陽光と星影
グランヴィル王の使者を迎えた
モンフォール王宮での晩餐会は終始和やかに推移し、
あのお迎え以降なんとか大きな失敗も無く
一日の務めを終えたリコシェは、
少なからずホッとしていた。
ブロワ伯などは
ドレスのすそを踏まないかと心配してくれるのだが、
さすがにドレスは着慣れている。
失敗の後は、
我が事のように心を砕いてくれる身近な人々を
素直にありがたいと思えた。
今日はもうお部屋までご案内したらおしまいね。
王宮の長い廊下を使者と共に歩く。
ゆったりした時間だ。
ちらっと顔を見上げると、目線が合ってしまった。
リコシェは微笑んで言う。
「私の先生と本当に良く似ていらっしゃるので、
つい目が引き寄せられてしまいます」
使者が穏やかに笑って答える。
「私と兄は、双子なんですよ。幼い頃は本当に瓜二つで。
二人でよく大人をからかって遊んだものです。
齢を重ねてずいぶん様子は変わってしまいましたが」
「え? まぁ、それで……。
いえいえ、まだまだそっくりでいらっしゃいます。
先生が学会でお留守にされたり私がこちらに来ていたりで、
しばらくお会いしていなかったものですから、
お迎えでしたのについ懐かしくなってしまい思わず……」
「いやいや、もう、どうぞお気になさらず。
……兄はどうやら大学で
皆さんとよく馴染んでいるようですね」
「とても楽しく教えてくださって」
「おお、そうですか。それはそれは」
「私、先生を尊敬しております」
リコシェは胸を張って答えた。
「実は兄のいる大学で公開講座を一つ
開く事になっていたのですが、
残念な事に日程が重なり中止になってしまいました」
「え? ……それはもしや、希少種の?」
使者が目を見開いた。
「ええ、そうです。ご存知でしたか。
私は、あの公開講座で希少種型の幸運と不運について
話そうと思っておりました。
迷信という俗説を盲信して希少種型に押し付けられる
思いの重さというようなものの理不尽を
共に考えたいと思いましてな。
……もしや、アレクシア姫は
希少種に興味がおありでしょうか?」
「はい! 幼い頃から枕元に
絵本の代わりに希少種図鑑を置いておりました」
使者がリコシェを見つめる。
「希少種のどこにそれほど興味を引かれたのでしょう?」
「私、幼い頃からドラゴンが大好きで、
優しげだったり可愛かったり
子供が好みそうな様々な希少種がいますけれど、
なぜかドラゴンに強く惹かれるのです。
牙やら角やら絵を見るだけで恐がって
泣いてしまう子もいるというのに……。
不思議ですね、
私はドラゴンに会いたくてたまりません」
考え込んだリコシェだったが、
僅かの後、夢見る表情でこう言った。
「ああ、たぶん、
あの美しい紅い瞳が忘れられないのでしょう」
使者は一瞬驚いた表情をした。
「……なるほど、そういうことでしたか」
しばらく廊下を辿ると
使者の宿泊用に設えられた客間に着いた。
ドアにはグランヴィル王家の紋章が飾られてある。
そのドアの前で、
グランヴィル王の使者バーナバス・ヒューイットが
リコシェに向き直って言った。
「モンフォールのアレクシア姫にお尋ねいたします」
「は、はい。なんでしょう」
「アレクシア姫は、心から紅い瞳のドラゴンに会いたいと
思っておられますか?」
リコシェは突然の問いに驚いたが、素直に答えた。
「はい、とても」
「ご返事、確かに承りました」
使者は恭しくお辞儀をした。
バーナバス・ヒューイットは
客間の肘掛け椅子にゆったり腰掛けて
教え子を思い浮かべた。
「急なご下命で何事が起きたかと思ったが、
出所はそちらでしたか……。
