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錯誤に生きる 自治会役員

作者: 齋藤 一明

 道端に一人の男が蹲っている。いくらか傾いたとはいえ、真夏の陽射しは二の矢三の矢と容赦なく男の背中に突き刺さっていた。

「どうしたね、具合がわるくなったのかぃ?」

 慌てて駆け寄ってみると、男は怪訝そうに振り返った。

 男の目に力がある。玉になった汗をポタポタ垂らしてはいるが、しっかりした口調で答えた。

「えっ? あぁ、心配かけちゃったみたいだね、このとおりピンピンしてるから心配ないよ。すまないね」

 ロレツもしっかりしている。

「ならいいけど、……立てるかぃ? 歩けるかぃ?」

 炎天下を歩いていて気分が悪くなったとも考えられるので訊ねてみた。すると男はすっと立ち上がり、一歩二歩あるいてみせる。しかし少しだけ足元をふらつかせた。

「ほら、ふらつくじゃないの、ちょっと影のあるところで休もうよ」

 と、誘ってはみたが、近くに日陰などない。そこは交差点の近くで、信号が変わるたびに何十台もが停車する道端なのだ。男の横には乗ってきたであろう自転車と、抜いた雑草や空き缶の入った袋があった。

 適当な日陰がないことに気付いた私が高層住宅の軒先へ行こうと誘うと、男はかぶりを振った。

「やめておくよ。あそこから出てきたおばさんが、えらい剣幕で文句言いにきたから」

 この男が住宅で不審なことをしたのだろうか。だが、日陰を借りるくらいなら別に構うまいともう一度誘ってみたが、男は穏やかにそれを断った。案外人懐っこい性格のようで、あそこならと、小さな喫茶店を指した。

 まあ、少しくらいの時間ならよかろうと、私は誘いに応じた。


 入り口を開けたとたんに冷たい風が吹き出してきた。正直なところほっとする。日陰で話したって直射日光があたらないというだけで、やっぱり暑いからだ。

 冷房の効きそうな席を探していると、男は人気のない一角の席に座ってしまった。

 ブラインドで遮ってはあるが、強い陽射しがテーブルに反射している。窓に貼られたフィルムのおかげで光は弱まっているのだが客はそれすら我慢できないようで、奥まった薄暗い場所にかたまっている。


「びっくりしたよ、熱中症で倒れてるってさぁ、この暑さだもん。どうしたのさ」

 席に着くなり訊ねてみると、男はけろっとした顔でこう言った。

「いやね、早く家へ帰って冷たい奴をやりたくってね、それで夢中になってただけで。心配かけて悪かったね」

「そんなこと言ってないで、早く帰ったらいいのに。本当に倒れちゃうよ」

「わかってるんだけどね、次の交差点までやろうって」

「何を?」

「草取り」

「くさとり?」

 私は素っ頓狂な声を上げた。が、男は平然と頷いた。


 男の住まいは運河を隔てた反対側にあるそうだ。ある日、男は家の前に雑草が伸びてきたのを眼にした。何日かそのままでいたが、どうにも気になって仕方なかったそうだ。

 その翌日、男は自宅前の雑草を抜いた。なるほど自宅前はきれいになったが、道路脇に生えた雑草がずっと続いていることに気がついた。

 定年を迎えて手持ち無沙汰なこともあって、翌日からそれを抜くのが男の日課となったそうだ。道端をきれいにし、家へ帰って冷たいビールを飲むと、満ち足りた気持ちになったそうだ。

 それから男は、自分が住む町をきれいにすると、運河を渡って遠征してきたと言った。

「だってあんた、道路ってどこまでいっても終わらないからね」


 やがて梅雨が明けると、男は朝のうちにすまそうと、早くから家を出るようになったそうだ。といっても、いくら早くても八時を過ぎてから。不審者に間違われてはかなわないと思ったからだそうだ。男がそうしているのを見かけた警察官が話しかけてきて、不審者ではないことをわかってもらっているらしい。


「まぁ、こんなこと言ったらなんだけど、珍しいよ、あんたみたいな人」

 打ち解けてきたようで、男は興味深そうに私を見た。なにか面白いものをみつけた子供のようにニヤリとし、美味そうに煙を吐き出した。

「なにが?」

「なにがって、ああして草抜いててもさ、声かける人なんて何人もいないよ。わざと遠回りする奴ばっかりさ」

 男は愉快そうに笑った。そういうところに人間性が出てるんだがな、とも言った。

「さっきだって、あの住宅からヘンなおばさんが近寄ってきてさ、まるで不審者あつかいだ。道端のゴミを拾って、雑草を抜いているだけだぞ、ゴミ袋見りゃわかるじゃない。だけど、誰の許可を得てそんなことしてるんだってな。偉そうな言い方でさ」

