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業斗に連れられ、縁と鏡は市外のとある駅前に来ていた。
「鏡、悪いけれど……頼むわよ」
駅に隣接した駐車場が空くのを待って、車を止め、そして駅前の多くの人たちが通る場所を眺めることが出来るファーストフード店に入る。
そこで軽い飲み物を頼んだ後、縁と鏡、それに明らかに放課後の時間にはそぐわない風体の業斗は、お互いを斜め前に見る位置に陣取る。
「ふふ、いつだってアタシはこのあっついお湯気が好きなのよね~ん」
わざわざ紙コップに取り付けられた蓋を外し、湯気とその湯気に含まれるコーヒーの香りを満遍なく味わう業斗。その時、鼻の穴が広がり、その穴に湯気が入り込むのが見え、縁は若干気分を害して窓の外に広がる風景を見やる。
そこで見えた光景は、やはり時間帯もあって、学生たちが行動している様が見えた。明らかに若いが、私服と思われる派手な服装に身を包んでいる女性は恐らく、駅前のトイレかどこかで着替えてきたのだろう。
制服が入っていると思われる学校指定の地味なバッグが、誘蛾灯のように自己の商品価値を誇示しているように見えた。
男もそうだ。男は学ランやブレザーなど明らかに制服だと思われる上着を脱いで、その上に流行り物のジャケットを羽織り、じゃらじゃらとアクセサリーを付けて遊ぶのに相応しい衣服を着ているように見せかけている。
なんというか、どこまでも半端な印象を受けるのが、この時間の学生の遊びに使う衣装に抱く感想だった。
自分が学生だと言うことを半ば免罪符のように使っているような服装。そう思い、自分の服装を見てみると元々遊ぶつもりがなかったからか、学生服のままだった。
これでは人のことを笑えないな、と縁は内心で肩をすくめながら、業斗の方を見る。
益体もないことを考えている内に、業斗はひとしきり香りを堪能しきったらしく、コーヒーを口に含みはじめていた。
「で、俺は一体なにをすればいいんだ?」
縁は自らの逸人としての能力が、どのようにして活用したいという思惑から用意されたのか。そこに興味があった。
「ふふ、アタシだけじゃあ……結局、鏡を守り続けることが出来ない」
「守り続ける?」
縁は理解することが出来なかった。
「仕事もあるしね~ん。異常保菌者に好かれるような精神的な構造を持つ人物を調査し、その経過を調査する。それが鏡の仕事」
業斗の言葉に、鏡は頷きを返す。
「よろしい……そうして異常保菌者が出現するかもしれない場所を特定し、そこに要人が近づかないようにすること。それがアタシたちの主な行動よ」
「だけど、それじゃあ……」
抜本的な解決を行わず、ただひたすらに危険性を告げるだけ。それでは天気予報と何ら変わらない。
そう思って、言葉を募らせようとした縁を片手を伸ばすことで押さえ、業斗は語る。
「アタシも歯がゆく思っているわ~ん。でも、そうした予報が被害の軽減に繋がる以上、疎かにする訳にもいかない。今現在、人員と予算の不足を補うことが出来ない以上、実績を上げる必要があるのよ~ん」
大人の世界のややこしさに、縁は渋面を作るしかなかった。
「あはは、そんな顔しないの。でも、そんな状態にあっても限られた仲間……異常保菌者が現れるかもしれない場所に居続ける鏡の危険性を放置する訳にはいかなかったの。だから、アナタを雇ったのよ~ん」
縁に向けられる期待の視線に、縁は嫌な思いを抱えながらも話を聞く。
「アナタがすべきことは、鏡の護衛。そして、あわよくば、異常保菌者との交戦記録。もちろん、命を危険に晒す必要はないわ~ん。ただ、その記録があれば更に異常保菌者の危険性を訴えること、そして対策を考えることが出来るからというアタシの勝手な期待だからね~ん。あんまり無理しないでいいわ~ん」
業斗は懐の中からタブレットPCを取り出す。どうやら、何かの報告があったようだ。
「だから、アナタの任務は第一に鏡の安全を守り抜くこと。それ以外は些事よ。多少の期待はさせてもらうけど、あくまでやってもらうことはそれだけ。いいかしら~ん?」
何か急ぎの仕事が入ったらしい。業斗はそれだけを言って、財布を取り出す。
「予算足りないから、アタシのポケットマネーだけど……好きなもの頼んでもいいし、あるいは何か別のもので食べてもいいわ」
二枚ほど千円札を取り出し、机の上に置いた後、業斗は外に出ようとした。
「ちょ……!」
「後の説明は鏡に聞いて。今やるべき仕事についてはその子が先輩よ。指示に従うようにね~ん」
捲し立てるように言葉を話した後、最後だけ余裕ぶって悠長に話す業斗。
それは昨日の出来事が関係しているか、余裕を見せつけようと無理をしているように見えて、逆に痛々しかった。
業斗を送り出して、縁は鏡の方を見る。鏡は業斗と同じようにして頼んだメロンソーダを飲んでいた。業斗から差し出されたお金をちらちらと見ながら、メニューも同時に見ている。
「クリームソーダにでもするのか?」
その言葉を聞いて、顔を赤らめる鏡。自分の味覚が子供っぽいことを気にしているようだったが、外見的なイメージを考えるとむしろ合っているだろう。
「きみは……やっぱりそういう失礼なことを考えるよね」
だから、嫌だったんだと言わんばかりにむくれた顔をする鏡に、縁は苦笑する。
「アイスクリーム、でいいんだな?」
「あっ……!」
お金をすり取るかのように手元へ収め、縁は歩き出した。
「はぁ……」
席を立った後、少し迷ってもう一度座り直す鏡。その音を聞きながら、縁は溜め息を吐き出した。
自分に求められるのは、鏡に欠けている自衛の能力を補填することだった。
それでは縁が求めている荒事が起こる可能性は少ないだろう。
縁の嘆息は、その事実に気付いたからだ。
「アイスクリームを一つ。ついでにコーヒーも、もう一杯……!」
注文を頼みおわった後に、縁は気付く。
なにか、違和感のある人物が店の入り口に立っていた。
白衣を着た人物で、男性だ。骨がしっかりとしているが、筋肉がまるでついていない。
本来の目的とは違い、どこか薄汚れた不潔な印象を感じさせる白衣を纏い、ぼさぼさになった長髪を晒している様は、浮浪者のそれを思わせる。
骨張った指先をこちらに向けてくる男。
「君、か……」
何故か、男は店の前、つまりは店外にいるというのに、縁の耳元で男が喋ったように聞こえた。
「君が……今はあの子の傍にいるのか……!」
