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 次に目覚めた時、縁は自分が何かに背負われて揺られていることに気付く。

 その背中は広く、そして、自らを支えてくれる腕は太かった。

「あら、起きたのね~ん」

 その太くてたくましい、男性らしさに満ちた腕と背中の持ち主は業斗だった。

「ん、んぉ!?」

 縁は寝ぼけた体のまま、慌てて業斗の体から離れようとして、無理矢理押し戻される。

「ダメだよ、さっきまであんな無茶をしていたんだ……自分の体を労らないと……!」

 それは縁の背中に、張り付くように触れられた鏡の手が起こした出来事だった。

「大丈夫だ。あんなの、無茶なうちにも……」

 入らない、そう言おうとした瞬間、縁は言い様のない奇妙な吐き気と共に目眩を感じてしまう。その瞬間、再びふらついた縁の体を親子の手が止めてくれた。

「危ない危ない……アタシを倒した男なんだから、それなりの役得はあってしかるべきよね~ん。だ、か、ら、今はアタシの背中で大人しくしておきなさ~い」

 親子二代にわたる説得をさすがに無碍に扱うのも気が咎めて、縁は黙って業斗の背中に背負われる。

「しかし、随分と剣呑な力になったものね~ん」

 業斗はまるで井戸端話か何かのような気楽さで、縁の能力をそう評価した。

「そんなこと……」

 鏡はそれに反論しようとするが、業斗は笑みでその反論を封殺する。

「自分では、触ることすら出来ないほどの切断という意志が形を為した力の塊」

 縁はその言葉に、ただただ恥じ入るばかりだった。逸人としての能力を批評されるということは、自らの心の内を分析されるということなのだと縁は始めて知った。

「アナタは何かを斬りたいと思っている。けれど、それは……自分では触れることの出来ないものなのね~ん」

 その言葉を聞いて縁は、自らが忌避する親との関係を思い出した。

 縁は親との縁を断ち切りたいと願っている。化け物になりたいという思いもまた、彼らとは関係のないただの自分でありたいという幼い願いが原因なのだと縁は知っていた。

「それでも、その力の芽生え方は……人に対する優しさだった」

 鏡は親という人として当たり前の繋がりを断ち切ろうとする縁を擁護する。

「ええ、そうね~ん。本当に、それは……アタシも認めるわ。さて、家に付いたわよ」

 その言葉に縁は、先程まで関係を断ち切りたいと思っていた家族が待つ家に帰るのか、と沈痛な面持ちで顔を上げる。けれど、そこに見慣れた自らの家はなく、明らかに真新しい家があった。

「え?」

「親御さんに、許可はもらってきたわ~ん。今日は縁、アナタの就職祝いよ」

 その言葉に、縁は言いようのない喜びと気まずさを感じた。

 自分のような存在が受け入れられ、歓迎されているという事実。それは社会人の社交辞令のようなものであるのかもしれない。けれど、それでも、縁は心が震えるのを止められなかった。

「じゃあ、アタシは中で準備をさせてもらうわね~ん。お若い二人は少し外で話していてくれる?」

 その言葉を皮切りに、縁は業斗の背中から降ろされる。そして、鏡の手が、そっと優しく縁の背中を支えた。それを確認して、業斗は家の中に入る。

「こういう時、後一人は使い勝手のいい部下が欲しいと思っちゃうわよね~ん」

 業斗の独白はどうしようもない人手不足を愚痴るものだったが、縁の耳にそんな言葉はもう入ってこなかった。

「良かったね……」

 優しい声、優しい手、そして、何よりも優しい微笑みで鏡は縁の心を読み取り、その心を労ってくれたからだ。

「っ、ぁ……」

 縁はずっと、疎外感に苦しんでいた。自分が本当は誰かに認められるような人間ではないという後ろめたさ。誰かに自分の悪性が知れ渡ってしまったらという恐怖。それにずっと、孤独に耐えていた。

 けれど、それを強制的に吐き出され、白日の下に晒された縁の悪性を受け止めてくれた人たちがいた。そして、その人たちは、そんな縁の悪性を吐き出した人物だ。

 壮大なマッチポンプだ、と少しでも震える心を抑えるためにシニカルな振る舞いをしなが、縁は鏡に対してただの友人とは違う特別な感情を持つことを抑えられなかった。

「ひぅ……」

 そんな感情を抱いてしまったことに驚かれたのか、鏡は息を詰まらせる。

「ははっ」

 その様子がおかしく、縁は笑いを零した。

「わ、笑うなんて……」

 鏡は縁に抗議をしようとしていた。けれど、縁が笑ったのはそういう皮肉だとか、相手を笑うという意志を込めた行動ではなかった。

 自分が今からやることが、少し似合わない行為だと思ったからだ。

 周囲を見渡し、他に誰もいないこと、そして業斗が帰って来る様子が見受けられなかったことを確認して、縁は息を大きく吸い込む。

「なぁ……もう、わかっているんだろ?」

 縁はその言葉に、鏡が黙り込むのを喜んだ。

「俺は……あんたに気持ちを隠せないことを知っている」

 鏡が読心能力を持っているということを、縁は知っている。だから、鏡に対して縁が特別な気持ちを抱いていることに、鏡が気付いていないはずがなかった。

「だから…………いや…………」

 縁は最初、もう理解出来ているのだから、自らの気持ちをことさらに話さなくてもいいだろうと思ってしまった。

 それは先程ファーストフード店で縁が怒られたことだと、苦笑と共に縁は思い出す。

「それでも……言葉に出して欲しいって……思いはあるよ?」

 当然のように怒られ、縁はその言葉を聞いて、なけなしの覚悟を決める。

「俺は……あんたのことを好きになり始めている……」

「…………それだけ?」

 どこか頬を赤らめ、切なさを感じさせる表情で鏡が続きをねだる。

 けれど、縁は肩をすくめるしかなかった。

「今はまだ……それしか言えない。多分、程度の確信じゃあ告白には足りない……」

 人を好きになる。そんな暖かな気持ちに、真摯に向き合うためにはそんな程度の確信では足りないと縁は思っていた。けれど、縁の言葉を聞いて、しょうがないなと口元で笑いながらも、鏡はそれ以上を求めていたようだった。

 縁のすぐ傍に寄り添うように立ちながら、鏡は語ってみせる。

「ぼくはもう、確信しているのにな……」

 その言葉はふがいない男に対する精一杯の激励だったのだろう。けれど、そんな言葉を掛けられても、情けないことに縁は動けなかった。

 自分の中にある悪性、それを知っていてなお求めてくれる人間がいるというのに、そんな人間と自分は釣り合うのか、などという情けのない考えが浮かんできたからである。

 本当に情けない。心の中で何度この言葉を繰り返したのか、わからないほどに縁はその言葉を繰り返す。けれど、縁にとっては始めてのことだったのだ。

 当たり前の感情として人を好きだと思い、異常な感情としてその人が苦しむ姿を見たいと思う縁の特異性。縁は自らの悪性に邪魔されて、人を愛すると言う感情がどういうものなのかを、正しく理解することが出来ないでいた。

「まったく……」

 そんな縁の心理を読み取って、呆れたままに鏡は笑った。

「きみのそれが確信に変わることを、ぼくは待ち望んでおくよ」

 その言葉は縁の気持ちに対する肯定の返事として受け取ってもいいものだろう。

 歓喜に戦慄く縁の心。

「けど、いつまでだって……きみを待ってあげる、なんて言う程、殊勝な女じゃないから気を付けてよ?」

 喜びに沸き立つ縁の心に冷や水を浴びせかけるような鏡の一言は、まるで軽い冗談か何かのように表現された。

「あ、う……」

 縁はその言葉が意外で、少し傷付く。センチメンタルな考えだと自分でも思ってしまったが、愛とは永遠に変わらないものだと思えたのだ。

「愛!?」

 裏返った声で、鏡が驚く。

 今度は縁の方が赤面する番だった。明らかに似合わない考え方だと、自分でもわかるような乙女じみた考え。愛というものはどこまでも清く、美しくあるべきものだという考え方。その考え方こそが自らの愛を信じることが出来ない要因だと知りながらも、縁はその愛を信奉する考え方を改めることが出来なかった。

「ふぅーん……きみの大本にあるのが、愛に対する信奉だなんて……すっごく意外だよ」

「それが嬉しいものだと言わんばかりの笑顔は止めてくれ……」

 こつん、と縁は鏡の額を叩く。

「ははっ……」

 その痛みを、鏡は甘んじて受け入れてくれた。


 業斗の家に招かれての歓迎会は、縁たちが未成年だということを念頭においたものだった。食卓の真ん中には、明らかに出来合いのものとは格が違うハンバーグがメイン料理として置かれている。

 その周りには、パーティー料理と言われればこれだろうと言わんばかりの料理がこれでもかと並んでいる。その周囲にはコーラやオレンジジュースといったドリンク類が並び、食卓を様々な色で彩っていた。

「ごめんなさいねぇ~、なにぶん今日一日で用意したものだから、料理ばかりで部屋の飾り付けまでは手が回らなかったわ~ん」

「今日、一日……?」

 縁はその言葉に引っかかるものを感じてしまった。

「今日一日……って、まさか……」

 今日一日、業斗は放課後の二人を外に出して、自分一人で行動していた。

 それが一体何故なのか、縁にはようやくわかった。

「ずっと、用意してくれていたんですか……」

「んふふ、それは言わないお約束よ~ん」

 仕事で疲れた体に鞭を打って用意してくれたのだろう業斗の料理。

「さ、冷めないうちに召し上がって~ん」

 無論、言われるまでもなく、縁はそうすることが業斗に対する礼儀だと弁えていた。

 けれど、心が震えて、縁は料理に手を付けることを躊躇ってしまう。

「……縁から食べ始めてくれないと、ぼくたちが食べられないよ」

 鏡の言葉によって、縁はようやく料理を口に運ぶことが出来た。

「うまい……うまいよ、これっ!」

 予想外に業斗が作る料理は美味いものだった。

 ハンバーグは明らかに手でこねられており、ふんわりとした肉のつなぎ目がわかるほど肉の粒一つ一つが自らの存在を主張している。良い肉なのだろう。縁はそんな肉は始めて食べた。

 そのつなぎ目の間に入り込んだ肉汁のジューシーさは、筆舌に尽くしがたい。口の中に感じる甘さは、縁の知る甘いという味とは全く違っていた。

 香りが、甘いのだ。口元に広がる肉汁を多分に含んだ蒸気の甘さ。それは縁に望外の至福を感じさせる。

「ふふ~ん、これでも料理は昔鳴らしたことがあるからね~ん。他の料理も食べてみてみて~ん」

 男の姿で言われると、極めて気味の悪い台詞だが、脳内で業斗の姿を先程みた美丈夫な女性に変えてみるとギャップがあって、実に魅力的な提案に思えた。

「っ……!」

 縁はその時、ふと痛みを感じた。その痛みの発生源を見ると、鏡が縁の太股をつねっていた。

「なんだよ……なにするんだよ……!」

 痛みに呻くのと、口元に感じる味の美味さに驚く。そんな二つの有り様を共存させながら、縁は鏡に質問した。

「知らない……!」

 さっきはあんなに、とか何か色々と呟きが鏡の口から漏れている。それを聞き流しながら、縁は料理に熱中した。

 縁にとって、こんな料理は初めてだった。食事として美味い肉を食べたことがないというのもそうだったが、何よりも警戒しなくていいのが良かった。

 自分一人で食べているかのような自由を、人と食べている時に感じるのは始めての出来事だった。

「はぁ……」

 鏡の溜め息に、縁はそちらへ顔を向ける。

 さすがに不満げな様子は見過ごしていたが、何か悩みがあるのなら聞かない訳にはいかない。自分が好きだと感じているかもしれない女性なのだから。

 そんな縁の思考を読んだのか、顔をだらしなく崩す鏡。

 けれど、はっと顔を引き締めて、鏡は縁にある言葉を送る。

「これが……家族と食べるっていうことだよ」

 その言葉を聞いて、縁は子供の頃を思い出す。今は確かに仲が悪いが、昔は子供らしく親に懐いていた縁。確かに、その頃の縁はこの家族と味わう食事という至福を味わっていたような気がする。

 曖昧な言い方しか出来ない自分の記憶にある家族の団欒という言葉。その言葉に対する遠い印象に苦笑を浮かべながら、縁はその至福を味わった。

「折角だから、こっちのグラタンも食べてみてよ」

 そんな縁をしょうがないな、と言わんばかりに片側の頬だけで浮かべる笑みで見守りながら、鏡は一つの料理を勧める。

 そのグラタンを、縁は特に何も考えずに口元へと運ぶ。

 甘い。これは先程と同じ感想だが、今度は甘味という形での刺激だった。

 下はミートソース、上はホワイトソース。中にはジャガイモが敷き詰められているシンプルなポテトグラタンだ。口元に柔らかく感じるのは、じゃがいもだ。荒く潰されているためにマッシュボテトじみた柔らかさになっている部分とただ素で茹で上げ、食べやすいサイズに切られただけの部分、二カ所の味わいが楽しめた。

 下味の付け方と茹で加減が絶妙で、口元に感じる熱さは優しく胃にまで届き、冬の寒さで凍えた体を芯から温めてくれる。

 全体の味付けを決めるソースの味付けは薄味だろう。けれど、全体の味付けが薄い分、具材やソースの混ざり具合、ともすれば自分の手によって付け加えられる調味料で味の具合が変わるグラタンは実に美味しかった。

「美味しい…………」

 これはまた高級な肉を使って、その肉に合わせた料理として完成された先程のハンバーグに勝るとも劣らない料理だった。味付けも、素材も、どこにも値段が高いものがない。だから、パーティーの主役を張ることはできない料理だろう。

 だがしかし、この寒い時期に暖かなグラタン。それも下味がしっかりとしていて、優しい味で全体を整えてくれるソースが付けられている計算しつくされたグラタンは、実に有り難かった。

 業斗が作ったのがパーティーの主役を張るに相応しい料理だとするなら、冬という時期故に暖まるものをと考えられたこのグラタンは実に家庭的で優しい味わいの一品だった。

 作った人が持つ心の暖かさ、気遣い。そういったものが感じ取れる料理だった、と縁は舌鼓を打つ。そんな縁を見て、鏡は何故か先程までの険悪な雰囲気が嘘のように穏やかな表情を浮かべていた。