 またも男は笑った。自嘲めいた笑いではなく、明らかに侮蔑の笑いだ。

「許可? 誰の? あそこは公道だよ、住民が管理しているわけじゃないよ」

 そういうことを言いかねない者に心当たりがある。言いかねないではなく、言いたがる者だ。

「あんた、さっき冷房の効く席を探しただろう? そのおばさんがいたからさ、こっちへ座ったのさ」

 男は半分面白がっているようにもみえる。だけど、自分から揉め事をおこそうとは考えていないようだ。

「なるほどな。勘違いする頓珍漢がいるってことだ」

 男にくらべて私の声は大きい。狭い店内のことだから、全部聞かれているだろう。わかっているからこそ、声を落とさなかったのだ。


「ところでさ、ゴミ袋どうしてるの? 自腹きってるの?」

 ゴミ袋は有料なので、どうしているのだろうと訊ねてみると、

「面倒くさいから自腹で買ってるんだけど……、こっちへ来るよ、おばさん」

 男が目配せをした。やっぱり面白がっているように聞こえた。


「田畑さん、頓珍漢って、誰のこと言ってるの」

 挨拶もなしに口を挟んできた女がいた。地区で保健委員長をしている七十になったばかりの女で、私とは互いに面識がある。

「ああ、中野さんか。今さぁ、この人と話してるところなんだけど、どうしてこっちの話に口を挟むの? あんたの悪口でも言ったかなぁ」

 私はまず相手の非礼を指摘し、惚けてやった。頓珍漢とは確かに言ったし、なんなら馬鹿と言ってもよかったからだ。だって、誰がと名指しなどしていないのだから。

「言ったじゃないの、はっきり聞こえたんだからね。あんたもなによ、あんなところで勝手なことしちゃいけないって言ったでしょう。どうして帰らないの。警察呼ぶよ」

 引き下がるどころか、理解できないことをまくしたてた。

「なぁ中野さん、この人、警察を呼ぶようなことしたの?」

 警察を呼ぶというのは穏やかではない。少々目に余ることであっても、おいそれと口にしていい言葉ではない。ところが女は、私に馬鹿にされたとでも思ったのか、更にまくしたてた。

「さっきから勝手に草取りしてるのよ。地域で許可なんか出していないんだよ、許可するのは委員長の私だからね。とにかく、このあたりで勝手なことされちゃ困るんだから」


「中野さん、あんた今失敗したよ。黙って引き下がったほうがいい。恥かかないうちに帰ったほうがいいって。悪い事は言わないから、そうしようよ」

 それで意味が通じると思ったのだが、逆に私にくってかかった。うんざりしながら暫く聞いていたが、なかなか終わりそうにないので無理やり止めさせる。


「じゃあ訊ねるけど、あの道路の所有者は中野さんなんだ」

「私の道路なわけないわよ」

 こいつは馬鹿かと蔑むように私を見た。しかし、自分の言葉を否定したことには気付いていないようだ。

「じゃあ、自治会の道路なんだな?」

「あんた馬鹿? 自治会の道路なんか、あるわけがないじゃない」

「わかってて訊ねてるんだよ。じゃあさ、道路管理をまかされているとでも?」

 私は、薄笑いを浮かべて訊ねてやった。そうすれば気付かないかという私なりの親切心だが、気付いてくれるだろうか。

「そんなことあるわけないでしょう、本当に馬鹿だね」

「まあ、馬鹿でいいけどさ。ところでさ、他人の道路、管理も他人だぞ、その道路の草取りをするのに、どうして中野さんの許可がいるの?」

 おちょくるのもいい加減にして、逆襲してやろう。冷めてしまったコーヒーを一口ふくんだ私は、おもむろにタバコを取り出した。大きく煙を吐き出して、仁王立ちになった女を見上げてやる。

「だって、私は保健委員長だからそうい」

 プッと吹き出して言葉を遮ってやった。

「保健委員長なぁ、……それって自治会の役員ということじゃないの、一軒の家みたいなもんだ。道路は行政が管理しているはずだけど、あの道路は私道じゃないんだよ。なんの権限があって許可を出せるの?」

 自治会の役員になった者が犯す勘違いがある。それは、自分の職権の及ぶ範囲を見失うということだ。ましてや自治会役員のように、希望すれば漏れなくなれる役員に、行政が権限など与えるわけがないではないか。どうしてそこに気付かないのだろうと苛々してきた。

「わからん人だねぇ、私は保健委員会の」

「委員長なんだ、それは知ってるよ。だけど、どうしてそんな人に許認可権を与えたのかが納得できないんだよ。保健委員会ってことは、保健所から権限をもらったのだね? それとも、それを管轄する区役所? ついでだからさ、確かめに行こうよ。保健所には縁がないけど、区長なら面会できるよ、俺。そうそう、警察、呼ぶなら呼ぼうよ。なんならこっちから出向いてもいいよ。まさか警察がそんなことはしないと思うけど、念のために確かめようよ。副署長なら必ず署にいるからさ、はっきりしたことがわかるはずだよ。大丈夫だよ、いつでも話しくらいきいてくれるから。それでさ、確かにどこかが与えたというのなら従おうじゃないの。そういうことなら早速行こうか」

