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運命の出会い

『……しもし、リコ? いるんでしょ?

 ちょっとぉ、返事しなさいよ。リコーっ?』


体験型“ホルスの目”最新バージョンで、

現時点でどこかの空を舞っている本物のユリカモメの目を

疑似体験していたリコシェは、

すっぽり頭部を覆っていた器具を脱ぐと叫んだ。


「はいはいはいはい、いますよ、いますってばっ!

 っんとにもう、せっかく気持ちよく飛んでたってのにぃ

 ……どうしたの? 何かあった?」


リコシェの目の高さ、右手前方正面からちょっと右に振った位置に

柔らかな光の点が着信を示す点滅状態で浮かんでいる。

光の点は頭を動かしても自分との位置関係が変わらない

パーソナルコントロールフレームだ。


リコシェがその光の点を指でツンと触れると、

パッと柔らかい光が展開して

二年前に結婚した長姉の姿を映し出した。

リコシェの家は昔から女系家族なのでこの姉が実家の跡継ぎである。


『あら、また何とかの目やってたの?

 リコは自分で飛べるんだから

 わざわざ機械使って体験なんかしなくてもいいのに』


「別にいいじゃない、好きなんだから!

 ……で、何かあった?

 さっきの子はねー、すっごく飛ぶのが好きな子でねー、

 途中でエサ漁りに行ったりしない大当たりさんだったのに、

 もったいなかったー」


『はいはい、ごめんね。

 ふふっ。それよりも、ほらほら! 見て』


ニコニコしている姉、ロザリンドは

生まれたばかりに見える子猫を抱いていた。


「え? 何をよ。

 ……って、まさか……その子、アイラちゃん?」


『そうよぉ。可愛いでしょー』


リコシェは親指と人差し指で丸を作って弾くように何度か広げて

パーソナルコントロールフレームを拡大表示した。

姉の腕の中すやすや眠る小さなミカン色のふわふわ子猫。


「きゃああああ! かっわいー。あぁぁん、抱っこしたぁぁぁい!」


『こらこら、大きな声出さないでよ。

 さっき寝たばっかりなんだからね』


リコシェはパッと口元を押さえると、小さな声に抑えた。


「ごめん、ごめん。……アイラちゃん、起きちゃった?」


『だいじょうぶよ、よく寝てる。

 アイラのPCFが即反応して音量の設定を

 赤ちゃんお休みモードに切り替えてくれたみたいだし、

 リコがちょっと騒いだくらいじゃ平気だったようね。ふふっ』


人は生まれるとすぐ

パーソナルコントロールフレーム(PCF)を装着する。

生体融合型で取り外しや改変は不可能だ。

幼い頃は成育に機能の大半を割くので、

非常に優秀な乳母兼看護士が眠らずに常駐しているようなものである。


『……あっ! それでね、この子のお初祝いをね、

 今度の海の感謝祭の日にしようと思ってるのよ。

 みんな集まる日だからちょうどいいでしょ?

 夏期休暇に入ってる頃だし、リコも大丈夫でしょ?』


「行く行く行く! もちろん行くよー。

 可愛い姪っ子のお初祝いだもんね、何があっても必ず帰るから。

 ……それにしても、アイラちゃんの初変身、

 すっごく早いんじゃない?」


話しながらリコシェは別フレームを広げて予定をみた。

……んー、やっぱり空いてるか。

うら若き乙女がお休みの日に予定真っ白って、

世の中何か間違ってない?



ああ、そうそう。

お初祝いっていうのは生まれた子供が初めて

もう一つの姿に変身した時に行うお祝いの儀式で、

歩き始めの頃にっていうのが多いかな。

アイラちゃんみたいに

アンヨもまだの赤ちゃんがお初っていうのは

本当にとてもとても珍しい。


『そうなのよー。

 同じ頃に生まれた赤ちゃんの中で一番早いみたいでね、

 もうアンヨしてるのにまだお初がないっていう

 知り合いのママに羨ましがられちゃったりして、

 ちょっとだけ鼻が高かったり

 なんとなく申し訳なかったりで……』


「そうなんだー。

 早いも遅いもその子の個性なんだし、

 多少遅くても気にしなくていいのにね」


『まぁねー。

 みんな解ってるのよ、たぶん。

 それでも気にしちゃうのが親心ってもんでねー。

 リコも結婚して自分の子供産んだら判るわよ』


「……うん。まぁ、そうなのかなー」


おっと、ちょっと雲行きが怪しくなってきたぞっと。

そろそろ切り上げとこうかな。


この姉はよく気のつく優しい人なんだけど、

ちょっと気を回しすぎて先走ることがあって、

そういう時は世話焼きオバちゃんみたいっていうかなんていうか、

とても面倒くさい人になる。


たまーに、だけどね。


「じゃあ、海の感謝祭には必ず帰るから。

 みんなによろしくね、姉上様っ!」


『はいはい。

 じゃあ、待ってるから忘れないでよ。それじゃねー』


フレームを閉じてソファにひっくり返ると、

一抱えもある大きなミントグリーンのワニ型ぬいぐるみを

ぎゅっと抱きしめた。


サラッとした手触りでヒンヤリした生地の柔らかいワニは、

ムギュッと二つ折りにされて苦しそうだが

リコシェはお構い無しにワニに頬ずりする。


「ねぇ、ワニくん。

 アイラちゃん、猫かなぁ。もしかして猛獣系とか?

 小さいうちは区別しにくいもんだけど……」


ちなみに、婦唱夫随の姉夫婦は

イルカとバッファローの組み合わせだったりする。

……え? どっちがイルカって聞く?!

