第九話・ワイキキで
〈これまでのあらすじ〉
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。浜辺で河野の遺留品が見つかった事から、警察は無理心中と判断する。直後に別件が起き、ホノルル警察のクリストファー・サトーは、隣人の話から被害者の同居人で、ヒイアカと名乗るポリネシアン女性を重要参考人として手配する。
事件の衝撃から立ち直れない祐司の元に、再び警察が急行し、前日の殺人事件現場と早朝の別な事件現場から河野の指紋が発見されたと告げた。親友が連続殺人犯になった事実に祐司は衝撃を受ける。
四月二十三日、水曜日。
朝、八時半に警察に911通報が入った。どうしましたか、と問う受信係に、震える声が「人が死んでるんです」と告げた。
通報があったのは、ワイキキの目抜き通り、カラカウア・アベニューに店をかまえる高級ブティックからだった。通報者はジェーン・ウーと名乗った。
マネージャーの彼女は、店を開けるために出勤し、警報機の関係で、店の裏口から入ろうとした所、血の臭いがして、通路脇の茂みに人が倒れているのを発見したそうだ。
動転した彼女をなだめて、受信係はそのまま店内で待つようにと指示した。
ワイキキを管轄する保安部第六地区の警官が店の裏に集まったのは、それから三分後の事だった。
二階建ての店の後ろには商品搬入等に使う通路があり、裏口に続いている。通路には割れた瓶の破片と見られるガラスが飛び散っていた。その脇がちょっとした植え込みになっていて、死体はその蔭に倒れていた。被害者は小柄なアフリカ系だ。
近くに停まったポリス・カーを見て、何事かと寄って来る野次馬も数人いる。死体の上にシートを被せる前に、その中の一人が、「ありゃ」と声を上げた。
「お巡りさん、あの人はこの辺をうろついてるドラッグディーラーかもしれない」
そう言った男は、路上でいつもビラ配りをしている白人だ。警官の一人が男を咎めた。お互いワイキキが勤務地だから、顔は知っている。
「おい、あんた。めったなこと言っちゃいけないよ。なんでドラッグディーラーだって知ってるんだよ。買ったのか? ドラッグ」
やれやれと男は肩を竦める。
「そんなの、この界隈の連中なら知ってるよ。皆、わざわざ警察に言わないだけさ。売り買いを見て911したって、あんた方はとろいからな」
居合わせた警官達は、一様に頭に血を上らせた。とろいのではない、人出が足りないのだ。
けれども、ここで言い返しても仕方ない。ビラ配りの白人を追いやって、彼らは捜査課と鑑識課の到着を待った。
誰もが不機嫌だった。休みは返上、上部はかんかんになって連続殺人犯を捕まえろと叫んでいる。
伝達が回って以来、ワイキキ内をせっせとパトロールし、フォードの白いピックアップ・トラックと見ればナンバーを確認し、アジア系の男の顔だって一々覗いている。こんなに一生懸命なのに、また事件だ。
定刻通り、朝九時に出勤したケビン・スギノは肝を潰した。
市内で連続殺人が発生しているのは知っている。昨夜は犯人の友達に睡眠薬を勧めて何とか眠らせたほど、よく知っている。
もちろん、この事件がヨシキ・コーノの仕業とは限らないし、そうでない事を祈りたかった。
本来なら午前九時半が開店の時間だが、警察が周囲を調べて、遺体を回収するまで遅らせるしかない。店の外にはもうマスコミの姿も見える。
マネージャーのジェーンが警察官と話している間に、ケビンは同僚の日本人、洋子と手分けして英語と日本語の張り紙を作った。開店時間が遅れる知らせだ。
日本語は片仮名と平仮名だけなら書けるし、読める。しかし、漢字となると歯が立たない。祐司が作ってくれた、特製の「かんじれんしゅうちょう」のお蔭で、少しずつ分かるようになって来たけれども。
ケビンが祐司と知り合ったのは、ビジネス・カレッジだ。
同じホテル・オペレーションのコースを履修していて知り合った。彼はとにかく人付き合いが良くなかった。年上だと知ったのも、大分経ってからだ。
しかし実は親切で、落ち着いた性格がケビンは気に入った。年が近かったせいもある。自分もカレッジに入学したのは二十五の時だ。
卒業の半年前に、その頃一緒に暮らしていたルームメイトが急に本土に引っ越す事になった時、ケビンは真っ先に祐司に声をかけた。
