動く
ビドゥはぼんやり考え続けていた。
くっそぉ、
冷凍されたせいなのか何なのかわかんねぇが、
頭にモヤがかかったみてぇだ。
先刻ヴィヴァースの罠にかかって奈落に落とされたが、
幸いな事にビドゥの変身型はコウモリだった。
小さなコウモリは変身すれば服をすり抜けて飛び出せる。
多少手間取ったが、
地上に叩きつけられる前に何とか自分の服から抜け出せた。
怒りで頭に血が上っていた事もあった。
迷わず一直線に落ちてきた穴を遡った。
出口を探してまわろうとは毛ほども思わなかった。
そんなもん、
簡単に出口が見つかるようなところに落とすわけが無い。
無駄にうろついて体力を消耗して野垂れ死ぬくらいなら、
万に一つのチャンスを狙って耐える。
そして必ず奴をぶち殺す!
その事だけを考えてひたすら待った。
ところが、どれくらい経ったのか
何日も何日も開かないに違いないと覚悟したところで
いきなりフタが開いた!
ここを逃したら次はない! 一気に羽ばたいて飛び出した。
と、途端に、凄まじい冷気を浴びた。
な、なんだ?! あの野郎、狙ってやがったのか?
……くそぉ……俺ってこんなドジだったっけか……
自己嫌悪にべっこり凹みながら
意識を失ったのがいつの事だったか。
気付くと、自動運搬車の瓦礫の上に放置されていた。
……畜生め、なんだってんだ!
なんだか知らねぇがすっげぇ腹が立つ!
むかっ腹を立ててすぐさま飛び立とうとしたが、
まだ身体が強張って思うように動かせないのに気付いた。
しばらくそのまま、ぼんやり考えた。
……ダァトの墓はこの鉱山にしよう。
考えてもみろ、こんなとんでもねぇ大きさの墓だなんて、
どっかの王族でもありやしねぇ。
墓参りにゃちょっとばかり遠いが、
でっかいものが好きなやつだったから嫌がりはしねぇだろ。
……よし!
そうと決まりゃ後はヴィヴァースの奴をぶち殺すだけだ。
ビドゥは羽ばたいてみた。
ふん、今度は飛べそうだ。
ふらふらしながらよろよろ舞い上がる。
もともとそんなに真っ直ぐ飛んだりはしないんだが……。
とりあえず天井付近まで飛んでぶら下がった。
ちっ、まだまだだな……、
それにしても、この姿じゃ何もできねぇ。
そういえば、奴が服を脱ぎ散らかしていやがったっけな。
ビドゥは鉱山管理棟に向かって飛んだ。
管理棟のドアに近づいた時、人の気配を感じた。
それもかなり大勢だ。
ビドゥは咄嗟に天井にぶら下がった。
「2班は地下空洞に下りる。装備の確認をしておけ。
簡単には戻って来られないから入念にな。
爆弾処理班は例の一帯へ向かえ。
他の班は落盤に巻き込まれている人を救出する。
坑道が狭いから交替しながら全力で掘り出すぞ。
気合入れてけ!」
口々に応じる力強い声に、
ビドゥは初めて他人に感謝の念を抱いた。
……ダァトよ、助け出して貰えるらしいぜ。
ホントに、よかったな。
ドアが開いて、どっと人の群れが鉱山へ出て行く。
最後の一人が通り過ぎ、ドアが閉まろうと動いたところで
ドアの隙間に飛び込んだ。
と、中にはまだ人がいた。咄嗟に床に落ちる。
派手な音を立てないようにちょっと羽ばたいた。
見咎められていなければいいが……
しばらくジッと様子をうかがっていたが、
特にこちらに向かっての人の動きもないようだったので
物陰に隠れようと翼と小さな足を不器用に動かして
懸命に努力した。
ちくしょう、
こちとら地べた這いずるようにはできてねぇんだよ。
床は滑らかな合成素材のタイル張りで
ほとんどひっかかりがない。
ジタバタして音をたてるわけにもいかず、
ビドゥはイライラしてぶち切れそうになりながらも
怒りをエネルギーに換えて頑張った。
現実問題として、
コウモリの姿の時は悔しいほどに非力だ。
その分素早さが飛び抜けてるはずだったのだが……。
さっきのあれはいったいなんだったんだ。
俺と知って攻撃されたって訳でもなさそうなところが
癪に障る。
室内に残っているやつらは
どうやら手分けして屋内の捜索を行っているようだ。
この分じゃヴィヴァースはとっくに取っ捕まって
引っ立てられちまったに違いねぇ。
……となると、長居は無用だ。
まさか、
あの服みんな押収されちまったんじゃねぇだろな。
ふと寄せて置かれている箱が気になった。
……あの箱、何としても中を確かめねぇと。
俺の勘があそこに何かあると言ってる。
しばらく様子をうかがっていると、
一番近い所にいた捜査官が
何か持って隣の部屋に移動した。
チャンスだ!