あの子、その言葉が誰をさす言葉なのか。縁は理解する。
鏡だ。何故かはわからない。直感でしかないのだが、そうだと感じる。
それは恐らく、奴が何か逸脱した存在であるからだ。
縁は様々な違和感の中で、特大の違和感を生み出す事実に気付く。
縁は目の前の存在を見て、その浮浪者然とした姿に嫌悪感を抱いた。
だかしかし、縁の背後にいるはずの店員も、そして、眼前の男の周囲にいる雑踏を構成する人々も、まるでその男の存在に気付いた様子がない。
だというのに、確実に男と触れる行動をしようとすると、何かに遮られたかのようにその動きを止めて、別の行動をし出すのだ。
極めて奇妙だった。だがしかし、明らかにおかしいその存在を、縁は敵と仮定した。
それが異常保菌者というものである可能性があったからだ。
縁からは何もしない。今、縁が果たすべきことは鏡の保護だ。
だからこそ、男と縁は互いに視線を合わせ、何も行動をすることがなかった。
「お待たせしました! アイスクリームとコーヒーでーす」
店員の朗らかな声が響き渡るまで、縁と男は視線を交わしていた。
そして、その声を聞いた瞬間、にやりと笑って男は身を翻す。
「待て……ちぃ!」
逃げようとしたということはつまり、何かここでは仕掛けられない理由があるということだと思い、縁は積極的に相手の情報を手に入れようとするが、護衛の任務が縁の邪魔をした。
「縁、遅いよ? どこに行ったの?」
遅くなった縁を心配したのか、鏡がやってきたからだ。
「縁?」
縁は自らの手と、首筋に汗が伝っているのを、感じてしまった。
体が硬直し、喉が強ばって息をする度に妙な音が鳴る。
恐怖というには異質なこの感情、これが異常保菌者という存在に会った影響なのかと縁は得心する。
どうしようもない、そう諦めたくなる生物としての格の違い。それを肌で感じ取ると動物はこんな形で死ぬ準備をするのだ。呼吸を浅く、体を小さくし、少しでもその暴威が体から逸れることを期待する。
怯えすくむ体に鞭を打ち、前に進める人間だけが、あの異常に打ち勝てるのかもしれない。縁はそう考えた。
「お客様?」
「縁?」
「いや、なんでもない。ありがとう」
縁はコーヒーとアイスが乗せられたトレーを持つ。
「悪い、待たせたな。早く席に戻ろう。アイスが溶けちまう」
縁は自分が長い間立ち尽くしていたと思っていた時間が、実は短いものであったことをアイスの溶け具合から知る。
「そんな時間が経ったわけじゃないでしょうに……」
ぼやくように漏らされる鏡の言葉に、縁は肩をすくめるしかなかった。
「それで……本当は何があったの?」
「あんたには……隠し事が出来そうにないな」
先程、鏡が語った時のようなぼやく口調で、縁は返事をする。
実際、能力がなくとも優れた洞察力と観察力があれば、人の感情や隠し事をある程度、推し測ることは可能だろう。それは昨日、業斗にやられて散々理解させられたことだ。
「異常保菌者と思われる男にあった……」
縁の言葉を聞いて、静かに鏡は瞠目する。
「その男は……?」
「今はいない。何か、気になることがあるようだった……」
縁は、少し濁した話の切り出し方をした。
「気になること……? 異常保菌者が?」
けれど、そんな濁した縁の言葉に、鏡は奇妙な反応を示す。ほっと、安心したのだ。その安心が何故生み出されたのかわからず、縁は困惑と共に苛立ちを感じる。
「俺は……!」
「ああ、きみが異常保菌者と思われる人間を見誤ったとは考えていないよ。ただ、異常保菌者になりかけている逸人を見た、とぼくは思っている」
その言葉を聞いて、縁はふと奇妙な違和感を抱く。
「逸人……? 異常保菌者?」
その関係性に、縁は気付いていなかった。だがしかし、鏡の言葉と縁の言葉に対する鏡の反応で確信した。
「異常保菌者と逸人には……何らかの関係性があるんだな?」
鏡はしまった、という顔をしていた。自分の口から出た言葉が信じられないものかのように、眼を見開いて口を抑えていた。
「不用意……すぎたかな……」
縁の視線は鋭く、事態を誤魔化すことが出来ないだろうと悟った鏡は首を横に振った後にこちらを見やる。
「異常保菌者、この世界にとっての異常。世界を異常な方向へとねじ曲げる源泉」
それを、鏡はストローを例に表す。
「これが世界であり、その中を流れる水が世界の法則だとすると……ボクら逸人の能力は精々がこれくらいだ」
手で持って、ストローの口を動かす鏡。
「吸い出す源泉とその出てくる先は一つ。けれど、その現象がどの場所で発生するのかを選択することが出来る。それだけの能力」
けれど、鏡は学校の用具を入れた鞄からハサミを取り出し、ストローの吸い口に切れ目を入れていく。
その切れ目は長く、そして広がっていくストローは次第にその形をストローから別のものへと変えていく。
「異常保菌者の力は強すぎて、節操がない。様々な場所から力を吸い上げ、無秩序に溢れ出した力によって世界は壊れ、そして、世界を支える法則も……」
ハサミの刃の部分をストローに差し込む鏡。
「最後にはこんな風に穴を開けて、世界の法則を歪みきってしまう。それが異常保菌者の力。だけどストローという世界に対して力を加え、世界の中に流れる法則に干渉するという観点では逸人と全くわらない力を持っている」
「ここまで被害が違うのに、か?」
縁はそのストローを取り、自らの飲み物に差し込もうとする。だがしかし、その寸前で鏡はそのストローを奪い取り、自分の口で水分が流れ出る様を見せてきた。
「乙女の唇は間接とはいえ、安くはないよ?」
「はっ、そいつぁ残念……」
半ば気付かずにやった悪戯は鏡に看破されてしまった。
「まぁ、力が強すぎて、世界の枠を壊しながら法則を操る事が出来るのが異常保菌者だ。でも、彼らは何故そんな強大な力を持つに至ったのか。それが最初、わからなかった」
「最初……ってことは、わかったのか?」
縁の言葉に、鏡は沈痛な面持ちを見せる。
「ええ。奇しくも話題に上がった逸人の異常保菌者への変質を目の当たりにして……ね」
縁はその事実を知り、奇妙な興奮がわき上がるのを感じてしまった。
自分が化け物になれたら。自分の精神が通常の人間を遙かに超える逸脱さを持ったのなら。その時、自分は社会性を切り捨て、常識に囚われず、ただの化け物になれるのだろうかと、そう思ってしまったのだ。
そんな縁を引き留めようとしているのか、鏡が縁の袖を掴んだ。
「縁……きみは異常保菌者をまだ知らない。知らないから、そんなことが思える」
