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 無残に破壊され、死へと向かうものを美しいと感じるのは、間違っている感性なのだろうか。どうしようもないほど、その感情が自分にとっての真実なのだと確信しているからこそ、自己に対する嫌悪と失望を止められない。

 黄昏時、夕方特有の赤い空、けれどその色に染まったものを、男はまるで黄金のように輝いていると感じる。

 その光と色に染まった光景が、フラッシュバックを引き起こす。

 自分がとある事件に巻き込まれた時の記憶だ。誰だかもわからない、息をする肉の塊とその塊が流す血。それらを浴びて呆然としている自分とそんな自分を見つめる誰か。

 その誰かは自分の中にいた。自分の中にいたその人間はきっと、縁の良心、道徳と呼ばれる存在だったんだと思う。けれども、その詳細は思い出せないし、思い出すつもりもない。なぜなら、その時、隣にいた誰かは壊れて、わからなくなったからだ。

 それが何よりも怖い真実を突きつけてくるようで、男は恐怖しか感じなかった。

 だから、どうしても、男はそれ以上を考えることを止めてしまう。

 その時に壊れたものが何なのか、予想が付いていた。けれど、それがどんなものだったか、取り戻そうとは思わなかった。

 それが壊れた今の自分がどういう存在なのか、自ずとわかる。そんな自分がそうした良心を取り戻した所で苦痛しか感じないだろう。

 だからこそ、自分はその結論を確定させない。確定するまで考えが進むことを恐れている。でも、それは記憶の中にある映像をただひたすらに見続けることと同意だった。

 黄昏時の赤に染まった世界、それが記憶を呼び起こすから、神代縁は放課後を図書館の中で過ごす。

 部活になど入れない。この赤を見ると、フラッシュバックした記憶がしばらくの間、視界の中から離れず、動くことが出来なくなるのだ。これが帰宅途中に起これば、それだけで周りの人を心配させ、最悪の場合、救急車を呼ばれてしまう。そういった騒ぎが起こることを危惧して、縁は常にこの場所で、この黄昏時という時間を過ごすのだ。

 そして、その映像を見続ける内に、縁はどうしようもない自らの感性の変化に気付いてしまっていた。恐怖を、感じていた。生理的な嫌悪をも感じていた。けれど、どうしようもなく、その映像を見続けた結果、自分自身が変質していってしまったのか。

 壊れたものが美しい。この黄昏時の光に照らされた記憶の中にある破壊の痕を、美しいと思うようになってしまったのだ。

 うずくまった下らない誰か。

 目の前でかつての自分が倒した敵、その敵を見て、縁は体の中でどうしようもないほどの熱が溜まっていくのを感じていた。その熱の名前は快感と呼ばれるものだった。的を倒した達成感がねじ曲がった快楽に繋がってしまった。

 それはサイコパスだとか異常者などと呼ばれるものが持つ性質なのだろう。そう気付いて、縁は再び先程のフラッシュバックをやり過ごした時と同様に、自らから目を逸らす。

 けれど、逸らしきれない。この映像を見る度に、その映像を見続けていくことで育まれた精神の歪みが、刺激される。

「ああ……畜生……」

 自分という存在が、どれほどまでに罪深い存在なのかを理解しながら、縁は周囲の状況を見渡す。ほとんどの学生は部活やら塾やらに行っている。

 普通科の、部活が特に強くもない進学校。そんなどこにでもあるような公立校では、放課後の長い時間を、勉強のために図書室で過ごす人間など皆無だ。

 その推測を肯定するかのように、図書室のかび臭い空気が蔓延する奥まった場所には、縁以外の人影など微塵もなかった。

 だからこそ、縁は意識して無表情であった自分の表情を崩す。その時の笑顔はきっとどうしようもないほどに残虐で、凶暴で、悪辣なものとなっているだろう。

 自分が笑みを浮かべるということにすら、神経を使う日々。

 それらはまるでやすりを掛けられているかのように、縁の精神を摩耗させ、生活を息苦しいものに変えていた。

「ああ……くそっ……」

 そんな考えが頭をよぎった瞬間に、縁は自らの心が悲鳴を上げていることに気付く。

 ストレスが、溜まっていた。縁の状況は羊の群れの中に一匹、狼が混ざっているようなものだ。しかも、その狼は自分が狼であることを周りの羊に知られてはいけないからずっと、羊の餌で空腹を満たしているが、足りない。羊たちの中で、一匹、あるいは二匹程度なら、簡単に喰らうことができる牙と爪が狼にはある。

 けれど、それでおしまいだ。羊にだって、狼を殺すことが出来る手段はある。群れという数の違いで圧殺すれば、それだけで事足りるのだ。

 それがわかっているからこそ、狼、つまり、縁は羊たちに手を出すことが出来ないのである。けれど、縁には狼とは違う点があった。

 人間だけが持つイマジネーション、想像による欲求の昇華である。

 縁はこうして、あまりにも自分が社会的には果たせない欲求によって苦しめられた時、想像の世界に逃げ込むことにしていた。

 最初はあほらしいとすら感じていた。自らの欲求を昇華させる。図書館で黄昏時を過ごす時、その時間になる前のヒマ潰しとして本を読んでいた縁は、心理学の本でその用語を知った。

 だがしかし、本来、昇華とは社会的に実現不可能な欲求を別の目標に目を向け、それを達成することで擬似的に欲求を解消する方法である。

 けれども、縁は自らの欲求と関連づけられるような形で、達成可能な目標を見出すことが出来なかった。あるいはこの黄昏時のフラッシュバックがなければ、運動にてこの欲求を解消することが出来たかもしれないが、それも無理なことだとわかっているのだから、仕方のないことだろう。

 だからこそ、縁は自らの欲求に素直な妄想を浮かべることにしたのだ。

 まず一番最初に頭の中で用意したのは、特に誰とも言えない特徴のない棒人間だ。

 その人間がどのような人物であるのか、詳しい設定を作りはしない。

 ただ頭の中で思い浮かべるのは、成人の男性ということだけだ。極めて自分にとって、殺すのが容易ではない人物を想像する。

 そして、自分の中にある殺意を解き放つ。

 周囲の状況は、あくまでこの図書室の内部を想定。頭の中で図書室の内装を再現し、そして、男性がこの場所で本を探している様を想像する。

 そして、縁は彼を殺すために、頭の中で自分がいた場所に作った棒人間を操作する。

 感覚としては、FPSのゲームをやっているようなものだろう。

 自分が想定した男性が気付かないように、彼の足音が進む方向を聞き分け、その背後へと自らの体を移動させる。

 この時、普通ならば目の前の男を殺す想像をする所だろう。一番、想像がしやすい殺害方法はナイフだろうか。いや、何でもいいだろう。鉄の棒一本あれば、死ぬのが人間なのだから。

 けれど、そうした現実で想像が出来るような簡単な殺害方法では、その殺害の詳細を詳しく想像しなければ彼は満たされないことに気付いてしまった。

 そして、そんな想像を繰り返していれば、現実と虚構の違いがわからなくなるなどということがなくても、いつか自分の心が弱った時に、衝動的な殺意に負けてしまう可能性があると縁は分析していた。

 その程度には、自分の心が摩耗していることに縁は気付いていた。だから、縁は現実では有り得ないような妄想を行う。

 それは剣だ。自分のような細長い体格の人物が扱うのなら、西洋の剣かそれともここは更に非現実的な日本刀の類にしようか。そんな妄想を頭の中で浮かべていると、ばかばかしくて、笑みがより濃くなるのを縁は感じていた。

