそっと握り返した後で。

 ゆっくりと手をそこから引き抜いた。

「私、頑張りますから、大丈夫です。有難うございます」

 看護師は、強く見つめてくる沙緒の瞳に。

 心配と悲しげな目を寄せてきていたが、沙緒の気持ちに変化がないことを理解すると。力なく、目を伏せた。

「・・・少し、待ってて」

 看護師はそう言うと、沙緒の横から立ち上がり、診察室へと入って行った。

 沙緒はその背中を見送ると、また書類に目を落とし、続きを書き始めた。

 受付のお姉さんが、沙緒の方を見つめている。

 その目は看護師とは違って、好奇が含まれているような雰囲気があった。

 沙緒はその目の方が、正直な気がしていた。

 所詮、そんなもんじゃないかと思っていたから。

 人間なんて。

 人の事なんて、どうでもいい。

 ただ、今、目の前に起きた事件がどう転ぶかが気になるだけ。

 それが素直な心情だろう。

 沙緒は一通り書類を書き終わると、受付へと持って行った。

「有難うございます。預かりますね」

 受付のお姉さんは、最初と変わらずニッコリと微笑む。

 沙緒にはそれが、営業スマイルのように、目に映った。

 でもそれが正しいように思えていた。

 人って、そんなもん。

 これが当たり前。

 沙緒は同じように営業スマイルを返すと、ベンチに置いていたリュックのチャックをしっかりと締め、背中に背負いなおした。

 ふうと息をひとつ吐くと、病院の玄関に向かって歩き出す。

「元橋さん!」

 沙緒が、玄関のドアを開こうとした時だった。

 呼び止める声がして、振り返ると。

 先ほどの看護師が、急ぎ足で沙緒のもとへ駆け寄ってきていた。

「・・・これ」

 看護師は沙緒の手をつかむと、何かをまとめて手渡してきた。

 沙緒は手の中に押し込まれたものを、手を開いて見てみると。

 小さなメモ帳と、どこかの菓子メーカーのお菓子が三つ、そこにあった。

「何かあったら、連絡してね」

 看護師は言い聞かすように、沙緒にそう伝えた。

 そのメモはどうやら、看護師の連絡先らしい。

 沙緒は正直、動揺した。

「いや・・・これはいらないです。受け取れないんで」

 沙緒は、手の中の物を全部返そうとしたが。

 看護師があまりに悲しそうな顔をしたので、思わず返そうとした手を引き戻した。

「・・・何かあったら困るから、持ってて」

 お願いするかのような目で言われてしまい。

 沙緒はいらないと思う気持ちと葛藤しながらも、現状を収めるために、とりあえず手のひらに収まっているそれらをパーカーのポケットに詰め込んだ。

 看護師は、渋々ながらも受け取ってくれた沙緒に、ホッとしたような顔をした。

「いってらっしゃい。週一で顔を見せるように先生と約束してたものね。待ってますからね」

 優しい顔で微笑まれ。

 沙緒を見送る看護師に、どういう顔をしていいのかわからないまま、沙緒は複雑な想いでササッと形式だけ頭を下げて。

 軽く溜息をつきながら、勢いよくドアを手前に開き、病院を後にした。

 そのまま真っ直ぐ、物置がある敷地まで戻ってくると。

 早速、履歴書を持ちこんだ荷物の中から取り出して、書きこみ始めたのだった。

 志望動機は受ける会社に合わせて書きかえればいいから、志望動機以外の場所をひたすら埋めていく作業を、履歴書の用紙がある限り続けていた。

 もう一袋買ってくれば良かったかな。

 一枚書き損じてしまったため、面接まで受けられるとしても、五社までだ。

 沙緒は先ほど、電話で面接を申し込んだ三社と約束を交わし、これから二時間後に二社の面接と、その面接が終了後に、もう一社の面接を予約で入れている。

 これから受ける場所は、ひとつが大手のレンタルビデオ店で、ひとつが規模の小さそうな喫茶店、その後がかけもちで夜に働く為の居酒屋だった。

 沙緒はこの後の面接に向けて、とりあえず何か食べようと、スーパーから買ってあった最後のカップ麺の袋を手で破き。

 ミネラルウォーターを小さな鍋に入れると、卓上コンロでお湯を沸かし始めた。

 食べないと力も出ないからね。

 お財布の中には、たった一万円と少しの小銭。

 でもそれが、沙緒には余計、今の状況を改善させる為のやる気を起こさせていた。

 こういうの、背水の陣って言うのかな。

 授業で習った言葉が、なんとなく頭をよぎる。

 気持ちを引き締めて、頑張ろう。

 沙緒はそう自分に言い聞かせながら、鍋の中の水が沸騰するのをじっと待ち続けた。










 夕方十八時。

 大手レンタルビデオ店の面接を終えた沙緒は、そのまま外でうーんと両手を上げて体を伸ばし。

 そのまま体を左右に大きく倒すと、思いもかけずゴキッゴキッと音が鳴る。

 結構、緊張して、体が固くなっていたんだろう。

 沙緒は、さっき終ったばかりの面接を思い返していた。

なんか、あまり良い感じではなかった気がする。

 面接担当の人の態度が、結構ぞんざいで。

 沙緒は気分があまり良い状態ではないまま、担当の人と話し続けていた。

 

どれくらい出れるの?毎日でもいいって?

 そんな人聞いたことないよ、あなたどんだけ生活に困ってんの。

 何時から何時まで出れる?十時開店なんだけど。

 え、十時から閉店まで居てもいいって?

 あんた、一体どういう生活してんの?

 

