2
市役所の地下駐車場に入り、縁たちは車を降りる。
「縁クン、こっちよ~ん」
縁は室内表示に従い、一般の入場口を通ろうとして、鏡に呼び止められる。
「アタシたちは市役所の内部に部屋を借りている……って扱いになっていてね。狭い所で恐縮なんだけど、こっちに来てくれな~い?」
縁が案内された場所、それは非常階段の中だった。
「この非常階段を四階まで上がってもらえる?」
業斗の言葉に縁は眉をひそめる。
「学校じゃないんですから、四階まで上がるって……」
「表だって活動報告をすることが出来ない秘密組織なんて、いつだって、資金繰りに困っているものよ~ん」
にこにこと笑いながら、業斗は先だって階段を上がる。
その後をややげんなりした顔をしながら、鏡が付いていくのが見えた。
なるほど、階段での移動が嫌なのは自分だけではないらしいと縁は内心で笑いを零す。そんな縁を鏡は流し目で一睨みして、自分だけさっさと上へ向かってしまった。
縁は一つ溜め息を吐き出して、長い階段を上がり始める。とは言っても、学生である縁と鏡は階段というものに慣れ親しんでいる。むしろ、本来はここの務め人である業斗の方が体力がないようだった。
「はぁはぁ……歳は取りたくないわねぇ~ん……」
縁は業斗が漏らした言葉に首を振る。
「本来、あなたの職場だっていうのに……なんだって、あなたが一番……」
「アタシ、こんなスピードで上がったことないのよ~ん……」
その言葉を聞いて、いつのまにか縁と鏡の方が業斗よりも遙かに先を歩いていることに気付く。
業斗の短足が関係しているのか、大分無理をさせてしまったようだった。
「まぁ、後少しだし……ゆっくり行くとしますか?」
「そう、ね……」
息も絶え絶えな業斗の様子を見て取って、縁と鏡は頷き合う。
「は~、アタシも歳なのかしらね~……」
階段を上りきり、肩をこきこきと鳴らしながら、業斗は懐から鍵を取り出す。
「この先の鍵はアタシしか持っていないわ。空いてたら、アタシがいる。空いていなかったら、アタシがいない。それがわかるようにしてあるの」
縁はその言葉に違和感を抱く。縁がいる場所は市役所の中だ。非常階段の先にある扉とはいえ、その先には市役所一階分のフロアが広がっているはずだ。
それを貸し切っている、ということなのだろうか。
「じゃあ、改めて……招待するわね。ようこそ、異常保菌者対策室へ」
そうして開かれた扉の先を見て、縁は驚愕する。
驚くほど広いフロアに、机と椅子が一セットだけ。玄関とは真向かいになるよう位置づけられており、それら以外に雑貨というものが存在していない。
何より異質なのは、広い部屋だというのに採光用の窓が全く存在せず、蛍光灯がついていなければ、真っ暗闇が広がっていることだろうと簡単に予測出来る光のなさだ。
「酷く……殺風景で……」
「浪費の塊とも言える場所でしょう?」
にやりと笑いながら、業斗が縁の内心を読み取って頷く。
「元々、ここは異常保菌者に襲われた人物を保護するために……作られた部屋なの。机があるのは、少しでもこの場所に副次的な意味を持たせるためのものね。本当なら、何もないのが、この部屋としては理想の環境なのよ」
そうした目的で広いスペースが必要ならば、体育館か何かを貸し切ればいい。そう思ってしまった縁だが、先程までの話を聞いて、切り返させる言葉を予測することが出来た。
「その予測で大体合っているわ」
貸しスペースを借りる予算がないのだろうという縁の予想は、鏡によって肯定される。
「世知辛いことながら、国から出される予算は限られていて……大抵の場合は書類に使う費用や移動費で使い潰すのよ。最初の財源で借りたスペース、わざと必要以上に多く取っておいてよかったわ~」
何とも世知辛い話だと、縁は内心で肩をすくめるしかなかった。
「そうじゃないと、逸人の覚醒処理すら行えないものね~」
その言葉を業斗が言った瞬間、縁以外の二人から僅かに緊張の色が見られた。その事実に気付きながらも、縁は何も言わずにその時を待つ。
「鏡チャン、彼はもう?」
「はい……異常保菌者と出会った時の記憶は思い出せてます」
「じゃあ……後は、夢の再現をするだけね」
夢の再現、その言葉に縁は奇妙な違和感を抱く。
夢を再現する。それは不思議な言葉だが、逸人として覚醒した時に見た夢と何らかの関係があるのだろうということは、簡単に想像が付いた。だがしかし、その行為は明らかに無理のある行為だろう。
なぜなら、縁の夢とは……殺人行為だからである。
「この子の夢の形式は?」
「殺人行為……というよりは、切断行為……ですかね」
鏡の言葉に、縁は何らかの作為を感じてしまう。あれほどまでに、明確に殺人という行為を思い描いた縁の夢が、殺人ではなく切断を主としていた夢なのだと判断するとは、一体どうしてだろうか。
「縁、きみの夢には明らかに、殺人への嗜好が見える……だが、その殺人行為よりもむしろ気になったのは……きみの中にあった悪夢だ」
その言葉に、縁は夕暮れ時の悪夢を思い出す。
「きみの中にあった悪夢は……明らかに異常保菌者と出会ったことによる変質が原因だとぼくには思えた……」
だがしかし、それは縁がずっと見てきた悪夢だ。縁が異常保菌者と出会ったのは、あの縁とよく似た誰かが異常保菌者と出会った映像と時期が一緒なら、そう時間が経ってはいないはずだろう。
「ああ。きみが異常保菌者に好かれるような、極めて異質な精神構造を持っているということがわかった際に、その幻覚の詳細は記録を取っておいた」
「ええ、それがあるからこそ……アタシたちはアナタの確保に動いたのよ~ん。その夢に変質が見られている、からね~ん」
縁は鏡の監視に気付いたのは極々最近の出来事だった。それより前に、縁の空想は鏡を傷付けていた。その事実に気付いて、縁は沈痛な面持ちを顔に浮かべる。
「気にすることはないよ。きみの夢は……まだマシな方だからね」
縁に対する鏡の慰めの言葉は、確かな実感を感じさせるものだったが、それ以上に縁が自らの悪意に対して持つ自責の念が強かった。
縁は心の中に感じる苦痛が、少しでも現実の痛みと釣り合うように、爪を立てて拳を握る。そうすることでしか、縁は心の中にわき上がる激情を抑えることが出来なかった。
何が誰にも迷惑を掛けずに、己の悪癖を満足させる方法だろうか。自らの内心を読み取られるなどという規格外の能力があったとはいえ、鏡にはその妄想の内容を知られ、これまでの会話では業斗から様々な形で、自らが言う言葉を先読みされている。
そこから考えても、縁の異常性に気付いている人間は多いのではないだろうか。そんな不安が縁の内心にはあった。それは想像するだけで震えが起こりそうなほどに、縁にとっては恐ろしいことだった。
「きみの場合、それを知っても……きみと付き合う人間は多そうだよ?」
慰めにもならない鏡の言葉は、縁に対して苛立ちしかわき上がらせない。
「そんなこと……あるわけないだろ!」
縁はこれまでの鬱憤すら込めて、否定の口調を強くする。
「ふ~ん、それはどうかしらね」
縁の言葉に対して反応を示したのは、業斗だった。
「きみはそもそも、自力で夢の開放を行ってはいない」
「夢の開放?」
縁のオウム返しな一言に、業斗は軽く頷いてみせる。
「きみは随分と長い間、現実で当たり前に生活出来た。それは……逸人としては極めて希有な素質を持っているという証だ」
業斗はここまで言った後に一度だけ頷き、縁の方を流し見る。
「現実を強く認識し、自らがどんな人物なのかを強く意識すること。それが逸人として優れた人間が持つべき条件。それを果たすことが出来る人間がどういう人間か……わかるかしら~ん?」
業斗の言葉に少しだけ、縁は考える。だが、答えとなるものは見つからず、縁は業斗に対して首を振った。
「……わからない」
「立派な社会人、というのさ」
業斗の言葉に縁はくらくらとする思いを抑えることが出来なかった。
「とどのつまり、そういう適正があるからこそ、俺は……」
「社会を構成する人間として、優れた素質を持っていた、ということになる。だから、きみの周りには……きみを慕う人がいたはずだよ。きみを心から認めた人間が、ね」
その言葉と共に、業斗が見たのは鏡だった。ふて腐れたという気持ちを表すために、縁は頭へ手を置いてポーズを取る。
「ったく、そうそう言葉を交わしてもいない女性に眼をかけられても嬉しくは……」
そこまで考えて、縁は苛立ちのあまり、気付かなかった事実にようやく気付く。
「って」
「早く……覚醒処理をやりましょう」