 それこそアニメか何かのように、なんでも切れる大剣、とでもいこうか。

 縁はそれを振るう。もちろん、一般的な男性を想定していた脳内の彼はそれに抵抗することなく、死んでいった。

「ぐ、ああ!」

 自分の中に生まれた想像の存在でありながら、その悲鳴はまるで、どこかで聞いたことがあるかのように真に迫った悲鳴であった。

 それが妄想という現実感の無さに歯止めを掛けているような気がして、縁は妄想の度合いをより酷いものへと変えていく。

 刀で切り裂く度にはらわたが、脳髄が、眼球の欠片一つ一つに至るまでを想像し、そして、その想像のありえなさを嗤った。

 自らが醜悪な精神をしているのはわかっている。だがしかし、産まれて、そして、ここまで生きてしまったのだ。そう簡単に自らの命が忌まわしいものだからといって、命を捨てる気にはなれない。

 いや、縁のような人間が普通の人間の感情を元に行動を判断することすらおこがましいと言われれば、それはもう否定のしようがない事実だ。だがしかし、縁は生きたいと望んでいた。なら、ままならない現実と自らの性質に折り合いを付けながら、生きていくしかない。

 だから、想像の中だけはせめて、自らの中にある邪悪さを満足させたかった。それは、生きるために必要なことだから。

 けれど、それは一体何の罰だったのだろう。想像だけ、のはずだった。だから、誰にも迷惑を掛けていないはずだった。けれど、それがいつの頃からか、何かの反応を引き出していた。妄想のはずだ、自分は何も、悪いことを現実に行ってはいない。ただ、想像の羽を広げ、自らの悪性を満足させていた。それだけのはずだったのに。

 何時の頃からか、この図書館の中には誰かの存在があった。

 その存在が、縁が極めて悪質な夢幻を思い浮かべる度に、反応しているかのように体を震わせていた。

 縁はその存在が誰なのか、それを知りたかった。けれど、その存在は、縁が自らの悪性の元となった過去からの呪縛が解かれたころには、既に図書室の外に出ているのだ。

 それがここ一週間ほど続いているからこそ、縁は自らの妄想が誰かの害悪になっているのではないかという新たな妄想に取り憑かれ始めていた。

 誰も知らない。知ってはならないはずの縁がもつ秘密。

 自らの悪意、悪性。それを知って、それを嗤っているのか、それとも悪意を持っているのかもわからない誰かの監視に恐怖を感じないほど、縁は無思慮ではいられなかった。

 だから、縁は自らの中にある悪夢とも呼べる幻を抱えたまま、動き出す。

 縁がこの幻影が浮かんでいる間、動けないのは、目を開くとその光景が現実の光景を塗り替えるからだ。

 それは欠点としか言えない。何せ、目の前に誰がいるのかもわからず、目の前に何があるのかもわからず、正しく盲目と成り果てるからだ。

 そして、それ以上に縁を恐怖の中へと叩き込むのは、目の前に浮かんだ光景は縁の認識次第で動きを変えるのだ。とどのつまりは、目の前にいる存在。血まみれになって倒れている誰か。

 それに向かっていけば、当然、その相手とぶつかることになる。

 足が動き、そして、その足が男にぶつかる。

「う、ひぃぃ!」

 蹴られ、悲鳴を上げる男。その光景に対する形容しがたい嫌悪感を抱えながら、縁は男を避けることなく、歯を食いしばって足を進める。

 縁はこの幻覚を見始めた当初に、腕を振り払い、その幻覚を追い払おうとしたことがある。けれど、目の前の幻覚は消えることなど無く、それどころか更に悪夢じみた光景を縁の前に作り出す。

「ぎ、げ、がぁ、ああ!」

──こんな悲鳴は、嘘っぱちなんだ……!

 縁は強い意志を持って、足を進めなければならなかった。なぜなら、本来そこにはいない存在であるが故に、あっさりと男の幻影は縁の進む足によって切り裂かれていくのだ。

 病的な妄想。その光景を見続けながら、頭の中では先程作り出した図書館内の模型図を参考にして、足を進める。

 その行為全てが、縁に対して生理的な恐怖と心理的な狂乱を招いていた。これがあるからこそ、縁はこの妄想が浮かぶ度に足を止めていたのだ。けれど、それでも、縁は足を進めなければならない。

 そうしなければ、自らの妄想が誰かに危害を加えているかもしれないという新たな妄想に取り憑かれて──殺されるからだ。

 精神的な摩耗。一般的な社会で暮らすために、自らが纏ったペルソナ。それらは全て、実害を出していないということからようやく被れたものだ。もし、本当に自らの想像が誰かに害を為してしまっているのなら。

 それを想像しただけで、軋む心がどうなるのか、想像もしたくなかった。

 縁が足を進める度に、幻覚で呻く男が苦しみの声をあげる。

 けれど、縁は全力で持って足を進めた。それがせめてもの慈悲になることを知っていたからだ。

 それが想像の中に存在する男に対するものであることに気付き、その思考の歪さにも気付きながら、縁は足を進め、そして男の姿を通り抜けた。

 その瞬間、眼から涙が自然と浮かび、そしてその涙が、一瞬だけ幻覚を途切れさせた。

 その時見た顔を、縁は一生忘れないだろう。

 恐怖に引き攣る顔、ではない。冷静に、ただひたすらにこちらを観察する眼がまず印象的だった。そして、小さな体でありながら、女性らしい部分は肉感的に育ち、フェミニンでありながらもどこか幼さを感じさせる風貌は、実に男に好まれるものだ。

 こんな美人がこの学園にいたなんて、と自分の見る目のなさに縁が驚愕すら感じるほどの美人がそこにいた。

 顔立ちの幼さを覆すのが、先程も言った眼の深さだ。

 目の前にあるものをただ受け入れる。そんな観察者を思わせる眼には、溢れんばかりの知性と自信が宿っている。その小さい体付きと童顔であるという、大人の女性としてはマイナスとなる印象を、その知性を感じさせる目の深さが、どこかアンバランスでミステリアスな女性としての魅力を作り上げていた。

 ああ、と吐息が漏れる。

 この瞬間を持って、縁は目の前の女性に心奪われるのを感じてしまった。だからこそ、同時に自らの悪性が眼を覚ます。こんな女性だからこそ、見惚れるほどの美しさを感じさせる女性だからこそ────殺してしまいたい。

「はっ、ははっ……」

 縁は胸元をぎゅっと握る。その行為は正しく、自らの凶暴性が形となって溢れるのを抑えるための仕草だった。

 けれど、それでも抑えきれない凶暴性が縁の体を突き動かした。歩く。歩いて、目の前の女性に近づいていく。そうすることでまた、新たなことがわかった。

 目の前の女性は何故なのかはわからないが、縁の残虐性に気付いているということだ。表情から感情を読み取っているのだろうか。わからない。けれど、女性の怯えが、更に縁の残虐性に火を付け、油を注いだ。

「ははっ……」

──ああ、この目の前にいる存在はどうしてここまで……そそるのだろう?

