第一章 蜜神鏡菜 その1
第一章 蜜神 鏡菜
1 『風祭 風太郎のターン』
眼を覚ましたけれど、どうしたことか、ボクはまだ、闇の中にいた。
それは時間が関係しているのではなくて、外的要因だとすぐにわかった。どうやらボクは、分厚い漆黒の布を、頭部にかぶせられているようだ。
取り払うために腕を動かそうとするが、後ろ手に縛られていて微動だにしない。立ちあがろうとするが、両足もまた、縛られていた。
ボクはどこかで椅子に座らされ、身動きが取れなくなっている。身体に触れる風はない。うだるような暑さもない。おそらく、室内だろう。しかし、誰がこんなことを?
「誰かいませんか?」
叫んでみるが静寂だけしか返ってこない。
ボクはこのような状況におちいる前の記憶を思い出してみる。
「おい、フウフウ」とボクをニックネームで呼び止めたのは親友の虎乃新。風祭風太郎だからフウフウ。ジョジョみたいでちょっとかっこいいかも、などと最初のころは思っていたけどジョジョみたいに締まらない響きなのでしばらくしてからはイヤになった。なんだかため息にしか感じない。やめろよ、と言っても誰も聞いてくれない。だからボクはあきらめてフウフウ。
虎乃新とは中学一年からの付きあいで、出会ってから、もう五年になる。茶髪の長身でゴツイ身体、眼つきが鋭いのでけっこう周りに怖がられている。まあ実際、けんかっ早いのでそのままだけど。
「おう、おはよう」と返すと、「おはようじゃねえよ。お前は気づかないか? 空気の重さに」
「気づく訳ないだろ。朝から変なこと言うなよ」
「そうか? うん、まあいいや」
それからはバカ話が続き、学校の正門に着いたところで虎乃新がまた最初の話題を繰り返した。そのとき、ボクはもっと真剣に彼の話を聞き、警戒心を持っておけばよかった、と思う。
「フウフウ、やっぱり今日は、変だ。なあ、これからゲーセンとか行こうぜ。嫌な予感がする」
顔を上げるといつもと変わらない学校がそこにあるだけだった。ボクは両手を広げて見せた。
「おかしな夢でも見たんだよ、いつまで引きずっているんだ? いいから行くぞ」
門をくぐり、通路わきで行われている生徒会長の熱い演説を無視して進み、三年校舎へ。女子生徒が何人か短いスカートをひらめかせてボクたちを追い越して行く。うわ、今のはきわどかったぞ、とボクは興奮していたので、「黒いベンツが四、いや、五台も停まっている」という虎乃新の言葉は耳に入ってこなかった。
教室内は相変わらずの喧騒だった。声を抑える、行動を控える、場をわきまえる、という言葉は皆無だった。好きなことを好きなだけ楽しむ、まあ、これが日常だったのでボクは驚かない。どこどこの生徒を半殺しにしたと自慢しては悦に浸り、だれだれと寝たわよと言っては歓喜し、二次元の世界、アイドルたちに執念を燃やす、でも、これが日常なのでボクは驚かない。
ホームルームの時間になったが、担任が来ないことに気づいたのはボクと虎乃新だけだった。他のみんなは時間も忘れて意味のない会話を続けている。
虎乃新が席を立ち、ボクの元へやってきた。顔色が悪い。
彼が口を開こうとした、その瞬間だった。扉が音を立てて開けられ、黒ずくめの男たちがずかずかと入ってきたのだ。サングラスに黒のスーツ、異様な連中の登場に、さすがのクラスメイトたちも口を閉ざす。
「五人か……みんなで抵抗すればなんとかなるな……」と虎乃新がつぶやいた。そんな血なまぐさい展開になるかな、と疑問に思っていると、スーツのひとりが声を張り上げた。左頬に切り傷のある男。おそらくこの中のリーダーだろう。
「風祭 風太郎。真戒 虎乃新はいるか?」
