第二十一話・執行開始
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、河野由樹とヒイアカが壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノに異変が起きる。
祖父の霊の助けを得て、「悪いもの」と呼ばれる悪霊の仕業と知ったジャスティンは、河野が悪霊の一部になった事も確認する。「悪いもの」はジャスティンの後に、ナカヤマとチョンに移動し、傷害事件を起こさせた。
事件関係者の様々な状況や思いをよそに、さらに移動した「悪いもの」は立て篭もり事件で、多くの犠牲者を出し、河野の友人北本祐司のルームメイト、ケビンに移る。事態に驚愕しながらも、自分が見た妙な夢を語るケビンに、祐司の同僚ジュニアが助言を与える。
玄関から伸びる階段を上がって道路に出ると、陽射しが強かったが、貿易風のせいで爽やかだ。
道の左右に植えられたシャワーツリーやプルメリアが穏やかに揺れている。
「何とかするってどうするんだよ?」
祐司は出来るだけ冷静に聞いた。
「まぁ、色々だな。居場所が分かりやったせいで、今はこうすればいいんだろう程度のことは分かりやる」
ううん、と伸びをしてジュニアはやはり静かに答えた。
「『悪いもの』を消滅させる方法が分かったってことかい?」
「うん……、けどそれは彼を、お前の友達を今度こそ殺しやるってことだよ」
子供の歓声が聞こえた気がした。
祐司とケビンの住まいよりもずっと下のほうに中学校がある。
貿易風がその声を運んだのかもしれないけれども、祐司の耳には昼休みに校庭でバスケットボールに興じる、河野と自分の声に聞こえた。
あの頃はとても幸せだった。
遠い所へ自分たちは来てしまった。
「参ったな。なんで二度も同じ友達と死に別れなきゃならないんだろ? 『悪いもの』の中には、幸せだった時のあいつも残っているのに」
ジャスティンもケビンも、河野の記憶をはっきりした形で夢に見ている。
夏休み中にわざわざ届けてくれた本を喜んだ祐司を見て、河野も嬉しかったのだとジャスティンが言っていた。忘れる必要はないとジャスティンは言ったけれど、忘れる事が出来れば、いっそ楽だろうに。
頭が切れて、親切で、誰よりも優しかった河野は確かにいた。
けれどもその彼が稀代の殺人鬼になり、今は悪霊になって人を傷付けるのを止めない。
ストレッチャーに載せられたケビンを見た時に、悲しみよりも怒りが吹き出た。自分は河野のした事に腹を立てている。
何故なんだと問いかける気持ちは減らないが、彼が赦されるべきだとは思えない。もはや自分の気持ちは弁護人の位置にだけはいない。
それなら腹を括って、死刑執行人の席に座るべきだろうか。
ジュニアは何も言わない。ただ祐司を見下ろしていた。
「分かってる。あいつはもう存在していちゃいけない。あいつを消すのに必要なら、俺はこの際、命だってやるよ」
温かいが肩に置かれたのは、ややあってからだった。
「あんたはいい奴だ、自分で思いやってるよりもずっとね。俺は気に入ってやるよ」
翌日祐司が仕事から帰ると、アリシアとケビンが待ちかねた顔で迎えた。
昨夜は報告だけ聞いて返ったジャスティンは、まだ来ていない。帰る間際に「ジュニアにも助っ人がいた方がいいだろうか」と、口の中で独り言のように言っていたけれど、どういう意味だったかは分からない。
ケビンの具合は良くもないけれども、今晩にはジュニアが「悪いもの」を何とかしてくれるという期待からか表情が明るい。
玄関を一人で入って来た祐司に、二人は拍子抜けした顔をした。
「ジュニアなら、一度家に帰ってから来るって」
「そうか、どうやって『悪いもの』を退治するとか、聞いてるかい?」
ケビンの質問には首を振るしかなかった。
そのジュニアがやって来たのは、遅い日没がせまった頃だった。俺だよ、開けてくれ、とドアの外で声がした。戸を開けてやって、祐司は目を丸くした。
ジュニアが弟を背負っていたからだ。弟を見ていてくれる人が見つからなかったために連れて来たに違いない。祐司はジュニアを迎え入れながら尋ねた。
「隣の小母さんは忙しいのかい。ヴァアは俺の部屋にでもいてもらう?」
ここしばらくは祐司の部屋というよりは、アリシアの部屋にもなっているのだが、アリシアは文句を言うまい。
「いや、これがいないとだめだから連れて来やっただけよ」
真顔で言って、ジュニアは顎でコーヒーテーブルを指し示した。脇へ寄せろという合図らしい。
アリシアがコーヒーテーブルを部屋の隅に寄せている間に、祐司はケビンを立たせてカウチを壁際まで押しやった。こうすると狭い筈のリビングルームも広く見える。
「や、充分」
背中のヴァアに何事かサモア語で囁きながら、ジュニアはゆっくりと弟を床に下ろした。