 具体的にどんな感情がそそるのか、縁は頭の中で思い浮かべることすら拒否した。そうしなければ、縁は本当にこれまでの人生全てを台無しにする選択をとってしまいそうだったからだ。

 それほどまでに、目の前の彼女は魅力的だった。

 ここまで、耐えてきた。

 ここまで、生きてきた。

 自らの悪性に苦しめられながら、それでもなお、生きてきたのだ。それでもなお、我慢してきたのだ。

 ああ、だから、きっと今回も耐えられる。そう思っていたのに、縁は自らの凶暴性の発露が今までにない強さで起こっていることに気付いてしまう。

 幻覚が、消えていた。

 そんなものよりも、目の前にある女性の存在に全神経を集中したかったのだろう。

 あまりにも禍々しい一目惚れ、とでも言えばいいのだろうか。自らの悪性によって歪んでいると知りながらも、縁は彼女に対する感情にそんな印象を受けた。

 そのことに気付いて、縁は何よりも自らの悪性を嫌悪した。

 本来、愛情というものは何よりも尊いものだと縁は思っていた。なぜなら、愛情というものは、汲めども汲めども尽きることのない他者に対する慈しみだと思っていたからだ。人を慈しみ、敬意を持ち、そして気遣う優しさ。

 それが、歪められている。それが、身勝手な性欲に歪められている。

──ああ、認めてしまった……。

 縁は心の中で呟く。縁の悪性とはとどのつまり、性的異常者のそれだ。それも、シリアルキラーとも成りかねないもの。だからこそ、縁は自らの悪徳が性的な感情、異性に対する興味とも言える恋愛に向くことを忌避していた。

 けれど、目の前にいる女性は掛け値なしに魅力的な女性だ。縁が思い描く理想の存在と言ってもいい。

 ちんちくりんな身長だということはマイナスの印象だと思っていた。けれど、ここまで知性的な瞳を持っているのならば、その印象は覆される。ああ、正しくギャップというやつだろう。小さな体、幼さと呼ぶべきものはどうしようもなく無知に対する侮りを産む。

 けれど、正しく目の前の女性はそれを覆した。

 思考が飛ぶ。意識が、飛ぶ。

 いつの間にか、目の前には女性しか見えない。それほどまでの近さに、縁は目の前の女性へと歩み寄っていた。

 呼吸の音が漏れないように、鼻から息を吐き出し、少しでも体の中にある熱が外に逃げるように意識する。けれど、それが浅はかな抵抗だということはわかっていた。

 そして、それ以上に思うことがある。

 目の前にいる女性は何故、こうまで近づかれて逃げないのだろう。

 目の前の女性と縁には、これまで特に接点などなかったはずだ。そんな見ず知らずの男性に近づかれて、嫌悪や恐怖を感じていないはずがない。

 気弱だが、負けん気の強い性格なのかもしれない。

──ああ、それは……余計にそそる。

 必死に恐怖に打ち勝とうとしているその顔を破壊し尽くす。その中にある怯えを全て、白日の下にさらけ出し、その体の内部にある人知れぬ美しさすら見いだしてみたい。

──ふざ、けるな……!

 自らの煮えたぎった頭に、縁は冷や水をぶっかけるつもりで歯がみする。 

 ずきりとした痛みが甘い疼痛へと変わる前に、縁は目の前の女性を振り払うように前へと進もうとした。

 そうすることで、自らの暴力性が発現する前に目の前の女性と距離を取ろうとした。けれど、その思惑は全く別の思惑によって粉砕される。

「え?」

 手が掴まれ、引っ張られ、体が流れる。

 そして、その瞬間に合わせて目の前の女性は縁の足を払った。明らかに武芸のそれを思わせる動き。護身術と呼ばれるようなそれを使いこなして、目の前の女性は縁を取り押さえる。

「な、にを!?」

 思わずと言った体で、縁の口から言葉が漏れる。

 先程までの醜態を見せた挙げ句、その体をどかそうとした所を迎撃された。いや、それは相手の女性からしてみれば、違う光景に見えたのかもしれないと縁は気付く。

 ハァハァと息の荒い男が、自らに手を伸ばしてきた。そう考えれば、この状況は当たり前のことだった。

 いやむしろ、これからの高校生活を考えれば何も弁明することもなく、この場から立ち去ることで、嫌な噂を流されるよりはマシだったのかもしれない。誤解なのだと弁明できるかもしれないからだ。

 肩の関節を決め、それを足で固定、その上で肘と手首の関節すら容赦なく決めていく女性。動きは熟達しており、縁は驚愕すら感じてしまっていた。

 このような小さな女性が、今のように自らの身を守るための護身術に対して熟達しているなどという表現を使うべきほどに精通している。

 自分のような平和な世界に反する人間がいるからこそ仕方のない自衛として、彼女のような美人は武術を収めるのだろう。それが歪なことのように、縁には思えた。自分という存在が歪なものであるからこそ、そうした存在に対する備えを行うということ自体が、歪なものだと思えたのだった。

 苦痛を堪えながら、縁は自らの背後を見ようと体を動かし、自らの間接を固めてしまった女性の様子を窺う。

 こちらを伺う彼女の様子には、先程までのような恐れはそれほど見あたらなかった。

 それどころか、無表情でわかりにくいが口元の端が持ち上がっており、その笑みは自らが成し遂げた勝利という事実を誇示しているかのように思えた。

 その有り様に縁は心の奥底から、不満という感情が持ち上がってくる。浅はか、だと思った。こんな程度で、自分を押さえ込めるなどという短慮、実に浅はかだ。

 そんな不満を抱く事は間違っているのだと、縁は思う。けれど、そんな不満が止められなかった。

 性的異常者だとかそんなことは関係なく、縁は男だ。男が女性に負けてへらへらと笑って現状を甘んじて受け入れる訳にはいかないだろう。

「あまり……女性には、気安く触らない方がいいよ」

 縁が極められた腕が軋むのも構わず力を入れようとしたその瞬間、まるで縁の意志を読み取っていたかのように、女性は縁の腕を固めていた力を弱め、縁の動きに合わせて、改めて腕の関節を極めなおす。

「そんなに安い人間のつもりもないし、ね」

 軽く笑いながら語る生意気な女性。

「名前も知らないからって、そんな風に呼ぶなんてね……っ……」

 女性は言葉を籠もらせる。何かを言い過ぎたのだと、その目が語っていた。

 縁は自らのどうしようもない悪癖を満たすために様々な知識を得た。その中には、先程想像したように荒唐無稽な能力についての知識もある。

 その知識が、とある存在を思い起こさせていた。

 妖怪で言うのなら、さとり。いわゆる、心を読む能力を持つ存在のことをである。

 縁がそれを思い起こした理由には、本来、普通の人間では意識しない事実が気に掛かっていたからだ。

 自らの夢、妄想。それに対して反応する誰かという事実に対する恐怖。

 その恐怖が、本来普通の人間ならば一笑に付すであろう妄想に一抹の懸念を生み出す要因となっていた。そして、縁はこのどうしようもなく詰んだ状態で、ある妄想を思い浮かべる。

 それは目の前の女性が惨殺される光景だ。先程見た顔も、体も、はっきりと思い浮かべることが出来た。先程見せつけられた彼女自身の魅力的な姿は、縁の眼に焼き付いていたからだ。

 だからこそ、頭の中で再生される光景は極めて現実に即しており、もしその光景を見る者がいれば、狂乱を起こしたとしてもおかしくはないだろう。

 そして、縁のその想像と懸念通りに、見ることが出来るのなら狂乱してもおかしくない映像に反応して女性の動きが乱れる。

 その動きに逆らわず、縁は自らの身体を引き起こし、間接を極めに来る女性を自らの腕の力で振り払った。武術に精通しているとはいえ、元々の体格差と性別差による筋力の違いには敵わず、女性は縁の腕を放してしまう。