 常に、こんな口調で聞かれ続けた。

 沙緒はどんな状況にも対応できる、ということをアピールしたつもりだったのだが。

 どうやら返した内容に対して、疑問を持たれてしまったらしい。

 それとも、わざとに相手の気分を害すような、こういう面接を敢えてしているんだろうか。

 そんなの、何かで聞いたような気がするような、ないような。

 沙緒は記憶を辿ろうとしたものの、思いつかないので考えるのをやめた。

 高校三年の時、いろんな準備をしているみんなとは距離を空けていたため、沙緒には良く分からないことが多い。

 なんとなく聞こえてきた話くらいしか記憶にないし、先生が熱っぽく進路について指導していた内容も、右から左へずっと聞き流していた。

 今になって、しっかり聞いておけば良かったなんて、思うもんだな。

 正しい面接の方法とか、全然知らないって、今更思う。

 沙緒はそんなことを考えつつ、次の面接場所をスマホで確認した。

 『喫茶店・結』

 いかにも、おじさんとおばさんが集まりそうな名前の店だと思ったが、給料が割と良かったのと、規模が小さそうなので楽そうかなと思いつつ、写真と説明文を読んでいた。

 大手の方が名前も有名だし、イメージ的になんとなく働きやすいのかなって思ってたけど。

 沙緒は、喫茶店の求人内容を改めて眺めつつ、思いにふける。

 もしかしたら、こういう小さい店とかの方が、案外楽かもしんないよね。

 沙緒はスマホの画面をホームに戻すと、充電の節約のためにすぐスリープ状態に戻した。

 じゃあ、行こっか。

 まだ、次の面接の時間までには四十分ほどあったけれど、沙緒はとりあえず現地へ向かうことにした。

 ここから歩いて二十分ほどで着く場所だ。

 のんびり歩いていこう。

 沙緒はすっかり日が暮れて暗くなっている街道を、目的の場所まで黙々と歩き続けた。

 大きな通りを歩き続けていると、家路に急ぐサラリーマンや、OLの人とすれ違い続ける。

 時折、保育園からの帰りなのか、小さな子供とお母さんの組み合わせとも何組かすれ違って行った。

 みんな、当たり前のように家があって。

 当たり前のようにそこへと戻って行く。

 沙緒の今の家は、あの小さな物置で。

 それでも戻れる場所があると思えるだけ、まだマシだ。

 沙緒は黙々と歩きながら、人の流れの中を泳ぐように進んで行った。

 あと二日。

 タイムリミットまで、どうか決まりますように。

 沙緒の願いは、ちゃんとした家に帰ることより、何よりも。

今はただ、それだけだった。










 ・・・ちっさ。

 沙緒は目的の喫茶店が、暗いせいで思いのほか見つからず。

 結局スマホのナビを起動させて、住所を調べ、喫茶店がある場所をグルグルと回りながら探し続けていたが。

 やっと一軒家と一軒家のはざまにあった、小さな喫茶店を見つけ。

 ここかよ、と、心の中でツッコミを入れていた。

 想像以上に、小さい。

 両隣の一軒家よりも、小さい造りだった。

 一応は二階建てのビルになっていて、その一階が喫茶店になっているのだけども。

 そのビルもかなり年期が入っているビルで、壁もあちこち大きなひび割れがあり、薄汚れた灰色で。

 喫茶店の入口は左側にあり、その横は大きな木枠の窓が二つ並んでいるのだが。

その窓枠の横には、適当に誰かに貼られて、剥がしたようなポスターの跡が、中途半端に残っていたりする。

相当、昔から営業している喫茶店が、数十年経ってもなんとか今も営業をし続けているかのように、沙緒の目には見えていた。

 また、両隣の一軒家が、たまたま広い庭がある大きな一軒家だからなのか、ビル自体も余計にみすぼらしく見える。

 本当にここを受けて大丈夫なのかな。

 沙緒の心には、一抹の不安がよぎっていた。

 受けて受かったとしても、すぐ一カ月後に廃業とか、ないよね。

 そう思えてしまうような雰囲気があった。

 今も営業時間なはずなのに、どことなく、中が暗い。

 確か二十時まで営業しているはずなのに、中は蛍光灯ではなくランプでも灯しているのかというくらいの明るさに見えていた。

 沙緒の目の前には、昔作った扉だからなのか、背丈が普通より低い扉があり。

 窓枠と同じく木枠で出来た扉だったが、引いても押してもガタガタいいそうに思えて、自分が寝泊まりしている物置の扉を思い返していた。

 大丈夫かな、本当に、ここ。

 そう思いながらも、一応約束をしたのだからと、沙緒は思い切って、そのガタがきてそうな扉のノブに手をかける。

 少しずつ押していってみると、意外にもそのドアは変な音も立てずに奥へと進み、スムーズに開かれていった。

「すみません・・・」

 沙緒がこわごわと中を覗き込むと、そこは思っていたよりも全然広く。

 奥行きがあるビルなのだということに、入ってみて気づいていた。

 五メートル程奥に、カウンターが広がっていて。

 そこを中心に取り囲むように、テーブルと椅子のセットが並んでいる。

 ざっと目に入るだけ数えてみると、それでも十セットはあるように見えた。

 外から見て薄暗く見えたのは、どうやら窓枠に入っているガラスの色が関係していたらしく、中も普通に蛍光灯が天井に張り巡らされていたので、十分すぎるほど明るく。

 内装は、古いドラマや映画に出てきそうな、昔からある喫茶店といった感じなので、こういうレトロな店が好きな人には好まれそうな雰囲気があった。

 ドアノブから手を離すと、カランと言う音がして、ドアが閉まっていき。

 どうやら内側のドアの上の方に、何か鳴るものが付いていたらしい。

 沙緒があまりにもこわごわと開けたため、開いた時には音がしなかったようだった。

 ・・・誰もいないんだけど、どうしよう。

 カランという音が響いているのにも関わらず、カウンターにも人はいないし、取り囲むテーブルや椅子にも人の気配はない。

 沙緒は、誰の居ない喫茶店の中へ、恐る恐る足を進めて行くと。

カウンターの左奥に扉が見えてきて、少しホッと胸を撫で下ろした。

あそこに人がいるのかもしれない。

沙緒がそこへと向かって歩いていると。

「はい?」

男の人の声が背後からして、沙緒はビックリして体を飛び上がらせ。

慌てて後ろを振り返った。

「どなたかな?」

沙緒がいる反対側にも、どうやら扉か部屋があったらしく。

そちらの方から、一人の男の人が近づいてきていた。

沙緒は人がいた事にホッとしつつも、思わぬ方向からかかった声に胸をドキドキさせながら、その人が近づいてくる方向へ歩き出し。

突如、ビタッと足を止めた。

「あ・・・っ!」

 沙緒は思いもかけない状況に、これ以上ないほど目を見開き。

 それは向かいから近づいてきた男の人もそうだった。

 その人は。

 つい数時間前までホテルに居た。

 あのおじさんだった。










「あっ!ちょ、ちょっと待った!」

 衝撃に、身を固くして息を止めていた沙緒が。

 半ばパニック気味に走りだし、走った方向の途中に居たおじさんを突き飛ばすかのような勢いで通り抜け、そのままドアへと飛び付くと。

 パニックのまま沙緒が勢いよく開いたドアを、慌てて近寄ったおじさんは沙緒の背後からドアを力任せに押すことで、開いたドアを閉めさせた。

「やだっ!誰か助けて!」

 必死にノブを掴んで開こうとする沙緒に対し、おじさんは背後から沙緒に触れないようにして、ドアを必死に押して開かせないようにする。

「ちょ、ちょっと落ち着きなさい!何もしないから!」

 沙緒の横から声をかけるも、パニックになっている沙緒の耳には届かない。

「ミィちゃん!落ち着きなさいって!」

「やだ!その変な名前で呼ばないで!」

「変な名前って、君が指定してきたんじゃないか!」

「そんな名前知らない!誰か助け・・・」

「どうしたの?」

 突如、降って来た女性の声に。

 沙緒は必死にドアを開こうと、ドアノブを必死に引き続けていた体を一度止めた。

「容子」

 おじさんの声が横からする。

「何があったの?どうしたのさっきから。助けてって、何かしたの?」

 女性の声に、おじさんは慌てて首を横に振り続けた。

「俺は何もしてない!」

 ・・・確かに。

 それは、確かにそうだ。

 女性らしい、優しげな穏やかな声に、沙緒は徐々に気を取り直し。

 おじさんの訴えるような必死な声を理解して同意できるほど、落ち着き始めていた。

「その子は?面接に来た子なの?」

「・・・たぶん、そうだと思うけど・・・」

 おじさんのためらうような声が続く。

 沙緒はおじさんと女性とのやり取りが続く中、やっとドアノブから手を離した。

 おじさんはその様子を見て、ホッと息を吐く。

「・・・お名前は?何さんかな?」

 後ろから優しい声で問いかけられ、沙緒は恐る恐る後ろを振り返った。

 そこには声のトーンと同じような、とても優しい雰囲気の女性が佇んでいて。

 沙緒を優しく見つめていた。

「ごめんなさいね、古い喫茶店だから、見た目も怖くて驚かせてしまったかしら?」

 気遣うような顔で見つめられ、沙緒は正気を取り戻したかのように、顔を横に振った。

「い、いえ・・・すみません、なんか思いもかけなかったんで、訳がわからなくなって」

「訳がわからなく?」

 なんで?とでも言いたげに首をかしげて問いかける女性に対し、おじさんが横で息を呑む雰囲気が伝わってきて。

 そして、沙緒も気付いた。

 ここで数時間前の出来事が発覚するのは、おじさんだけじゃなく、自分にも分が悪いのだと。

 沙緒は思わず口をつぐんで、何を言ったらいいかわからないままで黙っていたが。

 おじさんが、沙緒と女性を交互に見ながら、取り繕うかのように微笑んだ。

 少しひきつりながら。

「暗い喫茶店の雰囲気の中で、俺がいきなり後ろから声をかけたからね。お化けでも見たと思ってビックリしたんだよね。ね、ミ・・・え、えーと。その」

 おじさんは、名前をなんだったっけと思い出すかのように、困った顔で思案し始めて。

 その顔は追い詰められているのか、頬がひきつっているのが見てとれた。

沙緒はおろおろしているおじさんに目を向けると、思い切って名乗ることにした。

「元橋です。元橋沙緒です」

 そう言うと、おじさんはパアッと嬉しそうに顔を輝かせた。

「そう!そうだ、元橋さん、だ!」

 おじさんは、アハハ!と嬉しそうに笑って声を出す。

「す、すみません、私、驚いちゃって」

 沙緒もおじさんに合わせるように、アハハと、少し白々しさを感じながらも同じように笑って応えた。

「いや、いいんだよ。僕が悪いんだ。僕がね。とてもね」

 自責の念なのか。

 おじさんは、やたらと『僕が悪いんだ』と『とてもね』を力をこめて言っていた。

 沙緒はそのおじさんの言い方に。

いや、そんなことはないのに、と。

 急に、ふと。

自分を見返っていた。

 どっちかというと。

悪いのは、私、なのに。

 そう思うと。

 沙緒の心は、急にしゅんとなってしまった。

喫茶店に入ってくるまで。

三日以内に職を決めてやるんだと、やる気で燃えたぎっていた勢いは、今はすっかり影を潜めていて。

やる気で大きく灯していたはずの沙緒の心の炎は、急激に小さな蝋燭の灯りになってしまったような気持ちになっていた。

この予想だにしなかった展開と。

おじさんの自責のような言葉と態度に。

沙緒は見返るように、つい数時間前の自分を改めて思い返す。

お金を払ってくれるならセックスする、と誘い。

途中金額を吊り上げて、お金を持って来させ。

お金を手にしたのにも関わらず、何もせずに突き飛ばし、そのままホテルから走って抜け出し。

これじゃダメだと返しには戻ったけれど、その間、おじさんはどんな思いでいたんだろう。

きっと、あり得ないほど途方に暮れていたに違いない。

何もしないで十九歳の女の子に、用意した二十万を盗まれた状況だったのだから。

自分がやった一部始終を思い返すと。

沙緒の気持ちは、また萎れてしまい。

そのまま、うなだれてしまっていた

 素直にそんな風に思えたのは。

 今、パニックは起こしてしまったものの、おじさんを見ていると本当に伝わる。

 この人は本当にいい人なんだ、という状況を目の当たりにして。

 沙緒の心は、その現実を突きつけられ、打ちひしがれてしまったせいかもしれない。

 おじさんは、急にしゅんとうなだれる沙緒に、「ん?え?」と言いながら沙緒を見、また話しかけてきた女性を見、している。

なぜ、急にこんなに萎れてしまっているのか、おじさんは沙緒の気持ちが理解できず、なんとなく場を取り繕うような、気まずそうな笑みを沙緒に向けた。

「い、いや。元橋さん、そんなにしょげなくても大丈夫だからさ」

「・・・いえ」

沙緒は、うなだれながら、小さな声で返す。

「なんか、その。あの・・・いろいろ、すみません・・・でした・・・」

 どんどんと深みにはまるように、どんよりと落ち込み始める沙緒に、おじさんはどうしたらいいのかわからない状態になっていて。

 沙緒は沙緒で、うなだれ続けたままだった。

「あなた、とりあえず、座ってもらったら?」

 その気まずい沈黙の扉ををそっと叩くような優しい女性の声に、おじさんはハッとして「そ、そうだね」と答えると、うなだれ続ける沙緒に対して声をかけた。

「元橋さん、とにかく、お茶でも飲もう。ね。そうしよう」










 しん・・・と静まり返る、喫茶店の中。

 女性と、おじさんが横並びに座り。

 沙緒はその向かいで、コーヒーカップを手にしたまま、何を話していいのかわからずにいた。

 こんなことになるなんて。

 沙緒はただ、そうとしか考えられず。

 何も言えずにいた。

 向かいで、やはり何を言っていいのか分からないのか。

おじさんはわざとなのか、定期的にズズーッ、ズズーッと、コーヒーを大きめの音を立てててすすっている。

その音だけが、響く世界。

場が持たないのか、そのリズムはだんだん加速しているように思えた。

沙緒はその音にも、なんだか申し訳ない気持ちになっていた。

「あら、電話・・・ちょっと待っててね」

 向かいの女性はそう言うと、笑顔でおじさんと沙緒を見て。

 おじさんは、応えるように自然な笑顔で頷き。

 沙緒は下を向いたまま、曖昧な笑みを浮かべた。

 確かに、遠くの方から小さいけれど、呼び鈴が鳴り続けている。

 女性が、沙緒がカウンターを挟んで、最初に行った方とは逆側の奥へと向かって行き、そこにあるドアが開いて閉まる音がすると。

 おじさんは、そっちの方へと座った状態で、思いきり体を反らして覗き込み。

 それでも心配だったのか、一度席を立って、女性が消えた方向へと歩いていって体ごとドアの方を覗き込み。

 確実に女性が居ないことを確かめると、沙緒の座っているテーブルへと戻って来た。

 そのまま、先ほど座っていた場所へ腰を下ろす。

 おじさんは、また、自分の目の前に置かれているコーヒーに手をつけ、一度、ズズーッと音を立ててコーヒーを飲むと。

 ただコーヒーカップを握ったまま、うなだれている沙緒に、そっと声をかけた。

「元橋さん。その・・・さっきはごめんね」

 沙緒は、その思いもかけない言葉に。

 一度目を開くと、顔を上げた。

 おじさんは沙緒と目が合うと、動揺したように目をうろうろさせたけれども。

 一度、気持ちを落ち着かすように下を向くと、いろいろな気持ちを整えたのか、しっかりと顔を上げた。

「僕があんな、その、売春しようとしたからね。君が僕を見た瞬間、パニックになるのもわかるよ。本当にごめんね」

 すまなそうに目を伏せて言うおじさんに、沙緒は空中で握ったままになっていた紅茶が入ったコーヒーカップをテーブルに戻すと、首を横に振った。

「いえ、悪いのはおじさんじゃないです」

「いや・・・でも、俺、どうにかしてたんだ、本当に」

 おじさんは自分をバカにするような顔しながら、後頭部に手をやり、頭を何度か撫でた。

「どうかしてた、本当に。ヤケになってさ」

 沙緒は、おじさんが最後。

 悲しそうに言った言葉が、気になっていた。

 とてもそれは、寂しそうに聞こえたし。

表情も寂しそうに目に映った。

「・・・どうかしてた、本当に」

「い、や。あの、その。そんなに責めないでください」

 おじさんを気遣いだしたのは、今度は沙緒だった。

 うなだれ始めるおじさんに、どうしていいのかわからず曖昧な笑顔を向ける。

 冷静に思えば、なにぶん、同罪みたいな状況だ。

 どっちが悪いと言いだすと、キリがないような気もしてくる。

「そんな気にしないでください。大体私が誘ったんですから」

「いや、でも。あそこで申し込む俺がどうかしてるから」

「でも、そんな場所ですから、あそこ」

 ストレートに、沙緒が言った言葉に。

 おじさんは、何度かまばたきをしたが。

 ふっと息を吐くように笑った。

「・・・そうだね。確かにそうだ」

 困ったような顔で笑っているおじさんに。

 沙緒は同じように困った顔で笑っていた。

「・・・元橋さん」

「はい」

「元橋さんは、なんであんなところに書きこんでお金を欲していたの?」

 おじさんはさっきとは変わって、とても穏やかな表情で沙緒に尋ねてきた。

「なんか、こうやって会っていても、あんなところに書きこむような子じゃないように見えるんだよね。結構真面目そうに見えるというか」

「・・・そうですね」

 沙緒は呟きながら、頷いた。

「あそこに書きこんだのは初めてなのかな」

「そうです。お金が欲しかったんで」

「なんでそんなにお金が欲しかったの?」

 沙緒はどう言っていいのか分からず、一瞬口をつぐんで言葉を探したが。

 とりあえず、素直に話すことにした。

「猫を、拾ったんです、四匹」

「猫?」

「拾った猫を家に連れて帰ったら、母親に猫ごと家を出てけと言われて」

「は?」

 思いもかけないセリフだったんだろう。

 おじさんは、眉を寄せて、首を前に出して尋ね返してきた。

「家をそのまま出たんです。とある敷地の物置で今暮らしているんですが・・・まぁ、その、勝手に・・・ですけど・・・」

 もごもごと言いづらそうに、沙緒はなんとなく語尾をごまかした。

「そこで猫と一緒に暮らしだしてすぐに、猫が弱ってしまって。子猫だったんで」

「はぁ・・・」

「その子猫を病院に連れて行ったら、入院が必要で」

 そこまで言うと、おじさんは合点が言ったような顔をした。

「そうか。治療費が欲しかったのか」

「・・・そうです」

 おじさんは納得がいったものの、でも、呆れた顔を沙緒に向けた。

「だからといって、その、大事な初めてをあんな形で捨てようだなんて、ちょっと乱暴すぎやしないかい?」

 やっぱり、優しい。

 沙緒は、数時間前。

おじさんがホテルで、不安定な自分を気遣いながら接してくれていた姿を思い返していた。

 今となっては、穏やかに思い返せる。

 沙緒は、その時の、ひとつひとつを思い出し。

 あんなに気持ち悪かったはずなのに、なぜか自然に少し微笑んでいた。

「でも、それしかないと思ったので。誰にも頼れなかったし。良く考えたら金額も掲示板で指定したよりもかかる事に気づいて。余計に追い詰められて」

「それで追加上乗せの、合計二十万になったのか」

 うーんと唸りながら、おじさんは腕を組み。

 しみじみとその時のことを回想している様子に見えた。

「あれはいきなりで、ビックリしたな」

 素直な感想に、沙緒は思わず吹き出してしまった。

「いや・・・笑い事じゃないよ・・・ほんと」

 おじさんが、愚痴るように言う言い方がおかしくて。

 沙緒は、しばらく肩を揺らせながら笑い続けた。

「そっちは言うだけ言いたい放題だからいいけど」

「いや、でも、優しいですよね」

「え?」

「だって、無理やり襲うこともできたのに。脅かすことも」

「・・・そんなの、出来ないでしょう。娘くらいのお嬢さんに」

「娘さんもいるんですか?」

 何気に聞いた一言だった。

 でも、おじさんは明らかに一度、ぴくりと小さく体を震わせて。

 そのまま何も言わず、押し黙った。

 おじさんがじっと話さないため、沙緒もそのおじさんの雰囲気に呑まれるかのように話す事が出来なくなってしまった。

「・・・あらあら。まだまだ静かね」

 バタンと奥から扉が閉まる音がして。

少し苦笑しながら、奥の部屋から先ほどの女性が戻ってくる。

「元橋さん・・・いえ、沙緒ちゃん、で、いいかしら」

「あ、は、はい」

 歩きながらニコニコと微笑み、沙緒の隣まで来ると。

 女性は、沙緒の肩にそっと手を乗せた。

「ここで働きたい気持ちは強い?」

 優しい微笑みと問いかけに。

沙緒は、思ってもいなかった言葉に、ハッとした顔を女性に向け。

願ってもない、と、応えるように、うんうんと力強く数回頷いた。

お金を稼げる。

沙緒のすっかり小さくなっていた心の火に、その希望はドッと油を注ぐように流れ込み。

火はまた力を得て、勢いを増し始める。

稼ぎたい。

お金さえあれば、全てがなんとかなる。

その為に動き回っている沙緒には、女性の言葉は願ってもない言葉だった。

おじさんのビックリして向けられている『嘘でしょ』とでも言いたげな目には、申し訳ないとは思ったが。

働ける可能性があるものには、縋りたい。

目の前にちらついたお金を稼げるチャンスは、ガッチリと掴まなくては。

「はい、ぜひ働きたいです」

 そう言い切ると、おじさんは戸惑うような顔をする。

 どうしていいのかわからないような、複雑な気持ちなんだろう。

 沙緒の心は『お金が稼げればそれでいい』というただシンプルなものだったが、さっきまでの一連の流れを経験し、いろいろと反省しているおじさんには、気持ちをどう整理していいのかわからないままだったらしい。

「あなた、いいんじゃない?沙緒ちゃんに働いてもらったら?」

 女性は。微笑みながらおじさんに問いかける。

 おじさんはまた動揺するかのような表情をしたが、沙緒の『どうかお願いします』とでも言いたげに真剣に向けてくる表情と目を捉えると、考えるように下を向き、黙った後。

「・・・わかった。じゃあ採用でいいよ」

 下を向いたままだったが、おじさんのその答えに、沙緒と女性は一気に晴れやかな顔になった。











 それから。

 沙緒は、おじさんの喫茶店で働くことになった。

 面接をした次の日から、土日を除く週五勤務で、時間は午前八時から午後二十時まで。

 朝は早いが、開店準備の時間を含めての時間になり、実際の開店は九時からだった。

 沙緒は日に十二時間、喫茶店で働き、その後の時間は、同じく週五で居酒屋を掛け持ちすることにした。

 居酒屋の勤務時間は、夜九時から十二時までだった。

 沙緒は、とにかくしばらくの間は働きづめに働くことに決め、毎日の時間をそのように組むことにした。

 居酒屋の面接は、喫茶店の面接の後に、その足で向かい。

いかにも接客業で生きてきたと言った感じの、愛想のいい若いお兄さんとの面接を無事に終らせ、その場で採用を決めてもらっていた。

そちらも喫茶店と同じく、明日から出る事になる。

 沙緒は、物置の布団がわりのダンボールの上で、毛布をかけた状態で横になり、体を丸めながら。

 今日一日に起きた出来事を、じっと静かに回想していた。

 おもちゃ箱の中身のように、ひたすら乱雑でゴチャゴチャした時間を思い返す。

 まるで、夢の中の出来事のように、賑やかで騒々しい出来事ばかりだった。

 沙緒は、ふっと、息を吐くように笑う。

 それは、今まで人形みたいに、ただ定位置に置かれているだけのように暮らしていた時とは。

正反対の時間の濃さと出来事だった。

 一日に、こんなに事件って起こるのだと。

 沙緒がそんなことを考えている間、頬はずっと緩んでいた。

 生きてるんだな。

 私。

 ちゃんと。

 沙緒が心でそう思った時。

 心の中にずっと張りめぐらされていた、何かの糸が緩んでいくような気持ちになった。

 もう、見えない何かから、じっと自分を守り続けるような。

 そんな気持ちにならなくていいのだと。

 沙緒はそう思えるだけで、今まで感じたことのないような安堵に満たされ、自然と体から力が抜けていた。

 沙緒の、すべての面接が終了した後。

店から外に出ると、ぽつぽつと空から降って来た大粒の雨は、一気に勢いを増し。

物置がある敷地へと戻ろうとする、沙緒の体を濡らし続けた。

居酒屋の場所が、電車に乗って行くにも中途半端な場所だった為、沙緒は節約も兼ねて、三十分ほどかけて歩き続け、やっとの思いで物置まで戻ってくると。

びっしょりと濡れた服を脱ぎ、ところどころにまとめて置いてある荷物の上などにかけて、乾くのを待ち。

着替えた下着の上にTシャツを羽織っただけの格好で、ダンボールの上で毛布にずっとくるまっていた。

沙緒が物置に戻ってからも、ずっとしばらくの間、雨は降り続き。

外気は思いのほか、グッと下がっていく。

ちゃんと閉まらない物置の扉から入ってくる隙間風が、今も少し体を冷やすような感じだったけれど。

 沙緒の心には、今日一日、吹き荒れた嵐の出来事のせいなのか。

 体と心の奥の部分は、少し熱くさえ感じていた。

 沙緒は、ただ、自分に何か出来る事がある事が、嬉しかった。

 しっかり働こう。

 しっかり稼ごう。

 沙緒は呪文のように繰り返し、繰り返し。

 心の中で呟き続けた。

 自分らしく生きていく為に。

 ちゃんとしっかり働こう。

 そう思ったか、思わなかったかのくらいで。

 沙緒の意識は、何かに引き寄せられるかのように、すうっと眠りの中に落ちていった。

 その顔は、人形のように暮らしていた時よりもずっと、子供のように素直で安らかな顔だった。

 









