第二章 凪裸坂塊子 その5
5 『凪裸坂 塊子のターン3』
気がつくと、すぐ眼の前に真っ白な床があった。ボクの体温で温かくなり、吐く息で霜がついている。別にボクは床マニアでもフェチでもない。なんで? と思っていると後ろ手に腕を捻じ曲げられていることに気づいた。誰かがボクを抑えつけているのだ。
「ちょっと、放してくれ。ボクが何をしたんだ」
「もう大丈夫だ、マングウ。戻ってきた」
鏡菜の声でボクの身体は解放された。
肩とひじをさすりながら身を起こすとどうやらここは鏡菜の屋敷のリビングだった。マングウは直立不動の姿勢で身をひそめ、鏡菜は大粒の汗を額に浮かべながら床に手をつき、そのかたわらに母親が寄り添っていた。
「どうしたの、みんな?」
「のんきなものだ。まあ、それも仕方のないことか」息を整えながら鏡菜が言う。「ゾンビになったおぬしの精神世界に入った。幸いにも、精神はまだ破壊されていなかった。だから救いだすことが出来たのだ。まあ、壊れかかっていたがな。ははは」
笑えません。ぜんぜん笑えません。
「アイツの能力の謎も解けたよ。塊子の精神もまた、ゾンビの中に侵入していたのだ。まあ一部だろうが、それをとどまらせ、ゾンビを支配していた。あの眼帯の女性が塊子の精神の一部。まるでウィルスさ。カイコ・ウィルス。ははは」
ぜんぜん笑えません。鏡菜が現れなければ、ボクはどうなっていたか……。考えるだけでもぞっとする。
「女の子はどうなったの?」
ゾンビ中の記憶はまったくない。カイコ・ウィルスに感染してからずっとボクは精神世界にいたのだ。鏡菜はボクを救ったあと、ボクを噛んだゾンビ女の子も助けたのだろうか。
「うむ。壊れた記憶にとりつかれ、理想と絶望だけに支配された心。元の姿に戻しても、我々のみならず、彼女も後悔するだけだろう」
そう言ったあとの鏡菜の表情を見て、記憶を失っていて良かった、と思った。それと同時に、ボクは怒りをあらわにした。
「この世界に、あってはならない能力だ」
「我々の能力もそうだ」
「違う!」ボクは立ち上がった。マングウ、鏡菜のお母さん、そして鏡菜がボクを見つめる。「鏡菜の能力がなければボクは助からなかった。再生、その言葉がしっくりくる。だから鏡菜、君の能力は《なくてはならない》ものだ。苦しんでいる人を助けることの出来るすぐれた能力なんだ。しかし塊子は違う。ただ、すべてを滅ぼすだけ。死者の復活は、ゾンビたちとまわりに幸せを与えやしない。ボクは君に選ばれて良かったと思う。そうでなければ今ここにこうして立っていないだろう。鏡菜……君には、感謝している。今度はボクが報いる番だ。マングウさん」
彼は顔色を一切変えずボクに耳をかたむけた。
「塊子の家の間取り図を」
☆
眼下に見えるのは塊子の背中。派手な部屋だった。
音もなく彼女の背後に降り立つ。床にちらばる人形がつぶれる。すぐさま鏡菜が動いた。気配に気づいた塊子が振り返る。しかし鏡菜は彼女に隙を与えず、首をつかみ、横に引きずり倒した。
身の危険を察した塊子がゾンビを呼んだのか、その直後、扉を叩く音がするが、ボクは開けられてしまわないようカギをかけた。
「寂滅の門を超え、真の生と真の死の境界を心眼もちていざ行かん。サイコ・ボム」
いつの間にか鏡菜の詠唱が終わっていた。ふたりは、否、ふたりだけが、時間の流れを失ったかのようにピクリともしない。
鏡菜の肩をつんつん突いてみるが反応はない。それを見て、なるほど、とボクは納得した。この瞬間を、外敵から守らなければならないのだ。それがボクの使命なのだ。
ドアを叩く音はその量を増している。ゾンビどもが主を助けるためにぞくぞくと集まっているのだろう、が、鋼鉄製の扉はびくともしない。
どれくらいが経過しただろうか、ゾンビたちを警戒しているボクの背に、鏡菜が声をかけてきた。
「終わったよ」
振り返る。このときボクは不安そうな表情をしていたのだろうか、鏡菜がつけくわえる。
「なんだ? ワタシを悪魔かなんかだと思っているのか。塊子は小さい頃から共に修行した仲間だ、簡単に殺したりはしない。ただ、二週間ほどは意識を取り戻さないが、な」
複雑な気持ちだった。塊子の能力は、他人を殺さなければ発動できない。だからここでとどめをささなければならないのだ。これから先、ずっと、塊子による殺戮は止まらないだろうから。しかしボクにはわかっている。
彼女もまた、月葉一族の被害者なのだと。
ドアの音は、やんでいた。そっと開けてみると、廊下を埋め尽くす動かなくなったゾンビたちが横たわっていた。その中に、里晶の姿も見受けられた。
「こいつもやられたか」外に出てきた鏡菜が言う。「治そうか?」
「いや、いい」ボクは首を横に振った。「みんなを助けている余裕はないよ。他人の心配よりも、このくそったれの試験を終わらせよう」
鏡菜がくすくすと笑った。
「骨が折れるぞ。特に月葉家の元当主、栄の祖父、蘭松には手を焼くはずだ」
「また変なのが出てきた。その蘭松さんはもちろん能力を持っているんだよね」
「そうだ」鏡菜が頭をおさえた。「とても恐ろしい能力だ」
「え? 予知能力だけじゃないの?」
「予知も持っている。しかしそれだけじゃない」
「どんな能力なの?」
「それは、ワタシにもわからない」
わからないのに恐ろしい?
どういう意味だ?
しかし深く追求することはやめておいた。ここはまだ敵地なのだ。
ここから出ようと思い、鏡菜の家のリビングを脳内にイメージする。そして鏡菜に向かって手を伸ばした。
ところがボクの手を取らず、鏡菜はぶつぶつと続ける。
「誰も、蘭松を倒すことは出来ない。決して、出来ない。しかし、だ、おぬしの能力なら可能だろう。ワタシはそう信じている信じている信じている信じている殺せ殺せ信じている信じている風太郎!」
「鏡菜、どうしたの?」
「助けて!」
鏡菜はそう言い残して、膝から崩れおちた。
つづく