誤解が無いようにちゃんと言わないとダメかな。

もちろん、姉のほうね。ふふっ。


ついでにもう一つ言っとくと、

人と何かの動物と二つの姿を持つのが普通なんだけど、

動物型のほうは両親の姿に全く影響されないのね。


だって、そもそもイルカとバッファローの間に

子供なんて生まれるはずないし。

もし生まれても

バッファローの上半身にイルカの尾とかついてたら

どこかのダンジョンにいそうなモンスターだし。

そんなのおかしいもんね。


当たり前のことなんだけれど、人と人の間に子供は生まれる。

その子が個性として別のもう一つの姿を持っている。

と、こういうことなんだよね。



リコシェは軽くタッチして

パーソナルコントロールフレームを開いた。


「ベランダから外出するからセキュリティのほうお願いね。

 帰宅もベランダからになる予定。OK?」


『ベランダからの外出および帰宅、設定されました。

 PCF機能は変身後自動で思考対応に切り替わります。

 制約が著しく増大しますのでお気をつけ下さい』


合成音声で聞き慣れた注意事項を知らせ始める。


『外出中の人型化は認められておりません。

 違反すると状況により逮捕拘留されます。

 ただし、外出先に個人的密閉空間、

 いわゆるパーソナルスペースが用意されてあり、

 それを使用する場合はこの限りではありません』


「はーい、わかってますよー」


人工知能の合成音声に気軽に返事をすると、

リコシェは洗面所でパパッと服を脱ぎ、

すばやく下着もとると丸めて洗濯機に放り込んだ。

全身が映る大きな壁面の鏡に素裸のまま、

ちょっとポーズを取ってみる。


「……あれ? ちょっと太ったかなぁ」


おへその横辺りをつまんでみる。

つまめるほどの肉はついてないみたいだ。


「っと、気のせいか……。

 余計なお肉が付いちゃうとホント

 びっくりするくらいパフォーマンス落ちちゃうもん。

 快適なレベルを維持するのって結構大変よねー」


リコシェは鏡に映る自分に向かって満足そうに一つ頷くと、

ぐぅんと背伸びをするように手足と身体を伸ばした。

すると、次の瞬間にはそこに

美しい翼を広げた一羽のホオジロカンムリヅルがいた!

一瞬ぶわっと全身の羽根を立てて震わせると、すっと翼を畳む。


黒いビロードのような毛の密集した頭部に金色の美しい羽冠、

白い頬に鋭いくちばし。

優美な曲線を描くすらりと長い首は灰色で、

喉に赤い肉袋がアクセントのように垂れている。

灰色の滑らかな飾り羽根が首から胴まで届いて

流れるように黒い胴体を飾っている。


腰の辺りに見える白い羽根は折り畳まれた翼で、

そのすそにのぞいている黒い羽根は飛行の要、

翼の先端に並ぶ風切り羽根だ。

そして続く二段目の風切り羽根が茶色で、

畳まれていると尾羽根のように見える。


リコシェがその細く長い足で優雅に歩いて

洗面所を出てリビングを横切りベランダに近づくと、

自動的にベランダの吐き出し窓が開いた。


“それじゃ、行って来るわ”


『気をつけて行ってらっしゃいませ。

 無事のお帰りをお待ちしております』


合成音声を背後にリコシェが26階のベランダから

軽く羽ばたいて飛び立つと静かに吐き出し窓が閉まった。

実の所、PCFは部屋でジッと待ってるって訳じゃない。

何せくっついてるしね。

まぁ管理はずっとしてるんだから

留守番もちゃんとやってくれることには間違いないわけだけど。


何ていうか、

気持ちよく送り出されたっていう演出……かな、を

いつのまにか覚えたみたいで。

みんなそんなふうかなと思ったら

そんな事全然言わないよっていう友達もいて

妙に感心したことがある。



翼を広げてしばらく空中を滑る。

空中を落ちていく感覚が、

すぐに風に受け止められ添っていく感覚に変わる。


すると翼はふわりとリコシェの身体を支えて持ち上げ、

さあ、どこにでもご自由にお行きなさい、と誘惑するのだ。

時々本気で翼の赴くまま

飛び去ってしまいたくなることもあるけれど、

人の理性がブレーキをかける。


いつまでも飛んでいられるわけじゃないのよー。

疲れたらどこで休むの?

安全に眠れるところはあるの?

美味しいご飯はどこにあるの?


……これなのよねー。

絶対必要な、安全と美味しいご飯、

これを確保するのは簡単じゃない。

っていうか、とても困難!



気持ちを切り替えて羽ばたく。

だいぶ滑空して地上に迫ったが、なんせ飛び出したのは26階だ。

まだまだ余裕……ってほどじゃないか。

ちょっと慌ててさらに羽ばたく。


と、警告音が鳴った。合成音声が頭蓋に響く。


『オートフォーカス機能、作動を確認。

 識別コード判別。

 動画撮影機能付き超高解像度カメラです。

 警告メール送信、対象カメラオートロック完了。

 画像消去以外に復旧方法はありません。

 ……………画像消去確認。……お詫びメール受信』


あらら、しまった。

ヘンテコな飛び方で興味引いちゃったかな。反省ー。


個人情報は厳密に管理されていて、

動物変身状態でも人なので勝手に撮影するのは許されない。

全ての機械は識別コードが割り振られていて

購入借用に関わらず所有した時点で個人情報とヒモ付きになる。



リコシェは力強く羽ばたいて、ごく普通に飛び始めた。

黒い風切り羽根の先端が少し反り返ってどんどんスピードを上げる。

リコシェは次第に空の遥か高みへと昇っていった。



リコシェはとても視力が良い。

だから空を飛べば眼下に広がる半球状の世界は、

地上にいる時の何百倍、いや、もっとかもしれない広がりだ。



たしか4歳の頃の事だ。

地図に書かれた地上の形が

本当にそのままである事に驚き、感心し、とても喜んだ。


ついでに、本当に全部がそのとおりなのかを

確かめようとしたこともある。

その時はいくらか遠出してしまうことになって、

ちょっとした騒ぎになった。



かなり遅くなって無事発見され連れ戻された時は、

さすがに叱られると思ってしょんぼりしていたが、

母の広げた腕の中に飛び込むと優しく抱き締められ、

傍らにいた父の大きな手が頭をくしゃくしゃっとなでた。


「一族ではお前が一番の行動派かもしれんな」


父はそう言って楽しそうに笑った。


「本当に」


と相槌を打った母だったが、

ポタポタっと雫が落ちてきて何だろうと見上げた時、

それが母の涙だと解って、大泣きした。


「……ごめんなさい。ごめんなさい、心配かけてごめんなさい」




そういえば、こっちの大学へ留学して以来

しばらく会っていないから、

今度のお初祝いで帰った時に

ちょっとくらいなら甘えちゃってもいいかな。



物思いにふけりながら飛んでいると、

行く手に薄赤い星が目に入った。

ルべだ。

両手でちょうど掴めるくらいの大きさに見えている。



ルベには鳥も飛び越せない高い山がたくさんあって万年雪を被っていて、

大きな砂漠もあってとても乾燥しているんだそうな。

まだ行った事ないからそのうち行ってみたいなぁって思ってる。


ここだけの話、私って雪を触った事ないんだよね。

ルベに行ったら、ふわふわの雪の中で思いっ切り転げまわってみたい!