 そうすることでようやく、縁は再び眼の前の女性と向かい合う事が出来た。

 その顔は青ざめ、明らかに縁の妄想で気分を害したのだとわかるほど急激に体調を崩している。

 縁は先程の得体も知れない妄想が、現実味が帯びてきたのだと言う事実に恐怖した。

 人の心を、人の想像している妄想の内容を知ることが出来る人物がいる。

 それは、非現実的な世界の肯定だ。日常の中でひっそりと存在する縁のような反社会的な人間にとっての悪夢だ。

 人が何を思うか、それは本来、自由であるべき権利だ。

 想像力とは、自らが納得出来ない事実に対して、こうしたら良かったのではないか。ああしたら良かったのではないか、と考える力だ。

 異常者である縁もその恩恵を受けている。想像力によって、人はより良い未来を思い描き、かつて起きた出来事と同じような出来事が起こった場合、ちゃんとした対応が取れるかどうかを想像することによって準備が出来る。そうすることが出来るのが、人類の強みであり、そして、縁のような異常者にとっての救いである。

 目の前にいる存在は、その自由を侵す悪夢じみた存在だ。

 思考を、思想を読み取るということがどれだけ恐怖するべきことなのか、わかった上で縁は目の前の女性を見る。その目には恐怖と警戒心が強く浮かび上がっているのだろう。目の前の女性もまた、縁のその視線を受けて、身を固めるようにして不安そうな顔を浮かべた。

 だが、縁は何をするべきなのかがわからなくなっていた。

 もし相手が自らの思考を読めるとしても、そして、その思考を読めるが故に、自らの身体を守るために行動を起こしたとしても、社会的な意味合いでは女性の過剰な反応による過剰防衛、あるいは正当防衛として扱われる。

 被疑者である縁は殊勝な態度を取れば、刑事事件として扱われることはないだろう。だがしかし、ここで問題なのは民事というか、教育機関である学校としての罰の方である。教師に突き出されればそれだけで問題となり、それを嗅ぎつけて様々な形での悪い噂が学校の中に広まる可能性がある。そうすれば、縁は今度こそ、人との付き合いで精神を摩耗させ、本当の犯罪を引き起こしてしまう可能性があった。

 それが怖くてしょうがなかった。けれど、縁は目の前の状態に対して、何かをすることが出来ない。何をするにしても、相手となる女性側の判断が肝となる。それを考えれば、何か行動を起こして、これからの事態を更に悪化させる危険性の方が怖かった。

 そうして、縁は動けない。動くのが怖くなっていた。臆病者と笑われるだろうか。縁は想定する最悪の状況があまりにも非現実的過ぎて、頭がおかしくなったようだった。

 元からおかしいと言われればそうなのだろうが、それでも、さとりなどというものが本当にいるかもしれないなどという、とんでもない状況を想定して動くことなど普通では有り得ないことだろう。

 この事件が終わった後も、縁はこうした不条理な存在がいる可能性に怯えなければならない。そんな不条理に気付いたのも自らの異常性が原因なら、それを恐れる理由もその異常性なのだ。

 世の中の、世界というシステムの理不尽さを感じるには充分な出来事だった。

「ねぇ……」

 そんなネズミのように心を縮こまらせていた縁に、目の前の女性が話しかけてくる。

「こちらは、この事態を大事にするつもりはないよ」

「なに……?」

 縁にとって、あまりにも都合のいい発言。それを先程まで怯えていた女性が口に出すのが、酷くおかしなことに縁には思えた。

「だったら、何故……俺に近づいた……」

 それがさとりなどというとんでもない存在がいるのだということを前提にした発言だと言うことすら忘れて、縁はその言葉を口に出す。

 それほどまでに縁にとって、彼女の存在は脅威となり始めていた。

「きみが思う通り……きみの思想が危険だったからだ」

 縁の言葉に対する答えはそのようなものだった。

 その答えが縁の妄想を肯定するものなのか否かもわからず、縁は目の前の女性の言葉を待った。

「ぼくの名前は(みず)(しろ)(かがみ)。きみの名前も、教えてもらえるかな?」

「神代縁」

 縁は端的にこのクソアマの質問に答える。

「おいおい…………きみは失礼なやつだな。名前を教えたというのに、そんな形で呼ぶなんて……酷すぎる言葉に、こちらも気分が悪い」

 その言葉を聞いて、縁は舌打ちしたくなる気持ちを抑えられなかった。クソアマ、というのは、あくまで縁が鏡の持つ読心能力を試すために吐いた暴言だ。

 そんな思惑すら見通して、苦笑しながらこちらを見る鏡の姿に縁は怒りを感じてしまっていた。

「ああ、そうだとも。きみの想像する通り、ぼくは人の心が読める。時折、強い意志を用いて作り出された妄想ならば、その映像すらも受信することが出来る」

 その言葉を聞いて、縁は心の底から形容しがたい気持ちがわき上がってくる。

「歓喜と……絶望、か……」

 縁の中にある感情をより分けて、詳しく語る女性。いや、鏡と呼ぶべきか。

「そう呼んでくれると嬉しい」

 縁は何も言わず首を振り、言葉にならない声を吐き出した。

「これじゃ……会話するのが面倒くさくなるな……」

「それじゃあ、きみの気持ちがわかっても、ぼくの気持ちがわからないでしょう?」

「コミュニケーションは双方向にってことか……?」

 しかし、片一方は嘘を吐いたり、知られたくないことを黙っていることすら出来ない。

 品行方正な人間であっても、その会話とも言えない一方的な情報開示は、ストレスを発生させることだろう。ましてや、縁のような人間なら尚更である。

 縁は、恥というものを知っている。自らの中にある欲望、その全てがあけすけに見られてしまえば、他者に不快感を与えるものだとも知っている。

「…………ああ……わかったよ」

 それでもなお、縁は鏡の言葉を肯定した。その理由は決して、この状況に対して、鏡から気に入られて状況が良くなるように心象を操作したいなどという考えではなかった。

 ただひたすらに、今の状況を理解して、全てを受け入れる覚悟を決めただけだ。

「あなたがどう思っているかは……確かに、あなたの言葉でしか語れない」

 縁は真っ直ぐに目の前の女性を見つめる。

「あなたは何故、こんな事実を明かした?」

 まず縁が最初に聞いたのは、その事実の確認だった。

 縁は先程明かした通り、自らの悪性を知っている。そして、その悪性を納得させるために妄想を行っている。けれど、その根拠もない妄想が真実となる可能性を持っているのなら、縁はそれを求めずにはいられない。超常の力というものを、認めずにはいられない。

 縁は自らの悪性に絶望した挙げ句、最近ではとある妄想に取り憑かれていた。もし、自分が化け物であったのなら、どれだけの幸せがあったのだろうかということだ。

 縁が自らの悪性を抑える要因は、社会を認識し、その力の強さに屈服しているからに他ならない。ならば、その社会というものすらも超越することが出来る力を持つ化け物になれたのなら。それは本当に幸せなことなのだと、縁は思っていたのだ。

 縁は自らの精神の脆弱性を憎んだ。己の望むことを阻むのは、あくまで己の精神だったからだ。ならば、その精神も化け物となって変質してしまえば、そんな妄想を縁は抱えていた。

「だから、きみはぼくに監視されていた」

 縁の内心を読み取って、鏡が語り出す。

「きみの精神性に惹かれて、本物の暴力がやってくることを恐れたからだ」

 鏡は肩をすくめる。

「きみがぼくのことを、最初は知らないと断じたのも無理はない。なぜなら、ぼくはそうした要注意人物たちが、本当に注意すべき災害に出会っていないかを監視するために、この国を飛び回っているからだ」

