第五話・手掛かり
〈これまでのあらすじ〉
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。警察の聴取を受けた祐司は、河野の行方が知れない事から、彼の無事を期待するが、浜辺で河野の遺留品が見つかる。
ホノルル警察の警部クリストファー・サトーが、事件を河野夫妻の無理心中と判断した直後に、別件が起きる。カリヒ地区で起きたその事件もまた無残なものだった。
鑑識課の一人とキッチンを覗いていたジャスティンが、声を上げた。
クリストファーが屈みこんでいたテーブルからは、わずか三歩の距離だ。鑑識課員がプラスティックの小瓶をつまんで見せた。オレンジの胴体に白いキャップは誰でも知っている、処方箋で調合される薬の容器だ。
ラベルには薬の名前と注意書きに、処方された患者の名前がある。車の運転もしてはいけないと注意書きにある強力な痛み止めは、トーマス・マホエ氏に出されたものらしい。
彼の名は到着するまでに聞いていた。この家の住人のものだ。
「これをね、ここで砕いたんだろうね」
ベテランの鑑識課員はシンクの近くを指さした。なるほど、白い粉が散っている。彼は小型の掃除機で、丁寧に粉を吸い取り始めた。
背後では写真を撮り終わったらしく、数人が遺体の運び出し作業に取りかかっている。ボディーバッグに遺体を収容しようとする手を制し、クリストファーは慎重に被害者のポケットに手を伸ばした。ここで死んでいるからといって、この家の住人とは限らない。
幸い、二人ともショートパンツのポケットに財布を入れたままだった。これで、元から薄いとは思っていた物盗りの線は消えた。
どちらの財布も被害者の血と体液でひどい状態になっていたが、ボディーバッグのジッパーを閉める前に、被害者の名前を明らかに出来たのは上出来だ。遺体の顔は膨れてしまっていて断言は出来ないが、おそらく間違いはないだろう。
二人ともハワイ州の運転免許証を財布に入れてあり、片方の男はやはり、トーマス・マホエと判断した。
もう一人はロナルド・マラナという名で、住所は市内の東、パロロ渓谷だった。
「ミスター・マホエには家族はいないのかな?」
「さあ、最初に通報して来た近所の人が表にいるはずですから、何か聞けるでしょう」
「そうだな。それと、本署に連絡して、家族から捜索願いが出されてないか聞いてくれ。ミスター・マラナの家族が届け出を出してるかもしれんし」
イエス、サー。というジャスティンの答えを待たずにクリストファーは外へ出た。外気が実に清々しい。続いて出て来たジャスティンが、小走りに車へ向かった。
一つ二つ深呼吸をしていると、制服警官が班の一人、ネビルと近付いて来た。ジャスティンよりも少し年上のネビルはニックの相棒だ。通報者の男を待たせてあると言う。
細い通りを挟んで、向かい側に生えたプルメリアの木の下に、小太りのハワイアンが座っていた。白地に黄色の混じった花は、枝ごとに一箇所にまとまっている。遠目にはボールのように見えるそれが、濃い緑の葉の間に目映い。
クリストファーが近寄って名乗ると、男は立ち上がりビル・ノヘレと名乗った。見た目からすると、トーマス・マホエよりも少し年長なようだ。
「ほぉ、お巡りさん、とんでもねぇこった」
地元訛の強い英語でそれだけ言うと、ノヘレは座ってもいいかと断りを入れた。
「膝が震えちまって、立ってられねぇ。ああ、神様」
勿論と頷いて、クリストファーはノヘレの正面に自分も腰を下ろした。
「ミスター・マホエとはご近所さんなんだ、ね?」
相手を緊張させないよう、より親しみ易いよう、クリストファーも地元訛を使い出した。
「おうよ、あいつがここに引っ越してきてっからだから、もう十年にもならぁ。ほぉ、こんなことになるたぁね」
「一緒に亡くなってた人は知ってっか? ロナルド・マラナって人なんだけどよ」
「ああ、何度か会ったよ。感じのいいフィリピーノだったな。高校からの友達ってたよ。他の友達が来たこたぁねぇ」
ふいに俯くと、ノヘレははらはらと涙を落とした。
「こんなことになるなんてよぉ。だから言わないこっちゃなかったんだ」
Tシャツの腹を引っ張って顔を拭い、ついでに鼻までかむ。ノヘレは何を知っているのだろう。クリストファーは静かに尋ねた。
「何か言ったのかい? 最近、ミスター・マホエに何か変わったことがあったってかい?」
「一ヶ月ぐれぇ前に、あいつ、女を拾ってきたんだよ。妙な女でよ。愛想もなにもねぇんだ。あいつもどこでどう知り合ったか言わねぇし。あいつの家に棲みついて、ちっとも外に出なかった、な。名前は、それがふざけてやがって、ヒイアカだと」
どうふざけているのか、今ひとつ分からないが、その名前には聞き覚えがあるような気がする。
「ヒイアカ? 聞いたことあるな」
俯いていたノヘレは急に顔を上げた。
「当ったり前だよ、お巡りさん。マダム・ペレの一番下の妹さ。本名かしれねぇけど、女神様の名前を付けるなんざ、失礼なこっちゃねぇか」
マダム・ペレは、ハワイに古くから伝わる火山の女神の名前だ。その兄弟姉妹に関する伝説も、ハワイには数多く残されている。
