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願・猫飼い  作者: 杜月 佑衣
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願・猫飼い

 沙緒は、家を出たくてしょうがなかった




 こんな家。

 こんな形だけの家、と。

 いつも思っていた。

 高校生の頃から、ずっと。

 外から見ると。

 沙緒の家の外観は、ごくごく一般的な一軒家だ。

 全体的に真四角く出来ている家は、特に周りと比べて大きくもなく、小さくもなく。

 色もどこにでもあるような、白いモルタルの壁。

 近づくと、塗り方ででこぼこしてる感じがあり、手で触るとザラつくように引っかかる壁だった。

 いたって、普通。

 この両親が作った家なのだから、そうだろう。

 『沙緒、なんでも普通でいいのよ。普通で』

 『普通が一番なんだ。普通が一番』

 母親と父親の言葉だ。

 中学生の頃から2人して口癖のようにお互い言っていたが、高校生になってから、ますます良く言うようになり、私にも言い聞かすように言うようになった。

 それ、なんのポリシー?

 怪訝な顔しか出来ない私に、父と母は、これが正解と言わんばかりの顔で言い聞かせてくる。

 沙緒が何を言ってもだ。







 ある日の事。

 高校3年生の夏だった。

 蝉が遠くの公園で、鳴き続ける声だけが聞こえる頃。

 周りはもうとっくに進路を決めて、受験勉強も当たり前のように熱心にやってる頃に。

 沙緒は何ひとつ決まっていなかった。

 行きたい先も、やりたい事も何一つ決まってなく、勉強する気も起きなかった。

「ねぇお母さん、私さ、何やりたいんだろ」

 晩御飯が終了した食卓にて。

 沙緒はずっと、心の中に抱えていたモヤモヤを吐きだす事にした。

 クラスメイトは、受験勉強に必死だった。

 夏休みも、ほぼ、塾や講習で埋め尽くされているような状況で。

 沙緒だけ、何もない夏休みを過ごしていた。

 時間をただひたすら持て余し、パソコンの前に座ってネットをしているか、スマホでネットをしているか。

 毎日三十度越えの気温が続き、暑くて外にも出たくないから、沙緒はまるで隠居生活のような暮らしをしていた。

 ただひたすら、家に居て。

 ごろごろと居間のソファか、部屋のベッドで転がっている日々だった。

「何って・・・そんなこと言われたって、お母さんわかんないわよ」

 いや、そうだろうけどさ。

 沙緒は母親の返答に、心の中でツッコミを入れていた。

「私もわかんなくて。どうしたらいいのか。この先やりたい事もないんだよね。みんな行きたい学校も決めてて勉強してるけど、私、それもないし」

「そうなの」

 母親の素っ気ない返事は、沙緒の頭から水をかけているようだった。

 関心が無いのもいいとこだ。

 母親は台所で、食べ終わった食器を洗いながら、洗いかごに次から次へと食器を片づけているところで。

 沙緒の方を見もせずに、答えていた。

 沙緒は、目の前に居る、食べ終わったばかりで、母親に緑茶を淹れてもらって飲んでいる父を見た。

「お父さん」

「ん」

「私、やりたい事がみつからないんだ」

「ふーん、そっか」

 これまた、母親と同じような返事が返ってくる。

 沙緒はさすがに、瞳を半分伏せた。

 向かいで父親は、湯呑みを両手で抱えながら、ふうふうと湯気の立ち上るお茶に息を吹きかけつつ、そうっと口をつけていく。

「これでいいとは思えないんだよね」

「行きたいところがないなら仕方ないんじゃないか」

 それが親の言うことか?

 沙緒はまた心で毒づく。

「お父さんはなかったの?私くらいの頃。いろんなことを悩んだりとか、どうしたらいいのかなとか」

「別に・・・」

 ふうふうと、お茶に息を吹きかけながら父は言う。

 ひとり言のように。

 沙緒に視線を向ける事もなく、だ。

「父さんは高校を出てすぐ働いたからな。別に勉強する事もなかったし。沙緒がやりたい事がないなら働けばいいだけだ。働いて稼いで、家にお金を入れなさい」

「それが一番よ」

 食器を全て洗いかごに入れ終った母が、蛇口のレバーを戻して水を止めると、父の意見に同調してくる。

「そうやって普通に働いて、普通に過ごせばいいの。普通に普通に」

 出た。普通。

 沙緒はうんざりと言わんばかりの顔になる。

「そうだ。普通に働いて、普通に過ごすのが一番だ」

 父も同調し、またお茶をすする。

 沙緒は、母親と父親を交互に見た。

 母親は、食器かごに入れた食器をふきんで拭き始めている。

 父親は、目の前でのんきにお茶を飲んでいる。

 娘の話にはまったく興味がないかのように。

「・・・そう、わかった」

 沙緒が気持ちのまったくこもらない返事をすると、父は小さく頷いて、湯呑みを持ったまま席を立った。

 そのまま、リビングのソファに向かい、ソファの前にある木製のテーブルに湯呑みを置くと、ソファにごろんと体を横たえる。

 テレビのチャンネルが変わり始め、父がリモコンを操作しているのがわかった。

 母は、相変わらず、一枚一枚の食器を拭き続け、ステンレス製のシンクの上に順番に重ねていく。

 この家は、壊れてる。

 沙緒はそうとしか思えなかった。

 なんで、いつもいつも。

 決まって『普通』しか言わないんだろう。

 父と母に何があったか知らないけれど、なんでそれをベースに私に対しても無関心になれるのか。

 普段の会話でもそうだ。

「普通で本当に良かったな。普通が一番だ」

「ほんと、普通なのよね。普通」

 決まったように何かを表現する時には、普通しか出てこない。

 一体何のこだわりなのか。

 沙緒にはまったく理解が出来なかった。

 







「疲れた」

 ごろりと寝転がったベッドの上。

 沙緒は口癖になってる言葉を呟く。

 つい先ほどまで、二階にある自室から一階のリビングへ降り。

 母親しかいない空間で、母親が用意した白いご飯に、目玉焼きと焼いたウインナーとお味噌汁という朝食を、淡々と食べて。

 話すことも何もなく食べ終わると、沙緒は食器を流しへと下げて、茶碗を洗い。

 それぞれを食器かごにふせた後、水を軽く切ってから、ふきんで綺麗に拭いて。

 拭き終えた食器を、シンクの隣にある食器棚の定位置へと戻す。

 母親はその間、ずっと居間のテレビの前のソファで横になり。

 バラエティの情報番組を見ながら、笑い声を立てている。

 沙緒と特に話すことは、何もない。

 沙緒も話したいことも、何もない。

 ただ、居間に降りてきた時だけ、おはようと言い合うだけ。

 家族の会話は、そんなものしかなかった。

 食事を済ました沙緒は、また二階の自室へ戻り。

 ベッドにゴロリと横になって、そこに置いてあったスマホを暇つぶしに見始める。

 そうやって、毎日ただひたすらボーッとスマホの画面を見ながら過ごし、体を動かしているわけではないから、体が疲れる事なんて何もないはずだったが。

 でも、常に呟く。

『疲れた』と。

 何もすることがないのは幸せな事では決してないと、沙緒はこの生活になって初めて気付いた。

 何もしなくても疲れるのは、気持ちが死んでいるからだ。

 沙緒はそう思いながらも、何をしていいのかわからず。

 相変わらず何も、やる気もなく、ただベッドの上でゴロゴロとしているだけだった。

 眺めてるネット記事だって、特に調べ物をしてるわけでも、見たいものがあるわけではない。

 ただ、持て余しきっている時間をつぶしているだけだ。

 いつも満たされない、モヤモヤした気持ちのままで、スマホを見続けている。

 そんな毎日が、高校を卒業してから四カ月経ってもなお、ずっと繰り返されている。

 朝から、夜になり、そしてまた眠って起きるまで。

 繰り返し、繰り返し。

 沙緒は、自分はもしかしたら、こういう人形なんじゃないかと思うようになっていた。

 そう思っていた方が、楽になって行く気がした。

 心なんか、最初からなくって。

 ただ、こうして寝て、静かにしているだけで存在意義が許される。

 それならば、どんなに楽か。

 そう思えたら、どんなに楽か。

 どこまでそう思えたら、心を埋め尽くしてる、この無味乾燥のものから解放されるんだろう。

 空虚感しか、常に付きまとわない。

 生きている意味さえ感じられなくなりそうだった。

 沙緒は自分も心も持て余しながら、目の前の画面をずっと流すように見ていたが、やがてそれにも飽き、スマホを自分の体の横へ捨てるように投げつけた。  

 助けて。

 誰か助けて。

 そう心で呟くと、じわっと涙が湧いてきそうになった。

 悲しみなのか、辛さなのか、悔しさなのかわからない。

 ただただ、押し寄せる孤独と空虚感にとらわれ、このまま自分の全てが病んでしまいそうで苦しくてしょうがなかった。

 沙緒は、ゴロリと体を反転させると、枕へ顔を埋めた。

 息苦しくなるほど、埋めた。

 私、何をすればいいんだろう。

 どうすれば生きていけるんだろう。

 答えの出ない疑問が、心の中をグルグルと駆け回る。

 息苦しさで顔が熱くなってきても、ずっとそれをやめられなかった。

 どうしたらいい。

 どうしたら。

 沙緒は両手を枕の下にいれると、枕を掬いあげるように抱えて、そのまま顔の両側からギュッと押さえつけた。

 呼吸が一層しずらくなる。

 限界までずっと耐え、もうダメだとなった時点で、沙緒は両手を枕から離した。

 力が抜けたように、そのままうつぶせで何も考えずにいると、着信音が短く鳴った。

 メールだ。

 沙緒は顔だけを、放り投げられたスマホへと向けた。

 チカチカと緑色のランプが灯っているのが見える。

 どうせ、メルマガかなんかだろう。

 沙緒はだるい瞳で、チカチカ灯るライトの点滅を眺めていた。

 誰も連絡をくれるような人もいない。

 高校三年のある時期までは存在していた友達は、結局は友達と言っても名ばかりのような関係だった気がする。

 沙緒が何も先を考えず、進学か就職かも選択していないことがわかると、友達と思っていた人たちは驚いて、絶対何かした方がいいよ、と言ってきた。

 でも何をしていいのか分からないまま、何もしないでいると。

 友達たちはそれぞれの忙しさに追われるようになり、また、進学の為、いつも真剣に問題を解きあったり、行きたい学校の話など、受験に絡む話題が増えて行くにつれて、共通の話題もなくなり、沙緒はいつも疎外感を味わっていた。

 また、どこかで小バカにされてるような気もしていた。

 この子、大丈夫なの、って。

 そんな目で見られてるような気がしてきて、沙緒はだんだん、友達と思っていた人たちからも距離を置くようになり。

 友達と思っていた人たちも、そのまま沙緒からなんとなく離れて行った。

 誰とも話す事もなくなり、沙緒はただ、学校に毎日行って、授業が全部終われば、ただ家に帰る。

 それだけだった。

 その後もずっと、沙緒は。

 進路について、何も決める事もなく。

 親ともそれ以上、相談をすることもなく。

 先生が沙緒を心配して、沙緒に何を言ってきても、親は何も干渉せず。

 沙緒もその頃には全てを諦めていたので、親と話し合いなさい、もしくは自分が親と話させてほしいと先生が何度も言ってきても、別に何もしなくていいです、とだけ答えていた。

 そうやって、ただ、時間は流れすぎ。

 沙緒はそのまま、本当に何一つ決まらずに、ただ黙々と通い続けた高校を、卒業だけした。

 それから、早、四ヵ月。

 沙緒はただ、何もすることが無い日々を過ごしている。

 チカチカするのを見てるのが鬱陶しくなり、沙緒は少し体を起こすと、片手を伸ばしてスマホを掴み、画面のロックボタンを押して解除すると、届いているメールを開いてみた。

 それは、案の定、以前登録したゲームアプリからのメルマガだった。

 想定通りの展開に、沙緒は淡々と親指を動かして一度メールを開くと、またすぐ閉じて、スマホを布団の上へと画面を伏せて置いた。

 沙緒しかいない部屋は、静かだ。

 幼い頃から変わらない部屋。

 今の今まで熱中するようなものもなかったから、部屋はいたってシンプルで。

 殺風景と言えるほど、物があまりなかった。

 生活に必要な机や、タンスや、ベッドやクローゼット、本棚はあるが、女の子らしいような物や、部屋を飾るような装飾もない。

 ただ、白い部屋に、無機質に家具が並んでいるだけ。

 タンスの上に二個だけ、子供の頃から使っていた熊とうさぎのぬいぐるみが並んでいるのが、唯一、ここは女の子の部屋なのかなと想像が出来るレベルの殺風景さだった。

 沙緒が身動きする時だけ、音が立つ。

 ざわざわという、ベッドの上の掛け布団の衣擦れの音。

 沙緒はぼんやりと何もない空間を眺めながら、また、朝思った事を思い出していた。

 この家を出たい。

 そうすれば、何か見つかるかもしれない。

 少なくとも、生きてるのに死んでいるような生活からは解放されるような気がした。

 仕事・・・探そうかな。

 この家を出たいと思うようになってから、沙緒はやっと少し目的が出来たような気がしていた。

 家を出るには、単純だ。

 お金が必要。

 お金を得るには働かなくてはならない。

 今の今まで、やりたい事も目的もないから、働く事も考えられなかったし、親も何も言わないから、ただ時間を過ごしてきたけれど。

 やりたい事がなくても、家を出るためにはそれしかない。

 仕事さえ決まって働けるようになれば、生活できる為のお金は稼ぐ事が出来る。

 職種は何でもいいから、自分が出来そうなものを探して、生活できる分だけ働ける場所を見つければいい。

 今は、母親からお小遣いと交通費を兼ねて、毎月二万貰っていて。

 けれど特に使い道もないから、ただ、なんとなく貯まってしまっている分があった。

 いくら貯まっているかはわからないが、たぶん、十万近くかそれ以上は入っているはずだ。

 高校三年生の頃、友達と離れて過ごすようになってから、お金を特に何も使うことがなくなってしまい、ただ部屋にある熊の貯金箱の中に使わなかった分のお札を折り畳んではいれていた。

 沙緒は、もう一度スマホをつかむと、電源ボタンを入れてロック画面を解除し、スマホを起動させた。

 時間は、午前十時半。

 時間を確かめると、沙緒は布団の上で、うーんと言いながら、手足を思いきり外に向けて伸ばしていった。

 もうそろそろ、出かけようかな。

 まずは履歴書を買わなくては何も始まらない。

 写真も撮りに行かなくては・・・。

 そんな事を考えていると、沙緒は、いつもざわついていたクラスの中を思い出した。

 人の声が狭い部屋にひしめく、人の気配でむせかえるほどの教室の中。

 沙緒は、ひとりで本を読んでいた。

 周りで聞こえる声の群れは、大体中身が一緒だった。

 受験勉強の愚痴、恋の悩み、好きな芸能人の話、面白かったドラマの話。

 その中で、写真が綺麗に取れる場所がないか、という話し声が聞こえていたのを思いだす。

 その子は確か、就活組で、会社に書類選考で出す為に綺麗な写真を取りたいが、どこで撮ったらいいのか分からない話をしていた。

 値段が高くてもいいから、印象の良いのを用意しないと、落とされるの嫌だから。

 そんな事を話していた気がする。

 そんなもんなんだ、と、なんとなく印象に残っていた話だった。

・・・まずは履歴書と写真が必要、か。

 記憶に残っていた、クラスメイトの言葉に感謝を感じつつ。

 沙緒は、一度息を大きく吸って大きく吐きだすと、両手をベッドについて体を押し上げるようにして起こしていった。

 その勢いで体と顔が上を向くと、前が少しだけ明るくなったような気がする。

 何かが変わればいいな。

 ふと、そんな言葉が心をよぎった。

 沙緒はベッドから体を下ろすと、着替える為にクローゼットへと向かった。








 外に出るのは、何日振りか。

 沙緒は、通学で通っていた道を歩いていた。

 歩き慣れていた道だったが、学校を卒業してしまうと、どこか通りがよそよそしく感じていたのは、人と同じ事が出来ていない自分への劣等感からかもしれない。

 みんなは高校に通っていた道を、今も変わらず通学や、通勤で通っているのだろう。

 でも、自分はみんなとは違う。

 卒業して四ヵ月。ただ、家で過ごしていただけだ。

 朝、目的を持って行き交う人の中には入りたくなかった。

 自分だけ行き先がないから、歩きたくなかったのだ。

 だから、通勤や通学の時間帯が過ぎてから、出かけなきゃならない時は出かけていた。

 そうなると、今度は、公園で時間をつぶしているサラリーマン風の人や、スーパーのフードコートでボーっとしている若い人を見かけたりする。

 そんな中には、だるそうに机に突っ伏して寝ている人もいる。

 それはそれで、自分も一緒なんだな、と思うと、また気持ちが暗くなっていたので、結局あまり外へ出なくなってしまっていた。

 熱い日差しは、相変わらず。

 あの高校三年の夏休みと、今年もなんら変わらなかった。

 空からこれでもか、というように、熱の束を降り注いでくる。

 少し歩いているだけで、頭の芯がぼーっとしてくるようだった。

 服の内側もうっすらと汗をかいてくる。

 今日、何度あるんだろう。

 とりとめないことを考えながら、沙緒は黙々と目的地まで歩いていく。

 沙緒が履歴書を買いに行こうとしているのは、徒歩二十分程先にある、大手のショッピングセンターだった。

 ここは、地元では一番大きな複合施設で、三階建てのショッピングセンターの周辺には、子供が遊ぶ専門の施設から、映画館、ボーリングやカラオケなどの遊技場、など、いろいろな店舗が横並びの状態で、広大な土地に密集した形で林立している。

 そこまで行けばショッピングセンターの中には本屋があるし、履歴書も売っているだろう。

 履歴書を買ったら、何を書けばいいのか、調べなくちゃ。

 沙緒はそんな事を考えながら歩いていた。

 黙々と歩く中、自分の影だけが、小さく自分の後をついてきてくれる。

 あまり人気や、車通りの少ない通りを歩くのは、気は楽だったが。

 でも、ひとりぼっちだな、と思っていた。

 家にだって、人が居るようで居ないようなものだ。

 私の話をちゃんと聞いてくれる人は、誰もいないのだから。

 ぽつん、ぽつんと心で呟きながら歩く。

 気づけば、前ではなく、足元に視線がいってしまっていた。

 人は、ネガティブな時には自然と下を向くようになっているらしい。

 どこかで、何かで読んだ気がする。

 ネットだったか、本だったか、覚えていないけれど。

 前へと足は踏み出しているのに。

 漂う意識は本当に、ふとしたことで崩れそうなほど小さいものだ。

 輝くような希望もなく、夢を描く気持ちもなく。

 こうして足元を見ている自分が、いつのまにか自分は、もとからそういう生き物なんじゃないかという気がしてならない。

 孤独だ。

 とても。

 沙緒のひとりごとでしかない心の呟きは、踏み出す足のスピードを少しずつ遅くしていった。








 とろとろと亀よりも遅いんじゃないかと言う足どりだったが、前へは確実に進んでいたらしい。

 沙緒はなんとか、家族でも多く利用するショッピングセンターへと辿り着いていた。

 とろとろと歩いても、やはり汗はかくらしい。

 沙緒の額からは、顎のラインにかけて汗が流れ落ちて行っていた。

 暑い。

 暑くてたまらない。

 沙緒は手で拭いても拭いても流れ落ちる汗と闘いながら、ショッピングセンターの大きな入口へと向かっていき。

 小さな子どもたちを連れた家族連れや、年配の友人同士の女性の間をすり抜け、自動ドアから中へと入った。

 一気に涼しさが体を包む。

 ショッピングセンターの中は、清々しいほどの冷気が溢れていて。

 沙緒は思わず、ほぅっと息を大きく吐いた。

 気持ちいい。もうずっとここに居たいくらい。

 心地よく体全体を包む冷気のひんやり感に、体中洗い流されたような気持ちになり。

 沙緒の顔は、やっと気持ちよさそうに緩んだ。

 今なら、うーんと伸びもしたいくらい。

 沙緒はそんな事を思いながら、口元が緩むのを感じつつ、ドンドンと建物の中へと進んでいく。

 目的の三階にある本屋まで、止まることなく真っ直ぐ進んで行った。

 履歴書を買って家に帰る。

 そのミッションを遂行するためだけの道中に、一切乱れはなかった。


 