私は希少種図鑑のドラゴンの眼を
紅く描いた事など一度も無い。
二つの星を飛び回って滅多に所在の分からぬあの方に、
姫はいったいどこで会われたのか……」
さきほどの姫の夢見るような表情を思い浮かべた。
「歳の離れた弟君をずっとお心にかけておられたし、
陛下にお伝えすると大喜びで
性急に話を進めようとなさるやもしれぬ。
こればかりは慎重でなければ……。
さて、どうしたものか……」
一方リコシェは、モコモコに泡立った湯船で
ゆったり身体を伸ばしていた。
「先生と間違えた事、
気にしてらっしゃらなくて良かったわ。
……それにしてもグランヴィルの使者が
先生の双子の弟さんで、
あの公開講座の先生だったなんて、
こんなことあるのね。
……ああ、そういえばさっき、
何だか改まってドラゴンに会いたいか尋ねられたけど、
あれっていったい……」
考えながらリコシェは泡でドラゴンを作った。
いくつも作って湯船の縁にずらっと並べてみる。
「……だめね、ぜんぜん似てないわ」
ドラゴンを想うとあの人を思い出すのはなぜだろ……。
リコシェは立ち上がると湯船の栓を抜き、
頭からシャワーの湯を浴びはじめた。
さて、こちらはアデルモ島、
元漁師小屋だった熱帯魚水槽の部屋である。
「……なぁ、この間のネズミの件だけどよぉ」
「んあ?」
熱帯魚の水槽にへばりつくようにして熱心に見ている男が、
めんどくさそうに返事をした。
「報告しとかなくてもいいんかなぁ……」
「報告も何も、あの爆発じゃあ生きちゃいねぇよ」
「んー、そうだろうけどさぁ」
「あんのネズミ野郎、よりにもよって俺様の大事な水槽に
鍵なんぞ放り込みやがって。
熱帯魚ちゃんたちはデリケートだってんだよ、くそっ!
いまいましいっ。
……一匹でも死んだら、あの野郎、ただじゃおかねぇ!」
「ただじゃおかねぇって、もう死んじまってるんだろうに」
「……けっ、面白くもねぇ!」
男の剣幕に気圧されてもう一人の男が口をつぐんだ。
地下道へのドアを抜けて階段を下りながら呟いた。
「俺、もう知らね……」
熱帯魚の男は階段を下りていく男の小さな呟きを
しっかり聞き取っていた。
ここは長い間静か過ぎるくらい静かな島だったが、
あれからずっとどこかざわついてる気がする。
結局あのすばしっこい女も見つけられなかったしな……。
「ちょっと考えとかねぇとな……」
……咄嗟に動くなら、身軽が一番だ。
ここはやっぱり静かにしとくのが上策だろう。
大事な熱帯魚の水槽を見る。
こいつら、ここらの海で生きていけるだろうか……。
その頃、オリーブの木の下のベンチで。
『……なんと、新鉱脈の鉱石が、か!』
「はい、残念ながら。
簡易分析を行いましたので、ほぼ間違いありません」
『ほぼ、というのは? 確かではないのか』
「申し訳ありません。
証拠の鉱石を紛失してしまいました」
『お前にしては珍しい……。
む! 熱があるようではないか。
私のPCFの前では隠し事は出来んぞ。
お前が熱を出すとは、ただごとではない。
何があった?』
「少々炎を吸い込みまして。
お借りした装備も燃えてしまいました」
『装備など、どうでもよい!
……ああ、アシュリー。よく無事でいてくれた』
「私の身体ならご存知のように大抵の事では大丈夫です。
あと数日もすればほぼ全快しますので。
アデルモ島の賊は私を死んだと思っているはずですから
しばらく手を出さずに泳がせておいて、
空からの監視を強化して
出入りを完全に把握するのが良いかと。
それで私の方は
ゴールズワージーへ調査に赴きたいと……」
『なんと、お前は死んだと思われていると?!