ビドゥはすばやく飛び立って箱に辿り着くと人型に戻った。
箱を開ける。
と、そこにはヴィヴァースの服が押し込まれていた。
やったぜ。
目に付いたコートやズボン、セーターなどを
適当に掴んで物陰に戻る。
とりあえずは人前に出られる格好になった。
でも、靴は無いから裸足だ。うーん、これはまずい。
雪山だし裸足はさすがに目立ちすぎる。
どうしたものかと辺りを見回すと、
鉱山用の頑丈な安全靴が目に付いた。
編み上げ式の無骨な靴だが、とりあえずはこれでいいか。
耳のいいビドゥは、足音を殺すのに多少苦労したが、
気配を読んで鉱山管理棟内部をすり抜けて外に出た。
金目の物はないかとポケットをさぐると
登山電車の切符がでてきた。
おっ!コイツはついてる。
……なんだ、行く先は一つ上の駅か。
あの野郎、なんでまた、上に登ろうとしてたんだ。
訳わかんねぇ。
……判んねぇが、ここを離れるのは得策だ。
それにしても、服がダボダボじゃねぇか。
くそっ。
ヴィヴァースの日記にネズミと書かれていたビドゥは
小柄な男だった。
ビドゥが着るとヴィヴァースの服はかなり大きく、
子供がいたずらして大人の服を着た感じに近かった。
ちくしょうめ、無駄にでかく育ちやがって。
とにかくビドゥのなりは不自然極まりなく
悪目立ちし過ぎなので、
上の駅周辺で適当な服を見繕わないとどこにも行けない。
しょうがねぇ、一働きするか……。
それからしばらく後、
リコシェとシャノンの使っている女性部屋で。
リコシェとはアレクシア姫の愛称である。
グランヴィルでこの愛称を知るのは、
まだアシュリー一人だ。
「あ! ……ねぇ、アシュリー」
「ん?」
軽い頭痛を起こしたので
念のためにとベッドに入れられたリコシェは、
枕元に座るアシュリーに小声で伝えた。
「ブラックリストの二人目が来たわ。
もうすぐ駅に着くみたい」
「そうか。私たちは直接かかわらない方がいい。
手を回して一報しておこう」
アシュリーはリコシェに頷いた。
「……それと、君の頭痛だが。
だいぶ慣れてはきていたようだが、
やはり少しばかり高山病の気配があると思う。
君はこのままちょっと眠るほうがいいだろうね。
よくお休み。……また後で」
「……わかったわ。おやすみなさい」
リコシェが素直に頷いて目をつぶると、
アシュリーはリコシェのまぶたに軽くキスをして
部屋をでた。
廊下で待機していたシャノン・ヤングが
背筋を伸ばしてスッと踵を合わせたので
一つ頷いて声をかけた。
「よろしく頼む」
「はっ」
「あの人にずっと付いててくれたようだね。
目を離さないでいてくれてありがとう」
「! 職務ですから」
「しばらく眠るように言ってきた。
……そうだな、後で何か運ばせよう。
君もこの機会に軽く休憩しておくといい」
「はっ、ありがとうございます!」
シャノン・ヤングは頬を紅潮させて
アシュリーの後姿を見送った。
王城内では研究に没頭されてて
ほとんどお見かけしないけれど、
柔らかな中になんだろう、
武人の雰囲気みたいなものがあって、素敵な方……。
はっ!