 手には、履歴書が入ったビニール袋。

 念のため、二袋買っておいた。

 これなら、多少失敗しても大丈夫だろう。

 途中、考え事をしながら歩いていた時は気が重くなっていた時もあったが、いざ買ってみると、意外に少し気持ちが軽くなる。

 かさかさと、歩くたび小さなビニール袋が、足にあたって擦れる音が聞こえてくると。

 ああ、ここに確かにあるんだ、って。

 これからこの家を出られる為の手段が、確かにこの手の中にあって。

 何も見えなかった、自分の先を指差してくれるんだって。

 そんな気持ちになれていた。

 それは沙緒の心の重たい雲をいくぶんか晴らし、体の動きを軽くさせていた。

 その分だろう。

 さっきは真っ直ぐ本屋に来ることしか考えられなかったし、帰りもそうするつもりだったのに。

 気持ちと体が軽くなったせいか、あちこち目を向けながら歩けるようになった。

 心が変わると、こんなに違うのか。

 沙緒はそんなことを思いながらも、気持ちが上がってる自分を嬉しく感じていた。

 沙緒はその気持ちの勢いのまま、証明写真のボックスを探し、写真を撮ることにした。

 もしかしたら、今なら。

 いつもよりずっと良い顔で笑えるかもしれない。

 沙緒は店内の案内図を見ながら、証明写真を取れるボックスを探して見つけると、機械に小銭を投入して席に着き、履歴書サイズの写真を八枚撮った。

 プリクラのように、出来あがると下の受け皿に写真が落ちてくる。

 沙緒は落ちてきたそれを受け取って見てみると、思っていたよりもずっと明るく、にこやかに映っている自分がそこにいて。

 沙緒は、良かった、と気持ちがもっと上がり始めていた。

 履歴書が入っている袋の中に、撮り終えた証明写真を入れると。

 上向きの気持ちのまま、また店内をいろいろと見る為に歩き始めた。

 別に物を買う気はないが、立ち並ぶ店を通りすがりに眺めつつ、自分好みの柄の雑貨や、好きな感じのスカートなどがあると、少し足を止めて、手に取って見てみる。

 可愛いな、と心で思っていると、服屋ではいかにもアパレル店員といった感じのオシャレな女性に「どうぞ中も見て行って下さーい」と笑顔で声をかけられた。

 沙緒はそういう接客が苦手だったので、中途半端な作り笑顔を向けると、その場をすぐに離れて行った。

 ゆっくり見たい時に、ああいうのはホント迷惑。

 ひとり言のように心で呟くと、沙緒はまたあちこち店の中を覗きながら歩き続け、三階から一階まで、専門店をぐるりと回って見て行った。

 久しぶりだ・・・こんなに見て回ったの。

 前は、友達とたまに来て、雑談しながら歩きまわっていたっけ。

 高校三年の最初の頃くらいまで。

 クラスメイトでグループだった女の子たちをまた思い出す。

 ・・・楽しかったな。

 思わず、素直な感想が心に漏れた。

 何もなくても楽しかった。

 ただ喋っていられるだけで、ずっとどこまでも長く一緒に居られる気がした。

 あまり他に興味が無くても、みんなとわいわい話している、その空間が居心地良かった。

 沙緒ってホントにクールだよねって言われて。

 でも、それが受け容れられてるって安心できた。

 私は私のままでいいんだと。

 ―――でも、今は。

 沙緒は何気なく、顔を少し上げた。

 目の前は、食料品が立ち並ぶスーパーの方へと道が続いている。

 今は、一人だ。

 誰も傍に居ないし。

 家も壊れてるし。

 本当にひとりぼっちだ。

 歩きながらそう思うと、急にまた心の中には重たい雲が広がってくる感触があった。

 どこまでもどこまでも、自分を持て余すだけなのか。

 時間も、状況も自分も持て余して。

 私は生きている価値があるのかな。

 どんどんとネガティブな言葉しか出てこなくなってくると、沙緒の心の空はますます黒雲に覆われていく。

 この何とも言えない感覚が沙緒は嫌いで。

 この感覚に襲われてくると、すぐに布団の中に入って、何も考えないようにして眠る事にしていた。

 布団の中に潜り込んで、体中を布団でくるむと。

 少しだけ何かに許されるような気がしていた。

 何も考えなくてすむ世界に、すぐ飛んで行きたかった。

 そんな癖がついてしまっていたが、今はそうは出来ない。

 カサっと、また、履歴書と証明写真が入ったビニール袋が足にあたって、音を立てる。

 けれど、それはもうさっきのように、心を晴らしてはくれなかった。








 沙緒は、とある児童公園の一角にある背もたれのないタイプのベンチに腰をおろしていた。

 せっかく、目的のショッピングセンターに行けて。

 気持ちも一度は晴れやかになったのに。

 すっかり、いつもの感覚に戻ってしまっていた。

 ・・・私、なんかの病気なんだろうか。

 沙緒はただ重たい心を持て余しながら、ベンチに腰をおろしていた。

 楽になりたくて、無意識に、何度も何度も溜息を長くつく。

 太陽が、真上に昇り詰めるに従って、気温はどんどんと上昇し。

 帰り道、重たい心のせいで、また歩くスピードが落ちていた沙緒は、徐々にあまりの暑さにくらくらと軽くめまいを感じ始め、道中にあった児童公園に立ち寄っていた。

 木陰にあるベンチは、陽が陰る分、少し涼しく感じられる。

 一歳から三歳くらいの子供を連れたお母さんらしき人たちが数名、あちこちの遊具で子供を遊ばせていた。

 危ないよーという若いお母さんの声が聞こえてくる。

 幼い子は一生懸命、砂場の上をよろけながら満面の笑顔で走っていく。

「ああ、もうほら!」

 お母さんの声がした時には、砂場をよろけながら走っていた女の子が転んでしまい。

 頭から砂の中に、転がっていってしまっているところだった。

「走っちゃだめでしょ。あぶないからね」

 メッとでも言うかのように、小さな女の子の顔を見ながら、体に付いた砂を払ってあげている。

 女の子は、すぐまたお母さんの手を離れて歩きだそうとし、あ、こらっとお母さんの慌てたような声がしだす。

 じっとしてないんだ。

 沙緒はその様子を見ていると、自然に顔がほころんでくるのがわかった。

 無邪気に満面の笑みでふらふらと走り回る女の子は、ピンクのスカートをひらめかせながら、小さな体で楽しそうにはしゃいでいる。

 あんな頃が、自分にもあったんだろうね。

 懐かしいような目で、沙緒はその赤ちゃんを見つめていた。

 一生懸命、目を離すまいと赤ちゃんの傍から離れず見守るお母さんの姿も、なんだか眩しく思えてしまう。

 お母さんは、いつから。

 あんなふうになってしまったんだっけ?

 沙緒は目の前の母親の姿とは程遠い、自分の母親の今の姿を脳裏に描いていた。

「・・・この辺なら、いいんじゃない」

 こそこそっとした小さな声と、ガサガサと何かが擦れる音がする。

 ぼんやりしていた沙緒の目が、一瞬見開く。

 物音が背後から聞こえだし、沙緒は一気に後ろを振り返った。

 いつのまに居たのか。

 小学生くらいの男の子たちが3人で、ゴソゴソと大きな木の陰で何かを囲んでしゃがんだ状態で話していた。

 どうも、木の後ろにある、公園を囲う柵をまたいで入って来たらしい。

 大きな木は幹がとても太い為、ちょうど、少年たちの体をニ.五人位分隠しているので、実際しゃがんで何をしているのかは見えづらかった。

「どうする?エサは?水は?」

「・・・持ってきてない」

「じゃあどうすんの」

「きっとお腹がすく前に誰か拾ってくれるよ」

 ・・・え?

 沙緒はぼそぼそと小声で話している内容に、耳をそばだててみる。

 なんだか、おかしい。

 普通に公園に遊びに来る子供たちが話す内容とは違う気がする。

 沙緒は子供たちの様子が気になり、体を思いきり後ろへと逸らせた。

 そうすると、幹で隠れていた少年の体も見えてくる。

 ただ、見事に何かを囲んで円陣を組んでいるので、一体、その真ん中に何があるのかは見えなかった。

「でも・・・来なかったら?」

「・・・でも、きっとくるよ。ほら、こんなに可愛いし」

 ミィ。

 小さな高い声が聞こえた気がする。

 沙緒は、もっと背中を後ろへと逸らした。

 腹筋がプルプルと震え、腰が痛くなってくる。

「可愛いけど・・・でも外から見えないじゃん」

「蓋開けたら?」

「逃げるじゃん。死んじゃうよ」

「でも、このまま蓋してても誰も気づかないんじゃないの」

「もっと目立つ所に置けば・・・」

 しゃがんでいた足が辛くなったんだろう。

 ひとりの少年が、体を左右に動かしながら、足を何度か後ろへ下げたり前へ出したりして体勢を整えていた。

 ・・・あっ。ダンボールだ。

 沙緒は、少年の体が動いた隙間から見えた物が、ダンボールだと気付いた。

 そろそろ、体全体がプルプルするのが止まず、沙緒も一度体を起こし、痛みが走る腹筋をそっと撫でた。

「とりあえず、ご飯だけでも持ってこようよ」

「そうだよ。ダンボールの中に入れておけばさ」

「でも、ママが居なくなったらから、エサを入れたって無駄じゃんか」

 ・・・どういうこと?

 沙緒は背もたれのないベンチで良かったと、その時しみじみと思った。

 なにも体を反らせなくても、向きを変えればいいんだ、バカみたい。

 自分の気づかなさを恥じつつ、沙緒は体を少年たちの方へ向けるため、一度ベンチを座っている状態で大きくまたぎ、今までとは反対側を向いて座りなおした。

 ママって、何。自分のママのこと?居ないからエサをくれないって事?

 沙緒は前傾姿勢になり、しゃがんで話し続ける少年たちに耳を傾ける。

「・・・また戻ってくるかもよ、あそこに居たら」

「でも昨日から来ないじゃん。きっと誰かに拾われたんだよ」

「それか保健所だよ・・・」

 最後の声は、震えるように小さくて。

 みんなその声に、一斉にしゅんとうなだれたのがわかった。

 あのダンボールには、生き物がいるのは間違いないようだった。

 どうしようかと考えたが、沙緒はとりあえずベンチから立ち上がった。

 まだ、円陣を組んでいる少年たちに、少しずつ近づいていく。

 気づかれないよう、物音を立てないよう、砂地ではなく、なるべく芝生の上ばかり歩いて足音を消していった。

 少年たちは、ずっとぼそぼそと話し続けている。

「また、持って行ったら・・・?」

「ダメだよ・・・今度見つかったら怒られるなんてもんじゃないよ」

「でも、警備員が居ない所に置けばいいじゃん」

「そこは人が通らないよ」

 三人の中、眼鏡をかけてる子が、冷静な言葉を放つ。

 この子は頭が良さそうだ。

 体の大きさから見ると、どうも小学校低学年くらいの男の子たちのように見えるが、この男の子は話す言葉が適切だった。

「そうだよね・・・」

 自然に役割分担が決まっているんだろう。

 この子の言う事には、他の二人も従うような雰囲気があった。

「ママのおっぱいを飲めないとなると、もうダメなのかもね・・・」

 かしこそうな男の子が呟く。

 他二人の男の子は顔を上げて、その子を見た。

 えっ?とでも言いたげな顔だ。

「ママが帰ってこないんじゃ、どうにもならないよ、きっと」

 落ち着いた言葉が、二人の顔を悲しい顔に変化させた。

「どっちにしても、死んじゃうってこと・・・?」

「かもしれない」

 幼い顔をした小柄な子は、きっと優しいのかもしれない。

 かしこそうな子に、悲しい顔で本当かどうか確かめるように尋ねるが、かしこそうな子はあっさりと答えていた。

 現実を思うと、それしかないと思ってるのかもしれない。

「じゃあ・・・置いても置いていかなくても同じだ」

 もう一人、ちょっとやんちゃそうな子が提言する。

「そう・・・だね」

 かしこそうな子は、少しためらいながらも同意する。

 悲しげな顔で優しい子は何も言わず、ただ二人を見つめていた。

 どうにもならない現状を憂いているようだった。

「じゃあ・・・」

 やんちゃそうな子は、眉を吊り上げ、決意を固めたような顔をした。

 かしこそうな子を見、また、優しそうな子を見。

 自分の意見へ沿うことを促すような強い目で、それぞれに、うん、と頷いていく。

「このまま、行こう」

 その言葉に、優しい顔をした子はくしゃっと顔を歪ませ、泣きそうな顔になった。

 かしこそうな子は思案するかのように押し黙っていたが、それほど間を空けず、こくりとやんちゃな子に頷いてみせた。

 二人はすっと立ち上がったが、優しい子はためらう気持ちがあるのか、二人が立ってもまだしゃがんでいた。

 でも、二人の顔を下から交互に見上げた後、思い切ったように立ち上がった。

 三人は顔を見合わせ、地面に置いてあるダンボールを眺める。

 蓋は閉まったままの箱をじっと眺めると、また顔を見合わせ、その箱から離れようと体の向きを変え、歩きだした。

「待って」

 沙緒は思わず、立ち去ろうとする子供たちに声をかけた。

 ギクッとでもしたように、三人は体を固くして、沙緒を振り返る。

 今まで割と近くに居たのに、まったく気づいてなかったせいだろう。

 顔は三人とも驚いたまま、こわばっていた。

「この箱、何?」

 沙緒は、少年たちの後ろに置かれたままの、小さめのダンボールを指差す。

 少年たちは、困ったように顔を沙緒に向けた。

 優しい子は、怒られてると思ったんだろう。

 しゅんとすでにうなだれていて、俯いた顔は泣きそうにも見えた。

 他の三人はどうする?とでも言いたげな顔で見つめ合っている。

「僕たち、小学生?」

「そうです・・・」

 かしこそうな子が答える。

 意志の強そうなやんちゃな子が、刃向かうような光を湛えた目で沙緒を見上げる。

 かしこそうな子の隣で、詰問してくる沙緒に対し、負けないと言うかのように見つめていたが、沙緒はその生意気な態度にじろっと睨むように彼を見下ろしてやると、急に表情を変え、うろうろと視線を彷徨わせた。

 大人をバカにするんじゃない。

 沙緒は今までしたこともないのに大人ぶった態度で、やんちゃな子の逆らうような瞳を心の中で制した。

「何年生なの」

「三年です」

「そう。じゃあ、この箱の中身は何?」

 沙緒は腕組みをして、三人を立ったまま見下ろし続ける。

 わざと威厳を感じさせるような態度に打って出た。

 大人は怖いんだよと、言うかのように。

 その姿に、三人はただ黙るしかなかった。

「誰も言えないの?この箱の中身」

 詰問を続ける沙緒に対し、三人は俯いて何も言わない。

 腕組みしたまま、三人をかわりばんこに眺めて行く。

 すると、泣きそうな顔をしていた男の子が、顔を上げた。

「・・・猫です」

 震えるような小さな声で言ってくる。

 沙緒はその子の態度に、さすがにちょっと脅かし過ぎたかなと思ってしまった。

「猫?」

 反省して、その子には態度を緩和させ、優しげに尋ねてみる。

 優しい子は目を潤ませたまま、震えるようにまた答えてきた。

「はい・・・子猫です・・・四匹います」

 何正直に言ってんだと、責めるように素直に話した男の子を軽く睨む二人に対し、また沙緒はギロッと厳しい目を向けた。

 優しい子はそれを見てぎゅっと目を閉じて体を小さくし、二人も慌てて下を向いた。

「そう。子猫なんだ・・・」

 沙緒はゆっくりと確かめるように言う。

 でも、内心、沙緒も困りだしていた。

 どうしよう。

 子猫、四匹だって。

 この猫の事、もし万が一このまま相談されても、私、何も出来ないし、言えないじゃんか。

 怪しい少年たちの態度に、つい大きく打って出てしまったけれど、この現実をうまく収拾できるかどうか自信がなかった。

 沙緒は内心動揺していたものの、今のこの状況では引く事が出来ない為、とりあえず腕組の状態で三人を見下ろし続けた。

「で、その猫はどうする気」

 沙緒は少し咎めるような目で、少年たちを見た。

 少年たちは顔を上げ、三人で困ったような顔を見合わせ続ける。

「どうする気って聞いてんの」

 沙緒は声を尖らせて尋ねた。

 優しい子は声の鋭さにビクッと首をすくませ、一、二歩、足を後ろへと下げて行く。

「だって・・・誰も拾ってくれないし、このままだとパパとママに保健所に持っていくって言われたから」

「そうだよ・・・だったらここの方がまだ誰か拾ってくれるかもしれないから」

「そうだよ」

 他の二人も優しい子の言い訳に勇気が湧いたのか。

 同調しながら声を出しつつ、沙緒を仕方ないんです、とでも言いたげに見つめている。

 六つの瞳に見つめられながら、沙緒は少年たちを説得する事に決め、三人に諭し始める。

「だからって、こんなとこに置いて、この猫たちが助かると思ってるの?誰かが拾うって約束があるわけでもないのに」

「だけどどうにもできないんだもん」

 やんちゃな子の言い訳が飛んでくる。

「じゃあ、誰に約束してもらえばいいんですか?」

 かしこそうな子が、沙緒に明確な回答を求めるような目と声で尋ねてきた。

さすがに沙緒は言葉に詰まった。

 沙緒だって、考えたって、良い案が浮かぶわけではない。

 だけど、こんなところに子猫の入ったダンボールを置いておくわけにはいかないだろう。

 それだけはわかっていたが、どうしたら良いのか。

 沙緒が黙って考え出すと、少年たちは、また顔を見合わせだした。

 何か、こしょこしょと小さな声で話している。

「・・・ちょっと、何を話しているの」

 少年たちはビクッと体をすくめたが、すぐさま、うんと大きく頷き合った。

「あっ!」

 かしこそうな子が、いきなり大きな声を出し、ダンボールを指差す。

 沙緒が思わず下を見てしまい、置かれたダンボールを見てしまった時。

「あっ!ちょ、っと、待ちなさい!」

 少年たちは一気に走り出すと、そのまま公園から転がるような勢いで出て行ってしまった。

 慌てて沙緒は追いかけたが、少年たちは猛スピードで一目散に走り続け。

 そのスピードは沙緒が思っているよりもずっと早く、五十メートルくらいずっと追いかけたが追いつけず、沙緒の姿から二十メートル程先を走っている少年たちは、ある小路から曲がっていってしまった。

