母の来訪
希少種固有の特殊能力はないというのがこの世界の常識だが、
アシュリーが起こした小さな現象が
本物のドラゴンブレスだったとしたら……。
リコシェとはアレクシア姫の愛称です。
アシュリーはすぐ意識を取り戻した。
「アシュリー、良かった……。
あの……、さっきのって……」
ドラゴンは首をもたげてしばらく
頭上のオリーブの枝葉を呆然と見つめていたが、
傍らのリコシェの不安げな声にゆっくり立ち上がった。
「アシュリー?」
アシュリーは数歩進んでリコシェに背を向けると
ふいに人型化した。
「心配かけて悪かった。もう大丈夫だから。
済まないが、しばらく後ろを向いてて貰えるかな?」
アシュリーの動きに合わせて
一緒に立ち上がっていたリコシェは、
真っ赤になって慌てて後ろを向きギュッと目をつぶった。
固く目をつぶっても
目に入ってしまった細身だがバランスよく筋肉の付いた
逞しい後姿が焼き付いて……。
「ご、ごめんなさい!」
離れていく足音に声が重なる。
「すぐ戻るよ」
しばらくして、周囲の壁面の地表近くで
小さな明かりが下向きに点々と柔らかく灯った。
身なりを整えたアシュリーが戻ってくると、
リコシェはベンチに座ってオリーブの梢を見上げていた。
「……あ」
頬を染めたリコシェがはにかんだ笑顔を向ける。
アシュリーはリコシェの隣に腰を下ろすと、
リコシェを抱き寄せてキスした。
アシュリーの胸にもたれかかりながら、
リコシェは息を整えていた。
ついつい息をこらえてしまうので酸欠ぎみになってしまう。
アシュリーは腕の中のリコシェの頭に頬を寄せていたが、
ふいにこう言い出した。
「……だめだ、これ以上ここに一緒にいたら
間違いなく君を帰せなくなる。今日はもう送っていくよ」
「私は、……ええ、わかったわ」
リコシェを送る道すがら、
アシュリーはゴールズワージー鉱山の地下空洞の話をした。
巨大な結晶の崩れた欠片が一面に広がる
広大な空洞内部の様子や
欠片を踏んで歩くときの美しい音について話すと、
やはりリコシェはとても興味を示し
行ってみたいと言い出した。
「やっぱり、君はそう言うと思ったよ」
実は、と打ち明けたのは
どこでプロポーズしようかと悩んだ話で。
「山の頂上は気圧と寒さで無理だとすぐ却下した。
低酸素だしね、上の駅で高山病になるくらいだから
無謀すぎる」
「高い山の頂上って一度行ってみたい気はするけど、
きっとすごくトレーニングと体力作りが必要よね。
あまり筋肉育てると体重が重くなって
ちゃんと飛べなくなっちゃうと困るから、
どんな感じなのかなぁって想像しておくだけにしておくわ」
けっこう高く上がって空を飛ぶ事もあるが、
それでもルベの山では足元だ。
マリレにそんな高山はないので、
高く高く上昇してこんな高くまで来たと思った所に
ルベではまだ地面があるという事実に、
リコシェは改めてルベの地勢の凄さを思った。
「地下空洞はね、そのうちちょっと手を加えて
鍛錬の場として使えるようにしようと思ってるんだ。
今のままだとかなりの熟練者じゃないと
安全には降りられないからね。
もう少し出入りが簡単になるように整備できたら
一緒に行ってみよう」
「ああ、どんな音かしら……。楽しみにしておくわね」
モノレールを降りて、
リコシェの住む高層集合住宅の敷地に入る。
公園のように整備され外灯が程よく配置されていて、
夜でも散歩している人やジョギングしている人をみかける。
と、リコシェのPCFに着信があった。
「あ! 母さまだわ。プライベートのほう……」
『……リコシェ? 今、いいかしら? ……リコシェ?』
アシュリーがどうぞと頷く。
リコシェは点滅するPCFの柔らかな小さい光にタッチした。
「母さま、私。どうなさったの?」
『あら、リコシェ、まだ外なの?
