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第二章 凪裸坂塊子 その4

     4 『風祭(かざまつり) (ふう)太郎(たろう)のターン3』

「ダメだ。ふたりは俺が引き取る。お前のわがままにこれ以上つき合う訳にはいかない。もう決まったことだ。あきらめろ!」

 ニスの香りが全身に染みついてしまいそうな狭い部屋の中。早朝からの罵声を聞きながら、小学生くらいの男女が壁に背をつけ並んで座っている。窓の外から漏れ入ってくる明かり。薄暗い部屋の中に充満するニスのねっとりとした香り。言葉を発しない少年と少女。遠くから、怒号が、騒音となって、部屋に響きわたる。

「荷物をまとめて明日には出て行ってもらうぞ!」

 少年と少女は口を閉ざしたまま座っていた。微動だにしない。少女がそのうちすすり泣きを始めた。

「ねえ」少年が口を開く。視線は天井。「これからボクたち、どうなるのかな」

 少女はすすり泣くだけで、何も答えない。

 少年は上を見つめたまま続ける。

「いやだな、こんなの……」

 少女の鳴き声が大きくなった。

「お兄ちゃんの、ばかあ」

 薄い板で出来た扉は防音の役目を果たさない。だから音が直接ひびき渡る。

トントントン、ではなく、トトトト。そのあとの、ギイギギ。

 聞きなれたきしむ音。

 少女が顔を上げる。中に入ってきた中年女性を見て、少女はお母さん、と呼んだ。中年女性は左に白の眼帯をしている。右眼には涙があふれているが、冷たそうな涙だった。後ろ手に扉を閉め、眼帯の女性はふたりの前で膝を折った。

「ごめんね。この家を出ていかなくちゃならないの。それから、ふたりを連れては行けないの。お母さんを許してちょうだい」

 わ! と大声を上げる少女。その少女を冷やかに隣で見つめる少年。ドアが開いたおかげで一度逃げた香りが、密封されたことによりまた強くなる。少年は壁に体重をあずけ、ニスの香りに身をゆだねた。

「ふたりの気持ちはどうなの? やっぱりお母さんといっしょに居たい?」

 膝をつき、少年と少女を交互に見やりながら大げさに眼帯女性が質問する。

「あなたたちの気持ちを尊重しなければね」

 わ! とさらに声を張り上げる少女。しかし少年の表情はさらに、色がなくなった。

「別々に暮らすことになっても、私たちは家族、血のつながった家族なのよ。それだけは忘れないでね」


「そんなことは言われなくてもわかっているよ」少年が淡々と言う。「家族という絆はなくならないけれど、いっしょに生活した記憶、思い出、怒り、笑い、悩み、そういう感情は《家族の絆》だけでは(おぎな)えないでしょ。思い出、怒り、笑い、悩みってともに(つちか)った記憶、それから時間が大事だと思う。


《家族の絆》という言葉を重くとらえがちだけど、ただ、それだけなんだよ。呼称に崇高(すうこう)さを感じているふりをしているだけなんだよ」


 いつの間にか、少女は泣きやんでいた。


 女性は、なんの感情もない片眼を少年に向けていた。


 少年はそれらに気づかずに淡々と続ける。

「出て行くのなら、失うものの多さを、覚悟しなければならないよ」

 そう言ったものの、少年は小首をかしげた。不審点に気づいたのだ。この女性はいったい誰なのだ? 自分のことをお母さんと名乗っているが、お母さんはこんなに奇麗な人じゃない。もっと身体全体が四角くて頭のてっぺん部分が少し薄くなっているのだ。いや、待てよ。昔はこのように美しかったのかもしれない。直接見た訳じゃないけれど奇麗だったと聞いたような気がする。いや、待てよ。それ以前に、もっとおかしな点がある。