縁が気付いた事実を口に出そうとした瞬間、鏡が業斗に先を促す。その動きを見て、縁は鏡を見てみた。その視線の先で、鏡はどこか気恥ずかしそうにしていた。
心を読める人間に認められる。それがどれだけ難しいことなのか、縁は理解している。
それは自らのどうしようもない悪性を理解しているからこそだ。業斗はそれを認めて、鏡が縁の傍にいるのだと語り、鏡はそれを語ろうとした縁を止めた。
心を読める鏡が縁のことを認めている。そんなことは、有り得ない。鏡が縁の傍にいるのは、今だけだ。決して傍に居続けてくれることはないだろう。
そう思って、鏡の方を見ると、彼女は悲しそうな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「何故、そんな眼で俺を見る……?」
縁は小さく呟く。その声は誰にも届かない。けれど、その意志は鏡に届く。
ただ、その意志に対する反応は、黙って首を振るというものだけだった。
それが何に対する否定なのか、明らかにしないまま、鏡と業斗が語る覚醒処理というものが行われる運びとなった。
「縁君、きみには悪いけど……これで拘束させてもらうわ~」
机を退かし、価格のほとんどを頑丈さを追求することに使ったような椅子を示す業斗。
その業斗の指示に従い、縁は椅子に座る。そして、お手軽な拘束道具であるベルトを用いて、業斗は縁の腕を椅子に拘束する。
「これで……後は一体、どうするっていうんですか?」
縁は自らの中にある苛立ちのままに、荒い言葉を吐き出す。
「や~ね~、そんな怖い顔して……リラックス、リラックス~」
余裕のない縁を揶揄するかのような業斗の発言。その意図が読み取れず、縁は眉をひそめた。
「きみは考え続けなければならない。きみ自身が、この世界の法則を逸脱し……自分だけの法則を展開する光景を……ね~ん」
「なにを……言って……」
縁は業斗の示唆する内容から、具体的に何をするのかを想像することが出来なかった。
「基本的にきみは夢を思い描いてくれればいいの。そして、その夢が現実に変わると……妄想してくれればいいのよ~ん」
縁はこれまでの人生で始めて、人の口調を鬱陶しいと思ってしまった。
「とどのつまり、漫画か何かで主人公が特殊な能力を手に入れる時の修行……あれをやってみせればいいの」
縁の怒りに対応して、鏡が説明を行う。
「そんなことで……?」
特殊な能力が手に入るなら、誰も苦労はしないだろう。
「でも、きみは異常保菌者を見て……そして、触られた。異常保菌者はその名の通り、世界に生まれたバグ。世界の法則の内側から産まれたものながらも、その法則の外側を生きて、一時的にこの世界のシステムを狂わせることが出来るほどの存在。それに接触した以上、きみは変化を強制されている」
鏡は自らの言葉で異常保菌者のことを語る時、苦痛を耐えるような仕草を見せていた。
それが何故なのか、縁は気に掛かった。だが、縁のそんな気遣いを言外に無用だと語るかのように、鏡は言葉を捲し立てる。
「あなたが思い浮かべた映像の中で、空が割れていたでしょう? あれが、異常保菌者が世界を狂わせていたという証拠。そして、そんな異常保菌者に触れた逸人もまた、それと同じようなことが出来る」
「あくまで同じようなことをするだけで、あれを再現しようとしちゃあダメよ~ん。それはもう逸人ではなく……異常保菌者になるから」
その時だけ楽しそうで、いつもどこかふざけたような印象を受ける業斗の顔つきが真剣なものへと変わっていた。
業斗の言葉を受けて、鏡は表情を曇らせる。二人の様子は明らかに、共通の何かを知っているからこその反応だった。
だがしかし、二人の様子からそれは痛ましいものを共有している時のリアクションであることに気付いて、縁は深く聞くことを止めた。
その気遣いに気付いて、二人は縁の方を見て微笑みを返す。
「逸人と異常保菌者の違いは、世界のどちら側に自分の意識を置いているか。その違いでしかないわ~ん。その違いこそ、最も大切なものなのだけれどね~ん」
縁にはその違いがどのようにして大切なのかわからなかった。
「異常保菌者がこの世界にとって……名前通り、バグであるというのなら……この世界というシステムを破壊する可能性がある」
「元々、人間社会にとって……害悪と言える異常保菌者相手の対策は、各国で急がれていたわ~ん。どのような場所にも産まれ、そして、その異常を広げていく……それはある種の死病を思わせる勢いで、世界を席巻する可能性がある、だからこそ、その対策のための予算が組まれたの」
嫌らしく笑いながら、業斗は自らの言葉を語る。
「何だってそんな…………嫌な表情を……?」
嫌な笑みを浮かべているのが何故なのかが気になって縁は言葉を投げかける。
「あ~ら~、いやね~……異常保菌者はその特異な性質から周囲の生物が持つ記憶すら歪めてしまう。だから、人間や動物は異常保菌者に会っても、それを記憶することが出来ないわ~ん。精々、特殊な趣味の妄想だと思ってしまうのよ~ん」
ここまで語った後、先程と同じように鋭い視線で業斗は中空を睨む。
「だからこそ……その被害は秘匿されてしまう。機械による監視がない場所で被害があった場合、アタシたちはその被害を認識することが出来ない。だから、かつて自らの国の大臣がその被害にあったというのに、その対策部署が予算縮小の対象になってしまうのよ」
業斗の言葉には溢れんばかりの苦々しさが込められていた。
「そんな事件が?」
縁の記憶に、そんな事件のニュースが流れたことなど無かった。
「ええ。ニュースにはなっていないし、官僚・閣僚の間の交渉材料に使われて……まっとうな人間は知ることのない歴史になってしまったけど……生で家族を奪われた人間の恨み辛みが、そう易々と消えるわけがないじゃな~い」
その瞬間、縁は業斗の怒りと悲しみの強さを悟った。大切な誰かを失った痛みは、そうそう消えるものではない。
「無理……することはないでしょうよ」
「無理? 無理なんて……」
「してるじゃないですか。今までどんな時でも語尾を伸ばして、女性らしさをアピールしていたのに、さっきからそれが少ない。最後は……わざわざ付け加えるように言ったんです。そんなわざとらしさ、気付いてくれって言っているようなものですよ」
縁は半ば揶揄するかのように、そう言った。きっと大人である業斗は、そうした弱味をある種、意図的に吐き出すことが出来る人間なのだろうとそう思ったのだ。
「え?」
けれど、それは違ったらしい。業斗は真顔で驚き、そして、鏡の方へと顔を向ける。
鏡はただ黙って首を縦に振った。
「あ、あー…………あ~ら、ら~、アタシも歳を取ったのね~ん。自分の感情をこ~んな若い子に読み取らせちゃうなんて……大人失格だわ~ん」
その言葉にはどこか自分に対する苦笑と、そして、周囲の感情を感じて、それを気遣うことが出来る子供たちに対する賞賛の念があるように聞こえた。
「まぁ、アタシのことを背負わせるには……もう少し大人になってもらわないと困るけどね~ん。アナタがいい男だっていうことは憶えておくわ」
こつん、と額を指でつつかれる。
そんな業斗の姿を、鏡は困ったものを見るかのような眼で見つめていた。
かくいう縁はと言えば、こんな風に拘束された姿勢でオカマ相手に気遣いをして、なんというか艶っぽい流し目をされ始めたことに、今日これまでに至る日々の流れを後悔し始めていた。
けれど、時間は何をしていても、どのような感情を抱いていても、全ての存在に変化を強要している。
「さぁーて、始めるとしますかね~ん……」
業斗の言葉が、縁の逸人として覚醒する行為を始める合図となった。
「なにをするんですか?」
とは言っても、その行為が具体的にどのようなものなのか、わからなかった。
「逸人も異常保菌者も、結局の所、操っている力は同じ。自分が世界の外側にいることを認識し、そして、その外側から内側のこの世界を操るのよ~ん。その干渉の定義がどれだけ広いものか、あるいは狭くても強いものか……まぁ、それは開いてみてからのお楽しみって所ね~ん」
縁に言葉を掛けながら、椅子を回転させる業斗。
その回転が止まった先で、鏡がパイプ椅子に腰掛けていた。
「開くって……」
「第三眼、天眼を開く……っていう言い方が最も、逸人の覚醒にはわかりやすい観念だから……それを……忘れないで」
縁をじっと見つめながら、鏡がそっと顔を近づけてくる。端正な顔立ちがそっと近づいてくることに、縁は心臓の音が高鳴るのを感じてしまった。
「そう緊張しないで……ぼくの逸人としての能力を使うだけだから……」