 縁はハンバーグへと箸先を移し、ご飯と一緒にかっ込む。もぐもぐと口の中で噛んでいると、肉汁とデミグラスソースを中心とした汁の甘辛い味わいに喉が渇いてくる。

「はい、これ……」

 そんな縁の心の声を読み取って、水を差しだしてくる鏡。

「ああ、ありがとう」

「ふふっ……」

 礼を言う縁。そんな縁を見て、満足そうに下がる鏡。そんな二人の姿を見て、業斗は笑みを零した。

 その笑みがどういう意味なのかわからずに、縁と鏡は業斗を見つめる。

「ああ、いや……能力のおかげだというのはわかっているのだけど、今のアナタたち……本当に、長年連れ添った夫婦みたいだな~、と思ってね~ん」

 その言葉を聞いて、縁と鏡は互いに赤面しあう。その言葉が、確かに先程の行動を言い表すのに相応しい言葉だと気付いたからだ。

「ふふ、ここまで仲が深まっているのならアタシも……少しは協力しようかしら~ん」

 業斗のどこか悪戯っ気を感じさせる言葉に、縁はともかく、鏡が反応していた。

 びくり、と体を動かし、視線を彷徨わせる。

 その視線の方向にはグラタンとハンバーグがあった。

 何かあるのかと思って、縁はそっとグラタンをよそって食べる。特に味わいにおかしな所はなく、美味しい。けれど、ハンバーグもグラタンも食卓の主役を張れる料理品だ。

 一緒に食べるには、やや重たかった。

 パーティーだからいいと思っていたが、手元にご飯がある以上、ご飯を中心とした献立ならば良かったと縁は思う。グラタンはミートソースとホワイトソースが主体のポテトグラタンだ。これにカリカリに焼いたパンがあればどれだけいいことだろう。

「あ……」

 そこまで縁が考えた所で、呟きが漏れる。

 それはまたもや鏡の呟きだった。鏡は縁の視線が来る前に動き出し、キッチンへと向かう。そして、数分後、カリッカリッに焼き上げたフランスパンのトーストが出てきた。

「ぼくも好き、なんだ……ご飯も好きだけど、やっぱりこういう暖かさが欲しい料理にはこれだよね」

 保温性に優れた西洋の料理には、それに合う食べ物がある。それがパンだ。状況と料理によってパンとご飯は共存できる。

「ふふっ……ああ、パンと暖かいグラタン。本当、美味しい料理だけど……最初はアタシのハンバーグに合わせた献立を作る予定だったのよ?」

 業斗は語る。

「けれど、この子……折角の歓迎会なんだからって言って張り切っちゃって……!」

 まぁまぁと男性の姿のまま、井戸端会議をする奥様のように手を上下に振る業斗。

「自分がメインを張るような料理を作ろうとしたのよね……それがなんだか嬉しくって、アタシも張り切っちゃって……今考えると大人げなかったわねぇ~ん」

 縁はこの食卓に感じていた微妙な違和感の正体に気付く。

 メインと言えるような料理が、二つもあるのだ。

「料理……得意なんだな……」

 縁は思わず、鏡に向かってそう呟き、鏡は心底恥ずかしそうに俯いた。

 そう思って、また料理を食べてみる。

「確かに……」

 どちらも味が濃く、美味しく、メインを張れる料理だ。

「パーティーってことを考えると、やっぱり業斗さんの料理が凄い……」

「けど、って付け足しそうな口ぶりだね」

 そうじゃなきゃ許さないと言わんばかりの視線を業斗から受ける縁。もし、ここで慌てて嘘を考えていたのなら、その焦りから取り繕った発言だとバレていただろう。

 けれど、縁は最初から言いたいことがあった。

「まぁ、けど……それでも、毎日食べるんだったら……こっちの方がいいって思える家庭的な味があるよ……」

 あなたの料理には、と続けようと思った。けれど、急に照れくさくなって縁は言葉を口に出せなかった。

 その熱さが移ったのか、鏡もまた俯いてしまう。

「ふふん、まぁ……アタシはアタシで、家庭的な料理っていうのを見せてないから……負けてないけどね~ん!」

 女性としてのプライドなのか、実の娘と張り合う業斗の姿が苦笑を誘った。

 そんな軽口が、場の空気を軽いものへと変える。

 縁はその空気の中で、真っ先にグラタンを食べる。グラタンを一番食べるのは、俺だ。俺であるべきだという意地があった。

「全く…………これで人のことを好きって気持ちに自信がないなんて言うんだから……」

 鏡の言葉は誰に聞かせるためのものだっただろうか。

「独占欲、とか愛することの醜さを受け入れられない所が……子供なんだろうな……」

 自分でもわかっていた。けれど、それでも、縁は愛するということがもっと清いものだと思っていたのだ。

 自分の中にある更なる醜さを受け入れるには、まだ時間が必要だった。

「ふふ……ばーか」

 少し嬉しそうで恥ずかしげな鏡の言葉が、宴を締めくくる最後の記憶だった。

 

 その後、縁は家に戻る。その時、既にもう両親は眠っていた。

 寒々しいと感じる家の雰囲気に先程との違いを感じながら、縁は家の中を歩き、ベッドへと身を投じる。ただひたすらにこの寒さが身に染みて、縁は布団の中に入る。

 けれど、その中で縁は自らが寒さを感じていたのが物理的なものではなく、精神的なものであったことを知る。

 今まではこんなに寒いと感じることなどなかった。けれど、暖かみというものを知ってしまった今となっては、それはとても厳しい寒さだった。

 ふと、縁は身じろぎをして、スマホを取り出す。スマホを起動してすぐに、様々な通知が縁の眼に飛び込んだ。学校の中で広がるスマホを使ったゲーム。そうしたゲームには、友人を誘えばボーナスが付くという文言が付くことが多く、縁はそれに付き合うことを厭わなかった。

 だから、そうしたものを目的とした自称友人に付き合うことが多く、そうしたゲームの通知は山のように縁のスマホにやってくるのである。暇な時間を使って、縁はそのスマホのゲームの通知を消していた。

 元々、縁がそうした付き合いを厭わないのは、こうした消去という作業にストレス解消の意味を込めていることが大きい。縁は基本的に、掃除はまとめてやった方が楽しいというタイプだった。

 事実、縁の部屋の中には本来ならすぐに捨てられるべき物、ペットボトルの空き容器などが散乱している。

 それらの掃除を一気にやった時、縁は言いようのしれない爽快感と気持ちよさを感じてしまう。だが、今は夜中だ。こんな時間にストレスを感じているとはいえ、掃除をする訳にはいかない。

 そういう訳で、縁は自らのストレスを発散させるためにスマホの中の整理をし始めたのである。それが普段は、どのような通知が来ても気にしない縁が、あるメッセージに気付く契機だった。スマホに届いたメッセージ。ほとんどはいつも通りにスマホのアプリの通知がほとんどだったが、その中に見慣れた名前が一つあった。

 響子からのメッセージ。そこには新しい友人である鏡を歓迎したいという意志と、これから訪れる休日に三人で遊びに出かけないかという誘いがあった。

 縁は、心の中に再び火が点るようにじんわりとした暖かさが溢れるのを感じる。

 人の温もり、それは決して顔と顔を合わせれば伝わるというものではないらしいと縁は実感していた。言葉や文字、そういったものでも充分に伝わることが出来るのだと、縁は理解した。

 縁は了承のメールを送り、眠りについた。

 不思議と、ストレスも心の中で感じる肌寒さも今の縁にはなかった。ただ、明日への楽しみを胸に、縁は眠りに落ちることが出来た。

 日は昇り、暖かな一日がやってくる。

 その日、縁はいつもの登校に使う通学路を歩き、響子の姿を認めてそちらに向かう。

 縁の格好はいつもの制服ではなく、私服だった。今日は念願の休みだった。

 晴れの土曜日。普通なら楽しみなはずの日である今日は、縁にとっては一日中家族と共にいなければならないか、外で無為に時間を過ごすしかない苦痛な日だった。

 けれど、今日は予定がある。それが何よりも縁には嬉しくあった。

「昨日のメール、見たぞ」

「ふぅん、珍しいな。お前が携帯を見るなんて……いつもの趣味でもやっていたのか?」

「まぁ、な」

 にやにやと笑いながら、こちらに話しかけている響子。その顔には、今日という日にちに対する期待が満ちあふれていた。

 お互いに秘密を共有しあう者同士であり、同じように後遺症と呼べる精神的な障害を持つ者同士という不思議な関係。それが縁と響子の関係である。けれど、お互いにそれ以上の関係になるには、二の足を踏んでいた。

 それ以外の表面的な部分に触れる前に、深い部分に触れてしまった。思えばそれは不幸な出来事であり、幸運な出来事でもあったのだろう。

 恋人のような関係を作るには、あまりにも深い部分を知りすぎてしまったという不幸。友人としてお互いの性質を知り、そして、友人としての付き合いを続けるために必要な部分だけは十二分以上に知っているという幸運。

 鏡との関係について考えた時、縁は響子との関係についても思いを馳せていた。

 なぜなら、それは最も恋人になる可能性があった異性との関係を考えるのに相応しいテストケースだと思ったからだ。

 お互いの出会いが特殊であったとはいえ、ロマンスが芽生えてもおかしくはないのに、そうはならなかった理由。それを考えるのは、縁にとって最も身近な人との付き合いを考えるということであった。さて、今日はしっかりと……遊ぶとしようか! あの子は呼んでくれたのかい?」

 響子は縁を誘い、そして、ある人物を呼び出そうとしていた。

「ああ、もちろん」

 その言葉と共に、縁は響子の後ろを指差す。

「今日はお誘い頂いて光栄だ。精一杯楽しませてもらうつもりだから、よろしくお願いするよ?」

 そこには、精一杯のおしゃれをした鏡の姿があった。

 背は低いが、女性としての部分は確実に育っている自分を意識した体のラインに沿う鮮やかな赤が美しいハイネックのセーター。そのセーターを下地に、上はコントラストが美しい白いコートを着ている。下に履いているのは下地となっているハイネックのセーターに合わせた黒と赤を主体にしたスカート。そのスカートのベルト代わりに巻かれている金色のリボンが美しく、全体の印象を引き締めている。

 足下はニーソックス、というのだろうか。灰色の暖かそうな毛糸のソックスがはかれ、その野暮ったい印象を引き締めるために黒いブーツが履かれている。

「凄い気合いの入った格好だなー……」

 そう呟く響子の格好もまた、鏡に負けずとも劣らない気合いが入った代物だと縁は気付く。響子のスタイルの良く細い体を包むのは、モノトーンの色合いでチェック模様のシャツだ。薄手のそれは体にぴったりとくっつき、腰のくびれをコートの中でも主張する。

 そのくびれが生み出す黒いコートの躍動感は、女性の美と格好良さを同時に生み出す。 コートの下は美脚を惜しげもなく晒す紅色のホットパンツとその赤に合わせた黒いパンストとハイヒール。パンストの黒い色と同色のハイヒールは一体化し、パンストだけ履いて外に出ているようで、どこか背徳的な色気を感じさせる。

 どちらも縁の好みだった。黒と赤、その色合いは縁にとって最もえげつない想像を喚起させるが、それでも縁にとって最も美しい色合いだった。

「さて、今日はどこに出かけるんだい?」

「…………っておい!」

 その言葉は、この組み合わせを作り出す誘いを行った本人の口から漏れ出した言葉だったことを、縁は最初信じられなかった。

「まさか、男のお前が誘われたのに、プランを考えていないということはないよね?」

「誘った本人がプランを考えていないとか……そんなこと、あるわけないよな?」

 違う口で、同じような言葉を発する響子と縁。

 それは二人ともがお互いを当てにして、今日一日のプランを考えていなかったことがわかった瞬間だった。その瞬間、お互いがあっという顔をした後、一気に焦りを表面化させた表情を浮かべる。

「おい、どーすんだよ……!」

「いや、ちょっと待て……少しくらいは、あんたも考えてきたんだろ?」

「ばっか、お前…………少しも考えているわけねーだろ!」

「なんでそこで開き直るんだよ! いくら何でもおかしいだろうが!」

 ここまでの会話、当人たちの中では数秒で話したと思うくらいに焦りで早口になった状態で話された。

 けれど、解決案は意外な所で提示される。

「プランが無いのなら、ぼくのプランに付き合ってもらえないかな?」

 それは鏡の発言だった。元々、プランというものを考えなければならなかったのは本日の主賓である鏡を誘った縁と響子の二人である。そんな二人の不備をなじることもなく、暖かく自らの代案を提案してくれた鏡の優しさに甘えるのは正直、心苦しかった。

 だがしかし、プランを立てていなかったのは事実だ。ならば、仕方ないだろう。

「ああ、今日は……あなたの歓迎会なんだ。だから、まぁ……好きな所に連れていくよ」

「もちろん、お前の奢り……だろ?」

「だーかーらー、あんたは図々しいんだ……! プランを提示しなきゃいけなかった企画の担当者が、早々にその役目を放棄して、後は任せる……なんて姿勢になってるんじゃない!」

 思わずツッコミながら、縁は考え続けていた。自らが為さなければならないことを。

 そして、三人が向かったのは、遊園地だった。

「遊園地って、いったいどうして……?」

 縁の言葉に恥ずかしそうな顔をする鏡。

「いいでしょ……こういうキャラクターがいる遊園地って、好きなのよ……」

 それは随分と女性らしい趣味だと思いながら、縁は響子の方を見やる。すると響子は場所に似合わないファッションをしてしまったかと後悔しているかのように、居心地悪そうに髪をいじっていた。

「ったく……」

 目の前に好きだ、と感じる女性がいるというのに別の女性を気にするということは、自分は浮気性な人間なのだろうかと少し悩みながらも、縁は響子の元へと向かう。

「服装なんて気にするなよ。あんたはあんた……俺たちの友人、間宮響子なんだ。そんな友人が畏まって、一緒に遊ぶのを楽しめないなんて損だろう、そんなのは……」

 だから、笑え。だから、楽しめ。そんな身勝手な言葉を押しつけているような感じがして、縁は話の途中で口をつぐむ。

 けれど、そんな縁の不器用な言葉は、響子の心に何か作用を及ぼしたらしい。

 ふふっと笑い、響子は縁に視線を合わせる。

「まぁ、確かにな……折角、遊園地に着たのに、場違いな自分の風貌を恥じていてもしょうがない……」

 縁は、自分の考えが浅かったことを知る。響子は服装に不満があるのではなく、自分が不良のように見える茶髪と服装をしていることによって周りの空気を壊しているのだという被害妄想を感じていたらしい。

 ならば、と縁はその腕を握り、引っ張る。

「うあ……!」

 そして、そのまま歩き、鏡に対しても同じように腕を掴んで引っ張ろうとした。

 けれど、その手を避け、鏡は縁と腕を組む。

「な……」

「格好良かったよ……縁……」

 からかうように笑い、そして、実際にからかうために腕を組む鏡。その姿に、縁は心臓の鼓動が早くなるのを感じながらも、歩く速度を緩めずに進んだ。

「こういう場所で服装がだなんて、考える必要ないさ。思いっきり、楽しむ姿を見せればそれで充分。そうすりゃ、十二分にこの場所になじめる。さっさと遊んで、さっさと楽しむぞ。そして、その姿を恥じることなく思いっきり見せりゃ、もうそれで……充分だよ」

 照れくさいという感情が、縁の語彙を急激に狭くしていた。

「ははっ、なんだい……その何とかの一つ覚えみたいな充分って言葉の使い方……!」

 肩をすくめて、縁の言葉を揶揄する響子。その顔には先程とは違い、周囲の状況を楽しむ余裕があった。

「さあ、って……」

 どっこいしょ、と言葉が続きそうな響子の言葉。そして、その響子の言葉と共に、縁の手から響子の腕が逃げ、そして、再び絡め取られる。

「これで、両手に花……だ。まったく……憎いねぇ、この男は」

 実際、先程まで縁に向けられていた視線は無理矢理響子を連れていたからか、訝しげな視線が大半だった。それが今ではどこか羨ましさと妬ましさが混ざったような視線が増えている。

