パパのお仕事
反抗期、なのかなぁ?
風呂場で、ライトベージュの浴槽に、たっぷりと溜められているお湯の中。ぬくぬくとつかりながら、父、勇はそう思った。
何かにつけて僕のすることに腹を立てるんだよなぁ。
顔半分をお湯につけて、勇はぷくぷくと泡を吐いてみる。
なんでかなあ?
別にトランクス一丁で、冷蔵庫のビールを探したっていいじゃないか?
ズボンの下に、モモヒキをはいたっていいじゃないか? 男性用のストッキングだと僕は思うんだけどなぁ。
歯磨きした後、正面の洗面台の鏡に、白い粒つぶが付いてたって、いいじゃないか。あとで一括して拭き取るんだから。
何が不満なんだ?
勇は再度考える。
何で、ドアをちょっと半開きにしておくことに、そんなにイライラするんだ?
何で僕が便座を上げたままでトイレから出るのを、そんなに気にするんだ?
中学三年生、は、難しい年頃なのだろうか?
はにゃ。
そこで思考はストップされた。
ごしごしとタオルで頭を拭きながら、眼鏡のくもりを拭き取って、勇は浴槽の換気扇のボタンを押した。
風呂場から、隣の台所の暖簾をあげて、ご機嫌に勇は、キッチンに立っている後ろ姿の女性に話しかけた。
「今日は?」
「今日は、から揚げ」
妻の陽子が、ふふふんと鼻歌を歌いながら返事をする。
食卓には、中央に大きく盛られたシーザーサラダ。その側にさりげなく立つ妻の手作りドレッシング。勇の座る場所には、いつもおつまみが、ちょこんと用意されている。
陽子はちょんちょんと、黄金色のきれいなから揚げを、油ナベからすくいだしていく。
油で鳥のモモ肉が、ぱちぱちと軽快な音を立てる。
「いいねぇ、おいしそう。圭子、呼んでくるか」
「もうちょっと後でもいいわよ。今ピアノの練習してるみたいだし」
「そう?」
勇はピアノの部屋の方をちらりと見て、すぐまた陽子の方を見た。
「どうしたの?」
陽子が尋ねる。
勇は、うう〜んと口を横に引き伸ばして、そしてちょっと困った顔を作って見せた。
「最近、圭子に嫌われているような気がする」
「反抗期なんじゃない?」
陽子は笑って言った。
「何で反抗するんだ?」
勇はほおずえをついて聞いた。
「反抗したいからでしょう」
「なるほど」
「味見、してもらえる?」
陽子が、お吸い物を小皿に少し入れて、勇に渡す。
「進路について、色々考え出す時期だからじゃないの?」
陽子は微笑んで言った。
「高校、行くんだろ?」
陽子のお吸い物に気持ちを緩ませてもらいながら、勇は聞いた。
「その先ね、音楽の教師になりたいとは言ってるわねぇ。でも、『なかなか上達できない』って言ってる。いらいらしてるのよ」
「ふうん」
「今日も美味しいよ」
幸せそうな顔で、勇は陽子に器を返し、テーブルから立って、『ピアノの部屋』に向かった。
「もう、よせばいいのに」
陽子のちょっと困ったような声が台所から聞こえる。
高橋家の『ピアノの部屋』は、客間でもあって、ここはあまり生活感が無い。
大きな本棚が三つと、ピアノと、勉強机がひとつ。本棚には、ブルグミューラやソナチネ・アルバムといった、色々な楽譜と、哲学書や歴史書がびっしり収められている。あとは少しのハーブの本や、世界の写真集。本棚の中身のほとんどは、陽子の趣味だ。
「圭子」
言って、勇は閉じかけのドアをすいっと押して、娘の後ろ姿を確認した。
ピアノの鍵盤から、きれいな音色が流れている。すごいなぁ、と勇は感心した。音楽は続く。
圭子はピアノの譜面から眼を離さない。
「―何?」
言うのと同時に、音楽が乱れた。
「もう、何で!」
勇はちょっとびっくりした。
「どうしたんだ」
「失敗したの、聞いてなかったの?」
「いい感じだったよ」
「そこから失敗したのよ!」
ああまずい、怒らせてる。
勇は話題を変えようと、強引にニッコリ笑ってみせた。
「間違えて、みんな上手くなっていくんだよ」
「……」
「どこがそんなに難しいんだ?」
「腕を交差させるのが難しいのよ」
「交差?」
「両腕をクロスさせて引く箇所があるの。上手く左右の指が動かないの」
「へえ」
「頑張ってるのに」
今度は圭子の声に震えが出てきた。
部屋の雰囲気が、またあやしくなってきた。
「頑張ってるのに、何でよ」
楽譜ががたんと床に落ちた。
「おいおい怒ったってしょうがないだろ」
その一言は、正に圭子の逆鱗へのアプローチだった。
「何よ、知ったかぶらないでよ!」
「おお」
真剣に焦る勇を放って、圭子はピアノの部屋から駆け出て行った。
ばあんと部屋のドアを開いて、台所をすり抜けて、圭子は去って行ってしまった。
「圭子、ご飯よ?」
逃げる圭子に、陽子は何事もないように声を掛ける。
「お風呂入る」
言って、圭子は風呂場に消えてしまった。
何でだ?
