第五章 蜜神彩菜 その1
第五章 蜜神 彩菜
1 『蜜神 彩菜のターン』
リビングで待っていると、鏡菜の母親がゆっくりと入ってきた。その顔色は、これまでに見たことのないほど蒼ざめていた。今にも倒れそうで、彼女を支えてやらなければ、とボクは腰を上げた。
「風太郎さん、来てもらえますか?」
体制を持ち直して、彼女が言う。
「それほど、悪いんですか?」聞くまでもない、彼女を見ればわかること。しかし、ボクはなにかをくちにしなければ、という思いに縛られ、少しでも不安をぬぐい去りたかった。
「あなたの助けが必要です」
鏡菜の家は、真横に切断すると断面が泡のような形状をしている。大きな円形の外壁の中に六つの小さな丸い部屋が収まっている感じだ。そのため、廊下も部屋も外壁もすべて曲線だった。くねくねと廊下を行く。家具など絵画など置物など雑貨類は何もない。白で統一された壁が続くばかり。めまいがしてくる、と辟易していると、ある部屋の前でピタリと止まり、鏡菜の母親がドアを開けた。
地下への階段と二階への螺旋階段があるだけの恐ろしく殺風景な部屋だった。
彼女は迷わず上へ移動すると、階段をのぼり切った先には、眼の前にドアがひとつあるだけで廊下などはない。たったひとつの扉を開け、中へ入る。窓のない個室だった。棺の中に迷い込んでしまったように感じたけれど、眼が慣れてくると真っ暗ではなくて、少し開けた空間だと気づくことが出来た。至るところに電子機器が並び、無機質な音を奏でている。明滅する光は色とりどりで、せわしない。なんでこんなところに連れて来たんだろう。そしてここはどこだろう。眉をしかめていると、左手の壁際に並べられている三つのベッドの中央に、鏡菜が眠っているのを発見した。
鏡菜の身体から伸びるチューブの先にある計器類に眼を通していたマングウが顔を上げる。黄色やら青やら赤色の光に浮かぶマングウの顔の色は、彼の持つ不安を助長しているかのようで、声をかけることが出来なかった。代わりに鏡菜の母親が言う。
「準備はよろしいですか? マングウさん」
「本当によろしいので? 彩菜さま」
「覚悟は出来ていますし、これしか、方法はありません」
覚悟? と怪訝に思っていると鏡菜の母親がこちらを向いた。眼尻のほくろが悲しそうにゆがんでいる。その表情を笑顔にしなくてはならない、そう、強迫観念めいた想いが湧いてくる。
「これから私たちは、鏡菜の精神世界に侵入し、彼女の《心》を救いだします」
なるほど。ボクは彩菜とマングウが潜入し、その間、無防備な三人の身体を守るのね。実際、心羅陽たちはルールを破って襲撃してきたわけだし、はい、わかりました。無事に鏡菜を救いだしてくるまでボクは門番です。
「風太郎さん、あなたはこちらへ」
などと鏡菜の右側にあるベッドを指さす彩菜さん。どうしたんでしょう。マングウがボクの背後にまわってくるのですが。え、なになに、妙な動きの意味を理解できないんですけど?