 縁のような普通の顔立ちをした特に格好良くもない人間が、このような美女二人に囲まれているのだ。明らかに釣り合いが取れていない。そのことに気付いて、再び羨ましいという嫉妬の視線が何らかの犯罪が関わっているのではないかという猜疑の視線へと変わる前に、縁たちはこの場所に馴染む必要があった。

 けれど、そんな縁の考えはある種の違和感によって否定されることになる。

 縁が、じっとこちらを見ている視線に気付いたからだ。その視線は、縁の体全てを舐め尽くすかのようにじぃっと見つめていた。ぞわり、とする。視線など、本来人間が感じ取れるものではない。何となく、そんな気がする程度のものだ。

 けれど、その視線をはっきりと感じることが出来たのは、その視線に、どうしようもない違和感があったからだ。

 普通の視線ではない。明らかに、何かが違った。

 縁はそちらへと視線を向ける。

 そこには昨日、ファーストフードの店で出会った白衣の男がいた。

 その男は明らかに、こちらを見ている。その粘つくような嫌な視線。そして、奇妙な感覚は忘れがたいものだった。

「なぁ……おい……!」

 縁は男へと話しかける。だが、彼はその声を聞き届けてから、何かに納得したかのように頷いてすぐに踵を返して、歩みを進める。

「縁?」

 異口同音に響く鏡と響子の声。その声を聞きながら、縁は男の動きを眼で追っていた。

 男はまるで当たり前のように、人の中を歩き続ける。周りの人は遊園地という場所ではあまりにも浮いた存在である男を認識すらせずに避けている。

 その動きを今、追わなければ逃げられる。それが、縁にはわかった。

 どうしようもなく、縁の前には他の客が列を成して各々の目的地へと向かっている。

 それを考えれば、縁は男を眼で追うことこそが、一番男を追うのに相応しい行為だと気付いてしまっていた。男はそんな縁の視線が持つ意味を理解しているかのように、何度かこちらを振り返り、縁と目が合ってから歩みを進めていた。

 誘われている、と縁はそう思うしかなかった。男は明らかに、縁が自らを追ってくることを期待して動いている。

 縁としてはその動きに対して、どう行動するか考えるべきだが、縁の反応は決まっていた。思考ではなく、男としての反応。挑まれた勝負から逃げる訳にはいかない。

 そんな意地が、縁の行動を縛る。けれど、相手を追うほど縁は馬鹿にもなれなかった。

「響子、悪いが……少し遠くで時間を潰しておいてくれないか?」

 まずは一般人の避難。本当なら、縁は周囲にいる人々の生命が守られるように行動しなければならない。だがしかし、あの男は不気味で、明らかに非現実的な現象を起こしているものの、異常保菌者である確証がない。

 その確証がない以上、縁に出来ることは公的な身分で動かずとも、動かすことが出来る友人の安全を確保することだけだった。

「昔の友人がいて……ね。軽く挨拶をしてくる」

 縁のその言葉に、響子は露骨に怪訝な表情を浮かべる。

 元々、友人の多くなかった縁がこのような言い訳を口に出した所で、信頼性がないのだろう。そう、簡単に響子の脳内にある疑問を推定できた。けれど、縁としてはこう言うしかなかった。

 その理由は、次の言葉に集約されている。

「古い知り合いだし……今いる人たちとは関係が薄いからさ……少しだけ、俺を一人にさせてもらえないか?」

 縁は一人であの男を追うつもりだった。けれど、それが無茶な行為だということは理解していた。だからこそ、縁はやるべきことを考え、そして、鏡の方向を見る。

「それに、こんなファンシーな場所だからな。女の子同士で行った方が良い場所もあるだろう?」

 その言葉を聞いて、鏡はこくりと頷く。けれど、縁は脳内で鏡に問いかけていた。

──昨日見た妙な男を見た。相手がどんな考えを持っているかわからない以上、それを放置するのは危険だ。せめて、調査には行きたい。許可してもらえるか?

 先程の頷き。それは、縁が鏡に対して求めた許可への返答だった。

「話が長引いて時間がかかりそうとなったら、きちんと連絡してもらえる?」

 鏡の言葉には、いざとなったらこうしろという対策が込められていた。

「電話を掛ける先はどっちに?」

「ぼく、でいいけど……相手の人が響子ちゃんを知っているのなら、響子ちゃんにかけてあげた方がいいんじゃない。旧友ってことは、もしかしたらきみが知らないだけで関係があるかもしれないだろう?」

「ああ、まぁ……確かに……」

 縁は最初、響子の方に掛けろ、という言葉の意味を理解することが出来なかった。

 けれど、よくよく考えてみて、縁は理解する。異常保菌者対策室の人間で、縁が知っているのは鏡と業斗の二人だけだ。いざという時は鏡に電話をするのではなく、業斗に電話を掛けるべきだと鏡は言ってくれているのだ。

「ったく……なんでこういう時には、簡単に意気投合するんだ。お前たちは……」

 仲間はずれにされたようでふて腐れ、ぼやきを漏らす響子。

「まぁ、いいさ……縁、お前は好きにしろよ。こっちはこっちでガールズトークと行こうか、鏡さん」

 その言葉に鏡は苦笑を浮かべる。

「ガールズトークという割には、随分と男前な人間が混ざっているみたいだがな」

 縁の軽口に、響子は更にふて腐れる。けれど、それでいい。縁はそう思ってしまった。自分から離れてくれるのならば、何も問題はない、と。

「ふん……」

 響子は何も言わず、鏡と響子の傍から離れた。彼女の姿が見えなくなって、ほっと安堵の息を吐き出す縁。

 けれど、そんな縁に、鏡は厳しい視線を向けていた。

「なんだよ……」

 そんな厳しい視線を向けられる覚えが無くて、縁は苛立つ。

「きみのそういう所は……一番いけない所だと、ぼくは思うよ」

 その言葉に、縁はどういうことだと訝しむ。

「目的を達成するために容赦がない、というか…………何かに集中すると、一方面でしか物事を見られない所だよ」

「なんだよ、それ……」

「きみ、気付いていないのかい? 普段なら、人のことを考えて行動する癖に……物事に集中すると簡単に人のことを放っておいて、物事を進めようとする。さっきの響子に対する発言も、いつものきみらしくないよ」

 その言葉に、縁は苦笑を浮かべるしかなかった。

「それが俺の本性、なんだろ……」

 縁はそんな自分がいるということを、既に知っていた。それが欠点なのだ、ということもわかっていた。その手段を選ばない有り様こそが、縁を他者から忌避させているものだとも気付いていた。

「違う……きみは……ぼくを助けてくれた! ぼくを救ってくれたんだ……!」

 鏡は言葉を募らせる。

「きみは……常に自分の中にある凶暴な自分に対して、嫌悪感を抱いている……それは何故だ?」

「そんなの……当たり前だろ。こんな自分がいることはしょうがないことでも、その欲望に負けたらどうなるか、それがわかっているからじゃないか……!」

 自分が社会という世界の中で、ただの一個人でしかないことを知っている。

 それは想像しがたいほどの孤独と恐怖を、縁のような異常者に与える。

「きみは自分を異常者だと思っている。確かに、一面で見ればそれはそうなのかもしれない。けれど……」

「けれど?」

 またいつか話したような内容の言葉に、縁は結論もまた同じ内容になると思っていた。

 だけど、その思いは裏切られる。

「きみのそれを……人が誰しも持つ個性として見ることは出来ないのか?」

「え?」

 それは、縁の異常を受け入れる言葉だった。

「人は誰しも、人には言えないような欲望を持つ。それを……ぼくは知っている。それに嘘がないことは、きみなら……わかるよね?」

 その言葉に、縁は鏡の能力を思い出す。

 人の心を読む鏡ならば、人の心にある欲求を読み取ることなど実に容易いことだろう。

「他の人だって、きみと同じだ。常識にはない嗜好を持っていて、その嗜好に苦しんでいる人なんて……たくさんいる……」

 縁は、その言葉に首を振る。

「そんなのは……慰めにもならない」

 鏡があえて語っていないことがあるということを、縁は気付いていた。

「ははっ、バレた?」

「殺人や死体を見たいという衝動……そんな衝動を持っている人間は希有だろう」

 それも、縁のような生粋の変質者は少ないはずだ。そこまで、この世界は酷いものではないだろう。そんな甘い考えを抱きながら、縁はとあることを考えていた。

「けれど……種類は多種多様でも、そうした人に言えない衝動を持っている人間は……本当にたくさんいるんだろうな」

「そう、だね……そうだよ……そう、なんだよ」

 見続けてきた様々な人の欲望。それを思い出すことが鏡の意識をすり減らしているのだろうか。やけに疲れた表情で、鏡が何度も呟く。

「…………はぁ」

 縁もその呟きに感化されてしまったのか、重い溜め息が漏れた。

「無理……しなくても、いいんだぜ……」

「無理なんてしてないよ。ただ、少し嫌なことを思い出しただけさ……けど、きみと同じで……反社会的な欲求を持っている人間は幾らでもいる」

 鏡は、語る。

「そんな人々は皆、自分の本質を知った上で、それでも社会に適応して生活していた。それは……きみも同じだ」

 その言葉には、人の心という本来なら見通すことが出来ないものを直視してきたからこその重みがあった。

「きみのその衝動もまた、そうした個性……自分自身が持つ他の出来事に対する感じ方の一つとして受け入れ……社会生活を送ればいい。そうじゃないのか?」

 それが縁のような変質者の最も正しいあり方だというのは、理解できた。

 人に言えない秘密。ご大層な言葉だが、その内実はたいしたものではないことがほとんどだろう。けれど、当人にとっては重大な問題であることも多々あるのが、そのお題目の難しい所である。

「そんなものは……わかっている。けど……」

 御多分に漏れず、縁もまたそうした他者からの一言では、簡単に自分のあり方や感性を変えることなど出来ない問題を抱えていた。

「それでも……そんな考え方を知ってなお、きみが自分を許せないというのなら……」

 これが話の核心なのだろう。一つ、息を吸い込んで、鏡は話を続ける。

「それはきみ自身が、きみ自身の邪悪を許さない……正義の心を持っているからだ」

 縁はその言葉に、身震いを起こす。それがどういう感情によって生まれたものなのかはわからなかった。けれど、心の震えに、体が反応したことだけはわかった。

「正義……?」

 縁は眉をひそめる。そんな言葉を、自分の性根に対して使われるとは思わなかった。

「そう……正義だ。きみは自分の中にある邪悪を許していない。自分の中にある悪を断罪し続けている…………だから心を痛めて、苦しんでいるんだ!」

 鏡は力強く、宣言する。

「それこそが最もきみの中にある希有な部分だよ、縁……」

 小さく甘く、そして優しく、先程の宣言とは違って囁くように漏らされた言葉が縁の耳朶を打つ。

「なにを?」

 その言葉に、縁は意外性を感じた。

「他の人はさっき言った理論で、自分の中にある悪性を正当化して生きている……けれども、きみはそれを許さない。だから、そんな自分を誤魔化す大人ばかりを見ていたぼくとしてはきみが……誰よりも好ましく映る」

 縁はその能力によって生まれた鏡のひねくれた感性に違和感を覚える。

 人を好きになる、という行為。その行為がどれだけ尊いものなのか、縁は知っている。けれど、それが能力によって生まれたものならば、そこにはどこか歪みが発生するはずだろう。そんな考えが縁の中に思い浮かぶ。

「それでいいんじゃないのかい? だって…………きみは知らなくて当然だろうけど、ぼくたち逸人は……逸人同士で、結婚することが多いよ? 能力だって、個性の一つだと認められる者同士が……惹かれ合うから」

 自らの考え、その根本にある逸人と変質者を同じものだと語る暴論を披露して、鏡はとある方向を見る。その方向には先程歩み去った響子がいるはずだった。鏡の視線の意味に気付いて、縁は頭をかく。

「フォローは任せる……」

 随分と長く話し続けてしまっていた。響子は、鏡を待ち続けているだろう。そして、鏡は自らが伝えたいことだけは、はっきりと伝えてきた。

 そして、答えを求めずに、ただ縁へ行動を促したのだ。

 それは能力による相手の反応を先読みした行動ではなく、ただの信頼から端を発する行動なのだと縁は信じた。そして、先程のような自らの心根から漏れ出す感情をそのまま言葉へと変えていく。

「ん……全く、素直じゃないんだから……そういう優しさと……そして、ぼくに対する感情はもっと出していいと思うよ……縁?」

 縁から、この言葉を引き出したかったのだろう。何かご機嫌な様子で、足取りも軽く、鏡は響子を追っていく。

「してやられた……のか?」

 先日の告白。その答えを催促するかのような言葉で話を締める鏡の強かな女っぷりに苦笑を浮かべながら、縁は思考を切り替える。

 何はともあれ、こちらを誘うように何度も見ながら去っていったあの男。その問題を解決しなければ、これから訪れる未来に用意すべき答えを考えることも出来はしない。

 縁は昨日の業斗との話し合いで、その正体を推測していた。

「逸人……それも……こちらに対して何らかの害意を持っている人間……なのか?」

「その推測は、当たらずとも遠からず……と言った所、だね」

「なっ!?」

 その声は、耳元で聞こえてきた。

「いやはや、まるで二~三年前くらいのトレンディドラマを見ている気分になったよ……実に……三文芝居という言葉が相応しい!」

 縁は後ろを振り返る。けれど、そこに声の持ち主はいなかった。

「なに!?」

 それまで、確かにその声は縁の背後から聞こえていた。

 ぱちぱち、という柏手の音。その音が何度も場所を変え、縁の感覚を幻惑する。

 アニメや漫画で良くある手法だが、実際にやられるとこれほどまでに神経を逆撫でする行為もないだろう。

 音がどこから来るか、わからない。明らかに害意のある人物がたてる音が、どこから来るのかわからない。それはまるで、森の中、群れで狩りをする狼か何かに囲まれているような、本能が警鐘を鳴らす危機感を演出する。

 けれど、縁はそんな現象が起こりそうな能力を知っている。

「やはり……逸人だったのか……あんたは……」

 視界の端にちらつくように見せられる白衣の裾。それが相手の存在を誇示するためのものだと気付いていながらも、縁はそれの大本を見ようと視線を彷徨わせてしまう。

「そうだね」

「そうでは、ないね」

 音は二重に聞こえた。

「…………っ!」

 首を左右に振り、聞こえた音の発生源を目で追う。けれど、男を視界に捕らえることは出来なかった。

 だから、縁は機会を待つ。

 縁は周囲から聞こえてくる声に、一定の周期があることに気付いていた。けれど、その声が聞こえてくる距離に違いがあり、縁はチャンスを掴むことが出来ないでいた。

「いい加減、姿を見せろ……こっちはあんたがどんな人間かもわからないんだ……顔が見えなくちゃ、話も出来ない!」

 縁はその言葉を反撃のための契機として利用しようと考えていた。

「では……誘いに乗るとしようか」

 男は笑いながら、縁の言葉の意図を読み取っているとばかりに意地の悪い発言をして、こちらに近づいてくる。

「はは、ははは、はははははは!」

 その笑い声は先程と同じく途切れ途切れながらも、今までとは違って一定の間隔ごとに聞こえていた。それこそがまさに誘いなのだと気付いていても、縁は状況を変えるためにその誘いに乗るしかなかった。