読心能力をどう使うことで、縁に能力を目覚めさせるのか。そんな疑問を思い浮かべた瞬間に、縁の頭の中で鏡の声が聞こえた。
「言ったでしょう? 逸人は、世界の外側から世界の内側にアクセスしているって」
頭の中で聞こえる声に集中する。そうすることで鏡の姿が眼を閉じていても、鮮明に見ることが出来た。
「ぼくの逸人としての能力、それは自身の精神を他者の中に入り込ませること。影響圏内は大体二百メートルくらい。他者の中に自分の意識を送り込むから、他者の心が読める。他者の見る光景が見られる」
縁はその言葉に、空恐ろしいものを感じてしまった。
何かとてつもない危機が自分に迫っているのではないかという予感。けれど、その予感が証明されるのは、縁がその事態に対して心構えをするよりもよほど早い時間だった。
「そして、それだけじゃない……」
縁の中にいた鏡が動きを始める。その動きは次第に、縁が自らの中に感じていた世界に異変を生じさせる。
それが、鏡が持つ逸人としての能力、その真骨頂であるのだろうと縁は気付く。
なぜなら、縁の中に産まれた映像の中で空が割れていたからだ。
「ぼくの能力はきみの中にある現実を書き換えることも出来る……!」
小さな気合いを込めて語られた言葉を聞いた後、縁が感じたのは強烈な空腹感だった。
それは今まで感じたことのない強さでの空腹感で、縁は口元からだらだらとよだれが流れ出すのを感じる。
「こ、れは……?」
縁はその感覚の違いに戸惑い、舌が震え、発音の悪い声を出す。
「アタシの頃と比べると、随分と優しくなったわよね~ん。アタシの時は、それとまったく同じ状態になるまで監禁されたわけだしね~ん」
なんとも、全く、嫌になる一言が縁の耳に入り込む。
「さて、感覚が強くなるように……目隠しをさせてもらうわね~ん」
「まっ……」
縁の抵抗空しく、たくましい業斗の腕力によって無理矢理目隠しを装着させられる縁。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が荒くなる。空気に栄養があればいいとすら感じてしまう。
「飢餓、というものは、現代っ子にはわかりずらい感覚でしょうけど、人類が最も現状を変えようとする危機として……歴史でもなじみ深い概念だわ~ん」
その言葉と共に縁の頭の中には、様々な飢饉の情報が流し込まれる。
そして、そうした飢餓の先に生まれる欲求は当然、食欲であり、その食欲を満たすための暴力的な解決手段、個人の諍いから戦争と言った極端なものまで様々な映像が映し出される。
「とどのつまりは、最も人間が自分に正直になる瞬間なのよ~ん。食べたい、という感情はね~ん」
その言葉に縁は若干の納得と疑問を抱く。三大欲求とまで言われるほどの欲求、その一つである食欲が強い意志を生むのはわかる。だがしかし、それ以外にも様々な欲求がある中で、なぜ食欲にばかり眼を向けるのか。それが気になった。
「それには理由がある」
縁の言葉に答えたのは、目隠しによってより鮮明に見ることが出来るようになった縁の中にいる鏡だった。
「あくまで、この現象はアタシが空腹感を抱かせているから起こるもの。だから、頭の中での思考は鮮明なのに、空腹を感じることが出来るでしょう?」
その言葉を聞いて、縁はこの地獄を理解する。
「だから、栄養不足による思考の衰えがない状態で、様々なことを考えられる……というわけね~ん。いやぁ、本当に優しくなったわよ~。この試験。アタシの時代は覚醒するまでずっと、この部屋の中で何度も飢えさせられたものだもの~ん」
あまりにも怖いことを口走る業斗に、縁は背筋を冷たい汗が伝うのを感じてしまう。
つまる所、先程の腹と背中がくっつきそうな飢餓感を、縁は逸人としての能力が手に入るまで味合わなければならないということである。
「じゃあ、頑張って」
そんな 軽い言葉と共に、縁にとっての地獄が始まった。
「がっ…………はっ…………ひっ……」
飢餓の感覚が広がる度に、唾液が溢れ、舌が垂れ下がる。その瞬間、こぼれ落ちそうになる唾液を、口の中で必死に堪えることが縁に出来る精一杯の見栄だった。
「見栄を張る余裕なんてないわよ~ん。きみが逸人としての能力の使用が出来るようになるまで……その飢餓は続くんだからね~ん……」
縁はその言葉を聞いて、必死に飢餓感で途切れ途切れになる思考をつなぎ合わせて考える。彼らはこの飢餓による追い込みを、逸人の覚醒を行うために合理的な方法として選んでいる。
明らかに、それはある種の経験則から生み出されたものだろう。
「ひぐっ……!」
垂れ下がった舌がやけに旨そうだと思えて、舌を噛みきろうと口元が勝手に動く。その瞬間、恐らくはタイミングのうまさから鏡の手で、縁の口元にタオルがねじ込まれた。
「うぐっ……ぐぐっ……!」
縁はそのタオルを噛みしめながら、懸命に思考をたぐり寄せていく。
縁は自分の考えが一般的だとは、全く思えない人間だ。共感性、協調性などというものには、まるで自信がない。だからこそ、縁はひたすらに考える。
一般的な人間、逸人としての覚醒を行うに足る感性があるとはいえ、普通の人間が飢餓の中で思い描くことはなんだろう。
現実逃避を、行うはずだ。この飢餓感を埋める何かを求める。その、はずだ。
「うっ……ぐっ……」
──違う!
縁は呻きながら、自らが出した答えを否定する。
この感覚は、あくまで鏡が擬似的に体験させている感覚。だからこそ、飢餓という感覚としては異例なほどに、腹の中には充分な栄養が蓄えられている。
ならば、普通の人間は飢餓をどうにかするのではなく、飢餓という状況が生まれた原因を何とかしようと考えるはずだ。
そう考え、縁は自らの中に入り込んだ鏡を睨み付ける。
今は目隠しのせいでわからないが、恐らく目の前にいる鏡とは違い、縁の中にいる鏡はどこか機械的で、非人間的な雰囲気を持っていた。
だからこそ、縁は躊躇いもなく、自らの頭の中で剣を振るおうとする。
頭の中で思い描いた剣。それは実体を持たない剣であり、そして、人では到底振るえないであろう大きさの大剣だった。
両刃の剣であり、縁はそれを想像の中で容易く振るってみせる。
そして、縁が想像の中で思い描いたのは、縁の中にいる鏡を断ち切ることであった。
「くっ……」
「あっ……」
小さく漏れる声は半ば同時に聞こえた。縁の中にいる鏡、その鏡に対して頭の中で思い描いた大剣を振るう際、縁はその声を聞き、自らの脳内にある剣が鏡を切る前にそれを止めた。
その瞬間、縁の中にいる鏡は小さくほっとしたかのように強ばった体から力を抜いた。そして、その後、それを恥じるかのように顔を伏せて、こちらを見なくなる。
その姿を見て、縁は理解した。縁の想像は当たっていたのだ。そして、鏡はその暴力に黙って身を差し出していた。
そのことに気付いて、縁はこの凡庸な解決方法を選択することを拒絶する。
「ぐぎひっ……」
その決意を否定するかのように、これまでにないほど強い飢餓感が縁を襲った。
それが鏡の意志だということは理解していた。だがしかし、それでも、そうするべきではないと決意したのだ。
縁は自らの中で膨らむ圧倒的な飢餓感を堪えながら、冴えた解決案をひねりだそうと頭を絞る。
それを無駄なことだと告げるかのように、飢餓感は幾度となく縁の体を襲った。
視覚を閉ざされ、感覚のほとんどが自らの内側に向いている。
それ故に時間の感覚、その基準となるものはその飢餓感しかなかった。
何度となく飢餓感が縁を襲う。けれど、縁はただひたすらに考えることへと時間を費やした。縁は自らの中にいる鏡を切ることは出来ない。そう決断している。
ならば、どうするか。どうすれば自らを取り巻く状況を、快刀乱麻に解決することが出来るのか。そんな四字熟語の一つを思い出した時、縁は求め続けていた一つだけの解決案を思いつくことが出来た。
「なに、を……」
縁の発想を読めているはずの鏡から困惑の声が上がる。やはり、縁の考え方は極めて異質なものであるのだろう。
縁が求めた解決策、それは鏡の能力そのものを断ち切るということだ。
それは決して、縁の中に芽生え、能力によって結実した鏡を切るということではない。 縁は今、鏡の能力の範囲に入っているからこそ、その影響を受けている。
鏡は語った。自らの能力には距離の制限があると。とどのつまり、鏡の能力には有効範囲という概念があり、それを例えるのならば、パソコンと無線LANの関係だろうか。
鏡がパソコンであり、無線LAN側が他の人間である。パソコン側が認識することの出来る範囲でだけ能力が使えるということを考えれば、あながち間違っていない考えだと、縁は自らの考えを強く信じ込む。