これ、ないしょね。



そして、この星はマリレ。ルベと連星の関係になってる水の星だ。

地表7割が海で3つの大陸とたくさんの小さな島がある。


大陸には一つずつ国があって、私が今留学してる国がアドラータで、

故郷はモンフォール。もう一国はファルネーゼね。


どこの国ともみんな仲良しだから

国境はあるけど行き来を遮る壁はないかな。

……って、地続きじゃないから

壁を建てようったって実際のとこ無理な話なんだけどね。

う~ん、なんていうか、そこらへん気分よ気分。



この日、リコシェは風に乗って気持ちよく3つ先の島まで翼をのばし、

久しぶりの空を満喫して、日が落ちる寸前に自室ベランダに帰り着いた。

ベランダの吐き出し窓のロックが解除され自動で開くと、

リコシェは室内に駆け込んだ。


『お帰りなさいませ。留守中異常ありませんでした』


“留守番ありがとね。

 窓処理お願い。……あ、それと、お風呂37度で”


窓ガラスが瞬間に濃いグレーに変わった。


『夜間用不透過スモーク処理完了。

 湯温37度、適量まで後40秒かかります』


急ぎ足に浴室に向かいながらリコシェは人型化した。

瞬く間に金色の羽冠が山吹色のセミロングに変わり、

鳥の身体がしなやかな肢体に変わる。

洗面所を抜けて浴室に入ると、

リコシェは光に触れてフレームを開いた。


「お湯が溜まるまでミストシャワーをお願い。

 軽くラベンダーの香りでね」


まもなくリコシェは浅いバスタブに

湯加減ヌルメでゆったり身体を伸ばして横たわり、

飛行の余韻を楽しんだ。


心地よい疲労感で

気持ちよくベッドに入ったのは良かったのだが……。




翌日、リコシェは大音量の目覚しベル音と

ベッドの激しい振動で飛び起きた。


「……うわ! こんな時間っ。

 起こしてくれてありがと。助かったわ」


『おはようございます。昨日のお疲れ具合と睡眠リズムから、

 いつもの朝食時間より睡眠を優先いたしました。

 只今から急いで支度を始めれば1コマ目講義に間に合います』


今からでも間に合うなら、頑張るわ!


『ただし、朝食はスティックタイプバランス栄養食と

 ドリンクタイプのヨーグルトパックで。

 青リンゴを一個バッグにお持ち下さい。

 多少走っていただかねばなりませんが

 運動能力に鑑みて特に問題はありません』


リコシェはベッドから洗面所にダッシュしながら叫んだ。


「何でもいいから、適当に服選んで出しておいて。

 お願いー!」


『スニーカーに合わせてショートソックス、キュロット、

 綿ブラウス、ショート丈ざっくり編みサマーカーディガンを

 チョイスしました』


洗面所から駆け出してきたリコシェは、急いで服を着始めた。


「ありがとうー。

 ダッシュするだろうから、

 まずスニーカーってとこが素晴らしいわ!」


『お役に立てて幸いです』


PCFは生まれた時からのデータを蓄積しているので、

共に育っていると言ってもいい。


何をしたか、させたか。それがどうなったか、どう反応したか。

日常の行動など全てを取り込んでいる。

なので、人それぞれ独自のPCFが育つのだ。


リコシェのPCFは、どうやらとても優秀な執事タイプに育ったようで、

困った時のフォローにそつがない。というか、ほぼ完璧だ。




身支度を済ませて

忘れずに青リンゴをバッグに入れたリコシェは、

ノンストップの高速エレベーターを降りて

エントランスを出るまでは周りに迷惑をかけないよう、

駆け出したい気持ちを抑えて足早に移動していたが、

建物を出た途端

スタートランプが点いたかのようにダッシュした。


敷地内は公園の散歩コースのように整備されていて

道なりに通ると結構時間がかかってしまう。

いつもなら朝の爽やかな空気を楽しみつつ

ゆったり歩くところなのだが、いかんせん今は時間がない。


お行儀悪いけど突き抜けるしかないか。

リコシェはここが故郷でなく隣国なのをちょっとだけ感謝した。

故郷だったら絶対できない。


というのは、

リコシェの家はモンフォールでよく知られた古い家であり、

何やかやと衆目を集める事が多かったからだ。


だからこそ、幼い頃から自分の立場や望ましい振る舞いなど

厳しく躾けられ教育されてきた。

現在は一人家を離れて隣国アドラータに留学中なので、

より一層厳しく自らを律していく事を期待されているのは

重々承知はしているのだが。


身内の誰かに伝わったら

お説教だけではすまないのは火を見るより明らかなので、

万が一にも誰にも出くわさないようにと密かに祈りつつ、

最寄のモノレール駅まで最短直線コースを、

低い植え込みは跳び越え、

跳び越せない高さの生垣はかき分けて

一気に突っ走った。



リコシェはもう一つの姿のおかげか、地上にいながらにして

上空から眺めているイメージをほぼ正確に把握できるという

特技を持っている。


空を飛んでいけたらあっという間なのに……。

と、リコシェはどうしても思ってしまうが、

裸で人前に出るわけにいかないから、

たとえ飛んでいって到着したとしてもゴールには入れない。

そういうことだ。



モノレールに乗って2駅、王立オルシーニ大学駅で降りる。

駅前の門をくぐって大学構内に入っても講義棟は敷地のずっと奥だ。

学生の多い構内を

なりふり構わず走るのはさすがにちょっと恥ずかしいので

ほぼ直線になるようにルートをとって小走りで進む。


植え込みをかき分けて出たところは、

ちょうど小ホール入り口の前で

公開講座の手書き案内が掲示されていた。


「……へぇ。

 “希少種型の幸運と不運 迷信における期待的位置づけ”かぁ。

 興味あるのよねー、希少種。なんてったって、生まれてからこれまで

 一度だって希少種さんに会ったことないし……。

 ホントにいるのかしらって思っちゃうわ。

 まー、そこらにぞろぞろいたら全然希少種じゃないんだけどね」


横目で案内を見ながら小ホール入り口を通り過ぎ、

ぐるっと回りこんで一棟向こうの建物に

バタバタしないように気をつけつつ駆け込んだ。

席について汗を拭く。4分前だ。


「あ、リコ、おはよっ! 珍しく今日遅かったねー」


「おはよー。ちょっと寝坊しちゃってね、

 PCFに間に合うって太鼓判押されちゃったものだから、

 頑張るしかなくて……。

 すっごいシビアだと思ったんだけど、

 ちゃんと間に合っちゃうし。

 ふふっ、さすがPCFね」


「PCF誉めてるけど、

 それってリコの足が速いってことじゃないのぉ?