ピアノの部屋で、勇はしばらく立ち尽くして、そして床に投げ出されたままの楽譜を、ちょいっと拾い上げた。
黒い光沢のかかった楽譜の背表紙を、指できゅっきゅと拭いて、ぱらぱらと譜面を開いた。
「これが読み取れて、弾けるだけでも大したもんなのになぁ」
しみじみと独り言を言った後、勇は楽譜を閉じて、本棚に戻し、ピアノの端に掛けてある、フェルトで出来た、柔らかな赤い布地を丁寧に鍵盤の上に掛けた。
ガアンとうるさい音が鳴らないように、勇はゆっくりピアノの蓋を閉めて、
「まあ、そんなに難しいのかぁ」と頭を掻きながらつぶやいた。
台所に戻ると、夕食は完璧に出来ていて、勇は自分の席についた。
陽子がガラスのコップにビールを注いで言った。
「最後のセリフが失敗したわね」
「そうですねぇ」
「浴槽に、毛ぇ漂わせないで!」
風呂場から圭子の非難の声が響いてくる。
それではここからがタイトルどおり、パパのお仕事の話になる。
季節は初夏。ちりちりと日差しがまぶしくて暑く、陽光はビルのミラーガラスに反射して、一時は鳩が空がまだあると誤解して、がんがんぶつかってきたそうだ。
そんな超高層ビルが立ち並ぶオフィス街。
そのビルのひとつが、勇の職場だ。
五階にある事務処理課で、事務処理をこなす、それが勇のお仕事。
勇はこの会社で事務処理を務めて、はや十年になる。この会社は珍しい。事務職で男性社員の方が多いという職場だ。
カタカタとパソコンのキーボードを打ちながら、勇は同僚の簗瀬に、昨日の一部始終(ピアノの部屋での圭子との騒動)を話した。
「何がそんなに怒られることなのかなぁ」
パソコンのディスプレイからは目を離さず、勇は寂しそうに言った。
「それは威厳の問題じゃないのか」
マウスをかちかちとクリックしながら、簗瀬は言った。「パパの威厳が無くなりかけてるのさ」
「威厳。なんだそりゃ」
「高橋の偉大さ、だな」
簗瀬が軽く演技する。
「『パパは君のためにこんなこと考えてるんだよ、やってるんだよ〜』って言うことを圭子ちゃんが分かればいいのさ」
「圭子のために、朝起きて、飯食って、会社に出勤して、こうやって事務処理の仕事を黙々とやってるんじゃないか」
「それを、どれだけ分かってもらえてるかだなぁ」
簗瀬がふふーんと微かな鼻歌交じりにキーボードを叩いた。
「僕の仕事を知ってくれたら、威厳につながるのかなぁ?」
勇が言う。
「『パパは一家の為に、こーんなつまんないお仕事を、毎日ちまちまやっちゃってるんだ。さあ、どうだ圭子』とな」
簗瀬が高い声で言う。
「ほんとに威厳につながるのか」
「無理ですねぇ」
簗瀬はくくっと笑った。
「大体、自分の業務を『ちまちまなお仕事』とか言うなよ」
勇がしたためた。
「だってそうだもーん」
「何歳だ、お前は」
「妻子持ち三十八歳。出世したいね〜」
時計が十一時半を回った。
「昼飯だ」
眉毛をちょっとあげて、簗瀬と勇はパソコンの電源をヴンと落とした。
今日の業務が終了して、時計の針は五時三十分。
会社を出て、寄り道せず、勇は真っ直ぐ家に帰っていく。
玄関先で、勇は時計を見た。
「うん、六時」
玄関の扉を開けて、勇は言った。
「帰ったよ〜」
「お帰りなさい、あなた」
陽子は今日も優しい笑顔で勇を迎えてくれる。
居間で、二人は夕食前の軽いお茶を飲んだ。
ダージリンティーを飲みながら、勇は今日の職場での、簗瀬との会話を陽子に伝えた。
「父の威厳を見せろって?」
「見せたら、無意味に反抗しなくなるんじゃないかって」
「そのままで充分ステキなのにねぇ」
「いい妻だなぁ」
勇は言って、二人はにこにこ紅茶をすすった。
「でもまぁ、確かに圭子にあなたの仕事を見せてみるのはいいかもしれないわね」
「僕が頑張って働いてる姿を見れば、もうちょっと尊敬してくれるかなぁ」
「そのままでも、充分尊敬してるわよ」
「いい妻だなぁ」
「何リピートしてんの」
開かれたままの居間のドアから、制服姿の圭子が入ってきた。
「お、おかえり。ずいぶん遅かったな」
圭子の眉毛がぴくりと動いて、声が不快感を帯び始めた。
「部活でつめてたの」
言って、圭子は上着を脱ぎ、自分の部屋に去って行ってしまった。
一言交わしただけなのに、何で?