いけないいけない。私ったらなんて事を!
私にはアレクシア様という方があるのに……。
シャノン・ヤングはブンブン頭を振ると、
静かにドアを開けてリコシェの眠る部屋に入った。
実は、シャノンはリコシェに手を取られて感激し、
密かに崇拝してしまっていた。
表に出さない鉄のような意志を持ってであるが。
リコシェのPCFに探知されているとは全く知らないビドゥは、
登山電車から降りてしばらく
駅構内で油断なく辺りを見回していたが、
すっと駅からでてきた。
俺の体格に合う服を着てる奴はなかなかいねぇな……。
このままじゃ、目立ってしょうがねぇ。
その頃一駅下のゴールズワージー鉱山駅では、
例の組織の関係者の可能性のある男が
電車で上の駅に現れたとの連絡が入って、
次の電車をイライラしながら待っている
捜査官の一団がいた。
「……いったい何処からの情報ですか?」
「んむぅ、聞くな。……確かな筋だとしか言えない。
今のところ情報以降、上の駅を発車した電車はない。
駅に張り付いて見張れば、
歩いて山を降りる以外他に方法は無いから袋のネズミだ。
夏場でもここから降りるには山の装備が必要だしな」
皆、いい面構えだ。やれるぞ!
「……よし、何が何でも捕まえるぞ。
上の駅に着いて最初のチェックは、
着いた電車に乗り込もうとする奴だ。
PCF反応が無いはずだから、見落とすなよ!」
「はいっ!」
同じ頃、アデルモ島の熱帯魚の水槽の前で
携帯電話を使っている男がいた。
ゴールズワージー鉱山の管理責任者ヴィヴァースを
罠に嵌めて悪事に引きずり込んだ男、
日記にコウモリと書かれていたアリク・テムは
連絡のつかなくなったアデルモ島にやってきていた。
「……はい、案の定勝手に突っ走ったようで
島はモヌケの空になっておりましてですね……。
はいっ、申し訳ありませんです。
私の手綱が緩かったようでして
何と申し上げたらいいのやら……。
いや、それが、通じないのでございますよ」
テムはチラッと熱帯魚の水槽を見た。
綺麗に手入れされている。
ビドゥの趣味なのは知っていた。
「ビドゥの事なので、おそらくは相棒を捜して
鉱山深く潜っているのではないかと
思うのでございますです。
あの二人はその、
本当の兄弟のように育った間柄なものでして、
まぁ、気持ちは分からなくもないので……。
って、いやいや、そういうわけでは……。
本当に申し訳ありませんですよ」
携帯電話を耳にあてながら、棚の上に置かれている
場違いな感じのつぶらな瞳のリスのぬいぐるみに向かって
何度もお辞儀を繰り返す。
「あの馬鹿ども、
帰ってきたらキツーイお灸をすえてやりますから、
どうか今回ばかりは何卒ご容赦のほど
お願いいたしますです。
ああー、はい。……はい。
慈悲深いお心に感謝いたしますですー。
ではー。ご無礼いたしますですよー」
島の二人を精一杯取り成していたアリク・テムは、
電話を切って大きな溜め息をついた。
「ホントにもう、あの馬鹿どもは
しょうがないというかなんというか……。
それにしても、ゴールズワージー鉱山のあの男は、
そろそろ潮時かもしれませんですねー。
結構大きな儲けになったお礼も兼ねて、
私が直々引導を渡しに行くとしますか……」
遠く離れた現在の本拠地で
通話を終えたボルジ・ユルガトは、
眉間に縦ジワを寄せて考えながら
ゆったりした黒いローブの裾をふわりとなびかせて
私室から歩み出てきた。
「……やはり携帯電話を
外の者に渡すべきではなかった……。
とても嫌な予感がする……。
杞憂であればよいのだが……」
ぼそぼそ呟いたのだったが、
耳に届いたか若い側仕えがすかさず尋ねた。
「我らが導き手ユルガト様、何か障りの気配でも?」
「野に散っておる我らが子らのうちに
迷子が出たと知らせがあってな」
「なんと! 捜索の手配などいたしましょうか」
「テムが動いておる」
「そうでしたか。
それならばすっかりお任せしておけますね」
それで興味を失ったかのように、
若い側仕えはその件には一切ふれなくなった。
その代わり、今夜の予定や集まる人数や
素性についての報告を淡々と始めた。
ボルジ・ユルガトは、その声を聞きながら、
この場所もそろそろ
動くタイミングかもしれないと思った。
上りの登山電車が着いて、勇んで飛び出す捜査員と
駅構内に残って張り込む人員とにスルッと分かれた。
電車の中で細かく打ち合わせを
重ねてきたに違いなかった。
ビドゥはといえば、
未だにサイズの合いそうな体格の人物を物色していた。
……まずいな。
氷河のほうも駅周辺も見たがハズレだ。
後はホテルの中くらいだが、……ん?あれは!