そこで初めて祐司は、ヴァアが以前よりも、もっと痩せてしまっている事に気がついた。元々細かった手足がさらに棒のようになり、黒くて大きな瞳は落ち窪んでいる。具合が悪いのは知っていたけれども、これほどとは思わなかった。
アリシアが祐司の部屋から毛布を持って来た。ヴァアがクッションにするのに丁度いい。
「タロファ。久し振りだね、ヴァア。俺のこと覚えてるかい」
毛布を持って近付くと、それまできょとんとした顔で周囲を見ていたヴァアは、祐司を認めて微笑んだ。彼は英語はほとんど解さないのだが、祐司が知っているサモア語は「こんにちは」に相当する「タロファ」だけだ。
ヴァアが回らない舌を操って「タロ、ユー」と挨拶を返す。「こんにちは、ユージ」と言いたいのだろう。
ふいにヴァアの視線が祐司から逸れた。
視線を追って後ろを見ると、ティ・リーフで編んだ縄を首にかけたままのケビンが、カウチに座って祐司とヴァアのやり取りを見守っていた。声とも言えないような、細い悲しげな音がヴァアの唇から洩れた。
形容のし難い切なげな、痛ましげな顔でヴァアはケビンを見詰めていた。
「ヴァアには分かりやる」
しゃがんでヴァアの肩を抱きながら、ジュニアが言った。
「さ、やるぞ。ケビン、あんたはそのままで。アリシアはどこにいやっても構わんけど、あんまり近寄らないどいて。祐司、大きい皿がありやった?」
入って来た時から、にこりともしないジュニアの指示には質問を差しはさむ余地がない。
アリシアは玄関寄りの床に場所を据え、その間に祐司はキッチンから大振りの皿を取って来て、ジュニアに渡し、自分はキッチンの入り口に立った。ジャスティンを待っている時間はなさそうだ。
「皆、声は出しやったらだめだから」
一同が無言で頷くのを確認して、ジュニアはポケットから布の袋を取り出した。床に置いた皿の上に空ける。白くて粒の大きな粉だ。ハワイアン・ソルトだろうか。
優しげな声でヴァアに何か言いながら、ジュニアはヴァアのシャツを脱がせた。体が利かないため、ヴァアはいつも前開きのシャツを着せられている。腕に彼の父親が施したというサモアの伝統的な刺青が目立つ。すっかり浮き出た肋骨が痛ましかった。
ジュニアは小さく何か唱え出した。
ヴァアと同じ大きな目を半眼にして、大きく呼吸をしている。そうしながら皿の粉を両手に擦りつけ、ヴァアの背と肩にも同様にした。祐司の位置からはケビンもよく見える。
ケビンの肩と膝が震えていた。ケビン自身の震えなのか、「悪いもの」のものなのかは分からない。ジュニアの声が大きくなった。
ヴァアがケビンに近付く、歩けない彼は這ってしか動けない。短い距離をじりじりと近付いて、ケビンの膝にすがりつく。
感電でもしたようにケビンの全身が痙攣し、顎が垂直に上がる。それでもケビンは声を出さなかった。
ジュニアの声は続いている。サモア語を唱えながら、彼はケビンの膝にすがり付いている弟の肩に両手をかけた。ゆっくりとケビンの頭が痙攣から解放されて、前に下りてくる。
ヴァアは自分の顔をケビンに近付けようとしている。ジュニアが後ろから支える。ケビンが弱々しく頭を振って、ヴァアの顔を避けようとした時、ジュニアが一際大きな声で何か叫んだ。
ケビンか、あるいは彼の中の「悪いもの」の抵抗は止み、ヴァアの顔がケビンの顔と重なった。
次の瞬間、ヴァアは自分の足で勢い良く立ち上がり、ジュニアが弾き飛ばされた。
ケビンはカウチに崩れ落ちた。一瞬のことだった。何かが焦げる臭いがした。
仁王立ちになって天を仰いだヴァアの姿と、リビングルームの反対側まで飛ばされて、壁に頭をぶつけたジュニアの姿が信じられなかった。
ジュニアを助け起こさなくてはと思いはしたものの、ヴァアから目が離せない。
祐司よりもアリシアの方が近かった。口を噤んだまま、おずおずとジュニアの後頭部を押さえ、起き上がるのに力を貸した。
「ヴァア……」
助け起こされたジュニアの声が合図だったかのように、ヴァアの体が揺れ、祐司は慌てて駆け寄った。ぐらりと崩れた上半身を抱き留めるのに間に合ったのは幸いだった。
とても十六になる少年の体とは思えないほど軽く、そして恐ろしく熱かった。熱がある。
先ほど敷いた毛布の上に下ろす時に、ヴァアが何か言った。聞き覚えのあるような言葉に、祐司は思わず顔を覗き込む。
憎悪の表情とアクセントのある英語が帰って来た。
「あんた、大嫌い」
声帯までが大人になり切れていないヴァアの声ではない。低い掠れた声だった。
自分の腕の中にいるのは誰だ。髪の毛が逆立った。
祐司が手を離す前に、ヴァアは身をよじって苦しげな声を出し、顔を横に向けて嘔吐した。激しく咳き込んでさらに吐く。
何が起こっているのか分らないが、今はとにかく、と祐司はヴァアを毛布の上に横向きにし、背中をさすった。ジュニアは床の上に座り込んだままだったが、目顔で頷いた。