なぜなら、縁が思い描いた解決案にはその思想が重要だったからだ。縁が持つ能力、それが切断に関わる能力だというのなら。そして、鏡が持つ能力が、無線LANのように他者と目に見えないラインによって繋がることが重要となる能力ならば。
それを断ち切ることが出来るかもしれない。
「縁、やめなさい!」
そんな縁の考えを読み取って、縁を思い留めようとする鏡。
「そんなことをすれば、きみの能力は……本当にそれだけに特化した能力となる! 自由に選べばいいんだ。ぼくのことなんて気にせずに!」
どこか今までの超然とした様子すらかなぐり捨てて、叫ぶ鏡の言葉。
その言葉を聞いて、縁は笑う。目隠しをしていて、損だった。
目の前の鏡の表情、それがどうなっているのか見られないのが惜しかった。
だから、縁は開眼する。
第三の眼、天眼と呼ばれるものを開くかのように、縁は自らの能力を定義し、そして、行使した。
その瞬間、縁の視界は開けた。
目隠しを、縁は自らの能力で切り裂いたのだ。
「へぇ……」
縁のそんな能力の使用方法に、何か感心したかのように声を漏らす業斗。
随分と長い間、縁は目隠しをしていたらしい。眼がシバシバとして、目の前がぼやけていた。その視界の中で目の前にいるはずの鏡、その表情が見られない。縁は瞬きをして、暗い方へと視線を向けて、目を慣らしていく。
その視界の先には業斗の姿があり、業斗はこちらを見て表情を険しくしながらも眼を輝かせ、口元を笑みの形へと変えているという奇妙な表情を浮かべていた。
「随分とまぁ……筋金入りの人間ねぇ……」
何が筋金入りなのか、それがわからずに縁は訝しげに業斗を見る。けれど、何も答えが返ってこないことに気付いて、縁は見たかった鏡の方向を見てみた。
けれど、その瞬間、眼の痛みが再発した。仕方のないことだろう。鏡がいる場所の頭上には丁度、蛍光灯が吊るされていたからだ。
だから、縁の視界に再び鏡が入るには更に少しの時間が必要だった。
そして、視界の中に鏡が入り込んだ時には、鏡は常に浮かべているようなどこか超然とした無表情を浮かべていた。
「あー……見れなかった、か……」
心底残念がっているのがわからないように、少し演技っぽさを強調した口調で、縁は鏡に対して、正直に抱いた感情を語る。
「なにさ……別に、ぼくの表情がどうであろうと関係ないじゃない……」
「ははっ、そりゃあないんじゃないか?」
縁は自らの心の中に焼け付いたかのように残る鏡の像へと、心の中で眼を向ける。
その表情はどこか嬉しそうでいて、恥ずかしそうでもあり、これほどまでに愛らしく女性としての魅力溢れる表情を浮かべている人物を見るのは、縁は初めてだった。
心の中に、女神像が建立された。
苦笑を浮かべながら、そうジョークを心の中で発すると縁は同時に衝撃を感じた。
こちらを涙目で見て、やや赤みがかった頬を片手で少し隠しながら、縁の肩を叩く鏡の姿がそこにあった。
「そういうの……禁止!」
縁は思うだけなら自由だろ、憲法でも保障されている権利だと心の中で反論する。
「わかってて言っているんでしょう!?」
伝わっているということは、とどのつまり、その物事に対する表現が出来ているということだ。それは言葉ではないものの、仕草で表に出しているのと同じだろうというのが鏡の考えだろうと縁は予測することが出来た。
「なに、これからはある程度対等の立場として振る舞わせてもらおうと思ってさ。年齢の差はないみたいだし……欲しいものはもう手に入ったしな」
縁の悪ふざけが過ぎる発言に、鏡はむっとした表情を浮かべる。
「それでも、ぼくはこの仕事では先輩なんだぞ! 多少の敬いくらいはあっていいんじゃないのか?」
鏡の発言に、縁は大仰に肩をすくめることで答えてみせた。
「自分より身長の低い先輩、ねぇ……」
縁は鏡の低い身長を強調するように、自らの胸くらいで手を開き、水平にする。その高さは正しく、縁から見た鏡の身長の高さだった。
「むー……」
口元をへの字にして怒る鏡を見て、縁はにこにこと微笑みすら浮かべた。自分でも困ったものだと思っているのだが、どうやらある程度困らせたり、怒ったり、喜ばせたりと、縁は鏡の様々な表情が見たくてしょうがなくなっているようだ。
今までの会話を振り返って、縁は自らが鏡に対してある種の好意を持っていることに気付き始めていた。その好意がどういったものなのか、自分でもわからず、縁は鏡との付き合いを様々なものへと変えている。
それがこれまでのどこか意地の悪い態度と要所要所での格好付けに繋がるのだと、縁は自らの行動とその動機を分析することが出来た。
「まったく……本当に、相性のいい相手に巡り会えたみたいね」
にこにこと笑いながらも、その朗らかな笑みに若干の苦みを帯びさせる業斗。
その表情にはどこか親、というものが見せる子供に対しての情があった。そして、その子供を奪われることに対する少しの嫉妬も。ああ、きっとこれはオカマである業斗だからこその複雑な感情だろう。
男親としては娘が離れることに対して相手の男への怒りと嫉妬を感じ、女親としては相性のいい男性と出会ったことに対する喜びと祝福を胸に抱く。それらが渾然一体となって形容しがたい表情を浮かべる業斗に、縁は随分と気が早いことだと呆れすら感じていた。
鏡が縁に対して何故距離を置かないのか、縁にはわからない。
けれど、それが遠くない内に起こる未来であろう事を、縁は確信していた。
自らの悪性を信じているからだ。
「縁、きみは……陰陽思想というものを知っているかな?」
鏡の突然な一言に、縁は考え込む。けれど、考え込んだのは一瞬だけで、すぐに横へと首を振った。
「詳しく話すと大分長くなるから……ぼくが言いたいことだけを引用させて言わせてもらうと、様々なものは相反する対極のものが無ければ成り立たないという考えなんだ」
鏡の言葉に、縁は先程自分が考えたこととどのような関係があるのか考えてしまう。
「つ・ま・り……それはオカマのアタシのことを言っているのかなぁ~?」
そんな縁の疑問は、鏡をからかうために、鏡の体に絡まった業斗によって霧散することとなる。
「え、あ、ちょ……そ、そういう意味じゃあ……」
「んふふ~ん……アタシ、少し寂しくなっちゃったから、構ってちょうだい~ん」
鏡と縁が二人だけで会話をしていて、しかも、それがどこか二人だけの世界を感じさせるものだったからか、奇妙な態度で鏡に絡む業斗。
「ア・ナ・タも~、アタシと一緒に色々楽しみましょうよ~ん」
「え、な……!?」
ニコニコと笑いながら、片方の手で縁をも捕らえる業斗。当たり前のように、二人の頭を擦れ合わせるようにしてぐりぐりと動かす業斗に、二人は悲鳴を上げる。
「いたっ、たっ!」
「ちょっ、ま、待てって!」
「ん・ふ・ふ~ん」
私良いことしているでしょうというような自慢げな顔で、楽しそうな笑みを浮かべながらこちらを見る業斗に、縁と鏡は引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
第二章 変貌
あの後、特に変わったこともなく、縁は帰宅し、そして、再び学校に登校した。
「よーう、縁くーん。昨日貸したゲームは終わったか?」
「いや、昨日は用事があってね……ゲームをすることは出来なかったんだ」
登校中の縁に話しかけたのは、男らしい口調とは裏腹に女性だった。
縁はその女性を知っている。
間宮響子。縁の幼なじみであり、ここ最近の女性らしいファッションをした女性だ。
意志の強そうな瞳と小顔がチャームポイントと言って憚らないが、周囲の人間もそれには頷くしかないだろう。身長は女性にしてはかなり高いが、何よりも驚くべきなのはその足の長さだ。縁よりも若干だが身長が低いはずなのに、その腰の位置は縁と同じくらいの位置である。
スレンダーな美人、というのが彼女のスタイルに対する一般的な評価だろうか。
男性としてやや負けたような気分にさせられるスタイルをもつ彼女を見た時、最も眼を引くのはその髪だろう。
日の光に負けて、やや茶色みがかった色合いをしていて、癖っ毛で先端だけがパーマをしているかのようにくるりと反転している髪。この髪型を見て、丁寧に仕上げているなと思う女性は多いだろう。そして、学生であるならば、随分と不真面目な格好だと思うことだろう。だがしかし、彼女の場合、それが地毛なのである。
元々、中学時代は陸上部でもあった彼女。割と県大会にでも出るような健脚を持っていたのだが、やむを得ない事情により、陸上を半ば辞めた。それによってグレた、というわけではないのだが、教師や周囲の事情を知らない大人たちからはそう見られている。