勇はポメラニアンのように陽子を見た。
「今日も怖い」
「あなた、可愛くないわよ」
「ん……分かってる」
勇は落ち込んでいるフリをやめた。
「私が聞いてあげましょうか?」
陽子が勇の頭をなでて言った。
「何を?」
「『パパのお仕事、見てみたくない?』って」
陽子が机にひらりと置いたのは、一枚のプリントだった。
「もうすぐ圭子の中学校で、選択制の職場体験学習があるんだって」
陽子はプリントの一角を、人差し指でこんこんと叩いた。
「あなたの職場も候補に入ってるの」
夕食は最近のごとく、ややぴりぴりしながらも、陽子の絶品料理に心和まされ、つつましく終了。
勇は風呂に、陽子は新しいドリップコーヒーを丁寧に入れて、その香りを楽しんだ。
「圭子、ちょっといい?」
陽子が圭子の部屋のドアをノックする。
「……何、いいよ」
圭子の声を聞いて、陽子はドアを開いた。
陽子はお盆の上にコーヒーとクッキーを載せて、それを持って圭子の部屋に入った。
「はい、どーぞ」
「ありがとう」
圭子は、ふてくされたように、コーヒーをもらう。どこか警戒しているようだ。
そんな圭子に気付いて、陽子は、ふふふと笑った。
「最近、お父さんにきついわね」
「……」
「クッキー、今日のはどう?」
「おいしい」
「よかった」
手作りクッキーを食べながら、陽子と圭子は、三十分ほど、のどかに話をしていた。
「ねぇ圭子、今度、学校で職場体験の授業があるんでしょ?」
折を見て、陽子がさらりと圭子に尋ねた。
「え、うん。そうだよ」
「お父さんの会社も候補に入ってたじゃない?」
「いかないよ」
「あらそう」
「いきたくない」
「そうなんだ」
「……お母さん、お父さんって何の仕事してるの?」
圭子が少し眉間にしわを寄せながら陽子に尋ねた。
「パソコンを使う仕事よ」
「どんなことしてるの?」
「パソコンに、沢山の文章を打ち込んだり、家計簿みたいな表のチェックをしたり、計算したり。ま、そういうのをひっくるめて、事務処理のお仕事っていうのよ」
「何か……地味」
「地味な仕事よ」
「友達のお父さんは」
圭子はいらつきながら話す。
「他の友達のお父さんは、海外に何度も出張したり。で、たくさんお土産とか持って帰ってくるんだって」
「へぇ、そういうパパもいるわよねぇ」
「何か、そんなお父さんにあこがれるの」
「へぇ」
「ばりばり仕事してて、スーツがびしっと決まって」
「ふんふん」
「それで、夜遅くまで仕事頑張って、『今日も頑張った』って感じで帰ってくるお父さんって、すごいと思うの」
「私たちのパパも頑張ってて、すごいわよ」
「疲れてそうにみえないもん」
「みせてないのよ」
「……」
「でもね、そんなパパなら、一緒に夕食、食べられないわよ」
陽子がこつんと、コーヒーカップをつついて言った。
「……」
「お母さんは、やっぱり夕食はみんなで食べたいなぁ。だからパパの今のお仕事っぷりに、充分満足してるのよ」
「もっとばりばり働くお父さんがいいとは思わないの?」
「う〜ん、私は、別にどっちでもいいかな」
陽子はふふふと笑って答えた。
「でもねぇ、パパは昔、それこそばりばり働くスーパーサラリーマンだったのよ」
「ええ」
圭子はいぶかしそうな目で、陽子を見た。
「圭子、ちっちゃかったから覚えてないのね。別の会社に務めてた時ね。いっぱい仕事してて、帰って来るのが遅くて」
陽子はコーヒーをゆっくり飲んだ。
「今の方がずっとステキな旦那様よ」
「……そうなの」
「圭子、お父さんのお仕事、一度見学してみたら?」
「う、う〜ん……」
「何か見る目が変わるかもしれないわよ」
「……」
陽子は微笑んで、時計を見て、コーヒーをお盆に乗せた。
「私はそろそろ、お風呂入ってくるわ」
「うん」
「無理矢理じゃないのよ」
陽子は優しく圭子に付け加えた。
「うん……考えとく」
「はい、じゃあおやすみ」
「ほ〜い」
一週間後。
今日の勇は、いつもより緊張している。
「だめだ。僕が緊張していても、何も変わらない」
言って、ばさばさと午前中に打ち込む資料の山を整理し直した。
「で、圭子ちゃん、今日職場見学に来るのか?」
簗瀬が尋ねる。
「陽子が言うには、『考えてみる』って返事はしたらしい。来るんだったら、午後からだって」
「いいとこ見せなくちゃ、おとーさん」
「事務処理の仕事をこなすだけだよ」
とんとんと資料の束を整えて、勇は、姿勢を改めて正して「よし」と言った。
「地道にこつこつ、それがいいんだよ」
言って勇は、かったかったとパソコンを打ち始めた。
十一時半になって、昼休みを告げる鳩時計が、ぺっぽーと音を鳴らす。
社内の食堂に行ったとき、勇は見慣れない風景を見た。
お弁当とお茶のカップを持って、空いている席を見繕っている勇の目に、食堂を通り過ぎようとしている一行の姿が入った。
制服の子供たちが、一人の大人とインフォメーションの女性社員に引き連れられ、がやがやと話しながら歩いている。
その中で、父は娘の姿を如実にズームインした。
圭子だ!
