第二十八話・噴火口
<これまでのあらすじ>
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、河野由樹とヒイアカが壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノに異変が起きる。
河野とヒイアカの霊が悪霊になり、自分に憑いていた事を知ったジャスティンは追跡を開始する。悪霊は移動を続け、二人の市民に傷害事件を起こさせた後、立て篭もり事件を引き起こして多くの犠牲者を出し、さらに河野の友人、祐司のルームメイト、ケビンに乗り移る。
祐司の同僚、ジュニアによって弟、ヴァアの身体に移された悪霊は、河野の言葉で秘密と共犯者について語り、神官が悪霊の成り立ちを説明して祓おうとするが、失敗する。引き継いだジュニアが、火山の力を借りるとして、祐司達はハワイ島へ出発する。
ハワイ島へ向けて飛び立った機体が水平になった頃、前の座席で微かな声がした。
ジュニアの声ではない。ヴァアが目を覚ましたか。ヴァアならば問題はないが、ヒイアカや、名も知れぬ古いハワイアンの魂であったら厄介だ。
同じ心配をしたらしく、通路側に座っていたジャスティンが腰を浮かしかけた。
やがて聞こえて来たのは、ジュニアの優しげなサモア語だった。目を覚ましたのはヴァアらしい。祐司たちは目顔で頷きあった。
進行方向の空が赤く染まり出した。夜明けだ。
ヒロに着いた時には、周囲は大分明るくなっていた。
国際空港とはいうものの、所々木造の二階建ての建物は、日本なら新幹線の駅にもなり得ない。擦り切れたカーペットの上をほんの少し歩くと、もう空港の外に出てしまった。
ホノルルよりもわずかに蒸し暑い気がする。待たなければならない荷物すらなく、レンタカーのブースも空港に隣接してあった。
昨夜電話で予約したのは、八人乗りのワンボックスだった。受付で係員が、保険はどうするかと尋ねる。最低限でいい、と言いかけたジャスティンをジュニアがさえぎった。
「俺、心配性だから。体の悪い弟もいやるし」
白人の係員に微笑みかけながら、ちゃんと色々カバーしやるやつ、とジャスティンの肩を叩く。
「何か起きるの? 彼、何か言ってた?」
背後で彼らのやり取りを見ていたアリシアが祐司に囁く。
ジュニアは必要のない事はしない男だ。不安がよぎったけれど、口には出さない事にした。
万が一何か起きたら、まずアリシアの安全を最優先にして、それからヴァアだ。「悪いもの」ではなくて、ヴァアだ。ジュニアとジャスティンは祐司なんかより、よほど自分を守ることには長けている。
順番を確認すると何となく気が楽になり、軽く微笑む余裕も出た。
「別に何も言ってなかったけどさ、ほら、いつハワイアンのあれやヒイアカが出るか分からないから、その心配じゃないかな」
「別に何が起こっても構わないけど、あいつが消えるのを見る前に死ぬのは嫌だわ」
「そういうことは起きないよ」
明るく声を励ましてアリシアの背中を押す。前方では受付を済ませたジャスティンが、渡されたキイを振って合図を送っていた。
白いワンボックスカーは、ブースの後ろの駐車場に停めてあった。
当然のようにジャスティンが運転席に座る。後部座席に座るのもはばかられるような気がして、祐司は助手席に滑り込んだ。ジュニアとヴァアを一番奥の座席に座らせ、アリシアが運転席の後ろに座る。
「道は分かるのかい?」
レンタカーの受付で渡されたドライブマップも見ずに、車を出したジャスティンに、祐司は問いかけた。
「分かる。ヒロには何度か来たことがあるし、火山までの道順は簡単だ」
心なしかジャスティンの顔にも、緊張したものが見える。彼も車の保険を最大にしようと主張したジュニアに、何か感じているのに違いない。
「ああ、ジャスティン、途中でスーパーにでも寄ってくれやる?」
背後から飛んで来たジュニアの声は、いつもののんびりしたそれだった。
空港から出てしばらくの間は、誰も口を利かなかった。