 沙緒はそこまで来ると、諦めて足を止めた。

 息が、はぁ、はぁ、と上がりだす。

 この年で、これしか走ってないのに、この感じって。

 沙緒は、自分がどれだけ運動不足なのかを、こんな時に痛感していた。

 どうしよう。

 肩で息をしながら、沙緒は何度も何度もどうしようと心で呟いた。

 あの子猫たち、どうしたらいいの。

 沙緒は、来た道を戻れば待っている子猫の事を思うと、とたんに憂鬱に襲われていた。









 公園に戻ると。

 砂だらけの地面には、忘れられたもののようにダンボールが置かれていた。

 沙緒はそのダンボールを目で捉えながら、静かに近づいていく。

 ・・・どうして・・・こんなことになっちゃったかな。

 はぁ、と、沙緒は息を吐きだした。

「履歴書を買いに行っただけなんだってば」

 誰に聞こえるわけでもない愚痴を、小さく呟く。

 徐々に段ボールとの距離が縮まっていくと、沙緒の憂鬱はどんどん増していってしまった。

 ダンボールの目の前まで歩き、足をきゅっと止める。

 小さく、砂埃がダンボールの周りに舞っていった。

 どうすりゃいいのよ、これって・・・。

 沙緒は、ダンボールの前でしゃがみこむ。

 軽くしまっているだけの蓋を、両手でそっと開いてみる。

「ミィ」

 小さな声が中から聞こえ出した。

 ・・・あ。

 本当に小さな子猫だ。

 四匹、確かに入っている。

 白、黒、白黒、三毛猫の四匹。

 みんな体を寄せ合うように、ダンボールの角に一か所に固まっているのが見えた。

 少し薄汚れた感じの、薄いピンクのバスタオルが箱の床に敷かれている。

 その上で、そっと小さな体を寄せ合う姿は、とてもいじらしく目に映った。

 急に開いて明るくなった世界に向けて、子猫は、ミィ、ミィと小さな高い声で顔を上げて鳴き続ける。

 お腹が空いているのかもしれない。

 猫を飼った事は今までまったくなかったが、なんとなく直感でそう思っていた。

 沙緒に向かってよく鳴いている子は、白黒の柄の子だった。

 黒猫はじっと体を丸めてうずくまっていて、眠っているのか動かない。

 白猫もその黒猫に寄り添うようにして、じっと丸まっている。

 三毛猫は白黒の子と一緒にミィ、ミィと声を上げるものの、白黒の子よりも頻度が少なく、声もか細かった。

 大丈夫なのだろうか。

 沙緒は子猫を見つめているうち、この子たちの容体が気がかりになっていた。

 『ママが帰ってこないから、おっぱいが飲めない』

 少年たちが話していた言葉を思い出す。

 まだ、この子たちは乳飲み子なのか。

 触れていないのではっきりしないが、たぶん、沙緒の片手の手のひらに収まるかどうかくらいの大きさだった。

 どれくらいになると子猫はおっぱいを飲まなくていいのか、沙緒にはまったく見当もつかないし、この子猫たちが何ヵ月なのかもわからない。

 スマホで調べたって、この子たちが何カ月かわからなければ、対処のしようがないだろう。

 だけど。

 だからって。

「諦めるには早いでしょう・・・?」

 ぽつりと、声に出して呟く。

 沙緒の目の前では、ミィ、ミィと。

 小さなか細い声をあげながら、二匹の子猫は一生懸命に沙緒を見つめてくる。

 小さな体で、一生懸命に訴えているように見えた。

 助けて。

 ちゃんと生きたい。

もっと生きたい、と。

一生懸命に鳴いている姿をじっと見ていたら、まるでそう訴えてきているように、沙緒には思えていた。

 ―――なんとかしてあげたい。

 助けてあげたい、なんとか。

 そのいたいけな姿を見つめながら、沙緒は徐々に気持ちを強く固めて行った。









 なぜだろう。

 朝、ショッピングセンターに向かっていた時よりも。

 その帰り道、通りすがりの児童公園に立ち寄った時よりも。

 沙緒の気持ちは一番軽かった。

 目の前に抱えているのは、朝には無かったダンボール。

 左手首には買った履歴書が入ったビニール袋がぶら下がっていた。

 ミィ、ミィ、と、相変わらず箱の中からは小さな声がする。

 沙緒はなるべく揺らすことのないよう、慎重に運び続けた。

 どうしてよいかわからなかったが、まず、家に帰るしかない。

 思いもしなかった荷物が増えているのにもかかわらず、沙緒は今は負担と思ってはいない。

 自分はこの子たちに何をしたらよいのかを、ひたすら考え続けていた。

 家に戻って、いろいろと調べて。

 どうするか考えなくては。

 沙緒は一度、目の前の信号で足を止めた。

 大通りに面しているこの信号は、車の往来が日夜問わず多い場所だ。

 沙緒は無意識に箱をさっきよりも強く抱きしめていた。

 この信号を越えて、狭い小路に入って行けば、沙緒の家が見えてくる。

 信号を渡ってしまえば、あと数分だ。

 まず、箱の中のタオルを、もっと良いものに変えてあげたい。

 きれいなものに変えてあげて、まずはお水をあげてみようかな。

 でも、乳飲み子って水なんて飲まないのかな。

 出産経験もなければ、ペットを飼った事もない。

 何もかもが、知らない事だらけだ。

 左右を行き交う車が止まり、信号が青に変わる。

 沙緒は慎重に、また一歩一歩と踏み出していった。

 信号を渡り、いつもの小路に入る。

 そのまま一軒家が軒並ぶ狭い道を、黙々と歩き続ける。

 そうこうしていると、すぐに、白い家が見えてきた。

 ずっと見なれた、両親が大好きな『普通』の一軒家だ。

「もう少しだからね・・・」

 沙緒は小さく、箱の中に語りかけた。

 脅かさないように、そっと、優しく。

 そうして、家の門の前まで来たところで。

 たまたま玄関から出てきた母親と、バッタリかち合ってしまった。

「おかえり」

 母親は、短くそう言って小さく微笑むと、そのまま玄関前の三段の石段を軽快に降りてくる。

 どこかに遊びに行くんだろう。

 ベージュのコートに花柄のスカーフを巻き、下は同じく花柄の膝下丈のスカートをはいていた。

 沙緒は母親の出で立ちで、また街の教室まで行って来るんだなと思っていた。

 今日はそんな日だったっけ。

 沙緒の母親は、週に四回、習い事をしている。

 この回数が『普通』なのかは、わからない。

 沙緒には多いようにも思える。

 陶芸、手芸、書道、茶道。

 母の習い物はこの四つだ。

 どの日が、どの習い事なのかまでは把握していない。

 沙緒にはまったく、興味がなかったからだ。

「・・・なんなの、それ?」

 珍しく、母親が沙緒に興味を示した。

 沙緒が大事そうに抱えているダンボールを見ながら、沙緒に近づいてくる。

 ふわりと、使っている化粧品の濃い匂いがして、沙緒は一瞬胸が悪くなった。

「別に・・・大したものじゃ」

 本当の事を言っていいのか分からず、沙緒はとぼけた。

「何よ、なんで言わないの?」

 母親も、こんな時に限って絡んでくる。

 いつもなら「へー」で流されるくらいの事だったのに。

 沙緒は返答に困った。

「もらってきたもんだから、気にしないで。部屋に置くの」

「そうなの」

 合点がいかない顔をしていたが、沙緒が別に怪しい事は何もない、というような顔をしていたので、母親は引くしかないと思ったんだろう。

「わかったわ。じゃあ、ママ行くからね」

 母親はにっこりと微笑むと、楽しげに沙緒の横を通り過ぎた。

 沙緒がホッと胸を撫で下ろした、その時だった。

「ミィ」

 今まで、小さな声でしか鳴かなかったのに。

 なぜかこの時だけは、今までより大きな声で鳴いてきた。

 人の声に反応したのかもしれない。

 ・・・バカッ、なんで鳴いたの!

 沙緒は、ダンボールの蓋に向けて、心の中で軽く咎める。

 沙緒の横を通り過ぎていた母親は、足をぴたりと止めてしまった。

 ―――マズイ。

 一気に感じた不吉な予感は、やはり想像通りになった。

 母親は踵を返し、沙緒の前へと体を戻してくると、沙緒をきつく睨んだ。

「これ、何」

「何って別に」

「ちゃんと言いなさい。これは何!」

 珍しく声を張り上げた母親に、沙緒は一瞬体がすくんだ。

「沙緒、ちゃんと答えなさい!」

 まるで小学生でも叱るかのような物言いに、沙緒はカッと苛立ちを覚えた。

「なんでそんな言い方されなきゃならないのよ」

「口答えするんじゃない。何かって聞いてる事に答えなさい!」

「答える義務なんてない!」

「沙緒!」

 母親は、無視して家の中に入ろうとした沙緒の腕を掴み、沙緒の体を引き戻す。

「その箱、生き物じゃないでしょうね!」

 沙緒は図星を突かれ、思わず顔をしかめてしまった。

 母親の鋭い声は、近所にも響くような声だ。

 視界の端に、隣の家のリビングのカーテンが揺れたのが見える。

 誰かがこっちを見ていそうな雰囲気があった。

「別にそんなんどうだって」

「猫なの、犬なの、それとも小動物」

 沙緒の口答えには聞く耳を持たず、母親は淡々と詰問してくる。

 沙緒は逆らい続ける気だったが、母親の見た事もないようなその剣幕に押され、少し逡巡したのち、答えた。

「・・・猫だよ。だからってなんなのよ」

 沙緒の言葉に、母親は目を見開くと、沙緒を思いきり厳しく睨みつける。

 それはまるで、罪人を断罪するかのような表情だった。

「今すぐ捨ててきて。動物は大っ嫌い!家にいれるのは許しません」

「なんでよ!」

 沙緒は驚き、思わず母親と同じように大きな声を出して母親に刃向かった。

「なんで?良く言うわね。猫なんて家中の物を荒らしまくるのよ。壁だった家具だって引っ掻いて傷つけてボロボロにするの。それに猫は不吉な生き物なのよ!」

 母親は一気にまくし立てる。

 沙緒に反論の隙を与えさせないかのように。

「お母さん」

 沙緒はあまりの母親の剣幕に、少し下手に出始めた。

「聞いて、お願い。この子たち、このままだと弱ってしまうのが目に見えてて。公園で拾ったんだけど、うちで飼いたいなんて言ってない。ただ、一時だけ面倒を見て、その後は誰かに渡すから、今だけ」

「許しません」

 母親の態度は変わらない。

 切り口上で沙緒の言葉をはねつけた。

「お母さん」

 沙緒は懇願するかのような態度に打って出たが、母親は沙緒が抱えているダンボールを乱暴に上からバンバンと叩いた。

「ちょ・・・っと、やめてよ!」

 沙緒は慌ててダンボールをしっかりと抱え込みながら、体を後ろへと引く。

「今すぐ捨ててきて。じゃなきゃ家に入らないで」

「おかあさ」

「どうしてもその猫を家に居れると言うならば、沙緒も家から出て行って」

 沙緒は。

 一瞬、何を言われているのか、わからなかった。

 ―――どういうこと?

 沙緒は母親の言葉を理解できず、受け止める事も出来ずに居た。

 何も言えず、固まっていると。

 母親は顎を上げて、沙緒に対し判決を下すかのように言い放った。

「その猫を家に入れたいと言うなら、沙緒も出て行ってと言ってるのよ」

 ・・・お母さん。

 沙緒は、再度言われたその言葉に。

 心の芯が震えるような気がしていた。

 出て行け。

 こんな言葉を聞くと思わなかった。

 そして沙緒は初めて知った。

 この言葉が、どれだけ人を凍りつかせるのか。

 あまりの衝撃に何も言えないでいると、母親は沙緒を厳しく見つめて指差し「わかったわね」と冷たく言い放つと、沙緒に背を向けて門を出て行った。

 視界の端に映る、隣の家のカーテンから伺っている人が。

 そっと室内へ姿を消していく。

 取り残されたような気持ちに駆られ、沙緒はしばらくその場から動けなかった。

 









 さっき歩いていた道を、戻ってゆく。

 ダンボールを抱え込んでいたが、その手の力は少し心もとなかった。

 どこか、ぼんやりとした意識のまま歩き続ける。

 暑いからではない。

 心の中に、今まで感じていなかった塊が広がっていた。

 親から受けたものはいろいろとあったし、それに対していろんな感情が湧いては来たが、今までこの塊に触れたことはなかった気がする。

 何とも言えない、悲しさ。

 何とも言えない、辛さ。

 見捨てられたような気持ち、孤独感。

 あの後、母親が。

 出向いた手習い先で、誰か彼かとケラケラと笑っているところを想像すると。

 余計に沙緒の胸の中の塊は、無性に大きくなるような気がした。

 私って。

 一体何なんだろう。

 胸の中の得体の知れない塊が、大きくなればなるほど。

 瞳の奥からは、何かが溢れてきそうになっていた。

 気が緩めば、それは、ぽろりと水滴になって零れ落ちてしまいそうで。

 沙緒は必死に、奥歯をギリリと噛みしめて耐えた。

 そうなってしまえば、何もかもに負けてしまいそうな気がした。

 自分の孤独さにも。

 こんな親の元に生まれてしまった不幸さにも。

 あの母親の冷たい態度にも。

 何もかもに負けてしまいそうだった。

 帰れない。

 沙緒の心が呟く。

 もう、帰れない。

 いや、そうじゃない。

 沙緒の心は、急に否定を始める。

 そうじゃない。

 そうじゃないんだ。

 沙緒は繰り返し、心で呟く。

 帰りたくない。

 帰れなくていい。

 それでもいい。

 沙緒の心の呟きは、徐々に強さと力を持ち始め。

 思考が、それでいいんだ、と思えるように変わっていった。

 これはある意味、いい機会なのかもしれない。

 あの親たちと決別できるチャンスなのかもしれない、と。

 得体の知れない大きな塊に覆われていた沙緒の心は、痛みをまだ感じつつも、違う方向を見始めていた。

 こうやって、親の姿と向き合って。

 その姿に落胆して。

 その上、出て行けと言われた。

 沙緒は、さっきの母親の姿を思い返す。

 あの、なんともいえない嫌な顔を、雰囲気を。

 これはきっと、良い機会なんだ。

 この家から出られる、良い機会なのかもしれない。

 そう浮かんだ言葉を繰り返し繰り返し、言い聞かせるように自分に話し続けていると。

 本当に『きっとそうなんだ』と思えるようになってきた。

 これは、望んでいた、家を出る機会が巡って来ただけなのだ、と。

 短絡的な考えだったけれど、沙緒の心の傷みは幾分和らぎ、胸に広がっていた得体の知れない塊の物も小さくなっていくのを感じていた。

 そうだ。

 これは、良い機会だ。

 そう強く言い切ると、沙緒はやっと顔をちゃんと上げる事が出来た。

 これでいいんだ。

 とりあえず、これで行ってみよう。

 この子たちと、とにかく行けるとこまで行ってみよう。

 沙緒の心は、力を徐々に取り戻し始め。

 しっかりと前を見て歩きだす。

 行く当てはなかったし、この後、どうしていいかもわからない。

 そう思えば、やはり不安は湧いたが、でも、それでもいいんだと思えていた。

 かすかな声で、ダンボールの中から鳴き声が聞こえた気がする。

 沙緒は一度足を止めると、ダンボールの蓋へと耳をそっと寄せた。

 ミィ、ミィと、母親を呼ぶ声なのか、かすかな声が聞こえてくる。

 沙緒はその声を聞きながら、この子たちが頼れるのは、自分しかいないのだと気付き始めた。

 この子たちには罪はないのに。

 何も悪い事してないのに。

 なんでこんな目に遭うんだろうね。

 生まれてきただけなのに。

 喜ばれる事なのに。

 少し動いたのか、カサカサという物音が聞こえ、ミィとまた小さな声が聞こえた。

 沙緒は周りを見渡すと、一度腰を下ろせそうな場所を探した。

 が、何も見当たらず、もう少し歩けばさっきの児童公園へ辿り着けるからと、沙緒はまた歩きだす。

 途中、コンビニの前を通りかかると、沙緒は中へと入って行った。

「いらっしゃいませー」という野太い男の人の声が、店内に響く。

 たぶん、この店の経営者なのかもしれない。

 年配の男の人が、ダンボールを抱えて入って来た沙緒を、幾分警戒しながら眺めていた。

 沙緒はその視線を気にせず、店内を歩く。

 とりあえず、さっき取り替えてあげたいと思ったタオルを手に入れたかった。

 ダンボールの中に敷かれているタオルはとても薄く、本当にただ敷いているだけといった状態で。

 沙緒にはそれが不憫に思えていた。

 雑誌コーナーの前にタオルがあるのは容易に発見できたが、想像はしていたがバスタオルはなく、フェイスタオルしかない。

 しかも、高い。

 四百円台だった。

 履歴書を買う為だけに出てきたから、沙緒の財布にはお金はそれほど入っていなかった。

 部屋に戻って貯金箱を開ければ、たぶん何万かは入っているだろう。

 たぶん十万くらいはあったはずだ。

 財布の中にあるキャッシュカードでATMに行ったとしても、あまりATMに入金しないタイプの沙緒は、常にお小遣いはお札も含めて貯金箱に入れて貯めていたので、そこには数千円位しかないように思う。

