第二十二話・汚れ
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、河野由樹とヒイアカが壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノに異変が起きる。
祖父の霊の助けを得て、「悪いもの」と呼ばれる悪霊の仕業と知ったジャスティンは、河野が悪霊の一部になった事も確認する。「悪いもの」はジャスティンの後に、ナカヤマとチョンに移動して傷害事件を起こさせ、さらに立て篭もり事件で多くの犠牲者を出した後、河野の友人北本祐司のルームメイト、ケビンに移っていた。
助けを求められた祐司の同僚、ジュニアは障害を持つ弟、ヴァアの身体に「悪いもの」を移す。
玄関を誰かが叩いた。ついで大きな声がする。
「祐司、アリシア、いるかい」
ジャスティンだ。手が離せない祐司に代わって、アリシアが玄関のドアを開けたようだ。
挨拶の言葉よりも先に聞こえたのは、誰かの叫び声だった。
「うわぁっ、これはすごい」
ジャスティンが連れて来たのだろうか。祐司は上半身だけ捻って玄関を見た。
ジャスティンはすでに靴を脱いで上がっていて、その後ろに中年のポリネシア系の顔が見えた。叫んだのは彼らしい。
「遅くなってすまん。で、何やってんだ? 彼は誰だ? ケビンは寝てるのかい」
立て続けに質問を飛ばしながら、ジャスティンはリビングルームに入って来た。横たわって苦しそうなヴァアに怪訝な顔をしてから、後ろを向いて、男に呼びかけた。
「どうぞ入ってください。それとも入ることも出来ませんか?」
「いや驚いたけど、大丈夫」
言いながら男は靴を脱ぎ始めた。青地のアロハシャツに黒っぽいズボンをはいている。
今日、何が起こるかは昨日ジャスティンにきちんと伝えた。彼が連れて来たのだから、事態を悪化させる事はないはずだと祐司はヴァアに向き直った。まだ苦しそうだ。
祐司がヴァアを介抱している間に、アリシアはケビンが失神しているだけだという事を確認して、カウチに横にならせてやろうとしていた。
そして手助けしようとしたジュニアに、大声を上げた。
「ジュニア、その手はなんなの?」
困ったような顔をして両手を見せたジュニアに、祐司は息を呑んだ。掌は一面に火傷が出来て、茶色っぽく変色していた。すでに皮膚の一部がめくれそうになっている。
「何をしてたんだ、君たちは?」
目を倍ほどにも大きくしたジャスティンに、ジュニアが何か言う前に、「冷やしなさいよ」とアリシアが怒鳴った。そして、えい、と気合を入れてケビンの体をカウチに横たえたかと思うと、身をひるがえして玄関から出て行ってしまった。
「驚かせやったかな?」
キッチンの水道で掌を冷やしたジュニアは、リビングルームに戻って開口一番にそう言った。
呆気にとられた体のジャスティンとアロハシャツの男は、コーヒーテーブルの近くに座っている。
ヴァアはかなり吐いたが、少しずつ呼吸も平常に戻りつつあった。しかし、体はまだ熱い。やがてアリシアが帰って来た。手に一杯、アロエの葉を持っている。
「上の大家さんが沢山育ててるでしょ? もらってきた」
「気が利くな。しかし一体なんでそんな火傷をしたんだ? それに、ジュニアはともかく、彼は病院へ連れて行った方がいいんじゃないか」
苦しそうに背中を丸めているヴァアに視線を送ってから、ジャスティンがジュニアの方を向いた。ジュニアは即座に首を振った。
「お医者には分からん。『悪いもの』はこいつの中に移りやったから。もうどっこも行けん。移しやる時に、火傷しやった」
部屋の温度が急に下がった気がした。
「ちょっと待って。『悪いもの』については来る道々、ディテクティブに聞いてきましたけど、あなたはそんな事が出来るんですか」
短い沈黙を破ったのは、アロハシャツの男だった。思い出したように、祐司は彼を見た。
ジュニアには敵わないけれども、しっかりした体格の男は四十代後半か。ウェーブのきつい髪は、後頭部で括られているが長くはない。
「ああ、紹介するのが遅れてごめん。こちらはカフナのカレオ・カマカ。ミスター・カマカ、こちらがジュニア、アリシア、祐司。あそこで寝てるのがケビンです。彼が例の『悪いもの』に憑かれていたんですが」
「カレオで結構。それで、こちらの彼は? 『悪いもの』を移したと言いましたよね」
どんぐり眼という形容がぴったりの瞳を、カフナは柔らかく動かしてジュニアに説明を促した。
「ああ、俺の弟でヴァア……」
驚いた様子もなくジュニアが口を開いた時、ヴァアが身を捩って大声を出した。