縁の心を読んで、鏡が語り掛ける。
「逸人が異常保菌者になる。それはこの世界から外に出て、この世界の法則に守られなくなった人物が、自らの矮小な存在を守るために、世界を模倣して、自らを異世界の存在に変えていくということ」
縁はその言葉を聞いて、ある種の憧れを異常保菌者に抱く。
世界に対して、戦うことが出来る。個人の力で、世界という枠の中に入り込んだ社会と戦う事が出来る。それは、縁が何よりも求めた力だった。
「違うよ、縁。きみは何もわかっていない……!」
力強く縁を止める鏡の言葉。その言葉の真意を問いたくて、縁は眉をひそめて疑念を提起する。
「異常保菌者は精神の構造を大きく変えてしまっている。彼らは自分というものを見失っているんだ。だから、ぼくはきみの言う異常保菌者が何かに拘ってるということに、違和感を抱いたんだ」
鏡は必死に言い募る。
「彼らは人間的な感情をも失っている。だから、彼らは自分の存在にしか拘らない。ただひたすらに外れてしまった道から戻ろうと、この世界に入り込もうとしているだけだ」
それがこの世界の破壊を伴う行為だと、彼らは知らない。故に、その破壊にはまるで悪意がない。
「ぼくは異常保菌者の心を読んだ。だから、知っている。彼らは帰りたいだけなんだ。それでも、ぼくたちは生きるために、彼らを否定しなくてはならない」
「はっ……」
縁は鏡の発言を鼻で笑う。それは縁が排斥されかかっている社会というシステムが、異物を排除する時の考えとどこが違うのかという思いからだ。
人間が生活する以上、このシステムから逃れることは出来ないのだろう。役割を果たし続ける。その役割と義務を果たすからこそ、この社会というシステムの中で生きることを容認されている。
縁はいつもそう感じていた。だから、そのシステムの中に反する意志を持つ自分という存在を強く意識することになり、そして縛られていると感じていた。
最初、人間が動物として生きることは自由なことであったはずなのに、社会というものを構築し、人権や義務というものが発生してから、縁たち人間は生まれた時から社会というシステムの中で、その存在を容認されるよう努力を強制される。
縁たちのような社会というシステムに組み込まれて生まれた人間は、息苦しさを感じながらも、それに適応するしかない。窮屈で、縁の望みは社会の中で許されるものでもなくて、次第に縁は生きることにすら痛みを感じ始めていた。
「結局、やることはいつだって同じか……」
社会というシステム、そして、その社会に帰属することで利益を得ることが出来ている者たちは、必ず社会を脅かす存在への排斥システムを作り出す。
自分が排除される側だったはずなのに、そのシステムに認定される"私刑"執行人を自分が行うことになる。その事実に皮肉を感じられないほど、縁は無頓着な人間ではいられなかった。
「やる側か、やられる側か……それが違うだけなのか……」
逸人という半ば通常の人間から逸脱することになっても、縁は人間が築き続けてきたシステムから抜け出せないことに、今までの人生で常に抱いていた痛み全てが一回に凝縮されたかのような苦痛を感じていた。
「それでも、きみは今、ここにいる……」
電波な発言だが、縁は鏡の口から漏れ出した声に不思議な安らぎを感じた。
「だから、生きなくちゃいけない……それはきみがいつも、感じていたことだろう?」
縁は自らが真っ当な精神を持つとは思っていない。悪意ある嗜好を持つのが、その証拠だ。だけど、そんな自分を許せない。異常者が悪である理由をわかっていて、そんな自分を許せないと感じるくらいの当たり前の道徳を縁は持っていた。
だから、縁はかつて自らの死を望んだ。それはあの響子の事件があって、すぐの事だった。けれど、自殺をする勇気とそれをする気力がなかった。
自分が悪であることをわかっていたとしても、他人の悪を否定するように、自分の命を捨てることが出来るかは別問題だろう。
だから、縁は自らがここにいるということを強く意識し、小さくなって生きることを望んだ。それが縁に出来る、精一杯の命に対する誠意だった。
「ああ、わかっている……わかっているさ……」
結局、勇気のなかった自分の誤魔化しなのだとわかっていながら、自らの悪性がどれだけ酷いものなのかわかっていながら、死にたくないために生きようとする。
それが縁の正直な有り様だった。
「きみの破壊に対する衝動が、社会の模範的な行動として認められるような仕事や居場所が見つかればいいのにね」
言外に、逸人としての生き方はそうではないと告げるかのような鏡の言葉に、縁は絶句するしかなかった。
「ああ……いや、異常保菌者と出会えば……そうではないのだろうけど、早々あえるものじゃないからさ」
縁の懸念を笑い飛ばす鏡の声。けれど、その声に縁は救われた。
「進路を間違えたかと思ったよ」
軽口を口に出しながら、縁はとある疑問を抱く。
先程出会ったあの男、あれが異常保菌者ではないのだとするのならば、一体どんな人物だったのだろうか。ただの異常者、なのだろうか。
そんな風に思考を巡らせる縁は気付かなかった。
縁が自らの頭の中で、あの男の正体を探る度に、何かに怯えるかのように鏡の体が震えていることに。
「さて、今日の観察は終わり。いやぁ、きみにとっては残念だったのかもしれないけど、新たな逸人の兆候もなければ、異常保菌者の気配もなしと実に平和な一日だったね」
「馬鹿にするなよ。悪癖ばかり持つ俺だが、平和の尊さくらいはわかるさ」
「じゃ~あ~、それを維持する大人の苦労もわかってほしいわね~ん」
軽口を叩きながら、暗くなった頃に店を出ようとする縁と鏡の二人を引き留めたのは、二人の保護者とも言える男の声だった。
「縁クン、アナタのご両親の説得が終わったわよ~ん」
その言葉に、縁は嫌な予感を抱く。
「俺の親は……なんと言っていましたか?」
「好きにしろ、と。むしろ勤労に対する意欲があるようでなによりだと言っていたよ」
その言葉を聞いて、縁は怒りを通り越して呆れすら感じてしまっていた。
「どういうこと?」
「いや……」
縁はこうした反応を示したのは、ある訳がある。その訳とは縁の両親が持つ教育方針にあった。縁の両親は子供は経験から育つべきだという考えを持っている。
そのために、子供が選択した行動だというのなら、大抵の行動は黙認する。けれど、縁はそれをただの放任主義とは違う無責任さだと感じていた。