 リコ、タフだし。

 もしかして陸上長距離走とか本気でやると

 選手になっちゃうかもよ」


「えー、そんなのムリムリ。

 ぜーったい無理だって」


ちょっと青リンゴかじってる時間は……ないかな。

後にしようか。


程なく、丸いメガネに緩やかにうねった銀髪を

オールバックで肩辺りの長さに整えている、

ちょっと猫背の教授がやってきた。

額に一筋の後れ毛が垂れ、知的な雰囲気がいや増している。


柔和な人柄と研究に対する真摯な姿勢とユーモアのセンスで、

リコシェが大好きな老教授だ。


「皆さん、おはよう。今日も気持ちの良い朝だね。

 こんな日は木漏れ日の中をゆったり散策したいところだが、

 アイネイア姫が後の想い人と初めて出会うところだからね、

 あまりお待たせしては姫のご機嫌が斜めになってしまう」


くすくすと笑いがもれる。


「古典における恋愛も

 人と人との出会いから始まるのは今と同じだ。

 アイネイア姫の激しい恋も、

 始まりは意外に何気ないものだったというのが

 忘れられがちなのは実にもったいない事と思う。

 ……さて、では聞いてみようか。

 アイネイア姫と後の勇者リゴールの……」


慌しく一日が始まって青リンゴは次第にバッグの底に沈んだ。

結局家に帰ってから発見され、

リコシェは風呂に持ち込んでバスタブでかじり始めた。

一日持ち歩いたから多少表面的に少々くたびれた感じはしているが

果実の芳香と爽やかな酸味と甘みはまだまだ十分活きていた。





海の感謝祭まで後2日となった深夜。

リコシェはふと思いついてPCFを開くと検索を始めた。


姪っ子のお初祝いに故郷へ帰るが、ちょうどそのルートは

国と国の間の海に広がる群島海域を通っていくことになる。


そこは長期休暇を満喫するためのプライベートアイランドとして

管理、活用されていた。

小さな宿泊施設1棟のみの無人島を契約期間中自由に使えるのだ。

もちろん、意図的に破壊するような活動は不許可だが。


ここで数日羽根を伸ばしてから帰れたら移動に無駄がないよね、

などと楽天的に考えてダメ元で予約できないか調べてみるのだが

やはり夏場は人気のようで、どの島もびっしり予約が入っている。


普段なかなかもう一つの姿をとれない人は結構いて

地味にストレスが蓄積する。

特に猛獣型の人達は家の中で変身しても外には出にくい。


PCFに申請すれば出られない事はないが

万が一の不慮の接触事故などが起こってしまう事を警戒して

遠巻きに警備される事態になってしまう。


筋肉の塊のようなパワーを秘めた大きな身体に

鋭い爪や牙持ちなのだから無理もない。

気軽に散歩というノリではとても出かけられない。


なので、プライベートアイランドを使う時は

猛獣型の人のみ7%割引きだ。


オプションとして

リアルな動きが組み込まれた好みの小動物型デコイが放たれ

狩りを楽しんだりもできる。

タイムなど種別のランキングがあって

結構熱くなっている人も多いらしい。



猛獣型に限らず、なんの制約もなくノビノビ振舞える空間として

プライベートアイランドは人気が高いので、

かなり前からの予約必須なのだが、

稀に急なキャンセルがでて取れてしまう事がないこともない。

……が、やはり滅多にない。



「明日すぐとかって絶対無理よねぇ……」



ところが、だ。リコシェがたまたま見ていた島の予約表で

海の感謝祭直前の2日間が目の前でキャンセルされた。

なので、咄嗟に申し込みをクリックしてみたら

なんと、受理されてしまった!


「えーーーーーっ! ホントに明日から?!

 信じられないけど、取れちゃった……」





リコシェがプライベートアイランドを使える事になった

ちょうどその日、アドラータとモンフォールの間の群島海域は

不穏な朝を迎えていた。


夜明け前、日が昇る直前の一際青の濃い島影に現れたのは、

爆音を響かせて疾走するボートが一艘。

二呼吸遅れて追走するボートが二艘、そのうち一艘が

先行するボートの行く手を阻もうとして二手に分かれた。


先行するボートの操縦者は、

時々振り返りつつ一筋の活路を見出そうと必死にボートを操る。

回り込まれぬよう逆方向に向かおうとするが、

そこへ後ろから迫っていたもう一艘が

動きを予想して突っ込んできていた。


追われていたボートは、

荒れた水面に舳先が浮いて船底が上がったところに

下から突っ込まれるように激突され、

凄まじい水しぶきと共に空中高く跳ね飛ばされた。


激しい衝撃にタンクから燃料が漏れ

一瞬でエンジンに引火したボートは、黒煙と炎の尾を引いて

錐もみしながら高々と舞い上がったところで激しく爆発し、

炎の破片を海に撒き散らした。


「……ちっ」


「おい、やっちまったらマズイんじゃ……」


「うるせぇっ! 起きちまった事はどうしようもねぇ。

 今の爆発にまともに巻き込まれたんならバラバラだ。

 魚にでも食われて後腐れなしだぜ。……ただな。

 ……おい、ちっと静かにしてろ」


飛び散った燃料がしばらく海面から炎を上げていたがやがて鎮火し、

ボートの破片の燃え残りが燻って煙をあげるだけになった。


「………………なぁ、腕の一本でもそこらに浮いてねぇかなぁ」


「馬鹿やろっ! そんなもん探して何になるってんだ。

 ……黙ってろっつってんのに、しょうがねぇな。ただな!