内心、勇は跳ねて喜んだ。
「圭子」と一声かけようとしたら、かける前に、鋭い視線が飛んできた。
『よってこないで』
圭子の千本刺しより鋭い視線は、勇をとすとすと刺し、彼をううっとうならせた。
「高橋さん、どうしたの?」
付き添いの教師が圭子に尋ねる。
「何でもないです」
言って、一向はさっさと食堂を通り過ぎていった。
食堂で、まだ勇は立ち直れないで、くしゅくしゅと背中を丸めて、簗瀬の隣に腰掛けた。
「『パパだなんて知られたくない』」
簗瀬が茶化す。
「やめてくれ」
へにゃへにゃと萎えて、勇はくうぅ、とちょっと涙目で言った。
「今日はもう、パソコン、打ちたくない」
打ちたかろうが、無かろうが、仕事は仕事。と、社会人なら誰もが思う。
当たり前、結局、午後からも淡々とディスプレイに文字を打ち込んでいくのだと、勇も分かっている。
しかし、今日の仕事は淡々と過ぎてはくれなさそうだ。
「ちょっと君たち、聞いてくれ」
午後の仕事始めに、課長が職員に向けて話しかけた。
「? 何だ」
簗瀬が言った。
「珍しいな、課長が話すのって」
「今日、君らに知らせることがある」
課長が椅子から立って、ディスクの前に移動した。
勇は課長の話す内容より、課長の姿に目を奪われた。
課長……
普段はディスプレイにばかり目がいっていたので、気付いていなかった。
ああ課長、そんなに太ってたんですね?
勇は、課長の、段すらつけることも出来ない、中華なべをそのままくっつけたような、ぽっこりしたお腹にただただ、圧倒された。
やっぱ、運動しなきゃ駄目だわ。
課長が話すと、中華なべも若干揺れる。
「急な話になるが、今日ここに、NY支社在籍の人材開発課、M=ボイル氏がおいでになる」
「M=ボイル……」
勇はファーストネームを思案した。
「ミチェル=ボイルか」
簗瀬の草案に勇はふきだした。
「人材開発課……何ですか、その人?」
職員の一人が、梅干しを食べた時の様な、すっぱい顔をして課長に聞いた。
「ボイル氏は、我が社での人材開発研究と潜在能力開発に従事している方だ」
「潜在能力?」
簗瀬が勇に尋ねる。
「何かな、はやってないか? 能力向上訓練ってやつだろ」
「ボイル氏は、実際に様々な潜在開発訓練を実施していて、受けた社員の仕事実績は、格段にあがっているそうだ」
課長が付け加える。
「はあ、怖いねぇ」
「いやあ、すごいと思うよ」
勇は、褒めとも、けなしともいえないコメントを返した。
「今日ここにいらっしゃる理由は、我々が、普段どれだけ、迅速かつ正確に事務処理をこなしているか、視察するためだ」
「監査されるんですか」
「いつもより、二割り増しで、ちゃっちゃか仕事してくれ」
社員全員にぼそりと言い、課長は、応接間のドアをがちゃりと開けた。
「どうぞ、ボイルさん」
もういるんだ?
社員全員が、ばばぁっとディスクに座り直した。
「Oh, nice to meet you!」
こんにちは〜!
自分で自分の登場を拍手しながら、とても歯が白く、金髪で毛深い男性が、アルマーニのスーツで飛び出してきた。
「何者?」
簗瀬が勇につぶやいた。
「監査官です」
やたらきれいな発音で、ボイルが返事した。
「……話せるんですね」
「それ以上、余計なことは言うな」
勇は簗瀬の口を止めた。
ボイルは、にこにこと課長に話しかけた。
「それでは課長さん、私は皆さんの仕事っぷりを充分観察させていただきます」
「ああ、どうぞどうぞ。有能な部下たちばかりですから」
その時、廊下につながる、アルミの扉の向こうから、大勢の足音が聞こえてきた。
「―はい、皆さん、ここが事務処理課の仕事場ですよ」
案内役の社員に引き連れられて、中学生と教員が入ってきた。
圭子。
勇は、オーバーリアクションにそちらの方を向いてしまった。
「おやあ、あなたたちは?」
ボイルはもっとオーバーリアクションでそちらに近づいて尋ねた。
中学生と教師は、この未知のアメリカ人に若干ひいた。
「ああ、今日は、この付近の中学校での職場体験の日なんですよ。偶然でしたね」
課長が言うと、ボイルは「Oh,really?」と返事した。
見た通り、ホントである。
「二重監査か」
簗瀬がにやにやして話す。
「止めろ、プレッシャーになる」
勇は、がたがたキーボードを打ち続けた。
その後、三十分は平和だった。
案内係の社員は親切丁寧に仕事の説明をし、中学生は律義にその内容のメモを取った。
社員はいつもどおり、カタカタとディスプレイに文字を打ち込み、表計算のチェックをこなした。
三十分は平穏無事だった。
状況を一変させたのは、やはりボイルだった。
「いけませんねぇ」
突然ボイルがつぶやいた。彼は皮張りのゴージャスなチェアから立ちあがり、くるんくるりんと回して、また座った。
「……はぁ」
課長が自分のディスクから身を乗り出し、ボイルに聞いた。
「だめだめダメです、遅すぎます、あなたがたみんな」
派手に椅子から立ちあがり、ボイルは声高に叫んだ。
全員の目が点になった。
ふふん、とボイル氏が葉巻に火を付け(ここは禁煙)、ひゅうっと煙を吐いて、両手を肩まで挙げて言った。オーマイガッ!
