第四話・事件再び
〈これまでのあらすじ〉
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。警察の聴取を受けた祐司は、河野の行方が知れないことから、彼からの連絡を期待するが、電話はない。焦れてホノルルの街中を走り回った後の祐司に、ホノルル警察から河野の遺留品が浜辺で見つかったとの電話が入った。
殺人事件が起きた翌日の午前中、クリストファー・サトーはオフィスで、いくつかの書類に目を通していた。犯罪捜査課のオフィスはいつも通り、少々騒がしい。
同じように十数年前に立てられた庁舎のエアーコンディショナーは、たいてい強すぎるか弱すぎるかのどちらかで、ほど良いという事がない。
まず最初に手に取ったのは、昨日、幸運にも発見されたシャツとスリッパの血液鑑定だった。発見した警官の話によると、シャツはホテルから少し離れた波打ち際に漂着しており、スリッパはホテルの敷地から砂浜へ入る境界のあたりに、脱ぎ捨ててあったらしい。
思った通り報告書は、シャツにはルミノール反応が見られ、スリッパに付着していた血液がヒロミ・コーノのものと一致すると簡潔に書かれてあった。
スリッパの主が入水したとは限らない。保安部の第六地区にあたるワイキキ地区にも、身なりの汚い日本人に気を付けるよう頼んである。
しかし、逃げるつもりなら、わざわざシャツやスリッパを脱がなくてもよさそうだ。スリッパを履いたまま、ビーチにある公共のシャワーを使うなりすれば良かった筈だ
クリストファーは、昔、テレビの日本語放送で見た古い映画を思い出した。
日本人は自殺する時、履物を脱ぐのだ。日本人の自殺やそれに類する事件を扱うのは、これで何度目だか知れない。何度目かは忘れてしまったが、その度あの映画を思い出すのだ。
うんざりしながら、もう一つの報告書を取り上げる。読む前から分かっていた。
ヒロミ・コーノの検死結果だ。直接の死因は咽喉を切り裂かれ、頚動脈を切断された事だった。彼女の血液から薬物は検出されていない。被害者はベッドに横になっているところを馬乗りになられて、咽喉を深々と掻き切られた。
当然、声も出せなかったに違いなく、だから昨夕、隣室の815号室に宿泊していた客が、不審な物音は聞こえなかったと証言したのだ。
813号室は空いていた。夫以外の犯行だったならば、被害者が声もなく殺される訳がない。
咽喉以外の傷は、被害者が死亡、あるいはそれに限りなく近い状態で付けられたもの、と報告書は続いていた。
これにはほっとした。職業柄、無残な遺体は何度となく見ている。ロスアンジェルスやニューヨークの警官に比べれば、物の数ではないのかもしれないが、それにしたって結構な数だ。
その経験の中でも、今回のそれは酷い。あの傷を付けられている間、被害者が何も感じる事が出来なかったのはせめてもの救いだろう。それ程に遺体の損傷は甚だしかった。
脇腹、太腿と、胸部の肉が抉り取られている。凶器は缶切りなども一緒になっているアーミーナイフ。これは早々にホテルのバスルームで回収した。
凶行のあった昼間に購入されたものだ。破り捨てられたパッケージも室内にあったし、レシートはご丁寧にも被害者のハンドバッグに折り畳まれて入っていた。
クリストファーは書類から目を上げた。
近頃、眼鏡をかけても細かい字を読むのが苦痛になっている。溜息を吐いて、椅子の背凭れに体を預けた。
今回の事件は、ヨシキ・コーノが妻を殺害して自分は自殺したのに違いない。沿岸警備隊が彼の遺体を見付けられるかどうかは分からないが、捜査自体は終了と言ってもいいだろう。
苦々しい気分の中に、ほんの一抹の安堵を覚えながら、クリストファーは立ち上がった。さすがに昨夜はあまり寝ていない。コーヒーが欲しかった。
スナックルームで専用のカップになみなみとコーヒーを入れると、再びデスクへ戻る。オフィスでの飲食は基本的には禁じられているが、守る者は誰もいない。
熱いコーヒーを啜りながら、クリストファーは先程感じた安堵をもう一度引っ張り出した。今回の事件が、日本人観光客を狙った犯罪でなくて良かった、というのが安堵の正体だ。
日本人観光客や留学生を狙う犯罪は後を絶たず、イメージ悪化は観光業界の低迷、つまり経済そのものの悪化に直結する。これまで観光局や日本国総領事から、要望や要請が警察に寄せられたのは、一度や二度ではない。