 もしかして、ヤロウ潜って隠れてねぇかとも思ったんだが……。

 さっきからずっと海面見てるが静かなもんだ。

 そっちの線はねぇな。

 ……よし! とっととずらかるぜ」


「……お、おう」


二艘のボートが波を蹴立てて立ち去った後、

焦げた破片がバラバラと取り残された海面に

小さな泡がポツポツ浮かんだ。

遠慮がちにポツポツ浮かぶ泡は

静かに一番近い島に向かって進み始めた。





リコシェがパーソナルアイランド専用ターミナルの

カウンターに行った時、通常の案内の他に

該当の島のごく近くで小さな事故があったと知らされた。


所属不明のボートが炎上し爆発したが化学的にも生物学的にも

海域に危険な影響はないと判断されたという報告書を提示され、

この件でキャンセルを希望するなら

キャンセル料は不要になることなども告げられた。


リコシェが、特に気にしないのでこのまま利用すると告げると、

ご迷惑料として料金を10%引きにと言われたのでありがたく、

その申し出を受けた。



程なくして、

予約したプライベートアイランドに到着したリコシェは、

回転翼の起こす風に髪を吹き乱されながら、

飛び立った遠距離送迎用高速ヘリを見送った。


「んーーーっ! 着いたぁぁぁ」


リコシェは手足を伸ばして思いっきり叫んだ。


「さてとっ、まずはコテージチェックして、

 契約どおりになってるか確認すませちゃわないとね。

 この島には泉が湧いてるはずだけど、

 着陸する時に上から見てたかぎりでは

 見つけられなかったし……。

 それじゃあ目標その1、泉を見つけに行こうっ!」


リコシェは入り江の奥の白い砂浜を

コテージにむかって駆け出した。

荷物はターミナルで小さなバッグ一個以外

全部預けてきたのでとても身軽だ。

バッグの中身は水着と替えの下着セットくらいで、

本当にほぼ身一つだったりする。


コテージは庇を長く取って

直射日光が室内に直接入り込まないように工夫されていて、

海に向かって窓を大きく取っている。


ドアを開けて室内に入ると、

籐で編んだ家具に鮮やかながらも品の良い色彩で描かれた

植物柄のクッションを組み合わせたソファセットや

素朴な木彫りの調度品の数々で、

海辺のリゾートらしい雰囲気にまとめられた

インテリアが心地よい。


温めるだけに用意して冷蔵された食事セットや

冷凍庫のデザート、各種飲み物など、

チェックシートにタッチしながら見ていく。

アメニティセットも皆OK、きちんと揃えられている。

そして、最後の項目だ。

ここではPCFを使うかどうかを選択できるのだ。


通常ではPCF無しは有り得ないので島にいる僅かの間だけでもと

PCFを使わない選択をする人が圧倒的に多い。

そして、リコシェも御多分に漏れず使わない選択をし

最終確認のサインをしてやるべき事は皆済んだ。


実は、最終確認のこのサインにはもう一つの役目があって、

島のセキュリティスイッチにもなっていた。

状況によって多少差はあるが、概ね島の形そのままに

周囲数キロ範囲でセキュリティロックされるのだ。


ロックされた状態で不用意に外から近づくと

プライベートアイランド管理センターから警告が届く。

普通それ以上近づく者はないが、

それでも近づくと監視衛星から警告され、

更に無視して近づくと

ピンポイントでビーム攻撃されるらしい。


というのは、ここ何年も

そういう事態はおこっていないからなのだが。




リコシェが生まれるよりずっと以前の事だ。

プライベートアイランドが開業してごく初期の頃、

高を括った横着者がこの警告を無視して近づき

ビーム攻撃を受けた事があった。


ビームを受けて海で卒倒状態だった侵入者は、

PCFのおかげできちんと生命維持管理され、

救難信号でまもなく駆けつけた海上警察に救助されたが、

回復後厳しくお灸をすえられた。


更にニュースとして世界発信され、顔は映像処理されて

すぐさま個人を特定できないものだったが、

笑い者になった上に救助費用の実費が請求され、

それが驚くほど高額だと世間に広く知れ渡った。


あえて同じ轍を踏もうという

無謀なチャレンジャーは以来二度と現れず、

この事件が大いにプライベートアイランドの

評判をあげたのは言うまでもない。


そのセキュリティロックが、

リコシェのサインで島にセットされた。

ここから先契約期間終了まで、

ここはリコシェの島となったのだった。



「さーて、どうやって探そう。

 やっぱり、海に流れ出ている小川を見つけるのが一番かなぁ。

 だったら島の海岸線をぐるっと見るのが手っ取り早いか」


一通り自分を点検する。

子供の頃うっかり髪に結んでいたリボンを忘れて変身して

とても痛い思いをした事がある。

それで普段はそうでもないが、あらたまって出かけた時などは

普段つけないちょっとした装身具などを

外し忘れないようにすっかり慎重になった。


「忘れてる物はないかな?……んっと、いいみたいね」


ドアを開けておいてから変身し、

滑らないように慎重に外に出てから

身体でドアを押して閉めた。


開けっ放しでもいいんだろうけど、

やっぱり閉めておかないとね。

なんとなく落ち着かないし。



リコシェは島の上空に飛び立った。

海岸線に沿ってゆったり飛ぶ。

小さい島だと思っていたが意外に広いかもしれない。


コテージのある白い砂浜は入り江の奥だ。

砂浜には椰子の木が何本か生えて木陰をつくっている。

その更に奥には熱帯の木々が茂って

一見普通のジャングルだが、ちゃんと人手が入っていて

雰囲気を保ちつつ散策するのに程よい不便度で

絶妙に管理されているようだ。


入り江の外側は磯浜になっていて、

ちょっと遠いが岩伝いに進める場所に洞窟があった。

入り口付近の岩に降りて中を覗き込んでみる。

けっこう奥が深いようで明かりが無ければ中まで見渡せない。


よーし、目標その2、

明かりを持ってきてこの洞窟の奥を見てみよう!


入り江の反対側辺りまで来るとほぼ垂直に切り立った岩壁が続き、

歩きで島の外周を辿るのは少々足場が危険に思われた。


こっちのほうは流れを見つけたとしても来れそうもないかな……。

岩壁はざっと眺めながらぐるっと通り過ぎる感じでいいか。

さっきみたいな洞窟とか、まだあるかもしれないし。


だが、一周してもそれらしい流れは見つけられず、

リコシェはコテージの屋根の上にとまって首をかしげた。

……そうだ! 島の一番高い所から眺めてみようか。


飛び立ってあらためて島を眺める。


手前に入り江を置くと奥半分は岩壁が囲っていて

リコシェは、なんだかプリンみたいな形だな、と思った。

カラメルソースがほどよくかかった上に

生クリームを一絞りしたデザート皿のプリンをちょうど一口分

スプーンですくって食べたあとって感じ。


うん、これだ! リコシェは自分の思いつきにご機嫌になった。

……それじゃ、今から生クリーム山の頂上へGO!