抵抗しないでいるとベッドの上に横にさせられた。
マングウがちくりぷす、とボクの左腕に針を刺し、彩菜さんがボクの右手を握る。
「ひとつだけ忠告しておきます」神妙になる彩菜さん。「恐るべき怪物や敵対する者に出会っても、決して手を出さないこと。すべては精神世界での出来事、心配は要りません、つねに、冷静な心を意識していてください」
「危なそうに見えて、実は危険ではないという意味ですか?」
「風太郎さん、くわしくは道中お話しするわ。それからこの旅は、決して、楽なものではないのよ。さあ、マングウさん」
彩菜がボクから視線をはずし、電子機器を操作していたマングウを見る。
「それでは、行ってきます」
「彩菜さま、他に方法はないのでしょうか……」
「ありません」
「しかしそれでは――」
「いいのです。子を救うのが、親の役目ですから」
いったいなんの話をしているんだ? 否、わかってしまった、鏡菜の精神世界に侵入するのは、ボクと彩菜さんなのね、だから変な世界の説明とかしてたのね、と納得していたら部屋中の機器から明かりが消えた。闇に包まれる。するとすぐに天井からぶら下がる球形の蛍光灯に光がともった。その瞬間、信じられない光景を目の当たりにした。
鏡菜の左眼の眼帯がぺろりとめくれ、空洞と化しているはずの眼窩から螺旋を描く細い木がにょきにょきと生えきたのだ。
どうなっているんだ、と驚いて飛び上がると、マングウと彩菜の姿がないことに気づく。陽と虎乃新の襲撃か? と脳裏に浮かぶけどすぐに消えて、ボクはすでに、鏡菜の精神世界に入っているのでは、と思考を変える。
落ちついて、現状を把握する。現実と虚構の違いは鏡菜の眼から飛び出てきたねじれた木と彩菜たちの姿がないことだけ。他はなにも変わりない。機器に囲まれた部屋。しかし、誰かの能力でなければ、ここは精神世界の中だ。焦るな、取り乱すな、ただ、鏡菜の精神世界に入っただけ。
だが、ここは想像もつかない世界。もう少し出方を見よう。うかつに動くのは危険だ。
しばらくすると、鏡菜の眼窩から伸びた木の枝が天井付近で触手のように広がり、球形の蛍光灯を取り巻いていった。ぎりぎりと音が響き、やがて、ぱきん、という音を響かせて明かりが消えた。
再び闇に包まれる。
「彩菜さん、マングウさん、どこにいるんですか?」
無駄だと知りつつも口にしてみる。もちろん、返事はない。
こうなったら自分のちからで鏡菜を救い出さなければならない、と決意をあらたにしたとき、ちくりぷす、とボクの額に針が刺さった。誰もいないのに注射器だけ。おいおい、このままではまずいんじゃないか、飛んで逃げたほうがいいんじゃないか、と半ばパニックを起こしていると、いきなりベッドが消滅し、床がなくなり、ボクの身体が『どぼん』と落ちた。ぼごごごぷくぷくごおおという水の音が鼓膜を伝い、ボクから思考を奪い去る。完全なパニックに陥る。
水の中は流れが遅い。温かい。優しさすら感じられる。ゆら~りゆら~り、身をまかせていると気づいた。苦しくない。ボクは水中で自由に活動できる!
苦しくないなら焦らずに出口を探そう。落ちつきを取り戻して態勢を立て直すことに専念した。そのとき、にゅるるるるとはるか水の底から白い手が伸びてきて、ボクのひじをつかみ、引きよせた。
飛ばそうかとも考えたけど、悪意がないことがその手から伝わり、ボクは行く末を見守ることにした。
やがて赤く光る出口らしきものが底に浮かんできた。腕は、その光の向こうから伸びている。
安堵し、同時に、この腕の主は彩菜さんだと確信する。
ぬぷん、と水世界から脱出。
そこは薄暗い円筒形の空間だった。上空には、こぼれることのない水がぷよんぷよんと揺れている。上空に水面、変な光景だった。
「大丈夫? 風太郎さん。いよいよ、ここからが本番よ。心の用意はいいかしら」
やっぱり、ボクを救ってくれたのは彩菜さんだった。
心配いりません、と安心させようと思ったけど声が出なかった。それどころか、ボクの身体が……。
彩菜さんが優しく言う。
「まずはその身体を直さなくちゃね」彼女がボクの眼の前でひざを折る。そう、ボクは今、四つん這いになっている。立つことが出来ない。いや、それだけならこれほど恐怖をおぼえない。ボクの身体が、水になっていたのだ。人の形をした水の塊。それが今のボクの姿だった。
「惑わされてはいけません、その姿は、風太郎さんを取り込もうとする鏡菜の意思。あなたは、あなたです」
ボクの名は風祭風太郎。ニックネームはフウフウ。高校三年生の十八歳。両親と姉とその旦那とボクの五人家族。生まれたときから危機に見舞われたとき、何故かそれらの危機を回避していた。なんとはなしに不思議に思っていたが、明らかな原因を知ったのは月葉と呼ばれる政界を裏で牛耳る一族に拉致されてから。瞬間移動。それがボクの能力。それらの記憶を持つ人間が、風祭風太郎。
いつの間にか、ボクの身体が元のむきむき……はウソだけど細い見なれたものに戻っていた。
「よかった。そう、それがあなたの本当の姿」
「ありがとうございます、彩菜さん。でも、入り口でこれですか……」
彩菜がにっこりと笑う。
「私がついています。だから勇気を持って。さあ、行きましょう」
前途多難だな、とボクは気を引き締めた。
つづく




