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第四章 心羅陽 その5

     5 『心羅 陽のターン6』

 遥か上空、戦郁の部屋へと飛ぶが霧はいっこうに晴れない。結界ごと飛んでしまう。これ以上試すのは危険だった。外の世界がまったく目視できないのだ。元の位置に戻り、相手の出方を待つことにした。陽が攻撃を仕掛けるとき、きっとこの結界内に入ってくる、その瞬間を狙うしかない。


 虎乃新の声が響いてきた。勝利を確信し、自信に満ち溢れている。この拘束を解いたら、ぜったいに一発は殴ってやる、そう思わせるには十分な内容だった。

「オレの作り出せる結界が、円形だけだと考えていないか、フウフウ。まったく、昔から考えが甘いんだよ、お前は。だから、負けたんだ」

 この結界の正体って、もしかしたら、と危惧していたことが現実になった。虎が続ける。

「お前の身体の周りを薄い膜となり、結界が覆っているとしたら、どうする? お前が動けば、その動きに合わせて結界も変形するしどこまでもついて行く。もしもそうなら、どうする?」

 万事休(ばんじきゅう)す! とはこのことだ。


 万事休す……①すべてが終わり ②なにも(ほどこ)す方法がないこと ③文章だとよいが言葉にすると途端に危機感がなくなる不思議な言葉


 彼の言うことが真実ならば、陽が攻撃し結界内に入ってきたときにはもうボクの身体に触れてしまうという意味だ。

 おいおい、虎乃新と陽の相性は抜群じゃないか、一発も殴れずに敗北してしまう、などとネガティブになりがちな思考を、頭を強く振って払いのける。代わりに、陽の刀を頭部にもらったときの感覚を思い出す。刀なのに、物理的な接触感はなかった。どちらかというと精神的、心霊的、空気的なものだった。


 実際、ぬぷっ、と頭蓋骨を通過してきたのだから。


 すなわち、触れてもすぐにはわかりにくい、ということだ。その遅れが致命傷になりかねない。正直、やっかいだった。だけどやっかいという言葉で終わらせる訳にはいかない。ボクは動きをとめ、全身に意識を集中させた。ぬぷっでもずぷりでもどぽんでも見逃さない。とにかく、ボクの身体に触れたものはすべて飛ばす。

 さっそく来た。

 右肩。結界の外から白い手が入ってきた。左手だ。どこへ飛ばす? 雲の上。はるか遠く雲の上だ!

 一瞬だけ視線をその手に向けた。違和感があったからだ。ここで何故、《手》なのだ。何故、刀じゃないのだ。その違和感はしかし、焦っていたボクをとめることは出来なかった。

 ボクの肩に触れた手の主を、飛ばした。しかし、飛ばした後に後悔にむしばまれた。ボクは見たのだ。その手の中指に、クリスタルのリングがはめられていたことに。


 手の主は、鏡菜だ!


「ワンパターンなんだよフウフウ。だから、彼女を利用した」

 虎の言葉の直後、脇腹にぬぷん。

 やられた。

 だけど命は絶たれていない。何をやられた? どこだ? そんなことはどうでもいい。生きているなら問題ない。遅いけれど刀を飛ばしてボクも移動する。上空へ。

 結界もついてくる。そのため、鏡菜の姿は見えない。このままでは鏡菜を救えず、彼女は地面に落下して命を落としてしまうだろう。この結界をなんとかしなければならない。

 ひとつだけ、方法がある。

 成功するかどうかはわからない。でも、やるしかない。

 結界には触れることが出来ない。しかし、ボクに触れているものがある。つねに触れている。今もこうして……。

 そう、空気だ。

 物体ではない、気体だ。大気ともいう。酸素、窒素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、クリプトン、水素、キセノンなどからなる空気。一部を飛ばしても意味はない。だから、ボクの全身に触れている空気を同時に飛ばす。


 出来るか? やるしかない。そうこう考えている間に鏡菜は落下を続けている。

 急げ!

 足の指から毛髪に至るまで、すべての部位に意識を集中させる。

 肌をなでなでとさわさわとふわふわと触れているのが空気だ。だが、飛ばせない。やっぱり無理。なんとかなる、と心のどこかで思っていた。変な戦いに巻き込まれたけれど、ボクだけは無事に帰れると思っていた。だけどどうだ。手も足もでないじゃないか。成す術がないじゃないか。

 いつか聞いた栄の言葉が浮かんできた。


『気をつけてください。これから先、近い未来、命をおびやかすほどの危機に見舞われます』


 そう警告されていたけど、ボクは、話半分で聞いていた。周りをなめていたのは否定できない。自分が、他人よりすぐれていると誤解していた。

 ボクは、バカだ。

 そのおごりが、鏡菜を危険にさらしている。


 おごり……①得意になってたかぶること ②思い上がり ③贅沢をすること ④人にごちそうすること ⑤男にとってかならず降りかかる病気なようなもの


 栄の次に、ボクの脳裏に鏡菜が現れた。彼女が言う。

『右脳を意識しろ。そして、脳から直接、左眼を通して物事を見るのだ』

 ボクは右眼をゆっくりと閉じた。

 世界にあふれる光が、神経を通り、脳に到達する。

 なんて明るいんだ。世界が、これほどまでに、光、に満ちあふれていたなんて。この世に無駄なものなんてない。すべてが役目を持ち、連動し、命を、理由を、形作っている。

 空気が無色透明だと誰が言ったんだ、そんなことはない、活発で、表現は違うけれど、生命力にあふれている。

 重さもあり圧力もあり流れている。

 左眼の使い方がわかってきた。本質、を見抜く能力を持っているのだ。


 ボクは、空気、を飛ばした。


 結界とボクの身体の隙間にあった空気がなくなったことにより結界が肉体に張りついた。予測通り。そして、すぐさま、自分に直接触れている結界を飛ばした。

 久しぶりの景色、景観、風、太陽、ああ生きていてよかった、などと感傷に浸っている暇はなくてボクはすぐに下を見た。いるいる。真っ逆さまに落ちて行く鏡菜。移動して、鏡菜を抱きあげて、地上へ無事に着地。

「風太郎……」

 意識を取り戻した鏡菜がちからなくつぶやく。

「大丈夫、すぐ家に帰るから」

 あたりを見渡す。陽と虎乃新は結界で姿を消している。

 だけどボクは戦いを避けることにした。最初からこうしていればよかったのだ。ゴメンなさい、鏡菜。

「陽! 虎! 次に会ったときが決着のときだ。覚えていろ」

 顔面を蒼白にし、小刻みに震え、呼吸の浅い鏡菜をこのままにはしていられない。

 ここで完全決着をつけたかったのだけど、ボクは、飛んだ。


つづく

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