彼女自身の負けん気の強さもあり、彼女は学校に散々進められている染髪をしようとはしない。自らが生きてきたからこその変化。それのどこに恥じるものがある、というのが響子の基本的な考え方であり、その考えを気持ちのいいものとして扱うのが彼女の友人である縁の常だった。
真っ直ぐで曲がることを知らない響子。けれど、その真っ直ぐさが他者に疎まれることもあり、割と友達は少ない。そして、同じく諸々の事情で友人の少ない縁とは、長年の付き合いがある。その付き合いこそが、彼女の孤独に拍車を掛けているのだろうという自覚が、縁にはあった。
だからこそ、縁は普段、彼女とは距離を取る。一緒の部活に入ろうと誘われたこともあるが、何度も断ったし、クラスではあまり会話もしないようにしている。
けれど、それ以上に彼女が縁に近づいてくるのだ。そんな縁をいいご身分だなと眼で語る男子生徒の視線が、縁には痛かった。
響子の信頼が、子供が親に対する信頼に似たものだと、縁は知っているからだ。
「なーんだよー、誰か友達と遊んでいたっていうのかよー」
「俺に友達なんてそんなにいないこと、知ってるだろうが……」
吐き捨てるように呟く縁に、響子はにこにこと朗らかに笑ってみせる。
「だ、よ、ねー……へへ、私が構ってやらないといつもこうなんだから……」
「そういうあんたは友達……」
笑いながら、そこまで言った瞬間、縁は口をつぐむ。
まるで子供か何かのように、顔を歪め、涙目でこちらを見る響子の姿が見えたからだ。
「あー、ったく……」
これが、縁と響子が長く続いている秘訣なのだろう。縁が持つ悪性の標的にするには、響子は幼すぎた。幼い、ということは弱い、ということではない。ただ弱い相手なら、縁の悪性はその相手を喰らい尽くすことに躊躇うことはないだろう。その程度の相手に、縁は自らの悪性を躊躇させることはない。
だがしかし、幼いというのは別だ。幼いということは、まだ守られるべき子供だということだ。そんな守られるべき子供を相手に、暴力を振るうなどという鬼畜な行為を働く気はなかった。
縁は響子の肩に手を置き、響子と眼を合わせる。
「友人は多ければいいってものでもない、そうだろ?」
「…………えへへー。確かに、それはそうだね」
最後の問いかけは元々、強面で目力の強い自分の目を意識して、縁はにこりと笑いながら語り掛けた。その気遣いはどうやら功を奏したらしく、響子の顔に笑顔が戻った。
縁は響子のその幼さがどこから来るものなのか、それを知っている。
そして、それは縁が悩まされている黄昏時の幻影にも関係しているのであった。
縁と響子は幼なじみであり、そして、響子は昔、縁にとっては実にそそる女だった。
年齢相応の幼さはあったものの、今のような弱さがなく、ただ当たり前の生活を謳歌していた。そして、自らの健脚という才能に気付き、その輝きを増していた頃、変質者に襲われたのが、彼女の不幸だった。
陸上選手の衣装、というものは実に独特で、見る者によっては扇情的とすら感じさせられる衣装もある。その衣装を着ている時を狙われた。
部活の練習でも、響子は一人になることが多くあった。それは人気がなかったというわけではない。むしろ、当時の響子は人気が高く、だからこそ人付き合いに疲れを感じ始めていた。
そんな幼なじみの様子に、縁は気付いていた。だが、そこは性の目覚めと共に、男性と女性が一緒に行動するには様々な制限があった少年時代。ましてや、大会で活躍するようになり、校内で有名な選手となった響子の傍に近寄って相談に乗ることは、普通の生徒としての地位しか持たない縁にはそうそう出来ないことだった。
だから、その瞬間を目撃したのは、本当に偶然の出来事だった。
短距離走が得意なものの、長距離走は苦手な響子。そんな響子が先頭集団から離れ、けれど後続の集団とはやや距離の離れた所にいた。
それは恐らく、スター選手としての意地というものだろう。後続集団には追いつかれたくないという意地、それが仇となった。
その時、縁は今の習慣と同じように図書館で時間を潰していた。だから、暇をもてあまして外を見ている時に、かつて友人と呼べるほどに親しかった女性の姿を見て、ついそちらへ目線が行ってしまった。
そして、目撃してしまったのだ。
それは正しく、悪魔が仕組んだような偶然だった。
縁は響子が体力を付けるための長距離走中、人気のない路地裏に連れ去られる所を見てしまった。それを見て、助けるために誰かを呼ぶのではなく、全力で自分一人で助けに向かったのは、若気の至りとしか言いようがない。
随分と遠い距離だった。けれど、ギリギリで間に合った。
それは、縁にとって幸運だったのか。それとも、不運だったのか。それは今でもわからない。友人を助けられたことは、縁にとって最高の幸運だったと思う。けれど、縁はその時、気付いてはいけないことに気付いてしまった。
だから、縁はこの時、どうすれば良かったのだろうかと今でも考える時がある。
「なにをやっているんだ!」
縁は走って路地裏に飛び込み、そして、その場所に入り込んで悪事を犯そうとしていた男を睨み付ける。
「ひっ……」
何故か、悪事を犯そうとしていた男が逆に驚いて、こちらを怯えた眼で見ていた。
縁は状況を理解しようと周囲を見渡す。路地裏というだけあって、ここは人一人通るのがやっとの狭さだ。縁の正面に口元を男に抑えられて呻き声を上げている響子がいる。
その響子の服は、響子自身が必死に抵抗したお陰だろう。無理矢理、剥がされかけてはいるものの、女性として大切な部分だけは死守する形で残っていた。
「くそっ……!」
吐き捨てて、縁は自らの拳を振り上げる。しかし、男は当たり前のように縁の方へと響子を突き飛ばすことによって、時間を作り出そうとした。
縁はその時、響子を受け止めるべきか、それとも男を追うべきか。どちらを優先するべきか考え、体を硬直させてしまった。
そんな体を硬直させた縁に向かって、響子が飛び込んでくる。
響子の体とぶつかり、縁は強制的に響子を受け取めることを選択することとなる。
だがしかし、縁はすぐに響子を突き飛ばすようにして前進することを選択した。
なぜなら、男は明らかに自らが突き飛ばした響子の体が縁とぶつかった瞬間、こちらに向かってスタンガンを突き出して先程行おうとした犯罪を完遂しようとしたからだ。
「あ、あぁぁぁあ!」
縁は男の叫びを聞きながら、握りしめた拳を開き、手を突き出した。
男は明らかに、荒事に慣れているようには見えない。だから、縁は咄嗟に自ら凶器に手を伸ばすという蛮行を犯した。
「えっ、うわっ!」
男はその行為が予想外なものであったらしく、当たり前のようにぎゅっと自らの手の中にあるスタンガンを握りしめた。
その時、縁は確かに見た。男はスタンガンを握る瞬間、眼をつぶるのを。
男は縁の予想を超えた動きに驚愕し、引けた腰でスタンガンを突き出している。その引けた腰の分だけ、スタンガンは縁の体から離れ、当たらない。
男が再び縁の姿を捕らえるその瞬間までに、縁は自らの体勢を整えなければならない。だがしかし、先程まで悲惨な目に遭っていた響子は、震える手で縁を突き飛ばした。
「いや、いやっ……いや……!」
どうやら肉体的な接触が恐怖を呼び起こしているらしい。縁はその手に逆らわず、体を離して、起き上がる。
縁は立ち上がったことでようやく、目の前の男が腰を落としてスタンガンを突き出していることに気付いた。男がそうしていることによって、縁は先程は見えなかった路地裏の反対側、日の光が差し込む方向に一台の車が駐車していることに気付く。
その車は、あからさまに怪しかった。使い古されて、傷だらけの後部座席の扉は開け放たれており、その中に一人の男が座ってこちらを見ている。
男は縁の視線に気付くと後部座席の扉を閉じ、車はどこかに走り去っていった。
車の発進音に気付いたのか、びくりと体を震わせた後、縁の前にいるスタンガンを握った男は眼を開き、立ち上がっている縁すら無視して後ろを向く。
「あ、ああ……」
そして、絶望の声を漏らした。
その声を聞いて、縁は理解する。この男もまた、自分でやりたくて犯罪を犯したわけではないのだろう。困った事態が起こった時に、何かにすがった。恐らく、脅迫でもされているのだろう。でも、それは決してこの男が許されるべき無辜な人間であるということではない。
脅迫に屈し、自らの身を守るために他者を傷付けようとした。それだけでも、この男には確かに罪を持つのだ。