薄気味悪いので黙っていると、クラスメイトの視線がいっせいにこちらへ寄せられた。おいおい、簡単に仲間を売るなよ、と驚いていると虎乃新が駆け出した。
「逃げるぞ、フウフウ!」
そう言った後、虎乃新が撃たれた。教室内に悲鳴が上がる。怒号が起こる。だが、スーツ男の一喝で場は静寂に包まれた。
「死にたいヤツは騒いでろ!」
えっと、命を狙われる覚えはないんですけど、血気盛んな虎乃新と違って。と考えていると、パン。撃たれた、と思ったけどどうやら外れたようで、背後の壁が小さく爆ぜた。ざわめくスーツ男たち。明らかに平常心を失っている。それが何故なのかわからなくてぼうっとしていると、後頭部に激痛が走った。眼の裏でいくつもの花火が打ち上げられ、それらは一瞬にして消滅した。
そして眼が覚めたらこうなっていたのだ。なるほど、謎は解けた。あのあと、スーツ男たちに拉致されたのだ。クラスメイトたちはそれを黙って見ていたということ。ひどい連中だ。
「虎、いるか?」
拉致られたのなら、彼もいっしょのはずだ。
「ん……フウフウか? おい、どうなってるんだこれは!」
正解。
「知らん。お前も頭に布か何かをかぶせられているのか?」
「そのようだ」
「じゃあ、ここが何所かわからないのか……というか、撃たれたのに生きていたんだな。お前に捨てられた女の子たちのがっかりする顔が眼に浮かぶよ」
「黄色い歓声しか聞こえねえよ」
などとくだらないやりとりをしていると何者かに怒られた。
「うるせえぞ。少し黙ってろ!」
聞いたことのない声。ここにはボクたちだけが囚われている訳ではなかった。ちょっとだけほっとしたけど威圧的なので心底安心はできない。
虎乃新が警戒した声で言う。
「誰だ?」
「お前こそ誰だよ」と答えるのでとりあえずボクたちは名乗った。
「要地だ。夜追 要地。お前らか? 俺をこんな目にあわせたのは。ただじゃ済まないぞ」
「勘違いするな。オレたちも犠牲者だよ」と虎乃新が言葉をとがらせながら言った。
それからは沈黙が続いた。ときおり、ぎしぎしと音がする。虎乃新か要地がもがいているのだろう。そのときだった。
「あせり、おそれ、それと、余裕? この部屋にいるのは僕を合わせて四人ですね」
もうひとりいた。
「サークル活動中、突然やってきたスーツ姿の男たちに襲われました。はがいじめにされ、黒い布を頭にかぶせられ、仲間に助けを求めましたが頭に鈍い音がしたあと、あたりがシンと静まり返ったのです。意識は失っていなかったのですが、抵抗したらもっとひどい目にあいそうだったので、僕は抵抗するのをやめました」
一息入れて男は続けた。
「川跨 里唱といいます。みなさんも学生さんで?」
「べらべらとよくしゃべる野郎だな」
「ちょっと待って要地さん」ボクは間に入った。気になることがある。
「里晶さん、今も布をかぶせられてる?」
「ええ、なんにも見えません」
「じゃあ、何故、この部屋に四人いるとわかったの?」
「お前が犯人か!」
要地が暴れたようだ。ガタガタと音が響く。
「違いますよ!」里晶が弁解する。「正直に言います。僕にはにおいをかぎ分ける能力があるのです」
「超能力だと? バカにするのもいいかげんにしろよ」
「本当です。僕は生まれつき、他人の身体から発せられる香りを感じ取ることが出来るのです。僕は自分のことをドッグマンと呼んでいますけどね、ははは」
誰も笑わない。里晶はひとつ咳ばらいをしてから続ける。
「たとえば真戒さん、あなたは今あせっていますね。はやく拘束をほどいてここから脱出したがっている。人一倍、警戒心が強いようですね」
虎乃新は何も答えない。
「たとえば夜追さん、あなたは勢いがあるようですけど、どうやらとても怖がっている。本当は小心者では?」
