第六話・続く悪夢
〈これまでのあらすじ〉
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。警察の聴取を受けた祐司は、河野の行方が知れない事から、彼の無事を期待するが、浜辺で河野の遺留品が見つかる。
ホノルル警察の警部クリストファー・サトーが、事件を河野夫妻の無理心中と判断した直後に、別件が起きる。カリヒ地区で起きた殺人事件は、隣人の話から被害者の同居人で、ヒイアカと名乗るポリネシアン女性を重要参考人として手配する事になる。
週明けの火曜日、祐司はジュニアと一緒にナイト・シフトに入っていた。
午後三時から深夜十二時までのシフトで、間に一時間休憩が入る。
今日は貿易風があって、爽やかだ。ハワイの気候が過ごしやすいと言われるのは、実にこの貿易風のお陰だ。陽射しが強くとも湿度が低く、日陰にいれば空調がなくとも汗をかかない。
ホテルの入り口に植えてあるバード・オブ・パラダイスが、僅かに揺れている。
日本語で極楽鳥花と言われるこの花は、本当に鳥の頭のような形をしている。長い嘴を持った顔の部分は緑色、オレンジの大きな鶏冠の正面に一、二本伸びている青紫のそれも、鶏冠の一部とも見える。
本当は、オレンジの部分が萼で、青紫の部分が花なんだよと教えてくれたのは、ジュニアだ。緑にオレンジ、青紫の極彩色の色合わせは、正に極楽鳥花の名前にふさわしい。
それが道路からホテルの敷地に入る入り口に、石造りの「ホテル・キングダム」のサインを彩るように三十本近く咲き乱れている。
のどかな光景に目をやりながら、祐司は出勤途中でラジオから流れたニュースを思い出した。
ワイキキの反対側の外れ、アラモアナ側にあるホテルで、今朝方、日本人夫妻が殺害されていたのが見付かったというものだった。詳細はまだ不明と、アナウンサーは告げていたが、祐司を憂鬱にさせるには充分だった。
河野夫妻の家族は、今朝早くハワイを発って行った筈だ。
事件が起こってから、押っ取り刀で駆け付けた河野の両親と、祐司が交わせる言葉はなかった。
彼らは山口さんという、広美さんの両親、兄弟に散々責められ、ついには口論とまでなったが、祐司には何も言わなかった。
「機嫌悪い、な」
ふいにジュニアが肩を叩いた。
祐司は柱に凭れ掛かっていた体を真っ直ぐにした。そろそろ六時近くなる。ホテルに帰って来る宿泊客と、レストランに食事に来る客とで賑わう時間だ。
ここのところ、落ち込んでいる祐司を慰め続けてくれるジュニアだが、今日は彼も目の下に隈を作っている。
「そういう自分だって、疲れてるみたいだな」
祐司の言葉に、ジュニアは二、三度頷くと笑ってみせた。二十六歳と若いのに笑い皺があって、だからいつも祐司よりも年上に間違われるのだ。
どれほど調子が悪くとも、ジュニアは不愉快な様子を表に出さない。
「弟の調子が悪かって」
ジュニアの英語は、地元訛とはまた違うアクセントがある。彼の母国語は英語ではなく、サモア語だからだ。
出身地のアメリカ領サモアでも英語が公用語らしいが、普段の生活は全てサモア語でしていたとジュニアは言う。
「ああ、どうした。また熱?」
何度か会った事がある少年を思い出して、祐司は聞いた。
ジュニアの弟はヴァアという名で、年は十六になるが、学校には行っていない。自分一人では歩く事もままならず、言葉も少ない。
「海に入れるんだよ、運動させなきゃ」と言うジュニアの押す車椅子に乗ったヴァアに、初めて会ったのは半年以上前だ。ジュニアの弟とは思われないほど華奢な身体つきだったけれど、黒い大きな瞳は同じで、人見知りもせずににこにこと笑っていた。
「あいつ、この頃あんまり食わんで。昨晩もわざわざ買ってきやったマンゴー、吐きやるし」
「昨夜は蒸し暑かったからね」
生まれ育ったサモアを離れて、ジュニアは三年前に弟を連れてハワイに来た。アメリカ領サモアに生まれた二人にとっては国内を移動したに過ぎないが、何か理由はあるのだろう。
ヴァア以外の家族は何をしているのか、どうしてハワイにやって来たのか、とは祐司は聞かない。自分と同じように、他人にも事情があるだろう。
ハワイに来た理由を尋ねられると、祐司は「ただ何となく」としか答えない事にしている。
まず人はそれ以上突っ込んでは聞かない。ビジネス・カレッジを卒業していながら、ヴァレー・パーキングのボーイをしているという事については、正直に「ビザ・サポートがあるから」と答える。
正規の学位を修得すると、一年間有効の就業可能なビザが貰える。そのビザが切れた後は、政府に金を払ってまで雇ってくれる場所を見付けなければならない。ホテル・キングダムは、最初からビザ・サポートをするから長期で勤めて貰いたいという話だったので、職種に拘らずに就職した。
日本に帰らずにいられて定収入があるならば、ショッピングセンターの掃除夫でも一向に構わない。
自分が修士の学位を持っている事なんか、とっくに忘れた。