縁は拳を握り、男の腹を殴った。
柔らかな腹が歪み、内蔵に衝撃が伝わった感触。
「おお!」
全力でもって、縁は男の腕を蹴った。たまらず男はスタンガンを取り落とす。
「ひっ、ひぃぃ!」
縁はその時、自分の口元が不可思議な動きに震え始めていることに気付いた。
そんな不可解なものに気を取られている暇はない。そう思い、縁は最後の一発を放とうと思い、全力でもって男の頬を殴り抜く。
「ぶびばっ!」
愉快な悲鳴を上げて、倒れる男が実に滑稽で面白いものに見えて、縁は自分の感性に戸惑いを抱いた。けれど、笑いを抑えることは出来ても、暴力に対する衝動を抑えることが出来なかった縁は男に近づき、再び足を振り上げる。
振り下ろした足が、男の顔に吸い込まれた。
「ぐぎっ……あああああああ!」
呼吸を阻害されたのだろう、悲鳴が一度途切れ、激しく息を吸い込む音がして、最後に悲鳴が先程よりも強く溢れ出した。
縁はその瞬間、背筋を走るぞくぞくとした恍惚感に酔いしれた。
そして、はっと気付く。自分が先程から笑みを堪えようとしていたこと、そして、今はその笑みを十全に顔へと浮かべていることに。
「あ、れ……?」
自分のその様がおかしかった。自分は正義を行うために、か弱い女性を守るために立ち上がったはずだ。決して、暴力を振るう機会を求めて攻撃を行い始めた訳ではなかった。
そう、これこそが、縁が自らの悪性に気付いた瞬間であった。
「は、はははっ……」
縁は自分の有り様に乾いた笑いを漏らす。それまでの縁は自分のことを何の取り柄もない、ただのどこにでもいる人間だと思っていた。その面白みのなさも含めて、縁は自分を気に入っていた。けれど、縁は彼らのような一般的な人間とは逸脱した異常者だった。
それに気付いてしまった。だからこその乾いた笑いだ。自分に対する、呆れた笑みだ。
苦しかった。辛かった。そして、何よりも悲しかった。
自分があまりにも醜い人間であるということが。自分というものがどこまでも見下げ果てた存在であったということが。
縁は今日始めて、そして今まで抱いたことのないほど強い自己嫌悪の感情に襲われた。
そんな縁が、曲がりなりにもまともな行動を取れた理由はたった一つである。
「う、あ、ああ……あっ、あっ!」
叫びたいのに、心と喉が震えて、上手く声を上げることが出来ない。体を震わせて、その震えを抑えるための手も震えて、全身で震えている響子。
被害者であるということを全身で伝わらせる響子の存在があったからこそ、縁は自らの為すべきことを理解することが出来た。
そして、縁は学校へと連絡をし、駆けつけてきた陸上部顧問の先生と学年主任の先生に状況を任せて帰宅した。
そして、それ以来、響子は常に何かへの怯えを隠して生きるようになった。
それが何に対する怯えなのかはわからない。けれど、それですがる先が縁であることが問題であった。
縁は自らの悪性に気付く切っ掛けとなった響子に対して、何とも言えない苦手だと思う感情があった。けれど、それが被害者である響子に関係のない個人的な感情であるということを理解する程度の頭があった。
だからこそ、縁は響子との付き合いを続けている。
「ねぇ、縁くん?」
自分と響子の仲が深まった、というよりは依存の関係が生まれたきっかけを思い出していた縁は最初、響子の声に気付くことが出来なかった。
「あれ、ダレ?」
何故か舌の動きがぎこちなくなったような発音で、響子が一人の女性へと縁の目線を促した。
「やぁ、縁……昨日は大変だったね」
その言葉をこちらに向けて投げかけてきたのは、鏡だった。
「昨日はお楽しみだったね?」
ゲームが好きな響子は、たまに訳の分からないことを口に出すことがある。けれど、その口調と相手のことを睨みつけるような視線から、その言葉がある種の悪意に塗れた言葉であることは予想出来た。
「ええ、割と」
したり顔で返してくる鏡の表情からも、それがある種のスラングであるということは確信が持てた。
「そこでそう返してくる人がいるとはね……」
なんというか、ある種の共感とそれ故の敵対心を感じさせる笑みを浮かべる響子。
その笑みはなんと言うか、どこか偏屈な印象を見る者に感じさせた。
元々がスポーツマン、いや、スポーツウーマンだったとは思えない有り様だと、縁は他人事のように思っていると、そんな縁に対するツッコミがやってきた。
「縁くん、スポーツをやっていたら健全な精神が宿るなんていうのは体育会系特有の迷信というものだよ?」
「それに、スポーツウーマンなんて言葉はない。英語、苦手なんだね?」
それは二人同時に、しかも縁が考えていることを見通しているような発言であった。
「俺は……そんなに思考が読みやすいのか?」
縁としては、昨日に引き続いて行われる脳内当てゲームの勝敗に頭がどうにかなりそうだった。
「長年の付き合い、ってやつだよねー」
したり顔でこちらを見て笑う響子。
「言わずもがな」
能力によるものだから、自慢することでもないという思考が見える形で、鏡は肩をすくめてみせた。
「そういう意味では……一番、凄いのは……彼女だよ」
鏡が語るその言葉と視線は、響子の方を向いていた。
「モテ、るんだね……縁」
「やめてくれよな……」
鏡からの言葉に、縁は吐き捨てるように呟くしかなかった。
そして、縁は自らと響子の出会いを頭の中で思い浮かべないように注意する。
あの事件のことを、目の前の鏡は知っているかもしれない。今まで監視されていたというのなら、なおのことだろう。だがしかし、それでも、事情を知る人間としては響子が話したいと思わない限り、事態を秘匿する義務があると思ったのだ。
最後に言葉を濁したのは、鏡の表情と視線が眼に入ったからだ。
「生暖かい眼で見るなよ……」
縁に、その視線を向ける人間はそうはいない。響子と鏡くらいだ。そして、そんな奇妙な二人が出会い、そして同じようにお互いが持つ共通の認識をすりあわせ、仲良くなるのは自然の成り行きだったのだろう。
彼女たち二人は当たり前のように、お互いに探り合いを繰り返していた。
「お前……縁くんとは、一体どこで出会ったの?」
「図書室で」
「ああ……」
響子は部活に参加している。元々、割と学力に自信がない響子が何の娯楽もない閑静な住宅街の近くにたてられた進学校に入ることが出来たのは、中学時代のスポーツ推薦のお陰である。
試合に出て、結果を出すこと。それが響子に科せられた役割であった。
だからこそ、縁と響子は図書室で会うことがない。お互い、同じ事件を発端として人格に異常をきたした者同士でありながら、片方が苦しむ時にその苦しみを理解することが出来ない。
響子の苦しみは他者と暗闇に対する恐怖である。
人間恐怖症、それに暗所恐怖症。事件の被害者としてそれらの症例を発症した彼女に対して、優秀な結果を出すことを求めるというのが組織である。
社会というものは決して被害者が立ち止まった時間というものを考慮しない。
時間は常に平等である。けれどその平等さは何処か無慈悲なものだ。間が悪く、悪意に塗れた事件に巻き込まれた人間が、その傷によって歩みを止めた間も時は過ぎ、他の人間は健全に過ごし、当たり前のように成長する。
結果として、事件に巻き込まれ、傷を負った人間はその傷の分、置き去りにされる。
それを不平等となじることは出来るかもしれない。けれど、そんなことを言っても、何の意味もないことを縁は重々知っていた。
響子の暗所恐怖症については、実は軽い方だ。問題なのは対人恐怖症である。
特に、人との接触については極めて強い恐怖を感じているようだ。男性に触れることは勿論、触れられることも拒否する。
例外は事件の時に、奇妙な信頼を受けるようになった縁だけである。
「なら、知っているってわけ……?」
響子のその発言は、自らと同じ事件を経過して得た縁の悪夢を知っているからこその発言であり、それを知っているということがどういうことなのかを問うための発言だった。
「知っているよ……」
鏡は最初、軽い口調でそれを言う。その一言に、嫌悪感をむき出しにする響子。
自らのような傷口を持つ人間が、その傷を晒すということ。それがそういった人物が表現できる最大限の信頼を意味するのだと知って、それを軽い口調で語る鏡に対しての嫌悪感であった。
「その重みも……ね」
その嫌悪感を見てとって、ではなく、自らの心に問われた言葉の重さを内心で反芻した後に語られた言葉。その重みを感じ取って、響子は肩の力を抜いた。
「なら、私が言うことは何もない……か」
にこりと寂しそうに笑いながら、響子は手を広げる。
