第一章 輝石学園マネージャー科
見慣れない教室に、これまた見慣れない教師が教壇に立っている。どういう意味を持っているのかわからない端が扇に開いた黒板。
公立中学校とは違い木製のイスではなくプラスチック製の椅子が落ち着かなくてもぞもぞと体を動かす。
座っている俺は気まずそうに辺りを見回した。教室にいる人間の制服はそれぞれ違っている。学ランの人間もいればブレザーの人間もいるし見たことないような制服を着ている者もいた。
高校入試の会場なんだから当然か。
「それでは試験概要を説明する!」
紫っぽい口紅に鋭い眼付きの四十くらいの女性は生徒に威嚇するように声を張った。その声にぴくりと思わず背筋が伸びてしまう。後ろの席ではガガっと椅子の脚が擦れるような音がした。
試験前の独特な緊張感が辺りを包む。周りの人間は不安などでいっぱいいっぱいだろう。ただ俺は不安よりも困惑の最中にいた。
ここは輝石学園マネージャー科の試験会場だ。しかし、俺はこの場所には存在してはいけない人間だった。机の右上に置いてある受験票を見る。
そこには田中太郎という名前が記されていた。
俺の実名は大元空である。
☆
「ねぇねぇ、今度『輝石学園生』のライブに行こうよ!」
「いいけどチケット取れるかなー」
「結構きついけど生ユリちゃん見たいから絶対行きたい!」
「アンタ、ユリカ推しだったんだ」
女子大生らしき女子二人組が甲高い声を出して楽しそうに話している。和気あいあいとなにかについて語っているようだった。
「冷えるな……」
凍えた手に息を吹きかけると、白い煙が空に抜けていった。これ以上限界だ。俺は制服のズボンのポケットに手を突っ込む。外にさらされた駅のホームは本当に冷えるよな。
隣にいるサラリーマンはマフラーに顔を埋めてまだ電車が来ないのかと腕時計を見ている。俺もそれにつられて電光掲示板に目を向けた。
八時十分到着予定か。七分後だな。
まだこれに耐えないといけないのか。肩にかけていたリュックの片方がずり落ちてしまう。
中学三年生の一月二十八日。
俺は自宅から二十分の駅のホームに立っている。
周りには俺と同じ制服を来た人間が数人いた。そのほとんどが参考書や教科書を開き来るべき試験に備えていた。
ここにいる中学生のほとんどが今日受験なんだろうな。
勿論俺も今日は高校受験の試験日――ではなく会社の面接だった。担任の知り合いの会社でバイトからではあるが、社員としての登用も見越した面接を行ってくれるらしい。
なぜ高校受験をしないのか、と聞かれれば少々話が長くなる。
女手一つで俺を育ててくれたお母が病気で倒れた。中学三年の秋の出来事だ。
学校の担任から聞かされたときは現実味の無さに思わず苦笑いしてしまう。担任に荷物をまとめるよう促され呆然とリュックに教科書を詰めていた。
今朝まで元気だったのに。笑顔を覗かせていたのに。
疑問はとめどなく溢れてきたが、気が付けば病院に着いていた。
看護師に案内されて扉を開けたその先には思いの外、元気そうなお母がいた。病衣を身にまといベッドに座っている。
顔色は良かったと思うし、こっちの顔を見るなり『学校をサボるな』と怒鳴られたときは倒れたのはなにかの間違いかと思った。
安堵したのも束の間。医師から病気の状態を聞かされた俺は、お母よりも病人らしい血色のない顔をしていたはずだ。
癌。という病気らしい。ドラマやテレビでよく聞く病名だった。中学三年生の自分には詳しいことはわからなかった。けれど重い病気、という認識は、はっきりと持っていた。
先の見えない入院生活になると医師は話していた。数ヶ月で治る人間もいれば数年かかる人間もいる。最悪の場合死ぬこともあるそうだ。
それを聞いた俺はお母に死神の鎌が迫っているのに頭が空っぽになってしまう。
そこから医師がこれからについて色々と語ってくれたが動揺や不安から、それと単純に話が難しくて不明瞭な記憶となった。
ただはっきりと記憶に残っていたのはお金についてだった。
これからお母が働けなくなる。保険料が降りるようだったが、それは微々《びび》たるものらしい。具体的な金額はわからない。
医師は俺に身の振り方を親と相談したらどうかと言われた。
身の振り、というのは高校に進学するのか働いてお母を支えるのか。そういうことだった。すぐにこの話をお母にした。
「ガキが金を気にすんじゃねーよ。一応蓄えだってあるんだ。心配するな」
俺を睨みつけて放った一言。声が震えている様子もないし強がりのようには見えない。普通の人から見れば。
ただ十五年も育てられていればわかることがある。
うちに蓄えなんてものが存在するはずがなかった。
その日その日の御飯を工面するのに大変なのに蓄えがあるなんてよくも言えたものだ。
毎日深夜に家計簿と顔を突き合わせて頭を抱えるお母姿を何度も見ている。
強がりで出た発言というのは容易に理解できた。
俺の選択肢は働く以外になかった。
元々頑張って育ててくれたお母の手助けをしたいと思っていたし、高校を卒業すればすぐに働く予定だった。
三年早まっただけでどうということはない。
それを打ち明けてからのお母は大変だった。
「ふざけんな! てめぇごときに心配されるほど落ちぶれちゃいねーよ!」「こんな病気くらい飯食って寝とけば治る!」「確かにいつも家事とか手伝ってもらってありがたいけど、お前がそこまで抱える理由はないんだぞ!」
声を張っては俺に威嚇を繰り返していた。
俺も段々とムキになりお母と一緒に病室で掴みあったときはさすがに看護師に怒られたっけ。
しかし、数週間もするとお母の態度が一変した。