「ぜぇあ!」

 自分の全力でもって力を解放し、力が届く距離を優先して、縁はその力を振るう。

 その力は一気に広がり、周囲の木々を揺らす。

「木?」

 縁は疑問に思い、周囲を見渡す。すると、周囲の風景は一変し、遊園地の端にある森林部分に縁たちの居場所が移っていることに気付く。

 先程までの違和感、それが一体どうして生まれたものなのか。今までとは違う状況にその出来事を理解するための切っ掛けがないか。そう、縁が思考を巡らせた瞬間を狙われたのだろうか。

 縁の背中に、耐え難い冷たさが生まれた。ぞわり、という背筋が粟立つ感触と共にその冷たさが一気に熱さへと代わり、そして、痛みが発生し始める。

「が、うっ……」

 縁は咄嗟に自らの背中に手を回し、その痛みの場所を探ってしまった。

「いっ、つぅ!?」

 縁の体に突き刺さっているのはナイフ、だろうか。

 そのナイフの柄を縁は触ってしまった。自らの身体に切っ先が入り込んだそのナイフを動かしてしまったことで、出血が酷くなり、夥しい血が流れる。

「あーあ、君は今、自分で傷口を広げてしまったね?」

 それを本当に楽しい光景だと嘲笑いながら、男はようやく姿を見せる。

 その姿はやはり、あのファーストフード店で出会った男と同じであった。

「それは本当に取り返しの付かない愚行だよ?」

 縁はその男を見て、どうしようもない違和感が更に強くなるのを感じていた。

「傷口を処置してくれる他人がいない状況で、自分の手が届きにくい所に傷を負う……その絶望が……君に理解出来るかな?」

 それと同時に、頭痛が酷くなる。

「なんだ……」

 縁はそれと同時に失神でもしたかのように、意識が数秒飛ぶのを感じてしまった。

 けれど、その間に目の前の男は動かずにいた。

 それが何故なのか、縁には理解出来なかった。気絶していた縁は絶好の的だったはずなのに、目の前の男はこちらに情けをかける理由などないはずだ。

 けれど、それ以上に強く感じたのは、この失神にも似た感覚に極めて強い既視感を抱いたことだ。

「ははっ、僕はどうやら……更に化け物へと進化し始めているらしいね」

 笑いながら、逸人である男は語る。

「改めて……自己紹介といこうか。僕の名前は、()()(たつ)()。君のような人間には、実に縁が無さそうな研究員として働いていた」

 龍也は己を誇示するかのように、両腕を広げて、自分が所有するスペースを大きく見せる。それは演説を補佐するジェスチャーであり、それが簡単に出てくるということは、よほど演説というものに慣れているということだろう。

 縁は龍也が少なくとも、弁舌を主とする職業に就いていたと判断する。

「そんな、お偉い研究員様が……どうして俺みたいなただの学生に構うんだ?」

 縁は笑いながら、龍也に問いかける。

 不思議と、先程まで感じていた体の痛みは、あの不可思議な感覚と共に訪れた失神によるものか、どこかへと消えていた。

 それを縁は想定外の好機と考えた。目の前の龍也は自分が有利な状態になるまで自らの姿を見せようとしなかった。それは真っ当な対決でなら、負ける危険性が高いと彼自身が計算していたからに他ならない。

 つまり、彼にとって計算外の要素である縁の良好な体調。それがどこまで続くかわからないが、それに賭けるべき状況だと縁は判断した。

 だからこそ、会話を続け、龍也が安心して距離を詰めてくるのを待つ。

「君が僕の愛しい鏡に近づいたからだ」

「鏡に近づいた?」

 その言葉に、縁は強い反応を示さざるを得なかった。

「ああ、愛しい鏡。僕の……僕の……僕の!」

 何かに執着しているような様子が見えたと縁はこの男を見た時、そう思った。その対象が鏡であり、その執着が危険なものであると感じる以上、この男を放っておくわけにはいかない。

 それが愛する女に対する男の意地だった。

「鏡のストーカーだったとは……随分、年の差があるように見えるが……釣り合いっていうものを考えてはいるのかい?」

「ははっ……!」

 縁の言葉を一笑に付すと言わんばかりに笑う龍也。

「そんなどこにでもあるような、十把一絡げな関係な訳がないじゃないか……!」

 目には狂乱の光、とでも言えばいいのか。ぎらぎらとした光を宿しながら、龍也は言葉を募らせる。

「彼女は僕にとって、生きる意味を生み出してくれた天使なんだ……」

「天使ぃ!?」

 気味が悪い言葉に舌を丸めて、怖気が走る体を抱きしめながら、縁は龍也をおどけて嘲笑ってみせる。

「天使を汚すな、天使を象るな……あはは、君がそれをやっている。だから、僕が……君を殺したいと思うのは当たり前だろう?」

「ストーカーの妄想、ここに極まれり……って話だな」

 縁はここまで具体的な鏡と龍也の関係性に対する発言を聞いてはいなかった。

 だからこそ、そこを突く。

「さっきから話を聞いてれば、鏡のことを天使だの何だの囃し立てているが……具体的にあんたとは一体どういう関係なんだ?」

「妄想か何かを膨らませた異常者の類ではないか……君はそう疑っているんだろう?」

 縁の発言を聞いて、龍也はそれこそ待っていたとばかりに嬉々とした表情を浮かべる。

「僕は……鏡の養父だ……」

 その言葉を聞いて、縁は静かに息を呑む。

「彼女は業斗に養われているはずだ……」

「僕が逸人からなりかけになった後、家にいないと思ったら……業斗に預けられていたんだね」

 縁は無意識に考えを深め、そして、龍也の言葉を否定する事実を呟く。

 それがうかつなことだったというのは、次に聞こえてきた龍也の言葉でわかった。

「業斗……業斗か……あの、頼りない若造が……人を養おうとするなんて、随分とおごり高ぶったものだなぁ……」

 縁は龍也の言葉に気分を害する。

「あの人は立派な大人だ。大人として、子供を気遣い……守れる……親としての責任を果たせる立派な人間だ……」

「だけど、彼女は……鏡を危険に晒しているのだろう?」

 その言葉は、縁の心の柔らかい部分に突き刺さった。

 そうだ、確かにその通りなのだ。業斗は鏡に対して強い責任感を植え付け、仕事に従事させてきた。それは紛れもなく、優秀な能力を持つとはいえ、子供に対してするべき行為ではないだろう。

「それは……」

「逸人としての能力があるから……子供として甘えさせられない……」

 にやにやと笑いながら、龍也は業斗をなじる。

「それは大人の都合を子供に押しつける……最低の悪行ではないか?」

「そ、れは……」

 そうだ、としか言えなかった。そこだけを見れば、どれだけ愛情があり、気遣いがあるといえど、業斗は鏡に対して酷なことをしている。

「でも……あんたが、鏡の養父だと言うのなら……」

 縁は、ある事実を指摘するべきだと感じていた。

「今の今まで、あんたは何をやってきた! 自分の代わりに鏡の面倒を見てくれた人を否定する前に、それだけのことを……あんたはやってきたのか!?」

 縁は業斗のことを知っている。そして、業斗のことを慕う鏡の笑顔と一人になった瞬間の寂しそうな表情も知っている。だから、龍也の言葉に一抹の真理があることは否定できない。けれど、縁はそれを指摘する龍也のことは知らない。龍也がその言葉を吐くに相応しい人物なのか、それを知らないのだ。

 だからこそ縁はそこを突く。人を笑うことが出来るほど、相手は高尚な存在なのかと。

 縁のような異常者だからこそ、その問いは真に迫ったものとなる。

「あんたは……鏡が誰かに、傍にいてほしいと思った時、居てやることが出来たのかよ」

 けれど、その言葉は龍也の嫌な部分を突いてしまったらしい。

「だから、僕はこうしているんじゃあないか……!」

 その言葉だけでは意味の分からない発言。けれど、その思想の禍々しさだけは、龍也の表情と定まらない視線から推し量ることが出来た。

「人は誰も本質的には一人では生きられない。人が社会というものを形成して生きている以上……それはどうしようもない……………………そう、思っていた!」

「けれど、違った……そう言いたいみたいだな」

 縁は龍也が組み立てたい話の流れを推測する。

「ああ、そうだとも……事実、僕ら逸人は知っているはずだ。単独で世界に喧嘩を売り、生き残ることが出来る存在を……」

 かつて、縁が子供心で希求した存在を、龍也もまた求めていた。

 その奇妙な符合に嫌な予感を抱きながら、縁は話を続けさせる。

「異常保菌者……か?」

 そうだ、その通りだと言わんばかりに指を鳴らし、全面的に縁の発言を肯定してみせる龍也。その顔に浮かぶのは、あまりにも晴れやかな笑顔だった。

 不純物一つない笑み。それは不自然な笑みだ。人には大なり小なり、その時の感情に合わせて表情が動く。満面の、それこそ喜色しかない笑みというのは極めて歪なものなのだと、縁は龍也の表情を見て始めて知った。

「そう、その通り……僕はねぇ……力が欲しいと思った。大切な存在が……決して、侵されない。傷付くことがない……圧倒的な力を……」

 吐息を漏らす龍也。その姿に、縁は狂気を感じた。

「正しく、あの時……僕は天啓を得たんだ!」

 天啓、その言葉に縁は嫌な思いを抱く。自らの悪癖故に、縁は天から与えられる幸運だというものに良い感情を抱いてはいなかった。

「で、その天啓の内容ってやつは?」

 縁はふて腐れたように言葉を発するが、龍也はこちらに対して注意すら向けていなかった。そのため、縁の様子に気付いてもいないらしい。悦に入っていた己を律するつもりもなく、ただ縁の言葉に反応し、自らの心情を吐露する。その有り様は、まるで何か特殊な薬物でも投与されたかのようだった。

「鏡が……僕の愛しい愛娘が……異常保菌者になればいい!」

 その言葉を聞いて、その悪魔じみた発想を聞いて、冷静でいられるほど縁は大人しい人間ではなかった。

「あんたは……あんたって人は……絶対に……!」

 縁はその激情のままに、自らの能力を振るってみせる。

 その瞬間の力は今までのものとは明らかに違うものであった。なぜなら、目で見ることが出来たからだ。

「ここで殺さなくちゃならない!」

 縁の力が明確な殺意によって、彩られたというべきなのだろうか。

 その瞬間、縁の力が衆目の目にも見えるようになった。

「ひっ!」

 龍也はその攻撃に驚き、必死に縁の攻撃から逃げだそうとしたからだ。

 縁の攻撃は本来、見えないはずだ。けれど、龍也はその攻撃を見て、避けた。

 縁の攻撃、その動きに合わせて龍也の視線が動くのを縁は見てとった。だからこそ、縁はこの最高の好機にして最悪のチャンスを逃すわけにはいかなかった。

 最高の好機、それは先程から話を続けていたために、気を逸らしていた龍也をこの瞬間に攻撃できたということ。そして、最悪のチャンスとは、本来なら気付かれることのない攻撃が今回に限って色を伴い、視認できるような形で発現したことだ。

 自らの逸人としての能力が未だ発展途上であること。自らの能力が不安定なものであることが不安材料になっていた、これから縁が龍也に対して行う攻撃にも、色が伴う可能性がある。

 それが悪い結果をもたらすかもしれない。だが、良い結果をもたらすかもしれない。二つの可能性は常に揺れ動き、どちらに振り切れるかわからない。

 ならば、最悪の事態を覚悟しつつも、全力で良き結果が訪れることを望むしかないだろう。そう縁は割り切り、今出せる全力でもって龍也を攻撃する。

「ここで……死ね!」

 意識して吐き出された殺意の言葉。その言葉が自らの力に更なる形を与える。

「せぇああ!」

 形を持った斬撃が何かに突き刺さった。そして、そこに残り続ける。

 空間に斬撃が残るのではなく、斬撃の形のまま、力が木に突き刺さっていた。

 縁はそれに気付いて、攻勢をその攻撃が作り出した斬撃の檻に、龍也を導くものへと切り替える。

 攻撃を繰り返し、龍也を後方へと追い込む。その後方には、縁が繰り出した攻撃によって、生み出された斬撃の檻がある。その檻の中に叩き込むことを望んで、縁は攻撃を繰り返した。

 龍也は、縁の作戦に気付いている様子はない。

 目の前で縁が攻撃を繰り返しているのだ。縁の作為に気付く余裕がないのだろう。そう縁は解釈した。けれど、そんな絶好の好機で、再びあの意識の空白が起こる。

「っ……!」

 縁はその意識の喪失に、作為的なものを感じずにはいられなかった。

 タイミングが良すぎる。そして、今度は何よりも、龍也自身に変化があった。

 その空白の時間を利用して、移動をしていたのだ。

「わーお、僕、あんな死地に陥れられる所だったのかい?」

 縁の攻撃が見渡せる位置へと移動した龍也が、外国人が出てくる深夜のコマーシャルかなにかのようなテンションで話をする。

 けれど、その様子を見て取って、縁は更なる違和感を抱かざるを得なかった。

 龍也は先程、能力を使った闇討ちをして、縁に対して深い傷を与えている。

 けれど、今は余裕を見せるためか攻撃を行ってこなかった。それは、何か明確な条件の違いがあるはずだ。

 そうでなければ、龍也のような人間が、縁に対して攻撃を行わない理由がない。

 縁は咄嗟に、自らと龍也の距離を操作するために後退りをする。

 先程との違い、縁が思いつくのは、距離しかなかった。

 空白の時間で、龍也は移動をしたりしなかったり、行動が一定していない。

 それが、縁には自らの能力を操り切れていないためのものだと思えた。

 ならば、逸人としてキャリアの薄い縁と、力をうまく扱えない今の龍也は互角だ。それが楽観的な考えではない根拠が、縁にはあった。

「あんた……なりかけだって言っていたな……」

 なりかけ、それは一体どういう意味だろうか。

 龍也はかつて、異常保菌者対策室に在籍していた人物だと、縁は推測する。

 なぜなら、龍也は明らかに、自らの能力について熟知している。その上で、明らかに自らの力に振り回されている様子が窺える。

 その事実と先述した龍也の言葉を鑑みるに、龍也は恐らく逸人と異常保菌者の間、なりかけの状態で、力に振り回されている。

 ならば、縁は龍也に時間を与えるべきではないと判断する。

「ふふっ、ははっ……いやぁ、僕の時間は素晴らしいなぁ!」

 何かを誇張するために、大きな声を張り上げる龍也。その言葉に嘘があり、そして、隠したい真実があると踏んで、縁は龍也の言葉に耳を研ぎ澄ませる。

「僕だけが認識でき、僕だけが動ける。僕だけの時間……」

 縁はその言葉に、龍也の固執したものがなんであったのかを知る。

「それがあれば……きっと、僕は……鏡を十二分に守れるんだ!」

 時間が欲しい。自分だけが使える時間が欲しい。家族との時間が欲しい。人として当たり前の欲求だろう。それが逸人としての能力になるほど、龍也は時間を希求していた。そして、それには恐らく、鏡が関わっている。