「縁くんの……お前に対する信頼に、一定の評価を与えるわ。だから、お願いがあるの」
「なに?」
「もし良ければ、私とも友達付き合いをはじめて欲しい。出来れば……でいいんだけど」
少し苦しそうにしながらも語られる言葉に、鏡はにこやかに笑って頷いた。
「ええ、もちろん。そういうことなら喜んで」
「ふふ……」
鏡には見えないようにしているのだろう、やや下の方を向いて、したり顔で笑う響子。
恐らく何か悪巧みをしているのだろう、ということが簡単に予想出来る表情とその表情を見ずとも心を読み取ってその内心を知ってしまった鏡の苦笑が縁の眼に焼き付いた。
なんというか外交だとか、商売での化かし合いを思い起こすような有り様だった。
「じゃあ、ちょっと私は先に行っているわ」
「ああ、気を付けてな」
縁は響子がここから離れるのを歓迎して、彼女を送り出した。響子の肩が震えていた。その肩の震えがどういうものなのか、縁は理解していた。
知らない人間と語り合ったということで、精神的な負荷がかかったのだろう。
だからこそ、響子は縁と鏡の二人から離れようとしたのだ。そして、それをわかっているからこそ、縁も、そして鏡も、響子を見送った。悪巧みがあったかもしれない。けれど友人が欲しいという願いは、絶対に響子の本音であったとわかったからだ。
その証拠に友人が出来たと浮かれている様子が、走り去っていく響子の足取りから見て取れた。
「ひ……」
「人の感情は奇々怪々。割と難しい言葉、好きなんだね」
縁の発言を読んで先回りした発言。ある意味、人を不快にさせる物言いだが、縁はそれが心地よかった。
別にマゾ、というわけではない。むしろ、悪癖のことを考えれば性癖は逆だろう。
「それに、割と縁の思考は面白いよね。真面目な顔して、いつも変なことを考えてる。自分では繋がっているつもりなのかもしれないけど、脈絡もない考えに思考が飛ぶし……」
それを笑えるのは、読心能力を持つ鏡だけだろう。
そして、それを言うということがどういう意味を持つのか、縁は先程の鏡が浮かべた苦笑を見て、わかっていた。
「無理、するなよ」
縁は真っ直ぐに相手の目を見て、話す。自らが心配しているのだと、鏡自身に理解してもらうために。
「無理? なにを言って……」
心が読めるというのに、縁が言った発言の真意を能力で確認していない。
そのことから、縁には鏡が自分でもその事実に眼を逸らしているということに、半ば気付いているんだろうと推測することが出来た。
「まぁ、確かに大変なんだろうな……」
縁は独りごちるように呟く。
「人と違う力を持つっていうことは……」
自らは自らの悪癖、そしてその悪癖に気付いたことによって、変質した精神性を持っている。そう分析することで、その苦痛から逃れることが出来るし、何より力を手に入れたばかりで、それほど力を持つということのメリット、デメリットを体感したことがないというのは大きかった。
だから、縁は本当の意味で鏡の持つ感情に共感することはできない。けれど、予想することが出来た。縁にも、人の思いを推し量ることはできるのだ。
「特に、読心能力なんていうのは……ある意味、人の隠したい所に土足で踏み込む最低な行為だ…………」
縁はそこまで言って、肩をすくめる。
「なーんて、あんたは思っているんだろうが……それは違うぞ?」
縁は自らの言葉に驚きすら感じる。
「あんたは明らかに、自らの能力をもって、人となりを判断することを忌避している」
それが縁には羨ましい、健全な精神とその上で育まれた良心による人への気遣い。それがわかるからこそ、かつて自らの隠していたかった悪癖を、白日の下に晒した人間へ優しくする気が起きたのかもしれない。
「仕事に対する強い意志を持つのも……そのためだ。そうじゃないと、耐えられないんだろう?」
縁は理解していた。鏡がかつて見せた仕事に対する強い意識は、明らかに不自然であった。なんと言うか、仕事が楽しいだとか、自分が認められてやりがいを感じているという訳ではなく、それに縋っているという印象を、縁は鏡の態度から感じた。
鏡は何も言わない。言おうとしない。自らの心を暴露される痛みを、鏡は今感じているのだろうか。ならば、それは仕方のないことだ。仕事とはいえ、鏡はそれをずっと行ってきた。たまには、自分自身がそれを味わうことも必要だろう。
「なんで……?」
辛い、という感情を顔一杯に浮かべる鏡に対して、縁は苦笑を浮かべるしかなかった。
「そうじゃなきゃ、自分がどんなズルをしているのか……わからなくなるだろう?」
縁はこの世界、というものを示すために両手を広げる。
「本来、異常保菌者……そんなものがいなければ、こんな能力は必要ない」
そして、少し小さく手を広げる。
それが示すものは、人間だ。世界を覆うほどではないけれど、それでもその中で大多数の生息圏を獲得している生物。
「人間は偉大だ。けれど、同時に一人だけじゃ……どれだけ頑張っても、自然や動物相手にはちっぽけな存在でもある。だから、人間は社会というシステムを用いて、自然や動物という脅威に立ち向かってきた」
それは、縁が様々な書物の中で得た事実だった。
人間がたった一人で、どれだけのことを成し遂げることが出来るだろうか。その答えは驚くほど少ないものだろう。けれど、人間は同じ人間へと語り掛ける言葉や文字を手に入れ、社会という堅固なシステムを作り上げた。
その結果として生まれたのが、人類の繁栄である。
「だから?」
鏡の疑問はもっともだ。縁はこの真実を語る時、その真実に至った経過を、普通の人相手に話すことが出来ないでいた。
だからこそ、縁がこの真実を語るのは、鏡が初めてにして最後になるだろうと確信していた。縁がこの真実に辿り着いた理由、それは、自らの悪性にある。
「俺は自らの悪癖、悪性を理解している。だから、人を遠ざけてきた。だからこそ、小さいながらも、確実に機能している学校という社会の中で生きてきた俺だからこそ、わかったことがある。それは……」
縁は眼を見開く。
「人間、それも社会というものに積極的な形で参加している人間にとって、その社会に属さない人間は排除すべき敵なのさ」
縁は自らの独特な立ち位置からイジメられていることはないが、常に距離を置かれている。それを思い出しながら、縁は語り続ける。
「そりゃあ……そうだよな。真面目に社会っていうものに参加しようと思えば、出来るだけ人間は逸脱した能力、精神性を持たない凡人であることが好ましい」
この逸脱した、というのは決して優秀な人間がいらないということではない。むしろ優秀な人間は、社会に利益をもたらす必要な存在だ。けれど、普通の人間の感性を大きく逸脱した優秀な人間というものは、社会を破壊する危険分子という扱いを受ける。
それはガリレオ・ガリレイの逸話が証明している事実だろう。
ガリレオ・ガリレイ。偉人として名高い人物だが、当時最高の権力を握っていた教会にとって、都合の良かった地球が宇宙の中心で、他の天体がその周りを回っているという天動説を否定した男であり、その説により、教会による異端審問とその刑罰を受けたという逸話もまた有名な人物である。
その逸話こそ社会というシステムを破壊する逸脱した優秀さを語るに相応しいエピソードだろう。ガリレオが生きた時代、今のようなほぼ地球上の全ての人間が参加する社会というシステムよりはやや小さいものの、強大な力を持つ社会が存在した。
それが教会、とどのつまりは宗教である。宗教というものは、今現在の社会が形成される前のテストケースであると考えるべきだろう。宗教における道徳の考えは、常に見られていると考えることから始まっている。
神、と呼ばれる存在に、常に見られている。そして、その生き方に応じて、死後の世界で評価が決まり、それに応じた罰や報酬が与えられる。だから、人は善良であらなければならない。宗教、この場合は今現在の社会と比例して小さな社会に、適した人間でなければならないと強要される。
そう教えた誰か、その人物が一体どういうものを意図して、その考えに至ったのか。それはわからない。ただ、そうした信心を持たず、その組織に所属する人物としての利益を考えた場合、宗教の役割は実に簡単である。
物言わぬ監視者だ。組織の管理者が管理しきれない場所、時間でも、神と呼ばれる物言わぬ監視者が、宗教という小さな社会の中で息づく人々を監視してくれる。そして、万が一逸脱した人物が現れた場合は神という存在が迫害の免罪符となってくれる。
それが、実利的に考えた宗教の実態であり、社会というものが構築されるに至ったテストケースとしての宗教の姿であろう。