「たいがい慣れやったけど、マンゴーなんか金出して買いやるのは、やなもんだ。食べたがるから、しょうがないけど」
ぼやきが出る所を見ると、ジュニアは相当疲れている。祐司にとっては人情味溢れた田舎でも、ジュニアには都会化が進み過ぎている土地なのだ。
サモアでは、果物を買うなんて事はなかったと言っていた。
「果物なんて、庭だの近所になってやるもんだよ。でなきゃ、誰かがくれやるんだ」と、真顔で言うジュニアには苦笑するしかない。
「これから蒸し暑い日も多いぞ。思い切ってAC買ったら?」
ACとはエアーコンディショナーの略だ。ジュニアは大袈裟に手を振った。
「だめ、だめ。かえって体悪くしやるよ」
そういう祐司の家にも空調はない。ヴァアのように体の弱い人間にはあってもいいのではないかと思っただけだが、ジュニアが正しいだろう。
バード・オブ・パラダイスの脇を通って、カマロが滑り込んで来た。幌をオープンにした運転席にいるのは、カナダから来て長期で滞在している中年の白人だ。彼はいつも、相場の倍のチップを弾んでくれる。
「チップをもらって、マンゴーを買いやろう」
節を付けて歌うように言うと、ジュニアは元気良く、数段の階段を一気に下まで飛び降りた。
カマロに続いて、ドッジのネオンやヒュンダイも次々にやって来て、それからしばらく祐司はジュニアと話もせずに仕事をした。
薄闇が迫った七時前、不吉な青い光がタイヤを鳴らしてホテルの入り口に飛び込んだ。
車体の横腹に青いラインの入った車ではなかったものの、屋根に回転灯がついているから一目で警察の車だと分かる。サイレンは鳴らしていなかったが、青い光がちかちかと回って、緊急であることを知らせていた。
日本の警察の赤いライトも嫌いだが、こちらの青い色も嫌いになりそうだと祐司は眉間に皺を寄せた。何事だろう。
車寄せの一角に停まった車からは、先日会ったサトー警部と、ナカノ巡査長が勢い良く降りて来た。ヴァレー・パーキングのスーパーバイザー、ロイが「どうしました」と駆け寄るのを無視するような勢いで、二人は真っ直ぐ祐司に向かって歩いた。
「話があります」
サトー警部の口調は、先日の倍も厳しかった。
二人から両側を挟まれるようにして、祐司はロビーへ向かった。
フロントのシャロンが何事かとこちらを見ている。キングダムの建物は、中央が吹き抜けになっていて、小さい中庭がある。
ホテルで起こった事件ではないからここでいいでしょうと前置きして、中庭に面したベンチに、サトー警部は祐司を誘導した。ベンチはフロントの方と中庭と、どちらを向いても座れるようになっている。
警部は迷わず中庭の方を向くようにと、動作で示した。左側を警部、右側を巡査長に挟まれて、祐司はひどく息苦しい気がした。
中庭に植えてある、エンジェルズ・トランペットが甘く香る。大き目の木で、伸びた枝から百合を長く伸ばしたような形の白い花が、真下を向いていくつも咲いている。その名の通り、トランペットを逆さにしたような格好だ。大きなものは三十センチちかい。何故だか、この花は夜に匂うのだ。
いつもなら好ましいその匂いが、今はうとましい。
「一体、どんなお話でしょうか」
精一杯冷静に聞いてみる。意外にも、口を開いたのは巡査長だった。
「キタモトサン、この間お話した時に、何か話し忘れたことはありませんか。でなければ、あの後起こったことで、我々に話すべきことが起きたとか?」
声も穏やかだし、わざわざ日本語の「さん」という敬称を使ったりしているが、細められた目の奥は少しも優しさがない。頭の奥で警鐘が鳴り出した。
「何のことを仰っているのか、全く分かりません。あの事件は、河野が自殺したということで終わったのじゃないですか?」
河野の事を考える度、体のどこかが恐ろしく軋む。
その痛みをぶつけるようなつもりで、祐司は馬鹿丁寧な言葉を使い、ついでに巡査長の切れ長の瞳を覗き込んだ。巡査長はひょいと目線を外し、祐司の隣の警部を見る。判断を仰ぐ姿勢だ。
一々聞かなきゃ尋問も出来ないのかと、祐司は少し不愉快になった。
「今朝、トレジャーアイランドで殺人事件があったのは、知ってますか」
尋問の露払いは終ったらしい。今度は警部が質問を投げて来たが、その内容に祐司は戸惑った。トレジャーアイランドとは、午後のニュースで言っていた大型ホテルだ。
「はあ、ラジオで少し。日本人夫妻が殺されたということだけですが」
警部の唇から僅かに漏れる溜息に、祐司は呼吸を詰めた。白いものが混じっている眉を吊り上げて、警部は口を開いた。
「犯行現場に残っていた指紋が、ヒロミ・コーノ殺害現場に残されていたものと一致したんですよ。ついでに昨日、カリヒで発見された殺人現場のものともね」
祐司は自分が緊張のあまり、英語を聞き違えたのだと思った。
慣れたとはいえ、母国語ではないのだ。
「すみません、もう一度」を何度も何度も繰り返して、ついに間違いではないと知らされた。
空が落ちて来たって、こんなショックは受けない。