こちらがオーマイガ。
「あなたがたの仕事見ていると、なんかこう、イライラしちゃうんですよねえ。ほんとに真剣にディスプレイに向かってますか?ちゃんとした表計算の知識、そのおつむに詰まってるんですか?」
「何……」
社員の一人が立ち上がろうとするのを、もう一人の社員が止めた。
「NYでは、これくらいの量の仕事、半日でこなしますよー。あなたがたは遅い遅い、これは、潜在能力開発コースに全員強制参加ですねー」
「あの……潜在能力開発コースに参加とは?」
課長が、聞くと、
「ほーらあなたは、私の発言に対し、迅速に意味理解が出来てない。これが出来るようになるためにコースを受けるのでーす」とボイルは言い放った。
職員全員の目はドットになった。
職場見学の中学生の目もドット(・)。
「先生……これって、職場なら普通なんですか?」
学生の一人が聞く。
「え〜と……そうなのかもしれないわね」
教師はそれ以上言葉が出せない。
「ちょっとちょっと、ボイルさん、話が見えてこないですよ。僕らはそのコースを受けて、何になるんです」
簗瀬が聞いた。
「もっと早く、もっとセーカクに仕事がこなせるようになってもらうのでーす。僕が開発した『潜在能力を伸ばせ!ボイルと伸ばせ! 〜アニメーション付きDVD〜』を見続けてもらいます。そして、成果が出てるか、チェックテストもしまーす」
「それでどうなるんです?」
笑いをこらえて、冷静に勇が質問する。
「あなたがたを分析して〜、良い人材になったか判断してー、結果、いい人だけを残すのです」
なぬ!
部屋全体がどよめいた。
「それはつまり……リストラされるってことですか、成果が出せなきゃ」
社員の一人が、冷汗交じりに聞いた。
ボイル氏が、一瞬きょとんとして、あっさり言った。
「そーですよ」
部屋全体がドヨドヨし始めた。
「先生……これ、メモにとっていいんですか」
固まったまま、一人の学生が聞く。
「しっ、内部告発につながるかもしれないから、聞かなかったことにするのよ」
鋭く教師がクギをさす。
「潜在能力開発コース受けて、うまくいったらですね〜」
ボイル氏が、つかつかと一人の女子社員の側にきて、「イクスキューズミー(はい ごめんよ)」と言い、椅子から立ちのかせた。
しゃきんと背筋を伸ばし、ボイルは、パソコンのディスプレイに焦点をあてた。
「私なら、これくらいのスピードです」
ボイルの十本の指が、一瞬、キーボードの上を舞った。
「うおあたたたたあぁぁ」
ボイルの本気の声が室内に響いた!