 片親というものがどれだけ苦労するのか。縁は親というものがどれだけの金が必要であり、どれだけの苦労が必要なのか、訥々と語られたことがある。

 けれど、そんなものは子供には関係ない。子供が生まれたのは、どのような因果関係があろうと親が望んだから生まれたのだ。それを後から苦労をしている、こんなはずじゃなかったなどという妄言を吐き出されてはしょうがないだろう。

 そんな気持ちを抱えているからこそ、縁は子育てというものがどれだけ辛いものなのかを他者からの言葉だけではなく、自分で調べ、知っている。

 実体験ではないために、浅い知識でしかないのだろうが、それでも知っているのだ。

 だからこそ、子供に時間を掛けたいという真っ当な親の願いを、縁は理解することが出来た。けれど、だからこそ、理解出来ないものがあった。

「あんたが鏡のことを大切にしているというのなら、何故……彼女を異常保菌者へと変えようとしているんだ!」

 その言葉を聞いて、龍也は不思議そうな顔をする。

「鏡を異常保菌者に…………君は、何を言っているんだ?」

 縁は、龍也の言葉が理解できなかった。

「あんたがさっき言ったことだろう!?」

 首を傾げ、そんなことを言ったのかという顔をする龍也に、縁は恐怖を感じた。

 先程まで鏡に対して、病的にまで執着していた様子を見せていた龍也が起こすちぐはぐな行動。

「鏡、あれ……鏡……って、誰、だっけ?」

 龍也の口から漏れ出した言葉に、縁は更に戦慄する。

 壊れている。明らかに情緒がおかしくなり、記憶もまた同じように変質している。

「あんたが養っていた少女だよ……」

 それがあまりにも哀れで、縁は倒すべき敵である龍也に対して、言葉を掛けてしまう。

「あは、あはは、うひゃははは……」

 何がおかしいのか、笑いながら、龍也はこちらを見る。

 その目を見て、縁は驚愕した。

 まるで、テレビか何かの映像が一部だけぼやけてしまったかのように、そこだけノイズが走っていた。縁は、龍也が先程までと様子が違う理由を知る。

 恐らく、異常保菌者への変化が進んでいるのだ。

「僕はー……鏡、をー……守らなきゃあ……でも、僕がいなくなったら──鏡は誰に守ってもらえるんだ?」

 それがもしや、と縁は考える。

「あぁー、彼女を一人でも戦えるようにしなくちゃあ…………社会は怖い。異端は恐ろしいー……あは、あはははは!」

「だから、鏡を異常保菌者にするのか?」

 龍也の発言は逸人としては弱い能力をもった鏡に対する一つの対処法のように思える。けれど、そこに鏡の意志が保存される保証はない。

 ただ悪戯に鏡は、破壊を繰り返す化け物になる可能性もあった。

「そうだ、一人で生きるためには……力が必要だ……必要なんだ、だから……もっともっと、あの子に力を……!」

 その言葉を龍也が口に出した瞬間、龍也の顔に広がったノイズが更に大きいものになった。それを見てとって、縁は龍也が持つ親心が全ての発端なのだと気付く。

 それが異常保菌者になる前からそうなのか、それはわからない。けれど、縁はそうした一種の善意が肥大化して、人に危害を加えるという事実を容認できなかった。

 自らの悪意が人を傷付けることを楽しむ性質なものであるだけに、縁はそうした悲劇というものが、本来あるべきではないという考えを強く抱いていた。

「あんたの思い、その根本は正しいんだろうよ……手段は絶対に間違っていると思うけどさ…………だから、あんたは俺が止めてやる」

 行き過ぎた親心。もしかしたら、まともな親としての心であったかもしれないそれを歪められ、凶行に走らされているというのなら、それを止めなくてはならないという思いが縁にはあった。

「ありがとう…………」

 その思いが伝わったかのように、龍也はその言葉を聞いて笑う。

「あひゃっ、あひゃ、ひゃあははははははは! なーんて、言うと思ったかい?」

 けれど、その笑みの意味は嘲笑だった。

「僕は自分が間違っていることなんて知っている……けれど、それ以上に生きていてほしいんだ……どんな形であっても、あの子に生きていてほしいんだ!」

 その切実な叫び、切実な欲求は、縁の心を打った。

「あんたは……面白いやつだな」

 それが自分だけの欲求だということを理解している。それでも、それが幸せなのだと、人に対して自らの考えを押しつけようとしている。

 縁はその有り様にこそ、親というものを感じてしまった。

「君におもしろがられた所で、僕は嬉しくなんてない……!」

 異常保菌者として自らの思考を侵されながらも、強い意志でもって、その言葉を口に出す龍也。その精神に、縁は敬意すら抱いてしまった。独善でしかない考え方だが、それでも、人の幸せを願って行動する。

 自分とは違うが、それでも強い意志を持ってなにかを成し遂げようとする有り様に、縁は好感を抱いた。だからこそ、その善意で人を陥れようとする有り様を強く否定したいとも思った。

「じゃあ、殺し合おうか……!」

「全くもって……僕はこういう荒事は苦手なんだけどね!」

 二人は互いの主張を聞いて、改めてお互いを敵だと判断し、身構える。

 龍也と対峙した縁がまず最初にしたこと。それは、相手の能力がどんなものなのかを推測するということだった。

 そして、奇妙なあの意識の空白を手がかりに、ある推論を縁は立てる。

 龍也は異常保菌者になりかけていると自己申告していた。そして、縁は異常保菌者と出会った経験がある。その記憶を、縁は鏡によって取り戻している。

 だからこそ、理解することができた。かつて、異常保菌者と出会った時も同じような意識の空白が発生して、逃げることが出来なかった。

 それと同じことが行われているのではないだろうか。異常保菌者は見る者にその存在を否定させる。脳が、体が、異常保菌者を認識することを拒否するのだ。

 その生理的な反応を乗り越えてこそ、異常保菌者と戦うことが出来るのだとすれば、これほどまでに圧倒的な力を持つ生物は存在しないだろう。

 認識することすら一苦労。それでいて、圧倒的な力を持つ存在。その存在のなりかけである龍也に対して、改めて時間を与えてはいけないと縁は強く思う。

 縁は自らの能力が人の持つ社会と寄り添うことが出来るようなものではないということを知ってしまっている。

 自らの性癖を知り、いつか、この力を暴力として振るってしまう時が来ると、縁は分析できていた。だからこそ、縁は自らの力に枷を嵌めるべきだと感じていた。

 それこそが社会、というものが持つ本当の意味だと縁は気付く。

 こうなってしまっては、縁は社会というものの有用性を認めざるを得なかった。

 社会はその外に出た者に対して、罰を与える。その罰を恐れるからこそ、人間は自らの中にある欲望に対して知性を持って行動することができる。人間は元々、ただの動物であり、危険が無ければ怠けてしまう生き物なのだから。

 だからこそ、社会は仮想の脅威を作り、その中に人間を囲う。

 制作者、というものがいない社会というシステムが、どれだけ利便性に富んだものなのかを縁は改めて知った。

 そして、逸人として人と関わることが出来る場所は異常保菌者対策室しかなく、縁は必然的にそこに所属する事となるだろう。ならば、そこで果たす縁の仕事は何か。鏡の護衛であり、いざという時は異常保菌者と戦うことだ。

 だからこそ、縁は自らが龍也と戦い、勝つことが出来れば、得難い経験を得ることが出来ると認識していた。だが、それはあくまで勝った場合の話であり、縁はその想像が取らぬ狸の皮算用などとはならないように気を付けなければならなかった。

 その用心をどのような形で実現するか、それを縁は考えなくてはならない。

 勝利に至るための算段を組み立てなければならない。だが、大人しく思考を張り巡らせるような時間はない。先程も思い至った通り、時間は龍也に味方をする。

 敵対する相手の意識を途切れさせる能力。どうやら、自らの意志で操ることが出来てはいないようだが、操れるようになった瞬間、縁は勝ち目を無くす。

 だがしかし、それを考えて、相手を早急かつ確実に追い詰めようとした瞬間に、あの意識の出来ない空白の時間がやってくる。

 縁が先程行った敵を追い詰める行程をもっともっと、早めなければならない。

 だが、そんな簡単に敵を追い詰める行動を構築することなど出来るわけがなかった。

 縁はここまで長考を繰り返しているが、襲われることはなかった。

 それは何故か。龍也に攻撃能力が皆無と言っていいほどないからだ。

 縁が意識を喪失し、動きを止めた瞬間にナイフを突き刺す。それが、龍也が出来る攻撃の全てである。逸人としては、極めて殺傷能力に欠ける有り様だ。

 鏡の方がまだ、戦闘時の駆け引きが出来る分だけ優秀だろう。

 龍也に攻撃能力がない事を良いことに、縁は敵を目の前にして長考するという愚行を侵す事が出来た。

 そして、縁は決断した。

 一つの罠を仕掛け、その罠にハメることが出来るか。それに賭けることを。

 二手三手先を読むような能力など、縁にはない。だから、縁は一手でもって物事を解決しようとした。

 縁が放つ一手、それはかつて、業斗を追い詰めた透明な一撃だ。縁の殺意に彩られた刃は常に光を発し、存在を主張するが、縁の狂気を込めた刃は透明なままに相手を切り裂く刃となることに縁は気付いていた。

 殺意と狂気、縁はそれを使い分けることによって、自らの能力が変化することに気付いてしまった。

 そして、縁は先程、自らの身に起こった異変に気付く。

 自らの能力が変質していた。殺意を持って放った先程の攻撃。その攻撃は自らの能力を組み合わせて作り出した射出装置がなくても、前へと飛んでいた。

 それが何故なのか、縁は直感で理解していた。明確な殺意を伴って放った一撃であるが故に、縁の攻撃は指向性を持ったのだ。

 ならば殺意を込めない一撃はどうなのか、それこそが先程狂気と殺意、二つの感情のどちらを主体にすればどのような攻撃になるかを推測した考えだった。

 縁の狂気を元にした攻撃は、それだけでは超人的な能力を持つ逸人の攻撃としては未熟なものである。だがしかし、その攻撃には色が無く、気付くことができる者は少ない。

 それは、縁の狂気が方向性を持たない暴力に対する衝動だからであろう。

 暴力を向けたい対象がどのような存在でも構わないという暴力性が、どれだけ質の悪いものかを端的に示した能力。

「さぁ、行くぜ」

 縁の言葉を聞いて、龍也が身構える。

 龍也の攻撃能力では不意討ちは出来ても、先制攻撃を行い、充分な打撃を与えることは出来ない。だからこそ、縁は自らが先手を打つという優位を手に入れる事が出来た。

 縁は、先程までと同じく色の付いた刃で龍也を攻撃する。

 龍也はその攻撃を避けるしかない。だが、その足取りには明確な意志を感じた。

 縁に近づきたい。そして、自らの刃が届く範囲に収めたい。

 その意志をもって、こちらに近づきすぎす、遠すぎずの距離を維持しようとする龍也に対して、縁は自らの攻撃を叩き付けて距離を取るしかなかった。

 あの意識を失う出来事に前兆がない以上、あれを予測することは出来ない。

 だから、縁は自らの身を守るために、いつ何時、その意識の途切れが起きても大丈夫なように龍也の射程距離から逃れ続けるしかなかった。

 先程と同じように、龍也を追い込めて罠に掛けることは難しいだろう。

 縁は迎撃へと意識を切り替える。

 そして、縁はかつて黄昏時に必ず見ていた幻影を相手にしていた時のように、自らの中にある狂気を自覚して、武器として振るうために研ぎ澄ます。

 自らの中にある狂気、それが薄らいでいる。その事実に、縁は若干の驚きとそれを上回る納得を得た。

 縁は今、満たされていた。自らの狂気を認め、それでもなお傍にいてくれる他人がいてくれた。それがどれだけ幸せなことで、縁の中にあった渇望を満たしてくれていたのかを縁は知ってしまった。

 だからこそ、縁は彼女を失うわけにはいかない。そう強く思うことが出来た。

 けれど、今は、その思いが縁の邪魔をする。

 縁の透明な狂気の刃は、かつて業斗と向かい合った時と比べれば格段に弱い力へと変質していた。

 逸人の能力は不安定なもので、逸人一人一人の精神状態によって、その能力を変質させるようだ。その不安定さは正しく、この世界というプログラムを書き換えるバグとしてのあり方が反映された結果だろう。

 そして、そんな逸人の不安定さや自らの幸せな状況でも消えない暴力への衝動に苦笑しながら、縁は自らの力を放った。

 我慢できるほどに満たされることはあっても、無くなることはない縁の本性である。そう認識することで、縁は自らの凶暴性が一つの形を為して、自らの身体に定着するのを感じた。

 逸人としての能力は、自らへの理解を深めることによって、その能力の強弱まで含めて定着することが出来るようだと縁は気付く。

 そして、縁は自らの中に定着した凶暴性を元にした力を使って、龍也の首を刎ねようとした。それは不可視であるが故に、警戒されることなく、龍也の首元に吸い込まれるかと思われた。

 けれど、その瞬間に、あの意識の喪失が起こる。けれど、最早関係がない。

 縁の意識が喪失しようと、周囲の時間の流れがおかしくなった訳ではない以上、放たれた刃はそのまま前へと進む。龍也はそれに反応を示す術などあるはずがなく、縁が放った不可視の刃によって死に至る。それが、縁の想像だった。

 けれど、縁は再び、自らの目の前から龍也が消えるのを確認してしまう。

 縁は目線を下に向け、龍也の死体がないかを確認してしまった。

 けれど、それは龍也に対して絶好の隙を作り出す結果となった。

 再び、背中を刺されたあの感触が縁を襲う。その感覚は再び痛みを発し、縁の体を苦しめた。

「なっ、に……!?」

 縁は自らの中にある感覚の喪失に気付く。

 縁の手は、いつの間にか、自分でも驚くほどに真っ白く染まっていた。

 血の気がない、という言葉でしか表現することの出来ない状態。そんな状態になっていること、そして、自らが履いているズボンがいつの間にか大量の出血で濡れていることに今更気付いて、縁は愕然とする。