「俺の親は……俺を叱ったこともない。ただの一度を除いて」
縁は自らが一度だけ怒られたことを思い出す。それはあの響子を助けた時に言われたことだった。
「自分を危険に晒したのは、失敗だったな……」
まるで自らが唾棄すべき存在に成り果てたのだと、言外に語るかのような口調で、縁はそう罵られた。
「なに、を……」
縁は人を助けて罵倒されるという驚愕の事態を前に、ただただ呆然とするしかなく、その後に続いた聞きたくもない親の価値観を知ることとなる。
「お前がその歳になるまで、こちらがどれだけの資産を使った?」
確かに、人を育てるのにかかる金がどれだけのものになるかなどということを当時の縁は知らなかった。それがどれだけの節制を強制するものなのかもわからない。
だがしかし、それが今現在語るに相応しい内容かどうかを判断する良識、いや、常識はあった。
「止めてくれよ……! そんなことを言わないでくれよ!」
縁はその時、親に向かって始めて叫んだ。
「命を助けるって瀬戸際に……何でそんなことを言うんだよ! 命より大切なものなんてないんじゃないのかよ……!」
縁の悲痛な叫びは届かない。
「その命を、お前は粗末にした。どれだけの価値があるのか、どれだけの価格があればそれまでの命になるのか……」
「だから、そんな金の話をするのは止めてくれよ! そんなに…………そんなに金が大切なのかよ!」
縁は自らの命をお金に変換して考えるような両親の考えに、ひたすら恐怖した。
そして、縁は彼らから距離を取った。自分が彼らの子供だと思うことすら、縁には辛い思いを感じさせる行為になっていた。
そして、そんな縁の行為に、両親は何も言わなかった。むしろ、それこそが縁に両親への更なる隔意を抱かせた。
それ以来、縁は彼らと話をすることなど無くなった。彼らと過ごす時間が少しでも少なくなるように、学校の図書室で時間を潰すようになり、夏の過ごしやすい時期には夜の街を彷徨い歩くこともあった。
そんな行為を続ける内に、彼らもまた縁の行為に対して、興味すら見せなくなった。
だから、縁はまた彼らの言う大切な資産を使った自らの命を省みない行為に手を染めている。そして、そのことに気付かない彼らに、奇妙な優越感すら感じ始めていた。
「縁、それはいけない感情だよ……」
静かに、縁の怒りを止めようとする鏡。その言葉に、縁は何も言わずに唇を噛みしめるだけだった。
「所詮、蛙の子は蛙。逆もまたしかり、ってことなんだろうな」
自分という異常者を生み出すに至る環境というものがあるのだと、縁は理解し始めていた。誰もが、人として当たり前の生きるために必要な攻撃性として、悪意を持っている。けれど、その悪意が実際に犯罪や悪癖として実を結ぶには、敵が必要だった。
敵、それは自らの命や考えを否定しようと近づいてくる者の総称だ。
その存在があればあるだけ、歪みが生まれるまでの時間が短くなる。自分という存在が歪み、心の内に潜めることが出来たはずの悪意が実を結び、顔を出すようになる。
それが誰もが持っているはずの悪意が、人を害する可能性がある悪質なものへと変わるためのプロセスだった。
「きみは……あくまで、人の意志を信じているんだね」
そんな考えを抱いた瞬間に聞こえた鏡の言葉に、縁は驚く。
「だって、そうだろう? きみは、この世界に存在する社会というものの強さを信じている。けれど、社会というものを構築している人間たち全てに、その社会を破壊する悪意があると認めてもいる」
「なるほど、そういう話……なのね~ん」
キャラを付け忘れた発言だったのか、最後に特徴的な語尾を付け加えて、業斗は鏡の発言からその真意を推理しているようだ。
「大人から言うべきことはあるんだけれど、ここは鏡に任せようかしら~ん。この年代におばさんの説教なんて、聞いてはくれないものだしね~ん」
「……わかり、ました」
業斗の視線とその視線の中に込められた意志を自らの能力で感じ取って、何かを託されたと重々しく頷きを返す鏡。
「社会を破壊する悪意を持つのが人間で、その社会を守る秩序を作っているのも人間……なら、この世界の秩序が今、均衡を保っていられる理由は……そこにいる人々が善良だから。そうきみは信じているんだろう?」
「……はんっ」
縁は気付いたが、縁は自らの心の中にある感情を言い当てられて、ふて腐れる。
「きみは人の中にある悪意の存在を知っている。けれど、それに打ち克とうとしている人の強さをも信じている」
鏡は自らの言葉が徐々に熱くなっていることに気付いているのだろうか。
「………………なら!」
鏡は迷っていたのだろう。けれど、胸元を掴み、あふれ出る感情のままに言葉を発することを最後には選択した。
「何故、きみは自分の心を信じない! きみは、きみ自身の心にある強さだけを軽視しているようにぼくには思える!」
その言葉を聞いて、縁は自らの心へ問いかけ、正直に答える。
「それは……こんな場所でしていい話か?」
その言葉を聞いて、鏡は周囲を見渡し、そして、自分が奇異の視線を向けられていることに気付いて赤面する。
縁は、少し不快な思いを感じた。だから、縁は周囲を睨み付ける。
その奇異な視線の中には、鏡に対する好奇の視線だけではなく、鏡に対して入店してからずっと向けられていた好色の視線もあった。
そんな視線を向けていた男性に対してだけは、縁は更に苛立ちを込めた視線を向ける。
その瞬間、縁は自らが視線を向ける先に、業斗もまた苛立たしげな視線を向けていることに気付いてしまった。
業斗は縁の方を見て、にこりと微笑みを向けてくる。
「とりあえず……場所を変えよう……」
縁は何度も頼んで楽しんだコーヒーが温くなっているのを手で感じて、一気に呷った。
感情として今、縁の胸中にわき上がる苦みにはほど遠い苦味。けれど、その味わいは、不思議と縁の心に区切りを付けた。
縁は立ち上がる。その行動にあわせて、鏡も立ち上がった。
業斗はにやけた顔のまま、縁についていく。
「なんだって、俺が先頭なんだ?」
その言葉を聞いて、業斗は更に楽しそうな顔で笑っていた。
「年長者のアタシも、頼りたくなるようなイケメンっていうことよ~ん」
業斗の言葉に、縁はこれまで人生の中で浮かべたことのない表情を浮かべることとなってしまった。
「そんな何匹もの苦虫を噛み潰したかのような顔をしないでよ」
若干、先程の恥ずかしさが残っているのか、赤みの残った顔で鏡は縁の表情を解説してくれた。
「ったく……」