カチャカチャカチャチャ!と、キーボードのひとマスひとマスが音を立てて、画面には変換が追いつかないほどのスピードで、無数の文字が打ち込まれていく。
「す……すごい」
課長が思わず声を出した。
「簗瀬、時間を計るんだ」
課長が言って、簗瀬は慌てて持参のストップウォッチを引き出しから出た。
そして慌てて<start>を押す。
「ほあたたたたたたた」
叫ばなくてもいいだろうかけ声と共に、ボイルは次々と文書を打ち込んでいく。
「フィニーッシュ!」
はじける汗をひゅっと周りに撒き散らし、ボイルはガッツポーズで、ディスプレイから、みんなの方に向き直った。
「どーです?」
彼の瞳も歯も、きらりと輝いている。
「簗瀬……どうだ?」
課長が聞く。
「二十分……十一秒です」
「打ち込んだ量は……?」
そのまま課長は、近くの女性社員に尋ねた。
「今日の午後の分……全部です!」
言って、女性社員は涙目になった。
「これぐらいになれというのか……」
ストップウォッチを握る簗瀬の手に、汗がにじんだ。
そのとき、部屋の隅から、声が聞こえた。
「感心しませんね」
部屋の空気ががらりと変わった。
ボイルも、部屋にいた全員がその声の方を向いた。
「高橋」
「勇」
「お父さん!」
圭子が小声でそうつぶやいた。
椅子に座ったまま、勇がゆっくりボイル氏にもう一言付け加えた。
「功利主義・成果主義に走りすぎてはいけませんよ」
「君は?」
ボイルが言った。
「高橋と申します」
「高橋は……有能な部下でして」
課長が慌ててボイルに言う。
「有能な部下が、私の方針に反対するのですか?」
ボイルは、課長の方を向かずに言った。
「高橋さん。あなたは私のやり方がおかしいとおっしゃるのか」
ボイルが勇に聞く。素直に声はもう荒々しくなり始めていた。
「私は、あまり良いとは思いませんね。潜在能力を引き出すこと自体、いいかどうかは置いておいて、望んでくる成果が出せなかったらクビだなんて」
「そういった文句は、一人前に仕事が出来る人が言うものなのでは?」
ボイルが強く言った。
「……あなたは、どこまで仕事が出来たら、その社員を『一人前』だと認めるんですか?」
ボイルの、金のごん太眉毛がかすかに震えた。
「どこまでいっても、『もっと早くもっと早く』と言っていたら、部下はもたないですよ。みんなそれなりに、会社のために頑張って働いているんですから」
部屋全体の雰囲気が変わった。
「高橋……」
課長が、メシア(救世主)でも見るかのようなまなざしで、勇を見ている。
今、課内の全員が、勇に注目している。
普段、全くさえない一社員、高橋勇に、今、社員全員の視線が注がれている。
勇がこの職場に就職してから十年経つが、初めてのことだ。
そして、娘、圭子も今、父、勇を見る目が変わってきている。
「お、お父さん」
圭子は声にならないほどの微かな声で父を呼ぶ。
「高橋……」
全員が勇を見て思った。
リストラされたいの?
「高橋さん、さっきも言いましたね」
ふーっと息を吐き、ボイルがつぶやいた。
「そういうことは、それなりに仕事をしている人が言うものなのです」
「……」
「勝負です」
ボイルの言葉は、再び部屋の中をどよめかせた。
「高橋さんがどれだけ出来るか、確認もかねて、私と勝負です」
「ボ・ボイルさん。それは……」
課長が口を挟んだ。
「シャラップ!」
前後の文脈が読めていないことに、気付いてさえいないボイルは、難なく課長の反論を却下する。
「やるのです」
ボイル氏の瞳には炎がうつっている。人材開発研究員としてのプライドに、勇は傷を付けたのだ。
「私のやり方は間違ってはいない」
勇はボイルを、ただじっと見ていた。
「やらなくてはいけないのですか」
「弱腰ですね。オフコース(もちろん)!」
ふうっとゆっくりと息を吐き、勇は課長の方をまず見た。
「高橋……」
課長が勇を呼ぶ。
何も言わず、勇は自分のディスクの鍵を出し、一番手前の右引き出しの穴にそれを挿した。鍵を横に回し、引き出しの扉を開ける。
そこには、五本の指先部分が抜けている、黒の皮手袋が。
ボイル以外の全員が、勇の行為にひるんだ。
圭子の表情が見る見るひいているのに、勇は全く気付いていない。
「ストリートファイター」
ボイルが嬉しそうに言った。
両手に手袋を装着し、手首をしっかり付属の皮ベルトで固定し、勇はボイルの方に向き直って言った。
「はじめましょう」
此処は一体どこなのだろう。
「いいですねえ」
ボイルがネクタイをゆるめ、スーツのボタンを一つ外した。
「お座りなさい。勝負は、早打ちです」
「先ほどのものですね」
イエス。ボイルは言って、別のディスクに座り直した。
勇もディスクに座り直した。座って、勇は圭子の方を見た。
「圭子」勇は娘を呼んだ。
「……」圭子は父を無視した。
「……」
勇はちょっとさびしそう。
「カウントダウンを!」
ボイルが、課長と、その頭上に掛けてある時計を見て言った。