 鏡はあえて、淡々と語っているように縁は思えた。

 明らかにその姿には、苦悩と苦痛の有り様があった。

 それを自らの悪性故にかぎ取ってしまった縁は、鏡の言葉を遮ることなく、その言葉を聞いていた。決して、それは鏡の苦しみをより長くじっくりと見たいというような悪性の発露ではなかった。

 鏡は明らかに、縁が必要とはするものの、鏡が話す理由はない情報を話そうとしているように縁には思えた。

 縁がもし、超常の力を得るための情報を得れば、試さずにはいられないだろう。心が読めるというのなら、それがわかっているはずなのに、鏡はそれを話すのだ。

 それには確実に、何かの理由があるはずだ。

 喉から手が出るほど、自らに苦痛を与えるこの悪性に相応しい力と心を持つ化け物に変質する情報を求めながらも、縁はその渇望を抑えつけ、鏡の話を聞く。

「良い子だ……」

「子供扱いをするな……!」

 どこかその幼い外見には似つかない大人じみた笑みを浮かべながら語られる鏡の混ぜっ返しに、縁は余裕のない反応を返すことしか出来ない。

「ぼくがこの情報を話すのは……遠からず、それが訪れるからだ」

「な……」

 その言葉は、縁の予想を超えていた。

「きみは明らかに"あれら"に好かれる精神性をしている。そして、逸脱することを嗜好しているようだ」

 端的に語られる鏡の言葉は、医者が診断した内容を患者に伝える時のように事実だけを語っているようだった。

「だからこそ、きみは魅入られた。それに惹かれた。そして、もう……出会ってしまっていたようだね」

 縁はその言葉を聞いて、頭に痛みが走るのを感じてしまった。頭痛。そして、その頭痛と共に先程と同じ幻覚が現れる。だがしかし、その幻覚は明らかに先程の幻覚とは異なっていた。

 目の前に現れたのは少女だ。金色の髪を持つ少女、それは最初、俯いていた。

 けれど、突然、顔を上げる。その眼は金色に染まり、口元には迫力と嫌らしさを感じさせる笑みが浮かんでいる。それが近づき、そして、それが──自分の首を何かで刎ねる。

 少女が来ていた真っ白なワンピースが縁の血で染まり、赤黒くなっていく。その赤黒さを歓迎するかのように、両手を広げて少女は縁の血を浴びて踊っていた。

 痛みと共に苦しさが襲いかかり、縁は自らの首元に手を伸ばす。

 口元を左手で隠し、呼吸音を聞く。右手の指で首を押し、傷口がないかを確認する。

 パニックのまま、それらの行為を一挙に行った後、縁は自らの前に広がる不可思議な光景に気付いた。

 目の前で鏡もまた、縁と同じように首を押さえていたのだ。

 鏡という女性の特性を知っていれば、それはおかしくない光景だろう。

 だがしかし、幻とでも思うしかないような、現実感はあっても、現実とはそぐわない光景。その光景を見た縁にとって、鏡のその行為は、唯一自らが見た光景が、実際に縁の頭の中で再生された映像であったのだという証拠であった。

「やっぱり……出会っていたのね……」

「今、のは……?」

 明らかに、目の色からして人間ではない存在。

 その存在と出会っていた。その事実に対して、縁が抱いた感情は喜びではなかった。自らが成り果てたいと思っていた存在。それを見ることが出来たというのに。

 縁の感性は語っていた。あれは哀れむべき存在なのだ、と。

「あれに相対して、そんな感情を抱ける時点で……きみは随分と逸脱しているよ」

 鏡は、溜め息を吐き出す。

「けど、感じたものはそれだった……何で、なんだ……」

 鏡の言葉に、縁は確かにと頷くしかなかった。あれは紛れもなく、化け物と呼ばれる存在だろう。本当の意味で、化けて果てたもの。それを見てとって得た感情がそれなのだと縁は吐き捨てる。

 自らが望んでいたもの、その到達点がまるで自らの理想とは違っていたということ。それが縁の心に何をもたらすのか、それはまだわからなかった。

 けれど、その事実は憶えておいた方がいいのだと、縁の本能が感じていた。

「俺があの存在に感じたのは、それだけなんだよ……」

 縁の内心の吐露は収まらない。

「っ……くそ……」

 抱いた感情の全てを吐き捨てるために、縁は毒づいた。

「あれが何なのか、それを知りたい?」

「ああ……」

 縁は鏡の言葉に強く肯定の意志を示した。そうすることでしか、行き場のない自らの感情を抑える方法を思いつかなかったのである。

「あれは異常保菌者(バグ)と呼ばれる存在。この世界のシステムに介入する悪夢そのもの」

 その言葉を聞いた瞬間に、認識が広がる。頭の中で再生された先程の幻影に、今までの縁では認識できない色が付いた。

 それは正しく、電子の世界におけるバグの光景を眼にしているかのように、整合性がなかった。空が割れ、その中からはこことは違う世界が見えた。

 そこには縁とまるで同じ人物が立っており、異常保菌者と呼ばれた存在だけが姿を変えた世界が存在していた。

 そこにいる異常保菌者は男だった。

 浅黒い肌と真っ白な髪。そして、何も書いていないというのに、明らかに年数が経った愛用品だとわかる本を抱えている。その本が独りでに開き、そして一瞬にして縁は何枚もの紙へと変わる。

 そして、その中で男は悠々と歩き、足下に落ちた元縁の紙を踏みにじりながら、一部の紙だけを回収する。

 今、ここに映し出されている縁とそっくりな人物に対しては気の毒だが、縁が出会った異常保菌者がまっとうな暴力を嗜好してくれていて、まだ良かったと言えるだろう。

 縁の目の前に映し出された映像に散乱した元縁の紙片は、明らかに縁の中にある記憶や感情といったものを写し取ったものであったからだ。

 それを奪われるということがどういうことなのか、少年が好む冒険小説のような展開を行う漫画や小説を見ていればわかるというものだろう。

 記憶を、感情を奪われている。縁が見た映像の先にいた縁と良く似た人物は、そうされた可能性があった。

「きみが出会った異常保菌者もまた、きみにとって不幸だったことは間違いないよ」

 縁の考えを読み取って、鏡を忠告を発する。

「きみが切られたのは……きっとこの世ときみ自身を繋ぐ世界の糸……それを切られて、それを認識したからきみは……半ば逸人(いつじん)として覚醒していた」

「逸人?」

「逸脱の逸に、人と書いて逸人と読む。ただの人を逸脱し、世界から半ばあぶり出されてしまった存在のことさ」

 その言葉に縁が思い描くのは、鏡のことだ。鏡は自らの心を読んだような発言をする。

 ここに至ってもまだ、縁は鏡の不可思議な能力について半信半疑のままでいた。

 自らに起こった出来事がいくら特殊なものであったからと言って、簡単に今までの常識を捨て去ることなどできなかった。

「ええ。きみが半信半疑なぼくの能力よりも……もっとわかりやすい能力を持つ人もいるから、今度はその人に会ってみなさい。それに、逸人の中には……それこそ、そういった特殊な能力を持っているのではなければ納得できない力を持つ人もいる」

 それはきっと、あなたもと言った様子で鏡がそれを語る。

「何故、そんなことが言える?」

「普通は……逸人として目覚めたものは、悪夢にうなされる……それが、その人の能力を決める。大抵、その人の能力で出来る最も忌避している行為が……夢として現れる」

「ははっ……」

 縁は笑うしかなかった。

「だったら、俺は逸人なんてものじゃないだろう?」

 何せ、縁が見ていたのは自らの本能が求める光景だったのだ。それが悪夢であるはずがない。

「いいえ、きみは異常保菌者と出会った。そして、殺された。それが、あの金色の少女であった以上、きみは暴力を嗜好し、それを同時に忌避している人物に間違いないわ。彼らは自らと似通った性質の持ち主の一部を奪って自らの力を増大させるのだから」