貯金箱に入ってる分と、ATMの分で、一体どれだけの日数、持つんだろう。

 沙緒はタオルの値段だけ確かめ、また、コンビニを後にした。

「ありがとうございましたー」という、気持ちのまったく入らない野太い声が聞こえてくる。

 まるで買わないなら来るな、とでも言われてる気がした。

 とりあえず、タオルは買いたい。

 沙緒はひとまず、それだけでも何とかしてあげたかった。

 考えながら炎天下の道を歩き続け、そうだ、と思い当る場所があった。

 百円均一の店に行って、とりあえず必要そうなものを揃えて来よう。

 とりあえず、何がいるのかも調べなくては。

 沙緒はまず、児童公園へと歩を進め、そこで今後の生活についてと、子猫たちをどう育てていくかの作戦を練る事にした。









 必要なもの。

 沙緒は、スマホのアプリのメモに、どんどんと調べたものを入力していく。

 タオル、バスタオル、子猫用のミルク、離乳食にする為の猫缶かドライフード。

 ダンボール・・・これでもいいのかな。

 沙緒は、ベンチの隣に置いてあるダンボールの蓋を、もう一度開いてみる。

 光が差してきた事で、中に居る白黒の子がまた、ミィミィと沙緒の顔を見ながら鳴き始めた。

 沙緒はその一生懸命に鳴く姿が愛らしくなり、そっと、その子を手に取ってみる。

 わ・・・。

 ふにゃと、思っていた以上に柔らかな体と毛並みに、沙緒は驚きながらもそっと両手で抱え込むようにして子猫を包んだ。

 子猫は沙緒の手の中で身じろぎしながら、ミィミィと小さい声で鳴いている。

 ・・・可愛い。

 素直な気持ちが心に広がると、自然に顔がほころんでいた。

 ふと、ダンボールの中の他の子猫たちに目をやると、さっきも白黒の子と一緒に鳴いていた三毛柄の子も、よたよたと歩きながら、沙緒の方へと動いてくる。

 白い子と黒い子は、顔だけを沙緒に向けていた。

 どうやら目を覚ましたらしい。

 沙緒はその姿を確認して、ホッとしていた。

 良かった・・・眠っていただけだったんだ。

 ただ、やはり顔だけは上げるものの、鳴いたりはしない。

 見ようによっては、やはり元気が無いように見える。

 沙緒はそっと、白黒の子を片手で落とさないように胸に当てて抱きながら、箱の中でこちらに向かって鳴き続ける三毛柄の子の体に、そっと指を近づけていった。

「ミィ」

 三毛の子に指が触れると、子猫がまた一つ鳴く。

 沙緒の指が柔らかい体をそっと撫でるたびに、沙緒の心の中は何とも言えない甘ったるい感覚が漂っていた。

 可愛くてしょうがなくなってくると、沙緒は一度、白黒の子をダンボールのタオルの上に戻し、今度は三毛柄の子を両手で掬うように抱え込む。

 ミィ、ミィと小さなピンクの唇が、一生懸命にさっきよりも声を出して鳴き続ける。

 生きてるよ、生きてるよ、と。

 沙緒には、その子が一生懸命生きている事を、沙緒に伝えているように思えた。

 生きたいよ、生きたいよ、と。

 沙緒はその鳴いている子猫の額から、耳から、顎へと、顔の輪郭に沿って、そっと指を走らせると、一度、鳴いている子猫の額に唇を寄せた。

 ふわりと、柔らかな毛並みと暖かな感触が、唇の上に広がる。

 沙緒は目を閉じ、その感触をしっかりと確かめると、またバスタオルの上に三毛柄の子を戻した。

 そして、そっと互いの体に顔を埋めるようにしている、白色と黒色の二匹の子の体も、指でそっと撫でていった。

 その子たちは、やはり、触れても特に動くことなく。

 どれだけ指を体の上で往復させても、じっと体を寄せ合ったまま、目を閉じていた。

 沙緒の心に不安がよぎる。

 さっき、調べた子猫の育て方のサイトでは、すぐに病院に連れて行くようにと書いていた。

 だけど、沙緒にはお金が無い。

 動物病院はとても高いと書かれていたが、頭数だって四匹も居たら、一体いくらかかるのか。

 沙緒はそれが怖くて、どうしても躊躇してしまい、病院へと向かうことが出来ずにいた。

 なんとか。病院に行かないでも何とかなるかもしれない。

 沙緒はそう自分に言い聞かせ、スマホにメモをした必要なもの一覧を再度目で確かめると、百円均一の店へ向かうことにした。

 百円均一の店に、子猫を育てられるような猫缶や子猫用のミルクがあるようには思えなかったので、一応探しては見るが、その後でホームセンターへ寄ってみる事に決めていた。

 ただ、この子たちを連れて歩くわけにはいかない。

 沙緒は、一度、この子猫たちをどこか置いておける場所を探して。

 その後で必要なものを取り揃え、またその場所へ戻ってくるという作戦を立てていた。

 ただ、なかなかこのダンボールを置いておける場所を思いつけない。

 どこかの建物の影に置いたって、所有者に気づかれたら保健所行きになるだろうし、公園に置いておいたら、結局、少年たちと同じになってしまう。

 拾われる前に、不審物と思われて通報されるか、やはり保健所行きだろう。

 沙緒は、さっきネットで子猫の育て方を調べているうちに、保健所行きになった動物は一定の期間を経てしまうと殺処分されてしまう事を知ってしまっていた。

 とてもじゃないが、保健所に連れていかれるわけにはいかない。

 どんなことがあろうとも、この子たちを守り抜こう。

 沙緒はその記事を目にした後、強く心で決断をし。

 悲しい結果には絶対にしないよう、今出来る事を必死に考えた。

 まず、この子たちをどこに置いて育てていくかをずっと考えて、考えて。

 やっと“あそこなら”と思える場所を、記憶を必死にたどりながら見つける事が出来ていた。

 ただ、そこも行ってみないと、何とも言えない。

 なにぶん、数ヵ月前の記憶だ。

 今、どうなっているのか、わからなかった。

 沙緒は、通学途中にあった、とある敷地の一角を思い出していた。

 あそこなら、いけるかもしれない。

 思いだせる限り、思いつく限りの場所を想像してみたが、どうしてもそこくらいしか育てられそうな場所として思いつくところはなく。

 まずはそこに行ってみて、ダメならまた考えよう、と思っていた。

「必ず助けるからね」

 沙緒は、隣のダンボールに声をかける。

 まだ蓋を閉めてないダンボールからは、白黒の子と三毛柄の子が、一生懸命、ミィミィと鳴きながら沙緒を見上げていた。

「必ずみんなで住める場所、探すからね」

 沙緒はそう言うと、優しく微笑みながら、静かに蓋を閉めた。










 沙緒は、ふと、通りにある建物に目をやった。

 ここは、つい数ヵ月前まで、小さな自動車整備工場だった。

 高校時代、沙緒は、五駅離れた場所にある高校へ通っていたが、最寄駅に向かう途中、必ずこの前を通らなくてはならず。

 沙緒が通り抜ける時にはいつも、金属が金属を削るような音や、その匂いが風に乗って漂ってくる事があった。

 作業服で自動車の下に入っていて、工具を持って車体の裏側の一部をいじっている人や、何かの金属を機械を使って削っている人の背中をなんとなく眺めながら、通り抜けていた場所だった。

 なんとなく風の噂に聞いたところ、社長が高齢で後継ぎが居ない為、ここは畳んでしまったらしいとの事だった。

 母親が近所の人と外で話している声が、部屋の中に居て窓を開けている状態の時に聞こえてきていて。

 へぇ・・・あそこもう畳んじゃったんだ。

 そんな事を思っていた場所だった。

 そこは思っていた通り、人は誰もいず、ロープだけが敷地の入口にグルリと張り巡らされている。

 二百坪くらいの広さはあるだろう。

 敷地内は閑散として、ずっと使われていないだろう建物はなんだか風化しているように見えて、傍目からは寂し気に映った。

 沙緒は、きょろきょろと二、三度首を回して周りを見、誰もいないのを改めて確認すると、ダンボールを両手に抱えたまま、ロープを上手くまたいで敷地の中へと入って行った。

 もうここくらいしか、誰も来なそうで建物があるという場所はない。

 何も収穫なく、戻るのは避けたかった。

 何か良い場所はないか。

 敷地内にある、車を整備する工場だった場所にはシャッターが下ろされていて、一応試しに持ち上げてみても上がる事はなく。

 どうやらしっかりと鍵がかけられているようだった。

 工場から十メートルほど隣にある、コンクリートで出来た二階建ての建物にも近寄って行き、沙緒は建物を周りを回って玄関を見つけると、試しにドアノブを回してみた。

 案の定、ドアノブには鍵がかかっていて、ノブは回る事はなく、扉を開くことは出来なかった。

 そうだろうね、開く訳がない。

 沙緒は思っていた通りだと思いつつも、そのままぶらぶらと敷地内を歩いていた。

 ダメなのかな、やっぱり。

 閉鎖した場所ならば、ほぼ誰も来ることはないし、どこか使える場所があるんじゃないかと思ったが、良く考えてみたら、そんな場所があったら、泥棒だって入ってくるだろうし、同じような事を考えたホームレスが住み着くかもしれない。

 安易な考えだったかなと、落胆を感じながら、そのまま奥にある駐車場のような場所や、使わないから置かれているとしか思えない、ガラクタのような廃材の中をくぐり抜けるように歩き回っていると。

 ふと、視界の端に、あちこち塗装が禿げている、見た目壊れかけているような物置が映った。

 沙緒は、工場の裏手にぽつんと佇んでいる、その物置の傍まで近寄っていってみた。

 これもかなり、年期が入っている。

 物置きは金属製で、ところどころが錆びて禿げている場所があり、二枚扉で中央に取っ手があり、一枚ずつ左右に引けるようになっている造りになっていた。

 見た目、かなり年期が入っているように見える。

 扉の表面も、左側は車か何かがぶつかったのか、真ん中あたりが凹んでしまっていて、見るからに手で引くとガタガタと言いそうな扉だった。

 見た感じ、右側の取っ手の下にカギ穴らしきものはあるが、扉と扉が合う場所に隙間が少し空いているところを見ると、カギはかかっていないようにも見えた。

 ・・・開くか?

 沙緒は一度、地面に子猫が入ったダンボールを置くと、ドキドキしながらまずは凹んでいない右側の扉の取っ手に、右手をかける。

 一瞬、これからやることが、人の敷地の物に勝手に触れてしまっている事だ、という罪悪感がよぎる。

 でも、この子たちの為には、仕方ない。

 少なくとも、屋根や壁がある所じゃないと、この子たちは暮らせないだろう。

 ちらりと、下にあるダンボールを見つめると、迷いは霧散していった。

 沙緒は、これしかないと決意を固めると、そのまま取っ手をつかんだ右手に力を入れ、思い切って、開くであろう右方向へと引いてみた。

 扉はガタッと大きく音を立てた後、キィキィと甲高いを響かせながら、少しずつ引かれた方向へと開いて行く。

 開いた・・・!

 沙緒の気持ちが一気に高揚する。

「お願い・・・もっと開いて・・・!」

 沙緒は心からの願いを強く口に出しながら、なかなか開けづらい扉の取っ手を今度は両手でしっかりと掴み、もっともっと力を込めて思いきり体重をかけつつ、先ほどと同じく右の方向へと引いていく。

 扉は沙緒の力に促されるままに、キィキィ、ガタガタと立てつけの悪い音を出しながらも、一番右側の端まで開いて行った。

 良かった・・・!

 嬉しくて安堵しながら、今度は反対側の扉を開けようと、やはり取っ手に両手をかける。

 「んっ!」と声に出しながら、今度は左側に引いたが、扉は引かれる方向に斜めに傾くだけで、開かれようとはしなかった。

 え・・・なんで。

 沙緒は焦りながらも、力の入れ具合が悪かったのかと、再度力を込め直し、力が入りやすくなるよう腰を少し落として地面と平行になるような姿勢で、もう一度扉を左側へと引いてみた。

 結果、さっきより大きく上部が斜めに傾いただけで、扉は開かれることは無かった。

 こっちだけ鍵がかかっているということ・・・?

 沙緒は引くのをやめると、さっき開いた扉を見に行ってみた。

 特に片方ずつ、何かで鍵がかかるような感じにはなっていないように見える。

 本来なら、中央で扉を合わせて鍵をかけるタイプなのだろうが、左側の扉が凹んでるせいか、きちんと扉同士が合わない作りになってしまっているように見受けられた。

 というのも、右側の開ききった場所から左側のドアを見ると、やはり前傾姿勢のように少し傾いでしまっているので、たぶんそれで鍵を両の扉を閉じた状態でかけるのを諦めてしまったのだろう。

 それでも、右側だけ開けば、中には入れる。

 沙緒は開いた右側から、体を物置の中に入れてみた。

 そこは、畳四畳ほどあるくらいの大きさで、中も広かった。

 あちこち、床や壁になっている金属の部分の所々が茶色く錆びているのは、薄暗い中でも確認が出来る。

 物は何も置かれてなく、だから鍵がかからなくてもいいと判断したんだろう。

 そうでなかったら、何かを盗まれてしまうかもしれない。

 沙緒は物置の中を、一度ぐるりと回って歩くと、意思を固めた。

 子猫をここに連れて来ようと。

 ここならなんとか、外にさらされているよりは雨風も多少防げそうだし、必要なものも置けそうだ。

 物置の奥の方にダンボールを置けば、寒さも軽減できるかもしれない。

 夜は真夏とはいえ多少は冷えるだろうから、バスタオル以外の対策も何か必要だろうと思っていた。

 沙緒はその場で考えた末、バスタオルに挟むようにして使えば暖かくなるだろうと、カイロを買ってこようと決めた。

 そして、一度物置から外に出て、地面に置いてあったダンボールを持ち、物置の中へと運ぶ。

 ライトもいるな・・・っていうか、私もここで数日は過ごさないとダメだろう。

 自分は一体どうしたらいいんだろうと、我に返ったように思ったが、とりあえず子猫の事を何とかしてから考える事にした。

 その方が下手に悩んだりして苦しまず、楽な感じがしていた。

 目先のことだけ、考えよう。

 沙緒はそう思いながら、一番奥の壁の隅へ、子猫が入っているダンボールを置いた。

 ダンボールもいくつかあった方がいいかもしれない。

 以前、駅の周りで見かけたホームレスの姿を思い出す。

 確か、ダンボールって暖かいはず。

 この子猫のダンボールの下に敷くのもそうだけど、自分が寝るにも必要だろう。

 どちらにしても、一度家には戻らないとマズイかもしれない。

 必要なものだけでも、リュックとボストンバックに入るだけでいいから、持ってこよう。

 沙緒はそう決めると、早速行動に移すことにした。

 物置を出ると、しっかりと右側の扉の取っ手を両手で掴み、左側の動かない扉のある場所まで、ずっと力を込めて引いていき、空間を閉じてゆく。

 立てつけの悪い音が響き渡ると、若干、血の気が引く思いがした。

 これ、あまりしょっちゅう音を立てていると、近所の人に怪しまれるかもしれない。

 普段、音が聞こえない場所から聞こえてきていたら、誰かがいるかもと疑われてしまうだろう。

 通報されたら厄介な事になる。

 物音を立てない為の方法を考えながら、沙緒は一度家に戻って必要なものを取りにと、調べて必要な物の買いだしへと出かけて行った。



 






「・・・っしょっと」

 沙緒は、家に戻ると、詰め込めるだけ、リュックの中に物をぎゅうぎゅうと詰め込む。

 家出なんてした事がない。

 だから何が必要か分からない。

 とりあえず着替えになる下着や服と、旅行の時に使うような歯ブラシのセットや化粧品やシャンプーのセットなどの身支度で使う物や、普段の生活で使いそうなものを考えて詰め込んで行った。

 必要最低限の物だけ、持っていくつもりだった。

 ただ、絶対的にどうしても必要なのは、お金。

家に残してある分を全部かき集めて、持っていこうと思っていた。

 親はあんなろくでもない親だけど、お小遣いだけは毎月交通費を含めて二万円くれていた。

 お金さえ渡していれば、何も問題はないとでも思っていたのだろうか。

 沙緒は、ほとんど使わないで取っておいたお小遣いを、入れていた貯金箱から出して金額を数えて確かめる。

 それは全部で十一万ちょっとあった。

 こうなることを想像していなかったので、一週間前ほどにネットで小説と漫画をどちらも一気にシリーズ丸ごと大人買いした事を後悔していた。

 あれを買ってなければ、もう一万は増えていたのに。

 十一万で、どれくらい生きていけるんだろう。

 普通の人が働いてもらえる月収がわからない。

 働いた事がない沙緒には、生活にどれだけのお金が必要なのか、まったくピンと来なかった。

 どちらにしても、もう選択肢はない。

 なんとか、あの子たちと生きていかなくちゃならなくなる。

 このお金は本当に貴重品だ。

 沙緒はそんなことを思いながら、財布の中に十一万を入れると、決して落とす事がないように、リュックの奥の奥へと財布をしまい込んだ。

 自分の物を入れ終えると、必要な物を書いていた紙を眺める。

 バスタオルやタオルは家から持っていこう。

 その方が余計なお金がかからなくて済む。

 沙緒は、許可なく勝手に、子猫たちに持っていけそうなバスタオルやフェイスタオルを、こっそり洗面所や母親のタンスの中から運んでくると、それも無理やりリュックの中にいれようとしたが、どう折り畳んでもかさばるので無理だったので。

 クローゼットの奥に押し込めていたボストンバックを取りだすと、そこにバスタオルを詰め込んで行った。

バスタオルは三枚も入れると、もう他の物が入れづらくなるほどスペースを奪う。

 それでもと、フェイスタオルも一緒に三枚ほど入れ、押し入れの中から毛布を一枚引き抜くと、それも入れようとしたが、どう折り畳んでも入れるのは到底無理だった。

 仕方ないので毛布は手で丸めて運ぶことにしたが、たぶん、そうとう不審な人に思われるだろう。

 見た瞬間、家出してきたと思われるような状態だ。

 それでも仕方ない。

 寝る時、何もないのは自殺行為だ。

 通りすがりに見たホームレスの姿を思うと、ダンボールを集めて家のようなものを作っているのは想像できたが、それにしても、毛布や布団は欲しい。

 体の下に敷くものはなくても、上に掛けるものがないと、風邪だってすぐに引いてしまって大変な事になるだろう。

 沙緒は引き抜いた毛布の厚さを確かめ、いくら夏でもこれだけでは辛いかもしれないと思いなおし、冬用のかなり厚めの毛足が長めの毛布を、押し入れの一番下から取りだした。

 この季節にあり得ない厚さの毛布だが、これくらいの方がいろいろと安全かもしれない。

 家を出るって、大変なんだな。

 沙緒は、そんなことを感じていた。

 今まで、この家と親に対して、どこまでも文句を言ってきたが、いざ家を出るとなると、必要なものが結構あることに気づく。

 そして、実際生活するにあたって、何が足りないかもわからないことにも気づく。

 それだけ必要なものに囲まれて、満たされていたってことなんだろうか。

 ふと、そんな意識が流れたが、慌てて首を横に振り、打ち消した。

 だからといって、こんな腐った家はおかしい。

 沙緒はそう思い直すと、目の前に引きだした分厚い毛布を、コンパクトにする為に二回折り畳み、その状態からくるくると巻いて、家にあった梱包用のロープで解けないようにきつく縛った。

 準備は、出来た。

 沙緒は、ロープで毛布を巻き終わると、床に並べたリュックとボストンバックを眺め、よし、と心で気合いを入れる。

 これから、新しい生活を始めるんだ。

 あの子たちと一緒になんとか頑張ろう。

 想像もつかない生活になる事に不安は正直あったが、それでもこれしかないのだと腹をくくり、沙緒は暑いのを我慢してパーカーを羽織ると。

 床に置いてあるリュックを拾うと、背中に背負った。

 同じく、床に置いてあるボストンバックを肩ひもを長く伸ばしてから、左肩から斜めがけにしてかけ、ベッドの上に丸めてある毛布を、両腕で子供を抱き抱えるような形にして正面から持ち上げる。

 暑いなんてもんじゃない。

 この動きだけでも汗が吹き出し、額の横や首や、脇の下から、汗がダラダラと流れ始める。

 でも、家出が冬じゃなくて、夏で良かったのかもしれない。

 冬だったら、こんな物だけじゃ足りなくて、生活できなかっただろう。

 沙緒はそんな事を思いながら、次に必要なものを集める為に部屋を後にした。




 





 物置に戻ってくると、すでに時間は十七時を過ぎていた。

 辺りも少しずつだが、暗くなり始めている。

「ただいま」

 沙緒はそう言うと、買ってきた荷物をドサッと物置の床へと下ろした。

 子猫たちに必要な物を買い集める為、沙緒は、家を出てから一度物置に寄り、タオル類が入ったボストンバックと毛布を置き、ダンボールの中に敷いてあった薄くて汚いタオルを引き抜くと、新しいきれいなタオルを一枚敷きつめ、子猫たちが暖かくなるようにもう一枚を上から少し重ねるようにして折り畳んで入れてやった。

 気のせいかもしれないが、子猫たちは前より少し過ごしやすそうにしているように見えて、沙緒は良かったと思いつつ眺めていた。

 沙緒はそのまましばらく子猫たちの様子を見、そっと一匹ずつ体を指で撫でると、リュックを背負って、必要な物の買い出しへと出て行き。

 子猫たちのエサや、カイロを買い集めると、物置まで戻って来た。

 今のところ、通りすがる人もほとんど居ず、ここに入るところも見られた感じはない。

 不法侵入なだけに、出入り時は、毎度ドキドキしながら辺りを慎重に窺い、何でもないと思ってから、中へと入ってくる。

 どうか誰にも気づかれませんように、と、願いながら。

 沙緒は買って来た物が入っているホームセンターの買い物袋の中から、子猫用のミルクと哺乳瓶を取りだすと。

 ミルクを暖める為に、アウトドアで使うガスヒーターを袋から取りだした。

 カセットボンベを取りつけて使うタイプで、八千円位したが、しょうがない。

 自分も何かを飲んだり食べたりするのに使わなくちゃならないので、アウトドアで使える鍋と共に買いそろえてきた。

 使った事がないので、説明書を見ながらガスボンベを取りつけると、火をつける。

 上手く火が付いたので、沙緒は鍋をコンロの上に置くと、買ってきたミネラルウォーターのペットボトルを開けて、水を鍋に注ぎ込み、哺乳瓶をまず煮沸することにした。

 スマホで子猫の育て方が書いてあるホームページを眺めながら、順序どおりに行ってみる事にする。

 哺乳瓶と乳首にあたるゴムの部分が、グツグツと湧き立つ鍋の中で揺れているのを眺めた後、鍋を火から下ろして水を物置の外に捨て、哺乳瓶をタオルでくるんで取り出す。

 かなり熱いので、直に触れる感じではなかった。

 そのまま哺乳瓶と乳首の部分を合わせて取りつけると、そのまま床に置く。

 その後、子猫用のミルク缶の説明書きを眺めつつ、必要量を確かめると、ぬるま湯を作るために、またミネラルウォーターを鍋に注いで沸かし始めた。

 今度は量がそんなにないので、すぐに沸きそうだった。

 熱すぎてもダメなんだ。難しいな。

 温度計でも買えばよかった。

 沙緒は熱すぎない程度にする為、何度か沸かしているお湯の中に恐る恐る指を入れつつ、熱くなりすぎなさそうと思ったところで火を止めて。

 缶の中に入っている粉ミルクの蓋を開け、鍋の中で必要な分だけを入れてスプーンでかき混ぜて溶かして行った。

 四匹分で計算したよりも、少し多めに作っている。

 沙緒は、さっきまで煮沸消毒して床に置いておいた哺乳瓶を、熱くないかなと手で軽く温度を確かめるように触り、大丈夫と判断した後にしっかりと掴むと、鍋の中で溶けたミルクを乳首の部分を取り外してから哺乳瓶の中に注ぎ入れた。