それほどまでに危険な状態だったのか……。
ああ、アシュリー』
「兄上、私はもう大丈夫ですからご心配にはおよびません。
それよりも鉱山の調査を……」
『なにをいう、アシュリー。
母上が亡くなられる時、
我が手をとってくれぐれも幼いお前を頼むと
涙ながらに託されたのだ。
その時、母上のお前への愛は
私が確かに引き継がせていただいた。
お前を心配するのは当然ではないか』
「兄上、私はもう幼子ではありません」
『そんなことはわかっておる。
……わかってはいるが、
こうやってお前が危険な目に遭ったと聞けばやはり』
「兄上!」
『……よし、決めた。アシュリー、即刻城に戻れ。
向こう一ヶ月、城で静養するように。
否やは言わせぬ。……返答は!』
「……御意のままに」
『待っておるぞ』
「はい」
通信を終えて少々、
暴風が通り過ぎた後の一輪の野の花のような
気分になっているのを自覚して苦笑した。
「……兄上は、
ああいうところは子供の頃から変わられないな」
そう呟いて、少し遠い目をした。
母を失ったのは1歳の時だった。
私には母の記憶がない。
ある時母は風邪を引いたという。
特に目立った病歴もなかったが、
母はその風邪をこじらせて寝付き、
まもなく多臓器不全を起こして
あっけなく亡くなってしまった。
その時母は9歳だった兄に、
私の分もアシュリーを抱きしめてやってね、と
言い残した。
おそらく、
兄弟仲良くとの意図だったのではないかと思うが、
兄はそれを真正面から受け止めた。
抱きしめる、は、愛するということだろう。
ならば自分は、母が愛するように幼い弟を愛せよと
今際の際の母に託されたのだと。
次代の王として学ばねばならない事柄も、
身に着けねばならない技能も山のようにある。
どれだけ時間があっても足りない中、
兄は毎日幾度も抱きしめにやってきた。
兄とよく遊んだ。叱られもした。
兄と過ごした時間の積み重ねが自分をまっすぐ導いた。
そして母の轍を踏まぬようにと健康を心配するあまり、
兄のPCFは人の身体に敏感になった。
始めは肉体面だけだったが、
いつのまにかそれが当然であるかのように
精神面にも広がった。
人の全てを測定しデータベース化してしまう。
細かい数値の積み重ねと変化から
読み取れるものは計り知れない。
そして、現在では兄の眼の届く範囲には
病を患うものはほとんどいなくなり、更に、
不正を行う者、不正を目論む者は存在し得なくなった。
このことを詳しく知るのは私だけだ。
周囲のものは長い付き合いの側近であっても
知らされていない。周囲の知るのは肉体面までで、
便利な健康診断能力が充実している程度の
認識のはずである。
それにしても、兄に注がれた愛はあまりに大きくて、
一時期どうすれば返せるのかと悩んだ事がある。
悩んでいる事も実は兄にはお見通しだったのだが……。
結局、愛は愛として貰っておけば良いと開き直った。
そして、自分のできる事で兄を支える。
自分はこれでいい。
だからこそ、
王宮から遠く離れ兄の眼の直接届かない鉱山を
調べに行かねばならないと思うのだが、
もうこうなっては一ヶ月
おとなしく養生するしかなさそうだ。
と、ここまで考えてふと思い出した。
「って、今、先生はモンフォールじゃないか!
……さて、どうやって帰ろう」
そしてこちらは、グランヴィル王の私室である。
弟との通信が切れた後、
王はそのままの姿勢で考え込んでいた。
「どうも、あれの熱は回復のためだけではないな。
これまでにはなかった反応だ。
……まさかとは思うが、……いや、でも、
もしそうだとするとこれは放っておけぬ。
……モンフォールのアレクシア姫か。
何があったか分からぬが
ぜひ一度会ってみたいものだ」
王は一つ思いついた。
「こちらの使者のお返しに、
姫を招待すればよいではないか!
……ああ、しかし
公に招待したのでは見たいものが見えぬかもしれぬ。
ふむ、……さてこれはどうしたものか」
王は真剣に考え始めたが、ふいに立ち上がった。
「いかん、これは寝そびれる予感がする。
きちんと眠るのも私の仕事だ。
続きは明日としよう」
健康第一。皆のもの、よい夢を……。
次の日の早朝いまだ夜も明けやらぬ頃、
バーナバス・ヒューイット教授のPCFが着信した。
『……ット教授、ヒューイット教授、
早朝大変申し訳ありませんが
至急とのことですので受信をお願いします』
「……あ、はい。少々お待ちください」
この声はどなたの側仕えの方であったろうと考えながら、
ヒューイット教授はガウンを羽織ると居住まいを正して
点滅している中空の柔らかい光に触れた。
PCFが展開するとそこに国王その人がいた!