「おはようございます」

 沙緒は、喫茶店内の掃除をしながら。

 喫茶店の入口から入って来たおじさんに、にこやかに声をかけた。

 朝、八時過ぎ。

 沙緒は、おじさんの奥さんである容子さんに掃除の仕方や、開店までに準備が必要なものを一通り教わっていた。

 おじさんと奥さんは、喫茶店から約二キロ程離れた場所に住んでいて。

沙緒が来るより先に、その家から実際、喫茶店で調理に必要な仕込みを終えた材料などを車で運んだりしていた。

沙緒が出勤した時には、奥さんだけが喫茶店に居る状況で。

沙緒は改めて挨拶と、よろしくお願いしますと笑顔で伝え。

人の良さそうな奥さんは、優しく微笑んで沙緒を迎えてくれた。

「おはよう」

 おじさんは、若干複雑な表情をしたものの、沙緒ほどではなかったが微笑んで。

 喫茶店のカウンター内へと入っていった。

「今日からよろしくお願いします」

 沙緒がモップを持ったまま、カウンター内のおじさんにペコリと体を折り曲げて挨拶をすると。

 おじさんはカウンター内から、「よろしく」と小さな声で応えた。

「あなた、さっき中丸さんから電話があって、今日生クリームを届けるの、遅くなりそうなんですって」

「なんで」

「どうしても話しあわなきゃならない場所が出来たみたいよ。なんか中丸さんが社長とちょっとやりあってしまったみたいで、弁解に行かなくてはならないとか」

「まーた適当な事言って怒らせたんじゃないか」

「そうかもしれないわね」

 ふふふ、と、おかしそうに奥さんは笑い。

 おじさんはコーヒーを淹れる準備をしながら、しょうがないなとでも言うような顔をしていた。

 一見。

 とても穏やかで、和やかで。

 仲がよさそうな夫婦に見えた。

 沙緒は、モップで床を拭きながら、そんな二人の様子を視界の端で眺め。

 改めて、なぜ、おじさんが。

 あんな場所でわざわざ女性を買おうとしたのか、不思議に思えていた。

 ホテルで会っていた時、優しい人なんだろうと思ってはいたけど、改めてそうだとわかったし。

 奥さんを見ていても、まったくなんにも不満に思えるところもなさそうで。

 何が一体、そんな心境にさせたんだろう。

 今の状態では、沙緒には疑問しか湧かなかった。

 それでも、まだこの短い間では気づけないような、なにかがあるのかもしれない。

 一見だけではわからない事情があるから、あんなことしようとしてたんだろうし。

 沙緒は、そんなことを想いながら、喫茶店の端から端まで、丁寧にモップで床を拭き続けながら。

 あの出来事には、特にもう触れないようにして、とにかく仕事に集中していこうと思っていた。

 お金を稼げれば、それだけでいいから。

 沙緒はそう思いながら、黙々と力強くモップを動かし続けた。









「物置に住んでるの?」

 奥さんの驚いた瞳に、沙緒はこくりと気まずそうに頷く。

「どこの」

「・・・雪野町にある、今は使われていない自動車工場の敷地内の物置です」

「誰か出入りするんじゃないの?」

「・・・七日前はしていました」

 奥さんは、隣で皿を拭いている沙緒に眉を寄せた。

「どうしてそんなことに」

「住む場所がなくて、どうしようもなくって」

 言い訳がましく言いながら、沙緒は拭いた皿を空いているシンクの場所に重ねていったが、隣から向けられる非難の目に対し、どんどん小さくなっていった。

「・・・ごめんなさい。泥棒みたいなことしてるのはわかるんですが」

「何か敷地の中の物をとったりとかしているの?そうじゃないんでしょ?」

「それはないです。ただ、ダンボールとか、荷物は持ち込んでますが・・・」

「・・・女の子が住む場所じゃないわね、というのもあるけど、何より勝手に人の敷地内に住むのは良くないわね」

 咎める言い方に、沙緒は何も返せず。

 皿を拭くスピードが、徐々に遅くなってしまっていた。

 同じ場所ばかり、繰り返し、気まずそうに拭き続けてしまう。

「・・・沙緒ちゃん、その猫たちを引き出すのはいつって言ったっけ?」

「明日です」

 沙緒は下を向いたまま答えた。

 喫茶店と居酒屋で毎日働き始めて、早三回目。

 沙緒は、少しずつ喫茶店の仕事にも、居酒屋の仕事にも慣れてきて。

 どちらも飲食店だったので、割と早く体になじんでいき、掛け持ちの上に長時間労働の日々だったが、体を壊すこともなく。

 帰宅すると、死んだようにぐっすりと眠り。

 また朝早く起きて出勤する、といった毎日を送っていた。

 食事は有難いことに、どちらもまかないで食べられるため。

 沙緒は朝は抜いて働き、昼と夜を喫茶店で食べられることが出来たので、食費を浮かすことが出来ていた。

 ただひたすら働くだけの日々の中、沙緒は三日以内に仕事を決めると約束をしていた締切の日に、病院へ一度電話をし。

 受付のお姉さんに名乗り、先生へ電話を繋いでもらうと働き口を決めて働いていると伝えた。

 本来なら、先生は働き口を決めたら、その職場の人と話をさせるように言っていたのだが。

 先生は会社名だけを伝えるように言ってきたため、二つの店の名前と、それぞれの責任者の名前を沙緒が告げると。

 わかった、と答え、空いてる時間を見つくろって、三、四日以内に病院へ来るようにと言ってきた。

 子猫たちの容体が落ち着き、どの子も元気になってきているとの事で。

 回復の見込みが厳しいと言っていた、白と黒の子猫も安定しているため、その時にまとめて引き取ってもいいとの事だった。

 仕事もちゃんと決めたのならば、先に引き取る予定だった二匹も今引き出さず、弱っていた二匹と一緒にまとめて引き取れるよう、一緒に預かっててもいいと言ってきた。

 先に元気になっている二匹の追加にあたる入院費は、今回はもらわなくていいとも言ってくれた。

 支払いも、一部を前払いでしているから、引き取り時に残りの支払いはせず、まずは全員引き取っていっていいとの事だった。

 先生の話を聞くまで、沙緒は、喫茶店のおじさんに電話を変わってもらうつもりでいたし、おじさんにも居酒屋の店長にも給料の前借りについて相談をしていて、居酒屋の店長は入ったばかりの従業員に前借りは出来かねると言う返事だったが、沙緒が体まで売ろうとしていた事を知っているおじさんは、わかったと言ってくれ、足りない分の金額は立て替えてあげてもいいと言ってくれた。

そこまで準備して電話していたのだが、先生が意外にも柔和だったため、言われるがまま了承し。

沙緒は先生の申し出を、有難く呑むことにした。

 働くようになってから、沙緒は、ずっと毎日、おじさんと店に立つことが多かったのだが。

今日はたまたま、おじさんが通っている病院へ行かなくてはならない日になっていて。

検査等もあるため、朝から夕方近くまでかかるということで、その間、奥さんと初めてずっと一緒に過ごしていた

そこで初めて、奥さんは沙緒の事について、いろいろとたくさん聞いてきて。

沙緒は、なぜ急きょ仕事を決めなくてはならなかったのか、や、動物病院の先生とのやり取りや、家を出てきた経緯などの話を改めて詳しく奥さんにしていたところ。

奥さんは明らかに、軽率な行動をしている沙緒に対し、たしなめるような態度と言葉をかけてきていた。

「沙緒ちゃん、今からでも遅くないから、親に一度ちゃんと謝って、もう一度相談したらいいんじゃないの?」

「猫を連れてくるなら一緒に出ていけと言う人に、何も話せることはないです」

「たまたまカーッとして、出てしまった言葉かもしれないじゃないの」

 沙緒は黙って、首を横に振った。

「奥さんは私の親を知らないから、普通と同じような感覚で言えるんだと思います。うちの親、本当に普通じゃないんです。普通、普通と自分たちでは言ってますが、どこよりも普通じゃないんです。あの人たちとは、もう何も話すことはないです」

「・・・じゃあこれからどうするの?人の家の物置に勝手に住み続けて、見つかったらどうするの?通報されたら住む場所はなくなるでしょ」

「・・・そうなったら、公園かどこかにでも寝るしかないです」

「猫はどうするの?」

 沙緒はそう言われ、さすがに口をつぐんだ。

 自分一人だけなら、危険でも公園でも、どこでも何とかなるかもしれない。

 ネットカフェのような場所で寝泊まりも出来る。

 でも、猫がいる。

 しかも四匹も。

 助ける事ばかり考えていたけど、実際、あの場所に住んでいる事がバレて追われたら、沙緒はどこで子猫を育てたらいいのか。

 沙緒はずっと、皿の同じ場所をぼんやりと拭き続け。

 答えを自分の中で必死に探していた。

「・・・沙緒ちゃん」

 奥さんは、沙緒に改めて声をかける。

「もう一度よくよく、考えてみてね。私はご両親に、もう一度話して相談をするべきだと思うのよ。うちでずっと働いてくれるのは嬉しいけれど、私はやはりお母さんたちの気持ちが心配だわ。ここでちゃんと働いているので安心して下さい、と、私も堂々とご両親にお話したいもの。一生懸命働いてくれて嬉しいです、有難うございますって話したいのよ。それが沙緒ちゃんの為だと思うの。なんとか思い直して家に戻って、ご両親に謝って、そこで猫を飼いながら、うちに働きに来れるように出来ない?」

 奥さんの話は。

 沙緒にとっては、残酷な裁判の結果を告げられているようにさえ思えた。

 あそこに戻ることは。

 死刑宣告と一緒だと思っていた。

 沙緒は、黙るしか出来なかった。

 首を縦に振ることも出来なかったし、そうですね、とは口が裂けても言えなかった。

「沙緒ちゃん」

 沙緒の態度の硬さに、奥さんは沙緒に一歩近づき、沙緒の背中を撫でながら、横から何度も「ね?沙緒ちゃん」と声をかけてくる。

 沙緒は、奥さんの顔さえ見る事が出来なかった。

「・・・あ、ら。いらっしゃい」

 奥さんが、戸口の方へ声をかけるのに気づき。

 沙緒がそこで、やっと皿を見続けてるのをやめて、顔を上げてみると。

 ふらりと、喫茶店のドアから、一人のおばあちゃんが入って来た。

 ドアも、押す力がしっかりこめられてないのか。

よろよろとした感じで、何回か止まりながら、ゆっくりと開いていく。

小柄なおばあちゃんは、よぼよぼとした足取りで、中へと入ってくる。

「鎌田さん、いらっしゃい」

 奥さんはにこやかに微笑むと、カウンターから出て行って、奥さんに近づいてくるおばあちゃんの横に立った。

「鎌田さん、朝ごはん?」

 おばあちゃんに体を傾け、下から覗き込むように微笑みかけて尋ねる奥さんに、おばあちゃんはにこにこしながら、何度も頷いた。

「そろそろ、お腹が空いたなと思ってね。なんだかうとうとしているうちに、あっという間にこんな時間になっちゃって」

 おばあちゃんの嗄れた弱々しい声に、改めて沙緒がカウンターの後ろの壁にかけられている時計に目をやると。

 既に十一時半を過ぎていた。

 店には今、サラリーマン風の男の人が一人と、近所のおばさんらしき人の二人しかいない。

 でも、十二時を過ぎたら、この小さな喫茶店も一時満席になるほど、人が入ってくる。

 近くの会社の人たちが、ランチを食べに来るからだった。

 この店のランチは、ボリュームがあるのに税込で五百円で食べられると、近隣でも評判らしく。

 ランチタイムになっている、十二時から十五時までの間は、決まって忙しくなってくる。

「沙緒ちゃん、お水貰ってもいい?」

「あ、はい。今お持ちします」

 おばあさんの手を取り、近くの二人掛けのテーブルにおばあちゃんを誘導しながら、奥さんは沙緒を振り返り、水を持ってくるように伝えた。

 沙緒はさっきまでの追い詰められるような言葉から解放され、ホッとして笑顔で応えると、すぐに水を用意してお盆に載せ、おばあちゃんと奥さんが座っているテーブルへと運んで行った。

「・・・有難う」

 ニコッと微笑む、おばあちゃんの顔はしわくちゃで。

 沙緒は同じように微笑み、おばあちゃんの前にお水を置くと、軽く一礼をしてまたカウンターへと戻っていった。

「どうなの、体の調子は?昨日来なかったから、どうしてるのかなと思ったのよ」

「昨日は家から出るのが億劫でね。何もしないでテレビだけ見て、おせんべいとか食べて過ごしたよ」

 おばあちゃんは、ハーハーハーと、少し引き気味な笑い方で笑っていた。

「そう。特に体が調子悪いとかでは無かったら、毎日一度でも顔を見せてくれると嬉しいわ。どうしても家から出たくなかったら、いつでも電話をちょうだい。今はアルバイトの子もいるから、ご飯を届けてあげる事が出来るから」

「ああ・・・アルバイトって、あの子かい?」

 おばあちゃんは、カウンターの中に居る沙緒を改めて見ると、ゆっくりとした手つきで指差す。

 沙緒は笑顔で、ペコリとおばあちゃんに頭を下げた。

「そう。一生懸命働いてくれるいい子なのよ」

「そうかい。いい子が入ってきてくれて良かったねぇ」

・・・ほんとかな。

沙緒は、褒めてくれる奥さんの言葉に、うわべだけかなと疑心暗鬼になりつつ、残り数枚の皿をふきんで拭ききって、カウンターの後ろの壁に埋め込まれているタイプの食器棚へと片付けて行った。