 白い液体がこぽこぽと小さな音を立てて、哺乳瓶の中に入っていく。

 飲んでくれるといいのだけど。

 沙緒はそう思いながら鍋を床に置くと、太ももの上に置いてあった乳首の部分を取りつけて、軽く二、三度上下に振る。

 なんか、どこかで見た映像で、こんなことをミルクを飲ます前にしていたような気がしていたからだった。

 沙緒はミルクを作り終えると、ダンボールの傍に行き、中の子猫を窺う。

 子猫は丸まって寄り添っている子たちと、ミィミィ鳴きながら歩きまわっている子が居た。

 沙緒は動き回っている白黒の子を手で優しく捕まえると、床に正座で座り、太ももの横側から子猫の両足を乗せさせ、つかまり立ちのような姿勢にさせてから、哺乳瓶を口へと近づける。

 ミィミィと鳴いている小さな口の中へ、細長い哺乳瓶の乳首を静かに入れてあげると、チュッチュッと音を立てて吸い始めた。

 良かった、飲んでる。

 沙緒は、子猫の体を後ろへひっくり返らないように手で支えながら、もう一つの手で哺乳瓶を握りしめ、子猫が一生懸命に飲む姿を眺めていた。

 よほど美味しいのか、物凄い勢いで飲んでゆく。

 生きてるって、嬉しいって言っているみたいで、沙緒の顔は自然とほころんでいった。

 良かった・・・本当に。

 今までやって来たことが正解だよ、と言われてるみたいで、沙緒の心は安らいでいた。

 絶対にその選択はしないけれど、もしも、あの時、母親に言われた通り。

 子猫を捨てるような事があったら、きっとずっと悔んで悔んで、一生忘れられなかったかもしれない。

 沙緒はそんなことを想像しながら、子猫がミルクを飲む姿を見つめていた。

 可愛い、とても。

 この子たちのお母さんのようにになれることが、沙緒にとっては喜びで。

 何かの為に動いて、こうして応えてくれることが、どれだけ小さくても幸せだと思っていた。

 やっと、何かをしている。

 やっと、何かが出来ている。

 意味がある事を出来ている自分が、少し誇らしかった。









「寒くない?」

 沙緒は自分が頭からかぶっていた毛布を、子猫たちが入っているダンボールごと毛布の中に入るように、包んでやった。

 子猫たちは、前と違ってふわふわになったバスタオルの中にいて、そのタオルの下には忍ばせたカイロで暖かくはしてあげていたが、、沙緒は少し心配だった。

 子猫の育て方で、とにかく冷やしてはいけないことが書かれていたからだった。

 ミルクはなんとか、全員飲んでくれた。

 でも、やはり最初から心配だった、白と黒の二匹の猫は、少し元気がなく、ミルクを飲む力も少なかった。

 最初の白黒の子と、三毛の子は、二匹とも元気ですごい勢いで飲んで、スマホで見た通りにお尻のあたりをティッシュで刺激してあげると、おしっこもちゃんと出していた。

 白猫と黒猫の子は、おしっこはしたけれど、どうにも全体的に覇気がないように思え、動き回る事も少ない。

 他の二匹はよろよろしながらも歩きまわるのに、この二匹はじっと大人しくしている事が多く、沙緒はとても気がかりだった。

 すっかり夜も更けて。

 部屋から持ってきた目覚まし時計を見ると、時刻は午後二十三時を回っていた。

 物置の中は真っ暗だ。

 懐中電灯も持ってきてたし、蝋燭とライターも百円均一の店で買ってきていたが、もう寝ようと思って、真っ暗のままにしている。

 時折、少し離れた狭い公道を、車が走り抜ける音が聞こえる。

ぴったりと閉まらない物置の扉からは、生ぬるい風がゆるく入ってくる。

 夏で良かったと、沙緒はしみじみ思っていた。

 冬だったら、下手すると凍死していたかもしれない。

 なかなか寝付けないのか、相も変わらずミィミィと小さな声で鳴く声がするので、ダンボールの蓋を開いてみると、白黒の子が沙緒の方を見たまま、ずっと鳴き続けていた。

 そっと手で掴むと、胸の辺りに持ってきて、額の辺りを指でそっと撫でてやる。

 子猫はミィミィとピンク色の小さな口を開きながら、沙緒の指が顔を撫でていく動作に合わせて、気持ちよさそうに目を閉じている。

 沙緒はその顔が可愛くてしょうがなく、何度も何度も、ゆっくりと優しく指の腹で撫で続けていった。

 他の三匹は、ダンボールの隅の一角で、バスタオルの中に丸まって寄り添って眠っている。

 この子だけ抱きかかえて眠りたい衝動に駆られたが、負担になってはかわいそうなので、大きくなったらいっぱい抱っこしようと思い、またダンボールの中に子猫を戻し、蓋を閉める。

 再度、自分とダンボールをまとめて覆うように毛布をかけると、沙緒は下に敷いていたが、動くことによってよれてしまい、一部団子のようになったバスタオルをきれいにならした。

 夕方、子猫全員にミルクを上げた後。

 相変わらず物置の床にずっと腰をおろしていたが、固くて冷たい金属の床は、座り続けるには耐えられず。

 これでは寝るのにも寝れないと思い、自分のご飯を買いに行く為にスーパーに出かけた時、一緒にガムテープとカッターを買い、お客様用にと置かれていた畳んだ状態のダンボールを四つほど貰ってきた。

 買った物と一緒に運ぶのは運びづらくて大変だったが、なんとか体勢を変えながらダンボールを抱えて物置まで運ぶと、カッターでうまくダンボールを解体して繋ぎあわせ、自分ひとりが余裕で寝れるくらいのカーペットのようなものを作った。

 そこに百円均一で購入していた、四枚のレジャーシートをダンボールのカーペット合うようにうまく繋ぎ合わせて上から覆い、その上にバスタオルをかけて、自分の敷布団兼、くつろぎの場所とした。

 ただ、バスタオルは動いてしまう為、この上にはやはりクッションのような、何か座り心地が良さそうな物を敷いた方がいいと思ったのと、バスタオルよりはシーツの方が大勢を変えたりした時に、変に動かなくていいかもしれないと思っていた。

 誰もいない家に帰れるなら取りに帰りたいが、上手く誰もいないタイミングで帰れるかどうか。

沙緒は騒ぎになっては困ると思い、一応、家を出る前に、リビングにこの家を出る旨をメモ帳に走り書きして置いてきている。

 それを見て両親がどうするのかわからないが、たぶん、大ごとにしたくないと沙緒を探しもしないだろう。

 何よりも体面だけを気にして生きている、普通が大好きな異常な両親だ。

 自分の家から娘がいなくなったなんて、とてもじゃないが恥ずかしいと思って、何もしないだろうなと思っていた。

 でも、沙緒はどこかで。

 そんな想像はするけれども、どこかで、焦って後悔する両親の姿も一緒に思い浮かべていた。

 この子が居ない事なんて耐えられない。

 そう言いながら、泣きながら沙緒を探す母親と。

 もっとちゃんと話を聞くべきだった、真剣に考えるべきだった、と言いながら、沙緒が消えてしまった事実にうなだれる父親。

 そんな二人の葛藤も、一緒に想像で描いてみていた。

 そんな姿は、本来ならば一切想像できなかったけれど、敢えてしてみていた。

 もし、そんな事が起きたならば、少しは、今までの傷が癒されるかもしれないと思っていた。

 どれくらいの確率で、そんな姿が見られるのかはわからない。

 けれどそれは、沙緒には儚い希望のように思えていた。

 そして同時に、そんなことを望んでいる自分が。

 ほのかにでも居る事を、気づいてしまっていた。

 バカみたい、私。

 心の中で、沙緒はずっと、今までの気持ちを呟き続ける。

 毛布の中の薄暗い空間は、沙緒の心をいつもよりもずっと素直に開放していた。

 毛布の中、少し息苦しい空間で思うのは。

 当たり前のように過ごしていた部屋で。

 とりあえず、不自由はない空間で。

 ただ、毎日人形みたいに、生きているのか死んでいるのか分からない日々だった。

 どれだけ、空っぽな毎日を過ごし。

 何も出来ない自分が嫌でたまらなかったか。

 こんな事になったのは、こんな変な親の居る家に生まれたからもあると。

 沙緒はずっとそう思い続けていた。

 私はなんで、こんな家に生まれてしまったのか。

 それもまた、ずっと。

 沙緒が何度も昔から思い続けたことだ。

 そしてどれだけ思っても、考えても、答えが一切出ない悩みだった。

 無味乾燥状態の自分と、毎日と、家族に。

 一体どんな意味があるんだろう。

 何が正しいんだろう。

 そんな答えの出ない悩みを、毎日ただ繰り返していたことを思い出す。

 心底、嫌気がさして、生きている意味が何にも見つからなくて。

 本当に本当に、辛かった。

 沙緒は溜息をついた。

 でも。

 でも、今は。

 毛布の中に一緒にある。

 小さなダンボール。

 その中には一生懸命、生きようとしている命がいて。

 沙緒はそのダンボールを眺めているうちに、自然に涙が溢れてきていた。

 一生懸命、生きたい子もいる。

 私は生きる意味とか喜びとか、まったくわからなくなっていたけれど。

 この子たちは生きたくて一生懸命に鳴いて。

 一生懸命にミルクを飲んでる。

 沙緒はそのままダンボールをしばらく眺めていたが、徐々に襲ってくる眠気に耐えられず、目をゆっくりと閉じてゆく。

 毛布の中、ダンボールを囲って守るようにして、体を丸める。

 この子たちの為に頑張ろう。

 この子たちの為に生きよう。

 今はそれだけ思えるだけで、なんだか幸せだ。

 自分がしている事に意味がある事が幸せだ。

 沙緒は丸めた体の中で、何度も何度も呟いた。

 生きる意味を今見つけてる。

 その小さな幸せが、沙緒を満たした。

 








 朝が来て。

 沙緒は八時過ぎに起きると、かけていた毛布をはいで、ダンボールの蓋を開けて中を覗いてみた。

 四匹は目を覚ましていて、箱の中で相変わらず、よろけながらヨチヨチと歩いている。

 沙緒は昨日の手順でミルクを準備して、一匹ずつ順番に飲ませていった。

「・・・大丈夫?」

 白猫と黒猫の子の順番になると、やはりどうしても気にかかる。

 飲む力が、弱い。

 白黒と三毛の子より、明らかに弱い。

 チュッと吸っては休み、チュッと吸っては休み。

 まるで、飲みたくないようにも見えてくる。

 ただでさえ弱々しい姿なのに、元気な二匹と比べると、体も一回りくらい小さいのではないかと思うようになってきた。

 体温も元気な子より低めな気がしてきて、沙緒はミルクの飲みが悪い二匹を、そっと胸に抱き寄せて優しく優しく撫で続けた。

 本当に小さくだけれど、ゴロゴロ・・・と喉を鳴らしている音が聞こえる。

 沙緒はネットで調べて、それが喜んでいる事だと知ると、涙が溢れそうになっていた。

 その後、四匹の排泄を順に済ませ、カイロを新しいのに替えてタオルの中に忍ばせ、タオルが暖かくなってきているのを確かめると、ダンボールの蓋を閉めた。

 九時半か・・・。

 沙緒は床に置いてある目ざまし時計を見て、これからの予定を考え始める。

 最寄りのスーパーはもう開店しているから、まずそこへ行って、トイレに行って用を済ませて、顔も洗って来て。

 昨日、ダンボールを運ぶのに嵩張った為、いろいろと物があまり買えなかったから、飲み物やミルクの為に使うミネラルウォーターを2リットルのペットボトルで数本買おうと思っていた。

 でもこれも出来れば、どこかで水を貰えそうなところがあれば、そこから貰ってきて使った方がいいなと思っている。

 まだ、今日明日は大丈夫だけれど、洗濯だってしなくてはならないだろう。

 百円均一の店で洗剤は買ってきてるから、公園とかどこかで洗えれば、この季節なら干してもすぐ乾くだろう。

厚地の物は洗うのが大変かもだけど、とりあえず臭くなければいいや。

 沙緒は着ているTシャツの胸のあたりを軽く掴み、鼻を近づけてにおいを嗅いでみた。

 今のところは、昨日の今日だから、特に問題は無さそうだ。

 お風呂だけはさすがに、どこかの銭湯に入りにいかなくてはならないだろう。

 あとは。

 なんとか働くところを決めなくては。

 沙緒のリュックの中には、今後の事も考えて、買ってきていた履歴書が入っていた。

印鑑も何かで使うかもしれないと思って、持ってきている。

 場所なんて選ばなくてもいいから、どこでもいいから、とにかく働いて。

 猫と一緒に住めそうなところを探さなくてはいけない。

 けど。

 沙緒は物置の壁に背中を寄せると、頭を後ろに倒して、わざとコツンと壁にぶつけた。

 家って、借りるのって、どうやって契約するんだろう。

 誰か保証人みたいなのって居るのかな。

 住む場所がないのが一番困る。

 沙緒はとりあえず、不動産屋の門を叩いて、相談に行こうかと思っていた。

 どこまで話していいのかもわからないけれど・・・。

 家出したので住める場所をください、なんて言ったら、すぐ追い出されそうだな。

 自嘲するように唇を歪め、ふうと息を吐く。

 何も見えない中を、何とか生きていこうとしている感じになるのかな。

 これからは。

 沙緒は、なんとなく物置の壁を、焦点が合わないような感覚で見つめる。

 目の前に映る、無機質な物置の壁は。

 必要な知識もない、何も持ってない無防備な沙緒を、静かに守る壁に思えた。

 それがどんなに薄くてボロくても。

 どんなに剥げていてみすぼらしくても。

 少しの間だけだと思うけれど、今はここが、自分が住む家。

 自分を守る場所。

 一緒にいるのは小さな家族たち。

 私だけの家。

 両膝を立てて、ぎゅっと抱え込む。

 たったひとりぼっちかもしれない。

 でもひとりではない。

 触れると暖かい、愛らしい存在がここにいる限り、私は頑張れる。

 沙緒は、ぎゅっと強く、立てた膝ごと自分を強く強く抱きしめた。









 残り、十万切った。

 沙緒はスーパーの中をぶらぶらと歩きながら、手の中にある財布を強く握りしめる。

 昨日から買い集めたものと、さっき買ったもので、合わせて一万以上かかり。

 手持ちの金額は九万五千円。

 少しずつお札の枚数が減っていくたび、心もとない不安が押し寄せてくる。

 生きていけるのかな。

 そんな言葉が、頭を駆け巡る。

 でも、なんとかしなくちゃならない。

 反対の手にぶらさげている、買い物袋に入っている二リットルのミネラルウォーター三本が、運んでいる二の腕にずっしりと重さを感じさせる。

 その他には、安売りしていて一個八十円ほどだったカップ麺を三つほど買った。

 あまり買いこむと、買い出しが必要なくなり、スーパーに来づらくなるので、毎日来ても怪しまれないように、物はこまめに買う予定だった。

 ここに来れば、綺麗なトイレだって使えるし、朝、歯磨きや顔を洗うことだって出来るから。

 沙緒は重たさに耐えながら、スーパーから家代わりの物置へと戻っていった。

 








 あ・・・。

 沙緒は人影を確認すると、思わず体をすくめ。

 慌てて後方の電柱の陰へと体を潜ませた。

 誰かいる。

 ロープが張り巡らされている中に、見知らぬ男の人たちが居て。

 あちこちをふらふらと歩きまわって見ていた。

 ・・・まさか・・・バレたのか・・・。

 こんなに早くに?

 沙緒はドキドキする胸をなだめるように、何度も何度も手で上から軽く叩くようにしながら撫でた。

 重いペットボトルが入った袋は一度地面に置き、電柱の陰から敷地内でうごめく人たちの姿や話し声を聞き耳を立てながら確かめる。

「いやぁ・・・まぁね。もうそろそろだとは思うよ、確かに」

「そうだろう。こんなずっとほったらかしにしてたって、もったいないよ。壊すのに金はかかるけど、いっそ駐車場とかにしちゃえば収入だって入るんだからさ」

「そうなんだけどなぁ・・・」

 ポリポリと後頭部を掻きながら、作業衣姿の男はためらうような声を出していた。

「ここは、金で買えない物が残っているからさ」

「想い出か、親父の」

「そう。親父が頑張ってイチから作り上げた場所だからさ。ここは親父の城みたいなもんだから。入院してる今はまだどうこうする気にはなれないのが本心だな」

「だけど何にもわかってないだろう。もう親父はボケてんだから」

「いや、そうだけどさ・・・」

「施設の料金だって、バカにならないだろう。その補填だって出来るんだぜ。ここを有意義に使えりゃさ」

「確かにそうだが・・・」

 うーん・・・と作業衣のおじさんは唸り続ける。

 どうやら、ここを経営していた親父といわれているおじさんの息子らしいことは沙緒はわかった。

 お願い、まだ壊さないで。

 勝手なお願いだが、沙緒も一緒になって祈りだした。

 自然と両手を組んでしまう。

 まだ、他に移動先がないの。

 決まってないから。

 お願いだから、もうしばらくそこに住まわせて。

 身勝手な内容だったが、一生懸命に両手を合わせ強く握りしめながら、沙緒は願いを心の中で繰り返し続けた。

「お前の気持ちはわかるけど。やっぱ、親父がどうこうなってから考えたい」

「でもよ・・・!」

「いいんだ。親父の夢だった場所だから。残しておきたい。多少、施設代が生活を圧迫しても仕方ないさ。俺たちだって親父に生活費を削って貰いながら育てられたろ?」

 そう言われると、さかんに駐車場にしたいと言っていた男は拗ねたように口をつぐんだ。

 もしかしたら、兄弟なのかもしれない。

「親父が死んでから、どうこう考えようや。今はまだ早いよ」

 兄らしいおじさんは、弟らしきおじさんの背中をポンポンと叩いた。

 弟らしきおじさんは、文句はありそうだったが、仕方ないようにぶつぶつ何かを呟きながらも頷いていた。

 よ、良かった・・・。

 沙緒は心の底からホッとすると、上半身を前へ傾けて、向かいの電柱に額を寄せた。

 額に当たる、冷たく固い感触が、沙緒の頭を冷やしてくれるようだった。

 まだ、もう少しはなんとかなりそう。

 そう思って安堵していると、おじさんたちが話しながら物置の方へと近づいていってる姿が見えた。

 ―――えっ。

 沙緒は慌てて電柱の脇から身を乗り出すようにして、おじさん二人の動向を窺う。

 おじさんたちは雑談しながら、どんどんと物置の傍へとやってきて。

 二人で物置の前に立ち止まると、なんやかんや物置を指差しながら話し始めていた。

 聞こえない・・!

 沙緒は、電柱の陰では事足りない状況に、一度電柱から出ると、おじさんたちから見えなそうなギリギリの塀の脇まで近づき。

 そこから二人の様子を窺い始めた。

 さっきより近づいた分、少しだけ声が聞こえる。

 どうやら、この物置は本当にひどいな、といった話をしているようだった。

 沙緒は、物置から出てくる際、怪しまれないようにちゃんとドアは閉めてきている。

 沙緒が最初に、この物置を見つけた時と同じような状態にはしてきたつもりだった。

「・・・じーちゃん、車バックさせた時に誤ったからなぁ・・・ひでぇもんなこれ」

「仕方ないよ。適当だったからさ、運転も」

 兄と弟の身内話がかすかに聞こえてくる。

「ここ、なんか入ってたっけ?」

 兄が扉の取っ手をつかむ。

 沙緒は目を見開いて、両手を口で覆った。

 待って、お願い、開けないで!

