第三十話・噴火
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、河野由樹とヒイアカが壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノに異変が起きる。
河野とヒイアカの霊が悪霊になり、自分に憑いていた事を知ったジャスティンは追跡を開始する。悪霊は移動を続け、二人の市民に傷害事件を起こさせた後、立て篭もり事件を引き起こして多くの犠牲者を出し、さらに河野の友人、祐司のルームメイト、ケビンに乗り移る。
祐司の同僚、ジュニアによって弟、ヴァアの身体に移された悪霊は、自身の言葉で秘密と共犯者について語る。神官でも出来なかった悪霊を祓う為、火山の力を借りようと祐司達はハワイ島へ飛び、悪霊の一部が名乗っている名前と同じ、女神の名前のクレーターに辿り着く。
――サヨナラ。数少ない日本語のボキャブラリーを使ってジュニアは微笑んだ。
目尻に笑い皺が寄る。祐司も膝をついてヴァアの顔を覗き込んだ。真っ黒い大きな瞳に、河野は見えない。
人生の恩人で殺人鬼、今は悪霊になってしまった友人に言える言葉は簡単には見付からなかった。
「さよならだ、河野」
やっとそれだけ搾り出した。
彼が生まれ変わっても、もう一度人間になりたいかどうか、いや生まれ変わりたいかどうかも、祐司には分からない。だから「今度生まれたら」とは言わなかった。
昨日、カフナの後ろに座った時の方が、心はずっと饒舌だった。動けずにいる祐司の肩を叩いて、ジュニアが「いいか」と聞く。死刑囚に最後の挨拶をする人間は、誰でもこんな気分だろう。
祐司が頷くのを見て、ジュニアは立ち上がった。事故防止のために建てられてある柵を、いとも簡単に乗り越える。
「危ないよ、ジュニア」
ほぼ同時にジャスティンとアリシアが声を上げた。ジュニアは振り向かなかった。相撲取りのように両足を踏ん張ったかと思うと、さっきの詠唱と同じような声が流れ出した。
しかし今度は、けた外れに声が大きい。
噴火口の壁にジュニアの太い声がこだまする。
何度か同じ単語が出て、祐司はやっとそれを認識した。サモア語に混じって、「ペレ」という言葉が何度も聞き取れる。火山の女神だ。
ジュニアは火の女神を呼んでいる。やがて「マフイエ」という言葉も混じり出した。これは分からない。
何度目かにジュニアが「マフイエ」と叫んだ直後だった。
どん、と地面が鳴った。
地鳴りの音を聞き、軽い振動を感じた時は、まだ脳が反応しなかったが、音も振動も次第に大きくなり、祐司は目を見張った。
ジュニアが両手を挙げる。轟音と共に、その向こうに巨大な灰の柱が立った。
「噴火だ。危ないぞ」
怒鳴った声の主が誰かという事も、祐司は一瞬判別出来なかった。
これは現実か。
地面に寝かされたままのヴァアへと走り寄ったその背中を見て、やっとジャスティンだと気が付いた。ジュニアが柵を越えて戻って来た。
「避難するんだ、ジュニア」
「いいや、ポリネシアの火に当てやらんと奴らは消えやらん」
強引にヴァアを抱きかかえて立ち上がったジュニアは、さらに大きく見える。煙でよく見えないせいもあるかもしれなかった。
祐司が駆け寄った時には、ジュニアは既にもう一度柵を越えようとしていた。
「ごめん、言わんかった。けど、これしかない」
ジュニアの表情が見えない。
馬鹿な。命をやると言ったのは自分だ。
ヴァアやジュニアが危ない目に遭う事はないのだ。祐司は柵に飛びこといた。
煙の中で彼の体がひるがえった。
灰色の幕の向こうが透けて、青い海が見える。我が目を疑いながら、祐司はなおも目を凝らし、呑み込まれた。
――二つの丸木舟をつなぎ合わせた船に、祐司はいた。
丸木舟の間には板を渡してあって、小さな小屋を載せてある。そこに置いてある水瓶の残りが少ない事も分かっている。もう何日も食べていない。
この先に島がなければ、干からびて死ぬだけだ。海鳥も飛んでいないし、仲間はもう諦めている。でも自分だけは、櫂を漕ぐのはやめない。止めた途端に先はなくなる。
「だから言ったんだ。大人しく生贄になっていれば、こんな辛い思いはしなくて済んだ」仲間の一人が忌々しそうな顔で言う。
思い出した。島に新しい神が来たと長が告げ、祐司と仲間はその生贄に選ばれた。