「電話をくれたら、ご飯はあの子に届けてもらうことが出来るから、お腹がすいたら今日からは遠慮なく電話をちょうだいね」

 優しく話しかける奥さんに、おばあちゃんは、また引き気味にヒョーヒョーとでもいうような声を出して笑う。

「ありがとね・・・本当にいつも優しいね、容子さんは」

「当たり前のことだから、気にしないで」

 奥さんはそう言いながら、向かいのおばあちゃんのしわしわの小さな手を、ずっと優しく撫で続ける。

 沙緒は、店の右はじの方に居たサラリーマンから水が欲しいと声をかけられ、「はーい」と答えると、水の入ったピッチャーを持ってサラリーマンのところへと駆け寄っていった。

「お姉ちゃん、いくつ?」

 ちょっとにやけた顔で聞いてくる、サラリーマンの前にあるガラスコップをつかむと、沙緒はピッチャーから水を注いだ。

「十九です」

「へぇ。若くて可愛いね」

 にやにやと嫌らしそうに笑うサラリーマンに、適当に愛想笑いだけすると、沙緒はコップをまたテーブルに置き「失礼します」と言うと、すぐにその場を去った。

 嫌らしい顔。

 沙緒は嫌悪感をいっぱいに感じながら、溜息を軽くつき、奥さんとおばあちゃんの前を通り抜け、カウンターへ戻ろうとした。

 その時、聞こえてくる言葉に、沙緒はふと、聞き耳を立てた。

「猫は?この前調子悪いって言ってたけど、大丈夫なの」

「大丈夫そうだね。二匹でいっつもベッタリひっついて過ごしているんだけど、この前はマルが歩いてるとこを見た時、よろよろしているように見えて心配したんだけどね。今は普通に歩いてるから大丈夫そうだよ」

「そう、良かったわね」

 猫。

 飼ってるんだ。二匹。

 沙緒はおばあちゃんを見ながら、カウンターへと戻る。

 奥さんは、「ちょっと待っててね」とおばあちゃんに笑顔で声をかけ、カウンターへ戻ってくると、いつもの食事を作り始めた。

 このおばあちゃんがやってくると、奥さんは決まって同じメニューを作り始める。

 幕の内弁当のようなメニューだった。

 煮物、お浸しなどの副菜が三品、焼き魚、甘く煮た煮豆、豆腐を使った料理に、天ぷらが少し、デザートで果物が二種類、と、大体入っている同じメニューなのだが、奥さんはおばあちゃんが来ると、いつものにするか、それとも違うのにするかを確認する。

 おばあちゃんはその日に寄って、いつものでいいよと言う日もあれば、たまにはカレーライスが食べたいね、とか、スパゲティが食べたいね、など言う日もあり。

 その日によって、奥さんやおじさんがメニューを用意してあげて食べさせている。

 おばあちゃんに出してあげているメニューはどれを頼んでも、いつも三百円しかとらない。

 おばあちゃんはいつも大抵朝に来て、喫茶店でご飯を食べると、おじさんと奥さんにお昼や晩ご飯の足しになるものを手渡され、いつも笑顔で会釈しながら、小さな体を丸めた姿で、店を後にする。

 沙緒にも祖母がいるはずだったのだが、いつの頃からか、両親が会わなくなっていた為。

 今、自分の祖父母がどうなっているのかも、さっぱりわかっていなかった。

 働いてからほぼ毎日、このおばあちゃんを見ていると。

 自分のおばあちゃんも今、こんな感じなのかな、なんて思ってしまう。

「沙緒ちゃん、今日ね、私、ミルクプリンを家から持ってきてるのよ。冷蔵庫に入っているから、出して鎌田さんにあげてくれる?」

「はい、わかりました」

 沙緒は、近くで忙しそうにお弁当を作っている奥さんに快い返事をすると、冷蔵庫の扉を開き、一番下段に入っていた少し大きめのガラスコップに入っているミルクプリンを見つけ、一つ取りだした。

「そこに四つあるでしょ」

「はい」

 沙緒はミルクプリンを手にしたまま、冷蔵庫の扉を閉める。

「沙緒ちゃんも後で食べていいからね。ランチ終わったら、まかない食べる時に食べなさいね」

「有難うございます」

 沙緒は奥さんの好意に、思わず顔を明るくして礼を述べると。

 奥さんは、沙緒の華やいだ声に少し振り返って、にっこりと微笑んだ。

 奥さんは、本当にいい人で。

 私を本当に心配してくれているんだよね。

 沙緒はそう思いながら、お盆にミルクプリンと小さめのスプーンを載せると。

 おばあちゃんのところまで、また運んで行った。

 おばあちゃんは、窓の向こうの景色をぼんやりと見つめている。

 小さく、背中が丸い姿は、なんだかとてもか弱く見えた。

「鎌田さん、これ奥さんからです」

 沙緒は、おばあちゃんのそっぽを向いている耳に顔を近づけ、静かに話しかけると。

 おばあちゃんは窓から目を離し、ゆっくりと沙緒に顔を向け、にこりと微笑んだ。

「そう。なんなの?」

「ミルクプリンですって。奥さんの手作りだから、美味しいですよ」

 沙緒はそう言いながら、ミルクプリンをおばあちゃんの前に置き、紙ナプキンを敷いた上にデザートスプーンを置くと、おばあちゃんを見た。

 おばあちゃんはずっと、穏やかに微笑んでいる。

「そうかい。それはそれは、ごちそうだね」

 おばあちゃんは嬉しそうに言いながら、ゆっくりと、プリンとスプーンにそれぞれの手を伸ばし。

 震えそうな手でスプーンをつかむと、もう片方の手でプリンの器をつかんで、ゆっくりとした手つきで、ミルクプリンの中にスプーンを差し込む。

 スプーンは、ふにゃっとしたプリンの跳ねかえりを感じつつ、そのまま中に吸い込まれ。

 かすかに震える手で掬いあげられると、おばあちゃんの口の中にゆっくりと消えて行った。

「・・・おいしいねぇ。甘すぎなくていいねぇ」

 もぐもぐと口を動かしながら、目を閉じ。

 おばあちゃんは満足そうに、感想を述べた。

 沙緒は、そのおばあちゃんの姿を見ていると、自然に微笑んでいて。

 奥さんが、このおばあちゃんを大事にしている気持ちが分かってくる気がしていた。

「鎌田さん、今、お弁当持っていくからね」

 カウンターから、奥さんの伸びやかで明るい声がする。

 おばあちゃんは、口をもぐもぐしながら「はいよー」と小さく言い、嬉しそうに奥さんを見やった。











「元橋さーん」

 沙緒は、「はい」とハッキリと短く答え、待合室のベンチから腰を浮かす。

 忙しいランチ時間も終り、アイドルタイムと言う、割とお客さんが来なくなる時間帯に。

 沙緒は、動物病院へと、猫を引き取りに足を運んでいた。

 今朝、出勤すると、おじさんが喫茶店に既に居て。

奥さんから、沙緒が今日、猫を引き取りに行くらしいという話を聞いていたんだろう。

 おじさんは沙緒に、ランチが終ったら病院へ行ってもいいよと言ってくれた。

 沙緒はすぐさま、時給が減る事を心配したが、おじさんは苦笑しながら、それはいいから、と。

 十五時を過ぎたら行っておいでと言ってくれたので。

 沙緒はありがたく、その言葉に沿うことにした。

 待合室は、今日は比較的混んでいて。

 今までと違い、いろんな患畜がきているようだった。

 沙緒が今まで生きてきた中で、聞いたことのないような鳴き声が響いた時があり。

 思わず、声がした方に目を向けてみたが、どこからしたのかハッキリ聞きとれず。

 ただ、その声に反応したのは沙緒だけではなく、連れて来られている動物も同じだったようで。

 大小それぞれのキャリーの中が騒がしくなりだしたところもあり、飼い主が慌てて声をかけたりと対処していた。

 沙緒は、そのまま診察室のドアを開けて中に入ると。

 大きな窓を通して入ってくる光の量が眩しくて、思わず半分ほど目を閉じた。

「どうぞ、元橋さん」

 横から声がしたので、そちらを見てみると。

 とても優しい顔で、看護師さんが話しかけてくれていた。

 沙緒が前回、病院から帰ろうとした時、心配してメモをくれた看護師だった。

看護師は優しい顔のまま、先生の前にある、黒くて丸い形の回転いすに座るように促してくる。

 心配していたのよ、と、言われてでもいるような瞳に、沙緒はどうしていいかわからず、ちょっと困ったような顔をしながら、ペコリと一度頭を下げた。

 そんな風に、何から何まできめ細やかに優しくされたことの記憶がないだけに、どう接していいのかわからなかった。

 ほんと、ひねてくれてる、私。

 沙緒はそう自分に言いながら、勧められた黒い丸椅子へと腰を下ろした。

 キィと、聞き慣れた音が耳に入る。

 先生の座っている椅子がきしむ音だ。

 向かいの先生は机の方を向いていたので、沙緒の方を見ていなかったが。

 沙緒が先生の向かいの丸椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと、体を沙緒の方に向けた。

 以前、来た時は、厳しいと思っていた顔と向き合う。

 沙緒は少し緊張していた。

「・・・仕事、決めたんだってね」

「はい、決めました」

 沙緒は力強く言うと、頷いた。

「・・・大したもんだ」

 先生は顔を緩め、息を吐くようにして笑いながら言うと、持っていたボールペンの頭の部分でコリコリと頭皮を掻きだした。

「君が口だけではないのは、十分にわかったよ」

「ほんとですか!」

 沙緒が嬉しくて、思わずはしゃいだように言うと。

 先生は沙緒の素直な喜びの反応に、ちょっとビックリしたような顔をしていたが、柔らかな表情で小さく何度も頷きながら、沙緒を認めた。

「そうやって年相応な反応をすると、可愛げがあるな」

 からかうように言う先生に、沙緒は瞬間、恥ずかしくなり。

 若干、身を乗り出し気味だった体を、スッと後ろへ引いて、ちゃんと椅子に座りなおした。

 先生はそんな沙緒の反応も、可愛く思ったのだろう。

 いたずらでもしかけるような顔で、意地悪く言う。

「どうしようかな。しっかり稼いでるんだったら、やっぱり正規の料金で貰おうかな」

「えっ!」

 沙緒が思わず、ビックリして声を上げると。

 先生は待ってましたと言うばかりに、大声で笑い出した。

 沙緒は、またしてやられたと思い、再度、反射的に身を乗り出してしまった体を、また座りなおすことで体裁を整えたものの。

 顔は若干、赤らんでしまっていた。

 なんか、悔しい。

 沙緒は赤くなってしまった顔を、両の手のひらで押さえるようにして隠しつつ、大声で笑っている先生を、若干憎たらしく思っていた。

「嘘だ嘘だ。最初に言った料金でいいよ。しかも頑張ったからもっと値引きしてやる」

「えっ!」

 思いもかけないセリフに、また腰を浮かし、前のめりになった沙緒だったが。

 ハッとして、慌ててまた腰を椅子へと下ろす。

 ま、またやられた。

 沙緒はそう思い、悔しさと恥ずかしさにひたすら耐え。

先生は、余裕たっぷりの表情で、さっきまで頭を掻いていたボールペンを今度は上下に振りながら、何も持っていない方の手のひらの上に、ポンポンと繰り返し当て始めた。

「これは嘘でもからかってもないよ。君の頑張りへのご褒美だ」

 思いもかけないセリフに、沙緒は目を見開いて。

 しばらく言葉が出なかった。

「君が本当に本気で、猫たちの為に頑張ろうとしていた気持ちも行動も、本物なんだなというのもわかったし。その後の行動も君は本当に猫たちのために身を尽くして頑張って結果を出してきた。心から、褒めたい」

 先生はそう言うと、沙緒の後ろに立っていた看護師を片手で招いて呼んで。

 近づいてきた看護師に、「あれ、出してあげて」と短く伝えると、看護師は笑顔で「はい」と答え、診察室から出て行った。

「最初君に、十六万が必要な金額だと言ったけれど、十二万でいい。電話で言ったように延泊している二匹の入院費ももちろんいらないし、取らないから心配しなくてもいい」

 沙緒はどこか。

 夢の中の世界にでも居るような気がしていて。

 ぽかんと小さく口を開いてしまったまま、先生の話を聞いていた。

「君からもらったのは、六万だったから、残りは六万だね。掛け持ちしているんだから、二ヶ月くらい頑張れば、それくらいならすぐ払えるんじゃないか。君が言っていたように贅沢な事を一切せず、切りつめて生活をすれば、月三万位なら払いに来れるだろう」

 沙緒は、ずっと。

夢の世界の中にいるかのように、信じられないような気持ちで口を半開きにしてぽかんとしていたが。

 先生の、何度も、ん?という問いかけてくる顔に、ハッとして。

 うろたえながらも、意思表示をする為、何度もコクコクと首を縦に振った。

「やる気があるのはすごくわかったから、今回はそういうことでいい。でもあれだよ、今後また、同じような状況で子猫を拾って連れてきても、今回ほどのサービスはしないからね」

 先生はあくまでも、今回限りだと。

 釘をさすように片方の眉をわざと上げながら、沙緒に強く念を押した。

「わかりました」

 沙緒は大きく頷きながら、そう答えた。

「よし。じゃあ、今日はこのまま引き取っていいよ。全員、元気になったから」

 沙緒はその言葉に。

 心からの安堵を感じ。

 両の肩からすうっと力が抜けて行った。

 そのせいで、顔もきっとほころんでいたんだろう。

 先生は沙緒のその表情をとらえると、優しい顔をして沙緒を見た。

「そういう素直な顔で笑っていた方が、美人だな」

 沙緒はまた、思いもかけない言葉を投げられて。

 一瞬きょとんとしたが、ニヤニヤしている先生の顔で意味を理解して、かあっと顔を赤くしてしまい。

 先生はまた、愉快だと言わんばかりに笑いだした。

 沙緒はからかわれていることが、ただただ、恥ずかしく、少しだけ悔しかった。

「先生、持ってきましたよ」

 看護師さんがそう言いながら、診察室に入り。

 沙緒の前に置いてくれたのは。

 色違いで大きさも形も違う、二つのキャリーだった。

 どちらも若干使いこんだ感じはあるものの、プラスチック製のような素材で出来ていて、しっかりとしている造りに見えた。

持ち運びしやすいように、キャリーの上には固定された取っ手と、肩からかけられるように長めのベルトが付いている。

「これ・・・?」

 沙緒が、床に置いてくれたケージを指差しながら看護師に尋ねると。

 看護師は相変わらず優しい顔で、にこにこと微笑む。

「うちの病院に置いてあった、中古だけど今は使っていないケージです。以前は必要な場合があった時にだけ貸し出すことで使っていたんですけど、先生が元橋さんにあげてもいいって言うから持ってきました。四匹は一台じゃ厳しいでしょうから、二台使って連れて帰ってあげてね。返さなくていいから」