 必死の願いが届いたのか、弟は兄が扉を横へと引こうとした際、首を横に振って動きを制した。

「ああ、そこ開けても何もないよ」

「そうなのか?」

「扉が曲がっちゃってて、鍵掛けられないじゃん。だからもうここに物をいれるのは諦めたんだよ。じーちゃんぶつけた後でさ」

「そっか」

「ここに入ってたもの、みーんな事務所に持っていかなきゃならなくなって、えらい迷惑だったんだぞ。覚えてないか?」

「覚えてない。居なかったのかもな」

「都合いい時だけ居ないよな」

 弟は不満げに唇を尖らせる。

 兄はまぁまぁと言いながら苦笑していた。

「じゃあ、そろそろ行くか」

「だな。また親父の見舞いに行って、様子を見てだな」

「まだまだ長生きするぞー。なんせ強いから親父」

「ほんとだよな。まぁ、仕方ないさ。出来る限り頑張ろうや」

 兄と弟はお互い支え合うように会話をしながら、物置に背を向けて歩きだし。

 沙緒の居る方向へと、徐々に距離を詰めてきていた。

 その頃、沙緒は、近づいてくる二人に慌てて、右往左往してしまい。

 とりあえず、電柱の下に置いた水とカップ麺が入ったビニール袋を取りに戻った。

 その袋を掴んで持ち上げた時。

 兄と弟は、ロープをまたいで敷地から出てきた。

 沙緒は、ドキドキと胸が大きく弾む音を聞きながらも、息を少し大きめに吸って、振り返り。

 なるべく平然とした顔で、敷地の前の方へ向かいながら歩いて行った。

 兄と弟は話しながら歩き続け、沙緒とすれ違い。

 ちらりと兄は沙緒の方を一瞬見たが、そのまま沙緒の横を二人とも通り抜けていった。

 沙緒がホッとして振り返ると。

 二人はちょうど、この道路の曲がり角あたりに止めてある車へと向かって、歩を進めていたところだった。

 やがて沙緒から見て、右側に止めてあった車の前で足を止めると、弟が運転席の鍵を開けて乗り込み。

 少し斜め前方に車を発進させて、助手席の人が乗りやすいような空間を作った後、兄はその空間から車の中へと滑り込んで行った。

 沙緒はそれを見届けると、また前を見て、敷地の前を普通に歩きながら通り過ぎ。

 背後の車のエンジン音がふかされて大きく辺りに響いたのち、そこから徐々に走り去っていく音を確認すると、沙緒は足をその場所で止めた。

 敷地からは、十五メートル程、離れている場所だった。

 沙緒はゆっくりと振り返る。

 さっきまで車が止まっていた場所には、車はなく。

 人の通りも今は無かった。

 沙緒は念の為、辺りをキョロキョロと首を動かして眺め。

 誰もいないことと、誰かが家から覗いてたりしないかを、一応確かめた。

 敷地の中は広いが、ここはあくまで、住宅街の中通りの一角で。

 人目には付きやすい場所だからこそ、沙緒はいつも用心に用心を重ねていた。

 物置の扉を開ける音はどうしようもないが、不必要な音はなるべく立てないように気を配っていた。

 物置の扉も、レールのところに油みたいなのを流したら、少しスムーズに開くかもしれない。

 沙緒はそんなことを思いながら、敷地の前まで来ると、念の為、また辺りをキョロキョロと窺った後、ロープをまたいで中に入っていった。

 出かけてから、三時間は経っている。

 子猫たちに、またミルクをあげなくては。

 一日四回くらいあげたらいいのかなって思っていたが、子猫たちがいったいどれくらいの年齢なのか、さっぱり想像つかなくて。

 沙緒は無難だろうと、とりあえずミルクをあげていた。

 でも、スマホで育て方を見ていると、ある程度経つと、離乳食を上げなくてはならないらしい。

 子猫用の猫缶は用意しているが、あげていいものかどうかわからなかった。

 沙緒は物置の前まで来ると、いつものように片方しか開かない扉の取っ手に手をかけて。

 ぐっと横に力を籠めて引いた。

 キィキィと金属音が鳴り響く。

 沙緒は落ち着かない気持ちでドアを開きながら、辺りを見回して、誰もいないことを確認していた。

 扉が、人一人分くらい入れるような広さに開くと、背負ってたリュックが多少邪魔だったが、なんとか体を横向きにし、リュックの分だけ上手に左右に斜めに体を動かしながら上手く中に入り込み。

 入ると扉を閉め、暗い物置の中で床に置いてある懐中電灯をつけると、そのまま真っ直ぐにダンボールの場所へと向かい、目の前に腰を下ろした。

「ただいまー・・・どうかな。大丈夫?」

 沙緒は笑顔でそう声をかけると、重たいペットボトルの入った袋を床に置き、ダンボールの蓋を開いてみる。

 ふと、その時。

 沙緒の顔が曇った。

 白黒の子と、三毛の子は眠っていて、一緒に体を寄せ合っていたが。

 物音で目を覚ましたのか、少し眠そうな感じで二匹はもぞもぞと動き出している。

 ただ。

 白猫と黒猫の子が。

 微動だにしない。

 二匹で相変わらず身を寄せ合っているが、沙緒が蓋を開けても話しかけても、何の反応も示さなかった。

 前までは少しでも身じろぎしたり、反応があったのに。

 沙緒の心に一気に不安が駆け巡る。

「白ちゃん、黒ちゃん」

 沙緒は声をかけながら、ダンボールの隅で、二匹で重なるように丸くなってる白猫と黒猫に手を当てた。

 少しだけ、冷たい感じがした。

 沙緒は焦って、白猫を手で掬いあげるようにして掴むと、手のひらでグッタリしている白猫を何度も撫でた。

「白ちゃん、白ちゃん。大丈夫?」

 何度も必死に声をかける。

 白猫はわずかながら、口元を動かしていた。

 命の危険が迫っているのは、素人でも見て取れた。

「黒ちゃん」

 沙緒は白猫をもう一度ダンボールへそっと戻して、タオルの中に入れると、同じくグッタリしている黒猫を手のひらで掬いあげた。

 何度も声をかけながら優しく撫で続けると、目と鼻の辺りがほんの少し震えるように反応する。

 沙緒は、スマホで見ていた子猫の育て方の中に、子猫を拾った時は出来るだけ早めに病院へ連れて行った方がいい、というのを思い出していた。

 ただ、もう少し様子を見て、どうしても必要ならと、ためらっていたのだ。

 動物病院は、保険がきかないと書いていた。

 四匹連れて行くと、いくらかかるのか分からない。

 ネットで見る限り、十万くらいはすぐに行ってしまいそうに見えて、怖くて連れていけなかったのだ。

 でも、今はもう。

 そんなことは言ってられない。

 沙緒は心を決めると、黒猫を白猫と同じように、再度バスタオルの中に優しく戻し、ダンボールの蓋を閉めて、箱を持ち上げた。

 高校へ行く為に利用していた電車の駅の近くに、動物病院があった事を覚えている。

 沙緒はまずそこへ連れていこうと、ダンボールを抱えたまま物置を出て、一度地面に箱を置くと、周りから怪しまれないようにちゃんと物置の扉を閉め、もう一度ダンボール箱を抱え直して、駅まで歩き始めた。









「すみません!」

 沙緒は目的の動物病院まで辿り着くと、ガーと機械音を立てて開いた自動ドアの向こうにある玄関の扉へ飛びつくようにして取っ手を捕まえ、大きく前方へと一気に開いた。

「は、はいっ」

 沙緒が転がるように駆けこんで来た勢いに、驚いた受付の女性二人が体を大きく跳ねさせた後、沙緒の方を目を丸くして見つめている。

「この子猫たちを診てほしいんです。今すぐに」

「今、すぐですか・・・でも」

 受付のお姉さんたちは、困ったように顔を見合わせていた。

「今混んでて、今から受付すると、たぶん受診は三時間後位になると思います」

「三時間後?」

 沙緒はビックリして声を荒げた。

 お姉さんたちは申し訳なさそうな顔で沙緒を見つめ、すみません、と小さく言った。

「今日はとても混んでいて、皆さん、朝からずっと待っていらっしゃる状態なんです」

「そんな・・・」

 沙緒は、信じられないと言った顔でお姉さんたちを見つめた。

 入口から左横に続く待合室を観てみると、廊下を挟んで向かい合わせにベンチが置かれていたが、そこには確かに、隙間なく人が座っているのが見てとれる。

 人の横には猫や犬などが入っているのか、キャリーが置かれていた。

 全員で二十名程、いるのだろうか。

 「すみません・・・」

 お姉さんたちはすまなそうに言うものの、特別に何か考慮してくれそうな気配は感じとれなかった。

 沙緒は、抱えているダンボール箱をぎゅっと固く抱きしめると、もう一度訴えるようにお姉さんたちを見つめた。

「お願いします。中の子猫が二匹、危ない感じなんです。さっきからあまりに弱々しくて、このまま三時間も生きていられるかどうなのかもわからなくて」

 そう話していたら。

 ボタボタボタッと。

 沙緒の両の眼からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 自然に溢れて来た涙だった。

 あの、力なくグッタリしている二匹の姿を思うと、いてもたってもいられなかった。

 どうにかしたい。

 助けたい。

 あの子たちを死なせないでほしい。

 沙緒は必死に訴えた。

「お願いです。どうか助けてください」

 もう涙声だった。

 いい年して恥ずかしいかもしれない、と頭を一瞬よぎったけれど、もう、体面なんて気にしてられなかった。

 助けたい。

 それだけだった。

「お姉さん」

 通路の一番奥の方から、少ししわがれた声がする。

沙緒は涙を流したまま、そちらへ顔を向けた。

 そこには、白髪交じりの短髪で、白のシャツにベージュのカーディガンを羽織り、グレーのスラックス姿の清潔感のある、一人の紳士的なおじいさんが居た。

「僕、次呼ばれるけど、もし良かったら先に入っていいですよ」

 おじいさんは待合室のソファから立ち上がって、受付のお姉さんに話しかけていた。

「皆さんもいいですかね。急患みたいなのでね」

 おじいさんは、優しく言い聞かせるような顔で、待合室のベンチに並んで順番待ちをしている人たち一人一人に顔を向け、いいですか?と言わんばかりに問いかけては軽くお辞儀をしていった。

 優しい人なのは、その一人一人に向ける表情にも表れていて、沙緒は有難くて嬉しくて、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。

「有難うございます」

 沙緒が、涙声のまま声を絞り出すようにしてお礼を言うと、おじいさんは沙緒へと顔を向けで紳士的に微笑み、どうぞと言わんばかりに自分の席へ座るよう、手を動かして促してきた。

 沙緒は慌てて、いいですと答えたが、おじいさんはいいからどうぞと言って、座るように勧めてくる。

 沙緒は、ひどくすまない気持ちになりながら、上半身を何度も折り曲げ、向かい合う人で挟まれた待合室の通路を通り、おじいさんの前まで来ると、促されるまま席へと座った。

「猫かい?」

「そうです」

 沙緒は向かいで立ったまま話しかけてくるおじいさんに、こくりと頷いた。

 おじいさんは箱の中を気にしている様子だったので、沙緒はダンボールの蓋を開けて、おじいさんに見せてみる。

「おお・・・まだ小さいなぁ」

 おじいさんはそう呟くと、まるで孫でも見るかのように目を細め、顔を柔らかくほころばせた。

 おじいさんがダンボールへと屈むと、シャツのボタンをきちんと閉めた襟元に巻きつけられたループ帯が、ゆらりゆらりとブランコの鎖のように前後に揺れ始める。

「この子たちが元気がないね」

 おじいさんは白と黒の子猫二匹を指差して、心配そうに眉を寄せた。

「そうなんです」

 沙緒はまた、涙で詰まった声で答えた。

 誰が見てもわかるほど、グッタリとしている。

 息をしていなかったら、どうしよう。

 沙緒の頭の中には、不吉な言葉がよぎっては、そんなことない大丈夫、と、無理やり不安を消していた。

 おじいさんは、診察室の方へ顔を向けると、もうすぐかなと呟いた。

 おじいさんは、どうやら鳥を診てもらいたかったらしい。

 沙緒が座っている隣には、小さめの鳥かごがあって、綺麗な緑色のセキセイインコが、カゴの端と端とを渡すようにつけられている棒の上で止まって大人しくしている。

 あまり鳴かない所を見ると、この鳥も元気がないのかもしれない。

「おじいさんが診てもらいたいのは、この鳥ですか?」

「そうさ。ずっと一緒に暮らしてきたのにね。急に元気がなくなったなと思ったら、時々苦しげに暴れたりするんだ。心配でね」

 おじいさんが、鳥かごの鳥を眺めている目は、本当に心配そうで。

 沙緒は順番を変わってもらった事を、申し訳なく思っていた。

「ごめんなさい・・・なるべく早く終わらせてもらうように先生に言います」

「いいんだ。心配だろう。ゆっくり診てもらっておいで」

 そう話していると、受付のお姉さんが書類を挟んだバインダーを持って、私のもとへとやってきて。

 実際に診てもらう猫の状態や、頭数、いつからこの症状が起きたなどを、いろいろと聞きながら沙緒の話に頷きつつ用紙に書きこむと、では、と言って、バインダーに挟んでいる別の書類に必要な事を書いて欲しいと、沙緒に渡して依頼してきた。

 沙緒は、それを受け取ると、必要な事を書き始めた。

 猫の名前は決めてないから、色で分けた。

 それを書くだけ書くと、ダンボールをベンチに置いて立ち上がり、受付へと持って行った。

 受付のお姉さんに書類を渡すと、沙緒はまたおじいさんのところへ戻ってくる。

 おじいさんは、鳥かごの中の緑色の鳥を心配そうにのぞきこんでいた。

「・・・心配ですね」

 沙緒はおじいさんに近づくと、そっといたわるように声をかけた。

 おじいさんは、小さく微笑んだ。

「この老いぼれ一人暮らしの、大事な家族だからね。何かあっては困るのだよ」

 おじいさんがそう囁くように言うと、鳥は答えるように、チチチ・・・と小さな声で鳴いていた。

 おじいさんと、鳥との間で、見えない何かが、伝わっていっているような気がした。

 とても大事に育ててきたのだろうなと、沙緒は思っていた。

「稲田さー・・・あ、違うのか。えーと・・・元橋さーん」

 沙緒は、おじいさんの替わりに呼ばれた名字に「はい」と答えると、おじいさんに深々とお辞儀をし、ダンボールを抱えて診察室の中に入っていった。









「入院・・・」

「そうだね」

 恰幅のいい先生は、少し頭の毛が薄く。

 コリコリと、ボールペンをノックをする側で頭皮を掻いていた。

「それでも、そうだな・・・助かる見込みは、四十パーセントくらい」

「四十・・・」

 沙緒は、先生の前で絶句してしまった。

 思わず緊張で、背筋が真っ直ぐに伸びる。

座っている丸椅子が、体を少し伸ばした際にキィと軽く音を立てた。

「それよりも低いかもしれない」

 先生は沙緒に対して、重い現実を突きつけて行った。

「それでも入院して、点滴して、様子を見てみたいとは思うよ。生きながらえるチャンスはまだあるからね。あとの二匹は数日入院だけでたぶん体調は良くなると思う。そっちは入院日数は三泊位で大丈夫かもしれない。ただ」

 先生は沙緒を上から下までサッと眺めると、ちょっと言いづらそうに切り出した。

「君はまだ若いよね。いくつ?」

「・・・十九です」

「今日の四匹分の検査代と治療・投薬代で全部でニ万近くになるんだ」

「ニ万、ですか」

 沙緒は驚いて顔を上げると、先生を見つめた。

「そう。しかも四匹とも入院するとなると、一匹に付き一泊、一万円はかかると思っていい。今のところ、弱っている二匹は元気になったとしても一週間くらいは入院が必要かもしれないよ。そうなるとニ匹で十四万に、三日くらいで二匹が済んだとしてもこれにプラス六万だから、計二十万」

 沙緒は、急に目の前が変にチカチカするような感覚に襲われていた。

 二十、万・・・?

 予想もしなかった現実に、ただ、冷や汗が流れる思いだった。

「この子たちとの経緯はさっき聞いたけど、捨て猫を保護して助けた点を考慮してサービスしても、やはり十六万以下には下げられないな・・・申し訳ないけれど」

 先生はそう言うと、驚いて固まっている沙緒に、気遣うような顔をしたまま首を傾けた。

「どうする?親御さんと相談してくるかい?もし良かったら結果が出るまではここに預かってあげてもいいよ」

「はい・・・」

 沙緒は力なく返事をした。

 どうしていいのか、わからなかった。

 当然だが、相談できる人なんていない。

 でも、お金は必要な状況だ。

 なんとかしなくてはならない。

 沙緒は無言のまま、どうしたらいいのか必死に考えていた。

 どうしよう。どうしよう。

 沙緒の頭の中を、同じ言葉がグルグルと回り続ける。

「・・・それとも連れて帰るかい?」

 先生が問いかけてきた言葉に。

 沙緒は瞬間、目を見開いた。

「いえ・・・!」

 沙緒はハッキリとそう声に出すと、先生を力強く見つめた。

 先生は、その沙緒の勢いに少したじろぎ、上半身を後ろへと引いている。

「なんとかお金は用意してきます。だから、入院、お願いします!」

 沙緒は、ガチャンと乱暴な音を立てて丸椅子から立ち上がると、深々と先生に向かって頭を下げた。

「・・・わかったよ。じゃあ、このまま預かるからね」

「はい」

 沙緒は体を一気に起こすと、先生を力強く見つめた。

「お金は必ず用意します。だから、よろしくお願いします」

 沙緒はもう一度勢いよく、深々と体を折り曲げて。

 そのまま診察室を後にした。

「・・・大丈夫かい?」

 診察室を出ると、おじいさんが心配げな目を向けてくる。

 沙緒はその優しさに、涙腺が緩みそうになるのを必死でこらえた。

 誰にも頼れない。

 頼れる人は、誰もいない。

「大丈夫です。入院させてもらえることになりました」

 沙緒はわざと元気に、ニッコリと微笑んで。

 おじいさんに力強く頷いて見せた。

「そっか・・・元気になるといいな」

 おじいさんは優しく微笑みながら、沙緒を見つめた。

 チチチ・・・と、また鳥が小さくさえずる。

 沙緒は、その鳥とおじいさんを交互に感謝で見つめた後、おじいさんに本当に有難うございました、と、さっき先生にしたのと同じように深々と体を折り曲げて挨拶をした。

 おじいさんは「イヤイヤ、大丈夫だよ」と言うと、頭を下げ続けている沙緒の肩のあたりを、ぽんぽんと、優しく大きな手で叩いた。

「稲田さーん!どうぞー!」

 おじいさんの名前が呼ばれ、おじいさんは沙緒に頭を上げるように言うと、鳥かごを手にして診察室へと向かった。

 沙緒は体を起こして、おじいさんの背中に「有難うございました」と言葉をかけると、おじいさんは診察室に入りがてら振り返り、優しく微笑んで小さく会釈をした。

 沙緒はおじいさんの体が診察室の中まで入っていくのを見届けると、背負っていたリュックを下ろし、中から財布を取り出した。

 今で、二万・・・。

 残り、七万だ。

 沙緒は寂しくなっていく財布の中を見ながら、徐々に自分がどうしようもないところへ追い詰められていくのを感じていた。









 とぼとぼと。

 沙緒は、空になったダンボールを抱えながら歩き続けていた。

 この道を来た時は、子猫たちを助けたい気持ちだけで精いっぱいだった。

 帰り道の、今。

 沙緒の心は、予想以上だった治療費に、ただ打ちひしがれてしまっていた。

 高いとはネットで調べて知ってはいた。

 でも、予想以上だった。

 頭数で金額が増えるのだから、いたしかたないのはわかるのだが。

 自分ではどうにもこうにもならない金額。

 手持ちのお金を集めたって足りない金額。

 沙緒はどうしたらよいのかわからないまま、歩き続けた。

 とりあえず物置までいったん戻り、なんとか工面しなくてはならない金額をどうしていったらよいか、考える事にした。

 まさか、家に戻って、いろんな場所を漁って、お金を盗むわけにはいかないし・・・。

 沙緒は途方にくれながら、物置のある自動車工場跡まで戻ると、敷地と道路との境目のロープをまたぎ、物置へととぼとぼ向かっていった。

 片方だけ開く扉を、人一人分だけ入るスペースだけ広げて体を滑り込ませると、また扉をなるべく音を立てないようにしながら閉めた。

 床に転がっている懐中電灯の電源をオンにして、ライトの部分が上向きになるように壁にもたれかけさせ、周辺を光で照らす。

 沙緒はダンボールでこしらえた手製のカーペットの上に腰をおろし、背中に背負っていたリュックを下ろすと、ゴロリとそのカーペットの上に横になった。

 どうしよう。

 沙緒の心の中は、どうにもならない不安でいっぱいになっていた。

 先生にああは言ってきたけれど、どうお金を集めればいいのか・・・。

 沙緒は一度体を起こすと、リュックの中に入れていたスマホと、乾電池タイプの充電器を取り出す。

 充電器をスマホに繋ぎながら、沙緒は今すぐ稼げる何かが無いか、探し始めた。

 調べる前に、頭に浮かんだのは、援助交際的なもの。

一度に数万稼ぐとするならば、これしかないのかなと思っていた。

 沙緒は、出会い系で検索する中、とあるサイトの掲示板を見つけ、その中をしばらく見る事にした。

 お金のやり取りでの行為は禁止されてるが、その掲示板はそれが金額だとわからないような表記で記されているように見えた。

 気になって沙緒がネットで調べてみると、それはやはり金額を表す数字をうまくごまかしている書き方をしている事がわかり。

 沙緒は、やはりこれならば今すぐに稼げると思い立ったが、どうしてもここに踏み出すにはためらいがあった。

 お金が必要で、なんとかしなくてはならないことはわかってる。

 でも、これ以外に方法はないのだろうか。

 体を売る事を考えるより、もっといい方法があると思う。

 しかも、お金を貰えるとわかって会ったのに、貰えないことだってあるのではないだろうか。

 いろんな心配が頭をよぎる。

 掲示板を一通り眺めながら、沙緒は、夜のバイトがあるならば、そっちでもいいのではないかと考え始めていた。

 それでいくら稼げるのかわからないけれど。

 調べてみれば、もしかしたら数日で何万かは稼げたりするのかもしれない。

 沙緒は出会い系に書き込みするより先に、夜のバイトがないかを探すことにした。

 美人や可愛くなくても雇ってくれるのかもわからなかったし、どんな情報や店が危険か危険でないかもわからない。

 それでもまずはそちらから探そうと、沙緒はスマホで夜のバイトから当たる事にした。

 一般的な求人サイトで検索してみたが、相場は大体五、六時間働いて、一万円位。

 これだと、二十万近く稼ぐには日数がかかってしまう。

 もとより、場所は選ばない考えだったとはいえ、夜のバイトではなく、ちゃんと日中働こうと思っていた沙緒は、あくまでも夜のバイトで働くのはこの時限りにしたいと思っていたので、もう少し効率よく働ける場所が無いか、他の求人サイトなどを見ながら探してみた。