島の色味からいうと抹茶ムースにチョコ生クリームかな、

などと考えつつちょっと小腹が空いた気分のリコシェだったが、

程なく山の頂上に降り立った。

入り江の白い砂浜にコテージの屋根が見えている。


視点を固定すると、こんもり見えるだけだったジャングルの緑に

微妙な起伏が見て取れるようになった。


……あっ! あそこに小さな窪みがあるよね!

コテージからまっすぐ奥に入って山登る前に右に折れた感じの所。

とりあえず、あそこに行ってみよう。



リコシェは急いでコテージに戻るとドア前で人型化した。

ドアを開けて中に滑り込み急いでドアを閉めた。

一瞬の早業だ。


「私しかいないのは分かってるけどねー、

 やっぱりまだちょっと抵抗あるのよね。

 まぁそのうち慣れるでしょ」


リコシェはバッグから水着を出して身に着けた。


ビキニに、腰に共布の長めのパレオをまとうものだ。

歩くと結び目の下からチラチラ足がのぞく。

着るほうとしては、露出感がずいぶん抑えられるので

ほぼ抵抗なく着られる。

見るほうにはチラリズム的効果があるとかで、

どちらにも望ましい効果がある、の、かな。


……って、見る人なんかここにはいないんだけどね。



コテージを出るとぐるっと回り込んで

裏手のジャングルに向かう。

見当を付けているからリコシェに迷いはない。

ただジャングルに入り込んでしまうと

俯瞰のイメージはちょっと捉まえにくく、

目標に向かって一直線と言うわけにはいかなかった。


「……あれぇ? 違う、か。

 絶対ここら辺りだと思ったのになぁ……」


リコシェが何気なく茂みをかき分けて首を突っ込むと、

茂みの向こうにポッカリ開けた空間があった。


「もしかして、ここ?」


茂みを抜けると、そこに小さな泉があった。

周囲の樹木がそれぞれに枝を大きく広げて泉に差しかけているが、

完全に覆い被されるほど泉は小さくなく樹木も大きくなかった。


木漏れ日が落ちる透き通った水は、

煌きながら意外に深い底の様子まで鮮やかに見せてくれる。

水底に小さな亀裂があって

どうやらそれが水の湧き出し口らしく、

その上辺りの水面にいくらかの水の盛り上がりが見られた。


リコシェは申し込む時に見ていたページで、

泉の水質についての報告書にも目を通していた。

何の問題もなく飲料に適した水質というだけではなくて、

いわゆる名水レベルの味わいだと。


リコシェはこの泉の水をとても楽しみにしていた。



リコシェはそっと水辺に近寄ると、

しゃがんで両手のひらですくった。

透明な冷たい水がキラキラこぼれる。

そっと口に含むとキリッと冷たくて飲み込むと口の中に

何とも言えない甘みのような旨味のような味わいが

一瞬残って消える。


「んん、美味しいっ! これよ、これ。

 さすが名水って言われるだけはあるわ。

 ……あー、でもこれじゃ勿体無さ過ぎて泳げないか。

 すごくこの泉に入って泳いでみたいけど、

 この泉を汚すようなマネは私にはできないわ」


リコシェは満足するまで美味しい泉の水を味わった後で、

木漏れ日の下、泉のほとりに座って

故郷の古い恋の歌を口ずさみながら

そっと片手を水面に遊ばせていたが、

ふと微かな音に気付いて動きを止めた。


はじめは気のせいかと思ったが、

意識して聴こうとすれば確かに聞こえる。

風にそよぐ葉擦れ音や小鳥のさえずりに紛れて聴こえる

ごく小さな音はゆっくり規則的で、

リコシェの耳にはそれが苦しそうに聴こえるのだ。


リコシェは目を閉じて耳に集中した。


……この音は後ろ? ……ん、違う。……ああ、泉の向こうだ。

たぶん……あっち。



リコシェは静かに立ち上がった。

耳を澄ませながらそっと見当を付けた茂みに向かって

泉をぐるっと回っていく。

リコシェが通ってきた方向とはおよそ反対側だ。


……ああ、やっぱりこの茂みの向こうから聴こえてる。

リコシェはそーっと

オレンジ色の小振りの花が咲く茂みをかき分けて

向こうを覗き込んだ。

すると、そこには青みを帯びた大きな岩があった。


とてもゴツゴツしている変わった岩だ。

この岩の向こうかな? と思って更に回り込もうと岩に近づくと、

たどって来た音がその岩の中から聞こえているのに気付いた。


……岩が、呼吸してるの?


驚いて岩に触れると、思わず手を引っ込めるほどに熱かった。

……何なの?これ。


リコシェは一歩離れて全体を見ようとした。

それでようやくそれが岩ではなくて

生き物がうずくまっているのだと判った。


ゴツゴツした岩のような皮膚の下に

盛り上がる逞しい筋肉が見て取れる大きな身体に長い尾、

鋭く尖った爪が生えた頑丈そうな四肢、

長く伸びた首には硬い突起が並びそれが尾の先まで続いている。


盛り上がった額には後ろ向きに捻った大きな角が二本生えていて、

すらっと伸びた鼻筋に牙の並んだ大きな口がとても精悍だ。

そして、背中には閉じられている大きな翼があった。


「あ……あ……あ……これ、……これって、ド、ド、ドラゴン?

 ……うっわー、なんとなく青いよね? ……うん、青い。

 ……たぶん、ブルードラゴンだ。本当にいたんだ……」


リコシェはハッとして口を押さえた。

騒いじゃダメ! 静かにしてないと。

もしかしたら、人に見つかるのはイヤかもしれない。

一生ドラゴンには出会えないかもしれなかったのに、

こんな奇跡、二度とないかも。


この島に棲みついてるなら島情報に載ってるはずよね……。

だけど、そんなのなかったし、

この島にいるのはきっと本当に偶然……。



思いがけずドラゴンに遭遇したリコシェは

しばらく感激と興奮に舞い上がっていたが、

ドラゴンの異様な熱さと

半ば口を開いたままの苦しげな息づかいに、

ドラゴンが普通ではないことにやっと思い至った。


そして、ドラゴンを救いたいと強く思った。



リコシェは子供の頃から希少種に興味があって、

枕元におとぎ話の絵本感覚で希少種図鑑を置いていた。

優しげなユニコーンに始まってドラゴンに終わるその図鑑で

リコシェの一番のお気に入りはドラゴンだった。

そのドラゴンの項目に

熱い体温などとは全然書かれていなかった記憶を根拠に

リコシェは思い切った行動を起こす。


熱があって苦しいなら、冷やせばいいのよ!