「はあ? 殺すぞてめえ!」
「すみません、言いすぎました。そして不思議なのが風祭さん、あなたです」
「ボク?」
「そうです、どうしてあなたは、そんなに落ちついているのですか? 危機的状況を危機的状況とまるで認識していない。実はあなたが我々をここに連れてきた犯人なのでは?」
「えっと……はずれです」
ボクが呆れたところで、虎乃新が声を押し殺したまま叫んだ。
「静かに! 誰か来たぞ」
虎乃新の言葉でくちを閉ざして耳をすますと、確かに足音らしきものが聞こえる。しばらくしてギギイギギ、と戸を開ける音がし、すぐさまドカドカと音が近づいてきた。何が起こるのか。いよいよボクたちを連れてきた目的がはっきりする。ひとりが、ボクの背後にまわった。それから、バフォッと頭にかぶせられていた布を取る。光がちくちくと鼓膜を刺激し、ボクは思わず眼を閉じた。それからしばらくしてそっと開けると、眼前に大きな仏像が立っていた。仏像がボクたちを拉致したのではなくて部屋にまつられている。三メートルくらいあるだろうか。右手に剣が握られている。右眼は大きく開けられているが左眼は半眼。口からは牙をのぞかせている。そして、像の影が背後の壁に浮かび、それが黒い後光のように見える。ああこの像は、不動明王だ、とボクはわかった。そして、明王をまつっている、ということは、ここの連中は閉鎖的、だということも知った。
明王……①孔雀明王以外はみな怒りの表情を浮かべている ②人間の弱さ、煩悩、異教徒に対する怒り、それらを正すのが明王の仕事 ③五大明王すべての名を言えるものはなかなかいない
ボクたちは講堂に集められていた。部屋の中央に横一直線に並べられている。左から虎、ボク、里晶、要地の順だ。
不動明王像の前に、これこそ生きた化石、とでもいうべきよぼよぼおばあちゃんが立っていた。黒のスーツに身を包み、赤いネクタイが光っている。背もピンと立っている。ちりちりの髪の毛は真っ白で短い。そして眼光は、明王に負けないくらい鋭い。横一列に並んで椅子に座らされているボクたちを、ひとりひとり順に、にらむ。こんなおばあちゃんはもちたくないな、と思った。彼女の隣には見覚えのある男が立っていた。左頬に傷がある。学校に来た男だ。ボクたちひとりひとりの背後に立つスーツ男たち四人とおばあちゃんと頬に傷の男、背後の仏像、異様な光景だった。
「おぬしたちの存在は世界から抹消された。知人も騒がないし家族も捜しはしない。もちろん、警察も動かない。そのことを重々、理解してもらいたい」とおばあちゃんがしわがれた低い声で言った。
ボクは横を向いた。里晶を見る。ボクの視線に気づいた里晶は、ゆっくりと首を横に振った。
「ダメです。かすかなにおいすら、ありません」
おばあちゃんがどういう心境なのか、今はわからないようだ。あきらめる。
ここで要地が叫ぶ。
「おい、ババア。俺をこんな目に合わせたことを後悔させてやる。早く自由にしろ!」
「キノコじゃ」
「はあ?」
「わしの名じゃよ。ところで、おぬしは少々うるさいな」そう言ってキノコおばあちゃんは要地の後ろに立っている男に指示を出す。「解放せよ」
スーツ男は指示通り、要地を拘束していたロープをほどいた。
要地は口端を大きく吊り上げ、前方に駆け出した。
「俺は言ったよなあ、後悔させてやるってなあ!」
右こぶしを繰り出す、が、キノコの姿が空気の中に溶けるかのようにして消えた。ここで虎乃新が言う。
「上だ! 気をつけろ」
見上げる。居た。キノコは高い天井の壁に四つん這いになってこちらを見下ろしていた。ビョン、と飛び降りる。要地は前転でその攻撃を回避したが、すぐに追いつかれ腹を蹴りあげられた。
