第十一話・連鎖する夢
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、切り裂きジャップこと、河野由樹とヒイアカがマノア滝で壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノは、毎夜妙な夢を見るようになる。
祖父の霊の助けを得て、それが「悪いもの」と呼ばれる悪霊の仕業だった事を知ったジャスティンは、悪霊の一部は河野の意識だという事を、河野の友人北本祐司に聞かされる。「悪いもの」が前日に起きた別件の犯人、ナカヤマに乗り移ったのではないかと気にするジャスティンは、さらに起こった傷害事件の現場のコリアン・バーで、関係者から事情を聞く。
先に到着していたネビルが、被疑者は既に取り調べ室に移されていると知らせに来た。
「ライアン、分かっているとは思うけど」
部屋の前でクリストファーが、柔らかくライアンに声をかけた。
本来ならライアンはこの事件の担当ではないから、聴取に立ち会う必要もないし、見方を変えれば首を突っ込んでいるとも言える。
しかし、通訳を頼むために、他班で非番の彼を引っ張り出したのはクリストファーだ。
「もちろんですよ、私は口をはさんだりしません。万が一、韓国系同士でしか理解出来ない問題が絡んで来た時だけ、お手伝いします。もしも顔見知りでも、庇ったりするつもりはありませんし」
出来た答えに、クリストファーは満足そうに頷いた。このそつのなさが、ぶっきら棒なレイモンドといいコンビなんだろう。
我が身をふり返って見ると、クリストファーと自分はコンビというより教師と生徒のような気がする。
煌々と明かりの点いた室内には、制服警官に付き添われ、男がうなだれて座っていた。ベージュのポロシャツには血の染みが生々しい。
スチール製の机をはさんで、クリストファーが向かいの椅子に腰を下ろすと、男は初めて顔を上げた。頬や唇が腫れ上がってきている。怯えたような瞳は「ローズガーデン」で見た時のままだ。
急に背後から「ああ」とライアンが声を上げた。懸念した通り、顔見知りかとライアンの方を見ると、彼は眉間に皺を寄せて男を睨んでいる。
「この間、会いましたね。アラモアナのコンドミニアムに男が押し入ろうとした時ですよ。あなたが協力してくれましたよね。あなた……」
よく通るライアンの声に、男は居場所がないように身を縮め、再び顔をうつむけてしまった。ジャスティンは慌ててライアンを振り返った。
「それって、ジェイク・ナカヤマの事件かよ?」
そうだよ、と屈託なく答えるライアンの涼しげな顔を前に、ジャスティンの血圧は一気に上がった。
自分から追い払われた「悪いもの」が、クリストファーを経由してジェイク・ナカヤマへ行ったというのは仮説だったが、ジェイク・ナカヤマに接触したこの男が事件を起こしている。
今、目の前にいる男は明らかに自分の行為を恥じ、これからの処遇を案じている。
「悪いもの」は、最早この男の中にはいない可能性が高い。事件直後に取り押さえられた際に、男から出て行ったのだろうか。
とすれば、駈けつけた警備員やパトロールの警官に乗り移った可能性も高いが、それらしいそぶりを見せた者はいない。居合わせた客か、従業員かもしれない。
もっとも自分を含めて、「悪いもの」に憑かれてすぐに暴力的になるとは限らない。例外はジェイク・ナカヤマだ。しかし、ジェイク・ナカヤマに「悪いもの」が移ったと断定も出来ないし、となるとこの男の暴力が「悪いもの」のせいだとも言い切れない。
一体、ジュニアのような能力がない以上、どうやって「悪いもの」の追跡をしたものか。
「他の事件のことは置いておこう。まず、あなたの名前を聞きましょう」
恐ろしい勢いで考えを巡らせていたジャスティンを我に返らせたのは、落ち着き払ったクリストファーが、男にかけた言葉だった。
ジャスティンは鼻から息を吐き出した。今は警官としての仕事をきちんとしなくてはならない。
「エドワード・チョンです。あの、俺がケガさせた彼女、どうなんでしょう。死ぬなんてことは……」
自分の名前は蚊の鳴くような声で言ったが、その後は聞き取りやすい話し方でチョンは尋ねた。傷害の相手の容態を気にする点からすると、まず精神は安定していると考えていいだろう。
クリストファーが命に別状はないらしいと彼を安心させてから、聴取が始まった。
エドワード・チョンの勤務先はわざわざ聞くまでもなく、例の高級コンドミニアムで、複数いる管理人の中でも、彼はまだ新入りの雑用専門だそうだ。
昨夜は自宅で飲み始めたものの、ささいな理由でルームメイトと口論になり、外出した。彼の住まいは勤務先に近いが、値段は格段に違うアパートで、ルームメイト二人と共同生活を送っている。
車を持たないチョンは、通勤に使っているマウンテン・バイクでケエアモク・ストリートへ向かった。
「はじめから、『ローズガーデン』へ行くつもりだった?」
「ええと、自転車にまたがったときに、あそこにでも行こうかと。近いし、前に友達と行ったことがあったし……。昨日の昼間、ガールフレンドとケンカしちゃってたんで、女の子に優しくして欲しかったんです」