 妹なんて、いない。


「あなたは……誰ですか?」

 少年の言葉に、少女と女性の顔から表情が消えた。何か悪いこと言ったかな、と少年は視線を落とす。それからしばらくして、女性が口を開いた。

「お父さんの命令なの。お父さんと違って私には実家があるものね。どう、いっしょに行く?」

 少女が先ほどと変わらぬ動作、声の大きさで、わ! と泣き出した。

 少年が顔を上げて、ふたりに言った。

「お父さんを呼んで、四人で話し合おうよ。そうすればきっと、良い解決策が見つかるかもしれない」


 少女は泣きやんでいた。


 眼帯女性は、なんの感情もない片眼を少年に向けていた。


 ニスの香りが強くなる。

 扉が勢いよく叩かれたのはそのときだった。外から声が響く。

「お母さんよ。開けてちょうだい。話があるの」

 室内にいる眼帯女性が続ける。

「さあ、冷めないうちに食べなさい」

 少女が答える。

「もうお母さんの手料理は食べられないのね!」

「そんなことない。あなたたちが遊びに来てくれれば、いつでも作ってあげるから」

「ああ、お母さん。いやよいやよ。ずっといっしょにいましょう? どこへも行かないで」

「さあ、早く食べてしまいなさい」

「ああ、お母さん。ああ、お母さん。美味しい。今まで食べた中で、一番、美味しいわ」


 この人たちは何を言っているのだ。

 料理なんて、どこにもないじゃないか。


 外からはドアを叩く音が止まらない。その都度、震動し、部屋の大気も呼応する。まるで心音。心臓の鼓動に合わせて大気が、空気が、部屋が、膨張と収縮を繰り返す。

 そしてニスの香りが、濃厚になる。

「開けてちょうだい、お母さんよ。とても大事な話があるの。ね、だから開けてちょうだい」

「お母さん、美味しいわ。毎日同じ味に文句を言ったこともあるけど、このままでいいわ。ううん、このままがいい。お兄ちゃんもそうでしょ?」

 少年は答えない。

「作りたいのは他にもあるのよ。そうだ、この部屋でいい、この部屋で、ずっと三人で暮らしましょう。キッチンもバスルームもあるし、ね、そうしましょう」

「ああ、お母さん、美味しい美味しい」

「みんなでお食べ! 美味しいから、お食べよ」


 やめろ。頭がおかしくなる。やめろやめろやめてくれ!


「正攻法で行っても無理か」

 ドアが轟音を響かせて破壊された。

「風太郎、いいかげんにしろ!」

 風太郎? 誰それ? というか部屋に入ってきた女の人も左眼に眼帯をしている。若い。眼帯って、今の流行?

 風太郎! などとまた怒鳴るけど、風太郎って誰ですか?

 頭がうずいてきた。


 動悸が、激しくなる。

 風太郎風太郎風太郎風太郎――言葉が暴走する。


 ああ、そうか、ボクじゃなくて隣の少女の名前が風太郎なのね。いや、中年女性のほうかな。まあいいや。とにかく部屋に入ってきた若い女の人は無視して料理を食べているようなしぐさをしている少女の行動をなんとかしよう。それから料理を出しているようなしぐさをしている女性もどうにかしなければらない。ボクの頭が変になりそうだから。

 そう考えている間に外から来た若い女が動いた。

 奇妙な親子ごっこを続けていた少女と女性が動きを止め、外からの女を冷やかに見つめる。

「風太郎。これがワタシの能力だ」

 外から来た女がそう叫ぶと、彼女の身体が細かい粒子となって空間に飛び散った。

 突然叫び出す少女と女性。彼女たちの鼻、口、耳から先ほどの粒子が入りこんで行くのが見えた。すべてを吸い込んだあと、少女と女性は急に立ち上がった。両手を左右に広げ、身体が宙に浮く。

 リアル心霊現象! と驚き、行く末を観察していると、ふたりは爆発した。

 赤くて柔らかくてあたたかい固形物をあたりにまき散らし、そのうちの数個がボクの顔に当たった。

 誰か知らない女性の離婚話から誰だかわからない妹だと自称する少女との会話から血みどろ惨劇。窓へ駆け寄り厚いカーテンを開ける。闇。朝だったはずなのにおかしい。時間の感覚がない。窓を開けようとするがピクリとも動かない。カギはかかっていない。何故だ。そもそも、ここはどこだ。ボクの部屋ではない。ニスの香りに思い出も何もない! 


 部屋の中央に飛び散った粒子が収束されて行く。やがて、元の若い女の身体を形成した。

「なるほど」外から入ってきた女がひとつの眼を光らせながら言う。「こういう仕組みになっているのか」

 肉塊と化した元少女と元女性を見下ろす。じゅううううと音を立てながら気化している。

「なにをしたの?」と少年は聞いてみる。

「悪霊退治だよ。さ、帰るぞ。風太郎」

 手を伸ばすがボクはそれを振り払った。

「いやだ。なんで君といっしょに行かなくちゃならないんだよ。ボクはここにいる。お前ひとりで行けよ。肉親を殺されたボクは頭がおかしくなりそうだけどそれを抑えてこうやって踏みとどまってお前を裁こうとして滅滅滅滅正体をきっとつきとめてすっきり爽快して大団円だ」

 ボクは何を口走っているのだ。

「ああ、もう面倒くさい」

 女が頭をかいた。

「それ以上しゃべるな、殺すぞ。黙ってついて来い」

 女がボクの腕をつかんだ。その瞬間、部屋の壁、天井、床、ドア、窓といったすべてが、光を発してぼろぼろと崩れ出した。


つづく

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