 けれど、どこも求人内容はさほど差はなく。

 沙緒は、はぁと息を吐きながら顔を上へと向けると、一度スマホを床に置いた。

 どうしよう・・・。

 比較的元気な二匹は、三日くらいで退院できたとして。

ここでも支払いが一度来る。

ここで払うのが六万。

後の二匹が元気に助かってくれて、一週間くらいで退院したとして。

ここでの支払いが一四万。

今、お財布に入っているのが七万と少し。

最初の二匹を退院させたら、もう何も出来なくなってしまう。

 先生は、少し割引してくれるとは言ったけれど、たぶん二、三万位しか変わらないだろう。

 どちらにしても、今は最低でも十万は欲しい。

 しかもここ三日以内くらいで。

 沙緒はしばらく、何もない宙を、ただ見つめ続けた。

 あの弱っている二匹の子たちが助からなければ・・・。

 一瞬、そんなことが頭をよぎったが、沙緒はすぐに自分の考えに嫌悪感を持ち、首をぶんぶんと横に振った。

 手の中で小さな柔らかい体を支えながら、沙緒の太ももに前足をかけた姿で、弱々しいながらも哺乳瓶のミルクに吸いついて、少しずつ飲んでいた二匹の姿が思い出される。

 あんなに小さくても、一生懸命生きようとしていたのに。

 とても見殺しになんて出来ない。

 思い出すと涙がじわっと湧いてきて、沙緒は顔を下に下げた。

 ダンボールのカーペットの上。

 充電器に繋がれたスマホが視界に入る。

 ・・・これしか、ないのか。

 苦虫を噛み潰したような顔で、沙緒はスマホをもう一度手に取る。

 一番選択したくないことだったけれど、仕方ない。

 きっと、どう考えても、ここ数日で大金を得る事を考えるなら、これしかない。

 沙緒は、スマホを片手に、検索サイトの検索バーの中に、再び「出会い系 掲示板」と打ち込んだ。

 さっき見たような、援助交際が出来るような掲示板を探してみることに決め、底の見えない海の中に沈んでいくような重たい気持ちのまま、しばらく自分の目的に叶いそうなサイトを探し続けた。









 次の日。

 沙緒は、駅前にある噴水まで来ると、それを取り囲む塀に腰をおろしていた。

 緊張する。

 重苦しい気持ちのまま、沙緒は冷たさと固さを感じる塀の上に、ただじっと座っている。

 手先が緊張で冷たくなっている。

 どうしようもない状況に、沙緒は冷えた手を重ね合わすと、互いに擦り合わせて暖めようとした。

 昨日、動物病院から戻り。

 沙緒は一通り、出会い系のサイトや、援助交際が出来そうな掲示板を探しまくった。

 ここなら、なんとかなるのかもしれないというところへ辿り着き。

 沙緒は掲示板の全体の様子を見てから、しばらく悩んだ末に、書きこんだ。

 書く内容も悩んだが、書くこと自体を相当ためらった。

 ここに書きこんでしまえば、これからすることが現実になる。

 そう思うと怖くてたまらなかった。

 もう投げ出したくなる気持ちに何度も襲われたが、沙緒はそのたび、あの二匹の弱々しい姿を思い出しては、自分にやるしかないと言い聞かせ、逃げたくなる気持ちをなだめ続けた。

 沙緒が悩んだ末に書きこんだのは。

 『十九歳。処女です。今回限り、しかも一回だけしかしなくていい人を探しています。金額は十万以上で募集します』

 そう書きこんだ後、どれくらい反応が来るかもわからなかったので、沙緒は、そのまましばらくスマホの画面を時折更新しながら、反応を待ち続けた。

 金額的にも高いだろうし、誰も来ないかもしれない。

 このまま誰も書きこまなければいい、いや、誰か書きこまないと困る、という裏腹な気持ちを抱えたまま、書き込みの無い掲示板の画面を、ぼんやりと指で更新し続けていた。

 すると。

 一時間ほどして、ぽつぽつと書きこむ人が出てきた。

 しかし、どれを選んでいいのかがわからない。

 結局、最終的に八人程の人が書きこんで来たので、沙緒はもうひとつ書きこんでみる事にした。

 『顔をこの場でバラしてもいい人はバラしてください。その中から選びます』

 そう書いたって、本当にその顔の人が来るかなんてわからない。

 ネットなんて、そんなもんだろう。

 沙緒はそう思っていたが、きっとこれで二、三人まで絞れるのではないかと思っていた。

 いや、むしろ誰も書きこまなくなるかもしれない。

 また小さな期待を胸に秘めつつ、沙緒は自分が書きこんだ事に対する反応を待っていた。すると。

 三人だけ、反応があった。

 沙緒は、その三人が送って来た顔写真を、全員指でタップして開き、確認していった。

 どれもこれも、気持ち悪くしか思えない。

 いかにも変態そうな雰囲気と顔のおじさんと、ハゲでまったく女性に相手にされないような暗い顔をしているおじさんが出てきて。

 絶対無理だと思いつつ、最後の写真を開いた時。

 そのおじさんが現れた。

 どこにでもいそうな、顔。

 普通に、サラリーマンでいそうな顔。

 頭は少し薄くて、若干小太り気味にも思えたが、顔は温和そうで穏やかに見えた。

 だけど、こういうのが一番タチが悪いかもしれない。

 沙緒は眉間にしわを寄せながら、その最後のおじさんの写真と、十分ほど見つめ合い続けた。

 他の二人を対象として考えるのは、まったくもって論外だった。

 自分が誰かと寝ることを考えられるとするならば、もう、このおじさんしかいない。

 わかってはいたけれど、沙緒は自分をちゃんと納得させるために、ずっと写真とにらめっこをし続けた。

 ・・・これでいいか。

 これだけでわかるはずはないけれど、沙緒は真剣にどこか怪しく感じるところはないか考えながら写真を見続け。

 やっと静かに心がOKサインを出したのを感じると、そのおじさん宛てに書き込みをした。

『明日会えますか』

 短く書きこむと、おじさんはすぐに返信をくれた。

『会えますよ。時間と場所はどうしますか?』

 沙緒はその返信を見ながら、またしばらくの間、何も出来ずに固まってしまっていた。

 悩んだってしょうがないのは十分わかっているのだが、一つ一つの挙動がこれでいいのかどうか、自分の中で確かめずにはいられない心境に陥っていた。

 だけど、どんな反応をすることが、安全で正しいのかなんてわからない。

 この返信の内容やスピードが、いつも慣れている人なのかどうかもわからない。

 だからと言って、こんなとこを利用するのが初めてなので、何もわからないからよろしくお願いします、とは絶対に書きこめない。

 そんな隙を与えて、会った際に何かあっては大変だし、大体向こうだって私が処女だと書きこんでいても、本当か?と思っているだろう。

 沙緒は悩んだ末に、こう書きこんだ

『三谷駅の正面にある噴水で待ってます。時間は十二時』

沙緒がそう書きこむと、おじさんは先ほどと同様、素早く返信をしてきた。

『わかりました。目印になるようなものをお互い身につけた方がいいですよね』

 なんとなく沙緒は、このやり取りをしているおじさんが割と礼儀正しそうに思えてきたが、余計な事を考えないうちに今度はすぐに返信をした。

『上が紺のパーカーにTシャツで、下はジーパンとスニーカーの格好で行きます』

そう書きこむと、おじさんはまたすぐに返信をしてきた。

『わかりました。僕は上はチェックのシャツにベージュのベストを着て行きます。下は黒のズボンです。名前はゴウと言います』

 沙緒がそこまで書きこみを読んでいた後、おじさんは続けて書き込みをしてきた。

『あなたの名前は?』

 沙緒はなんだかおかしくなって、ふっと鼻で笑ってしまった。

 おかしなやり取りだなと、思っていた。

『私はミィです』

 沙緒は思いついたまま、名前を書きこんだ。

 ミィ、ミィと。

 小さく高い声で鳴いている猫たちの姿を、いつも思い出せるように。

 そう書きこんだ。

 おじさんは、またすぐに返信をくれた。

 『わかりました。ではミィさん。また明日』

 まるで、友達と学校帰りに別れる時の言葉みたいだ。

 沙緒はそんなことを思いながら、おじさんからの最後のメッセージを読んでいた。

 そんな言葉をやり取りする相手も、いつからいなかったんだろうか。

 沙緒は、ふと、そんなことを心で呟いた。

 誰とも話さない、孤独な高校時代を思い出す。

 グループの中から孤立してから、ずっと一人ぼっちで過ごしていた。

 クラスの中にたくさん人はいるのに、誰も自分とは会話をしない。

 あの冷たく寂しい空間を思い出す。

 親の事も家の事も、誰かと共有でも出来ていたら。

 まだ安らげたり、癒されたりしたのだろうか。

 素直に話してい・・・。

 沙緒は、自分の心が思うがままに呟いた言葉に。

 一瞬、何もかもが凍りつくような気持ちになっていた。

 何、言った、私。今。

 自分が発した言葉なのに、それは沙緒の今までの根底を揺さぶるような衝撃を与えていた。

 違う。

 沙緒は首を横に振った。

 あれで良かったんだ。間違ってない。

 沙緒は、首を横にぶんぶんと勢いよく振り続けた。

 あの人たちは、私のことなんか、何も見ていなかった。

 私のことはどうでもよかった。

 ただ、自分たちのことだけで精いっぱいだったじゃない。

 あの頃。

 みんな、卒業後の将来のことを考えていて。

 その話だけで、毎日いつもいっぱいだった。

 私だけ、いつも。

 誰にも相談できない、誰にもわかってもらえない境遇を抱え込んでいて。

 頭がおかしい親との関わりで、すべてが崩れ去りそうで。

 でも、みんなは明るい未来に向かっていて。

 文句を言いながらも楽しそうで。

 私は、どうしていいのかわからなかった。

 ついていけなくなった世界と会話から、勝手に離脱したのは私だけれど。

 誰も、私の苦しみなんてわからないと思っていた。

 だから一人になった。

 間違いではない。

 それでいいんだと思ってる。

 今も。

 沙緒は思いもかけずよぎった言葉を打ち消すように、ずっと自分に言い聞かせた。

 自分の選択は間違いではないと、信じるために。

 沙緒は、スマホの画面をホーム画面まで戻すと。

 そのまま、またゴロリと手製のカーペットに横たわった。

 いろいろと考えたり疲れたりで、お腹も空かなかった。

 目の前には、空っぽのダンボールが置かれている。

 中身が入っていなければ、その向きも適当だった。

 それはただの、箱だから。

 沙緒はそのまま、毛布を手で引き寄せると、頭からすっぽりとかぶって体を小さく丸めた。

 ここは今、一人しかいない。

 ミィと、可愛い声で鳴いてくれる子猫たちもいない。

 沙緒は急に寒さが増したような気がして、ぎゅっと毛布を強く体に巻きつけるようにして抱きしめた。

 眠るには早い時間だったが、沙緒は結局そのまま眠ってしまい。

 目が覚めると、朝の八時を過ぎていた。

 通勤や通学の人が、目の前の道路を往来する時間帯なので、沙緒は目を覚ました後、一度体を起こしたものの、まだ出歩けないからと横になり、そのまましばらく大人しくしていた。

 目ざまし時計がさす針が、九時半を過ぎた頃。

 沙緒はようやく、行動に移し始めた。

 今日のミッションを遂行するために。

 それはまた、自分にとって大きな痛手にもなる日でもあった。

 好きでもない人と、体の関係を持つのだから。

 沙緒はリュックに、タオルや歯ブラシなどの洗顔セットを詰め込むと、物置から顔を出し、辺りを窺った後に、出来るだけそっと静かに扉を開けて。

 また、人一人分くらいしか通れないスペースだけ開けると、そこから体を外に出し、傍から何も変わらぬように見えるよう、なるべく静かに扉を閉めた。

 沙緒は、最寄りのスーパーまで歩き、中に入ると真っ直ぐトイレに向かって。

 リュックから必要なものを取り出し、顔を洗い、歯を磨いた。

 お腹は少し空いていたが、金銭事情を思うと、とてもじゃないがもう何も買えない。

 沙緒はスーパーのトイレで目的を果たすと、そのまま何も買わずに後にした。

 そのまままた、敷地内の物置まで戻ってくると、卓上コンロに火をつけ、鍋でお湯を沸かし、カップ麺に注ぎ入れる。

 安ければいいと買ったものだから、味はたいして美味しくはなかった。

 とりあえずお腹が満たされればいいと、ひたすら噛んで飲み込む事を繰り返して食事を済ませると、沙緒は充電器をスマホに繋いだ状態で時間つぶしの為に画面を眺め始めた。

 充電器の電池も、そろそろ買って取り替えないといけない。

 それほどもたないのはわかっていたが、買い替えるとなると、それもまた結構負担になりそうだと思っていた。

 大体、このスマホがいつまで使えるのかどうか。

 親が、沙緒が家出した事実を知った後、まぁ適当に好きにしなさいと思っていたら。

 今までスマホは親が契約していて料金も払ってくれていたけど、それも解約されてしまうかもしれないと思っていた。

 そんなことを思っていると、思っていたよりもずっと親の世話にはなっていたのだと気付いてくる。

 でもそれをそうだったんだなと認めるのは、とても癪で嫌だった。

 スマホがなくても、最悪生きていけるかもしれないから。

 親に対して、変に肯定できるような材料を見つける気はなかった。

 世話になったとも思いたくもない。

 あんな『親』という形だけで存在している、『普通』が大好きな変態なんて、この世になんて居る意味無い。

 一瞬、よぎった思いをひたすら打ち消す為に、ひどい言葉を並べ連ねて。

 それで、今までたまりにたまっている親への憎しみに近い不満と、自分との距離感への折り合いをつけた。

 早く働かなくちゃいけない。

 そうすれば、一つ一つが解決されていくだろう。

 そんなにお金がなくったって、たとえ思うように稼げなくったっていい。

 あの子たちと一緒に暮らせる場所が見つけられたら、それでいい。

 沙緒は、自分だけの家を想像して。

 そこに、元気になったあの子猫たちが楽しそうに走りまわったり、コロコロと転がりながら遊んでいて。

 そんな情景を、優しく見つめている自分を想像していた。

 それはとても心を穏やかにさせて。

 沙緒を一瞬、幸福の時間に溶け込ませた。

 そんな日が来るように、頑張るだけだ。

 今を越えて行けば、その現実に近づく。

 それまでの、辛抱だ。全てが。

 必ず子猫たちと幸せに暮らせる日は来るんだから。

 沙緒は、そう自分に言い聞かせて、ここまで来た。

 噴水の塀に腰を下ろしたまま。

 もうじきやってくるであろう、掲示板の男を待ちながら。

 ずっと、今だけの辛抱、今だけの辛抱と。

 呪文のように、自分に言い聞かせ続けた。









 ぼんやりと、いろいろな事を考えながら。

 一体、どれくらい経ったのか。

 沙緒が噴水の塀に座ったのは、約束の時間の十五分は前だった。

 それから、沙緒はずっと、ぼんやりと考え事をし続けていた。

 プァーッと空気が抜けるようなバスのクラクションが聞こえ、バスが停留所から発車していくのが視界の端に見える。。

 沙緒は、そのまま、なんとなく走り去るバスを眺めていた。

 おもむろに、パーカーのポケットに入れていたスマホを取り出す。

 時間は、十二時五分。

 約束の時間は過ぎていた。

 でも、もうじき、来る。

 あの写真の人が。

 沙緒は一度、大きく息を吸い込んで、また大きく吐きだした。

 肩が呼吸に合わせて、大きく上がり、また下がる。

 気持ちが少し楽になるかと思ったけれど、何も楽にはならなかった。

 大半はこれから起こることに対する緊張だと思われたが、その隅には本当はこんなことをしたくないと言う自分もいるのはわかっていた。

 緊張するのは、当たり前だよね。

 顔だけは見せてもらったけれど、まったく、知らない人に会うんだから。

 初めまして、って会って、その後すぐホテルに行くんだから。

 わかっていても、納得しているからここにいるはずでも、改めてそう考えると、一気に心が重くなった。

 彼氏がいたことがあったならば、まだ違ったんだろうか。

 そんな他愛もない言葉が、また沙緒の心にぷかりと生まれては、消えていく。

 何度か、彼氏が側に居る光景を、沙緒だって理想で描いたことはある。

 でも、現実としては、そうなることを想像できなかったし、自分が積極的に男子に関わっていって話している姿も想像つかなかった。

 なのに。

 私はこれから、まったく初めて会う人と。

 セックスするんだ。

 あんなおじさんと。

 沙緒はそう心で呟くと。

 何とも言えない、自分への変な違和感を感じていた。

 セックス。

 なんて、言い慣れない言葉。

 そりゃそうだろう。

 今までで一度も彼氏が出来た事がないから、言葉としては知っていても、今の今まで身近に感じたことがない言葉だったのに。

 知らない人と、そんなことをする現実が迫っている事が。

 どんなに明るい未来を予想してみたり、可愛い子猫たちを思い出しても。

 やはりどうしても、この現実は何よりもしんどくて、辛いことに思えてきていた。

 はぁと、大きくため息をつく。

 その回数が増えるたび、ますます心の中に黒い雲が漂ってくる。

 沙緒の心に重く広がっていく黒い雲は、もう少し経つと隙間もないほどに覆い尽くし、やがて雨でも降りだしそうに思えた。

 これでいいんだろうか。

 本当に。

 弱気な沙緒が、心の中で、小さくもがくように暴れ始める。

 本当にいいのかな。

 知らない人と、こんなことして。

 変なことにならないのかな。

 掲示板には一回限りと書いたけど、その場になったら力づくで何度も襲われたりしないのだろうか。

そんなことを思うと、ぶるっと体が一瞬震えた。

 沙緒の自問自答は、延々と繰り返される。

 そんなことになったら、一回十万だって言ったでしょって言ったって、通用しなくなったりするのかな。

 あんな一見穏やかそうな顔していたけど、実はすごく暴力的な人だったらどうしよう。

 いきなり何度も殴られて、お金も払ってもらえなかったら・・・?