闘病のせいで精神的に弱ってきていた。髪の毛も抜け落ちて体もどんどんと細くなっていった。
そうなってくると段々と俺の働く意思を汲んでくれるようになる。
だが、決まってお母はこう言った。
「バスケはいいのかよ」
この話をするときだけお母の顔が暗くなる。
こう見えても俺はバスケがうまかった。県選抜にも選ばれたりして、高校も強豪校の推薦が決まっていたほどだ。
三年生になってからバスケ雑誌に取り上げられることもあった。
だが、それがどうした。
「バスケ? ああ、どうでもいいよ。疲れるだけだし。将来的にそれでお米が食えるわけでもないしな」
たまたまやめるのが三年早まっただけ。
それだけのことだ。未練はないし後悔もない。
むしろ今すぐにお母の力になれるほうが嬉しい。
素直に思えた。
お母はそんな俺の態度を見て暗い顔をさらに暗くしていたが、気にすることもないのに。
そんなことがあって俺は今駅のホームに立っている。
クラスメイトからは同情する声をかけてもらったが余計なお世話だ。
わかったように話されるのは腹立たしいが、俺を思って言っているので堪えた。
そろそろ電車が来る時刻になりそうだ。俺は一歩黄色い線に近づく。
すると、足元に文庫本くらいの面積の紙が落ちているのに気づく。
俺はそれを拾い上げると愕然とした。
これ、受験票じゃん。
「えぇ……」
どんなドジっ子だよ。こんなに大切なものならしっかりと管理しておけって。
俺は呆れた溜息が出てしまう。
偶然にも同じ中学校の奴で顔写真も貼られていた。
見覚えないけど制服同じだし、すぐに見つけられそうだ。
おそらくこの駅のホームのどこかにいるだろう。
俺は辺りを見回して同じ制服を着た写真の人物を探そうとするが、見つからない。先の電車で出発してもうここにはいないのか。
『まもなく一番線に――』
聞きなれた女性のアナウンスがホームに流れる。やばい。
どうしたものか。これは俺の学校に届けるべきか駅員に渡すべきなのか。
幸い受験票に書かれた試験開始時間は十時となっている。
随分遅い時間にやるんだな。
まぁ、どうでもいいか。
どちらの選択肢を取っても落としたのにすぐに気づけば問題なく試験は受けれるだろう。
俺はもう一度受験票の顔写真を確認しようとする。
「ん?」
この紙が輝石学園マネージャー科を受験するためのものだと気付く。
輝石学園。どこかで見たことがある気がする。
お母が入院している病院の通り道に馬鹿でかい学校があったな。確かその名前は輝石学園だったような。
だとすればちょうどいいかもしれない。
今日はお母の見舞いに行ってから面接に行くことにしていた。
早い時刻に出ているのはその病院から歩いて面接地まで向かうためだ。
六キロ離れているが、電車賃を安くしたいから文句は言ってられない。
そのついでにこの受験票を届けるか。とりあえずなくしても試験会場には絶対に向かうだろうし。
と、電車がやって来た。曇った電車の窓の中はすし詰め状態なのが確認できる。
本当に東京の電車はやばいよな。俺は思わず顔を強ばらせてしまう。
ドアが開くと何人かの人間が降りる。
それを確認すると、冬の満員電車特有の生暖かい車内に突撃し、自分の陣地を確保する。
後続の人間も次々に乗り込み身動きがとれなくなった。苦しい。電車が動き出す。
こうなると特にやることもないのでなんとなく吊り広告に目を向けた。
そこには『世界的人気アイドル『輝石学園生』の全てに迫る!?』と書かれた週刊誌の広告があった。
よくわからないが、アイドルグループかなんかだろうか。
俺はテレビはあまり見ないので芸能界の知識は皆無だ。
とりあえずメンバーらしき広告に貼られた女の子は可愛いな。
時折ポジションを変えながらしばらく電車に揺られると目的地に着く。
電車から降りると背伸びをする。
やっと解放されたか。
改札を抜けて駅周辺地図の看板があるところを目指した。
自分の身長よりも大きな地図看板を目の前にすると舐めるように確認する。
「あった」
地図に輝石学園の名前が存在した。
やっぱり病院までの道中にあったんだな。
俺はリュックの中にしまった受験票を取り出そうとする。
ごそごそと中を漁ると本来入っていないはずの物があった。
「おいおい」
リュックから本来であれば不必要なものを取り出す。
バスケシューズだ。
面接とは全く関係のないもので昨日リュックから抜こうと考えていたんだけどな。
どうやら忘れていたようだ。
一年間ただの体育館シューズでバスケをしていた俺を見かねたお母が無理して買った代物。最初は履くのが勿体無く感じたっけ。
メーカーのロゴが入ったところの塗装は剥げ、シューズの中は所々破けて中のスポンジが見えてしまっている。
高校に入ったらこのシューズで全国大会、ウィンターカップ優勝するぞなんて思っていた。
それはもう叶わぬ夢となってしまったが。
ふと、不燃ごみを入れる鉄製の箱が目に入った。
もう俺にはいらないものだ。
これ以上足を通す機会もない。
年季も入ってしまって捨てるなら今だろう。
俺はボロボロになったシューズをゴミ箱の中に入れようとする。
後は手を離すだけの位置に持ってくる。
「……」
いや、やめておこう。こんな大きなゴミを駅に捨てるのは非常識だ。
俺はシューズをリュックに戻すと受験票の試験会場が輝石学園で合ってるいるのを確かめると足早に目的地を目指した。
駅から病院までは距離がある。
その道中の輝石学園は駅から然程遠くはなかった。
公園の林を抜けると近道なのも最近覚えたし学園までは十分くらいで着いてしまうだろう。