結構遅い時間だと思うけれど』
「もう家のすぐ前の敷地よ。
それに、送っていただいてるところだから大丈夫」
母は画面の中でにっこり微笑んだ。
『まぁ! そう。それなら安心ね。……リコシェ、私、
明日非公式でそちらに行くことにしました。
できたら直接お会いしたいと思っていますと
お伝えしてご都合をうかがっておいてね』
「え?! 本当に? ……あ、はい、わかりました。
母さま、私もお話したい事があって」
『そう。明日、聞くのを楽しみにしているわね。
あまり遅くならないうちに部屋に入りなさい。
良い夢を』
「はい。おやすみなさい」
PCFは光の点に戻った。
「アシュリー。明日母さまがお会いしたいって」
「ああ、お目にかかれるのは楽しみだ。
こんなに早くとは思わなかったけど、
いろいろお世話になったからね、お礼申し上げねば。
それと、お願いしないといけない大切な事ができたし」
アシュリーはリコシェに微笑んで手を伸ばす。
リコシェは数歩駆け寄って手をつなぎ
アシュリーに寄り添った。
「……母さま、なんておっしゃるかしら」
アシュリーはリコシェを部屋の前まで送った。
リコシェは作法どおりお茶を一杯いかが?と誘った。
アシュリーは微笑んで、これも作法どおり
ぜひ寄りたいところだけれどもう遅いからと断った。
「また明日。よくお休み」
優しいキスを一つ。
アシュリーはリコシェがドアを開けて、
入るのを見届けてから帰って行った。
アシュリーはオリーブの木の隠れ家に戻るとすぐ、
定位置のベンチから兄王に連絡を取った。
「大変遅くなりまして、申し訳ありません」
『いや、構わぬ。……して、首尾は?』
「はい。先程申し込んだ結果、受諾との返事を」
『そうか! それはめでたい。
お前の反応が少々複雑だったので心配したぞ。
何かあったか?』
アシュリーはプロポーズの返事を聞いた時に起きたことを
兄王に話した。
今までの常識では起こりえない事が起こってしまったのだと。
『……それは本当にドラゴンブレスなのだろうか』
「そうとしか思えません。
僅かでしたが離れた位置にある枝葉を揺すり、
葉を数枚散らせてほんのり霜を残しました」
『……なんと!』
「かなり感情が昂ぶり、
これまでにない感覚で何かが体内に溜まった感じがして、
それが溢れそうになったので何気なく空に放ってみたら、
起きてしまったのです」
『ふむ。伝説のドラゴンブレスは戦いの中、
激昂して発せられる怒りの奔流のようなものと
書かれていたように記憶しているが、
どうやら怒りに限るものではないようだな』
「……はい、そのようです」
アシュリーの口ぶりに王は柔らかく笑んだ。
『照れずともよい。
お前の喜びがどれほど大きかったかよくわかった。
……ふと思ったのだが、
先日の喉から肺にかけての大火傷を
ドラゴンの姿で癒した事が
何かお前の身体に変化を起こしたという可能性も
あるかもしれぬの』
「なるほど」
『当面希少種保護機関に報告は入れずに
再現が可能か試してみよ。
もちろんヒューイット教授も例外ではない。
アレクシア姫には口止めを。
お前の危険に繋がるとなれば異論はあるまい』
「かしこまりました。それともう一つ」
『多少緊張が見えるが、何であろう?』
「明日、アレクシア姫の母上に
お会いする事になりました」
『おお! 私もぜひ直接お会いしてみたいが、
今からでは準備が追いつかぬか。
忘れずに、私からもよろしくとお伝えしてくれ』
「かしこまりました」
通信を終えてしばらく、
アシュリーは頭上のオリーブの梢を見上げていた。
「再現……か」
アシュリーは服を脱いでドラゴンになると、
あの時の感情を思い返してみた。
……愛しくて嬉しくて幸せで。
………………………………ダメか。
リコシェが入ってきたところから会話を思い出して
再現してみたが何も起こらない。
あれは奇跡だったと?
……いや、何かまだ忘れている事があるはずだ。
……待てよ。
あの時は返事を聞くのが恐くて恐くてたまらなかった。
もしや、感情の振り幅だろうか。
喜の感情ばかり追いかけていたが、その前の、
言わばしゃがんで縮こまったような恐れから
始めないとってことか?!