「これは、陛下! じきじきにお出ましとは……」
『早朝からすまぬ。
そちらの朝の予定が動き始める前にと思ったのだ』
「どうなされました」
『一つ調査を頼みたい』
「はい。どのような?」
『アレクシア姫が公務でなく、
個人的に我が国か或いはルベでも良い、
こちらへ来たくなるような興味の対象を調べて欲しい』
「……理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
『会って人となりを見てみたいのだ。
公務として招待しても良いが、
若い姫ゆえ窮屈であろうと思うてな』
「かしこまりました」
教授は、どこまで話すのが良いかと考えながら
言葉をつないだ。
「……実は昨日、たまたま会話の中で
姫の興味の対象を直接伺っております」
『なんと、これは話が早い。姫は何と?』
「姫は幼い頃より希少種に興味がお有りで、
枕元に絵本の代わりに希少種図鑑を
置いていらしたそうでございます」
『ほお。……確か、
希少種図鑑といえばその方の著作ではなかったか』
「はい、拙著でございます。
私の研究所には図鑑の原画や希少種についての
いろいろな資料も数多く、
見たいと希望なさるやもしれませんが、
これだけでは何か十分ではないように思えます。
まだもうしばらく姫と接する機会がございますので
他のご興味も見出せるよう努めて参りましょう」
『よろしく頼む。
……おお、肌の水分量がいつになく多い。
さすがマリレは水の星、よく潤っておるな。
……む。少々寝不足のようだが、ああ、私のせいか。
これは済まぬ。ぜひ、もう一度寝直すように』
「お気遣い感謝申し上げます」
通信が切れた後、
起き出すには少々早過ぎる時間だったため、
ヒューイット教授はもう一度ベッドに横になったが
眠れそうにはなかった。
遠いグランヴィルで。
「……悪意はない。やましいこともない。
が、少々隠し事がある、か。
ふむ、何を考えておるのやら。
しばらく様子をみるとするか」
王は一つ欠伸をした。
「私ももう一眠りしておくのが良さそうだ」
いつもの起床時間まで王はとても気持ちよく眠った。
一方、リコシェは少しばかり早起きして
今日の行動予定の確認と案内ポイント毎の予習に
余念がなかった。
案内はそれぞれに専門家が付いて行われるので、
リコシェとしては実の所、案内される側に寄り添って
共に行動することそのものが役目なのだが、
案内する側がちゃんと知っていないのは
不誠実ではないかと思ったのだった。
「もっとちゃんと普段から、
いろいろ国内の事勉強しておくんだったー」
今日は海を案内する事になっていた。
魚種にあわせた水深に設置された海中牧場のうち
比較的浅いものから水深50メートルのものと
水深200メートル以下の3ヵ所を潜水船で視察予定である。
「あ! 閉所恐怖症とかじゃないといいのだけれど。
……ああ、しまった。
確かめておくべきだったわ」
リコシェは急いでPCFを展開した。
「ブロワ伯につないで。朝早くて申し訳ないんだけど」
『了解しました』
ややあって受信された。
『アレクシア様おはようございます。
どうなさいましたか?』
「朝早くにごめんなさいね。
私もっと早く気付いていればよかったのに。
潜水船にご案内して閉所恐怖症だったら
とても残念に思われると思ったの。
もしそうだった時のために、
今ならまだ別の視察先が
予備に手配しておけるかもと思って」
『おお、それは大丈夫ですよ。
到着された日にお尋ねして
閉所恐怖症も暗所恐怖症も、恐怖症と名の付くものは
皆無だとおっしゃっていましたから』
「まぁ、そうだったの! ああ、よかった。
だったら何の心配もないわね。
……あ、でもこんな直前になって騒いでしまって、
恥ずかしいわ」
『いえいえ、私はとても嬉しく感激しております。
アレクシア様がここまでお客さまを思って
お心を砕かれているとは……。
あの、お小さかったアレクシア様が……、
ぐすっ……ぐすっ……』