声音はおどおどとしているものの、質問には至極従順に答えている。クリストファーが穏やかで親切そうな口調で尋ねているせいもあるだろう。ジャスティンはせっせとメモを取った。
「『女の子に優しくして欲しかった』というのは、一晩付き合ってもらうことも考えていた? まあ、若い人にはそういう事もよくあるよね」
さり気ない口調でクリストファーが繰り出した質問は、病院の駐車場でローズ・ユンが言っていた事の裏付けを取るためだろう。しかし、この手の質問に、はいそうです、と答える人間は少ない。
例に洩れず、チョンも身振り付きで否定した。
「そ、それはないです。ケンカしたって言ったって、ガールフレンドと別れたわけじゃないし。ルームメイトとも気まずくなっちゃったから、ただ誰かとケンカせずに話したかっただけです」
「でも、喧嘩になった。というよりも、君が怒ったらしいが」
一瞬だけ力の入ったチョンの体から、がっくりと力が抜けた。それに向き合っているクリストファーは肩も動かさない。
その通りです、と再び小さい声に戻ってチョンは答えた。
店でチョンの隣にやって来たのは、初めて見るジョイだった。彼女は英語があまり達者ではなかったから、当然会話は弾まなかった。チョンは三世で、韓国語は挨拶くらいしか知らない。
その内ジョイは、チョンが韓国系なのに韓国語を解さないことをけなし始めた。
「韓国の女と親しくしたいんだったら、言葉くらい覚えろと言われました。俺の親は、子供に母国語も教えられない阿呆だ、とも」
額に脂汗を浮かべて、チョンは言葉を搾り出していた。なるほど、それは頭に来るかもしれない。もし、自分が日本人の女の子に同じ事を言われたらどうするだろう。ジャスティンはペンを動かす手を緩めた。
日本語は先祖の言葉ではあるけれど、ジャスティンにとって母国語は英語だけだ。黙って立ち去るだろう、自分なら。
今の自分なら。
「それで、腹を立てて彼女を刺した、と? とっさに手が出るんだったら、殴りそうなものだけどね」
クリストファーの口調は変わらない。ええと、と言ってチョンは額の汗を手で拭った。
「すみません、よく覚えていないんです。この女、俺を馬鹿にしてやがる、と思って、わけが分からなくなっちゃって、気が付いたら彼女の腹を刺していたんです……、あの、本当に申し訳ないことをしました」
「君は短気な方なのかな? レシービング・デスクでの登録によると、これまで警察の世話になったことはないようだけれど。それとも飲み過ぎた?」
「短気だとは思いません。店ではビールを少し飲んだだけで……。ここ何日か、すごく疲れてイライラすることが多いんです」
長身の体を縮めるようにして、チョンは苦しそうに机の上を見た。汗が滴り落ちた。ふうん、と言いながら、ふいにクリストファーが上半身を捻って振り返った。
「君たち、何か彼に聞きたいことは?」
聞きたい事は勿論ある。しかし、ネビルとライアンの前でそんな質問をして、どう思われるだろうか。ネビルが簡単に、ありませんと言う。躊躇の後に、ジャスティンは口を開いた。
「疲れるようになってから、夢を見ますか」
は、という声と共にチョンは顔を上げた。質問の意味か、あるいは意図が分らないようだ。言葉を変えて、ジャスティンは同じ質問を投げた。
「だから、妙な夢を見たりしませんか?」
言いながら、慎重にチョンの顔を見守った。
犯罪心理学にでも興味のある警官の奇妙な質問を、立場が良くなるように利用しようと、チョンが考えないとは言い切れない。
それでなくともこんな状況で、質問される側は、どうしたって質問者の求める答えを返そうとするものだ。
しかし、チョンの白い顔に立ち上って来た表情には恐怖と書いてあった。
「何を知ってるんです?」
「見るんですね。どんな夢ですか」
「なんでそんなこと聞くんですか? 今晩のことと関係があるんですか」
ヒステリックではないけれど、チョンは明らかに狼狽していた。彼は確かに妙な夢を見ている。どうしても夢の内容に踏み込みたかった。
「質問されたことに答えて下さい」
静かだが有無を言わせない声で、クリストファーが言った。
「あなたがどんな病的な夢を見ていたところで、不利にはなりませんよ」
チョンは渋々といった様子で話し出した。行った事のない場所、会った事のない人の夢を見る。
――アジアの大都会の夢だ。
最初はソウルに違いないと思うのだが、街に溢れる看板の文字がハングルじゃない。テレビで見たことのあるトーキョーかオーサカか。
殺人的に混んだ電車は最悪だ。
大きなオフィスビルの中で、嫌味な顔の男がチョンを罵る。言葉は分からないが、口調があまりにも乱暴だ。目の前にあるぶ厚いファイルを、こいつの顔に叩きつけてやれたらいいのに。
別の場所では、きれいな女が文句を言う。髪を引き抜いてやりたい。腹が立って苛々しながら、またとんでもなく混んだ地下鉄に乗る。
やっと降りて歩いた地下道に、南の島のポスターが貼ってあった。ハワイではないようにも見えるし、書いてある文字の意味は分からない。
ただ、殴りつけられたようにはっとして、泣きたい気分になった。
もう一刻も我慢がならない気がする。
今すぐあそこへ行きたい。透明な海に飛び込んで、暑い日差しと爽やかな風に体をさらしたい。
ここへ行けば、きっと赦されて、きれいになれると強く思った。
ポスターの前から立ち去るのは難しかった。