 縁はずっと傷の痛みがない故に、自らの行動が制限されることがないとひたすらに動き続けていた。だけど、それは感覚の麻痺が生んだ遅効性の毒だった。

 縁はこれまでずっと、出血を続けていたのだ。

 その奇妙な現象が起こった原因は、やはり龍也の能力と奇妙な意識の喪失にあるのだろうと縁が推測をたてるのと同時に、龍也の声が聞こえた。

「よーやく、よーやくか……やはり、君のように脳が筋肉で出来ていそうな低脳は……無駄に体が頑丈で困る」

 その言葉は、先程までとは違い、明確な意志を持って発せられていた言葉だった。

「これが……あんたの狙い、か……!」

 縁はそう言うしかない。時間を掛ければ掛けるほど、相手が有利になるとわかっていても、相手の言葉を聞かなければ逸人の力を理解することなど出来ないからだ。

「その通り……僕は相手の感覚を誤認させ、逸人としての覚醒を手助けする役目を負っていた人物だ」

 龍也はこれまでとは違い、過去の自分をまるで他人を評するかのように語ってみせた。

 それが龍也の心境の違いによって生まれたものなのか、それとも違うのか。縁には読み切れなかった。

「それ故に…………自らの異常保菌者としての覚醒すら操作して、自我を保存することが出来る…………!」

 縁はふと気付いてしまった。龍也のそれは明らかに、何らかの我慢を重ねて行っている冷静さだ。

 龍也の額には脂汗が流れ、体には時折不自然な力が入っていたからだ。

「ふん、そんな無理が表に出た態度で何を言うんだか……」

「それは、君も同じだろう?」

 龍也の言葉に、縁は苦笑を浮かべる。

 全くもって、その言葉通りだったからだ。縁は先程から自らの傷口を強く抑え、出血を押しとどめようとしていた。足下の感覚がなく、自分がきちんと地面に足をつけているのかもわからなかった。

「「縁!」」

 そんな重傷者と重病人が揃った場所に、とある人物が現れたのはそんな時だった。

「鏡!」

 その言葉を聞いて、異口同音に、縁と龍也は愛しい存在の名前を叫んだ。

「……っ、縁!」

 最初、鏡は龍也の方向を見て、驚いたような表情を見せた。けれど、すぐに縁が重傷を負っていることに気付き、こちらへと駆け寄ってくれる。

 それをどこか悲しみと憎悪が入り交じった目で見つめる龍也。

 その視線に、縁は抱いてはならない感情を抱く。

 それは、優越感だった。相手もまた同じように一目で辛い状態だとわかるのに、こちらが優先してもらえるというのは、明らかに鏡が縁を、龍也よりも大切な人として扱っているからだ。

 その事実に、縁は暗い優越感を抱かざるを得なかった。

「大丈夫? 連絡がないから、あの子を帰して来てみれば……」

 その言葉に、縁は少しだけほっと胸をなで下ろす。どうやら、響子は帰ったらしい。それならば、絶対にこれから起こる事件に彼女が巻き込まれることはないだろう。

 それを確信して、縁が安堵すると同時に、鏡は縁の傷を乱暴に手当てし始めた。

「ったた……」

 痛みに呻く縁。けれど、その傷みが縁の感覚がまだ生きてくれていることを教えてくれた。だから、まだ戦える。だから、まだ動くことができる。それが、確認できた。

「下がってろ……鏡」

 縁は前へと進み、自らが戦うことへの意志を見せる。

「縁……!」

 それを心配し、腕を掴んで止める鏡に対して、縁は首を振る。

「心配するな……あっちの狙いは、あんたなんだ……だから、俺が守るために戦うことは当たり前のことだ」

 たとえ、それで命を失うことになっても、好きな女のために張る意地ならば喜んで張ることが出来る。それくらいの気っ風の良さは縁のような異常者にもあった。

「普通はそんなこと、思う必要もないのに……」

 縁のそんな覚悟を読み取ったのか、鏡がそう呟く。

「違うな。これは普通のことだ……これだけは、紀元前よりずっと前から続いてきた人類の……男としての歴史が証明している」 

 その言葉に、はぁと溜め息を吐き出す鏡。

「じゃあ、その歴史に聞いてみて。古来、家族の問題を……他の人だけに頼り切るなんて恥を晒す人がいた?」

「む……昔ならともかく、今なら公的機関が家庭に介入することは多いと思うが……」

 実際、縁は自らの家庭の問題を解決するためにそうした人々に相談することも考えた。それを思い返すと、鏡の要望を棄却するのは難しくはない。ましてや、今の縁は過去の自分では信じられなかった公務員、国の機関に所属する人間だ。

 そうした人道的な判断を下すことは、むしろ推奨される行いのはずだろう。

 その言葉を聞いて、鏡は何かを考えこむ。

「どうした?」

 その様子に何か不可思議なものを感じ取り、縁は首を傾げる。

「いや、あなたなら……家族として扱うのも……」

「ん?」

 縁は思わず、鏡の口から漏れ出した声に驚き、声を出す。けれど、そんな声を聞いて、自らの思考が口に漏れ出していたことに気付いたのか、鏡は頬を赤らめた。

「許さない……」

 そんな縁と鏡を見ていて恨みが募ったのか、口元から小さく声を漏らす龍也。

「お久しぶりです、龍也さん」

 龍也の様子を見てとって、鏡は他人行儀に話しかける。

「どう、したんだい? あんなに可愛がってあげたのに……そんなに冷たい態度を取るなんて……」

 激情が龍也の体の中を駆け巡っているのだろう。その言葉の抑揚はどこかおかしく、縁はそっと、いざとなれば自分を盾にしてでも、鏡を守れる位置へと移動する。

「ぼくの態度はこれで正解ですよ。ぼくの今の父親にして、母親は業斗さん。ただ一人。そして、ぼくの立場もあの頃とは違う……!」

 鏡は龍也と相対し、自らの意志を力強く伝える。

「ぼくの今の立場は、異常保菌者対策室……正職員、水城鏡だ。異常保菌者であるあなたに対して、慈悲を持つことは出来ない。それがぼくの……仕事に対する誇りだからだ」

「それは業斗が……君に押しつけた価値観だろう!」

 龍也は鏡の言葉に強く反応を示した。その反応の名前は嫌悪、だろうか。どこか独善的な雰囲気が漂っていて、縁はその感情をしっかりと理解することが出来なかった。

「たとえそうだったとしても……ぼくは自分で考えて、その価値観を受け入れている」

「それは、子供を兵士にするということだ。そんな考えを受け入れるのか!」

「そうだよ……だって、ぼくはそれに対する報酬を……受けている」

 その言葉の後に、鏡は縁の方へ目線を送る。

「ぼくは……きみに出会った。それ以上の報酬なんて……もう、必要ない」

 きっと、鏡は龍也を睨み付ける。

「そもそも……ぼくを逸人として覚醒させたのは……龍也さんだろう……!」

 その言葉を聞いて、縁は驚愕し、龍也を見据える。けれど、龍也はまるでそれこそが自らの功績だとでも言うかのように腕を広げて、自慢げな態度を取る。

「そうだ……その力があるからこそ、君は幸せになれたんだろう? それはてっとり早く社会を生きていくために必要な力を与えてくれたはずだ。そのための厳選までして、僕は君に力を与えたんだ!」

 その言葉を聞いて、縁はどうしようもないほど、龍也という男に失望する。

 縁は知っている。鏡がこの能力を得たことによって、どれだけの苦労をしたのかということを。そして、その生まれた能力の有用性によって、様々な形で強い責任感を持つように教育され、その責任に答えるために頑張ってきたことを。

 だからこそ、縁は龍也の不愉快な言葉を止めようと思った。

 けれど、そんな縁の気遣いを鏡が小さく手で止める。

 何故止めるのか、そんな意志を込めた視線に対して、鏡は小さく首を振った。

「確かに……この能力が無ければ、ぼくは良くて施設に送られて……今のように……責任を果たせば、自由に生きられるような立場にはなれなかっただろうね」

「そうだ、そうだよ……だから、僕が君にその力を与えた。その真意がわかってくれているんだろう?」

 鏡はその言葉を聞いて、見下げ果てたと言わんばかりの目を龍也へと向ける。

 そんな目をされる謂れはないと本気で思っているのだろう。龍也は戸惑ったような表情を浮かべ、次第にその顔に怒りを浮かべようとしていた。

「ふざけるなよ……」

 縁はそんな龍也の身勝手な怒りに反応して、思わず言葉を発してしまう。

「なに?」

 縁の言葉に思わず反応してしまい、忌々しそうな顔をこちらへと向ける龍也。

 そんな龍也に縁は本当に鏡の言っていることがわからないのか、と視線を合わせた。

 けれど、そんなに付き合いの長い訳でもない龍也は、縁の視線の意味を理解することが出来ず、苛々とした態度を取る。

「…………っ、そもそも、君が僕たちの会話に入ってくる理由がないだろう! 君には関係のないことのはずだ」

 龍也の言葉は確かに、鏡と龍也の問題を家族の問題として考えた場合は合っている。

 けれど、それ以上に縁は、鏡の友人として一言物申したかった。

「あんたの言葉は矛盾している」

 その矛盾を突くことが、どういう結果を生み出すのか、それがわからなかった。龍也が激昂し、縁に向かってくるのならば構わない。けれど、その激昂が激しすぎた場合、鏡に対しても龍也が危害を加える恐れがあった。

 けれど、そんな逡巡を見切った鏡は大胆な方法で縁に行動を促す。

 鏡が取った行動は動きとしては実に単純で、小さなものだ。だがしかし、養父と呼ぶべき人間の前でやるには大胆な行為だった。

 鏡は縁の手を取り、そして、指の一つ一つまでを絡めるようにして握った。

 その手の温かさに促され、縁は龍也の矛盾を指摘する。

「あんたは、自分が覚醒させた力が、鏡を幸せにすると言った」

 縁の言葉を龍也は肯定するために、満面の笑顔で声を発しようとするが、それより先に縁は更なる言葉を募らせる。

「けれど、あんたは……その力を認めてくれて、金銭を得ることが出来る場所で働いている鏡を……否定している!」

 その矛盾を指摘する。

「それは……!」

 縁は、龍也にその言葉の先を言わせたくなかった。

「力の使い方が間違っているからだ! 自らよりも劣る存在を操り、自らのために操る事こそが絶対的な強者のすべきことだろう!」

「それが絶対的な孤独を示すものだとしてもか!」

 龍也の言葉を聞いて、縁は何よりも激昂した。縁は知っている。力を持つということ、そして、その力を独善的に振るうということがどういう結末をもたらすのか。

 力を自らのためだけに振るえば、最初の内はいい思いが出来るかもしれない。

 けれど、そうした人の変化に対して、他者は噂という形で簡単に気付く。

 そうして普通の人間との違いが浮き彫りとなり、能力を持つ者は簡単にその能力を制限されるようになる。

 そこで、自らの意志を通し、独善を選べば──待っているのは孤独だ。

 かつての縁は、その孤独こそを求めようとした。だからこそ、わかる。自らのためだけに、他者を踏み台にするような生き方を選ぶのなら、待っているのは孤独とその果てにある排斥なのだ。

 人が作る社会というものに恐怖し、その打倒を願った縁だからこそ、それを理解することが出来た。結局、普通の人間。それも、一般的な人間からはぐれた感性を持つものが生きるためには、ある種の割り切りが必要だ。

 そうしたはぐれもの同士のコミュニティ。人間全体が作り出す社会の中から水泡のように生まれ、そして、人間社会のすぐ傍で外れた生き方をする人々が生きるための楽園を作り出す。

 それこそが、異常な人間が出来る一般的な世界への対処法だ。これは割とありふれた方法である。例えるなら、オタクと呼ばれる人間のコミュニティ。彼らは彼らの中で、共通の好きなものを持ち、そして、その好きなものを語り合うコミュニティを作り出した。

 インターネットが生まれたことによって、それは距離と時間を超えて、人が作り出した社会に寄り添う形で居場所を作る。

 オタク、という存在を嫌う人間ならば、その姿を普通の社会に蔓延る寄生虫のようだと語るのかもしれない。けれど、縁は思う。これが共存ということなのだと。縁はこれまでの経験で、自らの異常性に気付いていながらも傍にいてくれる人々を知ってしまった。

 それは、縁たちが普段所属する人間社会では有り得ないことだ。つまり、縁たちは、一般的な人間社会に隣接した新たなコミュニティを作り出した。

 そして、そのコミュニティの中での居心地は縁の牙とも言える凶暴性をある程度満足させるまでに心地よかった。

 けれど、龍也の言うことは、そんなコミュニティを逸脱し、本当にたった一人で社会を相手に戦うということだ。

 それを真っ当な人間に強制する神経が、縁には理解出来なかった。

「龍也、あんたの言うことは…………人を不幸に陥れる!」

 縁は理解していた。かつての自らが望んだ未来が、人として終わっている選択肢であったということに。それでも、縁はそれを望んでしまっていた。

 その根底にあるのは、自暴自棄な思いだった。

 そして、そんな自暴自棄な願いと同じくらいの強さで抱いていた思い。その思いを縁は最近になって、理解し始めていた。

 誰かを傷付けたくない。縁は確かに自らの精神に悪性を持っている。けれど、一般的な常識と道徳を失っているわけではなかった。

 だから、人を傷付けたくないと思う当たり前の心を持っていながらも、その対極にあると言える人が傷付く所を見て、喜びたいという自らの悪性に苦しんでいた。そんな相反する欲望と常識を持つ自分が嫌で嫌でしょうがなかったのだ。次第に縁は自らの悪性を見なくて済むようにと、人付き合いをやめていた。そんな縁を本当の意味で認め、傍にいてくれたのが、隣にいる鏡である。

 傍にいてくれる他人。縁はそれがどれだけ心地良く、自らを強くしてくれる存在なのかを知っている。

 縁は響子と鏡、二人とも自らの悪性を知っている二人の女性と友人として関係を持っている。しかし、縁は鏡にだけ心惹かれるものを感じていた。それは、自分の悪性を本当に理解してくれているかを判断していたからだろう。

 縁は自らが常識を持ち、人としての道徳を持つからこそ、異彩を放つ悪性を、強く認識することが出来る。けれど、他人からしてみればそれはわからない。

 時と場合によれば、その悪性が発露したとしても、ストレスで気が立っているなどと誤解され、逆に心配されるだろう。それは明らかに、縁という人物を誤解している姿だ。

 縁は人を気遣い、人が幸せになっている姿を見て、幸福を感じる。

 縁は人が不幸になっている様を見て、悦に入ることができる。

 この二つの感情は、普通の人間には理解することが出来ない感性だろうが、縁の中では全く矛盾せずに共存することが出来る感情だった。

 これが普通の人間の感覚に例えるなら、自分が嫌いな人間が酷い目にあって、ざまぁみろと思うような気持ちが一番近いだろうか。その感情の後に、そんなことを思ってしまった自分に対する自己嫌悪の気持ちが湧き上がることも一緒だろう。

 そして、縁はそれが好きな人間であっても、嫌いな奴が嫌な目にあった時と同じように愉悦を感じられるのだ。

 それを理解してくれる人などいないと縁は思っていた。事実、自らの悪性を目の当たりにした響子でさえ、縁のことを優しいと言い、縁の悪性に気付いていても、それを重要視していないのだ。

 まるで、その凶暴性が自らに向けられるという事実を想定してすらいないように、縁には感じられた。それは決して、縁にとって好ましい態度ではなかった。

 自らを恐れられるというのは決して心地良い反応ではない。だがしかし、縁が自らの悪性を理解し、それを抑えるために、他人の反応というのは必要不可欠だった。

 自らの内側からわき上がってくる衝動、その衝動に対して反応を示す他人。その他人を通して、縁は自らの感情を理解することができた。

 それが自らの衝動を抑える自制に役立つのだ。時折、縁はふとした衝動に任せて人を傷付けてしまいそうになる。

 その時の目は感情が通っていないらしく、見る者に恐怖を感じさせるらしい。そうした縁の変化にいち早く気付いて、それを止めてくれる存在。それが縁にとっての鏡という存在がもつ心地よさだった。

