第五章 蜜神彩菜 その5
5 『蜜神 彩菜のターン2』
キノコから変形した彩菜さんと、マングウが突然変異した彩菜さんのふたり。どっちが本物でどっちがニセモノなのか、それともどちらも本物でニセモノ?
正直、困った。
白のワンピースにトップでとめた黒髪、指輪もないし靴もいっしょだし声も同じ。だからふたりのやりとりに身を任せることにした。
「こんなパターンは初めてよ」とキノコ彩菜。
「鏡菜の深層意識が私たちの排除に乗り出した」とマングウ彩菜。
「風太郎さん、あなたは自分をしっかり持ってね」
「とても危険な状況よ」
「脱出する可能性が低くなってきた」
「想定していなかった私のミス」
「私たちのひとりはニセモノ」
「私たちのひとりは本物」
知っていますよそんなこと。
「風太郎さん――」
「風太郎さん――」
『私は、あなたについて行くことが出来なくなった。ひとりで、行ってください』
ふたりが同時に言ってボクはふたりに言う。
「彩菜さんはどうなるんですか? ここに残ると、鏡菜の精神に飲み込まれて消滅してしまうんじゃないですか? そんなことは出来ない。外で待っているマングウさんに申し訳ないし、ボクも望まない。だから、こうします。ニセモノを見つけ、本物といっしょに、先へ進む」
ボクのちからでは見破ることが出来ない。だから、鏡菜にまかせる。
右眼を閉じ、左眼だけで、真理をつかむ。
赤い光が飛び交い、青や緑の光が漂う。大気に舞う光の海。そして、キノコ彩菜が、その光の渦に溶け込んでいるのが確認できた。しかしマングウ彩菜には、色がなかった。
だからボクはマングウ彩菜に手を差し伸べた。
「行きましょう、鏡菜さんを救いに」
じっと見つめるキノコ彩菜を置いて、ボクたちは先に進んだ。
彩菜の手を引きながらボクは言う。
「ボクの内で鏡菜も共存している。この世界は彼女の世界、つまり、ボクの世界でもあるわけです」
彩菜さんがボクの手をぎゅっと握ってきた。
「やっと気づいたのね。だから、あなたを連れてきたのよ」
ねばついた空気の中を歩く。障害物のない霧だけのじゃり道。しばらく進むと、空間に浮かぶ花飾りのついたメルヘンな扉と出会った。壁はない。扉だけ。
「おそらく、この先に、鏡菜の真理がいます。覚悟はいいですか? 大勝負よ、救いだせるか、私たちが取り込まれるか……の」
「覚悟なんてとっくに出来ていますよ」
彩菜の存在とその言葉で、勇気が湧いてきた。彼女となら、どんな困難も乗り越えられるだろう、そう思わせる何かを、彩菜は持っている。その何かを具体的に説明はできないけれど、ボクひとりだったならば、ゴールへ到達できなかったのは確かだ。
彩菜が戸をあける。眼玉をえぐられたあとボクが目覚めた部屋だった。そう鏡菜の部屋。螺旋状の天井に窓のない壁、そして中央に、ベッド。
鏡菜はそのベッドの上で膝を抱え、顔をうずめて座っていた。
ここは、鏡菜の精神世界。しかも心の奥底なのだ。
鏡菜の気持ち、想いなど、彼女の深層がこんな世界だったなんて、とても信じられなかった。
言葉をなくし、じっと鏡菜を見つめていると、甘い香りが漂ってきて、無数の花々が咲き始めた。ガーベラやらチューリップやらフリージアやら花期がばらばらだけど、ボクはもう驚かない。白いペンギンが飛びながら歌をうたい、中身をでろでろと出している絵の具、マングウが表紙の絵本、溶けたチョコレートやかじられたパンが水族館の魚のようにぐるぐる遊泳し、敗れたノートや使いこまれたえんぴつや消しゴムなどが隊列を組んで急降下などを繰り返している。小人化したマングウ、彩菜、そしてボクが行進しながらダンスを披露し、壁に描かれた幼い陽、まひる、塊子たちが口をぱくぱくさせて合唱している。
色と香りと光で満ちた室内。
しかし、鏡菜だけはうつむいたままだった。
「彩菜さん」とボクは隣に立つ彩菜に言う。「これって、鏡菜さんの過去の出来事が具現化しているのでしょうか?」
「それともうひとつ、『あこがれ』でしょうね」