自分には有り得ないと思っていた、人を率いるという感覚に、縁は言いようのない恐怖を感じてしまう。人を率いるという感覚がどれほど重く、苦しいものかを縁は実感する。
自分が間違っている感性を持つ人間だという実感があるからこそ、縁は人を率いるような資格がない人間だと感じていた。
だって、そうだろう。縁は自らの感性が悪性のものだと知っている。その悪行を尊ぶような非人間的な感性を知っている鏡や業斗が、わざわざ"間違っている"縁の下に、あえて付こうとしているのだ。それはとても、正気の沙汰とは思えない行動だった。
「で、業斗さん。あなたが迎えに来たということは……?」
「う~ん、そうね~。今日の仕事はもう終わり、と言いたいところだけど……さっきの若い二人の主張は必聴の価値がありそうだからね~ん」
その言葉を聞いて、縁は歯がみする。
「そんなもの聞いてどうするって言うんですか……」
縁の鏡に対する答えは決まっている。だからこそ、縁はそう言った。
「ん……?」
縁はふと気付くことがあった。自らの服の裾をそっと握る鏡がいたことだ。
「なんだよ……?」
縁は軽く腕を振る。けれど、鏡の手は縁の服の裾を離さない。
「きちんと、口で言って……!」
鏡は懇願する。それが何故なのか、縁にはわからなかった。けれど、それをするのが一番、この状況から逃れる最短の道だと判断することは出来た。
「はぁ……」
軽く、溜め息を吐き出した後、縁は口に出して先程の鏡の言葉に答えを吐き出す。
「結局、俺は……自分のことが嫌いなんだろうよ。自分の中にある悪癖が眼について……それが嫌で、嫌でしょうがないんだ」
縁のその言葉は事実だった。
けれど、その言葉を聞いたからこそ、鏡は言葉を募らせる。
「きみには、そんな悪癖なんて覆すほどの優しさと心の強さがある……! それを信じることは出来ないの?」
「どこに?」
そんなものがどこにあるのか、縁は自らの心の中に問いかけて、それでも答えが出なくて何も言えなかった。だから、縁は鏡に問いかける。
「どこに……って、きみは気付いていないの?」
それが不思議だと言わんばかりの鏡の言葉に、縁は首を振って肩をすくめる。
それは、あなたの眼が見ているものが間違っているのだと言わんばかりに、だ。
「きみが今、ぼくを外に連れ出したのは何故だ? 昨日、きみが業斗さんのことを気遣っていたことを、忘れたのか?」
鏡はひたすらに言葉を重ねる。けれど、縁の心は動かない。
「それは……俺がこの社会に怯えているからこそ得た処世術だ……決して、心の底から誰かを思ってやった行為じゃない」
そんなことで、鏡は縁のことを優しいと思ったのだろうか。だとしたら無駄な期待をさせてしまって、申し訳ないとすら思う。
けれど、そんなことは関係ないと言わんばかりに鏡は首を横に振る。
「だったら……きみは何故、自らが餓死の感覚を強制されているあの状況で……ぼくを気遣ったんだ!」
それこそが真実だと、鏡は口に出した。
「あの状況で……ぼくに気を遣うなんて……普通の人間が出来ることじゃない。普通の人間が当たり前に持っている優しさで出来ることじゃないんだ!」
鏡は感情が高ぶってしまったのか、涙すら浮かべていた。
「それは……」
「それにはアタシも賛成よ~ん。縁クン」
業斗は吐き出しなれていない激情を吐き出したことで、目から涙をにじませる鏡にハンカチを差し出しながら、縁を見る。
その視線には娘と呼ばれるべき存在を泣かした男に対する怒りが込められていた。
仕方ないだろ、という気持ちを抑えて、縁は視線を逸らす。
「こちらを見なさ~い」
しかし、業斗は縁のそんな甘えを許さない。
「アナタは優しいわ~ん。それは……多くの逸人が覚醒する際に、能力で接続したこの子を殺してきたことを……傍観していたアタシが保証する」
縁はその言葉に、やはりという感情と共に形容しがたい怒りを感じた。
「アナタ、今、怒りを感じているでしょう?」
業斗は笑う。
「その感情を抱くことが出来るというのも、アナタが人一倍優しいって証拠よ。だって、本来なら……逸人としての能力に目覚めるにあたって、逸人の多くは鏡チャンを殺している。だから、その罪悪感から鏡と一緒に行動することも、鏡チャンのためを思って行動することも出来なくなるのよ」
縁はその言葉を聞いて、逸人覚醒の要とも言える鏡が保護されていない理由を理解することとなった。元々、護衛が必要な人物だというのに、それが為されていない理由。それは逸人としての覚醒方法による問題だったのだ。
自分が想像の中でとはいえ、殺した人間と常に一緒では心が持たないだろう。
それが危機的状況によって、生まれた仕方のない行動だったとしても、それに耐えられるような人間を普通の人間とは言わない。
それが出来るのは、縁のような極めて特異な性質をもった人間だけだ。
「縁、違うよ……きみは、きみだけはぼくを殺さなかった。それだけで、きみは……」
「素晴らしく優しく、そして、気高い……そうよね~ん」
二人が縁に対して、好感を持っている理由がようやくわかった。
「正しさだけでは救えない……正しさだけでは破れない……そんな現状を破壊する人間としての期待、なのか……」
ぼそりと呟き、縁は理解と共に恐怖を感じる。縁はかつて、動物の番組を見ることが好きだった。父親が好きだったからだ。そして、そんなテレビの中で縁は、とある山羊の習性を見ることとなる。
それは強制的で機能的な自殺の方法だった。その山羊一匹が自殺をした理由。それは特出されるような理由があったわけではなかった。ただ、たまたま困難に直面したのが、その山羊だったというだけだ。
その山羊は、草を食い尽くさないように移動を繰り返す山羊の群れの先頭にいた。
その山羊は目の前に崖があることに気付き、立ち止まる。けれど、後ろにいる山羊たちはその困難に直面した山羊の現状を知らずに先を急ぎ、彼を押し、崖の下へと突き落とした。そして、その山羊が困難を乗り切れれば山羊たちは彼が通った道を行き、そして、それが失敗すれば、別の道を、ひいては別の生け贄を探した。
その有り様は、社会の中で生まれたはぐれ者を、如何にうまく利用するかを体現したものだと今の縁には思えた。
縁は今の状況をそれだと思う。崖上の山羊、とでも言えばいいのか。
「はぁ……」
でも、今はそれも悪くないと縁は溜め息混じりに思う。
「俺は、優しくなんてない……」
「縁……!」
「けど、あんたたちが心の中に描く俺は優しい奴なんだろうなってことは、認めてやる」