役者じゃあるまいし、
そんな器用に感情のコントロールなどできるわけが……。
だけど、可能性があるなら、やってみるしかないか。
昨日今日じゃとうてい無理だろうが、
気長に試してみるか……。
振り幅の大きさが問題なら、
何も感情の再現に拘らなくてもいいかもしれないが、
奇跡に近い偶然の賜物だろうが
自分が起こした事の再現が出来ないっていうのは面白くない。
上機嫌から激怒!とか号泣から大爆笑!とかだとどうだろう。
第一義として鍛錬してきた平常心を保つ事と
矛盾するようにも思えるが、
感情を自在にコントロールする事として考えれば
現れ方は正反対でも表裏であるとも言えるか。
……っと、とりあえず、寝ないと。
明日がある。
ベッドに入って目を閉じると
リコシェのはにかんだ笑顔が浮かぶ。
……もう眠れているだろうか。
その頃、携帯電話を現役で使い続ける
謎の組織の導き手として、気の休まらない忙しい一日を終え
私室に戻ってきたボルジ・ユルガトは、
お気に入りの肘掛け椅子にゆったり腰掛け
ようやく一息ついていた。
と、ノックと共に声がする。
「ユルガト様、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
カップをのせたトレイを手に
部屋に入ってきたのは側仕えのサシ・バヤンだ。
幼い頃から頭がよく目立つ存在だったが、
組織では珍しく荒事の才は皆無だったので
どうしても軽く見られて腐っていたのを
ユルガトが側仕えとして引き立てて数年経っていた。
受け取って胸元にカップを持つと、
安眠と癒しの効果があるという
ハーブの芳香が立ち上って顔を包む。
立ち上る蒸気と共に胸いっぱい香りを吸い込む。
……ああ、ホッとする……。
「……サシ、ビドゥから連絡はあったか?」
「いえ、ありません。
……あ、そうそう。
テム様はしばらく定時連絡ができないとのことです」
「む! それはいつ頃連絡が?」
「まだ朝の頃で……、ああ、ちょうど集会中でした」
「何故もっと早く伝えないのだっ!
テムが定時連絡すら出来ぬほどの事態に陥っているならば、
これはただ事ではない。
……今すぐ書類はすべて風の部屋へ集めよ。
よいか、一枚残さずだぞ」
「それは明日の集会後ではいけませんか?
今夜中に明日の集会の準備をしておかないと」
ユルガトは持っていたカップをサシのトレイにガン!と置いた。
サシは落とすまいと必死にトレイを支え、
カップからトレイの上に中身が零れ飛び散った。
「サシ・バヤン!
今すぐ全ての書類をここ、風の部屋に集めよ!
明日の集会は無い! 準備も不要だ!」
「え?! ならばすぐ連絡をまわさねば……」
「ここは引き払って即刻移動する。一切の痕跡を消すのだ」
ようやく事態が緊急なのだと飲み込めたか、
サシ・バヤンは蒼白となって駆け出していった。
ここの拠点は結構長く居られた。
若い者がここの暮らしがずっと続くと錯覚しても無理はないが、
我らが長きにわたって生き延びてこられたのも
全ては引き際の速さ故だ。
やがて、風の部屋に書類の山ができた。
持っていけない大事な物も含まれる。
神々しいほどと言われたユルガトの肖像画も
美しい木目のキャビネットもお気に入りの肘掛け椅子も
書類に埋もれていた。
「サシ! サシ・バヤン!
確認のため私も共に一通り見てまわる。
急いでここへ!」
「……は、はいっ!