そう答えた彩菜はどこか悲しげだった。
「鏡菜たち四人は、幼いころから月葉家の研究室で人体実験を受けていたの。休日は月に二、三日しかなかった。えんぴつなどは、普通の生活への架け橋だと思うわ」
「つらい、幼少時代だったんですね」
せわしない室内を見つめながらボクは、あることに気づいた。そのことを問いただそうとすると、彩菜は前進していた。
「鏡菜、迎えに来たわ、さ、帰りましょう。ここに居ちゃ、いけないのよ」
かまわずボクは彩菜に質問した。どうしても知りたかったからだ。
「鏡菜さんたちは――」白いテーブル、丸や四角や三角や星が描かれたカード、窒素が入れられた風船、だけど、あるものがない。「どんな実験を受けていたのですか?」
「現実から眼をそむけないで」と彩菜はボクの質問に答えず鏡菜と向き合っている。
「彩菜さん、教えてください、どんな実験を受けていたんですか!」
ようやく、彩菜がボクの言葉に反応した。彼女が振り返る。ボクは続けた。
「脳波や、心電図、それから血液検査などですか?」
「そう。毎日毎日注射を打たれ、機械に入れられ、薬を飲まされ、まるで、モルモットだった。それだけじゃない、時には、解剖もされていた……」
やはり、推測が当たっていた。ボクは彩菜に警告する。
「部屋に、注射器やメス、コード類がありません!」
鏡菜にとって最も嫌うべきもの。血を抜かれ、薬を入れられる針。電気を流され、拘束され、調べられていたコード。身体を切り刻む、ナイフ。
その瞬間、紫や黄色、桃色や白といった花々が、揺れた。
彩菜がただならぬ空気に息をひそめる。
「早くこっちへ!」彩菜がボクに言う。
そのとき、彩菜とボク、ふたり同時に気づいた。
鏡菜が、顔を上げていることに。
「我が領域から出て行け。滅ぼすぞ!」
眼を丸く開け、それと同じくらい口も丸く開けている。灰色。まるでモノクロ映像のように鏡菜の全身に色がなかった。
小人たちが姿を消している。ノートなども消えている。今までの景色がウソだったかのように静寂に包まれていた。
花々の隙間から、何かが飛び上がった。一直線に彩菜へと襲いかかる。細長い物体。黒く、頭部と思われる先端には、いくつもの針が刺さっている。三メートルはあるだろうか。巨大だが、素早い動き。
針だらけの頭、円筒形の身体をした、ミミズ、だった。
彩菜は身をひるがえして攻撃を避けた。
「お前の相手はこっちだ!」
ボクはミミズの注意をこちらに向けた。鎌首をもたげ、ターゲットが変わる。
「彩菜さんは今のうちに鏡菜さんを連れて部屋から出てください。ここは、ボクがなんとかします」
ぐるぐると回転しながらミミズが襲ってきた。彩菜同様、身をひるがえして攻撃を回避する。するとミミズはそのまま地面をえぐり、地中へ消えて行った。
「さあ、今のうちに、早く!」
「違うわ」彩菜が拒否する。「逃げるのは、あなたと鏡菜よ」
彩菜が娘の腕をとり、立ちあがらせた。その瞬間、鏡菜が耳をつんざくような絶叫を上げた。
ぞぼぞぼと、地中から無数のミミズが這い出てきた。その数、八体。一直線に身体を伸ばし、痙攣でもしているかのようにぷるぷると震えている。
部屋を埋め尽くすミミズの樹。
いくつもの幹をかいくぐり彩菜が鏡菜をつれて駆け寄ってくる。
「あとから追いつくから、ふたりで先に逃げて」
「でも」
「大丈夫、秘策があるのです」
ミミズたちの頭部がいっせいにこちらを向いた。そのあと、ずるるるると地中へ消え、静寂だけが残る。
「早く」
「わかりました。無理はしないでください」
そうボクは答えて、ぐったりとうなだれている鏡菜を抱きあげ、ドアを開けた。振り返りざま、もう一度言う。
「無理はしないでください」
彩菜がにっこりと微笑んだ。その笑顔が、後光のように輝いて見えた。
「鏡菜を、よろしくお願いします」
ボクたちを押し出し、ゆっくりと扉が閉まる。完全にとじる瞬間、ボクは見た。
地中から現れたミミズたちが、彩菜へと覆いかぶさろうとしている光景を……。
つづく