「・・・いいんですか」

「いいのよ。先生がそう言っているんだから」

 沙緒が改めて、先生に体を向けると。

 先生は既に、机の方に体を向けていて。

 ボールペンを上下に振っていた手で、しっしっと沙緒を追い払うように手を動かした。

「はいはい、次待ってるから。とっとと引き取って帰って」

 それは、とてもつれない態度だったが。

沙緒は、この先生は、本当はとてもいい先生だったんだと。

 心からそう思い、深く感謝をしていた。

「子猫たちがいる場所に案内しますね」

 看護師が、沙緒の横から声をかけてきたので。

 沙緒は、看護師に向けて「はい」と答えて頷き、椅子から腰を浮かせ。

 床に置かれているケージを片手で一つずつ掴んだ。

「先生」

「ん」

 沙緒は看護師に促されるまま、戸口へ体を向けて歩きだしたが。

一度、途中で先生を振り返ると、先生に声をかけた。

 こちらを見ずに、短く返事だけした先生に、沙緒は改めて、自分の体を先生にしっかりと向けて。

「有難うございました」

 そう言うと、深々と頭を下げた。

 先生は何も言わず、またしっしっとでもするように、手を動かす。

 沙緒の後ろで、看護師がしょうがないとでもいうように笑っていて。

 沙緒はそんな先生がおかしくて、素直に笑いながら、再度サッと頭を下げると。

 また体の向きを扉の方へと変え、沙緒が来るのを待ってくれていた看護師と一緒に診察室を後にした。











 ガサゴソ、と小さな音が聞こえる。

 沙緒は、その音も、両手に感じる重みも。

 ただただ、嬉しくて仕方がなかった。

 病院から、キャリーを持って歩き続け。

 いつも住んでいる敷地へと戻っていく。

 沙緒はまた、周りをしっかりと確かめて、人の出入りや気配を感じないことを確かめた後、敷地と道路をしきるロープをまたぎ。

 住居となっている物置へと、子猫たちを運んで行った。

 ミィと、小さな鳴き声が聞こえると。

 沙緒は嬉しくて、泣きそうになっていた。

 目の淵が熱くなってくる。

 良かった・・・本当に・・・。

 沙緒は一度、地面に二つのキャリーを置くと、物置のドアを開き。

 キャリーを物置の中に入れて、ダンボールの床の上に二つとも並べて置くと。

 物置のドアをしっかりと閉めにいった。

「・・・白ちゃん、黒ちゃん」

 一番気がかりだった、二匹が入っているキャリーの扉をそっと開いてみると。

 キャリーの奥で、二匹で固まって身を寄せながら、沙緒の方を見ている目を無事に捉えた。

「白ちゃん、黒ちゃん」

 沙緒が優しく呼びかけると、ミィと。

 白い方から小さく答える声がして。

 沙緒はまた、涙が溢れそうになりながら、そっと手をキャリーの中へと入れていく。

 警戒して、これ以上行けないほどの隅へと二匹で固まっている姿を見ながら。

 沙緒は引っ掻かれるかなと思いつつ、そっと人さし指を白猫と黒猫に伸ばした。

 二匹とも、沙緒の指に耳の間を優しく撫でられ、キャリーの隅の壁にへばりつくような状態でいるものの、じっと目を閉じていて。

 沙緒がしばらく撫で続けていると、そのうち小さくゴロゴロと喉を鳴らしだすのが、指から伝わってきていた。

 沙緒はその反応が嬉しくて。

 二匹をそっと優しく撫で続け。

 大人しくしているのがわかると、白猫から優しく掴んで、キャリーから取り出した。

 白猫は沙緒の両手に掴まれ、沙緒の立てた膝の上に両手で抱きしめられるようにして包まれたまま、仰向けのような格好で沙緒の指で顔を撫でられ続け。

 緊張していたように固くしていた体も、沙緒の手の中で緩んでいき。

 そのまま沙緒の太ももの上で暴れる事もなく、沙緒の指に撫でられ続け、目を閉じたままでゴロゴロと喉を鳴らす。

 指と、手の中に感じる柔らかな毛並みと感触は。

 あの弱っていた時とは違い、毛づやも良く、ぬくもりもしっかりと感じられ。

 そんな一つ一つが沙緒にはとても大事で、嬉しくてしょうがなかった。

 頑張って良かった。

 本当に良かった。

 諦めなくて良かった。

 沙緒が心の中で繰り返し呟くように言いながら、優しく優しく白猫を撫で続けていると。

ミィ、と小さな声がして、そこに目をやると、キャリーの入口から黒猫が顔をそっと出していた。

病院に預けた時より、どちらも少し大きくなったように思えた。

先生と看護師が、大事に看てくれ、育ててくれたんだろう。

沙緒はキャリーの扉の陰から、小さな顔を出し、キラキラと大きな瞳で見つめてくる黒猫に。

 待っててね、と沙緒が優しく声をかけると、黒猫はミィと小さく鳴いて沙緒に応えた。

 沙緒は、その小さく応える声が愛おしくて。

 無事にこの子たちが元気になれた喜びに、そのまましばらく浸り続けていた。











「あ・・・」

 沙緒が、キャリーの中に居る子猫たちと交互に触れあっている中。

 スマホの着信音が鳴り始め、沙緒はハッとした。

 あ、ヤバイ。今何時?

 沙緒が慌てて、ダンボールの床に適当に放り投げていたスマホを掴むと。

 既に時刻は十七時近くを示していた。

「ヤッバ・・・」

 沙緒は焦りながら、スマホの着信を指でスワイプして受けると。

「もしもし!すみません、沙緒です!」

 せっぱつまった声で電話に出た。

「どこにいるんだい?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、予想通り、おじさんの声だった。

「すみません、子猫を引き取って来たんですけど、まだ物置の中に居ました」

 沙緒は素直にそう言うと、スマホを握ったまま、頭を下げた。

「ごめんなさい。なんとか今行きます」

「うーん・・・」

 おじさんの悩むような返事に、沙緒の心には不安がよぎる。

 どうしたんだろう・・・。

 連絡もせず、二時間近く経ってしまったから、もう働かなくていいよ、とでも言われるんだろうか・・・。

 沙緒の心は急に緊迫し始め、息が詰まってくるような感覚に襲われ始めた。

「あ、の。今すぐ向かいます。連絡もせずに長く店を空けてしまって、本当にすみませんでした!」

 大きな声で謝り、頭を深く一緒に下げる。

それでも、電話口の向こうは、沈黙が続いていた。

 沙緒は、押し黙るおじさんの反応にどうしたらいいのかわからず、スマホをつかんだまま立ちつくしていた。

 ダメって言うのかな。

 もう働いちゃダメって。

 不安に襲われたまま、沙緒が次の言葉を言えずにいると、ふーというおじさんの深い溜息が耳に届いた。

「・・・沙緒ちゃん、その物置、何処にあるって言ったっけ」

 思いもかけない言葉に、沙緒は一度きょとんとした。

「え?」

「今居る場所。何処だって言ってた?」

 なんで?

 意味を理解できないまま返答に困っていたが、おじさんは沙緒が答えるまで、またずっと黙ってしまっていて。

 答えるのに躊躇していたが、沙緒はおじさんの意思が堅そうなことを感じると、ぼそぼそと小さな声で答えた。

「雪野町の、三丁目にある、自動車工場の敷地の中です」

「雪野町ね。わかった」

 おじさんは短く答えた。

「沙緒ちゃん、そこに迎えに行くから、待ってなさい」

「え?」

 沙緒が予想もしない言葉にまたきょとんとしていると、おじさんは言った。

「鎌田のおばあちゃんちにお弁当を届けようと思って、今車を出すところだから。沙緒ちゃんもついでに拾って行く。でも、沙緒ちゃん、そこの荷物を今すぐまとめなさい。沙緒ちゃんと沙緒ちゃんの荷物もまとめて一緒に連れて帰るから」

 おじさんはそう言うと、沙緒の返答を待たずに、電話を切った。

 何も音がしなくなったスマホを握りしめながら、沙緒は何を言われたか理解できない顔で、辺りをきょろきょろと眺め。

 どうしていいのかわからず、またその場で立ちつくしていた。











「まったく・・・こんなところで、良く寝起きしてたな」

 おじさんは、体に斜めがけにした沙緒のボストンバックと、ダンボールに詰めた沙緒の荷物を両手で抱えて運びながら、敷地と道路を区切るロープをまたいでいく。

 沙緒はその後ろから、背中にいつものリュックを背負い、両手にキャリーを二つ抱えた状態でついて歩いていた。

「ほら、沙緒ちゃん、乗って」

 おじさんはトランクに、沙緒の荷物が入ったダンボールをしまうと、後部座席に乗るように沙緒を促し、また物置へと戻っていった。

 ダンボールは、物置の下に敷いていたダンボールで。

 おじさんは電話を切った後、十分ほどですぐ敷地まで車でやってくると、沙緒がいる物置を見つけ、扉をノックし。

 ガンガンという立てつけの悪い金属のドアが急に音を立てたので、沙緒は思わず小さな悲鳴を上げて、壁側へと逃げて行った。

「沙緒ちゃん!俺!」

 おじさんの声がして、立てつけの悪いドアが、ガタガタと乱暴な音を立てながら開かれていく。

「迎えに来たから」

 おじさんはドアを端まで開けると、空いた空間から顔を出し。

 壁に張り付くように怯えている沙緒に、声をかけた。

「む、迎え?」

「もうここにいちゃダメだ。住居不法侵入って言われて捕まえられたら困る」

 おじさんはそう言うと、沙緒の荷物らしきものを、物置の中でぐるりと一巡しながら眺め。

 床に敷いてあるダンボールを、すぐに手慣れた感じで組み立てると、沙緒のコンロや鍋や、わずかな食料や飲料水などをドンドンと詰め込み。

 大きいダンボールだったので、沙緒が体を包んでいた毛布なども、そのダンボールの上に畳んで重ね。

 着替えなどが入ったボストンバックを体に斜めにかけると、そのダンボールを「よっこいしょ!」という声掛けと共に持ち上げた。

「ほら、沙緒ちゃん!リュック背負って、猫運んで!」

「は、はい!」

 沙緒は、おじさんのてきぱきした動作に圧倒され。

 ずっと横から、ボーッとおじさんの挙動を眺め続けていたのだが。

 おじさんに「早く早く!」と追い立てられるように声をかけられ、慌てて壁から離れ、床から立ち上がった。

 少し離れた場所に置いていたリュックを背負い、子猫たちを運ぶ為、二つのキャリーの取っ手を両手で掴んで持ち上げる。

 沙緒は、いざ連れて帰ってきて、それぞれの猫を一匹ずつ取り出し、撫でたりしていたのだが。

 病院に運ぶ前より、みんなそれぞれ大きくなってしまっていて。

 元から状態が悪くなかった三毛と白黒模様の二匹は、以前より一回りくらい育っていた為、最初に使っていたダンボールでは小さく。

 みんな元気になった分、よちよちな歩き方だけれども、とにかく良く動く。

 こうなってくると脱走してしまう可能性があると感じ、沙緒は困ったなと思いながら、それぞれのキャリーの中にまた四匹を戻していたのだった。

 何か用意しないと、この場所に住んでいるならば危なくなってしまう。

 そう思っていた時に、おじさんが迎えにやってきたのだった。

 沙緒はおじさんに促されるまま、後部座席のドアを開き。

 キャリーを二台、後部座席の上に並べて置くと、リュックを下ろしながら中へ乗り込んだ。

 少し、花のような芳香剤の匂いがする。

 奥さんの好きな匂いなのだろうか。

 おじさんと奥さんの車に乗ったのは初めてで、なんとなくそわそわしながら車内を見回していると。

 車内中央の通気口の隣辺りに、吸盤でくっつけられている、何かの枠組みのようなものがぶら下がっているのが見え。

 気になった沙緒が、身を乗り出して、前の座席の肩の部分に手をかけながら、逆の手を伸ばし、そのぶら下がっている物を掴んでひっくり返してみると。

 それは、おじさんと奥さんがどこかの場所の看板の前で、並んで微笑んで写っている写真なのがわかった。

 写真立てのようなものなのだろう。

 黄色いプラスチックの枠の中に、おじさんが奥さんの肩を抱き寄せた姿で、幸せそうに笑っている。

 おじさんも奥さんも、今より数年は若そうに見えた。

 おじさんの姿は、今よりほっそりとしていて、お腹も出ていなく。

優しい雰囲気と表情は変わらないが、髪も今より多く、少しイケメンに見えた。

 奥さんは今とそんなに変わらない姿で、おじさんに肩を抱かれて寄り添っている。

 おじさんは今、四十九歳と言っていたけど。

 確か、奥さんは八つ年下だったはず。

 おじさんが経営していた今の喫茶店に。

 ある日、奥さんがやってきて。

 可愛くて可愛くてメロメロになってしまったおじさんが、時々来るようになった奥さんに猛烈にアピールして、口説き続け。

 奥さんは、そのおじさんの強い愛情に心打たれ、おじさんを愛するようになったんだよと。

 喫茶店に来る常連さんから、教えてもらった事があった。

 それを聞いていたおじさんは、「いや、容子も、俺がとても優しくて好きだと言っていたから、あっちだって同じく惹かれていたんだ!」と、沙緒に言ってきて。

 自分だけが好きになってしまったと認めたくないのか抗うおじさんに、沙緒は思わず笑ってしまった事があった。

 本当に。

どっから見ても、仲の良い夫婦。

 沙緒はそう思いながら、写真を眺めていた。

 働いてから、ずっと。

 沙緒には疑問だった。

 本当は仲が悪いのかな、と思いながら二人を見ていたのだが。

 この二人は、全然そんな雰囲気は一切なく。

 夫婦仲は、とても健全のように思えていた。

 一人暮らしの鎌田さんのおばあちゃんの面倒を、親戚でもなんでもないのに二人でずっと見ているらしく。

 他にもやってくる常連さんとの付き合い方を見ていても、本当に何処から見ても人の良い夫婦で。

 ただただ、好感が持てるだけ。

 沙緒は、なぜ。

 おじさんが自分を買おうとしていたのか、また気になりだしてしまっていた。

働くのだから、一切忘れて、気にしないでおこうと思っていたのに。

 どうしても疑問が湧いてきてしまう。

 おじさんは、なぜあんなことをしようとしたのかと、私には理由を聞いてきたけれど。

 おじさん自身は、自分がなぜ、あんなことをしようとしたのか、私には話していないし、私も聞いていない。

 やっぱり気になる・・・。

 沙緒がずっと写真を眺めていると。

 ガチャッと扉が開く音がして、沙緒はビックリして写真から手を離し、後部座席へ戻った。

「よし。何にも無くなっていたし、大丈夫だな」

 おじさんはひとり言のように言いながら、運転席のドアから体を滑り込ませ。

 ササッとシートベルトを引っ張り出してきちんとはめ込むと、エンジンを動かす為、鍵を回した。

 エンジンがぶうんと音を立てる。

「さ、行くぞ」

 おじさんは、またひとり言のように言うと、ハンドルを回しだし。

 車を滑らかに発進させた。

 沙緒は、動き出した車の中。

 ふっと横を見て、窓の先にある自動車工場の敷地と、物置を眺めた。

 一週間ほどだったけれど、沙緒が初めて自分の意思を持って住んだ場所。

 人の敷地の中で違法だったけれど、沙緒にはなんだか名残惜しいような気にもなっていた。

「沙緒ちゃん」

「はい」

 あっという間に、敷地の前から車は抜けだしてしまい。

 沙緒は、後ろを振り返りながら敷地を見つめていたが。

 おじさんに声をかけられたので、前を向いた。

 おじさんは運転をしているので前を向いたまま、沙緒に話しかける。

「今日から、喫茶店の奥にある部屋に住んでいいから」

「えっ?」

 沙緒が驚いて声を上げると、おじさんは話を続ける。

「あの喫茶店、奥に部屋があるだろう。二つ」

「はい」

 沙緒が面接に来た日。

 奥さんが電話を取りに行った場所は、十畳ほどの部屋になっていて。

 そこにはビッチリと、今まで使っていた器具やら、何かの装置らしきものや。

 使えなくなったような椅子や、食器などが所狭しと置かれていた。

 物置のように使っているのだが、その右横にはもう一つ部屋があり。

 そこが絨毯が敷き詰められた、四畳半くらいのスペースがあり。

 休憩をしたい時は、ここで出来るようにと、小さなちゃぶ台が置かれていた。

 物置代わりになっている部屋には、一応、端の方に小さいけれどもシンクがあり。

 卓上コンロが一つ置かれていて、そこでお茶やコーヒー呑むのにお湯を沸かしたり出来るようになっていた。

 といっても、基本は喫茶店のカウンターでやってしまうので、あまり使われることはなかったのだが。

 沙緒が二つの部屋の様子を思い返していると、おじさんは滑らかにハンドルを右へ切って、大きな交差点を曲がっていった。

「小さいけれど奥の部屋、使ってていいよ。しばらく」

「ちゃぶ台の・・・」

「そう。四畳半くらいしかないけど。あそこなら猫もなんとか住めるだろうし」

 沙緒は想像だにしなかったおじさんからの提案に、どんな反応をしていいのか分からなかった。

「容子が心配して、なんとか家に連絡をって言ってたんだけど。俺は沙緒ちゃんが相当思い詰められた状態でいたのは知っているからね。とりあえず容子を説き伏せて、喫茶店の奥に住まわせようって事で話がついたんだ。生活をちゃんとしていけるとなったら、アパートを探して、そっちでゆっくり住めばいいし。今の場所じゃ、猫だって育てられないだろうし」

