第十話・コリアン・バー
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた連続殺人犯、切り裂きジャップこと、河野由樹とヒイアカがマノア滝で壮絶な最期を遂げた後、警察の担当官だったジャスティン・ナカノは、毎夜妙な夢を見るようになる。
祖父の霊の助けを得て、それが「悪いもの」と呼ばれる悪霊の仕業だった事を知ったジャスティンは、悪霊の一部は河野の意識だという事を、河野の友人北本祐司に聞かされる。「悪いもの」が前日に起きた別件の犯人、ナカヤマに乗り移ったのではないかと気にするジャスティンは、さらに別な傷害事件で出動する事になる。
店内に戻ると、クリストファーがネビルと手分けして客から事情を聞いていた。警備員はソファーに腰かけて、ボトル入りのミネラルウォーターを流し込んでいる。
「そこにあったんですよ。いいでしょ? なんなら後でオーナーに代金払ってもいいけど」
目が合うと、悪戯っぽく笑ってジャスティンに言い訳した。
「いや、それには及ばないでしょう」
言いながら警備員のそばに腰を下ろす。ポケットから手帳とペンを取り出して、ジャスティンは質問を始めた。
警備員の名前はアンディ・カラリヒ。大手の警備会社アロハ・ガードには、勤続二十年だそうだ。事件が起こった際の行動は、先ほど彼が自分で説明したのと大して変わりはなかった。
「あなたが踏み込んだ時、犯人はまだ暴れていましたか」
「そりゃ、もう。半分に割れたビール瓶振り回して、でっけぇ声出してました。瓶の割れたとこが血で濡れて、ね。気味が悪いのなんのって」
「どうやって取り押さえたんです」
「近くにあったチップスの皿とか適当に投げつけたんです、よ。そんで突進して殴ったら、大人しくなったです」
「ほう、そりゃ勇敢だ」
「あんた、何てったって生粋のハワイアンだから、ね。酔っ払いの韓国系なんざちょろいですよ。俺んちはハワイの王族の血が入ってんだから。今はしがねぇ警備員だけど、ね。けど、先祖代々住んでる俺らが安い給料で、ビルん中うろうろするだけの仕事してるってのに。ねぇオフィサー、ここんちの女の子なんてね、不法労働者ばっかりですよ。全くむかつく話じゃないですか」
最後の方は憤懣やるかたないといった風情でカラリヒは訴えた。彼の言う事はもっともだけれども、残念ながら今はハワイアンの権利について話し合っている暇はない。
必要があったら、アロハ・ガードを通じて連絡するとジャスティンが告げると、カラリヒはやれやれと腰を上げた。
「ああ、会社の報告書を書かなけりゃ」
ちょうどクリストファー達も、客への事情聴取が終ったようだった。
肩を窄めてドアから出て行く数人の男達を見送り、クリストファーにカラリヒに聞いておく事はないかと尋ねる。簡単に「今日のところはいいだろう」という返事が帰って来た。
「そうですか、そんじゃ、また」
巨体を揺すってカラリヒは大儀そうに足を出口に運んだ。
「クリストファー、私が犯人を本署まで連行しましょう。レシービング・デスクでの書類作成も進めておきます」
カラリヒが見えなくなると、ネビルが口を開いた。クリストファーは満足げに「頼むよ」と手を振り、ネビルは軽い足取りで出て行く。
ネビルと入れ違いに、さっきクリストファーが頼んだ警官が、待たせておいた店の男を同行して入って来た。ネビルが入るように言ったのだろう。外は涼しかったはずなのに、男の額に汗が光っている。
落ち着かない素振りの男に、クリストファーがソファーを勧めた。
「あなたがあの女性を傷付けたわけではないでしょう。落ち着いて下さい」
「ええ、そ、そうですね、そうなんだ」
やはり緊張は解けないようだ。男はしきりに掌の汗をズボンに擦り付けている。クリストファーは穏やかな声で尋ね始め、吃ったり言い違えたりしながら男は答えた。
男の名前はヒージェー・リー。このバー、「ローズガーデン」ではバーテン兼ウェイターとして働いている。
「被害者はジョイと呼ばれていたと、お客の一人に聞きましたが、彼女の本名は?」
「し、知りません。彼女がジョイと名乗ったんで、そう呼んでただけで。それに彼女は働き出して一ヶ月くらいだし」
「では、他の従業員の名前は知ってるんですね」
「そ、それが、ここじゃ皆、英語の名前を名乗ってて、それが本名かどうかは知りません。でも、あの、韓国系は皆、ニックネームを名乗りたがるんです。だから、あの……」
「そうですか、質問を変えましょう。あなたは犯人の男を知っていますか。彼が以前にもここへ来たとか?」
「一回来たと思います。名前は知りません」
「それはここ一ヶ月、つまりジョイが働き出してからのことですか」
口を開けて上を向き、少し考えてリーは答えた。
「ジョイが接待していたのは、覚えていませんね」
