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吠える島  作者: 宮本あおば
第二章
35/62

第四話・戦線

〈これまでのあらすじ〉

(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)

 ホノルルを震撼させた切り裂きジャップこと、河野由樹とヒイアカは、多くの犠牲者を出したが、壮絶な追跡劇の末にマノア滝で最期を迎える。

 その場に立ち会った、ホノルル警察の捜査官で日系四世の、ジャスティン・ナカノは以来、毎夜犯人達の過去に関係するかのような夢を見るようになった。日常でも説明の付かない苛立ちに襲われ、仕事のミスが目立ち始める。

 ついに見かねて注意をした上司、クリストファーをジャスティンは殴りつけた。


 ――砲声が轟いていた。見上げた空は灰色だった。所々、濃い煙も上がっている。

 ジャスティンは地面に掘った穴の中にうずくまっていた。掘って間もない土の匂いがする。両手にはいつの間にかライフルを握っている。何なんだ、これは。

 どうやら自分はカーキ色の繋ぎを着こんで、ご丁寧にヘルメットまでかぶっているようだ。

 穴の外から聞こえる銃声や叫び声も併せて、自分は戦場にいるらしいとジャスティンは判断した。とすれば、ここはただの穴ではなくて、塹壕だろう。それにしても装備が古い。

 一体どこの戦場なのかと、外の様子を窺おうとしたジャスティンの肩を誰かが掴んだ。

「よう、兄弟。もうすぐ上等兵殿が帰って来るから、な。それまで出ちゃいけねぇ、よ?」

 明らかな地元訛に慌てて振り向くと、若い男が緊張した顔を向けていた。煤や泥で汚れて、顔は真っ黒だがアジア系と分かる。彼もジャスティンと同じようにライフルを抱えていた。

 その腕が小刻みに震えているのを見て取って、ジャスティンは話しかけた。十フィート四方の塹壕にいるのは、彼とジャスティンだけだ。

「怖いかい?」

「当ったり前だ、お前。けど、手柄を立てれば、もうジャップなんて言わせねぇ。おっ母だの、妹だの、いじめられっから外も歩けねぇってよ。それ思ったら、こんなのは何でもねぇ、な?」