ブロワ伯が涙ぐみ始めたのでリコシェは慌てた。
「……あ、あの、今日も一日よく考えて ……あの、
ま、また後で。ありがとう」
通信を切って苦笑する。
ブロワ伯は小さい頃からやんちゃを言っては相当
振り回していた気がする。
‘リコシェ’とは跳弾の意味をもつ愛称だ。
元気いっぱい、何かにぶつかって跳ね返されても
勢いのままに突進する、
幼い頃のリコシェはそういう子供だった。
「ブロワ伯には私、
ずっと小さい子供のままに見えてたのね。
……何だか私って、まだまだ全然足りないわ」
そう言ってうつむいたリコシェだったが、
すぐ気分を切り替えた。
「さて、続きやっちゃうか!」
それから数時間後、視察の一行は潜水船の中にいた。
ルベには海がない。
大きな塩湖が各地に点在しているが
水深はもっとも深いもので
150メートルをわずかに超える程度であった。
なので、潜水船から見る豊かな海の様子は
使者を驚嘆させた。
透明度の高い美しい海中に陽光が差し込み、
岩礁に群れ泳ぐ魚の姿をきらめかせていた。
しばらく進むと、海底に三角形の組み合わせでできた
ドーム型の枠が設置されている場所に着いた。
ドーム型の枠の中に小型の機械が見える。
「そろそろ餌の時間でしょう」
「ほほお」
ドームの中の機械から音が聞こえた。
枠全体に共鳴して海中に伝わっていく。
すると、瞬く間に魚たちが集まって、
ドームの周囲に大きな魚の団子ができてしまった。
「おおー、これはスゴイですね!」
係員の説明によると、魚の好む味と香りの液体状の餌を
ドームから瞬間的に何度か噴出しているのだそうだ。
そして、魚が散った後に周囲の海水をすぐ調べて
次の餌の量を加減する。
環境を汚さないよう細心の注意を払って
運営されているのだ、と。
話を聞いているうちに魚が散った。
「あんなにたくさんいた魚たちが
あっという間に姿を隠してしまいましたね」
リコシェがそう言うと
「はい、潜水船が近くにいるので
少々用心しているようです。
ここは小さな魚たちが安全に暮らせるように
人工の魚礁も多く設置しており……」
少しばかり緊張して固くなっていた係員の説明が
滑らかになってきた。
更に沖に進み水深を深くしていく。
水深40メートル辺りになると
青が濃いというよりもうほとんど黒い世界だ。
暗い海に潜水船の明かりをうけて
細かい浮遊物がたくさん白く浮かび上がって見えている。
「ああ、マリンスノーですね」
「海の雪ですか、なるほど……。
マリレでは海の中に雪が降るのですね」
「これは本当の雪とよく似ていると聞きますが、
雪もこのようなものでしょうか。
……実は私、雪に触れた事がないのです」
「おお、そうでしたか。
ルベには万年雪を頂いた高い山々がたくさんありますし、
雪を見ようと思えば年中見ることはできます。
気象条件によっては季節が夏でも
山では新雪が降る事もあります」
「まあ、そうなんですね!」
「もしよろしければ、雪を見に……」
『水深50メートルです』
合成音声のアナウンスがあり、
それをきっかけに係員が話し始めた。
「まもなく到着する海中牧場は
先ほどの浅い海のものとは
かなり違うシステムになっております。
こちらでは魚の群れを丸ごと育てています。
網などで囲って仕切ると大きさが決まってしまい、
群れの状態によっては魚が囲いの中でぶつかったり
いろいろ不都合がでることが多くありました。
そこで考え出されたのがこの、
囲わない囲いという新しい発想の……」
どうやら機を逸したようだと使者は内心残念に思ったが、
次第に興味深いシステムの説明に引き込まれていった。
海洋牧場の視察を終え、
海中をすすむ潜水船のまわりが
次第に色を取り戻していく。
やがて海中に差し込む陽光の美しい煌きが周囲を包み
潜水船は海上に浮かんだ。
穏やかな波に緩やかに揺れる。
リコシェが係員の顔を見ると、
係員が目を伏せて頷いたので、
リコシェは使者に微笑んで声をかけた。
「外に出てみられますか?