「そう・・・なんですよね・・・」

 沙緒は子猫を引き出した時には、これからどうなるかなど、あまり深く考えてなかったのだが。

 いざ、引き出して物置に連れてくると、今後育てて行くには、やはりこの場所はキツイ事に気づいていた。

 二周り大きくなっていた元気な子猫の姿を見ても、そう痛感していた。

 どんどん大きくなるのに、四匹あそこでは飼えない。

 沙緒には願ったり叶ったりの展開だったが、本当にそれでいいのか逡巡していた。

 そんなに甘えて、頼ってしまっていいんだろうか。

 沙緒が返答に詰まっていると、おじさんはちらりと視線だけ後ろに軽く向け。

 沙緒の様子を眺めると、また前を向いた。

「沙緒ちゃんが嫌ならいいんだけど」

「えっ?い、いえ、嫌じゃないです。ただ」

「ただ?」

「あ、の・・・なんか・・・その・・・」

 沙緒はなんて言っていいのか分からず。

 言葉を濁らせてしまっていた。

「その・・・働かせてもらっているのに、住む場所までって・・・どうなのかなって」

「嫌なの?」

「い、いえ、嫌じゃなくて。ただ、申し訳ないって言うか・・・」

「仕方ないよね。家出してるんだから」

 おじさんのさっぱりとした言い方に、沙緒は「はい・・・」と小さく呟いてうなだれた。

「でも事情があるから、仕方ないからね。連絡しろって言っても絶対しないだろうし」

「はい」

 沙緒がうなだれたまま、ハッキリと答えると。

 そこだけ意思が明確だったせいか、おじさんが息を吐くようにして笑ったのが、沙緒にはわかった。

「とりあえず、そこに住んでさ。何ヶ月かして落ち着いたらアパートに移りなさい。そこでゆっくり猫と生活をして、今後どうやって生きていくか考えたらいいよ」

「はい」

 沙緒は、今度はしっかりと顔を上げると。

 おじさんの少し薄めの後頭部辺りを眺めながら、ハッキリと答えた。

 おじさんはまた少しだけ、顔を沙緒の方に向けたが、また前を向いた。

「いつかは、ちゃんと親と連絡を取りなさいね」

 おじさんの言い方は優しかったが。

 ちゃんとしなさい、という強い意志もこめられていた。

 沙緒は顔を横にそむけ、答えられずにいたが。

 大きくため息をつきながら、「考えておきます」とだけ、小さく答えた。







 



「ここだよ」

 おじさんが車を止めると。

 沙緒は、きょろきょろと車の中から辺りを見回した。

 いたって、平凡な住宅街の一角だった。

 たぶん、喫茶店からそんなに遠くない。

 徒歩で十分くらいだろうか。

 おばあちゃん、散歩代わりにもなるからいいって言ってたって、奥さん話していたっけ。

 沙緒は、そんなことを思い出していた。

「鎌田さんちに、これを届けてきて」

 おじさんはそう言うと、助手席に置いてあった紙袋を指差した。

「はい」

 沙緒は答えて後部座席から降りると、助手席のドアを開け、大きめの紙袋に入った荷物を右手に掴んだ。

「鎌田さんち、どれですか?」

 沙緒は、辺りの一軒家を眺めながら聞くと、おじさんは運転席から助手席へと身を乗りだしがちにした姿で、沙緒の後ろを指差した。

「沙緒ちゃんの後ろにあるアパート」

 沙緒が後ろを振り返ると。

 そこには古ぼけたアパートが目に入った。

 アパートの周りは一軒家がひしめいているのだが、このアパートだけは古めかしく、昔からあるタイプの二階建ての造りになっていて。

壁の色も、茶色をもっとくすんでしまったような色になり、階段も取っ手がいいだけ錆びて禿げてしまっていた。

ところどころシミがある壁に、年期が入った造りのドアがはめ込まれ、通路に三つ並んでいる。

このドアも木目のように見える表面があちこち傷だらけになっていたり、表札も壊れていてその一部がブランと斜めにぶら下がっていたり、新聞受けも錆びていて、どこかの部屋の新聞受けには受け取ってもらえない新聞が、まるで花束のように差し込まれていた。

アパート全体の見た目は、お世辞でも綺麗と言えるようなものではなかった。

沙緒がドアの数を数えてみると、上下階合わせて、六戸入るタイプになっている。

「一階の真ん中の部屋が、鎌田さんの家だから」

 おじさんは運転席から助手席に体を乗り出した状態のまま、沙緒に説明をしてくる。

 沙緒はおじさんを見て、「はい」と答えると、そのままお弁当の入った紙袋を手に下げた状態で、言われた部屋へと向かって行った。










 ピンポン。

 短めのピンポンという、軽くて高い音がすると。

 しばらくして、中から声が聞こえてきた。

「はぁい・・・」

 おばあちゃんの嗄れた声が聞こえてきて、沙緒は笑顔になって、ドアの前に顔を近づけて大きな声で叫んだ。

「鎌田さんのおばあちゃん!沙緒です!お弁当を届けに来ました!」

 沙緒がそう叫ぶと、ガチャと鍵を回す音が聞こえ。

 沙緒は、ドアから体を離して、後ろへ二歩ほど下がった。

「・・・あらあら、まぁ、沙緒ちゃん。良く来てくれて」

 よろよろ、と。

 喫茶店のドアと同じように、ゆっくりと弱々しく開いていくドアに。

 沙緒は、開いた空間に体を移動させて行きながら、顔を見せてくれたおばあちゃんに微笑んだ。

 おばあちゃんもドアノブを掴み、ドアを支えている姿勢のままで、にこにこと笑って沙緒を見つめている。

 足元はサンダルで、タタキの上から沙緒と向き合っていた。

 ドアは、開く許容の三分の一程の幅で、そのまま止まっている。

「おばあちゃん、奥さんのお弁当です」

「有難うね・・・」

 おばあちゃんはそう言うと、しわしわの顔をもっとくしゃくしゃにして微笑んだ。

 沙緒も同じように微笑んだ。

「沙緒ちゃん、ちょっとだけ入らないかい?」

 沙緒は、おばあちゃんがドアノブを掴んでいない方の手で、おいでおいでと手招きをしてくれている姿に。

 どうしようと、後ろを振り返ると、おじさんがこっちの方を眺めているのがわかり。

 おじさんがとても上がりそうな雰囲気ではないのを感じると、おばあちゃんの方を向き直した。

 そのまま申し訳なさそうに、自分より頭一つ分、背の低いおばあちゃんに身を屈めながら、耳元で謝る。

 それはいつも、奥さんがおばあちゃんと接している時にしている姿で。

 沙緒はその姿を見つめながら、自然に身についてしまっていた。

「おばあちゃん、ごめんね。マスターがあそこで車で待っていてくれるんだ」

「あらあら、そうかい」

 おばあちゃんは、もう少しドアを大きく開いていくと、沙緒の後ろの方へと体を出していき。

 ニコニコしながら、頭をゆっくりと下げた。

 沙緒が振り返ると、運転席からおじさんが、おばあちゃんに笑いながら手を振り続けている。

「また遊びにおいで」

 沙緒はおばあちゃんに紙袋を差し出し、おばあちゃんが紙袋を両手で受け取るのを見ると、ドアが閉じないように支えてあげて。

 おばあちゃんの優しい言葉に、微笑んで深く頷いた。

「ニャア・・・」

 おばあちゃんの後ろで。

 猫の鳴き声がして、沙緒は一度、おばあちゃんの後ろの方を眺めた。

 スッと一瞬。

 おばあちゃんの後ろの居間の方で。

 何かが勢いよくよぎっていく姿が見えた。

「・・・ああ、猫なんだよ」

 おばあちゃんは、沙緒の視線の先に体を向けると、そう答えた。

「今、二匹いるんだよ。みんなおばあちゃんおじいちゃん猫さ」

「そうなんですか・・・」

 沙緒はしばらく居間の方を眺めていたが、またおばあちゃんに顔を向けた。

「いいですね、猫と暮らすの。私も子猫を四匹引き取ったばかりで」

「おやおや、そうかい」

 驚いた目を向けるおばあちゃんに、沙緒は笑った。

「どうなるかわからないですけど、頑張って育てたいなって思ってます」

「そうだね。いろいろとお金もかかったりするけど、本当に可愛いものだよ」

 おばあちゃんは沙緒を見上げながら、本当に愛おしいんだよ、という表情を向け。

 沙緒は理解できると思い、深く頷いた。

「そうですね。わかります。本当に可愛いです」

「遊びに来たら見においで」

「はい。わかりました」

 沙緒が笑顔で頷くと、おばあちゃんは満足そうな顔で沙緒を眺め。

 片手で紙袋を持つと、空いた片手で、沙緒の腕の辺りを優しくゆっくりと撫でた。

「おばあちゃん、また明日、喫茶店で待ってますね」

「はいよ」

 沙緒は、ドアを支えながらおばあちゃんにそう言うと、頭を下げて。

 おばあちゃんも同じように、ゆっくりと頭を下げた。

 沙緒は「じゃあ行きますね」と言って、おばあちゃんに掴んでいたドアを静かに閉めるようにして渡し。

 おばあちゃんはそっと戻ってくるドアのドアノブを掴むと、頭を下げながら、笑顔でそのままドアを閉めて行った。











 沙緒はそれから。

 おばあちゃんが朝、喫茶店に来た後。

 おばあちゃんが帰る頃に昼と夜の分を手渡すのではなく、沙緒が一五時頃におばあちゃんの家にお昼の分と夜の分のお弁当やおかずを届けに行くようになった。

 おばあちゃんは、喫茶店で沙緒を見ると、とても喜んでニコニコと話し始めるので。

 奥さんとおじさんが、そのおばあちゃんの姿を見て、沙緒に今後、ずっとおばあちゃんに届け物をする役目を一任したのだった。

 沙緒は、喫茶店に出勤する日は、すべておばあちゃんの家に、お弁当やおかずを届けに行き。

 おばあちゃんが毎回家に上がるように誘ってくれるので、そのまま部屋の中にお邪魔させてもらい、雑談をしながら一時間ほど過ごしてくる。

 おじさんと奥さん公認の、おつかいと休憩時間だった。

 おばあちゃんは、朝、喫茶店に来ると。

 沙緒を見つけては嬉しそうに手を振ってくるので。

 沙緒も嬉しくて、手を振って、おばあちゃんを奥さんと一緒に出迎えていた。

 喫茶店を出る時、おばあちゃんはいつも、カウンターの中に居る沙緒に手を振りながら。

「待ってるよ」

 と笑顔で声をかけてきて。

 沙緒も笑顔で手を振りながら、頷いて応えていた。

 そんな日々が一ヵ月ほど続き。

 沙緒も、すっかりおばあちゃんの家に行くのが、習慣となっていて。

 慣れた手つきで、お昼と夜の分のお弁当やおかずを紙袋に詰め込んでいると。

 奥さんがそんな沙緒を、暖かい瞳で見つめていた。

「沙緒ちゃん」

「はい?」

 沙緒が、紙袋に物を詰めながら顔を上げると。

 奥さんが沙緒に優しく微笑んでいた。

「本当にいつも有難うね。おばあちゃん、本当に喜んでいて、とても元気になったなって思っているのよ」

「そうですか、ね」

 沙緒がちょっと照れくさい気持ちで下を向くと、奥さんは「そうよ」と言った。

「前よりずっと、しゃきっと歩くようになってきたし。沙緒ちゃんが本当に孫のように思えるんでしょうね。土日に私かマスターがお弁当を届けに行っても、沙緒ちゃんがいなくて寂しいって言って、しゅんとしてしまうのよ」