リコシェは泉に駆け戻った。

大きな葉っぱを一枚採ると一部を重ねてつまみ、

浅い器を作って水を汲んだ。


急いでドラゴンの所に戻って身体に水を掛けるが、

持って来れる水はほんの僅かでドラゴンはとても大きく、

これではとても追いつかない。


数回行きつ戻りつして掛けた水も

あっという間に乾いてしまった。



あらためて水を汲んできて、

リコシェはドラゴンの顔のところに立った。

鋭い牙の並んだ口の中へ泉の水を流し込む。

大半は流れてしまったが、

舌に冷たさと僅かな水分を感じたかドラゴンの目が開いた。


輝くルビーのような紅い瞳だった。


「……まぁ、なんて綺麗なの。……あ! いけないいけない。

 呑気に見惚れてちゃダメダメ」


リコシェは小さく咳払いして、仕切りなおした。


「気がついて良かったわ、ドラゴンさん。

 あなた、猛烈な熱があって今とても苦しいと思うの。

 このままじゃ死んじゃうかもしれないわ。

 ……もしかして、何か免疫系の反応で熱が出てるとしても、

 この熱じゃ上がりすぎよ。

 モノには程度ってものがあってね、

 はみ出たリンゴはパイに入らないわ。」


ドラゴンが目をパチパチさせた。


「そこに泉があるの知ってるでしょ?

 こんな側まで辿り着いていながら、

 泉に背を向けて丸まってるってことは、

 あの泉の水を飲んだわね。

 で、名水の泉だから勿体無くて

 泉に入れなかったに違いないわ。

 ……ドラゴンさん、あなたのその気持ち、

 痛いほどによくわかるわ。だって、私も同じだもの。

 でもねっ!」


リコシェは拳を握り締めた。


「どんなに貴重なものでも、

 命よりも大切なものなんてそうそうないのよ。

 それに、この泉の湧水量はとても豊富だから泉の水がすっかり

 入れ替わるのに何日も掛からないのは明らかだし。

 ってことで、ドラゴンさん。さあ、立って!

 泉に行くわよ」


ドラゴンがまじまじとリコシェを見つめた。


「ポンプとホースがあったら、

 ここにいても水汲んで掛けて上げられるけど、

 葉っぱのお皿じゃねぇ、

 何杯汲んでもスズメの涙ってか焼け石に水ってか、

 全然追いつかないのよっ!

 ……ほら、もう。行くんだから、立って!」


ドラゴンは動かない。

いや、動けなかったのかもしれないが。

業を煮やしたリコシェはドラゴンの目の前にすっくと立った。

そして、厳かに命じた。


「ドラゴン! 今すぐ立って泉に行きなさい。

 そして泉を壊さないように細心の注意を払って泉に入りなさい。

 このままでは遠からず命を落とします。

 私の目の前でその命を投げ出すような事は、

 絶対に許しませんっ!」


すると驚いた事に、

ドラゴンが身を震わせながら立ち上がると、

リコシェの前に長い首を差し伸べて一瞬目を伏せた。

それから、リコシェが見守る中、

ドラゴンはよろめきながら向きを変え泉に向かって歩き出した。


ドラゴンはおそらく静かに泉に入ろうとしたのだろうが

高熱で足元がおぼつかなく、結局転がり込むような形になったので

盛大な水しぶきを辺り一帯に飛び散らせた。


泉に落ちた時どこか打ち所が悪かったのか

ドラゴンの頭が水中に沈んだまま

いつまで経っても水面に上がってこない。


「……ドラゴン、だめっ!」


リコシェは思わず泉に飛び込んだ。

泉に潜って沈んだドラゴンの頭を抱えて水面に出そうとした。

けれど、ドラゴンはあまりに大きくて、

その頭はリコシェが必死に抱えようとしても

抱えきれるものではなかった。


リコシェは息が続かなくなって

息継ぎをするため浮かび上がろうとしたが

運の悪い事にドラゴンの鋭い突起のどれかに

長いパレオが引っかかってしまった。


リコシェは必死でもがいたが

引っかかったパレオが外れない。

……見上げれば水面はすぐそこなのに。……く、苦しい!

もう、息が……。


空気を渇望する口から体内の空気が漏れ、

泡となって水面に逃げて行く。

それと引き換えに大量の水が

リコシェの肺に流れ込んだ。……いや!


……死ぬのはいや。



急速に意識が遠のいていく。




……ああ、ごめんね、ドラゴン。

あなたを助けてあげたかったのに……






どれくらい経ったのか、

リコシェを抱き上げて泉から引き上げた誰かが

リコシェを水辺にそっと寝かせた。


ぐったり横たわったリコシェの口元に耳を当てる。

……息がない。

次いで首筋に指をあて脈を探る。

……脈も触れない。


リコシェは死の淵にいた。


一刻を争うと判断した誰かは、

何の迷いもなくすばやくリコシェの胸の中央を、

両手を重ねて規則正しく押し始めた。


そして、リコシェの鼻をつまんで空気が漏れないように押さえると

リコシェの口にしっかり口づけて息を吹き込んだ。

再び胸の中央を規則正しく押す。


何度繰り返したのか分からなくなった頃、

幸運にもリコシェに反応があった。

リコシェを蘇生させようと必死に頑張っていた誰かは

安堵のため息をついた。


少し考えてリコシェのパレオを外すと

自分の腰に巻きつけてからリコシェを抱き上げた。

歩き始めてすぐ一瞬よろめいたが、

腕の中のリコシェを見つめるとその後足元が乱れる事はなかった。



コテージに着くと、急いでリコシェの身体を拭いた。

水着は速乾性の生地でもうすっかり乾いていたのでそのままに、

用意されていたガウンを着せてベッドに寝かせた。

そして、そっとリコシェの手をとるとその細い指先にキスをした。

何かを吹っ切るように一つ首を横に振ると、急いで布団をかけた。


しばらくリコシェの規則正しい寝息に耳を傾けながら

ジッと顔を見つめていたが、そっとドアを閉めて立ち去った。




リコシェが目覚めると、すっかり夜になっていた。

ベッドでふわふわの布団にくるまりながら、

ぼんやり天井を眺めていたリコシェは、

唐突にすべて思い出して飛び起きた。


「大変! ドラゴンが……って、え?!