連絡もほとんどつかず、どうしたものかと」
「夜は皆忙しいのだ。そんなことは分かっているだろう。
ここが潰れれば、それ自体が意味を持つ。
連絡など不要だ」
この夜遅く。
マリレ三国のうちの一国ファルネーゼの地方都市
テジェスの下町で小さなボヤ騒ぎがあった。
深夜の火事にも関わらず消防への通報も早く延焼は免れた。
激しく燃えたのは建物の一部のみで
火元と見られる部屋は完全に燃えて
室内の調度なども跡形も無く燃え落ちてしまっていた。
この部屋を使っていた人が火事を恐がって、
壁や天井にまでとても厚く漆喰を塗り重ねていたことが
幸いしたという。
ただ、高い位置の嵌め殺しの窓が割れたのが
火勢を激しくする一因になったらしい。
ドアに作られたペット用の入り口から風を吸い込んで
炎を激しく煽ったらしかった。
燃えにくい部屋にするつもりが
その部屋だけの火事になったと少々同情も集めた。
燃えた部屋の住人は数日前から留守にしていて
帰ってくる予定は聞いていないという近隣の住人の話もあり
出火の原因は不明だが放火の疑いがあるとされた。
単発の事件で被害もほぼ一部屋のみということで
捜査はおざなりに済まされそうな気配が濃厚である。
このボヤ騒ぎから一ヶ月も経たない間に
近隣の住民がポツポツ引っ越して
結構な数の空き部屋ができるのだが、
それもいつのまにかふさがってしまうのだ。
建物に一部焼けた部屋があろうが
安ければそれなりに需要がある下町であった。
さて、アシュリーのプロポーズの次の日に戻ろう。
早朝、リコシェのPCFが着信した。
『……リコシェ、おはよう。
こんな早朝で申し訳ない。……今いいだろうか』
リコシェはすぐ受信する。
「アシュリー、おはよう。
今サッと掃除して換気してたところよ」
『そうか、早いな』
アシュリーが実は、と話し始めたのは
昨夜のブレスの件だった。
兄王に報告したところ、
当面どこにも知らせず再現が可能か試すことになったという。
現在の希少種に関する常識では
あり得ない事が起きてしまったのだ。
奇跡的な特殊な一例がクローズアップされる事によって
与えられる損失は計り知れない。
まだまだ脆弱な機関である希少種保護団体には、
希少種は庇われ守られるべき弱き者として認識され、
それが活動の根となっている。
希少種がその特殊能力に開眼し、
圧倒的力を奮い始めることになったら保護の名の下に注がれる
たくさんの手が消え去ってしまうかもしれない。
……これは諸刃の剣だ。
今はまだ、
救われなければならない、か弱き希少種ばかりが存在するのだ。
だから、とアシュリーは言う。
「私が良いと言うまで、
この事については例外なしに誰にも言わないで欲しい。
助けが必要な希少種の人たちを守り続けるために」
リコシェは強く頷いた。
「わかったわ。誰にも、母さまにさえ言わないと約束するわ。
ねぇ、アシュリー?
……あれって本当にドラゴンブレスだったと思う?」
「おそらく十中八九はそうだと思う。
……もしかしたら希少種の姿に生まれるだけでは
本当の意味での希少種では無いのかもしれない」
「それじゃ今のアシュリーは、
今までの希少種の枠みたいものから
抜け出してしまったの?」
「ひょっとしたらそうかもしれないし、
全然そうじゃないのかもしれない。
まだはっきり判らないんだ」
そう言いながらアシュリーは、おそらく間違いなく
一歩踏み出してしまったのだろうと思っていた。
この事実が単なる偶然か何かであったなら、
二人の婚約を祝う良い記念になるのだがと思いつつ、
このタイミングで起きてしまったことに
何か使命を課されたような気がしてならなかった。
アシュリーは、午後の訪問を約束して通信を終えた。
その頃、グランヴィルの捜査機関付属研究所内の
収容施設仕様医療ルームで、
集中治療ケージに固定されて治療を受けていた
瀕死のイタチの容態が持ち直していた。
その脳波から、意識は戻らないまでも
人型化する可能性が出てきたのが判ったので、
とりあえず人用のカプセルに移された。
それからわずか数分後、突然、イタチは人型化した。
想定より少々大柄だったので
カプセルを交換することになったが
意識はまだ戻っていなかったため、用意されていた
囚人用の沈静スプレーを使うことにならなくて良かったと
医療スタッフはホッとした。
まだまだ沈静スプレーは使わないほうがいい。