ビドゥが見たのは、
数人ずつまとまって駅から出てきた男たちが
素早く散っていくところだった。
勘が働いた。サッと物陰に身を隠す。
……やばいな。手が回ったらしい。
やっぱり、この格好じゃ
通報されちまう程怪しいってか?!
八方ふさがりのこの場所からどうやって逃げる?
……考えろ、やりかたはあるはずだ。
考えろ。
ビドゥは一般人にわざと姿を晒しつつ、
更に山に登るほうへ移動した。
人目を引いてから山に向かって
登山ルートを歩き始める姿を見せた。
背中に視線を感じつつ、
しばらく行ってから木陰に入った。
素早く服を脱ぐと、
こんもり雪を被った木の裏側から服を突っ込んだ。
靴は大きくて入らなかったので、
力いっぱい雪を被った薮にむかって放り投げた。
……くそっ、寒くて凍えそうだ。
コウモリに姿を変える。
必死に飛ぶがもう動きが鈍くなっている。
急がないとやばい。
できるだけ、高く飛んだ。
……もう余裕はない。
駅に向かって一直線に行くしかない。
……おっ!
ちょうど駅に登山電車が入ってきたところだ。
いいぞ、目立たないように電車に潜りこむんだ。
これ以外にここから逃げ出す手はない。
……よし、乗れた。天井は目立つ。
ここはやはり座席の下あたりに潜むか。
あとは俺の運次第、成るようになる。
やれるだけはやった。
…………発車まで後何分だろう。
早撃ちスノーレディはしばらく前に
ひとつ気付いた事があった。
一駅下のゴールズワージー鉱山で
ゴキブリと間違えて冷凍スプレーで打ち落とした
コウモリに押した生態観察用タグスタンプの反応が
上の駅で出ていたのだ。
変わった格好の小男が登山ルートに向かったという
情報を追っていたが、妙に気になって
ペアを組んでいた上司に尋ねてみた。
「班長、コウモリって意外に飛ぶスピード
速いんですかねぇ?」
「ん? なんでまた今コウモリが気になってるんだ?」
実はさっき……と話し出したのは、
地下空洞のフタから飛び出した黒い姿を
間違えて打ち落としたらコウモリだった事、
その時生態観察用のタグスタンプを念のために押した事、
そのタグスタンプの反応が今ここにある事だった。
すると、とたんに班長はPCFで捜索班全体に叫んだ。
『奴はコウモリだ。駅の電車、止めろ!
発車させるなっ!』
班長は早撃ちスノーレディにむかって勢い込んで尋ねた。
「コウモリの反応は今何処だ?」
「今は、……ま、まさか?!