しばらく暗い世界でしたから、
日光と海風が心地良いかと」
「では、そう致しましょう」
船上に出ると、
リコシェの山吹色のセミロングの髪が風になびいた。
「ああ、いい気持ち。お散歩日和だわ……」
「そうですね。
私なら、涼しい木陰で少々昼寝したいところです」
「まあ!」
二人で朗らかに笑い合いながら、使者はふと思った。
この方の笑顔は日の光を思わせる、と。
そして、教え子を思った。
敢えて自らに危険な役回りを課す王弟殿下、
日の当たらない道を選んで進むあの方に、
この方はやはり光だろうかと。
さて、その王弟殿下はグランヴィルに到着していた。
いつものからくりが使えないので少々頭を捻っていた。
周到に準備を重ねて動くのが常なのだが、
今回はなんとかなるだろうと、
とりあえず帰ってきたのであった。
街の公園の噴水の石組みの枠に腰掛けて考えに耽る。
だれもこんな所に
本にかじりついて研究に没頭しているはずの
王弟殿下が座っているとは思わないので、
堂々としたものだ。
考えているうちに良い匂いがしてきた。
公園を囲んで店が並んでいるが、
その中のパン屋ではパンが焼きあがったようで、
釜から出されてきた焼き立てのパンが並べられていく。
今日のランチは、あのあたりにしておこうか。
おもむろに立ち上がって、ぶらっと店に立ち寄った。
見ると焼きたてパンの横の棚に、
小ぶりのバゲットに切れ目を入れて、
たっぷりのローストビーフと
さらし玉ねぎとレタスをはさんで
グレービーソースを垂らした
食べごたえのありそうなバゲットサンドを見つけた。
おっと、こっちか! これを丸ごとがっつり行くぞ。
昼間から公園で飲むのも少々不謹慎だな。
ここは定番のこっちだろう。
「世界の実りと健康に感謝を」
買ったバゲットサンドとジンジャーエールを持って
再び噴水の石組みに戻ると舌鼓を打つ。
「さて、どうするか……」
一番手っ取り早いのは、直接忍び込んでしまうことだ。
だが、これをやれば、門番から始まって
セキュリティに関わる部署全般に問題が生じる。
セキュリティが破られた上に
忍び込んだ賊自体が捕まらないとなると最悪だ。
これはダメだ……。
やはり、出かけて戻るのが一番だ。
考えろ、先生の研究所以外で学者の私が出かけるところ、
なお且つ人目につかないところ……。
王立図書館、人目が多すぎる。
王立博物館、これもダメだ。
……大学、もっとダメだろう。
街中は無理だ。
……人のいないところ、荒野はどうだ。
……ああ、ダメだ。今度は目的がない。
そうだ! 砂漠のコンヴェリー遺跡はどうだ。
日帰りするにはちょっと無理な距離で、
とても地味な遺跡だから観光客には見向きもされない。
どこかの研究員が調査に行っていないか確かめて
……まさか何かのイベント会場に
なっていたりはしないだろうが、
そういう方面のチェックもしておくか。
問題なければ調査名目で出かけられる。
ちょっと時間はかかるが無難なところだ。
……よし、動こう。
つと立ち上がって、バゲットサンドの包み紙を丸める。
「ごちそうさま」
ごみ箱に放り込んで公園から姿を消した。
数時間後、王宮より一台の乗り物が
ドッド砂漠の遺跡に向けて出発した。
王弟殿下専用自走式浮遊車は、
路上の状態を選ばない便利な車だ。
それから更に数時間後、
日が落ちた砂漠を歩み行く人影が一つ。
見渡す限り他に人影はなくPCFにも反応は無い。
小さな丘を越えて下る。……この辺りでいいか。
素早く身に着けていたものを皆袋に入れる。
そして袋に付けた長い紐の輪を首にかけた。
次の瞬間、大きく翼を広げたブルードラゴンが
力強く羽ばたいて舞い上がる。
“コンヴェリー遺跡”
脳裏に紅い点が浮かぶ。
方向を示してくれるPCFの便利なナビ機能だ。
ただ、アシュリーのPCFは
探査能力に秀でた育ち方をしているので
その性能は並みのPCFとは比べ物にならない。
“人、最大範囲でチェック”
どんどん高度を上げる。
久しぶりの飛行だ。気持ちが昂る。
どうやら自分は、飛びたかったようだ。
日が落ちた途端に気温が一気に下がるので、
冴え冴えとした冷たい空気が心地良い。
青く輝くマリレの明るさで満天のとまではいかないが、
それでもこぼれる様な星空だ。
やっぱり、夜空はルベが美しいな……。
彼女と、と、ふと思う。
彼女と翼を並べてこんな星空を飛べたなら、どんなに…
突然、脳裏に浮かんだ動く人型の表示に
その先の思考が吹っ飛んだ。この位置、移動速度、
移動の方向からの予測ルートを合わせて考えると
王宮からの乗り物に乗っているとしか思えない。
……これはまいったな。
人を確認しないと迂闊に手を出せない。
先回りするしかないか。
ブルードラゴンは、強く羽ばたいてスピードを上げた。
コンヴェリー遺跡に近づくと、再び人型の表示が現れた。
人型は4つ、4人だ。
……って、うそだろ?! なんてこった。
この遺跡がこんなに人口密度が高かった事なんて、
ここ何百年なかっただろうに。
よりによって、なんで今日なんだ……。
早めに降りないとマズイな。
人型の表示ポイントから遺跡を挟んで反対側に回り込み、
低空飛行で距離を詰める。
程よい窪みを見つけて着陸し、身支度した。
遺跡に入り込んで耳を澄ます。
どういう意図で遺跡にいるのか確かめねばならない。
……それにしても厄介だ。
「……あの情報はガセじゃねぇだろな?