イタチの姿だった男は、ダァト・カシィという。
ヴィヴァースに落盤を仕掛けられた時、
爆発に驚いて後ろを向いて逃げようとして転んだ。
その時胸ポケットに入れていた携帯電話は
倒れこんだ拍子にポケットから飛び出して
坑道を奥に向かって滑っていった。
ダァト・カシィは、咄嗟に
起き上がる時間は無いと思った。
それでスルッとイタチに変身して
服の太い首周りの穴から抜け出して
携帯の滑ったほうへと全力で走ったのだった。
そしてそのまま坑道の最奥の突き当たりに激突して失神した。
落盤からかなりの時間を失神したまま過ごしたので、
それが生き延びるのに幸いしたのだった。
「ここまできたら、意識が戻るのは時間の問題だろう。
その前にPCFを装着してしまおう。
囚人仕様で機能制限をかけておくぞ」
「了解しました。準備します」
こうしてビドゥの相棒ダァトはPCFを装着され、
PCFはダァト・カシィに生体融合し、取り外し不可となった。
さて、リコシェの母は
朝一番の飛行機でふわっと海を越えてやってきた。
こんなに身軽でいいのかと思うほどだが、恐らく
目につかない護衛が鉄壁の布陣を敷いているのだろう。
母は初めて訪れたリコシェの部屋の様子に
しばらく興味深そうにしていたが、
やがて満足そうに頷いたので
リコシェはホッと胸を撫で下ろした。
「きちんと暮らしているようですね」
「はい。私のPCFが気をつけてくれるのでどうにか」
「そう」
主に手を動かすのは
リコシェ自身なのだという事は分かっている。
側仕えなしでの留学は勉学以外の面においても
リコシェには良い経験になっているようだ。
自然に笑みが浮かんでくる。
「母さま、飲み物は何がいいかしら?」
「あなたのいつもの飲み物がいいわ」
「わかりました。お好きな所に座ってらしてね」
母はソファに腰掛けると、
ソファに置かれていた大きなワニのぬいぐるみを膝にのせた。
フワフワだがどこかヒヤッとした手触りのぬいぐるみだ。
PCFの画面越しに時折り見かけていたものだ。
これはワニだけれど、おそらく
ドラゴンの代わりだったのでしょうね。
ぬいぐるみの口をあーん、と開けて見る。
ずらっと並ぶ柔らかな小さな歯……。
ぬいぐるみの口は可愛いものだけど、と思う。
小さい頃からドラゴンが大好きだったのは、
もしかしたら、本当にドラゴンとのめぐり会いが
決まっていたからかもしれないわね……。
しばらくしてリコシェがトレイを運んできた。
紅茶とティースプーン、小皿に取り分けた
お気に入りのジャムいろいろがトレイにずらっと並んでいる。
「母さま、これがリンゴジャムでこっちがニンジンジャムね。
で、こっちのがイチジクジャムでこれがアプリコットジャム。
それで、こっちがトマトジャムで、こっちがレモンジャムよ」
「まぁ、こんなにいろいろ」
「後でお気に入りを教えていただけると嬉しいわ。
あ、紅茶はちょっと濃い目にいれているから
濃すぎるようだったら熱いお湯の用意もあるから」
「ああ、大丈夫よ」
ジャムを一口含んで紅茶を飲むと、
口の中で味と風味が交じり合ってとても美味しい。
酸味の強いジャムのほうが
濃い目の紅茶にはより合うような気がするが、
それぞれのジャムに個性があって
一杯の紅茶の飲み方としてはとても贅沢な楽しみ方だ。
普段はおそらく一種類のジャムを使って
大事に味わっているのだろう。
今日はどのジャムにしよう、と真剣に考えている
様子が目に浮かんで微笑ましい。
リコシェの精一杯のもてなしを嬉しく受け取った。
「あら、美味しいわ。ニンジンジャムはもっと
ニンジンの主張が強いのかと思ったけど意外ね」
「そうなの。
最初はちょっと冒険してみようと思って買ってみたんだけど
美味しくてびっくりしたの。
だけど、ニンジングラッセの事を思えば、
それほど意外でもないのかもって後から思いついたわ」
ジャムをいろいろ試しながら楽しく過ごして、
一通り味わった後でリコシェがあらたまって話し出した。
「……あの、母さま。……実はね」
母はただ黙って待つ。
「……実は、私、ドラゴンさんに結婚を申し込まれて、
それで、……その、お受けしたのっ!」
アイラのお初祝いのために帰ってきたあなたが
私の部屋で泣いた時、
いつかこんな日が来るのではないかという予感がしたのよ。
「リコシェ、ここへ」
リコシェが母の元へ行くと、母はリコシェを抱きしめた。