「そうですか」

 照れくさいので、わざとつっけんどんな言い方をしてしまうと、奥さんはクスクスと笑いながら沙緒の傍に近づき。

沙緒の背中をゆっくりと撫でた。

「今日もよろしくね。今日は特別に美味しいのを作ったって言っといて。山菜をお客さんからもらったから、お野菜と一緒に煮付けたからって」

「わかりました」

 沙緒は奥さんに背中を撫でられながら、素っ気ない感じで何度か頷き。

 奥さんはそんな沙緒の姿に苦笑しながら、背中をそっと撫で続けた。










 沙緒はおばあちゃんが待っていたかのように、「入りなさい」と言ってくれる声に。

 素直に従い、タタキの上で靴を脱いだ。

「お邪魔します」

 沙緒はそう言いながら、先を歩くおばあちゃんの後をついていき。

 狭い廊下を通り、すぐ居間へと繋がるドアをくぐり抜け。

 十畳ほどの居間の真ん中にある、木製の机の上に運んできた紙袋を置くと。

机の前に腰を下ろした。

「座布団使いなさい」

 おばあちゃんが渡してくれる座布団を、礼を言いながら受け取ってお尻の下に敷くと。

 沙緒は、おばあちゃんが居間に隣接している小さな台所に立って、お茶を入れてくれる背中を眺めていた。

 その小さな背中と、小さく震えるように動く体を見ていると。

 とても愛おしいような、少し泣きたくなるような気持ちにさせられていた。

「さ・・・出来たよ」

 おばあちゃんは赤く塗られている木製の丸いお盆に、沙緒と自分の分の湯飲み茶碗と急須を乗せると、沙緒が座っている机までゆっくりと歩いてきて。

 机の上にお盆を乗せると、「どっこいしょ」と言いながら、そっと腰を小さな座椅子の上に乗せていく。

 膝が悪いおばあちゃんは、床に正座は出来ず。

 籐製の小さな座椅子は、小柄なおばあちゃんの姿に合っていて、すっぽりとちょうどよくおさまっているように見える。

 まるでおばあちゃんの為に作られたように。

「沙緒ちゃん、食べなさい」

 おばあちゃんは机の下から、おせんべいが入っている器を取りだして。

 机の上に置いた。

「ありがとう、おばあちゃん」

「いいんだよ」

 おばあちゃんはお盆の上の急須を手に取ると、二、三回ゆっくりと回して。

 それから二つの湯呑みに、緑茶を注いでいった。

「おばあちゃん、今日ね、奥さん、山菜を野菜と煮付けたって言っていたよ。すごく美味しいみたい」

「そうかい。それは楽しみだね」

 おばあちゃんは、お茶を最後の一滴まで、急須を上下に揺すりながら淹れてくれると、沙緒の前に茶碗を置いてくれた。

 沙緒は「ありがとう」と言いながら、湯飲み茶碗を両手で持ち、ふぅふぅと息を吐きかけながら口をつける。

「おばあちゃんのお茶、いっつも美味しい」

「そうかい」

 嬉しそうに、おばあちゃんの目が細くなる。

 それと同時に、回りの皺もきゅっと下がっていって。

 沙緒は、そのおばあちゃんの笑顔を見るのがとても好きだった。

「サキー」

 沙緒は、おばあちゃんの後ろを横切った、サビ柄の猫に声をかける。

 サキはそのまま、おばあちゃんの横で立ち止まると、そこで丸くなり眠りだす。

もう一匹、マルと名付けられた猫も、サキと同様におばあちゃんの座っている椅子の側へと近寄ってくると、するりと滑らかな体を椅子の足に擦りつけ、サキの隣に体を並べて、同様に体を丸めて目を閉じる。

 おばあちゃんちにいる猫は、みんな高齢なので。

元気に遊んだりはせず、こうして横になっている事が多い。

大抵は、テレビの前に置いてある、猫用のベッドの中に、二匹一緒に丸まって寝ている事が多かったが。

今日は二匹とも、おばあちゃんの側で丸くなっていた。

「おばあちゃん、大丈夫?」

 お茶を飲んだところ、咳込んでむせたおばあちゃんに、沙緒は心配げに声をかけ。

 立ち上がるとおばあちゃんの背中に回り、そっと背中を叩いてあげた。

「有難う・・・年を取ると嫌だね」

 おばあちゃんはむせながらも、沙緒に礼を言って。

 沙緒は首を横に振って、背中をそっと叩き続けた。

「おばあちゃん、昨日ダルいって言っていたけど、今日はどう?」

「今日はいくぶんか、いいね」

 一通りむせた後、呼吸が落ち着いてから、おばあちゃんはそう答えて。

 苦しげに折り曲げていた体を、ゆっくりと起こした。

「ならいいんだけど・・・」

 沙緒は、おばあちゃんの背中を上下に大きく撫で続ける。

 最近、おばあちゃんはむせる事が多く。

 体もダルい事が多いらしく、沙緒が帰った後は寝ている事が多いと、おばあちゃんから聞いていたので。

 沙緒は心配でたまらなかった。

「今日も沙緒ちゃん、また戻ったら仕事するんだろう?」

「うん、そうだね。これからはお客さんも減るから、忙しくなくて楽だよ」

 沙緒がそう言うと、おばあちゃんは何かを考えてるような顔で、何度か頷き。

 そろそろと目の前の机に両手をつくと、ゆっくりと座椅子から腰を浮かせ。

 よろよろとおぼつかない足取りで、居間の角にある電話台の上にある電話まで行くと、受話器を持ち上げ、誰かに電話をし始めた。

 沙緒がそんなおばあちゃんの姿を見つめていると、電話が繋がったのか、おばあちゃんが話しだす。

「あ、ああ・・・容子さん?鎌田です。沙緒ちゃん、うちに届けてくれたよ。いつも有難うね」

 おばあちゃんは、どうやら喫茶店に電話をしているらしく。

 沙緒は何かあったのかなと、気になって話を聞いていた。

「沙緒ちゃんにお願い事があるんだよ。容子さん、ちょっと沙緒ちゃんを借りていいかい?おじいさんのところへ行きたいんだけど、なにせあまり最近体がおもわしくないからね。沙緒ちゃんに付き添ってもらえたらって思ったんだけど・・・ダメかい?」

 おじいさんのところ?

 沙緒は、おばあちゃんの電話を聞きながら、何の話かわからず。

 おばあちゃんの丸い背中を眺めながら、話を聞き続けた。

「バスで行かなくちゃいけないだろう。遠くてね。この足じゃいろいろと心配で。でも会いたいんだよ」

 奥さんとやり取りをしているのを聞きながら、沙緒はおばあちゃんが電話を切るのを待っていた。

「はい、はい。ありがとうね、容子さん。わがまま言ってごめんね」

 おばあちゃんはそう言うと、受話器をそっと戻した。

 沙緒は、おばあちゃんがゆっくり机へと戻ってくるのを待ち、おばあちゃんに問いかけた。

「おばあちゃん、おじいさんって、おばあちゃんの旦那さん?」

「そうだよ」

 おばあちゃんは、また目の前の机に手をつきながら、ゆっくりと籐の座椅子に腰をかけて行った。

「うちのおじいさんは、施設にいるんだ。もうずっとね。会いたくてね」

「そうなんだ・・・」

「沙緒ちゃん、容子さんには許可を取ったから、私をおじいさんのところに連れて行ってくれるかい?」

 頼むような瞳に。

 沙緒は頷きたかったが、場所を知らないため、おばあちゃんに問いかけた。

「私、住所も場所も何もかもわからないけれど、行けそうかな?」

「待ってて」

 おばあちゃんは、また机に手をついて、ゆっくりと立ち上がると。

 隣の畳の部屋にある、小さなタンスの引き出しの中から、一枚の紙を取りだし、沙緒のところへと持ってきた。

「ここが場所だよ」

 沙緒は、おばあちゃんから写真がついているパンフレットのような紙を受け取ると。

 三つ折りになっているパンフレットの中を開き、内容を確認し始める。

 『老人保健施設 やすらぎの里』。

 そのパンフレットのタイトルには、そう書いてあった。

 中身は、実際どのような事をしているのかや、それぞれ住む場所になる部屋の様子などが写真付きで紹介されていて。

 沙緒はそこが、おじいちゃん、おばあちゃんが一人で住めなくなった時に住む場所だ、というのを理解した。

 パンフレットの裏面を見ると、住所が書かれている。

 ここから最寄りの駅まで歩いていって、そこからバスで二〇分ほどで着く距離だった。

 バスを降りて、すぐのところに施設があるのがわかり、これなら行けそうだと沙緒は思い。

 隣で心配そうに見つめているおばあちゃんの顔を見上げると、沙緒は微笑んだ。

「うん。行けそう。一緒に行こう」

 おばあちゃんは安心したように、沙緒に微笑むと。

 沙緒の頭をしわしわの小さな手で、優しく優しく何度も撫でた。










 おばあちゃんと一緒にバスに乗り。

施設の前に着いてバスから降りた時、すでに夕方に差し掛かる頃になっていた。

「ここだ」

 おばあちゃんは沙緒の隣で呟く。

 沙緒は、おばあちゃんの手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。

 右手には、おばあちゃんの手。

 左手には、大きめのキャリー。

 おばあちゃんの家にあったキャリーは小型犬用らしく、沙緒が貰って来たものよりも少しだけ大きめだった。

 プラスチックのような素材で出来ているのは変わらず、やはり肩からかけられるようにベルトが付いている。

 このキャリーには、おばあちゃんが飼っている猫が二匹とも入っていた。

 おばあちゃんが、おじいちゃんに見せたいと言ったからだった。

 沙緒は、片手に十キロ近い荷物を持ちながら、おばあちゃんが転ばないようにしっかりと手を引きながら歩き続ける。

 キャリーは相当重かったが、施設に入るまでだからと言い聞かせ、耐え続けた。

 バス停のすぐ目の前には、大きな二階建ての白い建物があった。

 そこが『やすらぎの里』のようで、三メートル先ほどにある門らしき場所には、看板が道路に向かって立てかけられていた。

 沙緒はおばあちゃんと、ゆっくりとした足取りで施設の門をくぐり、建物へと向かって行く。

 目の前に大きな自動ドアが見え、建物の前方は全て駐車場になっていた。

 中型の、施設名の入った送迎バスが、三台停められている。

 規模的には、中くらいの総合病院くらいの大きさだろうか。

 外観は綺麗で、まだ建ってからそれほど経っていないようにも思えた。

 沙緒たちは、駐車場の中を歩きながら、玄関の自動ドアへと向かう。

 おばあちゃんと一緒に自動ドアをくぐり抜け、そのまま一階のフロアへと入っていくと。

 大きな通路が正面と左右に分かれ、左側には事務所のようなものがあり。

 その事務所の一角には、左右に開くことのできる小窓がはめこまれている場所があり、中の事務所内が見えるようになっていた。

 どちらの通路にも壁に沿って何台かベンチがあった為、沙緒は、おばあちゃんにそこに腰をかけて待っていてもらうように伝えると、キャリーもおばあちゃんの隣に置いてから事務所の小窓を軽く叩いた。

「はぁい」

 事務所の奥から人の声がして、小窓の方へと歩いてくる女性が見える。

 沙緒が小窓から眺めていると、中にはその女性以外にも数人人が居て、パソコンに向かって何か事務作業をしている人が何人かいたり、誰かと電話をしていたり、職員同士で話し合っているような姿も見えていた。

やがて、女性職員が窓の目の前まで来て、窓が片側だけ開かれると、そこから女性が顔を出して来て、沙緒にニコリと微笑んだ。

「あ、すみません。鎌田さんのお見舞いに来ました。奥さんのおばあちゃんと一緒なんですが、部屋はどこでしょうか?」

 沙緒が尋ねると、職員の女性は笑顔で頷いて、「案内します」と言ってくれた。

 女性は窓を閉めると、すぐに事務所のドアから出てきてくれた。

 淡いピンクのポロシャツと黒のジャージに、クリーム色のエプロン姿の女性職員は、いかにも施設の職員といった感じに見受けられた。

 沙緒は、おばあちゃんを連れに一度ベンチまで行くと、また右手におばあちゃんの手を引き、左手には猫が入っているキャリーをつかんだ状態で歩き、事務所前で待っていてくれた女性と合流した。

「鎌田さんの奥さんですね、久しぶりです」

 女性職員は、ニコリと微笑みながら、上半身をおばあちゃんに傾けて挨拶をする。

 おばあちゃんは、「お世話になっています」と言って微笑みながら、女性職員へと会釈した。

 女性職員は、そのまま沙緒たちを、玄関正面の奥の通路へと案内し。

 行き止まりにあったエレベーターの前に来ると、上のボタンを押してエレベータを呼び、二人を中へと促した。

「鎌田さん、起きているといいんですけどね」

 女性職員は笑顔でそう言いながら、二階のボタンを押して扉を閉め。

 沙緒たちは二階へ着くと、右と正面に分かれる通路を、右に折れた女性職員の後について歩きながら、おじいちゃんの部屋へと向かって行った。

「鎌田さーん、入りますよー」

 女性職員が、ずっと奥まで歩いていき、大きめの引き戸の前に立ち止まると。

 おじいちゃんの名前を呼びながら、ドアをこんこんと軽く叩く。

 何も応答はなかったが、女性職員は引き戸をゆっくりと右側へと開いていった。

「鎌田さん、奥さんとお孫さんが来ましたよ」

 孫ではないのだけど。

 沙緒は女性職員の言葉に心でツッコミを入れながらも、開かれたドアの奥へと進んで行った。

 部屋に入って正面にある大きめの窓には、グリーンのカーテンが左右にそれぞれ集められて綴じられ、レースカーテン越しに降り注ぐ光の中、大きめのベッドが沙緒たちから見て横向きに置かれている。