 縁は鏡の言葉に反論したかった。だがしかし、自らが異常ではないと主張し、社会の中で暮らすことを選択していた縁にとって、自らの異常性を誇示することは極めて難しい行為だった。

 縁は舌打ちしたい気持ちを堪える。だがしかし、縁はここで逆転の発想に至った。

「なぁ……あなたの読心能力が本物であるというのなら、俺の異常性もあなたには理解できたはずだ……」

「ええ、そうね。その通りよ」

「だったら、何故……俺を逸人などと認め、そして、その能力を教えようとするんだ? 俺が危険人物として扱われるに相応しい特殊な……趣味嗜好と悪意を持っているのは、わかっているはずだ!」

 その判断が出来ないというのは、明らかに鏡の人間的な欠陥か、あるいは彼女の読心能力そのものが嘘であるという邪推の補強くらいにはなる。

 そう考えた縁の疑念は、鏡の意図が説明されることによって、氷解する。

「ええ、もちろん。きみは最初、危険人物として扱われた。きみが見たような人を殺す夢を見るタイプの逸人は、極めて反社会的な行動を取ることが多いからね……」

 そうだろう、そうでなくてはおかしいと、縁は鏡の言葉を肯定する。

「けれど……そういった人物の中でも、社会に適応する意志のある人物には……それ相応の措置が行われる」

「そうした人物だって……力を手に入れれば、いつだって……」

 その力に溺れ、犯罪を犯す可能性がある。それは、許してはならない卑劣な行いのはずだ。特別な力があるのなら、それを普通の人間に振るうということは、一方的な虐殺に他ならないからだ。

「だからこそ……ぼくがいる」

 鏡は下から睨み付けるかのようにして、縁の眼を見つめた。

「ぼくの力が、それを見極める」

 縁はその言葉に対して、首を振るしかなかった。

「一人でそれが出来るとでも……?」

 組織というものの中、限られた時間で、その組織に所属する人全ての心を見切れるはずがないだろう。

 そんな縁の考えをよそに、鏡は自らのその力に絶対的な自信を持っているようだった。

「あなたは一体、何故そんなに自らの力に自信を持つ?」

 縁の疑問は心の底から生まれたものだった。

 縁は知っている。異常者であるからこそ、人を殺したいなどという思いに囚われているからこそ、縁は逸人などという訳のわからない存在でも人間なのだという事実を認識できている。

 ならば、人とも言えない生態を持つ逸人がいない限り、ただの人間としての耐久性しか持たない逸人を殺すのは、容易いことだろう。

 目の前にいる鏡もまたそうだ。逸人としての能力、それが読心能力だというのなら、それだけでは片手落ちだ。鏡の場合はその能力の上に武術を収めているからこそ、自衛に成功している。

 逸人としての能力など、そんなものなのだろう。そう思う縁を前にして、鏡は自らの能力を引き合いに出して、逸人全体の名誉が毀損されていると感じているらしく、ふくれっ面をして縁を睨み付けてくる。

「ぼくは……自分の仕事に誇りを持っている。そして、それを為すに至って必要な自らの能力についても、だ!」

 その言葉は力強く、迷いのないものだった。

 でも、だからこそ、縁のようなひねくれた人間は思ってしまう。自らの心を騙そうとしている人間もまた、同じような口調をするものだと。

 そして、それは恐らくそう間違ってはいないことなのだろう。縁の内心を読み取っている鏡の反応は、どこか苦々しいものを感じさせる反応であったからだ。

「…………ふん。でも、これまでで充分、きみが逸人の能力というものに対して、否定的なのはわかったわ」

 鏡の言葉に縁は肩をすくめる。自分でもおかしなことだとは思うが、超常的な力をもつことが出来ればと、自らがその精神性に合わせた化け物になることが出来ればと希求していたというのに、それが叶う段階になってしまえば、それを嫌う心理が縁に働いていた。

「意外と常識人的な感性をしているんだね……」

「それはないだろう……」

 鏡の言葉に縁は即座に否定を返したものの、縁自身、自分でも意外と思う事実だった。

「まぁ、それも実際に使える段階ならどうなるか……という心配があるけどね」

「な、にを?」

 鏡の言葉がなにを示しているのか、わかったのは疑問の言葉を発した後だった。

「俺に……その、逸人……だったか? の能力を与えるということか?」

 縁の言葉に、鏡はこくりと頷く。

「もちろん、きみには選択権がある。力を望むか、力を望まないか。それはきみ自身が決めることだ」

「無論、手に入れるさ。手に入れないわけがない」

 縁はこれまでとは違い、一も二もなく頷いた。

「さっきまで随分と懐疑的だったのに、一体どうしてそんなに食いつきがいいんだい?」

 これまでとは違うことがもう一つあった。心を読めば、縁の考えていることなどお見通しのはずな鏡が、縁の意志を自らの口で問いただしたのだ。

 それが大切なことであることは、簡単に分かった。

 だからこそ、縁は嘘を吐かず、自らの心の中にある気持ちを正直に吐露する。

「当たり前だ。鏡、あなたは自分が武の力を持った時……何を思った? 何が原因で、辛い訓練を行ってまで、力を求めたんだ?」

 縁の言葉に、鏡は少しの間考え込んだ後、自らの意志を口から出した。

「自分を守るため。小さな体でも、この年齢になれば……女性としての機能は発達してくる……だから……」

 それを狙う人間から、身を守るための力を求めた。

 縁が超常の力を持ちたいと願う理由も同じようなものであった。

「俺だって同じさ。こういう超常の能力があると知って、それに対する対抗策を得たいと思うのは当たり前のことだろう」

 その力の悪用は当然のように頭の中をよぎる。だが、それは仕方のないことだろう。自分の中にある悪性は正しく、人を人とも思わない縁の人格を底打ちするものだからだ。

「なら、それには場所を変える必要がある。きみが逸人としての能力を充分に振るえるような場所に、ね」

 鏡はにやりと笑いながら、図書室の外へと繋がる扉に移動する。

 縁は鏡の行動に、少しの不安感を抱く。これが普通の状態であるならば、詐欺を疑うべき事態だろう。美人で気を引いた所で連れていかれた場所には、屈強な男たちが待っていて、金や命を奪われるなんて事があってもおかしくない。

「そんなことをするんだったら、最初からきみを武力で迎撃することなく……色香で誘っているよ」

 縁の半ば頭の中だけで組み立てた冗談を笑い飛ばしながら、鏡は縁を手招きする。

「場所を変えよう。車は用意してある」

 縁は鏡の後ろを付いていくことに決めた。

「なぁ……車を用意してあるってことは……」

「きみに対する接触を行うのが、今日であることは事前に決めていたことだ」

 やはり、と縁は得心する。

 学生である鏡が車を用意するためには、誰か別の大人が協力してもらわなければ無理な話だろう。縁たち学生が学校にいる。例外はあるとはいえ、大抵の場合それが意味する所は今日が平日であるということだ。