 沙緒の悪い想像はどんどんと加速し。

 想像が深まる分だけ、顔がどんどんと歪んでいく。

 無意識に太ももの上にある両手を、ぎゅっと握りしめる。

 逃げたい。

 今すぐ、ここから逃げたい。

 胸が苦しくなり、沙緒は握りしめた両手に、変な汗をかきだしている事に気づいていた。

 ここまでしなくたっていいんじゃない?

 もし亡くなっちゃったら、もうそれはそれで寿命ってことでいいんじゃない?

 沙緒はそう、自分に言い聞かせてみる。

 昨日も一瞬よぎって、自分を戒めるように否定した言葉が。

 またよぎる。

 沙緒がここで、すべてを放り投げて逃げてしまえば。

 沙緒の手の中で弱々しく、か細い声で鳴いていた子猫たちの息の根を止める事に繋がってしまう。

 命を繋ぐためには、お金が必要だ。

 今すぐ。

 そうでなければ、あの二匹の子猫たちは死んでしまう。

 せめて助かりそうな子だけでも、どちらかでも助けてあげたい。

 精いっぱいやってダメなら、まだ悔いは残らない。

 だけど、ここで放り投げたら、私は本当にダメな人間になってしまう気がする。

 逃げ出したい気持ちでいっぱいの沙緒の脳裏に、手の中で柔らかく弱々しい体で鳴いていた子猫たちがよぎっていく。

 ダメだ・・・逃げられないよ。

 沙緒の手には、まだ。

 あの小さなぬくもりが、しっかりと残ってしまっている。

 あの子たちを助けるのは、自分しかいなくて。

 他の誰も助けになんか来てくれない。

 私しかいないのだから。

 沙緒は手のひらをじっと見つめる。

あの暖かなぬくもり。

 あれが冷えてしまうことは考えられないし、考えたくなかった。

 ならば、こうするしかない。

 今すぐお金を得るには、これしかないんだ。

 沙緒は自分を納得させるため、再度、呪文のように自分に繰り返し、そう言い聞かせ続けた。

「・・・すみません」

 頭の上から声が降ってきて、沙緒はビクッと大きく体を震わせた。

「あの・・・すみません」

 また、低くて太い声がする。

 中年の男の人の声だ。

 沙緒はそうわかっていたが、恐怖で顔を上げられず、ぐっと体を無意識に固くしたまま、小さく縮こませていた。

「あの・・・ミィさんですか」

 その名前を聞いて、沙緒は『来た』と心で呟いた。

 ギュッと目を強く閉じる。

 この時が来てしまった。

「あの・・・」

 沙緒は、肩で大きく息を吐く。

 唇を噛み締めていたが、すでに目の前に立っている中年の男の二本の足を見て、もう逃れられないことを感じていた。

「・・・はい」

 沙緒はゆっくりと顔を上げた。

 まるで、これから拷問にでも遭うかのような辛い顔をしていたのだろう。

 目の前の中年男性は、一瞬ひくっと顔をひきつらせた。

 ・・・おじさんだ。

 思いきり。

 沙緒は目の前の中年男性の見た目を、上から下まで眺めていった。

 襟元がよれよれになっている、チェックのシャツ。

 その上から、Vネックのベージュのベストを羽織っている。

 下は、一本タックが入った綿のパンツのようなものを履いていた。

 色は黒だ。

 足元の靴は、紐のない、ローファーに似たような革靴だった。

 どちらかといえば、薄汚れている。

 そこまで見ると、もう一度顔を上げた。

 髪は思っていたよりも、薄くはない。

 五十代くらいだろうか。

 肌は少し黒目で、きょとんとした小さめの目の中が、動揺しているかのように右往左往しているように沙緒には映った。

 高くも低くもない鼻。

 少し厚めの唇は、肉感があり、ぽってりとしている。

「あ・・・の」

 興味のない顔で、おじさんを見ていると。

 なんだか、変に。

 知ってるようで知らない、このおじさんという目の前の生き物が、滑稽な置物のように思えてきた。

 なぜ、この人は。

 ネット上で、若い女の子を買おうとしているのか。

 しかも高値で。

 そんなに、男の人って性欲を持て余すものなのだろうか。

 自分にはわからない感覚を想像してもどうにもならないけれど、沙緒は目の前のおじさんをぼんやりと見ながら、そんなことを思っていた。

「あの、ミィちゃん」

 二度目に呼ばれて、沙緒はハッとして目を開く。

 手のひらで。

 小刻みに震えるように縮こまっていた、あの柔らかい毛並みの体。

 小さく小さく鳴いていた。

 その声のとおりの名前を、勢いで自分につけてみた。

 そうすればどんなに嫌になったとしても、勇気が出るような気がしたから。

 今となっては、それはやはり正解だったと思える。

「そろそろ、その、あの、行こうか、ね」

 若干、ためらうような口調で、おじさんは誘ってくる。

 沙緒を誘うことに、戸惑いのようなものを言い方では感じたが、どうやらホテルに行く意思は固いらしい。

 口調はためらっていたけれど、体は目の前から動かない。

 沙緒には、行く気は満々のように思えていた。

「・・・」

 沙緒は黙ったまま、ゆっくりと立ち上がった。

 体を動かすことが、億劫でしょうがない。

 体中にドロリとした鉛が詰まるにいいだけ詰まっているような感覚で、指先一本さえ、動かせない。

 そんなんならいいのに、と思っていた。

 なんならその鉛を抱えたまま、地面に沈んでいってもいいけれど。

 動きたくても動けないような状態になってしまえばいいのに、と。

 沙緒はどうしようもないことを、頭の中でグルグルと繰り返した。

 沙緒が無言であれ、とりあえず立ち上がったのを見たおじさんは、いくぶんホッとしたのか、小さく微笑んだ。

 こう見ると、やはり、そんなに悪そうなおじさんには見えない。

 沙緒は、人の良さそうなおじさんを相変わらずぼんやりと見ながら、おじさんが自分の前を歩きだすのに従い、同じ方向へと歩きだした。

 なんだか、フワフワする。

 沙緒は歩きながら、おかしな浮遊感を感じていた。

 なんだか、これは。

 どこか違う、お隣の世界にでもいるんじゃないかと思ってしまうくらいに。

 自分のしている事に、一切、現実味を感じられない。

 まるでパラレルワールドの世界にでもいて、どっか遠くから歩いてる自分を眺めてる。

 そんな感覚にさえなりそうだった。

 沙緒は、怪しい足取りで、フワフワと頼りなく歩き続ける。

 もしも、この今いる世界が。

 本来の、実際住んでいる世界とは違う、お隣の世界で。

 知らないおじさんに付いていっていて、十万で体を売ろうとしている私を、違う世界から見ている私が、何やってんのよバカみたい、って笑っていたりしてたとするならば。

 それは一体、どんな世界なんだろう。

 そこには、こんな今の私とは違う、幸せそうに笑っている自分が居たりするんだろうか。

 たとえば、ちゃんと好きな人と付き合っていて、当たり前のようにその相手とセックスしていたり。

 両親と普通に、仲良くしてるような自分がいたりするんだろうか。

 そんなことを考えていると、歩いている自分の周辺もどこかしら。

 ぼんやりと霧ががっているような感じに見えてくる。

 ここに居てここに居ないような、おかしな感覚のまま。

ずっとおぼつかない足取りで、フラフラと沙緒はおじさんの後をついていく。

 一体、自分はどうなっていくんだろう。

 湧いた不安が心で呟いた言葉は、沙緒が今まで感じたことのないような得体の知れない怖さを呼び起こし、それは背中をザッと冷たく走り抜けていった。

 現実逃避をしながら、歩くのが精いっぱい。

 沙緒は、とめどなく湧きあがる不安や想像に耐えながら、おじさんの後ろを付いて歩き続けた。










 ラブホテルなんて、初めて入った。

 おじさんは、ホテルらしい入口に入ると、それぞれの部屋の内装が写真で並んでいる場所の前に立ち。

 部屋ごと区切られている写真の一部についているボタンを、気軽な感じでぽんっと押した。

 部屋に関しては、何処でもいいと思っていたのかもしれない。

 パッと写真を見て、何も考えないようにすぐ押したところを見ると、そんな感じが見てとれた。

 ボタンを押した部分は蓋になっていて、上へ開くようになっていたらしく、その蓋の中にあった鍵を手にすると、おじさんは足取りも軽く、そのままホテルの中へとドンドンと入っていく。

 もう、逃れられない。

 ずっと、現実逃避で沙緒を癒し続けた適当な空想も、もうここでおしまいだ。

 嫌でたまらない現実がやってくる。

 沙緒は憂鬱と、締め付けられるような胸の傷みに襲われながら、さっきよりも足取り重く、先を進むおじさんの後に付いていく。

「ミィちゃん」

 一瞬、自分が呼ばれていると気付かず、イヤイヤな状態で俯きがちに歩き続けていると。

 目の前にいつのまにか、おじさんの両足が飛び込んで来た。

「ここだよ」

 おじさんは頭上から私に声を降らすと、部屋のカギ穴にカギを差し込み、ガチャリという音と共に扉のロックを外す。

 沙緒は、これから処刑でもされるような気持ちで、おじさんが開いたドアの向こうを視界の端で捉えた。

 普通のホテルのように一見見えるが、大きなベッドらしきものが確認出来て。

 沙緒は思わず、喉の奥から、グッと何かがこみあげてきそうになった。

「ミィちゃん、どうぞ」

 おじさんは、開いたドアを後ろ手で押さえながら私を呼ぶ。

 さっきよりも、声が嬉々としているのを感じて、余計に吐きそうな気持ちに襲われていた。

 なに、それ。

 顔を合わせた時や、ホテルに入るまでの道中は、どこかためらいがあったのに。

 本当にこんなことしていいのかな、みたいな声色だったのに。

 何かを気にしているかのようだったのに。

 ここまで来たらもう安心、みたいな事なんだろうか。

 ドアを開いた状態で待たれているので、仕方なく、小さく小さく歩を重ねて行く。

 アリよりも遅そうな一歩だったが、おじさんはドアを手で押さえながら、じっと沙緒が中へ入ってくるのを待っていた。

 立ち止まっているのに、なんだか浮かれたように、少し体を左右に揺らしている。

 テンションが上がってきているのかもしれない。

 気持ちのわかりやすい人だな、と、沙緒は意識の端っこで思っていた。

「意外に広いね」

 雑談か。

 沙緒は心の中で、ツッコミを入れる。

 おじさんはドアを閉めると、沙緒を追い越し、どんどんと部屋の中へ歩いていく。

 辺りをきょろきょろと見ていたが、すぐにベッドへと目をやった。

 その姿を後ろから確認すると、尚一層、吐きそうになる。

 なんでこんな知らないおじさんと、これからあのベッドの中でいいだけ転がりまわらなくちゃいけないんだろう。

 ゴロゴロとベッドの上で、裸で転がっている自分を想像すると。

 なんだかやたらと、滑稽だった。

 あの、中年太りぎみのおじさんと、一糸まとわず絡みあう。

 ゴロゴロ、ゴロゴロと。

「ミィちゃん?」

 描いた想像で気持ち悪くなっているのにもかかわらず、なぜか笑いがこみあげてきて、唇を噛んで俯き、声に出さないように耐えた。

 もう、気持ちのバランスがおかしくなっているのが、沙緒にもわかっていた。

緊張とストレスと逃げ出したい気持ちと、これから起こるであろう状況への気持ちの悪さで、きっといいだけ感情が混乱しているんだろう。

 泣きたいんだか、笑いたいんだか、どうしたいんだか。

沙緒にはわからなかった。

ただ、ここに居るのが、とにかく辛かった。

「じゃ、あ・・・シャワーでも浴びるかい?」

 おじさんは、沙緒から5メートルほど離れた場所にある窓の傍に立ち、壁に寄り掛かるようにした姿で沙緒に尋ねてくる。

 一応、余裕そうな雰囲気を醸し出しているところを見ると、今のところ、急に追いかけてきて捕まえて、床やベッドに勢いよく組み敷くような真似はしないつもりらしい。

 もう笑いはこみあげてはいなかったが、沙緒は唇を噛み続けているのをやめられなかった。

 噛むのをやめると、なんだか。

 何かが出てきそうで。

 叫び声か、涙か、わからないけれど。

 自分の体の奥から、何か得体の知れないものが、一気にほとばしりそうだった。

 ぐっと小さく喉の奥が鳴る。

 息が詰まったように。

「ミィちゃん」

 そう呼ばれると、また。

 手のひらに居た、弱々しい感触の子猫を思い出す。

 沙緒はその姿に、一度、ぎゅっと強く目をつぶり。

 噛み続けていた唇を解放した。

 抑えていた気持ちを、もっともっと気づけないほど、感覚がなくなるほど。

 奥へ奥へと押し込められたらいいのに。

「・・・おっ」

 おじさんが、意外とでも言うような声を小さく漏らす。

 どんな感情なのか計り知れなかったが、ちゃんと沙緒の顔を見たのが初めてだったんだろう。

 沙緒はずっと最初から、ほとんど俯きがちで、ちらりとか睨むような顔でしか、おじさんを見ていなかったからだ。

「・・・あ、ほら。なんだっけ。芸能人の、あの子に似てるよ。ほら、あの、ちょっと可愛い感じの」

 明らかに気を遣っているのがわかる声色で、おじさんは沙緒を作り笑顔で褒め出してきた。

 別に、無理やり誰かにあてはめなくったっていいのに。

 うんざりするような気持ちで、目を半眼にしながら、おじさんの笑顔を遠くに見る。

 このままずっと、この目の前の世界を、視界の遠く遠くに追いやりながら見ていたい気持ちだった。

「シャワー入るかい?それとも入らないでいいかい?」

 おじさんはそう言いながら、上に着ていたベージュのベストを、部屋が暑く感じるからなのか脱ぎ出す。

 その脱いだ仕草に、一気にザワッ!と、急に悪寒が走った。

 沙緒は思わず、体を両腕で強く抱きしめる。

 とっさに働いた防衛反応だった。

 じりじりと、体がドアの方へと後退していく。

 逃げたい。

 それが素直で率直な、今の気持ちだった。

「ミィちゃん」

 キモい。

 おじさんが脱いだベストを手にしたまま振り返り、沙緒の顔を見た時。

 沙緒は瞬間、心で呟いた。

 口にも出てたかもしれない。

「ミィちゃん、どうした?急に顔をこわばらせて」

 優しそうな顔で尋ねてくるが、余計に気持ち悪いだけだと沙緒は思い。

 体はまた一歩、ニ歩と後ろへ下がっていく。

 ドアへ、ドアへ、と。

 おじさんは、沙緒が逃げたがってるのに気づいたのか、ちょっとうろたえるような顔をした後、急にニコニコしだした。

「シャワーに入りたいのかな。入ってきていいよ。僕ここで待ってるから」

 待たなくていいから。

 沙緒はまた、後退する。

「あ、ほ、ほら。約束のお金」

 おじさんは取り繕うような笑顔で、ズボンのポケットから茶色の皮財布を出すと、折り畳んだ財布を開いて、札入れの中から札を数枚取り出した。

 そしてベッドの上に、パサッと軽く投げるように置く。

 沙緒はそれを見た瞬間、後退する足を止めた。

「確かめてもいいよ、十万だったよね」

 どうやら、一応ちゃんと金額は用意してくれているらしいが、それも実際手に取ってみないとわからない。

 沙緒は足を止めては見たけど、置かれた場所がベッドなだけに、そこへ近寄る気にはなれなかった。

 でも、お金を目の前にした時。

 沙緒はまた、今の現実を思い返していた。

 お金が無い。

 あの子たちを救えるお金が無い。

 その現実を。

「・・・あ、ベッドだから嫌か」

 おじさんは頭をポリポリと掻くと、ベッドの上に置いた札をもう一度手に取り。

 沙緒へと近づいてきた。

 沙緒はビクッと体を震わせると、また後退しようと体をこわばらせていたが、その姿がおじさんには逆に好感を持たせたのかもしれない。

 嫌らしい雰囲気を消して、おじさんは沙緒へ近付きはしたが、沙緒へとの距離をそのまま詰めるのではなく、途中にあった鏡が備え付けられているドレッサーのような物の上にお金を置くと、そのままさっきまで立っていた窓の方へと後退していった。

「そこにある金額確かめていいよ。先にもらってもいいから」

 そう言われて、沙緒は窓のところまで、また戻っていったおじさんの姿を目で捉えたまま、静かに机まで近づいて行った。

 その上に置かれているお札を、おじさんから目をそらさずに手に取る。

 手にした瞬間、襲われたら嫌だったからだ。

 でも、おじさんは沙緒を穏やかに見ていて。

特に襲ってきそうな雰囲気は感じられなかった。

沙緒はそうっと、徐々に伸ばしていった手に紙の感触を感じると、掴んだお札に目を落とした。

 枚数は、確かにありそうだ。

 沙緒はおじさんにまた鋭く目をやったが、おじさんは見守るような顔で沙緒を遠くから見ている。

 沙緒は警戒したまま、手の中のお札にまた目を落とし。

 重なるお札を、しっかりと一枚ずつ確かめるように数え始める。

 十万。

 確かにそこにはあった。

「・・・理解した?」 

 おじさんは、気を遣うように問いかけてくる。

 沙緒は黙っていた。

「・・・君の姿をずっと見ていたら、これはぼったくりじゃなくて、本当に処女なんだろうなって思ったよ」

 おじさんは、少しいたわるような顔で沙緒を見つめた。

 沙緒は警戒する顔のまま、おじさんを見る。

「本当にいいのかい?なんでこんなことしているのかわからないけれど。何か事情があってやっているのはわかるよ。遊びやふざけて何かしたいわけではないのはわかるから」

「・・・」

 沙緒は黙って、警戒を解かずにおじさんを見つめる。

「こんな方法じゃなくても、何か方法がないのかなと思ってはいるよ。今は」

 おじさんは諭すように、沙緒に話しかける。

 沙緒は答えの替わりに、手にした紙幣をぎゅっと握りしめた。

「まだ若いんだろう?十九って書いてたけど。僕四十九だからね。娘でも全然おかしくない年頃の子だし、君の警戒する姿を見ていたら、好きでこんな事をしてるんじゃないのはわかったから。無理しない方がいいんじゃないかなと思ってるよ」

 おじさんはそう言いながら、窓の下に置いてある、丸いテーブルと二脚の椅子のセットのテーブルの上に腰を下ろした。

 悪い人じゃない。

 沙緒は、おじさんを初めて見た時、そう思ったけれど、それは間違いではなかったのだと思っていた。

 普通の、気の良さそうな中年の男の人。

 なんでこんなのを利用しているのか分からないけれど、そんな悪い人ではないのだと沙緒は思っていた。

 でも。

 沙緒は手にしているお札の感触を、もう一度思い返す。

 わざと、手を動かし、お札の感触を手のひら全体で確かめる。

 もう、戻れない。

 誰かに助けてもらえるような手は他にない。

 これしか方法がない。

 沙緒は、くしゃくしゃとわざと荒く手を動かしながら、重なったお札が立てる音を聞いていた。

「・・・いえ」

 沙緒は、口からやっと言葉をこぼす。

「いいんです。これで」

 沙緒はそれだけ答えると、お札をジーパンのポケットにねじ込んだ。

「シャワー入ってきます」

 沙緒はそう言うと、そのまま部屋に入ってすぐ左手にあった浴室へと向かい、扉を開くと中へ入る。

 そこは小さな洗面台があり、浴室へと繋がる扉は、アクリル板を曇らせたような素材で、真ん中から折り曲がって開くタイプのような扉になっていた。

 もう戻れない。

 あの子たちの為に。

 沙緒はそう自分に強く言い聞かすと、着ていたパーカーを脱ぎ始め。

 バサッと、洗面台のヘリへとかけた。









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