 なんて独善的な考えだろう、縁は自らの中にわき上がる恋慕の情がそうした打算によって生み出されたものだと知って、がっかりする気持ちを抑えられなかった。

「それは違う……」

 縁の内心にある考えを読み取って、鏡はまたそう言ってくれた。

 どこが違うのか、縁にはわからない。だから、善意で言ってくれたのだと判断する事しかできず、縁は鏡の言葉をしっかりと聞く。

「最初はそれだけだったのかもしれない。けれど、それは普通の人も同じだ」

 誰かを気にする、というのは、その誰かが自分にとって心地良い存在だからこそ、だと言っているのだろうか。

 ああ、全くもってその通りだろう。

 だからこそ、知っている。本来の愛情とは実に俗っぽいものだろうと、縁は想像が付いている。それでも、縁は自らのような悪性を持つ人間にとって、そうした愛情こそが女神の加護か何かのように、自分を導いてくれるものだと夢想していた。

 けれど、縁は同時に理解していた。自らの悪性を理解し、そして、自らを見てくれる他人がいてくれれば、縁は人の道を逸れることはないだろう。

 愛に求めた理想、それが鏡とならばできるかもしれない。俗っぽい感情が元となっていても、目的が叶うことを知って、縁は溜め息を吐くしかなかった。

「あんたは本当に……俺にとって女神のような女だよ。鏡」

 男が求める理想の妻そのものとも言える、能力に裏付けされた察しの良さ。男好きする体付き、愛らしい顔立ち。けれど、そんな理想の塊でありながらも、現実らしい俗っぽさを併せ持つ。

 だからこそ、彼女と共に過ごす時間は理想的な時間でありながらも、現実感を伴って縁に「幸せ」というものを感じさせた。

 縁はあることを決意しながら、龍也を見る。

「全くもってなにを言っているんだか……君たちの会話は、僕には理解不能だ」

 そんな縁を前にして、いけしゃあしゃあと人との繋がりを断ち、善意でもって本物の化け物となった龍也の言葉が聞こえ始める。その言葉を聞いて、縁は鏡を前にして存在する二人の人間、そのあり方がどのように違うのかを知る。

 縁は悪意でもって、まずは人と関わらない事を望んだ。その先にあったものが結果的に人と関わらなければ、人は生きていけないというありがちな結論であったとはいえ、縁の始まりは悪意だ。

 それと比べて、目の前の龍也はどうだろう。まず間違いなく、彼の言葉を疑うことなく信じるのならば、彼が思い描いた原初の気持ちは善意であったはずだ。鏡に対する親心。けれど、善意でもって、人と関わることを望んだ彼は、いつの間にか人の意志を排斥し、孤高に至る力を望んでいた。

 悪意と善意、その二つから生み出された衝動。逸人となり、力を振るった先にあった結果。その結果はどちらの方がより、幸せに近いものであったか。

 それを考えるなら、縁ははっきりと自分の方が幸せであると言える。

 けれど、それは因果応報という言葉を考えるのならば、甚だ遺憾な結果である。善因に善果があり、悪因に悪果がある。それこそが因果応報という概念のあり方だ。それこそが縁のような生まれついての悪に対して、生きることへの免罪符になる。

 それを縁は知っている。だからこそ、縁は心の中から溢れる言葉をそのまま形にする。

「俺はあんたに聞きたい。あんたは……それで幸せなのか?」

 人間の生というものは、常にその言葉を投げかけられるものかもしれない。口に出した言葉を振り返って、縁はそう考える。

 結局、人間のどんな行動も、今までわからなかった人が社会というものを作り出すに至った経緯も、結局は幸せになるための行動なのだろう。

 それはきっと龍也の方も同じだ。そんな気持ちが縁にその言葉を問いかけさせていた。

「…………無論、そうだとも。僕は幸せだ。僕は誰にも縛られない。僕は……僕は……アイする人を……守るんだ」

 その言葉には何処か空虚な響きがあった。それが一体何故なのか、知っているからこそ縁は龍也を睨み付ける。縁と龍也、善意と悪意によって行動を起こし、互いに幸せだと言い張る二人。その優劣を決めるのは一体何なのか。

 それを、縁は手を引いて傍へと寄せる。

「トロフィー扱いは気に食わないな……」

 そう言いながらも、どこか苦笑を漏らして縁の傍に侍る鏡。サービスなのか、その小さな手を縁の胸に置き、体を預けてくれる。

「けれど、きみの腕の中にいる……というのは、悪くない」

「……あんたが守りたいものは、俺の腕の中にある……」

 縁はそれを勝ち誇る。縁が、龍也が、共に守りたかった者。その者が自らの腕の中にいること。それは、明確に自分が龍也よりも優れていると証明してくれる保証だった。

「それはあんたより、俺の方が勝っている……確たる証拠だ」

 それが龍也の言葉に空虚な響きを宿していたのだろう。

 守りたい、そう思う人間に拒絶されるというのが、どのような気持ちを思い浮かばせるのか、縁にはわからない。わかるとは言えないし、言ってはならない。

 自分を選んでくれた鏡に恥をかかせないために、それを理解する訳にはいかなかった。勝ち誇ることが、人の名誉を守ることになる。縁はそれを始めて味わうこととなった。

「僕は……僕の人生……は、君に見下されるためにあったわけじゃない!」

 怒りに震え、こちらに襲いかかってくる龍也。その感情の波を真正面から受け止めるのも、勝者としての義務だと縁には思えた。全力で縁は逸人としての能力を用いる。その瞬間、縁は自分の能力に変化が起こっていることに気付いた。

 自分の凶暴性、それを収めることが出来る。制御することが出来る居場所を見つけたことからか、縁の暴力性を象徴する力は片刃の形となり、柄が付いていた。

 けれど、その性質は相も変わらず不可視のままだ。ともすれば、自らも傷付る不可視の刀というのは、正しく縁の精神性を表すのに相応しい形だろう。

 その瞬間、縁は再びかつてと同じようにカチリと何かがはまり込むような音を聞く。自らの力の形が定まったのだろう。

 けれど、縁は剣道などやったことのない戦いの素人だ。ましてや、自らの武器は透明の刃を持つ刀。専門的な技術を持たない限り、振るえば自らの手足を切りかねない非常に扱いづらい武器だ。

 それを振るう方法など、縁には一つしか思い至らなかった。その一つのやり方、それは真っ直ぐ上へと刀を構え、振り下ろす。それだけである。

 技として鍛え上げられたものでもなく、その切れ味を活かすために必要な武器の知識もないその一撃、普通の武器であれば、決して良い方法であるなどと口が裂けても言えない使い方。

 だけど、縁には考えも付かなかったことだろうか、縁はこの透明な刀を扱うのに相応しい戦い方を自然と行っていた。

 なぜなら、逸人の能力によって生み出された武装である透明な刀に通常の剣術など何の意味もない。遠心力、重力といった物理的な法則に支配されない世界のバグである逸人の能力で作り出された武器だ。

 そういう通常の方法を学んでは、逆に使い方が制限される。

 縁はそれを知らない。だからこそ、刀を振る術理を知らずに、ただ真っ直ぐに刀を振るうことを優先した。

 自らの殺意によって彩られた刃。目で見ることが可能な力で作られた斬撃は、相も変わらず指向性をもって龍也へと襲いかかる。

 だが、所詮、明確な殺意や害意などというものは察知され、相手側にも反応の暇を与えてしまうものだ。それをうまく押し隠す人の世の化け物に、縁は成り果てることが出来なかった。

 だからこそ、縁は自らの中にある最も恐るべき力に縋る。

 縁が持つ自らの悪性。悪癖、それを用いて、縁は敵を切る。

 制御をする術を得たとはいえ、使い方を間違えれば自らを傷付ける可能性がある刃。

 単純に振るうことしかできない。ただ真っ直ぐに構え、真っ直ぐに振り下ろす。そうすれば、この刃で断ち切ることが出来ないものなどない。

 不思議と、縁はそう信じることが出来た。

「ぜあああああああああ!」

 全力で振り下ろした刃は、当たり前のように飛び跳ねる刃によって、追い詰められた龍也の体に吸い込まれる。そして、その命を奪う。

 そう思った。

 けれど、手応えがない。縁はその手応えのなさに首を傾げ、そして、殴り飛ばされた。

「がっ!?」

 脳が揺れたのか、言いようのない気持ち悪さが縁を襲う。視界がくらくらと揺れ、その吐き気を更に強いものへと変えていた。

 確かに、縁は自らの力で龍也を切った。そのはずだというのに、龍也はまるでそんな傷など受けていないかのように平然とした表情を浮かべていた。

「ん?」

 心底不思議そうな顔で、龍也は自らの肩を触る。

 するとまるで、漫画かアニメの表現かのように、体がずれていく。

「ふ、ん……」

 まるでそれがたいしたことのない、蚊かなにかに刺された傷かのような表情を見せる龍也。その表情に、縁はどうしようもない違和感と忌避感を抱いた。

 あれは、状況を理解している顔だ。けれど、そこに死へと至ることに対する恐怖は感じられない。状況を理解してなお、死を実感していないのだ。

 そして、その表情の意味を縁は理解する。

 ぐい、とズレた体を持ち上げる龍也。その龍也の体をノイズが走り、そのノイズがズレた龍也の体を繋げる。と言っても、その繋げ方は極めて雑なものであり、若干ズレたままだった。

 けれど、その雑さが余計に人間らしさを無くさせ、見る者を不安にさせる。

 縁はそれと対をなす恐怖という感情を感じながら、更に刀を振るう。

 再び、当たり前のように、刀は龍也の体に入り込む。そして、縁が握った刀は龍也を再び切り裂いた。

 だがしかし、先程とは違い、おっかなびっくりに振るった刀は本来の役目を果たすことがなかった。逸人としての能力を振るえる精神状態になかった縁の刀。それが龍也の体に入り込み、切断という現象を発現できた理由は極めて簡単だ。

「でたらめだ……」

 縁は自らの刀がどのように体に当たり、そして、切り抜けたのかを見てしまった。

 龍也の体、その内部はもう、全てがノイズに満たされていた。

 内臓も骨もない。ただノイズだけが体内に広がる生物。そんな生物がいてもいいのだろうか、そんな存在は生物として逸脱している。

 正しく、世界の法則を乱すバグそのものだ。そんな思考を縁が浮かべたのは、異常保菌者という存在を知っていたからだ。

 だからこそ、縁は鏡に問いかける。

「これは……!」

 そして、縁が見た情報を自らの能力で知った鏡は叫んだ。

「逸人じゃなく、もう異常保菌者に成り果てている……ってこと!?」

 鏡の言葉通りなのだろう。

 だからこそ、縁の力は届かない。

 異常保菌者を断ち切ることが出来る能力。そんな能力を、縁が思いつかないからだ。

 そもそも異常保菌者というものが何であるのか、それを知ることが縁には、いや、今現在の人類には出来ていない。だから、それを倒すものを夢想することが出来ないのだ。

 ならば、縁がやるべきことはなにか。

 この敵を殺すのには一体、何が有効なのか。自分が出来る手札を集めることだ、と縁は理解する。

 必ず殺さなくてはならない。縁は龍也という異常保菌者相手にそう思う。

「鏡!」

 なぜなら、龍也は鏡に対して強い執着心を持っていた。

 そして、異常保菌者に成り果てた今も、どこかその執着心が残っているのか、それとも異常保菌者としての性質なのか、明らかに鏡へと向かっている。

 それを許す訳にはいかなかった。

 だからこそ、縁は自らが最も信頼する武器であり、困ったじゃじゃ馬でもある自らの暴力性。それが作り出した逸人としての能力で象られた刀で龍也を切る。

 腕が飛び、そして、ノイズが走った。

 縁が攻撃を振るう度に、どこかが切れ、そして、当たり前のようにそれをノイズが覆っていった。

 これではいくら切っても、きりがない。

 失血による死亡が狙えない。あのノイズは血のような役割を持っていると仮定し、攻撃を繰り返したが、それでは龍也の命に届かない。

 けれど、縁が持つ武器での切断は、僅かながらも時間を稼ぐことが出来るようだった。

 縁は全力でもって、膝を落とすように刀を振るう。

 そうすることによって、自然と体が落ちる勢いと共に刀が振り下ろされ、龍也の肩から腰を刀が切り裂いた。

 もちろん、それだけでは終わらない。見ることが出来る縁の明確な殺意による刃で、龍也の体をしらみつぶしに切り裂いてみせる。

 けれど、効果がない。あくまで、ノイズが広がるだけだ。

「なんなんだ、これは……どうすればいいんだ……どうすれば……!」

 縁は事ここに至って、龍也が異常保菌者に変質したことによって、自らの身に危険が及ぶ可能性が無くなったことに気付く。

 まずは、鏡に対してなにかをする。そう、龍也だった異常保菌者は決断し、それを邪魔する縁を一顧だにせず、進んでいる。

 その歩みは緩やかだ。だからこそ、縁は鏡を下がらせることで何度も攻撃を試すことが出来ていた。

 けれど、それが縁に自らの身の保身を考えさせなくしていた。

「ぐっ!」

 縁は自らの首元に、龍也の手が伸びてきていたことに気付かなかった。

 いや、そもそもそれを手と呼んでいいのだろうか。

 ノイズが広がり、それが手の形をして、縁の首もとを締めていた。

「なんっ……つっ……!」

 油断した、と縁は自らの判断が誤っていたことを後悔する。

 明らかにこちらを見ていない龍也。それは縁の首を絞めている今現在でも同じだ。

 けれど、ノイズが広がり、その中に目が生まれていた。

 その目は、縁を見ていた。その目はただひたすらに縁を認識し、追っていた。

 縁は咄嗟にその視線から逃れるために、目を生物として認識して、刃を放つ。

 その刃は今まで通り、ノイズを切り裂いた。けれど、縁の体には、まるで液体のようにそのノイスが飛び散り、張り付いた。

 そのノイズは見ているだけで、気持ちを不安定にさせるような気味の悪い様子を見せている。それは、液体のような性質を持っていた。液体のような性質を持つからこそ、縁の服に染み渡り、皮膚から毛細血管を伝ってそのノイズは縁の体に入り込む。

 その瞬間、縁は自らの逸人としての能力が、更に世界から逸脱したのを感じ取る。

 世界を逸脱する、という感覚は極めて奇妙なものだった。

 まるで、表面だけ粘性を帯びた水の中に腕を突っ込んでいるような感覚。

 なにかがそこではっきりと区切られている。空気の中と水の中という違い、その違いがわかるというのに、それ以外の刺激が微弱すぎてわからないような感覚。

 例えるならば、室温と全く同じ温度のお湯が入った風呂桶に腕を突っ込んだ感覚だろうか。能力を使おうとする度に、水の中へ入り込んだ腕が動き、縁にその境界線の存在を強く主張してくる。