今現在の社会の姿に当てはめるのなら、宗教の教えが法律や常識であるのだと考えればわかりやすいだろう。教えを破れば、罰が当たる。その考えは法律、というものが果たす役割と酷似している。
宗教を真剣に信じている人には、噴飯ものの暴言だろうが、縁はそう考える。だからこそ、宗教の中にある教え。その教えに帰属し、利益を得ていた一般の人々が構築していた社会。その社会に対して、ガリレオが唱えた地動説は、まさに破壊者として存在したと縁は考えるのである。
「随分とわかりにくいご高説だったが……結局、その説をぶちまけて、きみは何が言いたいんだい?」
「あー、うん、ごほん…………っと」
鏡の言葉に、縁は自らの思考が如何に歴史的な事実を元に説明するべきかに目線を向けていたことに気付いて、咳払いをする。
「まぁ要するに……本質的には、逸人の能力ってのは人間に不要な力だっていうことさ。それを使うことは、社会に帰属する人間としての能力を磨く努力を否定している」
縁は、ここで少し息を吸い込む。次の言葉だけは、はっきりと口に出さなければならないと縁は感じていた。
「だから、本質的に……逸人としての能力は……ズルなのさ。真面目にこの社会で、この世界で生きようとする人間にはね」
縁は笑みを浮かべる。その笑みの中に含まれる色は、苦笑の色が強かった。けれど、その笑みを朗らかな笑みへと変えて、縁は言った。
「そして、そんなズルに心を痛めている人間だって言うことは……根が真面目で、真っ当な感性を持つ人間だということさ」
誇っていい、そう鏡の内心での葛藤を肯定する縁。その縁の言葉は、鏡の心に届いたのだろうか。読心能力を持たない縁ではわからない。
けれど、それが本当の真実であり、力をもった人間の苦悩を予測することが出来たからこその発言であった。
「力を持つからこそ、そして、それが自分にしかない力だと思うからこそ……それがどんな役割を持って、どれだけの期待を背負うのか……わかってしまう。特に、あんたの能力はそれが顕著だ」
縁の言葉に、居心地悪そうに肩を抱く鏡。そんな鏡の姿に縁は苦笑を深める。
「だから、苦しい。だから、怖い……当たり前の感性じゃないのか、それは」
縁はことさら、軽いことのように言葉を話す。
「少なくとも、俺みたいに……たがが外れる理由が出来た、なんて思う人間よりはな」
縁はこの逸人としての超常的な能力を得た時、最初に思ったのは、それであった。
「でも、それでも……きみは……」
何かを言いかける鏡。けれど、縁は話に花が咲いて、いつの間にか多大な時間を浪費していたことに気付いてしまった。
「鏡、話はこれまでだ。もう行かないと学校に遅れる」
縁は短く語り掛け、そして、その後、走り出した。
「あ、ちょっと……待ってよ!」
縁の後ろを走る鏡。二人は慌てていたものの、何とか学校に辿り着くことが出来た。
その後の学校で、特に変わったことはなかった。なんと言うか、したり顔で友人が出来たことを誇らしげに語っている響子が可愛らしく、そして、ちょっとうざかっただけだ。 放課後、響子は部活へ。そして、縁と鏡は再びあの存在と出会うことになる。
「どうも~ん、さぁやるべきことをやりましょ~う?」
その言葉こそが、縁が鏡の背負う力が持つ役割と、その重責を知る一助となる出来事への切っ掛けだった。
「やっぱり……な」
縁は、逸人としての能力を自らが手に入れるに当たって、ある疑問があった。
何故、自分と同じような学生として、自由な時間と立場を持っている鏡だけならともかく、その素性や風体はともかくとして、立派な公務員であり、組織に所属する社会人でもある業斗が縁の能力の覚醒に動いたのか。
だから、学校を出た時、昨日見た車があった時にそれを理解することが出来た。
ああ、逸人としての能力。縁がその能力の覚醒によってどのようなものを持つか、鏡の能力によって推測することが出来たはずだ。ならば、そうして覚醒した縁の能力が業斗が所属する異常保菌者対策室に必要とされているのだろう。
それがどんな場所なのかはまだわからない。だがしかし、縁はある種の高揚感が自らの身体からわき上がるのを感じていた。
縁は自らの能力、その限界を知らない。ただひたすらにその能力を振るう。それを行える場所があるというだけで、縁は幸福を感じていた。
「そんな考えをして……後悔したって知らないんだからね」
縁の思考を読んで、突っ込んでくる鏡。その姿に、縁は一言混ぜっ返すことを選択してしまった。
「そういう風に、思考に突っ込むの……あんまし良くないことだ、って言ったはずだぞ」
簡単な忠告のつもりだった。けれど、鏡は露骨に驚いてみせる。
「一体、どうしたんだ?」
自らの心を読んでいるのなら、縁の言葉がそれほど嫌な思いを感じているから吐き出された言葉とは違うことがわかるはずだ。
「あ……」
そこまで考えて、縁は気付く。
「もしかして、思考を読むのを止めているのか?」
縁の言葉に、鏡はこくりと首肯してみせる。
縁は、自らの思考と発言が鏡の行動に影響を与えたことに驚いていた。
「なんだって、そんなことを?」
それに心を読むことを止めているというのなら、最初の発言は一体なんだったのだろうかという疑問も、今更のように湧いた。
「きみがズル……だって、言うから……」
縁はその言葉を聞いて、少しの苛立ちを感じた。
「俺が言うから……? だから、合わせたっていうのか?」
自分が嫌がるから、だから合わせている。そんなのはまやかしだろう。
縁は苛立ちを、明確な怒りに変えた。
「俺の、心を、読め!」
短く淡々と、けれど力強く、縁は鏡へと発言した。
「え、あ……」
慌てながら、鏡は縁の心を読み始める。
「え……?」
そこには強い怒りとそして、鏡に対する心配の情があった。
「な、なんで……?」
「あんたが自分の意志を捨て去ったからだ」
縁は自らの言葉を、自らの心に従って吐き出す。
「俺は特に自分というものを、常に強く認識している。それは自分というものを認識することが、自分を抑えるために一番必要な行為だとわかっているからだ」
縁の発言に、鏡は自らの視線を彷徨わせる。
「影響されるのはいい。だけど、自分を捨て去るのはダメなんだ。思考を放棄して、人の思考に従うだけの、人形になっちゃダメなんだ」
縁は強い意志を込めて、鏡を見つめる。
「そうなったら、生きている意味がない。誰かにとって都合のいい人形になるなよ!」
縁の発言は、感情を吐き捨てるための暴言でしかなかった。
縁はかつて、自らが行われたことを思い出していた。
「縁、きみは……」
縁の家庭は極めて特殊な家庭であった。例え、どのようなことがあれど、怒られることはない。ただ、失望されるだけだ。
だから、幼い縁は親から与えられる無言の期待に応え続けようとした。
けれど、縁は元々学業も運動も優れているとは言い難い人間だった。凡才だったのだ。
だから、努力をして、他の同年代が努力をそうはしない小学生の頃は好成績をたたき出せた。けれど、進学を意識し、早ければ将来を意識した人間が努力をし始める中学の後半からは様々な人々に抜かされていくようになった。
そして、家に帰り、平凡な成績を見せる度に静かな溜め息を吐き出される。
そんな生活に疲れていた。縁がそんな生活に疲れた頃、響子の事件が起こり、自らの異常性を認識した。その時、それまでの縁は壊れたのだ。
そして、それまでの縁を構成していた他者に評価されたいという欲が消えた。自らのどうしようもないクズな部分を受け入れ、そして、それでもなお、幸せを求めて生きる。
その覚悟を生み出したのは、自らの意志だ。他者の価値観に沿って生きれば、確かにその人に好かれることは出来るかもしれない。だがしかし、自分というものを見失うまでに人の意志に従うということは、結果として自らの意志を大切にしないということだ。
そんな人間が幸せになれるはずがない。それが縁の答えだった。
だから、ある意味で鏡は縁の逆鱗を踏んだのだった。
けれど、そんな鏡に対して縁は心配し、情を向ける。
「俺と同じ轍を踏むな」
縁は端的にそう語った。心を読んでいるのならば、縁の乱れた心の中に伝えたい事実とその心を持つことがどうして大切なのかがわかるはずだ。
「きみは……暖かい人だね」
「はぁ……だから、俺はそういう風に言われるような人間じゃないって言ったろ」
「でも、これはぼくがきみを知って得た感想だ。きみの言葉に共感したのなら、きちんとぼくの意志を受け止めてくれよ」
その言葉を聞いて、一本取られたと縁は頭を抱えるしかなかった。