「う……じゃあ君、やってくれ」
課長が、密かに、メイク・ラヴでときめきあっている女子社員をとっさに指名する。女子社員は、別の動揺を必死に隠しながら、とにかく大きな声で三十秒前からのカウントダウンを唱え始めた。
「……24・23・22」
勇は圭子から視線を外し、自分のディスクに座り直した。そして、ふいに目を閉じ、深呼吸し始めた。
「15・14・13・12……」
ゆっくりと目を開き、そして勇はおもむろに、自分のパソコンのキーボードを、大きく右に押しやった。
「?」
全員が勇の行動に難色を示した。
「簗瀬、ちょっと貸してくれ」
言って、今度は隣に置いてある、簗瀬のパソコンのキーボードを、自分の左側に寄せてきた。
「高橋?」
簗瀬が戸惑う。
「?」
ボイルの顔に困惑の色が浮んだ。
「7……6」女子社員が緊張と共にカウントダウンを続ける。
勇は、自分のパソコンのディスプレイ表示と、簗瀬のパソコンのディスプレイ表示をじっと見比べ、どちらも同じ画面になるよう、調整しだした。
「よし」
言って、勇は再び圭子の方を見た。
「……」
圭子はやはり黙っている。
「圭子」
「3・2」
「よく見ておきなさい」
「スタート!」
女子社員の声と同時に、時刻は三時。『鳩ポッポ』のメロディが、ぺっぽーと厳かに早全体に鳴り響いた。
「うわおおぉぉぉ」
ボイルの雄叫びは、事務処理課の外までに。響いて響いて、声の大きさに比例し、動く指も先ほどよりずっと速くなっている。
「す……すごい!」
社員が思わず歓声をあげた。
がたがたがたーと文字を打ち込みながら、ボイルは正直に顔の表情から、勝利の確信を表した。そう、翁のような表情で、ボイルはにやけながらディスプレイに文字を打ち込みつづけた。
どうだタカハシ! 私の早打ちに畏怖せよ。
社員がもう一度叫んだ。
「すごいぞ高橋!」
「ホワット?」
なんですと? ボイルは一瞬ディスプレイから目を離し、隣の敵の姿を確認した。そして彼は見た。
右手に勇のキーボード、左手に簗瀬のキーボード。片手ずつでそれぞれのキーボードを打ちこなしている勇の姿を垣間見たのだ。
「うおぇぇ?」驚きのあまりボイルは叫び、そして誤入力してしまった(ことに彼は気付いていない)。
室内は歓喜の嵐だ。
課長も簗瀬も、勇の神業に目を疑った。
勇は右手一つで、右側のキーボードを打ちこなしている。左手は、左側に据えてある簗瀬のキーボード。その両方を、ものすごいスピードで打ちつづけている。
つまり彼は、一度に、二台分の文字入力をこなしているのだ。
「信じられない」
「打ち込まれている文章も……正確だ」
勇は飄々とした表情で、二つのディスプレイに文字を打ちつづける。
その打ち方を見ながら、一人の社員がまた叫んだ。
「無い。音が無い!」
「音?」
課長がそちらを振り向いて、もう一度、勇の方に目をやった。
音……
「キーボードを叩く音です」
簗瀬が叫んだ。
「?」
ボイルが耳だけをそちらに傾けた。
「高橋のキーボードを打つ指からは、叩いた時になるはずの音が出ていない」
みんなが勇の指先のタッチに注目した。
「ゆ、指がワルツを踊っているようだ」
詩人志望の社員、内場がつぶやく。
「触れるか触れないかのタッチで、キーボードからくる反作用の力を最小限に押さえて、指先への負担を軽くするのと同時に、次のマスへのすばやい移動を可能にしているんだ」
「終了しました」
驚き消えやらぬ中で、勇が一言、言い放った。
「!」
ボイルは、自分の仕事の残量を確認した。
私の方は……まだ五分の一も残っている!
「ああ!」
別の社員が、また叫んだ。ボイルも、もう打ち込むのはやめ、そちらを見た。
「ふん」
椅子をくるりと回し、今度は、背中側に配置してある別の社員のディスクに、勇がつき直している。そして起動ボタンを押した。
「ま、まだやるのか! すごい集中力だ」
持続力の少ない社員、青木はそれだけで驚いている。
期待どおり、勇は再び、隣のパソコンのキーボードを引き寄せる。
そして、すっと圭子の方を見た。
圭子の表情にはもう、軽蔑ではなく、羨望が見え隠れしている。
「圭子」
「高橋さん、あれ、お父さんなの?」
隣の学生が興奮しながら圭子の制服の袖を引く。
圭子の親父は一瞬目を閉じ、ゆらりと両手を宙に浮かせた。
そして、顔面前で両手をクロスさせた。
「うん」
圭子は、半分ぼんやりしながらつぶやく。
「うちのパパよ」
その日、この場にいた全員が、神の身業を二つ見た。
勇は両腕をクロスさせた状態で、二つのキーボードを打ち始めたのだ。
「た、高橋!」
意味なく課長が勇を呼んだ。声は感動で震えている。
「もうこれは……アートだ」
美大出身の社員、打明は、頬を染めて、顔を左右に震わしている。
「待て、でもこれは意味が無い」
簗瀬が言った。
簗瀬の一言で、みんなはっとした。
「確かに……クロス打ちはすごいけど、それをするメリットは、無い」
「そうだ、高橋は、何であんな小難しいことを」