電車の中です!」
「よし!」
そこへPCFで連絡が入った。
『班長、申し訳ありません。
電車間に合いませんでした!』
「遅かったかっ! 電車はどこ行きだ?」
『山脈を西へ抜ける国境越え直通ルートで
隣国ヴァルドシュタインに入ります』
「それはちょっと
気軽にコウモリを捕まえてくれとは言いにくいな……。
コウモリに変身した犯人がこのルートで逃げ込んで
追いはぎ事件が起きる可能性が非常に高いから注意を、
と連絡しておくか。それと」
班長は早撃ちスノーレディに向き直った。
「スノーレディ、君に特命だ。
直ちに奴を追ってヴァルドシュタインへ向かえ!」
「はっ!」
「ヴァルドシュタインには協力を要請しておく。
奴のタグスタンプが
人型の時にも効果がでる方法がないか
研究所にたずねておこう。
向こうで追いはぎ被害が出る前に追いつければ
君の勝ちだ」
「頑張りますっ!」
早撃ちスノーレディは
生態観察用タグスタンプのデータを共有扱いにして、
PCFで、地下空洞から飛び出したコウモリを
打ち落とした経緯を話した。
『PCF反応が無ければ普通、生コウモリだと思うわな』
『……だな。俺でもたぶん放置だろ。
俺だったらコウモリなんぞ最初っから無視してるぞ』
『ってか、そもそもお前には
コウモリ捕まえようったって無理だろが』
違いないと皆で大笑いした後で班長が言った。
『早撃ちスノーレディ、
これはお前だからこその大きな手がかりだ。
奴を捕まえて手柄にしてこい。
頑張れよ!』
皆に激励されたスノーレディは
意気込んで次のヴァルドシュタイン行きの電車に乗り、
コウモリを追い始めた。
目端の利く捜査官が一人、
補佐として同道することになった。
その後の捜索で、登山ルートに入るところで
雪を被った木の中に押し込まれていた服が発見されて、
コウモリが例の組織関係者と断定された。
リコシェが眠ってから2時間後、
アシュリーはリコシェの部屋のドアを小さくノックした。
ドアの向こうでシャノン・ヤングの声がする。
「……はい。どなた?」
「私だ」
鍵がガチャリと開いて
シャノンが隙間から細く顔をのぞかせた。
ドアの外に素早く目を配って小さな声でこう言った。
「アレクシア様はまだお休みですが、
よろしいでしょうか」
「そろそろ起こしてあげないと、と思ってね。
眠り過ぎると後から辛くなる」
「わかりました。
私がお起こし致しますので、少々お待ち頂いても?」
「了解した」
アシュリーは廊下で待ちながら、これからはきっと
こうやって待つ事も増えるのだろうなと思った。
それは少々面映くもあり、また嬉しくもあった。
……それにしても、シャノン・ヤングか。
もしリコシェが気に入っていればだが、
彼女の側仕えに良い人材かもしれない。
「お待たせしました」
シャノンの声にドアを開けて中に入ると、
リコシェは身支度を済ませて椅子に腰掛けていた。
「気分はどうかな?」
リコシェが微笑んで答える。
「もうすっかり良くなったわ。
お陰で頭痛も軽く済んだし」
「それは良かった。
実は、陛下から君にと
言付かってきたものがあるんだよ。
これなんだが……」
アシュリーが取り出したのは青い背景に白く、
美しい女神の姿が浮かぶカメオ細工をフタに施した
手のひらサイズの白い浅めの円筒形小瓶だった。
「まぁ、素敵ね!」
「これは我がグランヴィル王家に伝わる秘伝の薬でね、
代々雪山に出かける時には必ず持って行ったもので、
実際とても良く効くんだ。
……実は、私も使った事がある」
アシュリーは腰をかがめると
丁寧な手つきでリコシェに小瓶を差し出した。
「さぁ、どうぞ。アレクシア姫」
「ありがとうございます。
帰ったら改めて陛下にお礼いたしますね」
リコシェはにっこり微笑むと美しい小瓶を受け取った。
小首を傾げてアシュリーを見るが
アシュリーが何も言わずにニコニコしているので、
リコシェはいたずらっぽい表情を浮かべた。
「アシュリー、あなたが何も言わないところをみると、
何の薬か自分で当てなさいってことね?
……ヒントは言葉の中にあるはず。
秘伝の薬……は貴重なものだというのは判るけど
何に効くかのヒントにはならないわね。
だから、代々雪山に行くときに
必ず持って行ったっていうのが一番大きなヒントで、
二番目があなたも使ったことがあるってことだわ」
リコシェは大真面目に考え込んだ。
「……雪山 ……雪 ……雪は冷たい ……ああ、
なんとなく判ったかも!