 一般的な大人では、予め有給休暇を取っておかなければ対応できない事態だろう。

「そこら辺から考えるあたり、本当にきみは常識的な感性をしているね……」

 苦笑と共に、呟くような形で漏らされた鏡の言葉に縁は肩をすくめる。

「世辞はやめろ」

「世辞じゃないさ……」

「あなたがそう言うのは、あなたにとってその推測が当たっていた方が……都合がいいからだろう?」

 縁は鏡の執拗と言えるほどに自分を常識的な人物だとする考えに、そのような疑いを持っていた。

「ははっ」

 そんな縁の邪推を、鏡は笑い飛ばす。

「ぼくは人の心が読めるんだよ。そんな期待なんて……抱かないさ」

 そう語る鏡の口元には苦々しさがにじみ出ているように感じた。

「…………あー……ん、ん……」

 その様子を見て取って、縁は慰めの言葉を言おうかと思った。けれど、それを出すのはやめておいた。どう考えても、キャラじゃないからだ。

「それは口に出しても良かったんじゃないか? きみはきみ自身の悪性ばかり気にしているようだけど、それを超え……自分が感じたことをもっと表現してもいいと思えるよ?」

 縁はげっそりとした顔で鏡の言葉に肩を落とす。

「俺がそれを表現したら……ただの異常者だろう?」

「そうした部分は抑えていても、それ以外の部分は抑えなくてもいいさ。きみのいい所はきっと、そこだからね」

 縁の眼を見ながら告げられる言葉には、嘘やおだてといったものは無いように思えた。

 だからこそ、憮然としながらも、縁は鏡の言葉を反論せずに呑み込む。

 理解も納得も出来るものではなかったが、それでも鏡の言葉には鏡の真実があるように思えたのだ。

 その真実を否定することは誰にも出来はしない。それが縁の少ない人生経験で、得ることの出来た事実の一つだった。

「きみの心がどうやって生まれたのか、ぼくみたいな人間は知りたいと思ってしまう」

「知っても、ろくな事がないさ……」

 呟きを漏らし、縁は自らの心のままに鏡の背後を付いていく。

「しかし、俺のことがわかっている人間で……俺に背中を預けるなんて、きっとあなただけなんだろうな」

 心が読めるから。だからこそ、縁が行動を起こそうとしても、その前に気付くことが出来る。事実、縁は鏡のことを好ましく思っており、その好意があるからこその殺意を抱いている。

 その殺意が心の中で滾るたびに、鏡の体がびくりと動く。女性的で丸みを帯びた尻がその度に揺れるのは、見ていて役得感があると共にどこか滑稽でもあった。

「きみってやつは……本当に最低だね」

「まったくもって……その通り」

 にこにこと笑いながら、縁は自らに対して相応しい評価を受け入れる。

「きみはマゾの類なのかな?」

 苦笑しながら漏らされる言葉は、実に呆れたと言わんばかりの色が帯びていた。

「違うのは……考えていることからして、わかるだろう?」

 被虐の類で喜ぶような性質があれば、もっと穏健な生き方が出来ただろう。そして、人を相手にすることにも、そう悩まなかったはずだ。

「まぁ、そういう見識の違いは追々、きみのことをどんどん知って埋めればいいさ」

「つまりは……これから起こることによっては、知る前に俺の命が終わるとでも……?」

「そう、かもね」

 笑いながら肯定する鏡の姿を見て、気を引き締めながら縁は学校の外に出る。

 家庭で良く使われているものだと思われる軽自動車の運転席には、明らかにその軽自動車とは似合わない暴力的な雰囲気を感じさせる大男がいた。

 車の中にいる彼は半ば寝転がり、更には首を傾けて軽自動車の中に入り込んでいる。

「あれがぼくたちの足だよ」

「あれがぁ!?」

 鏡は端的に語るが、明らかにそれでは説明が付かない違和感がそこに実体をもって存在していた。

「いや、ちょ、待ってくれ……あれが乗っている所に乗れ、と?」

「ああ、彼は置物みたいなものだから……あまり気にしないであげて」

「置物!? あんな存在感在りまくりな置物、トーテムポールくらいしかないだろ!」

 縁のツッコミを、ことさら冷淡な瞳で見つめて聞いた後、ほのかに笑う鏡。

「きみは……世界史が得意なんだっけ?」

「いや、別にたとえとして思いついた置物がそれだけだっただけで……別に世界史が得意だったとかそういう訳じゃ……というか、発言の一つ一つの意図を説明なんてさせないでくれ……! 普通に苦痛だ!」