飛行機の中から見えた空には朝焼けが広がっていたが、明るくなってみると快晴ではなく、うす曇りの天気だ。交通量の少ない道路を、ジャスティンは前だけ見て運転している。
やがて市街地かと思われる辺りに入った。
市街地とは言っても、人家があって店らしいものが少しあるだけだ。そうと聞いた事はあったけれど、ホノルルとは比べるべくもない田舎らしい。
「初めて来たけど、オアフとは違うのね」
後ろの座席から誰にでもなくアリシアの声がする。着陸の前に機内から見えた景色も確かに、緑の生い茂った山や崖が海岸べりまで張り出していて、オアフ島とは全く違った趣だった。
「これでもね、昔は栄えた街だったんだよ」
この辺りでは唯一ではないかと思われるスーパーマーケットを見付けて、減速しながらジャスティンが答える。
「ダウンタウンはもっと海寄りにあるけど、今は人も少なくて寂しい場所だ」
開店時間の早いスーパーの駐車場に車が停まると、ジュニアはヴァアを見ていてくれと言い残してさっさと買い物に行ってしまった。アリシアがそれを追う。
外に出て、後ろの座席を覗くと、ヴァアは体を丸めて眠っている。祐司は一服することにした。深々と煙を吸い込んで、隣で車にもたれているジャスティンに話しかける。
「ヒロに知り合いでもいる? 前に来たことがあるって」
「うん、親戚がいたんだけど、今はホノルルに引っ越した。仕事がないからね。ヒロには元々日系が多いんだ。昔は栄えていたって言っただろう」
頷いた祐司に、ジャスティンは続ける。
「ちょっとした日本人街もあったらしい。だけど津波がね、直接ヒロの街を襲って沢山の人が亡くなったんだ。復興はしたけど元のようにはならなかったんだよ。段々と経済の基点も変わったしね」
「あまり幸せな歴史じゃないんだね」
「街があれば、それだけ色んな歴史もあるよ。俺たち日系の歴史なんて、ポリネシア系の歴史に比べれば笑えるほど浅い。でも楽しかったり悲しかったりしたことがあったことは事実なんだ」
煙草の煙がジャスティンの方へ行かないように手で払って、祐司はふいに思いついた質問を投げた。
「ハワイアンの不幸な魂がヨシキと出会ってしまったことは、街が津波に呑まれるみたいなものかな?」
切れ長の涼しい瞳を祐司に向けて、ジャスティンは一度唇を引き結んでから話し出した。
「分からないな。あれに憑かれると、徐々に自分が自分でなくなる。だから今となっては、コーノだけを一概に責めることは出来ないのかもしれないけど、そしたらアリシアやケビンみたいな被害者はどうなる? それに俺は、自分を冒された落とし前をつけなくちゃいけないと思ってる。あれがまだ君の友達でもね」
祐司が何か言う前に、アリシアとジュニアが戻って来た。手にビニールの袋を提げている。
「あとは火山まで真っ直ぐ走りやって」
袋から取り出したソーダの缶を手渡しながらジュニアが言うと、ジャスティンは少しはっとしたように尋ねた。
「聞かなかったけど、火山のどこに行ったらいいんだい。国立公園の中は広いんだぞ」
漠然と、火山というからには噴火口があって展望台でもあるのだろう、とだけ思っていた祐司は、自分の間抜けさに舌打ちしながら、彼らのやりとりを聞いていた。
「車であっちこっち回れやるでしょ? 二日も三日もかかりやるわけじゃないし、適当に走り回ってくれれば分かりやる」
呑気そうに言うジュニアを見ていると、これから行くのは悪霊を消す儀式ではなく、ピクニックにでも行くのだと錯覚しそうになる。ジャスティンも同様に感じたのかもしれない。緊張を解かれた表情で、分かったと答えた。
スーパーを後にすると、市街地を抜けるのはあっと言う間だった。
店舗や人家がどんどん少なくなり、信号の数も減る。それに従ってジャスティンはスピードを上げた。
道は次第に上り坂になり、周囲の緑は色濃くなる。山を登っているのにカーブがほとんどない単調な一本道だった。
途中、通り雨に遭った際、ヒロは雨も多いんだとジャスティンが教えてくれた。