こんなパッとしない遺跡に
一体全体何の用があるってんだ」
「さぁあ、んなこと俺っちに分かるかい」
「例のあの乗り物使うのは、
引き篭もって研究やってるって言う
弟殿下だけなんだと。
出かけるって言っても近くの何とかって
研究所にしか行かねぇらしいんだが
それが今日はその
何とか研究所を素通りしたっていうから
気になって付いてった奴がいてよ。
それがどこまで行くかっていえば、
なんとドッド砂漠に入ってったっていうじゃねぇか。
そこで、ピンときた奴がネタ飛ばしたんだとさ」
「へぇ、じゃあここで待ってりゃ
向こうからノコノコやってくるってのかい」
「ああ、それも、一人っきりでな!」
「飛んで火にいるなんとかってやつだぁね。
へっへっへ……」
「ひ弱な学者なんぞ、
ちょいちょいっと撫でてやりゃあ、イチコロだぜ」
「ああ、捕まえちまえばこっちのもんだ。
一生遊んで暮らせるくらいの金むしりとってやる!」
「……だけどよぉ、ドッド砂漠って結構広いぜ?
ここじゃないかもしれねぇだろ」
「まぁ、そん時はそん時だ。
一晩、星眺めて命の洗濯と洒落込もうぜ」
「おおう。 ……それにしても、冷えるなぁ」
「そうだろうと思ってよ、持ってきたぜ!」
「うぉ! すげぇ」
4人が車座になって大瓶の酒を回し飲みし始めた。
「っかぁぁぁぁ! すっげえなこれ……。
寒い時には最高だぜ」
「だな。ぽっかぽかしてきやがった」
「うっぷ。……ううう、俺、もうダメかも」
「何言ってやがんだ! 仕事はまだこれからじゃねぇか。
しゃきっとしてろよっ」
狙われた王弟殿下その人は、
苦虫を噛み潰した顔で肩を落としてタメ息をつく。
目的は私の誘拐か……。
賊の一人がふらっと立ち上がって離れていく。
どうやらどこかで用を足すつもりのようだ。
おいおい、遺跡でなんてことしようとしてるんだ……。
まぁ、こっちとしては都合がいいが。
すばやく先回りすると、遺跡の陰で隠れて待つ。
よろよろ歩いてくる賊の一人を物陰に引っ張り込むと、
背後からすばやく首を抱え込み
肘の内側で首の両サイドをグッと締め付ける。
すると、賊はモノの数秒で意識をなくして崩れ落ちた。
呼吸があるのを確かめて足首と手首をまとめて縛っておく。
「おーい、誰か来てくれー」
ちょっと情けないひょろっとした感じの声を作る。
「……あん? どうかしたかぁ?」
声を聞きとめた一人が立ち上がって、歩いてくる。
遺跡の角をひょいと曲がると
地面に転がっている仲間を見つけた。
「お、おい! どうした? 大丈夫か?!」
背後から声をかける。
「まぁ大丈夫だ。心配するな」
「え?! ……だ、誰」
次の瞬間には、転がっている賊の隣にもう一人、
並んで転がった。
まだるっこしいが顔も姿もできるなら見られたくない。
手早く手足を拘束しておく。
と、その時、
砂漠を滑るようにやってくる浮遊車の明かりが見えた。
「お! 来やがったぜ。てめえら抜かるんじゃねえぞ!」
光に注目しているうちに素早く忍び寄って3人目。
そして、何食わぬ顔をして賊のリーダーらしき男の隣に並ぶ。
「悪いな」
と、そう声をかけた時にはもう賊の首に腕がかかっていた。
賊を倒すとすばやく遺跡に身を隠す。
浮遊車が遺跡前に停まった。
遺跡手前には男が二人倒れている。
浮遊車のドアが開いた。
が、警戒しているらしく内部は暗く静まり返っている。
一人可能性のある人物が思い浮かんでいる。
が、そうでなかった時のことを考えて
一般向けに声をかけるつもりだが、
……まぁ、反応を見て考えるか。
「おい! 隠れてるのは判ってるんだ。
観念して出て来い!」
「……」
「……ちゃんと連絡して来たんだろうな」
「……?」
「そうでないと今頃大騒ぎになってるぞ。