 お勘定ねと、私は千円札を一枚ヒラヒラさせた。


「ちょっと、誰も役所へ行くなんて……」

 女は急に慌て出した。まさかこっちがそういう手段に出るとは思わなかったようだ。

「けどな、さっき言ったよ。地域は許可していないって。許可するのは自分だって。はっきり言った、言い切った。だけど信じられないんだよね、そんなこと。何回も馬鹿呼ばわりされたしさ。穏便に決着つけるには、あんたの言ったことが正しいか確かめるのが一番確実だ、本当だったら納得するさ」

 自分でも意地が悪いと思う。女の言ったことが嘘だというくらいお見通しなのだから。

「だけど、なにも役所へなんか」

 女は慌てている。オドオドしている。役所や警察で事情を話して説明を求められたら、嘘がばれるどころか、信用を失ってしまう。そう思ったに違いない。

「行こうよ、今後のことがあるからね。今後も自信をもって許可してもらいたいし。さぁ」

 強い口調で促して腰を浮かせかけると、女がしどろもどろになった。

「よ、用事があるし……」

「……わかった。用事があるなら仕方ないな、じゃあ、電話で問い合わせてみよう」

 私は困ったように女を見上げてやった。そして携帯電話を取り出した。

「ちょっと、やめてよ」

「どうしてさ。確かめるだけだからさ、すぐにすむよ。じゃあ、区長に訊ねてみようか、大丈夫だよ、ちゃんと取り次いでくれるから」

 女に見えるように区役所の番号を打ち込んでやる。すると女が金切り声をあげた。


「やめてって言ってるでしょう」

「どうしてさ。本当だったらかまわないじゃないの。じゃあ、警察に問い合わせてみようか。警察でしょっちゅう会議があるからさ、これでも顔なんだよ」

 一度閉じた携帯電話に番号を打ち込んでやると、女はいきりたった。

「やめてっていうの、なんなの、喧嘩売る気?」

 女は私の携帯電話をひったくって、パタンと閉じてしまった。


「正直に言ったらどうかな、嘘だろ?」

 私は穏やかに言ったつもりだ。子供に言って聞かせるようにおだやかに。

「本当だって。嘘なんかじゃ」

 女はそれでも金切り声をあげた。

「だからさぁ、引っ込みがつかなくなったんだろう? たかが町内会の役員にそんなことをさせたらどうなるかぐらい、誰にだってわかるはずだ。それでもまだ言い張るの? どうして認めないのさ」


「田畑さん、それくらいで勘弁してやってよ。根は悪い人じゃないんだから。中野さん、あんたがどうこうできる相手じゃないよ、この人。ここはあっさり引き下がったほうがきれいじゃないの?」

 カウンターの中から声がかかった。離れた場所で冷静に聞いていたのだろう、経営者が宥めようとしている。だが、女は言いつのった。

「だけど、そういうことを許可するのは保健委員長……」

「あのね、別に脅すつもりはないけど、そういうトンマな間違いに言いがかりをつける者がいっぱいいるんだよ。この人がヤクザだってみな、あんた今頃真っ青になってガタガタ震えてさぁ、金を要求されてるかもしれないよ。いいカモだ。ましてや保健委員長なんだろう? こうしてきれいに掃除してくれている人がいるんだったらね、ありがとうって言うのが筋じゃないかな。熱中症になっちゃうよの一言でもいいよ、どうしてそれが言えないの? どうして気分を悪くさせるの? 俺、馬鹿だからさぁ、そこがわからないんだよなぁ」

 女は、ヤクザという言葉にびっくりした。


「その人、やくざなの?」

「失礼なことを言うな! この紳士をつかまえてヤクザとはなんだ! 大人しくしてたらいい気になって言いたい放題、わかったよ、警察呼べばいいんだろ?」

 とうとう堪忍袋の緒が切れた私は、交番から出向いてもらうことにした。


 三十分も続いた珍妙なやりとりはそれで決着がついたのだが、それでも女は非を認めぬまま帰っていった。

 そして、ゴミ袋を自転車に積んだ男と私は交番へ出向き、警察官とともに冷たいコーラで咽を潤したのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 人間関係のなんと複雑で面倒なことか! しかし避けては通れない。社会に生きるものとしては。 言い方ってもんがありますよね。 自分も日々、まあるく伝えることに苦心する一人であります。
[一言] 保健委員長の頑なさに恐怖を覚えました。相手が相手ならポッキと心が折れてしまいますね。私は折れてしまう派です。なので、怖く思えるのでしょう。 わが町にもゴミ拾いを続けてくださる方々や、毎月公園…
[一言] 御作を拝読致しました。 私の住んでいる地域では、みなさん色々なことを教えてくれます。小さい子供のいる家庭が減ってきた地域で、子供のこともよく見てくださっていて、声かけしてくれたり。 なのて…
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