 女性職員は沙緒たちを見て、笑顔で中に入るように促しながら、おじいちゃんのベッドの側へ歩いて行った。

 沙緒たちもベッドへと近づいていく。

 部屋の中には、たぶんトイレと思われる扉と、ベッドの周りの壁にはタンスが置かれていて。

 ベッドから少し離れた壁側には、パイプ椅子が二脚、折り畳まれて置かれていた。

 病院の個室のような、シンプルな作りになっていた。

「鎌田さーん」

 女性職員は、ベッドの側で体を曲げ、おじいちゃんの顔の近くで呼びかけ続ける。

 おばあちゃんはそんな女性職員の側へと近づきながら、ベッド横の手すりにつかまり、職員の体の横からおじいちゃんの顔を覗き込んでいた。

「鎌田さん、奥さんですよ。おばあちゃん」

 職員が話しかけているのを、隣でおばあちゃんが何度も何度も頷いて応え。

お爺ちゃんの手を取って、おじいちゃんの手の甲をそっと撫で続けている。

沙緒は、壁に折り畳まれて置かれているパイプ椅子まで近づくと、一台だけ掴んでベッドの横へと運び、立っているおばあちゃんの後ろへと開いて置いた。

「有難う、沙緒ちゃん」

 おばあちゃんは少し沙緒を振り返り、頭を傾けて礼を言いながら微笑み。

 沙緒もニコリと微笑みながら、おばあちゃんの横へと立った。

「おじいさん・・・」

 おばあちゃんは、おじいちゃんを小さく呼び続ける。

 沙緒がおじいちゃんの顔を見ると、まだボーッとしている様子に見えた。

 きっと声をかけられるまで、眠ってしまっていたんだろう。

「あの・・・すみません」

 沙緒は、自分より二つ隣に居る女性職員へと声をかけた。

「実は、おばあちゃん、飼っていた猫を見せたいと言っていたので連れてきているんですが、おじいちゃんに見せてあげてもいいでしょうか?」

 沙緒がそう言うと職員さんは「少しならどうぞ」と言ってくれた。

「あら、鎌田さん。起きた?」

 女性職員が、笑顔でおじいちゃんに声をかける。

 沙緒が床に置いてあるキャリーから、中にいるサビ柄のサキを、扉を開けて取りだしていると。

 おばあちゃんもさっきより身を乗り出して、おじいちゃんを眺めていた。

「鎌田さん、奥さん!奥さんですよ!」

 女性職員は、仰向けに横になっているおじいちゃんの耳の側へ顔を近づけると、大きめの声で呼びかける。

 おばあちゃんは、お爺ちゃんの手をしっかりと取った状態で、ずっと優しく撫で続けていた。

「鎌田さん!」

「・・・ぁい」

 嗄れた小さな声が、唇からもれる。

「奥さんが来てくれましたよ!」

 職員が大きな声で言い続けると、おじいちゃんは、小さくだが顔を縦に動かした。

「おじいさん」

 女性職員は、呼び掛けるおばあちゃんの背中に手を当て、自分が居る方へとおばあちゃんを促し。

 おばあちゃんはその手に押されるかのように、おじいちゃんの顔の側へと体を移動させた。

「おじいさん、私ですよ。ハナですよ。おじいさん」

 おばあちゃんは、女性職員の真似をするかのように、おじいちゃんの耳元へとよろよろしながら顔を近づけ、おじいちゃんの耳元で声をかける。

 おじいちゃんはおばあちゃんを見ることはなかった。

「おじいさん、今日ね、おじいさんの好きなサキを連れて来たのよ」

 おばあちゃんはそう言うと、一度、沙緒の方を振り返り。

 沙緒は五キロあるサキを抱えあげて抱っこしたまま、おばあちゃんの横へと近づいた。

「おじいさん、サキですよ。おじいさん」

 おばあちゃんは、またおじいちゃんの耳元で声をかけ。

 沙緒は、サキを、おじいちゃんの体の上にかけられている布団の上の胸辺りへと、サキの体を抱えている状態で乗せてあげた。

 おじいちゃんはサキが重かったのか、少しサキの方へと目線を下げる。

「ニャア・・・ニャア」

 サキは不安そうな声を何度も出しながら、沙緒に体を支えられたまま、布団の上にと置かれていた。

「おじいさん、サキよ。ほら」

 おばあちゃんは掴んでいたおじいちゃんの手を、そっとサキの体の上へと乗せてあげ。

 その手の上に自分の小さな手を乗せると、一緒にサキの体を撫でていった。

 サキは、居心地が悪そうな顔をしている。

「おじいちゃんが一番好きで、おじいちゃんに一番なついていたサキですよ」

 おばあちゃんは、おじいちゃんにそう話しながら、サキの体をおじいちゃんの手と一緒に撫で続ける。

 沙緒はずっと、サキの体を掴んで支えていたが、とうとう我慢が出来なくなったサキは、沙緒の手の中で暴れ出し。

「あっ!」

 サキは身をよじると、あっという間にベッドの上から飛び降りて、床に置いてあるキャリーの中へと入っていってしまった。

 そこはやはり、慣れた匂いがして、安心するのかもしれない。

 サキはそのまま、沙緒が声をかけても、一切出て来ようとしなかった。

「おじいさん・・・」

 少し寂しげな声がして。

沙緒は、キャリーの奥でじっと丸まってしまっているサキを諦め、扉を閉めて立ち上がると。

 おばあちゃんは、何も反応を示さないおじいちゃんに向かって話しかけていた。

「おじいさん、わからないの?サキを見てもわからないの?私のこともわからないの?」

 その問いかけには、おじいさんにわかってほしいというような思いがこめられていて。

 沙緒の心は、切なさに覆われ始めた。

「おじいさん。おじいさん」

 おばあちゃんが、一生懸命に背中を丸め。

 ぼんやりと、宙を向いたままのおじいちゃんの顔に、ずっとわかってほしいと声をかけ続ける姿を見ているのが。

 沙緒には辛くて、どうしていいのかわからなくなっていた。

「おばあちゃん」

 おじいちゃんの手を片手で握り、片方の手でおじいちゃんの肩の辺りを掴むようにして揺すっているおばあちゃんの背中を。

 沙緒は優しく触れて、撫で続けた。

「おばあちゃん、おじいちゃん、応えないけどわかっていると思うよ」

 沙緒には、そう言ってあげられるのが精いっぱいだった。

 そう信じていたい気持ちもあった。

 おばあちゃんは、沙緒に声をかけられても、まだしばらく肩を揺するように掴んでいたが。

 やがて、それでも何の反応も示さないおじいちゃんの様子に、諦めたように手の動きを止めた。

 おばあちゃんは、おじいちゃんの肩に手を乗せたまま。

 じっと、おじいちゃんの顔を見つめ続ける。

その姿を後ろから見つめながら、沙緒の目には涙が浮かび始めていた。

 施設に向かう、バスの中で。

 おばあちゃんから、おじいちゃんは、半年ほど前からここへ入っているんだと聞かされていた。

 おじいちゃんは最初、腰と足を痛めた為、病院で入院していたのだが。

 その後、なかなか回復せず、病院にいられる期限が来た為、施設へ移ったところ、今度は痴呆が始まってしまい。

 それでも、自分は一緒に住もうと思ったのだけど、遠く離れた県に住んでいる一人息子が、おばあちゃんだけでは介護は無理だと言って、おじいちゃんはそのまま施設に引き取られ、痴呆ももっと進み、おじいちゃんは何も分からなくなってしまって、とうとうまったく外へは出られなくなってしまったんだと。

 おばあちゃんは、バスの後部座席に沙緒と一緒に並んで座った状態で、沙緒の手を握ったまま、ポツポツと話をしてくれていた。

 おじいちゃんがいた事など、誰からもまったく聞かされてなかった沙緒は、そこで初めて、おばあちゃんがとても寂しい思いをしていたことを知り。

おじいちゃんは、今ではすっかり何もかもを忘れてしまっていて、何もかもわからなくなっているんだと聞くと。

沙緒は、なんて声をかけていいのか分からず。

 『今日会いに行ったら、少しでも思い出してくれるといいね』と、おばあちゃんの手をぎゅっと握りながら伝え。

 おばあちゃんは、儚げに小さく微笑みながら、こくりと首を縦に振った。

 こうして、目の前でおじいちゃんを見てみると。

 本当になにもかも、わからなくなってしまったのだと。

 沙緒にも理解は出来ていた。

 職員さんも、仕方ないとでも言うような顔で、おじいちゃんを見つめている。

 ここの世界では、それが当たり前。

 そんな表情に見えた。

 それが一般的には、年齢的なものや、病気ならば仕方がないのだと、受け容れられる事が出来るのかもしれないけれど。

 おばあちゃんには、未だに受け容れられない。

 それは、おばあちゃんの背中を見つめていながら感じとっていた。

 おばあちゃんは、おじいちゃんが本当に好きなのだと。

 そんなことを考え、沙緒は胸が詰まるようになり。

 気づくと、唇を無意識に強く噛んでしまっていた。

 おばあちゃんの背中は、丸まったまま、ずっと動かない。

 おじいちゃんを、ただじっと見つめている。

 その寂しそうな姿を見ていると、沙緒は耐えられず。

 ぽたりと涙を瞳から溢れさせていた。











「・・・なぁに、おばあちゃん」

 沙緒の手をずっと大事そうに握って。

 ずっと撫で続けている、おばあちゃんのしわしわの手に。

 沙緒は優しく、問いかけた。

 おばあちゃんは、ただじっと。

 沙緒の手を掴んだまま、片方の手で沙緒の手の甲を撫で続けている。

 可愛い、可愛い、とでも言うかのように。

 沙緒が顔を上げて、隣に居るおばあちゃんを見ると。

 おばあちゃんは、小さく口元を緩めながら。

 ずっと沙緒の手を撫で続けるのを、止めなかった。

 おじいちゃんの施設から、一緒におばあちゃんの家に戻ってきて。

 沙緒はおばあちゃんを一人にしておけず、そのまましばらくおばあちゃんの家にいた。

 奥さんに電話をして許可をもらい、今日はこのまま八時までおばあちゃんの家に居て、そのまま居酒屋へ働きに行っていいと言われたのだ。

 おばあちゃんの家を出なくてはならないタイムリミットまで、あと十分。

 沙緒は、おばあちゃんに自分の手を任せるままにしていたが、徐々に時間が迫っているのを感じ。

 おばあちゃんが撫で続ける手に、そっと自分の手を重ねた。

「おばあちゃん、また明日来るから」

 沙緒はそうおばあちゃんに、優しく語りかけた。

 おばあちゃんは少し俯いて、何も言わない。

 おばあちゃんの寂しさがどこまでも伝わってきて、沙緒はどうしたらいいかわからなくなっていた。

「沙緒ちゃん」

「はい」

「居酒屋さんでは、何時間働くんだっけ?」

「三時間です」

「じゃあ、その分のお金をおばあちゃんがあげるから」

 沙緒はビックリして、首を横に振った。

「いらない、大丈夫だよ、おばあちゃん」

「いいんだよ。おばあちゃん、その分のお金を上げるから、だから」

 おばあちゃんは、俯いたまま。

 沙緒に言った。

「今日はここに泊まってくれないかい?」

 沙緒は、おばあちゃんの、か細い声のお願いに。

 胸がしめつけられるような思いになっていた。

 寂しくて、寂しくて、仕方ない。

 おばあちゃんから伝わってくるのは、ただその思いだけだった。

「おばあちゃん・・・」

 なんて言っていいのかわからず。

 沙緒は黙ってしまっていた。

「困らせてごめんね。でも、どうしても、今日はね、沙緒ちゃんに居てほしいんだよ」

 おばあちゃんは、震えるような声でそう言うと。

 ポタポタと、瞳から涙を溢れさせ。

 その涙は、沙緒の手の甲へと落ちていった。

 沙緒は慌てて、おばあちゃんの顔を見る。

 おばあちゃんは涙を流しながら、沙緒に訴えた。

「今日だけでいいから、居てくれないかい」

 おばあちゃんのお願いに、沙緒は、心も体も捕らえられてしまったようになり。

 しばらく何も言えないでいたが、おばあちゃんの潤んだ瞳に、とてもノーとは言えないのをひしひしと感じていた。

「・・・わかった。でも、お金はいらないからね」

 沙緒はそう言うと、おばあちゃんの手から一度手を抜き、おばあちゃんの手をしっかりと包み込んでぎゅっと握ると。

 それから、ポケットに差し込んでいたスマホを取り出し、居酒屋へと電話をした。

 どうしても体調が悪くて出勤できませんと伝え、休むことに了承を得ると。

 沙緒は、またスマホをポケットにしまい、おばあちゃんに微笑んだ。

「大丈夫。今日は泊まるね」

 そう言うと、おばあちゃんは嬉しそうに微笑んで。

 溢れる涙を弱々しく震える手で、そっと拭っていった。

 










 沙緒はおばあちゃんと二人で。

 晩ご飯のお弁当とおかずを二人で分け合いながら、一緒に過ごした。

 おじいちゃんの事を知ったきっかけで、沙緒はバスで聞いた話以上に、改めていろいろとおばあちゃんから身の内話を聞くことが出来た。

 おばあちゃんの子供は、息子さんが一人だけいるという事。

 その息子さんは、遠く離れた県に居るので、なかなかこちらには来れないとの事。

 仕事が良く出来て、昔からとても真面目だったから、上司の信頼が厚いらしく。

 時々、海外に出張に出かけては、お土産を宅配便で送ってくれたりするんだって言っていた。

 仕事を一生懸命する、優しくて、親思いのとても良い子なんだよと言って、顔をほころばせていた。

 でも、忙しくてなかなか顔は出せないんだ、って、おばあちゃんはしょうがないんだよとでも言いたげな顔で話していた。

 息子さんとは一緒に住まないの?と聞いたけど、おばあちゃんは、首を横に振った。

 ここにいたいんだよ、と。

 おばあちゃんは、静かに呟いた。

 息子の良くないところは、未だに一人身の事だね、って。

 おばあちゃんはそう言って、笑っていた。

 結婚してくれれば、沙緒ちゃんみたいな可愛い孫にも会えただろうに、と。

 おばあちゃんは、沙緒を本当に可愛いと言うように見つめて。

 沙緒は急に照れくさくなって、視線を逸らしてしまった。

 そのまま、二人で話をしていたが。

 午後十時も過ぎ、夜もすっかり更けたので、おばあちゃんと一緒に布団を並べ、畳の部屋で寝る準備をしていたところ。

 既にパジャマを着込んでいたおばあちゃんは、一枚の紙を沙緒の前へと持ってきた。

 沙緒はおばあちゃんから借りた、いかにもおばあちゃんが着るような花柄のパジャマに袖を通していたところだったが、おばあちゃんが居間の方から持ってきた紙を沙緒の前に差し出してきたので、沙緒はそのまま受け取った。

 ・・・なんだろう。

 沙緒はおばあちゃんから渡された、八折り程に折り畳まれた紙をひっくり返してみる。

 そこには。

『願』

 そう書かれていた。

「おばあちゃん、これなに?」

 沙緒がパジャマの上をしっかりと袖を通し、貰った紙を掴んだまま、体の前でボタンをはめつつ聞くと、おばあちゃんは小さく『願』と書かれた折り畳んだ紙を沙緒の手からもう一度取り、しわしわの指でゆっくりと開いて中を見せてくれた。

 そこにはまた、『願』と書いてある。

 それだけだ。

「これは、私が昔に教えて貰った、願い事をかけるための短冊みたいなものさ」

「短冊」

「そう。七夕にみんな願い事を書いてつるすだろう?それと同じようなものだよ」

 おばあちゃんは、その紙の『願』という文字の下の空白部分を、指でたどたどしくなぞる。

「ここにね、願い事を書くのさ。叶えたいことのね」

「そうなんだ・・・」

 沙緒はおばあちゃんの指が何度も空白の上をなぞっていくのを、じっと見つめていた。

「沙緒ちゃんは、何か叶えたい事があるかい?」

「そう・・・だね。あるよ。私もある」

「そうかい。じゃあこれをあげるから」

 おばあちゃんは、その紙をまた小さく折り畳むと、『願』という字が表に出てくる状態に戻して、沙緒に手渡した。

「ありがとう・・・でも、おばあちゃんはいいの?」

「おばあちゃんのは、もうあるのさ」

 おばあちゃんは、ふふふ、と、小さく可愛らしく言って。

 そっと寝室の窓の近くにある、仏壇の中段ほどにある引き出しを指差した。

「あそこに入っているんだよ。願いが叶うまでは、そこに置いてあるんだ」

 おばあちゃんがそう言いながら、引き出しを見つめる目が。

 沙緒にはなぜか、すごく切なく見えた。

 叶えたいけど、まだ叶っていない。

 そういう風に見えていた。

「願い事は、人に言ってはいけないよ。叶うまではね」

 おばあちゃんは、沙緒の手に紙を改めてしっかりと握らせて。

 その握らせた手を、そっと優しく両手で包んだ。

「沙緒ちゃんの願いが叶いますように」

 おばあちゃんは目を閉じて。

 沙緒の手を、何度も両の手のひらで包んだ状態で撫で続けながら。

 そっと、沙緒の手に向かって優しく言葉をたむけた。

 本当に叶うように、という、想いがこもった言い方だった。

 沙緒は目頭が熱くなるのを感じながら。

 泣きそうになるのを必死でこらえた。

「おばあちゃん」

 沙緒は、その分、次の言葉に思いをこめて伝えた。

「おばあちゃん、有難う」

 真剣に沙緒が伝えると。

 おばあちゃんは、やっとゆっくり目を開けて。

 沙緒を見つめると、目尻をゆっくりと下げた。












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