「おめでとう、リコシェ。
こんなに早く私の最後の娘を手放す事になるとは
思っていなかったけれど、
初恋を諦めなかったあなたが
すれ違うだけだったかもしれない運命を手繰り寄せたのよ。
……幸せにおなりなさい」
「母さま、ありがとう。
あの時、母さまが励ましてくださらなかったら
私きっと諦めていたわ……」
リコシェは久しぶりの母の温かい腕の中で
幸せを噛みしめていた。
母は今朝グランヴィルから正式に
アレクシア姫を王弟妃殿下としてお迎えしたいと
申し入れがあったと話した。
しばらく前から内々に打診があったものの
その段階で止まっていたのだが、
おそらく王弟殿下のプロポーズ待ちだったのだろうと。
「グランヴィルの国王陛下とはこの頃よくお話するのよ。
あの方は弟君を本当に大切に思っていらっしゃるわ。
正式にお返事するのは直接お会いしてからと思っているの。
……あなたへの書置きといい、
お会いするのがとても楽しみだわ」
そして、午後2時きっかりにリコシェの部屋がノックされた。
リコシェがドアを開けると、
紅いバラを腕一杯に抱えたアシュリーが立っていた。
「まぁ!」
「あらあらあら!」
女性二人に満面の笑みで迎え入れられた
アシュリー・エリファレット・ヘンリー・グランヴィルは、
内心の緊張を隠してにこやかに挨拶を交わすと
リコシェに花束を渡した。
と、あまりに大きな花束だったので、
リコシェがその思いがけない重さにふらついた。
咄嗟に花ごとリコシェを抱きとめて無事だったが。
「少し張り切りすぎたかな……」
「ちょっとね。だけど、とっても嬉しいわ!
すぐ花瓶を用意するわね」
笑顔のリコシェがそう言って
バラをアシュリーに預けて駆け出していく。
家中の花瓶を総動員して活けたが入りきらず、
台所から料理用のボールをいくつも引っ張り出してきた。
花の茎を突き刺して固定させる用途の
吸水性のスポンジを土台にして3人で思い思いに活けると、
大胆なのはリコシェで意外にセンスのいいアシュリーと
流石の出来栄えのリコシェの母であった。
ひとしきりバラの花で楽しい時間を過ごした後、
リコシェはお茶を入れた。
それと簡単にクラッカーの上にイクラやクリームチーズや
アボカドやマッシュポテトや半分に切ったミニトマトなどを
彩りよくのせて大皿に並べて出した。
下ごしらえをしてあったのであっという間にできあがる。
ちょっとつまむにはおしゃれで便利だ。
ここでアシュリーが座りなおしてリコシェの母に向き直った。
「今日はお礼と、一つ大事なお願いに伺いました」
「あら、なんでしょう」
「使者を派遣する事を兄に願ったのは私なのです。
無茶すぎる急な日程でしたのに
そのまま受け容れてくださって感謝しております」
「理由があってのことだったのでしょう?
それに、理由はどうあれ両国のこれからを思えば
とても有意義な使者の交換になりました。
良いきっかけを頂いたのはこちらのほうです。
ありがとう」
アシュリーはちょっと参った。
この方がモンフォールの女王、リコシェの母君なのだ。
アシュリーは画像取得を拒否する特殊機能付きの
ブルーメタリックフレームのメガネを外すと、
一つ大きく息を吸って腹に溜めた。
「……では、今度はお願いのほうを。
もう既にお聞き及びかもしれませんが、この度、
アレクシア姫と結婚の約束をいたしました。
この件についてぜひお許し頂きたく」
「モンフォールとして異論はありません。これにより、
両国の絆がより強くなることを喜ばしく思います。
……と、ここまでは公の立場で。
ここからはリコシェの母としてですが、
この頃公人としてのあるべき姿にも目覚め、自分から
国についてのあれこれを学ぼうとし始めたところです。
グランヴィルのお役に立てるよう
どうか見守り導いてやってください。
それと、リコシェは跳弾ですから、
ああ、この辺りは良く判っていてくださってますね。
上手くコントロールして、
どうか二人いつまでも無事に仲良く」
「はい、確かにお引き受けいたしました。
お許し頂き、感謝申し上げます」
頬を染めて寄り添って座るリコシェと強い眼差しの異国の王子。
似合いの二人と見えて、母は満足して微笑んだ。
この日、モンフォールは
正式にグランヴィルからの申し出を受諾し、
アレクシア姫はグランヴィルのアシュリー王子と婚約したと
世界に発表された。
≪続く≫