「高橋さん……披露したかったんじゃないですか」
「そ、そうか……そうなのか」
「いや、ま、だがとにかく、二台打ち込みが出来るだけで、すごいじゃないか!」
違う、パパはそうじゃない。
様々なコメントが飛び交う中、一人だけ勇の意図を理解していたのは、圭子だった。
パパは手本を見せてくれてるの。私がピアノでクロス打ちを苦労してたの、知ってて、今この勝負の中で、そのコツを教えてくれてるのよ。
勇の淡々とキーボードを叩く姿に、圭子は感動を覚えた。
分ったよパパ。クロス打ちに必要なのは、両手を斜め四十五度の角度できれいにクロスさせることがまず必要なのね。そして、手首はぶらさない。
パパがキーボードを叩く、あの軽いタッチも、滑らかにピアノを弾くコツなんだね。
すごいよ、すごいよお父さん。
部屋中の興奮は、徐々に静寂へと変わっていく。
もう、全員が、ただただ勇の勇姿に見惚れているのだ。
音の無い部屋で、圭子も、ただ、父の姿を見つめていた。
「終了です」
一声、勇が言った瞬間、再び盛大な歓喜の声が上がった。
「うおおー高橋」
部屋は興奮の嵐で、社員がいっせいに勇を取り囲んだ。
「ちょっとちょっと」
勇は手袋をはがしながら、人の波に何とか抵抗している。
「高橋、お前はそんなに出来るやつだったのか」
監察官ボイルの前で、ぎりぎりのセリフを課長は言ってのける。
「高橋さん」
ボイルが勇を呼んだ。
社員が勇とボイルの間に道を作った。
「ボイルさん」
勇が言った。
「……負けました」
「仕事に勝ち負けはないですよ」
ボイルが、はっと瞳を見開いた。
勇はパソコンをさすって言った。
「人それぞれ、その人なりのペースがあるんです。余裕のある環境から、いい人材が生まれたりするんだと思いますよ」
勇の言葉に女子社員の胸はときめいた。
「社内で競争するようなことはやめませんか」
ボイルが、憑き物が落ちたような表情になり、ほうっと息をひとつ吐いた。
「サンキュー・ミスター・タカハシ」
ボイルと勇は大きく握手を交わし、そして、ハグして、部屋の中は、拍手に包まれた。
ちょうど時計が五時を指した。
本日の業務―終了。
帰り道、勇と圭子は、いつもとは違う雰囲気で、商店街を歩いていた。
商店街は、ネオンがきらきらと美しく、近くの住宅からは、カーテンの隙間から見え隠れする子どもの遊ぶ姿と、夕食のほのかなにおいが漂っている。
それらの、特別ではない、しかし幸福な風景を、どことなく眺めながら、圭子は不意に、勇の方は見ずに、父に話しかけた。
「今日のパパ、すごかったね」
「うん、そうか」
勇が、ちょっと驚いたように返事を返した。
「何でいっつもあのすごいパパを見せないの?」
「それはだなぁ…『能ある鷹は…』」
「『爪を隠す』のね?」
圭子が、ふふふっと笑った。
「ま……そうだなぁ」
勇も、ふふふと笑った。
「パパ、私ね、将来のこと、最近よく考えるの」
「へぇ」
勇は胸ときめかせながら、圭子の次の言葉を待った。
「ピアノの教師になりたいってゆうのが第一希望で……今日のパパのアドバイスにしたがって、頑張ってピアノの練習するね」
「圭子……」
勇は泣きそうに嬉しくなった。
「でもね。今日のパパのお仕事見てて、別の進路もいいかな〜って思っちゃった」
圭子が、つい、と勇に言った。
「?」
「OLも、何かかっこよさそうって思っちゃった」
「圭子……」
「事務処理に従事するオフィスレディ、それもいいよねぇ」
圭子は軽くスキップして、勇の少し前を駆けた。
娘の姿は愛らしく、無邪気なしぐさが夕日に照らされ、勇の視界はセピア調に染まる。
「圭子……じゃあ、父からひとつ、アドバイスをしてもいいか?」
勇がゆっくり尋ねる。
「うん」
圭子は明るく返事した。
「圭子」
言って、少し背中を曲げ、勇は圭子を真正面からのぞき込んだ。
「OLになんてなるもんじゃないぞ」
圭子の目は泳ぐ。
娘に向ける父のまなざしは、真剣だった。
「おっ帰りなさーい、あなた、圭子。今日は会社、どうだった」
玄関先で、陽子が明るく勇と圭子を出迎える。
「ただいまぁ。もう、今日はびっくりすることがあったよ。面倒くさい人事の人と、はちあわせでねぇ〜」
「え、あなた、何やっちゃったの?」
「何やっちゃったというか、勝負しちゃった」
「え〜? ふふふ、勝負? またあなた、何の勝負よ」
「何かね、『早打ちしよう』って」
「そうなの? でもそれでも、ちゃんと定時に帰れて良かったわね」
陽子が朗らかに笑う。
「当たり前だよ。会社のキーボードより、妻と子どもの方が愛しいに決まってるじゃないか」
「あなたステキ」
「旦那の鑑」
勇はふふふんと笑って、靴を脱ぎ、陽子と居間の方に行ってしまった。
はぁー、さよか。
玄関に立ち尽くして、圭子は悟った。
ま、会社人間より……すてきよパパ。
思って、圭子はあきらめて、靴をかぱかぱと脱ぎ散らかして、自分も居間に向かう。
今日も三人の夕食が始まる。