それが縁に出来る精一杯の譲歩だった。
「男の子は頑固ね~ん」
「ふふっ……」
縁は赤らめた顔で照れくさそうに笑う鏡の姿を見て、苦笑を浮かべるしかなかった。
「さて、今度は俺が聞きたいことを聞かせてもらおうか……」
縁は業斗が来たら、聞かなければならないと思っていたことを聞くことにした。
「逸人が異常保菌者になるっていう話を聞いた……」
「あら、喋っちゃったの~ん?」
縁の詰問を逸らすためか、業斗は鏡へ話の矛先を向ける。その矛先を向けられて、鏡は申し訳なさそうに肩身を狭くしていた。
「問題は……それが一体誰が観測されたことによって、確定した事象になったか……だ」
縁は逸人というもの、そして、異常保菌者というもの、さらにはそれに対する部署がそれほど歴史が深いものではないと感じていた。
その理由は逸人や異常保菌者の能力によって、変質した現象を観測するのにカメラか必要だということからだ。カメラが当たり前のように広まったのは、近代。そして、さらに監視カメラや防犯カメラが周囲に当たり前のように配置され始めたのは、さらにここ数十年のことだ。
ならば、その数十年の間に、逸人と異常保菌者の部署は出来たはずである。では、その能力や逸人と異常保菌者の違いに関する疑問はいつ判明したのか。
それを考えれば、縁は目の前にいる業斗こそがその答えを知っているはずだと推測していた。
「ふぅん、そこまで頭が回るなんて、ね~ん」
キャラを付け加えるのを今回は忘れなかったようだ。業斗はやや怪しいものの、最後には自らを象徴する語尾を付け加える。
「アナタの認識を改める必要がありそうだよ」
その声は細く、高い声だった。いつも聞く業斗のそれではない。明らかに、女性のものと思われる声だった。
「なに?」
「んふふ~ん」
縁はその声に驚き、後ろを歩く業斗を見る。けれど、そこにはいつもの声で笑い、こちらを見る筋肉中年の姿があった。
「筋肉中年……ふふっ」
縁の思考を読んで、楽しそうに笑う鏡。
「そんなことを考えているなんて、不敬ね~ん」
「不敬、ねぇ…………ま、そう思うんだったら、尊敬に値するような行為を見せてくださいよ」
不敬などという小難しい言葉を日常的に話すことがおかしくて、縁は笑いながらツッコんだ。
「じゃあ、そうさせてもらおうかしら」
再び業斗のものとは思えない女性の声が響く。
今度は逃がさない。そう思って、縁は業斗の方向を見る。
そこには美しい女性の姿があった。業斗の時とは何故だかわからないが、服装も変わっている。業斗の時では似合わないインテリな女性らしさを感じさせるレディーススーツを完全に着こなすクールビューティーがそこにいた。
女性としての体付きとしては、かなりメリハリのあるボディだが、それ以上に縁が驚いたのはその身長の高さだ。男で割と身長の高い縁よりも若干高く、バレーの選手と言っても通用しそうなほどに背が高い。髪は長く、黒髪をまるで鞭かなにかのように足下近くまで伸ばしているのが特徴的だった。
「アタシの能力を話すことはなかったわね。アタシは自分の体を、本当の意味で操れる」
その言葉を聞いて、縁が最初に思い至った感情は脅威だった。
体を操れる、それが性別の差として出るほどのものならば、それは正しく凄まじい身体操作能力だと言えるだろう。戦うことに適正があるかどうかはわからない。けれど、何よりも恐ろしいのはその顔の変貌だ。
先程の業斗の顔と、目の前にいる女性の顔を見比べてみる。
その顔に、共通点は限りなく少ないものに見えた。
つまり、業斗の言う体を操るということは顔の形すら変えられるというものらしい。
最初出会った男の姿が、筋肉ムキムキマッチョなゴリラのような体格であったということを考えると、筋肉を付ける場所も変えられるのかもしれない。
質量までは操れないだろうということを考えると、胸や尻などのセックスアピールが強い場所に肉が付き、髪に更なる増量が見られるのはそれが原因だろう。
「元々、アナタを護衛に適した能力を持つ人間だと見込んだ責任を……アタシは果たさなければならない」
その言葉に、縁は嫌な予感を抱く。
「アナタに戦闘の手ほどきをする。その必要があると感じていたのよ」
その言葉が終わった後、車に乗って縁たちが辿り着いた場所、それは昨日、縁が逸人として覚醒した市役所だった。
散々辛酸をなめさせられた場所に再び来る。その心理的な疲労は大きく、縁は襲い来る気味の悪さを耐えなければならなかった。
縁は恐らく、未来永劫この場所を好きになることはないだろう。それだけ昨日の体験は強烈なものだった。縁は自らの手を握りしめる。そして、その手の中に、自らの力が込められていると想定し、それを解き放つ。
当たり前のように撃ち出されたその攻撃は、中空を狙っていた。
万が一、本当に何らかの力が放たれた時の措置として振るったその攻撃は、当たり前のようにしなった業斗の髪によって払われる。
「気晴らしの一撃、けれど、逸人の能力は未だ誰も知らない部分が多いものよ。護国のために働く人間としては、今の行動は失格。考え無しに、力を振るってはダメよ」
業斗のお叱りに縁は肩をすくめる。確かに考え無しに行った行動だった。
叱られて肩身を狭くする縁に対して、鏡はどこか悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
その表情が子供の頃に言われたやーい、怒られてやんのという良くある同級生のからかいによく似ていて、縁は軽く手を振り上げてみせる。
「ははっ!」
破顔し、微笑みを満面の笑みに変えて鏡が笑う。
「きみがそんな簡単に暴力を振るうわけがないじゃないか」
だから、脅しにもならないと鏡は笑うのだ。そんな鏡に縁は髪をかき乱しながら、頭を振るしかなかった。
「前任の担当者としては護衛対象との仲がよろしいのは大変結構だけど……一応これから戦闘の腕前を見る訓練を行う予定なのよ? その担当官であるアタシに媚びを売ろうとかそういう考えはないのかしらね」
縁はそうした他者に気に入られる努力を、こざかしいと感じるような人間だ。ならば、そうした行動を改めて行う理由がなかった。
むしろ、縁はもっと気になる発言に気を取られていた。業斗は鏡の護衛として先任されていた人物だった。それを考えれば、縁は業斗に認められることこそが、この仕事で必要なことだと考える。
そして、逸人としての戦闘能力。それがどういうもので、どういった性質があるのか。手本となる人間が必要だった。