死ぬことよりも、今までの信仰をなかった事にされたのが腹立たしかった。「新しい神のお告げがあった。お前は汚れているのだ。生贄になれば清められる」と、長はしたり顔で言った。だから思い切って船出をしたのだ。
沢山のものを故郷に置いて来た。
新しい島があるかどうかは誰も知らなかった。伝説の唄にあっただけだ。
それでも祐司はどうしても来なければならなかった。汚いままで構わない。以前の信仰を守りたかった。それは自分をも守る事だ。
目が痛い。皮膚もすっかり太陽で傷めてしまった。でも漕ぎ続ける。
遠くに薄く白っぽいものが見える。雨が降っているのだろうか。それなら急いで行かなくては。水があれば航海を続けられる。
櫂を動かす度に肩や腰が軋むけれど、平気だ。白いものが近くなって来る。やがて水平線から山の頂上が顔を出した。
山が火を噴いている。
思わず立ち上がりそうになる自分を抑えた。自分にはまだ未来が残された。先がゆるされたのだ。
火の山の煙が次第に近くなる。祐司は歓喜に震えた――
幻の煙と、目の前のそれが重なって祐司の体が痙攣した。
そうだ、たった今、噴火が起きたのだ。ジュニアの姿が見えない。
彼の名前を呼ぼうと口を開けた時に、太い声が聞こえ、火山の響きに掻き消されて聞こえなくなった。異臭が鼻を突く。
白い煙の向こうに、突如巨大な人型が現れた。新たな幻か。
噴火口に立った濃い灰色のそれは、胸の前で両手を交差させるようにしている。そこにいくつもの岩が転がり落ちて行く。受け止めた岩を、人型が捧げるようにした時、鼓膜が破れそうな爆発音と共に岩が砕けた。
祐司は痛む瞳を必死に開けた。砕けた岩は周囲とは全く違った青い煙になって、まるで意志があるような動きで上空へ上っていく。青い煙を追った視線を戻すと、人型はすでになかった。
「行かないでくれ、ジュニア」
祐司は柵を乗り越えようとした。
ジャスティンが肩を押さえる。白っぽかった辺りの灰は、今は黒く色を変えている。ジャスティンは必死で何か叫んでいるようだが、祐司には聞こえない。
襟首を掴まれて、耳元で絶叫されてやっと分かった。
「諦めろ、君が飛び込んでも何にもならないぞ。アリシアを連れて避難するんだ。ジュニアはもう行っちまったんだ」
怒鳴った後に、ジャスティンは激しく咳き込んだ。反射的にジャスティンの背中に手を回して、擦ってやりながらも呼吸が苦しい。
一メートル先も視界が利かなくなった中、アリシアの姿は見えなかった。
声を張り上げたところで、自分の耳にすら届かないばかりか、灰が呼吸器に入って苦しい。目や咽喉が痛い。アリシアはすぐ近くにいた筈だ。しかし声も人影も全く見えなかった。
もしかしたら、ここで灰に巻かれてこのまま死ぬのかもしれない、と思った次の瞬間、絶対に駄目だと驚くほど強い反発が自分の心に湧き出た。
死んでもいいけれど、それはアリシアを助けるためだけだ。
アリシアの安全を最優先に考えていたのは誰だ。そう強く思った時に、何かが恐ろしい力で、祐司の足首を掴んで、進む方向を変えさせた。すぐに靴の先に、何かが触れた。
誰の仕業かと訝っている暇はなかった。
アリシアは舗装されたアスファルトの上に倒れていた。うつ伏せになっている首筋に触れて脈がある事を確認し、脇の下に手を入れて抱き起こす。
車はどっちだ。
ジャスティンが首尾よく祐司を捕まえてくれなければ、アリシアを抱えたまま死んでいたかもしれない。車に転がり込んでからも、呼吸は苦しいままだった。
真っ黒な顔でジャスティンがハンドルを握る。後部座席からフロントガラスを見て、祐司は煙がライトをはね返すということを知った。
ジュニアを失った喪失感は、まだなかった。生き延びたという実感で、手が震える。
船を漕いでハワイに辿りついたあれは、白昼夢だったのだろうか。まだ自分の未来を望む事が出来るというあの歓喜が、体の中に残っている。
河野が諦めたもの、自分も一度は諦めかけたものだ。
遠く旅立った何かが思いも寄らずに帰って来て、それを力一杯抱き締めたような気分だ。
大切な友人を失くしたというのに、自分は一体どうしたのだろう。
そしてあの人型は一体、何だったのか。ジュニアの声に応えて、女神が姿を現したのだろうか。青い煙は昇華された「悪いもの」だろうか。
咳をしながらアリシアが意識を取り戻したのは、まだ煙の中を抜ける前だった。
「煙の中で気が遠くなった時に、父さんが来てくれた」
咽喉をぜいぜいと鳴らしながらそれだけ言って、涙を流した。ジャスティンも祐司も無言だった。