四十分弱のドライブで、車は無事に国立公園の入り口に辿りついた。ゲートで料金を払い、車を進める。レシートと共に渡された地図を、参考になるかとジュニアに渡してやると、「こんな紙じゃ分からん」と言いながらも、ビジターセンターに一先ず停めてくれるようジャスティンに頼んだ。
「キラウエアのでっかい噴火口が見えやる場所がありやるでしょ?」
「そりゃ、ビジターセンターじゃなくて、向かいのボルケーノ・ハウスだな」
心得顔のジャスティンが、右に切ろうとしていたハンドルを左に切る。木と石とで造られた二階建ての建物が、木々の間から見えた。
外気が違っていた。
ジュニアが放り出した地図には、キラウエア噴火口のあるマウナロア山は海抜五万六千フィートとある。
恐ろしく高い山だから、空気が街中と違うのは当たり前の筈なのに、どこか別世界に来たような感じがする。普段ホノルルでは目にしないような、高山特有の植物のせいもあるだろう。火山だといっても緑は多い。
風に細かい霧が含まれていて、それが冷たく顔を撫でつつ身体を吹き抜けて行く気がした。
「ここはホテル兼レストランなんだ。有名な場所だよ」
やはり物珍しそうな顔で車から降りたアリシアに、ジャスティンが説明する。今度はジュニアがヴァアを抱えて降りて来た。コンクリートの駐車場に降り立つと、ジュニアは目を閉じてこころもち顎を挙げ、大きく呼吸をした。
「間違いない」
短く言ってから、祐司の手を借りてヴァアを背中におぶった。ヴァアは、今は目を覚ましていて、祐司の顔を認めて笑う。途端に胸が詰まった。
特別な子なんだとジュニアは言った。彼の祖父もそれを認めて、だから「船」という名を贈ったのだと。いくら特別でも痛々しく痩せて、利かない体の中に悪霊を取り込むために生まれて来たというのはあまりに悲しい。
昨日、「悪いもの」が移動した瞬間に、ヴァアは生まれて初めて自分の足で立ったのだ。普段はよく動かない舌も、沢山の事を語った。それが最後になるとは、考えたくもない。
もしも彼が、悪霊を冥界に無事に送ったら、自由に立って歩き、思った事を歯切れ良く口に出来るようになりはしないかと、祐司は夢想した。そうだったらどんなにいいか。
「おい、行こう」
一瞬の空想はジャスティンの声で止まった。石畳敷きの玄関に向かおうとしているジャスティン達の後を、祐司は慌てて追った。
建物の入り口には大きめの軒があり、中にはいると濃い紅色のカーペットが敷かれている。内装はいかにも古めいていて、建物の歴史を物語っていた。入ってすぐ右手に土産物屋があり、左手奥にも似たような店がある。従業員らしい人々は祐司達一行を見ても、どうという顔もしなかった。
左手の土産物屋の手前はレストランになっているらしい。朝食の時間と見えて人のざわめきがロビーにまで伝わっている。ジャスティンは真っ直ぐ奥に足を向け、土産物屋の脇にある細い通路へと祐司たちを先導した。
開け放してあるドアから細い石段を数段降りて、祐司は息を呑んだ。
見渡す限りと言えそうな、巨大な噴火口だ。一面が灰色だった。ホテルの玄関先とは何という違いだ。
緑に見えるのは、視界のほんの端に見える噴火口の縁だけだ。深さだけで百メートル近くあるのではないか。火口の直径に至っては広過ぎてすぐには判断出来ない。大体三キロ程度はあるだろう。火山灰のためかグレーの火口の中に、さらに深い穴も開いているし、何箇所か濃く、または薄く煙が上がっている。火山は休んでいない。
隣でアリシアが感嘆の溜息を洩らした。ヒロが初めてだと言っていたから、当然キラウエア火山も初めてだろう。
その溜息が切れない内に、ヴァアが大声を出した。
ジュニアの背中で不自由な体を精一杯のけぞらせ、ヴァアは何事か叫んでいる。いや、叫んでいるのはヴァアではない。彼の中にいる「悪いもの」だ。
「いかんわ、奴らも気づきやった」
今話には、津波の話が出ています。
3.11震災での津波被害を考え、迷いましたが歴史的事実であることから、削らずに掲載しました。ハワイ島ヒロでの津波被害及び、3.11の津波被害・震災で亡くなった方のご冥福を心よりお祈り致します。