第十二話・察知
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、河野由樹とヒイアカがマノア滝で壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノは、奇妙な夢を見るようになる。
祖父の霊の助けを得て、それが「悪いもの」と呼ばれる悪霊の仕業だった事を知ったジャスティンは、河野の友人北本祐司の言葉で、河野が悪霊の一部になった事を確認する。「悪いもの」が傷害犯ナカヤマに移ったかと気にしている内に、別件で逮捕されたチョンが河野の過去を語りだす。
そうかと思うと今度は、南の島にいた。
来たかった場所に来られたと思ったのは、ほんの一瞬だった。
陽の傾いた浜辺で、大柄な女達が口々にチョンを罵った。彼女達はポリネシア系に間違いはないのだが、ハワイの人間ではないらしく、これも何を言っているのかさっぱり分からない。
チョンの背は低い、というか子供になっているようだ。
女達の一人が、足元の砂をつかんでチョンに投げ付ける。思わず目を閉じた途端に足元がふらついて、倒れてしまった。腹が減っている。
立ち上がる事も出来ずにいると、女達は何か言いながらも去って行った。その背中に、転がっている木切れを突き刺してやりたかった。
でも、あまりに腹が減っていて、動く事もままならない――
「この三日くらい、毎晩そういう夢を見るんです。誰かが俺を怒ったり、憎んだりしている。叩かれた夢の後に、顔が腫れていたこともありました。ガールフレンドに話したら、精神科のお医者へ行こうって。寝てる間に自分でやってるんだろうって。でも、彼女が俺を馬鹿にしているような気がして、それでケンカになったんです」
困惑した口調のまま、多少上目遣いになってチョンはそう結んだ。
間違いないだろう。「悪いもの」はチョンの中にいた。
「あの、それで、この話がなにか」
怯えた表情でチョンが尋ねる。それでジャスティンは、自分が力んだ顔つきでいた事に気がついた。ライアンも怪訝そうな顔をしている。
何か言い訳を考えなくては、と思った時に、クリストファーが咳払いを一つして口を開いた。
「いや、参考になりました。というのはね、君の夢は多分、先日死亡したヨシキ・コーノとヒイアカの事件の影響だよ。事件は終わったけれども、それに関する悪夢を見る人は多い。大変な事件だったから、人心に及ぼす影響があるだろうと心配している精神科のお医者から頼まれていてね。といっても、申し訳ないが、君の事件をコーノとヒイアカのせいには出来ないんだが」
「ああ、そうですか。じゃあ、俺はやっぱり疲れていたんでしょうね」
チョンは深い溜息と共につぶやき、ネビルは「そんな話は聞いてない」という一瞥をジャスティンに投げた後、作った納得顔をチョンの方に向けていた。
保釈申請や、裁判についての型通りの説明をして、取調べは終了した。時計は午前三時半を示している。
質問も非難がましい文句も言わず、タクシーで病院まで来たライアンは、今度はパトロールの警官に送ってくれるようせがんで帰って行った。
しかし、別れ際に「後で教えてくれるんだろ」と耳打ちするのは忘れなかった。
署内は段々と静かになりつつある。いつもの土曜の早朝だ。
チョンの事件の報告書は、複雑にはならないだろう。シフトが終わる前に仕上げてしまう事は可能だ。
はた目には仕事でストレスの溜まった青年が、不幸にもバーのウェイトレスに怪我をさせてしまった傷害事件だ。
犯人は犯行を認め、反省している。被害者についてはアメリカに滞在している身分について調査の必要があり、移民局に要請の予定。また、事件現場となったバーの従業員にも同様の調査の必要が認められる、といった所だろうか。
それよりも書類には決して記載出来ない事が、ジャスティンの腹に黒く溜まっていた。
後頭部で警報が鳴っているような気がする。悪い事が起きる前触れのそれだ。
「さっきの質問はひょっとして、FBIの関連ですか?」
廊下を歩きながら、ネビルが小声でクリストファーに尋ねる。ジャスティンは冷やりとした。クリストファーがとっさに言い訳を考えてくれて、チョンは納得していたけれども、同業者はそうは行かない。
「分かったかい、やっぱり」
極めて平坦な調子でクリストファーが答えたことで、ネビルはなるほどと頷き、ジャスティンは胸を撫で下ろした。
事件が州の中で終始したことで、捜査自体に関わる事こそなかったが、FBIも今回の連続殺人事件には並々ならぬ興味を示している。
国内の司法機関はFBIの指導に沿って活動するため、様々な報告が義務付けられており、今回の事件に関してはクリストファーと課長のジェイソンが責任者となって報告書作成にあたっていた。
「妙な調査もあったもんですね」
ネビルが都合の良い誤解をしてくれたお蔭で、ライアンへの言い訳も出来た。同じ事を言っておけばいい。