「他の従業員にも話を聞きたいんですがね、ご覧の通りあなた以外は誰も残っていない。名前と連絡先を教えてもらえますか?」
「知らないんです。わ、私はここに働きに来てただけで、他の従業員とは付き合いがなかったもんですから」
急にリーは甲高い声を出した。カラリヒが言っていた不法就労は、まず本当だろう。
クリストファーがリーをなだめ、店の責任者かオーナーが知りたいと言うと、ほっとした調子でリーは答えた。
「救急車に乗って行った女性がオーナーでマネージャーです。名前はローズ・ユン。彼女に聞いて下さい。あの、彼女はあんまり英語が得意じゃないですけど」
何か盗むような目付きをしたリーに、クリストファーはにこやかに告げた。
「通訳を用意しますよ」
そしてジャスティンに向かって、短く「ライアンに電話」と命じた。
大股で店の外に出ると、ジャスティンは携帯電話を取り出した。金曜の夜でもライアンが羽目を外すという事は、まずない。もっとも万が一ライアンが駄目でも、本署から通訳を出してもらえば済む。
「事件かい? 兄弟」
数回のコールで出たライアンの後ろからは大勢の人の声がする。しかし彼は極めて冷静な声を出していた。ジャスティンからの電話ですぐに事件かと思ったのも、きちんとシフトを覚えていたからだ。
簡単に事情を説明し、制服警官から聞いた病院名を告げると、ライアンは十分で行くと言って電話を切った。
店に戻ると、クリストファーがリーへの聴取を締め括っていた。連絡先を尋ねた後、帰ってもいいと告げられると、リーはやっと気がついたように額の汗を拭っていた。
制服警官達は元の持ち場へ復帰するようにと指示が下り、ジャスティンはクリストファーと一緒に、被害者の収容された病院へ向かった。
ライアンは言った通りに、十分で現れた。
ローズ・ユンは待合室にいた。店の前にいた時は気が付かなかったが、明るい蛍光灯の下で見ると、目を剥くような紫のワンピースを着ている。他にも患者や付き添いがいるため、事情を聞くのは緊急外来の入り口に面した駐車場になった。
ライアンが韓国語を話すと分かるや否や、ローズ・ユンはマシンガンのように喋り出した。
クリストファーが口をはさむ暇もない。
「クリストファー、私は被害者の傷の程度を聞いてきます」
立ち会っていても自分に出来る事はなさそうだ。ジャスティンはクリストファーに耳打ちして病院の中に入った。バッジを見せて、受付を通過する。
ちょうど歩いて来たナースが「どうしました」とジャスティンの顔を覗く。ジョイの容態について尋ねると、今はまだ手術室に入っているけれども、命に別状はないだろう、との答えが帰って来た。
外に出ると同時に、クリストファーが軽く手を上げた。
「彼女の容態は?」
ジャスティンはナースが言っていた言葉をそのまま伝えた。ローズ・ユンが顔をこちらに向け、韓国語で何か言った。おそらく喋る事は苦手でも、聞けば理解するのだろう。思わずライアンを見ると、彼は苦笑交じりに「治療費は加害者が出さなきゃいけないってさ」と低い声で教えてくれた。
「もういいだろう。彼女にはまた連絡すると伝えてくれ。大変参考になったともね」
眼鏡を外してクリストファーが言った。穏やかな口調だけれど、内心はそうでもなさそうだ。
本署に戻る間にライアンが、ローズ・ユン側からの事件のあらましを伝えてくれた。
犯人が「ローズガーデン」にやって来たのは午後十一時頃だった。
羽振りが良さそうでもなかったので、隅の席に新入りのジョイを付けておいたところ、一時間ほど経っていきなり怒り狂ってテーブルを引っくり返した。
彼が怒り出したことに他の従業員や客が気付いた次の瞬間には、彼がジョイに割れたビール瓶を突き刺していた。
男はそれまで、一度か二度、「ローズガーデン」に来た事はあるが、特に印象には残っていなかったらしい。韓国系とは思われるものの、英語以外は使用していない。
彼が突然暴れ出した原因について、ローズ・ユンは全く心当たりがないそうだ。ジョイとは初対面で、店外で交際していた事実はないと、それははっきり断言した。
おおかた、今晩付き合えと迫ってジョイに断られ逆上したのではないか、というのが彼女の意見だ。
被害者のジョイは、本名ソーヨン・キム。知人の、その又知人の紹介で、店には手伝いで入っていただけで、正式な雇用関係ではないと言い張った。
不法就労を摘発された時の雇用者は、まずそう言って切り抜けようとする。違法な雇用が摘発された際、雇用者への罰金は莫大だし、その後の警察や移民局のチェックも厳しくなる。
唾を飛ばして言い訳するローズ・ユンに、ライアンはずいぶん閉口させられたらしい。
それだけの事を聞く間に、車は本署に到着した。金曜の夜の警察署は、かなり賑わっている。




