第三章 高谷まひる その1
第三章 高矢 まひる
1 『月葉 蘭松のターン』
キノコが慇懃に頭を下げた。傍らには三道の姿も見える。彼もまた、頭を垂れていた。
月葉家、栄の祖父の寝室。あまりにも広く、あまりにも豪華で、ここが寝室だとは誰も信じられないだろう。純金の額に入れられた日本絵画の数々。純金の不動明王像。屏風にいたっては、長谷川等伯の松林図屏風が飾られている。国宝とされる屏風だが、レプリカではない。
禅の境地、わびの境地と言われているその屏風にキノコが魂を奪われているとき、太い咳ばらいひとつで彼女は我に返った。
禅……①心を安定、統一させることによって宗教的叡知に達しようとする修行法 ②①のように説明できる人はかなり少ないこと
叡知……①深遠な道理を悟り得るすぐれた才知 ②禅を語る上で覚えなくてはならないこと
わび……①謝ること ③閑居(閑静な住居)を楽しむこと ④閑寂な風趣
閑寂……①ものしずかなこと ②ひっそりして淋しいこと ③くちにしても癇癪としかとらえられないこと
風趣……①おもむき ②ほとんどの人が?を頭に浮かべること
「私は経過を聞きたいがためにお前たちを呼んだのだ。なのに何故、黙っている?」
威圧的に言ったのは、ベッドに横たわる人物、蘭松、そのひとだった。
太くて長い眉毛。怒りだけを宿したような暗い瞳。後方に撫でつけた白い髪。鼓膜を捉えて離さないねばついた声。
キノコは震えそうになる身体を抑えた。
「申し訳ございません。着実に進行しております。凪裸坂家の娘、塊子はすでに戦線を離脱いたしました」
「ふむ。誰がヤツを倒したのだ?」
「蜜神家の娘でございます」
キノコの隣で大人しくしていた三道がここで顔を上げた。その表情には疑心と傲慢が入り混じっている。それも仕方のないことだった。
三道がキノコに拾われ月葉家に仕えるようになったときにはすでに、蘭松は第一線を退いていたからだ。そのため、蘭松の能力を目の当たりにしたことはない。政財界の陰に君臨するフィクサーとしての能力はわかるが、特殊能力のすごさ、恐ろしさ、尊敬、などはないのだ。
三道にとって蘭松は、一日の半分以上をベッドの上で過ごす過去の栄光にすがりつくおいぼれにしか見えなかったのだ。そのため、許可もなく発言した。
「実は蘭松さま、今回の婿選抜試験で、不穏な動きがある、と報告を受けているのです」
キノコがきっと彼をにらむが、三道は気にすることなく続けた。
「蜜神家の娘、鏡菜ですが、どうやら月葉家の転覆を狙っているようです」
蘭松は何も言わず三道をにらみつけた。
その眼光は、重く、三道は思わず一歩、後ずさった。しかしそれを払いのけ、話を続けた。若気のいたりである。
「使用人の中に、聴力のすぐれた能力を持つ少女がいます。ゼンコ、と言いますが、そのゼンコが俺に言ったのです。『結界に覆われているからはっきりとは聞こえなかったのだけど、鏡菜さまたちは、月葉家の歴史を、ここで断ち切るつもりらしいわ』とね。江戸から続く月葉家の歴史。その上にあぐらをかいていちゃ、ちょっと、あぶないんじゃないですかね?」
傲慢な態度にキノコが吠えた。
「三道おおおおおおお!」
こめかみに血管を浮かべ、すぐにでも三道に飛びかからんばかりだった。しかしそれを、蘭松が冷静に沈めた。
「怒るなキノコ」
「しかし……」
「ふはは。こういう輩はいつの時代にも現れる。それから力の差に打ちのめされ、本当に使える駒へと変貌するのだ。はいはいはいはい言っているだけの人物よりも、よっぽどいいぞ」
力の差。その言葉に三道は額に大粒の汗を浮かべた。強がり、余裕、それらがいっさい含まれていない蘭松の言葉に、三道は一瞬だが、怖気づいたのだ。しかしここで三道は、心を奮い立たせ、口端を吊り上げた。
「ここでひとつ、その力の差というものを見せておいたほうがいいんじゃないですか。そうしないと、栄さまの代で、月葉家は本当に崩壊してしまいますよ」
頭蓋を覆う頭皮の中の血管がぶつりと切れた。叫ぶことも、言葉を発することもなく、キノコは逆に冷静そのもので、三道へと踊り掛かった。
ここで蘭松は、キノコを止めるでもなく、諌めるでもなく、静かに言葉を発した。
「現状はわかった。また呼ぶと思うが、これまで同様、観察を怠るな。これでも孫の身を案じておるのだ。お前たちを信じている、頼んだぞ」
かしこまりました、とキノコと三道のふたりが頭を下げ、そのまま静かに部屋を出た。
キノコ、三道とも、なんの疑いもなく、迷いもなく、任務へと赴いた。
これが蘭松の能力。これが、政財界を……否、日本を陰で牛耳る男の能力。
キノコは確かに怒りを爆発させ三道へ攻撃をしかけた。しかし、何事もなかったかのように部屋をあとにしたのだ。
これが蘭松の能力。これが、月葉家の存在をさらに強固にした男の能力。
片鱗すら、見えない。
つづく