「えらい研究者の考えることは分からんよ」
のんびりとした声で言ってから、クリストファーが付け足した。
「コーヒーが欲しいな。年を取ると夜はこたえるよ」
コーヒーがカップの半分ほどになった時、トイレに立ったネビルの目を盗んで二人はようやく「悪いもの」について話す事が出来た。
「どうしましょう。あれはやっぱり『悪いもの』ですよ。でも、もうチョンの中にはいない。また誰か別の人間へ移ったんです」
「そう考えるのが妥当だろうな。全く、長いこと警官をやってると色んな事件にぶつかるよ」
デスクに肘を突いて顎を撫でたクリストファーは、溜息と共にジャスティンの瞳を見つめた。
「『悪いもの』自体を追いかける事は、警察の仕事じゃないが、君はどうするつもりだ? 何か考えがあるかい」
そう言われると、今度はジャスティンが溜息を吐く番だった。意気込みだけはあるが、明確な方針はない。「悪いもの」の追跡をする一方で、カフナを紹介してもらって連絡を取り、相談してみようと思っていたに過ぎない。
自分は幸いにして大事にはならなかったし、ジェイク・ナカヤマもエドワード・チョンも傷害事件こそは起こしたものの、殺人には至っていない。
ある仮説を思い付いて、ジャスティンは体を震わせた。
「悪いもの」が次々と移動するのは、適合する宿主に巡りあっていないからではないか。
奴がしたいのは傷害よりも殺人で、だからナカヤマやチョンが捕まったとなると、別の宿主へと移動する。ただのウイルスよりも性質が悪い。
「事態を静観、という訳にはいかないでしょうね。このままだと別な『切り裂きジャップ』が現れるかもしれません」
答えになっていない答えを口にした後で、やっと今、出来る事があるのを思い出した。昨日、ユージと電話で話したことだ。
彼はジュニアが「夜中から明け方まで」仕事をしていると言っていた。つまり今、ジュニアはキングダムにいるという訳だ。
今夜の騒ぎですっかり忘れていた。
クリストファーに会ってもらう必要はなくなったが、チョンに接触した人間をジュニアに会わせれば、少なくとも誰に移動したかは分かるかもしれない。
ちょっと抜け出せませんかね、というジャスティンの提案に、クリストファーは苦笑して首を振った。
「二人で連れ立って抜けわけ訳にはいかないよ。ネビルには適当に言っておくから、君一人で行って来いよ」
事件が起こったら連絡するから、飛ぶように帰って来いよ、と付け加えられてジャスティンはそそくさと捜査課を後にした。
ジャスティンは市内を西から東へと流れるキング・ストリートを飛ばした。
カラカウア・アベニューから車をキングダムの敷地内へ入れると、エントランス脇のベンチに大きい影と小さい影が並んで見えた。大きい影は言うまでもなくジュニアだろう。
車寄せの端に停めたジャスティンに駆け寄って来たのは、小さい影の方だった。小さいと言ってもジュニアに比べての事だ。ジャスティンと大して変わらない身長の男は、一瞬戸惑った顔をして、それからどこかが痛いような顔になった。
ユージもこのシフトだとは知らなかった。
「何かありましたね」
こんな時間帯だから何かあったと思うのは当然だし、警官がいいニュースの運び手になる事はまずないけれど、ユージの顔はあまりに悲愴で、ジャスティンは自分が悪い事でもしたような気分になった。
「そう。それでジュニアに相談があって来たんだ。仕事中に悪いけど、話をさせてもらっていいかな」
「大丈夫でしょう。この時間帯はまずお客も来ませんから」
エントランスの方を振り向くと、ジュニアはもう数段ある階段を下りて来るところだった。
「こんちは、オフィサー。すんごくこんがらがった酷い事件じゃなかったのだけは、救いでしょ」
ユージとは対照的で、微苦笑さえ浮かべながら、ジュニアは奇妙な挨拶を投げてきた。
「何でそんなことが分かる」
「だって、すんごい事件だったら、あんたはここに来られんもの。捜査で忙しかって」
「忙しい最中だから、こんな時間にやって来たとは考えないのかい?」
ジュニアの言っている事は当たっていたけれど、試すような気持ちで言ってみた。真顔でジュニアは首を振った。
「だって、なんか起きやったのは十二時頃だったでしょうが? 今、四時だよ」
断定的なジュニアの口調に、思わず背筋が寒くなった。確かに通報が入ったのは零時を少し回った頃だった。
言葉を返せずにいるジャスティンにユージが脇から告げた。
「本当に十二時頃何かあったんですか? シフトに入って来た時、こいつ、空気が臭くてしょうがないって、絶対何かあるって言い張ったんですよ」
そういえば、以前カイムキのレストランで会った時、ジャスティンに「悪いもの」はもういない事を言うのに、彼は「臭わない」と言っていなかったか。ジュニアには特殊な嗅覚がある。
改めて自分が知らなかった世界に関わろうとしている実感が生まれた。
ジャスティンは今夜の事件を、簡単に二人に説明した。