今回はそれがない。
熱い液体が咽喉から胃へ流れて行くのを心地良く感じ、同時に「何だ俺は」という気分が何処からか湧いて来た。
数年前までなら、こんな風に簡単に胸を撫で下ろしたりはしなかった。もっと違う痛みの方が大きかった。これが年を取るという事だろうか。あれほど無残な遺体の検死報告を読んだ後で、安閑としているのは、どこかが鈍くなっているのに違いない。
あとどれ位したら自分は引退すべきだろう。妻の顔が思い浮かんだ。
退職する日がずっと先のいつか、でなくなってから、妻は日本へ旅行する事を言い出した。退職したら、それまで頑張って来たご褒美に日本へ行くのだ。
「キョートへ行きましょうねぇ、キョートのチェリーブラッサムを見ましょうねぇ」
ちょっと節を付けてそんな風に言う彼女は、クリストファーが制服警官だった頃よりずっと綺麗だ。
妻の咽喉を切り裂いた男も、かつては自分と同じように妻を愛しいと思った日があった筈だ。
どんな事があったとしても、あんな風に遺体を切り刻んだりするのは、とそこまで考えてクリストファーは、自分はさっさと退職した方がいいかもしれないと思った。事件の性質を変えるものではないが、見落としをしていた。書類の残りの部分にはきっと書いてあるに違いない。
遺体の抉り取られた部分は、室内にはなかった。
カップに残っているコーヒーまでが、一気に冷めた気がした。
気分を奮い立たせて、報告書をどう纏めるかについて考え始めるのには大分時間がかかった。
事件発生から四日が経過した。
沿岸警備隊がヨシキ・コーノの遺体を発見することはなかったが、生存も確認出来ないまま、捜査はほぼ打ち切られた。犯人はヨシキ・コーノの他には考えられなかったし、彼は入水したものと判断されたからだ。
彼がヒロミ・コーノを殺害し、遺体の一部を持ったまま自殺してしまった。遺体が発見されないのは珍しい事ではない。ハワイの海には鮫が多いからだ。
クリストファーは事件の担当者という事で、日本から駆け付けた夫婦の遺族に会ったが、彼らが激しく動揺している事しか分からなかった。諍いめいた言い合いをしたのは、きっと母親同士に違いない。
遺体の引渡しに立ち会った警官の話によると、ヒロミ・コーノの両親は、大変な慟哭ぶりだったそうだ。
それはそうだろう。自分だってジョアンの身に何かが起きたら、平静ではいられまい。クリストファーはサンフランシスコの大学院に行っている娘の事を思った。
ヒロミ・コーノの旧姓はヤマグチというのだった。彼女の遺体は昨日、ダウンタウンの外れにある火葬場で灰にされた筈だ。遺族はきっと、彼女の灰をコーノ・ファミリーの墓に入れないに違いない。
コンピューターを前に、クリストファーがぼんやりそんな事を考えていた時に電話が鳴った。
「カリヒで変死体発見。殺人事件だと思われます」
緊張した送信係の声に、それまでの思念は吹っ飛んだ。ついでに明日取る筈だった休みも吹っ飛んだが、それは珍しくも何ともない。
犯罪捜査課の課長は珍しく大風邪を引いて寝込んでいる。課長代理を務めるクリストファーが分担を決めなければならない。
犯罪捜査課は扱う犯罪の種類によって担当が分かれている。強行犯および殺人を担当する班は二つで、本来なら指揮を取るのは警部補の役だが、警部であるクリストファーが一つの班を率いている。
丁度自分の班は、キングダムでの事件のめどが付いたところだ。クリストファーの班は六人編成になっている。内わけは、日系三名、白人二名、ハワイアンが一名の構成だ。行動は二人一組が原則で、最古参のクリストファーが新参のジャスティンと組んでいる。
場所を聞き、鑑識課にも連絡するように頼んで、クリストファーは大声で相棒を呼んだ。
「ジャスティン、休みはお預けだ」
若い相棒は苦笑しただけで、不平らしい顔はしない。クリストファーが彼を気に入っている最大の理由だった。
観光の他に大した産業も持たないホノルル市は、正確には市であり郡でもあるが、決して裕福ではない。必然的にホノルル・ポリス・ディパートメント、通称HPDの予算や人員も限られた範囲になる。
新しい警官を採用して訓練し、やっと慣れて来た頃になって、本土の大きな街に引き抜かれてしまうのは毎度の事で、現在のHPDは、警官一人々々の郷土愛に頼るしかない状況だ。
中でもジャスティン・ナカノは良い人材だと、クリストファーは思う。