異様なスピードだった。九十を超えているであろう動きではなかった。
キノコおばあちゃん、殴る蹴る膝を繰り出す肘を振り上げる放り投げる、笑顔で。
最初こそ要地は抵抗していたものの、それもやがて減って行き、つんつん頭がべったりするのと同時に、動かなくなってしまった。
「キノコさま、その辺で……」
頬傷男の言葉でキノコは手をとめた。息ひとつ乱れていない。それからまた仏像の前まで移動して、白目の広い異様な眼でボクたちを見回す。
「さて、静かになったところで話を進めようかの。おぬしたちに足を運んできてもらったのは他でもない」
地べたに這いつくばり、かはかは言う要地を無視してキノコが言った。
自分から来た訳じゃないけど、とつっこむのは怖いからやめておく。
「世界を救う、ヒーローになってもらいたい」
はい? 意味がわかりません。キノコおばあちゃんは強いけど頭は弱いようです。もうそろそろ本気で帰りたくなってきました。だけど虎乃新は違った。
「どういう意味だ?」
などと、真剣にあっち方面の話を信じているような返事をする。大丈夫か、虎?
「言葉の通りじゃ。おぬしたちはそれぞれ特殊な能力を有しておる。風祭風太郎!」
ドキンと心臓が飛び跳ねる。
「おぬしは瞬間移動の能力」
ああ、誰か救急車を呼んでください。このおばあちゃんは狂っています。
「真戒虎乃新、おぬしは結界能力。夜追要地、おぬしは鏡の能力。川跨里晶、おぬしは少し変わった探知能力」
ここで虎乃新が相手の真意を見逃すまいと、慎重に訊ねた。
「オレたちにそんな能力はない。本当の目的はなんだ?」
「気づいていないだけじゃ。しかし、里晶はすでに自分の能力を認識しておる」
虎乃新は食い下がる。
「里晶がそのような能力を持っているとしても、オレにはない。普通の人間だ」
「話にならん。潜在能力というものじゃ。おぬしたちの内にそれは隠れておる。今からそれを目覚めさせてやるわい」
キノコがにやりとして見せ、隣にいる傷男に指示を出した。
「三道よ、そろそろお連れしろ」
はい、と答えて三道と呼ばれた傷男が入り口まで移動し、外で待機している者になにかを囁いた。
「あの、ひとつ質問してもよろしいですか?」
ボクが言うとキノコはあごをクイッと上げて見せた。それを肯定と判断してボクは続ける。
「もう家には帰れないのでしょうか?」
きひ、きひ、きひ、と笑うキノコを見てボクは、出産間近の姉のことを思い出し、ひと眼でいいから甥っ子を見たかったな、とがっかりした。
☆
家財道具がいっさいない畳だけの質素な部屋の中央に、十代後半くらいの白い肌の少女が座していた。折り曲げられた膝の上に、小さな手をチョコンと乗せている。長い黒髪が少女のまわりをらせん状に渦巻いていて、彼女が立ち上がると同時に、その輪が、ゆっくりと、狭くなって行き、やがてふわりと宙に浮いた。
「栄さま、どちらへ?」
少女の背後にスーツ姿の女性がいつの間にか立っていた。足音もなにもなかった。突然、そこに浮き出た感じだった。
「えっと、行かなくてはならない場所がありまして……」
栄と呼ばれた少女はしかし、驚くでもなく、眼を閉じたままそう答えた。
「おひとりでは危険です」
「大丈夫ですよ、ふふふ。どこになにがあるか、寸分たがわず覚えておりますから」
「私がしかられます」
「それもそうですね。それじゃあ、案内をお願いします」
「まさか敷地外ではありませんよね。それだと、栄さまをお止めしなければなりません」
「心配はいりません。御魂石が祀られている祠へ行くだけですから」
笑顔を浮かべる栄とは裏腹に、スーツ女の顔は蒼白だった。
つづく