「あんた、大嫌い」と言った先程の声とはまた違う。もっと太いしゃがれた声だ。声の調子から言って決して友好的な事を言っているのではないようだ。
ジュニアがそれに答えてサモア語で話しかけると、ヴァアはひどく苛立った様子で何事か罵った。眉を吊り上げてジュニアが吐き捨てた。
「サモア語じゃねぇ、近いような気もしやるけど。俺の言葉が分からんから怒ってやるみたい」
黙ったままジャスティンが、素早くカフナの顔を見る。カフナも鼻から息を吐きながら、頭を横に振った。
「何、それ? じゃあ彼の中にいる『悪いもの』は自分の言葉で話せるって言うの?」
興奮して叫んだのはアリシアだ。ジュニアの返答を待たずに、ヴァアの側に膝を突いた。
「なんで父さんを殺したの? ねぇ、なんで? あんたヒイアカなんでしょ? 父さんがあんたに何をしたって言うの。何とか言いなさいよ。英語なら分かるはずよ」
「ヒイアカかどうか、分からんよ」
ジュニアが脇から言ったが、アリシアは聞こえていないようだ。ヴァアは頭を動かしてアリシアを見たようだ。祐司はヴァアの背中側にいるので、表情までは分からない。続いて出た言葉は、ジュニアもカフナも理解出来なかったそれだった。
けれども最後に声が変わって、ほんの僅か英語が出た。
「I hate you, Bitch」
大嫌いだ、性悪女。投げ付けられた雑言に、アリシアは「何だってえ、性悪女はあんただ」といきり立ったが、祐司は日本語のアクセントを聞き取って目を瞬いた。
さっき祐司が聞いた英語とは、明らかにアクセントが違っている。
「河野、そこにいるのかい?」
日本語で問いかけた祐司に、ヴァアの痩せた背中が微かに震え、それから寝返りを打とうとするように身動きした。祐司はヴァアの顔が見える位置に移動した。
「北本、なのか?」
きたもと、という言葉がヴァアの口から洩れた時、心臓がぎゅっと縮んだ。
河野がここにいる。
声が出ず、祐司はヴァアの、河野の手を握った。
「俺は何をしてるんだ。苦しいよ、北本。なんで俺がこんな目に遭わなくちゃならないんだ」
ヴァアの唇から洩れる声は、聞き覚えのある河野の声ではなかった。しかし、ヴァア自身の声でもない。
日本語で会話を始めた二人をジュニアたちは、固唾を呑んで見守っている。
「何があったんだ、河野。どうして広美さんにあんなことをしたんだ。ここにいるアリシアのお父さんにだってだ。何であんな事をしなきゃならなかったんだよ」
殺した、とは言いたくなかった。小さい声で「言えないよ」と答えた河野に、祐司は声を大きくした。
「俺だけか。俺だけがお前を友達だと思ってたのか。何かあったんだろ」
「い、言いたく、ない」
ヴァアの唇が震えて、端から唾液が垂れた。
「言えよ、何があったんだ? 頼むから言ってくれ。俺は、お前のした事を怒ってるよ。本当に怒ってる。だけど、まだお前を憎んじゃいないよ」
ヴァアが噎せた。祐司と位置を代わったアリシアが背中をさすってやる。噎せながらヴァアは祐司の理解出来ない言葉を少し吐き出し、それからもう一度「北本」と祐司を呼んだ。
「俺に伯母がいたのは知ってるな」
途切れ途切れに河野の言葉が始まった。
河野の父の姉にあたる伯母は生涯独身だった人で、そのためか河野をとても可愛がってくれた。
結婚する時には、実の母以上に、妻になる女性の事をあれこれと心配したし、結婚生活が順調だと聞いて喜んでくれもした。その伯母が癌で倒れた。河野の結婚後わずか五ヶ月の時だった。
思いの外に転移していた癌は除去することも出来ず、医者からはあと半年と告げられた時、母が驚くべき事を言った。
河野は両親の実子ではなかった。伯母の子だと言うのだ。結婚後すぐに身籠った子供を流産して以来、母は不妊症になった。
だから独身の伯母が妊娠していると分かった時に、こっそり産んでもらって自分達の子供として届け出ようと言い出したのは母だったそうだ。幼い頃からずっと父親似だとしか言われなかった理由がやっと分かった。
「だから伯母さんに、優しくしてあげなさいね」
母はそうしめ括り、河野も両親に感謝しこそすれ、恨む気持ちは全くなかった。自分の実の父親なる人は誰なんだろうと漠然と思っただけだ。
「俺の親父はな、すぐに分かったんだよ」
ヴァアの黒目が上目蓋に隠れそうになるほど上がっている。唇が左右に引っ張られて、妙な息遣いが洩れた。
河野は笑っている。
死に続く昏睡に陥る前に、伯母は河野の手を握って実の父親を明かした。お前のお父さんは、本当のお父さんよ。
世界は変わってしまった。