 縁の必死な様子は極めて面白かったのだろう。鏡の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。

「あ~ら~、随分と仲がいいのねぇ。お二人さん」

「この置物、喋るんだけど……!?」

 思わず縁は自分の考えが口から漏れ出すのを止められなかった。それが年上の人間に対する態度ではなかった、と縁は即座に後悔する。

「あっはっは~ん、いいのよ~ん。こういう人間だから、いきなり気持ち悪いなんて言われることも結構あるし~ん」

 その言葉を聞いて、縁は目の前の男性を見つめる。

 目の前の男性は明らかに筋肉質な体付きをしていた。だがしかし、その言葉使いは女性がするようなそれである。

 車の中にいて出ようとしない男性は、こちらの視線に気付いてウィンクを返した。

「いやん、こんな若い子にじろじろ見られるなんて……中々、ない経験ねぇ……」

「ああ……」

 縁の口から言葉にならない声が漏れる。

「オカマ……ん、いや、ニューハーフってやつですか……」

「わざわざ言い直すなんて……律儀ねぇ。その歳の割には、結構色んなことを知っているわ・け・だ」

 オカマ、というのが、いわゆる差別的な印象を含んだ言葉だということを知っていたために、わざわざそういった要素を無くすために産まれた新しい言葉を使う縁。

 目の前にいる男性は、その気遣いを理解できないような大人ではなかったようだ。

 それこそ、大人らしい知識と確かな包容力を持つ尊敬すべき人物だと気付いて、縁は態度を改めることとした。

「先程は……失礼しました。それで……あなたが今回、運転手になってくれる……という訳ですか?」

「あらやだ、別にこーんなオカマ相手なんだから……そんなかしこまることないのよ?」

 縁はこちらの堅くなった心境を見てとって言われた男性の言葉に、さらに心構えをすることとした。

「いえ……若輩の身でありながら、先程は……本当に失礼な発言をしてしまいました」

 その理由は明らかに目の前の男性が、自分がオカマであることを有効活用する強かさを持つ"大人"だということに気付いたからだ。

「きみは……」

「ふむん……」

 縁の様子を見て、目の前の男性と隣にいた鏡が何か得心いったかのように呟く。

「わかったわ。アナタみたいなのような人間には、それが合っているんでしょうね~ん」

 縁が心の距離を取っていることに気付いているのか、目の前の男性はそう言って、その距離を詰めないことを約束してくれた。

「まぁ~、可愛がらせてはもらうけどねぇ~」

 にっこりと笑いながら、こちらの肩に手を伸ばしてくる男。

「まぁ、それはお好きにしてもらって結構です」

 縁はその手から軽く半身をずらすことで逃れながら、車の後部座席に向かう。

「あの人、ああいう風にどんどん距離を縮めてくるけど……悪い人じゃないから、そう邪険にしないであげて」

「まぁ……あの人がそう悪い人じゃないことは、わかっているよ。だからこそ、俺は」

 自分がそんな尊敬すべき人間に、迷惑を掛けてしまうことを恐れている。

 そんな縁の素直な気持ちを読み取って、鏡は小さく笑みを零す。

「だからきみは……そういう所、もっと表に出していいと思うけどね」

 それが苦笑であると気付きながらも、縁はそれを止めることはしなかった。

「やっぱり若い子同士の方がいいってことかな~ん……」

 ニコニコと笑いながら、男が縁と鏡の姿を見て呟く。

「お若い二人に祝福をって感じ?」

「もう、やめてくださいよ……」

 どこか嬉しげな様子で、男性のやっかみを聞く鏡。その様子を見て取って、縁は得体の知れない苛立ちに襲われた。

「あの人は……なんていうか、親しい仲なのか?」

 縁の言葉は縁を知る者にとっては、何処か刺々しさが残るものであった。

「はは……ぼくにとって、あの人は…………」

 鏡はそこで言葉を止め、一度だけ息を吸い込む。その吸い込んだ息をそのままに、鏡は声を出す。

「親代わりの人だよ……」

 その言葉に、どこか憂鬱な色が感じられたのは、縁の気のせいだったのだろうか。

 縁は先程の苛立ちを消沈させ、ただ黙って鏡の肩を叩いた。

「なにも……心の中は雄弁だけど、口ではなにも言わないでくれて……感謝するよ」

「あらん、な~に~、ボティタッチの類は大っ嫌いのはずの鏡チャンが、自分の体に触れられても怒らないなんて……本当に珍しいわねぇ……」

 にこにこと笑いながら、こちらを見る男。

「ああ、そういえば……あの人の名前を伝えていなかったわね」

 鏡は縁の心の声を聞き取り、男の名前を伝えようとする。

「あ~ら~ん、折角気持ちのいい子と付き合いが始まりそうなのに、自己紹介くらいアタシにさせてくれない?」

「ん、あー……」

 縁は鏡がここまで形容しがたい表情を浮かべるのは始めてみた。その様子を見て笑いながら、男性は車の外に出てくる。

「えっ……」

 縁は驚きの声を漏らす。

 肩の筋肉から予想していたが、目の前の男性は全身筋肉の塊といって過言のない体付きをしていた。けれど、それ以上に気になることがあった。

 先程から車を降りる機会はいくらでもあったのに、こうして縁に自己紹介をする時しか全身を縁の視線に映そうとはしなかった彼は、驚くほどに短足だった。シルエットだけ見れば、その姿はゴリラなどの類人猿のものと似通っていた。

(ふたつ)()(ごう)()。それがアタシの名前よ~ん」

 随分と厳めしい名前だと、縁は思った。

「……さっき思ってたこと、言っちゃダメよ……」

 縁の耳元で、そっと鏡が耳打ちをする。

「気にしてるの。自分の名前、女性らしくないってこと……と足のこと」

 その言葉を聞いて、頷きを返し、縁は目の前の男性、業斗を見た。

 男性、としても極めて優れた体付きをしている。端的に言ってしまえば、筋肉質なのだが、その筋肉の付き方は極めて独特だ。

 足がやや短く、その変わりに腕が長い。まさしく、ゴリラなどの筋肉の付き方である。筋肉が体の上の方に寄っていて、明らかに暴力を行うには適した体付きだった。

「随分と、体を鍛えていらっしゃるんですね」

 この男を前にして、真っ正面からの殴り合いを望む人間はいないだろう。そう確信出来るほどの筋肉は、明らかに並外れた鍛錬を行ってきたからだ。

「女性らしくするには余り良くないことなんだけど……仕事上、仕方ないからねぇ」

「だと思いましたよ」

 仮にも女性としての姿を追い求める人間が、筋肉など求めはしないだろう。

「でも、だとするなら……」

 縁は自らの考えが口から漏れ出すのを抑えられなかった。

「なに、なにか言いたいこと、あるの?」

 それがアドバイスなのか、奇妙な自分に対する罵声なのかわからず、業斗は縁の言葉の先を促す。

「あー……別に言うつもりはなかったんですが……」

 縁は言葉を濁す。

「何度も言ってはいるけど、きみの心の言葉には……悪意がない。だから、それを話すのは……決して悪いことじゃないと思うよ」

 言葉を濁した縁に対して、鏡はそう言って発言を促す。

 縁はその言葉を聞いて、正直に話す気が無くなっていた。縁は自らが良い人などと思われることを良しとしてはいない。その理由は人との付き合いが自らの心を摩耗させるということに気付いているからだ。

 良い人などと思われてしまっては、煩わしい人付き合いが多くなる可能性があった。

「な~によ~、その二人だけでわかりあっている感は~…………お姉さんもいれてちょうだい!」

 鏡の能力を知っているのだろう業斗の発言はどこか焦ったようなものであり、本当に仲間はずれが嫌なのだろうということが窺えた。

「はぁ……」

 縁は溜め息を一つ吐き出す。その後、縁は自らの思っていた言葉を口に出すことを決意した。

「いえ……あなたがもし、自分の体に筋肉が付いたことを嘆いているようなら……」

「ようなら?」

「それは杞憂だと思いまして」

 縁は言葉を濁す。けれど、それだけで許してくれるほど、大人としての知識と知恵を持つ業斗も、そして、心が読める鏡も甘い人間ではなかった。

「「それだけじゃ、ないでしょう?」」

 異口同音で出された言葉は、縁の言葉の先を更に促すもの。縁は肩をすくめ、さらに話を続ける。

「はぁ……仕事で付いた筋肉だって言うのなら……それは誇るべきことだと思ってね」

「それは……仕事を頑張っているということから?」

「いいや、自分を抑えて……やるべきことをやり続けたからこそ、だよ。だからこそ、自分の好きなように自らを飾ることが出来ている。大人として果たすべき権利を果たして、正しく自由を手に入れている。それのどこに恥じるべきところがあるんですか?」

 縁はもう、自棄になっていた。

 だからこそ、自分の考えを率直にぶちまけるなどという恥知らずな行いをすることが出来た。自らが若輩者であり、そして何よりも異端者であることを知っている縁にとって、そうした胸襟を開いた話し合いは、最も苦手で恥ずかしい行為だった。

「それは高い社会性を持つことができたからだ」

 縁には出来ていないこと。自らの欲求を満たすための社会性を持つということ。

 それは、異端者である縁が最も見習いたいと思うことだった。

「きみは……」

「あ~ら~ん、嬉しいこと言ってくれるじゃな~い?」

 縁の言葉に対して、何かを言おうとした鏡。

 その鏡を抑えて、業斗は縁と視線を合わせる。

「で、も……」

「な、なんですか……」

 縁は改めて気付く。目の前にいる業斗は確かに短足だが、上背があり、こうして目の前に立たれると、極めて威圧感のある風体をしていた。

「子供がそんなことに気を回すなんてこと……普通はないんだから、それはわかっておきなさい」

 頭にやさしく手を置かれ、囁くようにもたらされた助言に、縁は目を丸くして驚く。

「ああ、わかりましたよっと」

「素が出たね……自分を隠すのが、よほど苦手と見える」

 縁は自らの口調が素に戻っていることに気付いた。けれど、それ以上に違和感を抱くべきことがあった。

 目の前の業斗が自然な口調を出した、ということだ。それに気付いたのは、縁が業斗の車に乗せられた後だった。

 縁は先程までの出来事を考え続け、反省をし続けていた。だからこそ、今になって気付いたのだ。

 けれど、それを口に出すことはしない。ただ、認識を更に改める必要があると感じただけだ。

「ああ……」

 わざわざ口に出さなくても、彼らにとって都合の悪い事ならば鏡から業斗に伝わるだろう。鏡はそうした自らの所属する組織に対して、不利益な行いをするようには思えない。それは先程の仕事に対する強い意志からしても窺われる。

「ぼくなら確かにそうするよ。だけど、きみは……ただ感じて考え続けてくれればいい」

「なにを?」

「これから始まるきみの世界の変革と……そして、その中でどう生きるかについて」

 その言葉を最後に、業斗が運転する車はある場所へと到着する。

 それは市の業務が行われる場所。市役所だった。


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