縁は先程の発言からその発想の基礎を業斗に求めることを決めていた。
「さて、いつもの場所に辿り着いた所で……」
今度は息を切らせることもなく、階段を上がり、業斗は部屋の鍵を開ける。
「先手はアナタに譲ってあげる。アナタがどうするか、アタシに見せてみて」
その言葉を聞いて、縁はまず先程行ったことを繰り返すことを決断した。
「こう、する!」
縁が放った不可視の力。恐らく、昨日と同じ力の性質を持っているとすると、切断の能力を持つその力を首を振ることで、髪を乱して散らす業斗。
「つまらない様子見の手段ね」
首をしならせ、髪が一直線になった瞬間に、業斗は自らの髪を握って振り抜く。
髪はまるで自らそうするべきだと認識したかのように解け、一つの黒い鉄塊から削り出されたかのような槍を作り出す。
「さて、始めましょうか……」
その言葉と共に突き出される黒髪で作り出された槍。
その槍の突きを後ろに下がることで避けようとして、縁は業斗の手の中で振られた槍が微妙に伸び縮みしていることに気付いた。その動きを見てとって、縁は咄嗟に途中で体をひねる。すると、そんな縁の体に追いすがるように槍が伸びた。
縁は改めて理解する。逸人の能力は極めて特殊であり、個々人の適正によって決まるものである。そして、その能力に発想の制限はないのだろう。故に、縁は目の前の敵がどれだけ危険な存在なのかを、理解する事が出来ないと結論付けるしかなかった。
逸人や異常保菌者に対して、敵の能力を予測し、その限界を予測することは逆に危険だと縁は理解する。
「いい反応だ。合格だよ、合格。けれど、回避は出来ても防御は? 攻撃は? アナタの全力を見せなさい!」
縁は業斗の台詞の端々に見える狂気に気付いていた。
恐らく、業斗の中には自らの可能性に対する不安と不信があるのだろう。だから、己自身を改造することを望んだ。自分の意志で自分を操る。それを希求するということが、どういう感情によって生まれたのか、縁は想像も出来ない。
だがしかし、今、縁が考えている通り、普通の人間にとっては自分の体を操ることが出来るのは当たり前のことである。それをあえて望む、それの極限を望む。その極限を超えた究極を望む。ああ、全く度し難いほど変態的な欲望であると縁は理解する。
逸人としては正しく相応しい有り様だろう。
縁は口元に笑みが広がっていくのを感じていた。
「ぶった斬る」
縁は自らの望みを端的に語る。
先程は片手でやったものを、今度は両手で行う。手の中で破壊の意志を貯める。
その感覚こそが、縁が逸人としての能力を用いる時に、最も必要なものであると感じていた。力を意識し、そして、その力がどういうものなのかを想定する。
「最初の段階は出来ている。けど、力をコントロールできていないね」
けれど、それでも甘いと業斗は伝えてくる。
「鏡の能力が例に挙げやすいでしょうね……鏡は最初接続する相手を一人しか選べなかった。それは逸人の能力を覚醒した時と同じく、自分の能力をその程度のものだと認識し、自らで限界を作ってしまっていたからよ」
縁はその時、ぞくりと背筋を凍らせる感覚に気付いてしまった。
「だから、その限界を破壊する……それにどんな方法が適しているのか、アナタは知っているはずよね?」
酷薄に笑いながら、こちらに対してそう言ってくる業斗に対して、縁は呆れと共に呟くしかなかった。
「また……精神論ですか……」
限界を突破するために、追い込みを掛ける。それが昭和の時代に良くあるような根性論に支えられているということは簡単にわかった。けれど、それが一番効率のいい方法なのだろうと無理矢理自分を納得させて、縁は業斗と再び相対する。
業斗は当たり前のように槍を振るい、そして、その槍を解いた。
再び形を変えて別の武器を作り出そうと言うのだろうか。警戒のために体勢を整えた瞬間、縁は自らの頬に熱さが走るのを感じてしまった。
その熱さは、次第に痛みへと変わっていく。頬を切り裂かれていた。だがしかし、一体どうやって。そんな疑問は空気をつんざくような破裂音と共に消えて無くなる。
「鞭、か……」
髪という素材から槍が作られる。そんな不可能を可能としているのは、自らの肉体を操るという能力だ。堅くなるという変化が可能ならば、その逆もまた可能。そういうことなのだろう。
厄介だ、と思うと同時に対処は簡単だとも縁は思う。
その理由は、自らの能力が切断にあるからだ。縁は鞭という武器が、その根本に構造的な弱点があると知っている。
自らの手の中にある切断という現象を引き起こす力を込めて、縁はその時を待つ。
そして、その時はまもなく訪れた。今だ、と思う間もなく縁は業斗が鞭を振り下ろす瞬間に合わせて、その手の中で動きを止めている鞭の根本に力の行き先を合わせる。
その視線に気付き、縁が鞭という武器の破壊を狙っていることに気付いた業斗は体を強ばらせるが、もう遅い。縁は手の中にある力を解放し、そして、走って業斗の元へと向かおうとした。
「づあっ!」
それを止めたのは、縁の体を容赦なく痛打した鞭の破壊力だった。
なぜだ。そんな疑問と共に、縁は切り飛ばした鞭を見る。そこには、縁の斬撃などまるでなかったかのように健常な姿を見せる鞭の姿があった。
「鞭の根本。慣れた人間なら音速の壁を突破して振るうことが出来る鞭の根本を狙うという考えはすんごく、読みやすかったわよ。縁クン」
縁を悔しがらせるためだろうか、凄くという部分を強調して語る業斗。
けれど、縁はむしろそんな下らないことよりも、重大な問題に眼を向けていた。
己の切断という能力の不甲斐なさについてである。縁はこのような超常的な能力を望んでいた。それは決して、良くはないことだろうと思う。
鏡に語った通り、こうした能力は一般的な人間に対するズルなのだから。けれども、そうして望んで得た力であるが故に、縁はその力が他愛のないものであることに我慢がならなかった。
だからこそ、縁は鞭を断ち切れなかったことに強い不満を抱いていた。故に縁は自らの力で持って、事を成し遂げるために力を精錬する。
「縁……きみが力を望むというのなら、それを意識して利用する方法を教えるよ」
ここまで沈黙を保っていた鏡の言葉に縁は頷こうとして、それを封じるかのように振るわれた業斗の鞭を避けることに集中する。
「安易に人に頼るというのは良くないなぁ……」
業斗の笑み。その笑みがどういう性質のものなのか、縁は知っている。