最初に配属された保安部では上司の覚えがあまりめでたくなかったらしいが、クリストファーが知る限りでは、辛抱強くて良い警官だ。
一度だけ、あまりにデートをすっぽかすので、ついにガールフレンドに振られたと言っていたけれども、別に愚痴という程の口調ではなかった。彼はハンサムだから、ガールフレンドなんかすぐ出来るだろう。三十を越えたばかりだから、焦る必要もない。
「立て続けに殺人なんて、物騒ですね」
ハンドルを握るジャスティンが、穏やかな声で言った。車は島の東西を結ぶ高速道路H‐1フリーウェイを西に向かっている。
正午近い時間帯なのに結構な渋滞だ。サイレンを鳴らしても、思うように進めない。後ろに続いている鑑識課も苛々しているだろう。
「十七日の事件は、ひところ多かった日本人の自殺と似たようなもんだがな」
最近でも時折あるが、愉しいはずのバケーションに来て、何故か自殺してしまう日本人が多かった時期がある。
単独で死ぬのならばともかく、一家全員で死ぬケースもあった。子供まで一緒にというのは、どうしても解せない。子供が死にたいと言ったわけでもないだろうに。
「そうですか? 夫が妻を殺して、自分も死ぬのは本土でもあるでしょう」
なるほどそうか、とクリストファーは思った。日本人というだけで、ついアメリカ人とは違うと考えがちだが、ジャスティンにしてみればそんな事もないらしい。
カリヒはダウンタウンよりも西側で空港の手前にある地区だ。海沿いには倉庫や大小の会社が立ち並び、山側の住宅地には低所得者用の市営アパートもある。住人はフィリピン系、ハワイアン、サモアン、アジア系など様々だ。
フリーウェイを降り、カリヒ・ストリートを山側に向かう。細い道に右折するとポリス・カーが二台停まっているのが目に入って、そこが現場と知れた。
この辺りにはよく見られる、古い小さな一軒屋だった。近所の住人達が遠巻きにこちらを見ている。
到着する前に集めた情報によると、最初に通報、つまり911があったのは近所の人間からで、「数日前から人の気配がなく、近付くと異臭がする」というものだった。早速、地区のパトロール警官が派遣され、通報通りの異臭に鍵を壊して中に入ると、血の海が乾いて待っていた。
またか、とクリストファーは内心信じられない気分になった。
ほんの数日前に見た光景が甦る。しかし、黙って手袋を嵌めた。ジャスティンもそれに倣う。
被害者は二人だった。
ここ数日、貿易風がなかったせいで腐敗が進んでいたが、それでも中年の男性と知れた。人種は白人やアフリカ系ではないということしか分からない。
二人とも、大した抵抗の形跡もなく、咽喉や胸、腹を刺されていた。着衣はTシャツにショートパンツ。典型的な地元民の服装だ。
写真を撮り始めた若い鑑識課員が、堪え切れなくなったように表に飛び出して行った。吐きに行ったに違いない。
「しっかりしろ。撮影が終わらなきゃ遺体の運び出しが出来ねぇだろ」
誰かが彼を叱咤している声が聞こえる。
犯人は現場から立ち去る際に戸締りをしっかりして行ったらしく、遺体に蝿はたかっていなかったようだが、今は玄関が開け放たれて、かなりの蝿が飛び込んでくる。追い切れたものではないので、一刻も早く遺体を収容しなくてはならない。
クリストファーは辺りを見回した。玄関から繋がるリビングルームは、取り立てて変わった造りではない。板敷きの床にカウチとコーヒーテーブルが置かれている。
少し奥にテレビセットがあり、脇に、あまり大きくないキッチン。奥がベッドルームだろうが、この家の大きさからいって、まずベッドルームは一つだろう。
被害者の一人は古ぼけたカウチに、もう一人は床に倒れていた。どちらの体格もしっかりしている。
「いや、これはまた……」
後ろに続いて入って来たニック・ナハレが小さく呻いた。五十になるニックとは、班の中でも一番古い付き合いだ。
「まさか、顔見知りじゃないだろうな」
「違うね、幸い」
テーブルの上にはコーラとウィスキーの瓶が、グラスと共に置かれていた。グラスの数は四つ。してみると誰かが彼らと一緒に酒を飲んでいたわけだ。相当酔わせて、寝込みを襲ったか。
アルミの粉を使って指紋を採取している鑑識課員が「やぁ、いっぱい残ってるよ」と声を上げた。犯人は指紋も拭き取らずに立ち去ったらしい。クリストファーは意外だった。犯人が時間に追われていたとは思われない。
「クリストファー、ちょっと来て下さい」