クリストファーの曖昧な記憶によると、ヒイアカは確かペレの命でハワイ島を平らげる冒険をしたのではなかったか。
「感じの悪い女だったからよ、放り出せって言ったんだけど、あいつ、寂しかったんだろな。家族もいなかったし」
クリストファーが伝説を思い出している間にも、ノヘレは言葉を続けた。伝説はひとまず後回しだ。聞いておかなくてはならない事は山程ある。
いつの間にかジャスティンが背後に座って、手帳に何か書き込んでいた。
「まだその女性がミスター・マホエを殺したとは限らないがね。しかし、てことはハワイアンなんだ、な? そのヒイアカって人は」
「いいや、ハワイアンでなんかあるもんかい。ありゃあ、サモアンでもねぇし、トンガンでもねぇし……」
鼻を啜り上げてノヘレは考え込んだ。
クリストファーには判別が付かない場合が多いが、ポリネシア系同士はお互いの出自をよく見分けている。ハワイアンのニックによると、肌の色や髪のウェーブのかかり方、話し方や刺青の入れ方で、ほぼ見当がつくらしい。
「英語にきっつい訛があったのは確かなんだよ。女だからね、腕に伝統柄の刺青を入れるってこともねぇし。フィジー……、でもねぇなあ。混じってんのかもしれねぇ。ポリネシアンなのは間違いねんだけど」
念のためミクロネシア系ではないのかと尋ねると、それはないと言う。
メモを取りつつ、涙を流すノヘレを慰めながらトーマス・マホエに関する話を聞き終えた時には、大分時間が経っていた。
トーマス・マホエは建設現場作業員で、家族はない。係累についての話はしたがらなかったが、時々、知人の船で釣りに行き、収穫があると近所にお裾分けをするような、極めて気のいい男だったとノヘレは言った。ハワイアン同士という事もあって、親しく付き合っていた。
ヒイアカと名乗る女性と同棲を始めたのは、およそ一ヶ月前。ノヘレがいつももらう魚のお返しにビールを提げて訪ねた時に、彼女に出会った。
彼女はほとんど口も利かず、ヒイアカという名前もマホエの口から聞いた。どこで出会って何をしている女性かという事については、マホエは言葉を濁すだけだった。
ポリネシア系であることは間違いない。年齢はおそらく三十歳から四十歳の間。腰まで届く長い黒髪で、身長はおよそ五フィート八インチから九インチ。「ちっと太ってる」とノヘレは形容した。
全くと言ってよいほど、彼女が家から出る事はなく、二人の笑い声が聞こえて来る事もないような暮らし振りだった。
ノヘレが最後にマホエに会ったのは、先週の水曜、四月十六日だった。
仕事から帰って来たマホエが出かけるようなので、庭木に水をやっていたノヘレは、出かけるのか、と声をかけた。「夜釣りだよ」という答えに、平日なのにな、と思った。
そういうノヘレ自身は、長く勤めた陸軍を退役してからは時にパートで警備員の仕事をするくらいで、恩給と年金に頼って妻と二人で暮らしている。二人の子供はそれぞれ独立した。年齢を聞いてみると、実はマホエよりも十歳以上も年長だった。
木曜の朝、ノヘレが警備員の仕事に出た時間には、まだマホエのピックアップ・トラックは玄関の前に停めてあった。普段ならとうにいなくなってる時間だが、前夜の釣りで疲れて、仕事を休む事にでもしたんだろうと、ノヘレは大して気にも留めなかった。
仕事から帰って来た時に車がなかったのも、それはそれで出かけたのだと思ったに過ぎない。
ところが翌日になっても、翌々日になってもマホエの姿が見えないし、帰って来ている様子もない。
日曜になって、まだいないのかと、家の前まで行ってみると、窓も閉まっているしカーテンも下りたままで、人の気配はなかった。
週末を利用して、ヒイアカとどこかに行ったのだろうと、ノヘレは自分に言い聞かせた。
月曜の今朝、もう一度様子を見に来たノヘレは、今度ははっきりと異変を感じた。薄い、立て付けの悪いドアの間から漂って来る匂いに、慌てて家へ駆け戻って通報した。
「あの匂いは、ベトナムでさんざ嗅いだんだ」
ノヘレは肩を落とした。
悲嘆に暮れるノヘレを慰めながらクリストファーは、ヒイアカという女性を至急手配しなければならないと考えた。
殺人に関わっている可能性が大きい。あるいは連れ去られた可能性もある。
似顔絵の作成の事をノヘレに尋ねると、おそらく大丈夫だろうという答えが返って来た。すぐにでも本署に来てくれるようにと頼んで、クリストファーは文字通り腰を上げた。
マホエのピックアップ・トラックの手配も必要だ。白のフォードで五、六年前のモデルだ。
室内にグラスは四つあった。被害者二人に、ヒイアカはもちろんだが、残る一人は誰だ。その残る一人がマホエとマラナを殺害し、ヒイアカを連れ去ったか。
「もう一人の被害者ですけど、やはり家族から届けが出ていたそうです」
後ろからジャスティンが低い声で告げる。自然に眉間に皺が寄るのを感じた。
「連絡は?」
「頼んであります。本署に来てくれるようにと」
本署に戻ったら、早速その家族との対面だ。クリストファーは砂浜を革靴で歩いているような重さを味わった。