 ……私、泉で溺れたのにどうしてここに……」


リコシェは水着のままガウンを着ているのに気付いて、

携帯用の明かりを持って飛び出した。

ドラゴンが助けてくれたのだ。


あんなに熱がでて苦しそうだったのに、

命を救ってくれただけじゃなく、

わざわざここまで運んでくれたのだ。


きっとずいぶん無理をしたに違いない。

……ドラゴンは無事だろうか。



ルベが明るく輝いているので大丈夫だと思ったが

森の木々に光が遮られてかなり暗い。

足元を照らしながら走ったが、何度もつまづいて転んだ。


なんとか泉に辿り着いた時、泉から首を出して

ほとりの岩に頭を乗せているドラゴンをみつけた。

そっと近づくと、

どうやらドラゴンは眠っているらしいと分かった。


リコシェはホッとして

ドラゴンが頭を乗せている岩に寄りかかって座った。


手を伸ばしてドラゴンの首に触れると、

まだ熱い感じはしたが

昼間のような強烈な熱さではなくなっていた。


「ホント良かった。

 ……それから、助けてくれてありがとう。

 ちゃんと起きてる時にもう一回言うわ」


泉の水に手を入れると温くなっていて、

ドラゴンの熱をずいぶんと下げてくれたようだ。


「泉にも感謝しないとね」


心底安心したリコシェは張り詰めていた気が一気に緩んだのか、

すーっと気が遠くなりそのまま意識がなくなった。





リコシェが目覚めた時、再びそこはコテージのベッドの中で。


「あああああああ、私としたことが……。

 迷惑掛けまくりじゃないの、これ。

 ……ああ、どうしよ……」


リコシェは考えて、

今度はテーブルクロスに

持てるだけ果物を載せたトレーをくるんで泉に運んだ。


ずっしり重くて華奢なリコシェには大変だったが、

なんとか泉まで無事に運ぶ事ができた。

ドラゴンが頭を乗せていた岩の上にそっと下ろすと

テーブルクロスを広げた。


木漏れ日を受けて果物は瑞々しく、甘い芳香があたりに漂う。



泉には……ドラゴンの姿はない。

辺りを見回してもいない。

ふと思いついて泉に手を入れてみる。

水は、キリッと冷たかった……。


「ドラゴンさぁぁぁんっ! どこにいるのーーーっ!」


リコシェは叫びながら、辺りを探し回った。


花の茂みをかき分け、目に付く木陰を片っ端から確かめて回った。


どれほど探し回ったか、

太陽が頭上を渡りそして傾きかけた頃、

唐突にドラゴンにはもう会えないのだと悟り、

その場にへたりこんだ。



夕陽が沈んで闇が濃くなっていく中、

のろのろとふらつきながら立ち上がったリコシェは、

とぼとぼとコテージに戻ると、

冷蔵庫から適当に取り出したセットを

片っ端から温めなおしてテーブルいっぱいに広げた。


「わあ、すっごーい。こんないっぱいとっても一人じゃ

 食べきれな…………い……」


リコシェはテーブルにうつ伏せると、大声で泣き始めた。

が、やがて、リコシェは涙を拭いてナイフとフォークを持った。


「……食べないとやつれちゃう。

 お祝いでみんなに会うのに心配掛けちゃうわ。

 …………いただきます」


島に着いてから

ほとんど何も食べていなかったリコシェだったが、

食欲は全く無かった。

にもかかわらず、

何か食べなければという理性がリコシェを動かし

少しずつだが口には入った。


時折り溢れる涙をナプキンで拭いつつではあったが……。



遠い木陰から窓越しにリコシェの様子を見守る影が一つ。

炎で負った胸の傷はリコシェと泉のおかげで随分癒えたのだったが、

泣きながら無理やり食べている姿に、

その痛みとはまた別の痛みで胸がとても痛かった。



それから間もなくリコシェは予定を切り上げて島を去った。

迎えの遠距離送迎用高速ヘリを見送った誰かは同じタイミングで

静かに海中に姿を消した。


泉のほとりには、テーブルクロスにのったトレーが残されていた。

リコシェが持てる限りの山盛りにした果物は

一つ残らず無くなっていた。

そして、その代わりに

リコシェがドラゴンを見つけた茂みに咲いていた

オレンジ色の花が二輪、寄り添うように乗っていたのだった。

ただ、それをリコシェは知らない。




リコシェはその日遅くに故郷に着いて、

久しぶりに会う懐かしい人々と賑やかな一時を過ごした。

そして、それぞれがお休みの挨拶をして部屋に分かれた後、

リコシェはそっと母の部屋を訪ねた。



「母さま、聞いてくださる?」


「来ると思っていましたよ。どうしたの?」


リコシェは島でドラゴンに出会ったことを話した。

それはもう熱心に、細かい事まで覚えている事はすべて話した。

そして、突然ドラゴンが姿を消してしまった事を話している時

母が言った。


「涙が零れていますよ」


「あ!」


母がすっと手渡してくれたハンカチで

リコシェは急いで涙を拭いた。

母の手がリコシェの頬を撫でた。



「……恋を、しましたね」


「……はい。でも、忘れようと思います。

 もう二度と会えないでしょうから」


「まぁ、どうして?」


母が小首を傾げて尋ねた。


「何も知らない方です。

 お名前も、お顔も、お声すら知りません」


「あら、そうかしら。本当に何も知らない?」



リコシェの目に再び涙が溢れてくる。


「本当に何も……。

 私を救って下さった時はきっと

 人の姿をしていらしたと思うのですが、

 私には意識が無かったので。

 私はドラゴンのお姿しか知りません」


「ほら、ちゃんとその方がドラゴンの姿をしていたと

 知っているではありませんか」


「あっ!」


「ドラゴンは希少種です。

 希少種がどんなものかよく知っているわね?

 あなたのお気に入りだったものね。

 だったら、その方がドラゴンだと判っているならもう

 その方を知っているのと同じなのですよ」


リコシェの瞳が輝いた。


「あの方はブルードラゴンです。

 とても美しい紅い瞳をしていらっしゃる」


「そう」


母はにっこり微笑んだ。


「あなたの初めての恋を大切になさい」


「はい!

 聞いてくださってありがとうございました。

 おやすみなさい、母上」


「良い夢を」


リコシェが立ち去ると

モンフォール女王は一つため息をついた。

娘の成長を喜ばしく思うと同時に、

娘の恋の相手に心当たりがあったからだ。

娘が厄介ごとに巻き込まれなければいいと思いながら、

この偶然が運命ならば

このまま終わるはずがないとも思うのだ。


「そのうち……」


女王は静かに何事か考え始めた。





≪続く≫


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