高校を卒業してすぐに就職したのは、日系二世の父親が癌で亡くなって、母親と妹のためにとりあえず現金が要ったからだ。父の長患いで蓄えと呼べるものはなかった。
二年後、妹が高校を出るのを待って、母と妹はサンフランシスコへ行った。白人の母は元々サンフランシスコの出身だった。自分はただ何となくハワイから離れたくなかった。
レストランのウェイターとスーパーの店員をかけもちして金を貯め、ビジネス・カレッジに入った。
日本語が出来ないせいでホテルの仕事にはありつけなかったが、友人の伝手でブティックの仕事がもらえたし、ルームメイトは日本語を教えるのが上手い。
あと一年か二年して、もっと日本語が上手くなれば、ホテルの仕事も取れるだろう。職場でも多少使っているし、祐司の教え方はとても分かりやすい。
日本にいた頃、一時期教員をしていたと洩らした事がある。「そんなら、日本語の教員になればいいじゃないか」と言ったケビンに、祐司は黙って首を振っただけだった。
物思いに耽ったケビンに洋子が話しかけた。三十を一つか二つ出ている筈だが、とてもそうは見えない。二十五歳で通用する。
「ちょっと、ケビン、嫌になると思わない? 人殺しなんて冗談じゃないわ」
洋子の声はよく通る。ケビンが返事をする前に、背後にいたジェフが口を挟んだ。
「あれかな。また、あの日本人とポリネシアンかな」
ぎゃーっ、と半分ふざけた悲鳴を洋子が上げる。
「日本人の評判が落ちるわ。それに、日本人観光客だって襲われてるのよ。ハワイのイメージが悪くなるわね。くそ、殺すんなら日本国内でやれってのよ」
可愛い顔に似合わず、洋子は言葉が悪い。ケビンは小さな声で自分の意見を言った。
「まだそうと決まったわけじゃないし、それに奴らだって、ポリネシアンの女が主導権を握ってるかもしれないし」
いつになく弱気な物言いになってしまった。
いつものケビンなら、洋子に同調して「くそったれの人殺しめ」と悪態を吐いているところだ。それをしないのは、祐司の事があるからだ。
知り合ってから二年ほど、一緒に住んで一年半になるが、その間一度も祐司は日本に帰っていないし、誰も日本から訪ねて来ない。そもそも彼は、日本人と付き合いたがらないのだ。
ビジネス・カレッジには日本人もいたが、祐司はまず彼らと交わろうとはしなかった。
あろうことか彼は、家族と連絡を取っている様子もない。
そんな祐司が「日本から友達が来るんだよ」と、初めてケビンに言った時は本当に嬉しそうで、頬まで紅潮させていた。さては女友達に違いないと踏んだのだが、男だったのは良いとしても、全くとんだ疫病神だった。
あの男が女房を殺した日から、祐司はほとんど寝ていないのだ。それが自殺したのではなく、連続殺人犯だと分かった日には、自分だったらおかしくなってしまう。
昨夜は帰って来るなり、目を据わらせてウィスキーをストレートで飲み始めた。吐くまで飲んで、更にまた飲もうとするのを諫めるのは大変だった。
「一体何が起こっているのか、よく分からないんだ」
そう言い続ける祐司に、体に良くないのを承知で睡眠薬を呑ませた。そうでもしなければ、祐司は眠れないだろうと思ったからだ。睡眠薬は、市販のごく弱い物だ。
普段は縁がないが、先週の木曜以来、眠れていない祐司のためにケビンが買って来た。
半年前、自分が二年も付き合ったキャシーに振られた時、祐司は懸命に自分の世話をしてくれた。結婚を考えていた相手だっただけに、痛手も大きかった。
キャシーは、ケビンとの結婚話に頷いた一週間後、他の男と婚約した。それまで、失恋くらいで何も手に付かなくなる事が自分に起きるとは思ってもみなかった。
あの頃、もし祐司がいなければ、自分は仕事にも出ずに、十日でも二十日でも家でドラッグでもやっていたに違いない。
違法な薬物に手を出してはいけない、仕事には行かなくてはならない、そう言って祐司は叱咤してくれた。気晴らしに映画に行こう、美味いものを食いに行こうと慰めてくれた。
普段は素っ気ない男だけれど、親切なのは間違いない。いつもあれこれと口に出して言わないのはつまり、でしゃばりじゃないって事だ。
何よりも彼は真っ当に生きている。一生懸命仕事をして、薬や女遊びとは縁がない。
今度は自分が彼を助けてやる番だ。
今日の祐司は墓場シフトだから、夜十一時の出勤だ。まだ睡眠薬のお蔭で熟睡しているに違いない。さて、今朝の事件を、わざわざ電話して祐司に知らせるかどうしようかとケビンは迷った。