 縁はこれ以上、自らの身体に付着したノイズが自分に悪影響を与えないように処置する必要性があった。これ以上、逸脱してしまえば、縁自身が龍也と同じ化け物になる。

 その瞬間、縁は先程さらに世界から逸脱することによって手に入れた自らの逸人としての能力に、とある使用方法があることを理解する。その理解がしっかりと形を為す前に、縁は自らの頭の中でひらめいた行動をそのまま実行した。

 縁は自らの腕。ノイズが付着した腕の上部を自らの刀で切り払った。

 なにも、それは自らの腕を切り落とすことで、液体のノイズを処理しようとした訳ではない。そうすることによって、縁は自らの体に付着していた液体のノイズが動き始めるのを確信していた。

 それは、縁の能力によるものだった。

 縁の能力は、切断に特化している。だからこそ、先程の異常保菌者との接触で、縁は今まで切ることの出来なかったあるものを切ることが出来るようになった。

 それが、液体のノイズを取り込んだことによって起こったものなのは明白だ。

 なぜなら、縁が身につけた能力は、今まで見た逸人の能力とは明らかに規格外の能力であったからだ。

 その能力、新しく縁が切断出来るようになった対象は、物事の因果である。

 因果、それはなにかが原因でなにかが起こるという考え方そのものである。

 その因果を切るということがどういうことなのかと言えば、先程縁の腕に起きた現象を例に挙げるのが最もわかりやすいだろう。

 縁は先程、自らの腕に付着した液体のノイズを切ったのではない。縁は自らの身体に付けられている衣服に対して、この能力を使用した。

 この力はまるで当たり前のように、衣服にノイズが付着したという事象に干渉する。

 ノイズが衣服に辿り着くまでの因果は詳しく説明すれば、こうなるだろう。

 液体のノイズが、龍也の体の中に満たされている。そして、その満たされたノイズが龍也を傷付けるという原因によって、周囲へと飛び散る。そして、その飛び散ったノイズが縁の衣服に触れたのが、その行為の結果である。

 それら一つ一つの事象は、糸で繋がっているかのように連続した事象である。縁はその連続した事象の間を切り裂くことが出来るようになったのだ。

 縁は先程、ノイズが付着した衣服を切り裂くことによって、ノイズが衣服に辿り着くまでの因果を断ち切った。

 ノイズ自体の性質、それか世界を逸脱する毒となっている異常保菌者そのものを理解して断ち切ることは出来なくても、その影響を断ち切ることはできる。

 丁度、毒物が体内に入り込んでも、その毒が自らの命に届く前に吐き出したり、取り出したりする過程と似ているだろうか。縁はそんな益体もない考えを抱きながら、自らに突如として降って湧いた力を分析する。

 縁はその力の使用方法を一つ、思いついていた。

 それを行えば、縁は望む結果を手に入れられる。けれど、それを行えば、縁は更に人として、この世界に生きる者として逸脱し、最終的には異常保菌者そのものへと成り果てるだろう。

 それが縁にはわかってしまった。逸人の能力とは格が違う、異常保菌者の体そのものと言えるノイズを取り込んだ縁の体は、一時的に異常保菌者そのものと極めて似通った性質の存在になっている。

 だからこそ、一時的ではあれど、このように強大な能力を使えるのだ。この能力が一時的なものであるとわかっているからこそ、縁は決断しなければならない。

 勝機は極めて細く、そして、縁に対して犠牲を強いるものだった。

「縁?」

 鏡はそんな縁に対して、心底不思議そうな顔を向ける。

「きみの心が読めなくなった……一体、きみに何があった?」

 自分が持つ逸人としての能力が縁に通じなくなった。そのことを心配して、鏡は縁の耳元で囁く。

「大丈夫さ……少なくとも、この戦いが終わるまでは……な」

 それからどうなるのか、縁にはわからない。この能力を使いすぎる結果になれば、縁という存在は死に至るだろう。異常保菌者になるということが、縁の感情をここまで恐怖で支配するとは思ってもみなかった。縁はあれほど望んだ化け物になる。今は、ただひたすらに恐れていた。

 それは今現在が幸せだからだろうか、それもあるだろう。けれど、それ以上に気に掛かるのは、龍也が語る異常保菌者としての末路だ。

 先程まで、なんだかんだと言って龍也は常に、鏡を気にして行動をしていた。

 けれど、今の龍也にその意識はあるのだろうか。

「龍也!」 

 縁はそれを確かめるために龍也へと声を掛ける。けれど、龍也は縁の言葉に答える様子がなかった。

 龍也は依然として、なにかを狙って、鏡を追いかけ回している。

 けれど、鏡に追いついて、龍也が何をするつもりなのか、縁にはもうわからない。

 何故、縁がそう判断したのか。先程、縁は龍也の目の中にノイズを見た。そのノイズが更に広がり、顔面を全て覆い隠して、表情を覆い隠し初めていたからだ。それだけでも、感情や目線の動きから行動の狙いが読めなくなるというのに、龍也は先程までとは違い、意味のわからない嗚咽のような声を垂れ流してもいた。

 あれではもう、意識なんてものはないだろう。

 それが、あんまりにも哀れな姿に思えた。

「龍也、あんたを止めてやる!」

 あんな醜態をさらすということを、縁は人間として恥ずべき行いだと感じていた。だからこそ、縁は龍也のためにも、あの生き恥をさらしている状態を何とかしてやろうと決意する。

 ならば、縁がやるべきこと。それはなんであろうか。

 たとえ、因果を切るなどというとんでもない能力に目覚めたといえども、縁はただの人間だ。そして、この因果を切る能力にもある種の制限があるだろうということは簡単に想像が付く。

 その制限がなにか。けれど、その制限を判明させるための作業が、何よりも自らの能力を制限させる行いであるとも縁は理解していた。

 これまで、縁は自らの頭の中でかちりとなにかが嵌るような音を連続して聞いていた。

 その音が、縁の能力の限界を決めていた。その音を聞きながら、縁はあることを思い描く。逆説的に考えてみよう。その音を聞く前ならば、縁の能力に制限は付かないのではないか。と、言っても現実的に使える能力の限界値は決まっている。それから外れた時点で縁は、異常保菌者となる可能性がある。

 けれど、その限界を決めるのは恐らく、最初の数回だ。

 火事場の馬鹿力、という言葉を縁は思い出す。緊急事態に陥った人間の体が普段掛けているリミッターを外して、尋常ではない能力を発揮するという現象。

 だがしかし、逸人の能力は本来の人間にはない能力だ。だからこそ、その生物として最初に作られるリミッターが存在しない。

 だからこそ、最初の一回だけはリミッターのない全力を振るうことが出来る。そう考えると先程、無駄に能力を使用したことは手痛いミスだったのかもしれない。

 けれど、あの時ノイズが体の中に入り込んでいく名状しがたい感触は縁の中に今もなお残っている。

 だから、縁は今も自らの能力に枷が作られる度に外されるという感覚のループに陥っていた。縁は思う。問題はこの変化が落ち着き、そこから生まれる一番力を発揮出来る最初の一回をどう使うのか、ということだ。

 それを見極めるためには、縁が目の前の龍也がどれだけ常軌を逸した生き物であるかを知る必要があった。

 恐らく、縁の能力では異常保菌者となった龍也そのものを断ち切ることは出来ない。

 頭の中で様々な雑音が響く。それは弱音だった。縁は、自信が無かった。自らが知る知識の出来事以外のもの、その因果を切ろうとした時、余分なものまで切ってしまわないかと不安に思ってしまった。

 それが、能力の枷を作る。

 縁が得た能力、その能力に付けられた一つの枷は、自らが何らかの形で情報を得たものでなければならないと決められてしまった。

 縁は内心で強く、焦りを抱き始める。

 縁は龍也のことをそんなに詳しくは知らない。だから、限られた情報の中でなにを切るか。それを考えようとする間に、縁は自らの中で能力に様々な枷が嵌められていく音を聞いてしまう。それは縁の目の前で、思考が答えに辿り着いた瞬間、その答えが間違ったものへと変わっていく絶望そのものだ。

 縁は刻一刻と時間が過ぎる度に出口が変わる迷路へ閉じ込められてしまったかのような状態にあった。

 けれど、そんな考えが、縁に途方もない思いつきを起こさせる。

「ははっ……」

 縁はそんな考えを、自分が思いついてしまった事自体を恐れた。

 その考えが本当にそんな効果をもたらすのか、ただひたすらに考え込んでしまう。

 しかし、どれだけ考えても、先程思いついた縁の考えこそが、縁が求める最も良い結果を引き寄せると、縁は判断してしまった。

「どうしたの、縁?」

 縁の不可思議な様子を感じ取って、鏡がそう問いかける。

 縁はその顔に、苦笑を浮かべるしかなかった。

「危ない!」

 縁はその苦笑を向けた視線の先で、龍也のノイズが膨れあがるのを見てとった。

 それが極めて不吉な予兆に思えて、縁は全力で鏡を庇い、大地に伏せる。

 その上を、なにかが通った。それは、ノイズだった。ノイズが広がり、様々な生き物の形を作って周囲に伸びる。それは圧倒的な破壊だった。

 周囲にあるものはそのノイズが触れるだけでノイズと同一化し、新たなノイズとなって周囲に広がった。

 縁は龍也の体を見る。龍也の体は首から上の部分が人ではないものに変わっていた。ノイズという水をくみ出す井戸、とでも例えるべきだろうか。

 まるで、悪夢のような光景がそこにあった。

 縁は、事ここに至ってようやく決断する。

「なぁ……鏡」

 鏡がこちらを見る。その顔には、どこか今までとは違う悲壮な色合いがあった。

 恐らく、今現在の状況に、どうしようもない絶望を抱き始めているのだろう。

 縁は、そんな鏡の絶望を笑い飛ばす。

「酷い顔をしているな……」

 縁の余裕に、なにかこの状況を打開する方策を見出したと思ったのだろう鏡の表情が明るいものへと変わる。

 確かに、その想像は的を射ている。しかし、縁にとってこの選択は苦渋の選択だった。けれど、これしかこの事態を収拾する糸口が見つからないのも事実だった。

 だから、縁はとある後悔を少しでも無くすために、最後の最後まで鏡と話し合うことを望んだ。

「こんな時に何を……」

 縁の顔に浮かぶ愛惜という感情の意味をはき違えたのか、鏡はこちらを叱咤激励しようとする。読心の能力を持たない縁が、読心の能力を持つ鏡よりも他者の精神をよっぽど見通していることが酷く滑稽で、縁は苦笑からただの笑みへと顔に浮かべた表情の色を変化させる。

「きみが悪い……きみが悪いんだよ!」

 なんと言うか、その表情が鏡の感情を爆発させてしまったようだ。

「俺が悪いって……何が?」

「こんなにも死ぬのが怖いって思う原因がさ!」

 その言葉が酷く嬉しくて、縁は子供のような笑みを零す。

「ははっ……!」

「無邪気に笑っている場合か!?」

 ただただおかしかった。ただただ、狂おしかった。ただただ悲しかった。

 この時間が永遠に続けばいいと思った。

「鏡……」

 縁は、鏡の頬へと手を伸ばす。

 龍也は明らかに、周囲への攻撃に気を取られ、足下にいる縁たちを認識していない。

 それは龍也の思考が浸食され、異常保菌者としての本能に支配されていることを示すのだろう。それが、今の縁たちにとっては好都合だった。

 この時間が少しでも長く続くことを、縁は望んでいたからだ。

 縁の前で、龍也はノイズが噴出するのが首より上だからか、上から降り注ぐようにして周囲に影響を及ぼしていた。

 先程、龍也の手から逃れるために地面へと倒れた縁たちに、ノイズの魔の手が迫るまではそれなりの時間があるだろう。

 けれど、ノイズの手によって触れられたものは同じようにノイズとなっている。そのノイズは縁たちの周囲の木々を、極めて奇怪で恐怖をもたらす有り様へと変化させていた。

 ノイズがまるで木々になった木の実かなにかのように枝先に寄り、そして、ぼたぼたと垂れ落ち初めていた。そのノイズが作り出す樹液に触れたものは、異常保菌者に侵された証拠として、ノイズを垂れ流し始める。

 そのノイズが垂れ落ちることによって生まれる檻のせいで、縁たちはここから逃げることが出来ない。

 だから、ノイズの発生源を何とかすることこそ、縁たちに残された唯一の活路だ。けれど、その肝心要となる縁の攻撃能力が、龍也に通じないのは先程からの攻撃でわかってしまったことである。

 ならばこそ、縁はある策を使うということを決めていた。

 その所為で失うものを、ただ名残惜しむ時間が必要だった。

 縁は、鏡を抱きしめる。

「なっ……!」

 鏡は、そんな縁の突拍子もない行動に心底驚いているようだった。

「なにをするんだ…………き、きみは、諦めたのか!?」

 こちらの行動が、何も状況を良くするものではないことを非難する鏡。

 縁はその体を抱きしめる動きそのままに、鏡と視線を合わせる。

「諦めてはいない。勝利への方程式って言えばいいのか……それも、出来ている」

 縁は、じっと鏡の目を見つめる。

「なら、こんなことをしている場合じゃ……」

 鏡はその策がもたらす被害を知らない。だから、その策を行うことを無思慮に促してくる。けれど、縁はそれを嫌がった。

「こんなことをしている場合なのさ、俺にとってはな……」

 縁は身勝手な有り様で、鏡を感じていた。

 変態だと罵られても仕方ないだろう。

 縁はわずかに触れる鏡の皮膚の感触、香り、そして何よりもその呼気に至るまで、鏡を独占しているこの状況を記憶に焼き付けようとする。

「…………あんたは……俺を信用できるか?」

 縁はふと、その言葉を口に出す。

 自分がやろうとしていることが、取り返しのつかない結果を生むかもしれない。

 そんな恐怖が、今更のように縁を襲ったからだ。

「……信用するもしないもない」

 鏡の言葉の意味がわからなくて、縁は改めて鏡の目へと視線を合わせる。

「きみは、やるべき時にやる人間だろう。やれるかやれないか、じゃない。やらなきゃいけないっていう時に……全力を振るえる男だ」

 鏡は、にっこりと笑う。

「そんなきみを……ぼくは頼もしく思っているし……信じてもいる」

 嬉しい言葉だった。縁にとって、鏡の言葉は本当に嬉しすぎる言葉だった。

「少し、痛い思いをすることになる……けど、俺を信じてくれ」

 縁は鏡の信頼にそう答えるしかなかった。それくらいしか言えなかった。他のどんな感情よりも強い歓喜が縁を襲っていた。

「もちろん、きみなら……この状況を解決するための策を考えてくれるだろう?」

 その無邪気にこちらを信頼する表情を浮かべる鏡に、縁はにっこりと微笑んだ。

 縁の微笑んだ表情になにか強い違和感を抱いたのだろう。鏡がその違和感を危機感へと変質させる前に、縁はとある行動を起こす。

 自らが持った不可視の刃を持つ刀で、鏡を貫く。

 そして、縁は、鏡は、ノイズに呑まれていった。


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