早く出てこないと放っておくが、
それでもいいのか?」
「……!」
「摘み出される前に自分で出て来るのが正解だぞ」
「……そのようですね」
浮遊車の暗い内部から、甥っ子レイモンドが姿を現した。
やっぱりそうだったか、と苦笑いしつつ内心ホッとする。
想定は山ほどした。
掃除しようと乗り込んでいたら
閉じ込められてそのまま出発してしまった侍女
というのが想定内最大のトラブルだった。
レイモンドは想定中一番実害のない対象だ。
とりあえず、私にとってはだが。
レイモンド自身はまぁ、自分で蒔いた種だから
自分で刈り取ってもらわねばなるまい。
「一つ言い訳させて下さい」
「その前に、ちょっと手を貸せ。
こいつらを一箇所にまとめる。
凍死させたら寝覚めが悪いからな」
「はい」
奥の賊を一人ずつ担いできて4人一まとめにする。
刃物を持っていないか調べて見つけたナイフは取り上げ、
爪に加工がないかも見ておく。
変身型によっては異常に爪が硬い場合があり
刃物に加工していることもあるのだ。
お迎えは早めにしてやるほうがいいな。
浮遊車に乗り込んで帰城設定をする。
次いで、警察に通報する。
王弟殿下誘拐未遂犯4人を、
護衛が捕まえて遺跡に縛り上げて置いてきたので
大至急確保よろしく、と。
証拠の画像データは暗いが
音声はしっかり採れているので送信し、
後処理の報告書を待っていますよ、と結んだ。
更には、ネットに噂を流しておく。
王弟殿下にはものすごい手練れの護衛が
密かに何人も付いていて、
誘拐を目論んだ40人をあっという間に倒した上に
纏めて縛り上げて警察に突き出した。
確かな証拠も揃えられていて言い逃れは不可能。
さすが王城の警備は違う、と。
「さすがに40人は盛り過ぎでしょう」
横で見ていたレイモンドがそう言ったので、
笑って答える。
「噂っていうのは尾ヒレが付くものだよ。
これで、二度とこういう悪さを目論む連中が
出なくなるといいのだがな。
今回は私のミスもあった。
こいつのルートにももっと配慮が必要だったし、
それに」
レイモンドを見つめる。
「招いていない客も乗ってきたしな。
……さて、言い訳を聞こうか。
時間はたっぷり有る」
レイモンドは真っ赤になった。
「……はい。
言い訳にはならないかもしれませんが、あのっ
……叔父上に早くお会いしたくて、
これに乗ればと思いつき
何も考えず行動してしまいました。
申し訳ありませんっ!」
「そうか……。
お前の気持ちは嬉しいが、
次代の王たるお前の短慮は国を危うくする。
瞬発力は必要だ。
だが、自分の行動が何を引き起こすかは
絶えず考えていないといけない。
本来、想定外の事が起こってはいけないのだ」
「……はい」
レイモンドがあまりにしょんぼりしたので、
反省するべきはして
次に活かすことに気持ちを向けてやるかと思った。
「よし、それでは一つ課題をやろう。
お前が私の立場だったと仮定して考えてみるのだ。
遺跡へ空の浮遊車を出発させた。
ところが、途中で
誰も乗っていないはずのこの浮遊車に
人が乗っているのが判った。
さて、乗っているのは誰だろう。
思いつく限り考えてみろ。
突拍子も無いと思っても
可能性があるなら除外しないほうがいい。
想像力は、……敢えて想像力というぞ。
想像力は、使えば使うほどその力を増す。
しっかり使って育ててやれ」
「はい!」
レイモンドは頬を紅潮させて返事をした。
浮遊車はゆっくり進む。時間はたくさんあるのだ。
傍らの叔父の気配は温かい。
浅はかな思いつきだったし
城に帰ればたくさん叱られるだろう。
だけど、
やっぱり乗ってきて良かった、と、そう思った。
レイモンドは気持ちを切り替えて真剣に考え始めた。
≪続く≫