縁だからこそ、知っている。
「なんだ……あんた、同類なのか……」
縁が見た業斗の笑顔、そこには嗜虐の喜びがあった。
その瞬間をもって、縁は全力を出すということに対する抵抗感が消えてなくなる。縁は自らを嫌悪している。だからこそ、自らと同質のものを持つ存在を自らを嫌うように、縁は嫌えるのだ。
「切り崩し、破壊する……」
断ち切る、という意志では足りない。ならば、破壊を求めよう。
どうしようもなく、縁はその意志を持って自らの手の中にその意志を込めた。
だがしかし、結果は無残なものだった。破壊の意志というものは、縁にとって相性の悪いものであるらしい。
切断という形で放った力よりも、圧倒的に威力が足りない。
それがわかってしまった。手の中にある破壊の意志、それを縁はあえて自らの頭の中で炸裂させる。
「なにを……!?」
驚愕する業斗を一顧だにせず、縁は自らの思考の堅さを破壊する。
「くっ……ははっ、はははは!」
くらくらとする頭を抱えて、縁は笑いを零した。
「狂人、なのか……アナタの本質は……」
その言葉が、縁に聞こえた。今更そんなことに気付いたのかと、更に縁は笑えてしまった。縁は自らの価値観を狂っていると断定することが出来る。
けれど、だからこそ、掴める勝機があるのだ。
自らの発想が狂っている。とどのつまり、常軌を逸しているということは、理外の法則を操る逸人として優れた感性を持っているということになる。縁はそれを確信と言えるまでに信じることとした。そうすることが勝利への近道だと信じたのである。
そう信じる事によって、縁は今まで使ったことのない力の使い方をするというぶっつけ本番での無茶を選択する勇気を補おうとした。縁は、自らの掌の中にとある武器を作り出す。それは切断という意志を用いて作り出された武器だ。だからこそ、縁はその意志で作られた武器を握る際に勇気を得る必要性があった。
「ぐあっ!」
痛み。圧倒的な痛みは、縁の手の平で発生していた。
切断に特化した縁の能力に、無駄なものは作り出せないと縁は考えた。だからこそ、縁は自らの武器をむき身の刃として顕現させた。
その刃は自らの血によって、ようやく姿を見せる。
けれど、自らを切り裂いて、流した血によって濡れた刃は、縁にとって何よりも自信のある武器だった。
「行っけ、よ!」
手の中で千切れた肉片や血と共に、縁は傷みすら投げ捨てるつもりで、自らの逸人としての力が凝縮した武器である剥き身の刃を放り投げる。
その刃は血で濡れているからこそ、投げられた時の回転で刀身に血が伝い、その全長が見える。棒手裏剣のような形をした力は当たり前のように、業斗に避けられた。
「そんな丸見えの攻撃で……」
勿論、縁も業斗を捕らえることが出来るなどという夢物語を信じるわけがなかった。
だからこそ、二手、三手と同じ行動を続けていく。
「鬱陶しい!」
縁のそんな行動を無駄な努力だと笑うように、縁の力を鞭で叩き、撃ち落とす業斗。その姿を見て、縁は冷静に考える。
縁は自らの意識の端に、暗い澱みが溜まっていくのを感じる。
その澱みが俗に言う貧血であるとわかりつつも、縁は今、この行動を繰り返すしか取るべき手段がなかった。
「無駄な行為を積み重ねて……何を狙っている?」
縁は自らが考えついた行動が、酸素不足によって頭が楽な方向へと逃れるために思いついた幻想ではないかと思いながらも、着々と準備を進めていた。
縁は思う。感謝を、と。鏡は二人の戦いをただひたすらに見守ってくれている。
その存在が、縁には酷く心強い存在に思えた。
縁は何時だって、孤独だった。自らの心根を知って、自分を否定しない存在などいないだろうと思っていた。眼を背けられ、暖かな眼差しなど向けられることはないだろう。それこそ、縁は宗教に救いを求めたいと思うほどに、かつては追い込まれていた。
けれど今、縁には自らの心の中にある醜い心とそれが形作る逸人としての能力を見せても、眼を逸らさない人物がいる。それが鏡だ。貧血でくらくらする頭の中で、縁はそんな存在がいてくれるということに対する嬉しさを隠しきれないでいた。
縁はいよいよもって、自分の頭がおかしなことを考え出したことに気付くこともなく、計画を実行に移す。
「っ!」
先程までと同じように縁は力を固めた剣を放り投げる。その手裏剣には今も縁が自らの身体を切りつけたことによって、流れた血で濡れ光っている。
縁はそれを見て、血の気がなくなり、白くなった顔で笑う。その酷薄で、どこか人間味の少ない表情に恐怖を感じたのか、業斗が少しだけ体を強ばらせた。
縁はその瞬間を待っていたとばかりに、走るには力を失い過ぎた足で歩き出す。
縁は自らが倒れるような形で歩いていることに気付き、笑いを零す。
「不気味なんだよ!」
業斗はそんな縁を先程までの言動と照らし合わせて、狂った人間のようだと嫌悪し、武器を振るった。その動きは今までとは違い、単調だ。だからこそ、縁は自らの手の中にある力の塊をかざすだけで、その鞭の動きに合わせることが出来た。
「なっ……ちぃっ!」
自分が如何に無様で、安直な行動をしたのか。驚愕、理解、そして後悔へと業斗の感情が移りゆく有り様を見ながら、縁は自らの意志で更なる力を振るう。
掌の中にある力。縁はそうして力を振るうことが最も自らにとって相性のいい行動だと信じることが出来た。だからこそ、縁は自らの掌の中に集めた力を二つに分ける。
その力同士をふれ合わせることによって、縁は自らの力が自分を傷付けずに振るう方法を見出した。縁は歯車仕掛けの機械をイメージする。そして、手の中にある力の塊にその歯を構築させ、かみ合わせることによって、力を弾き出す機構を作り出す。
それらを精緻に想像することは縁にとって大きな負担だった。だがしかし、その苦労に見合うだけの力はあった。透明で見えない刃を放つ殺人兵器。業斗はそれを認識することなど出来ない。先程まで、血の目印が付いていた力しか見てこなかったのだから。
そして、吐き出された縁の力は業斗のすぐ傍にまで近づき、その横を通り過ぎた。
「そこまで!」
試合の終了を告げる鏡の言葉。その言葉を聞いて、業斗は眉をひそめた。
「鏡……アナタ……」
「お母さん、これは仕方ないよ……」
鏡は語る。
「今、お母さんは……首を飛ばされていた」
その言葉に、眼を剥く業斗。
「どういうこと?」
「説明は後、今は……縁の手当を優先しないと」
その言葉を背景に縁の意識は黒い闇に呑み込まれていった。