ねぇ、アシュリー。
あなたが使ったのは子供の頃だったんじゃない?」
「ははっ。たぶん、君の答えが正解だ」
「それじゃ早速、このお薬の効き目を試してみなくちゃ」
「なんだって?! リコシェ、霜焼けしてたのか!
すぐに手当てしなければ。
見せてごらん」
アシュリーは素早くリコシェの前に膝をつくと
片足を抱えあげて靴を脱がせ、
レッグウォーマーをたくし上げて
防寒用の厚手の靴下を脱がせた。
両手で支えて爪先から丹念に見る。
すんなりと形のいい足にはどこにも赤みはなく、
霜焼けは見当たらない。
「……おや? こちらの足ではなかったか」
その様子をみてシャノン・ヤングは硬直した。
このお二人は……、も、もしかして
恋人同士でいらっしゃったりってあらりれれ?!
いかに堅物といえども流石に解る。
「あの、アシュリー? 前にも思ったけど、
一声かけて返事を待ってからのほうが
問題が起きないかもしれないわ」
アシュリーはてきぱきともう一方の足にとりかかっている。
「ん? 何か差し障りがあったかな?」
「差し障りっていうほどじゃないけど、
……こ、心の準備っていうか、そのぅ……」
「嫌だったかい?」
「……全然、そんなことはなくて、……あの、
どっちかっていうと、逆だったりするけど」
リコシェは真っ赤になった。
「シャ、シャノンもいるし……」
シャノンは咄嗟に叫んだ。
「私は壁ですっ! お気使いなくっ!!」
「……壁だそうだ。問題ないな。
それにしても効き目を試そうにも
どこにも霜焼けは見当たらないけどなぁ」
「だから、今からまた外に行って
雪で何かできないかなって思ったのよ」
「効き目を試すために霜焼けになろうって考えるのは、
たぶん、リコシェくらいだぞ。
それに付き合うのはやぶさかじゃないが」
アシュリーは楽しそうに笑った。
「……それではお嬢さん、
今から軽く散歩でもいかがかな?」
アシュリーがそう言って
左腕を少し曲げて差し出したので、
リコシェはにっこり微笑んで立ち上がり
その腕に手をまわし掛けた。
「ええ、喜んで」
シャノン・ヤングは慌てて声を掛けた。
「外に出られるなら、そのままでは困ります。
しっかり防寒していただかないと」
「ああ、そうだね。私も支度して来よう。
それではこの後それぞれ支度してロビーに集合する。
これでいいかな?」
部屋を出ようとしてアシュリーはふと振り返った。
「そうそう、コウモリは山を越えて飛び立ったそうだ。
網が張り付いてるらしいから期待していよう」
「わかったわ。ありがとう」
リコシェはPCFのブラックリストの二人目のほうに
コウモリと名付けておいた。
その夜。
ヴィヴァースの後任として派遣されてきた
ゴールズワージー鉱山の新責任者、
準特級鉱山技官ライダル・シンプソンは
小型採掘機械の出力を調整して
少しずつ丁寧に掘るようにした。
鉱物以外のものを探知した時は
即時停止するように設定したので、
人力で掘り進んでいた皆が
数名の監視要員を残して休める事になった。
監視要員も数時間で交替する。
気合で掘り進んでいた面々は
鉱山管理棟の室内で寝袋に潜り込むと
すぐさま大いびきをかき始めた。
それから数時間後、
小型採掘機械がブザーと共に停止した。
監視要員が確認すると瓦礫の中に服が見えた。
PCFで発見の報告をいれるとすぐさま皆戻ってきて
黙祷してから、遺体を回収しようと取り掛かったが、
なぜか人の身体が見当たらない。
どうやら服だけだ。……これはもしや!
コウモリの例もある。
更に慎重に機械を動かすと、とうとう落盤の
瓦礫帯を抜けてしまった。するとそこには、
坑道突き当たりまで80センチほどが潰れずに残っていて、
痩せたイタチが1匹倒れているのが発見された。
捜索の結果、PCF反応の無い脱水状態で瀕死のイタチと
無傷の携帯電話が一台回収され、
携帯電話はすぐさま電波を遮断する袋に密閉された。
「ご協力感謝します。
機械を調節して投入してもらえたおかげで、
労力と時間が膨大にカットできました」
「いえいえ。
優秀な機械を監督しその能力を活かして使い切る、
より高度な鉱山経営を目指すようにと
陛下より直々のお言葉を頂いて着任したからには、
どのような状況にも120%対応できるよう
全力で取り組む所存です。
また何か協力できることがありましたら、
いつでも遠慮なく相談してください」
「おお、陛下直々の……。それは凄いですなぁ。
あなたのような方が着任して
この鉱山もさぞ喜んでいる事でしょう。
それでは、我々はこれにて下山します」
ビシッと敬礼を残して
多数の捜査官が整然と立ち去っていき、
鉱山は静寂を取り戻した。
ライダル・シンプソンは、国王陛下が前任者の所業を
深く悲しんだ事を知り、加えて、期待をもって
自分と我が能力とを信じてゴールズワージー鉱山を
任せてくださったことに感激した。
陛下の望む“より高度な鉱山経営”という
高い目標も新たに掲げて、
ライダル・シンプソンは自分の仕事に誇りと
とても強いやりがいを感じていた。
アシュリーの兄であるグランヴィル国王は、
ゴールズワージー鉱山の前管理責任者
ケネス・ヴィヴァースの取り調べの過程で、
最先端の小型採掘機械の優秀さが
本来優秀なはずの鉱山技官を
単なる機械のメンテナンス係に
成り下がらせていたことを知った。
小型採掘機械はいわば鉱山技官の部下なのだ。
優秀な部下を使いこなしてこその
管理責任者であり経営者なのだが。
本来なら自分で気付いて然るべきことだが、
ヴィヴァースはそれに気付けなかった。
人は弱いものだ。
付け込まれる隙はできるだけ少ないほうがいい。
そこで国王はその場所でどうあるべきか明確にして、
はっきりとした目標を持たせることにしたのだった。
この件に限らず、国の重要施設について、
より細かく目を配らねばと思った。
ますます忙しくなるが、それも仕方がない。
これも大切な国王の仕事であると決めた。
王の役目としては、とグランヴィル国王は思う。
王家の縁談を進めるのもやはり王の役目であろうな。
夜もだいぶ更けた頃、アシュリーのPCFに着信があった。
『……アシュリー、遅い時間にすまぬ。
今何か不都合はないか?』
「特に何も。どうかなさいましたか?」
『私は決めたぞ』
「……そうですか」
『む……。何を決めたのか聞かぬのか?
……ふむ、聞けばそのような
ヌルイ反応はしておられぬであろうよ』
「はぁ、それで何をお決めに?」
『お前の縁談だ。
モンフォールにアレクシア姫を頂きたいと
申し込むことに決めた!』
「兄上っ!」
『私はとても忙しいのだ。
できる事からこなして行かねば仕事が溜まって
首が廻らなくなる。
お前とアレクシア姫が相思相愛である
というのは判っておる。
王家の縁談を進めるのも王の役目だからな』
「いずれはそうありたいと思ってはおりましたが、
まだそのような段階には到っておりません」
『それならば、早速明日にでもアレクシア姫に申し込め』
「あ、兄上っ!!」
『グランヴィル王家王位継承順位2位たる
アシュリー・エリファレット・ヘンリー・グランヴィルに
命ずる。
明日モンフォールのアレクシア姫に
結婚を申し込むように。
私は決めた。否やは言わせぬ』
「……兄上」
『返答は!!』
「……かしこまりました」
『明日、報告をまっておるぞ』
「……はい」
兄は気配り目配りの人である。
尊敬し全幅の信頼を寄せてもいる。
それでも、こればかりはもう少し
そっとしておいて欲しかった……。
おそらく兄の目には収穫するのに最適の
完熟果実に見えているのだろう。
申し込む事自体に何の文句もないが、
だからといってなぜこのタイミングなんだ。
気の利いた小道具の一つや二つ
用意したいところなのに……。
アシュリーはどうしたものかと真剣に悩みはじめた。
≪続く≫