 歯の根も合わないほどに震えながら、彼は笑って見せた。

 これは祖父の記憶だ。

 第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線を転々とさせられた日系部隊に自分はいる。

 兵隊の笑いが終わらない内に、壕の外から何かが飛び込んだ。何かの破片かとジャスティンが目を凝らす暇はなかった。

 続いて大きな鳥が舞い降りるように、人間が壕の中に飛び降りて、飛来物の上に覆い被さった。

「上等兵殿」

 今、話していた兵隊が叫んだ次の瞬間、衝撃がジャスティンを襲った。

 壕の壁にしたたか叩き付けられたが、辛うじて気は失わなかった。

 目を開くと、一目で息絶えていると判る遺体が転がっていた。胸部から下が吹き飛んでいる。兵隊が悲鳴のような叫び声を上げる。

「しっかりして下さい。上等兵殿」

 兵隊の顔にも軍服にも血が付いている。何が起こったのか判断するのに、瞬きほどの時間が要った。

 さっき飛び込んで来た物は手榴弾で、倒れている上等兵は自分の体で爆発を緩和させたらしい。

「死んじゃ駄目だ、よ」

 上半身の半分しか残っていない体に、兵隊はなおもすがっている。吹き飛んだ片足が、壕の縁に無残に引っかかっている。ジャスティンは兵隊のベルトを掴んだ。

「おい、上等兵殿はもう駄目だよ。ここも危ないんじゃないか」

 返事の代わりに、鉄拳が飛んで来た。

「お前、上等兵殿が何をしてくれたか分かってねぇのか」

 畜生、畜生、と泣きながら兵隊は死体の首を探った。認識票を持って行くつもりだろう。認識票を引きちぎり、次いで辛うじて残った胸ポケットを探り、布の袋を取り出した。

 ジャスティンの祖父の物と同じ大きさだ。それらを取りまとめて胸ポケットに収めると、兵隊は立ち上がった。

「俺は前進するぜ。上等兵殿が言ってたよな。自分のために戦えって」

 止める間もなく、塹壕の壁を器用によじ登り彼は姿を消した。すぐにも彼が撃たれて死ぬのではないかと、ジャスティンは慌てて塹壕から首を出した。

 煙と砲声の中、彼の背中はなぜか浮き上がって見えた。他に何人も、銃を抱えて走って行く兵士の姿がある。彼らは力強い足取りで、見えない翼を背に疾走していた。

 見真似で銃を肩に引っかけ、ジャスティンは塹壕から這い出た。

 最後にと、自分の命を助けてくれた人に塹壕の縁から敬礼した。ひどく損傷した遺体は、顔をこちらに向けていた。無念そうな顔ではなかった。

 ジャスティンは、兵士達が向かう方向へと走った。

 緩い坂は、丘に続いている。丘の上からはしきりに敵が手榴弾を投げたり、マシンガンを掃射して来る。

 潅木の茂みや、岩陰に身を隠しながら、ジャスティンは前進した。坂の中腹の窪みに身を伏せて銃を撃っている時に、隣に滑り込んで来た兵士がいた。

「やっぱ、お前は俺の兄弟だぜ、な?」

 塹壕にいた兵隊だった。彼もすぐに腹這いになり、銃を撃ち始めながら、嬉しそうに言った。

「へっ、分かってたんだ、本当はよ」

 彼の白い歯が目に沁みると思った途端、再び気が遠くなった。


 しまった、撃たれたと思いながら、ジャスティンは自分を呼ぶ声を聞いた。

 目を開くと天井と、クリストファーの顔が見えた。自分は仰向けになっているらしい。

「や、気が付いたか。大丈夫かね。まだ私を殴りたいかい?」

 クリストファーの左頬骨の周りが腫れ始めている。ジャスティンは慌てて体を起こした。後頭部と左の頬に痺れるような感触があるが、それ以外は何ともない。

 耳鳴りもすっかり消えていた。

「す、すみません。俺、どうかしてたんです」

 説教されて逆上し、上司を殴りつけるなんて、自分はとんでもない事をやってしまった。謹慎か減俸か、それとも免職だろうか。

「それが、私もどうかしてるのかもしれないんだ」

 床に足を投げ出して座ると、クリストファーは苦笑した。

「君が私の上に乗っていた時に、急に気を失っただろう」

 そうだ、その時はクリストファーを死ぬほど殴ってやろうと思っていた。しかし、今はどうして自分がそんな事をしたのか分からない。

 苛立ちはきれいさっぱりなくなっていた。

 ええ、と返事をしたジャスティンに、クリストファーはさらに引きつった笑顔を向けた。

「信じないと言われても当然だが、兵隊がね、陸軍だと思うけど、君を銃の台尻で殴ったんだよ」

 あまりにも予想外な話に、ジャスティンは口を開けてしまった。

 兵隊なら、夢の中で沢山いた。けれどもそれは、あくまで夢の中ではないか。警察署の会議室にどうして突然、陸軍の兵隊が現れるのだ。

「古い装備の若い日系だったよ。それでね、私に謝ったんだ。自分の手は長くないから、この子を悪いものから守り切れなったって。でも、手遅れになる前に追い払ったって。いい子だから見捨てないでくれって、何度も言ったよ。この子って、君のことだぞ」

 夢と現実が入り乱れている。

 ジャスティンは目を見開いた。

「この年になるまで、何というか、幽霊の類とは縁がなかったんだがな……。私が、分かった、と言ったら、彼は消えてしまった。君に似ていたよ、目のあたりが特に」

 クリストファーの声は優しかった。

 夢の中で、あの上等兵が考える間もなく捨て身で部下を庇ったように、マノア滝で犯人と対峙した時、クリストファーは自分の体を楯にしてジャスティンを守ろうとした。計算なんて働かせるような人じゃないのに、どうして一度だって疑ったり出来たのだろう。

 それを教えに、祖父が遠い所からやって来たのだ。

 誰かが自分を心配して守ろうとしている。

「すみません。酷いことをしてしまった」

 顔が上げられなかった。

 クリストファーは寛大に微笑んで赦してくれた。

「君が殴ったなんて言っちゃ駄目だぞ。私が転んでぶつけたんだ。今日はもう早退しちまおう。どうせ、もうじき時間だしな」

「じゃあ、うちに寄って行って下さい。あの、肉がありますから」

 入って来た時とはまるで違ったなごやかな空気をはさんで、二人は会議室を出た。捜査課に寄り、早退する旨だけ告げて部屋を出る。

 課長がクリストファーの痣を見咎めたけれど、二人の雰囲気が穏やかだったので、追求はしなかった。

 玄関に差しかかった時に、保安部の警官が連行して来た酔っ払いとすれ違った。

 背の低いアジア系だ。アルコールの臭いがぷんぷんする。後ろ手に手錠を咬まされているのも無理はない、と思われるほどの泥酔振りだ。体を揺すって大声で何か怒鳴っている。

 最初に気がついたのはクリストファーだった。

「ジェイク、ジェイクじゃないか? 何をしたんだ」

 すれ違いざまに肩を掴まれて、酔っ払いは蹈鞴を踏み、焦点の合っていない瞳でクリストファーを見返した。

「クリス、かい? やぁそうだ、久し振りだなぁ。丁度いいや、助けてくれよ。俺は酔ってないのに、こいつら聞きゃしない」

 これほど大酔して「酔ってない」のなら、この世に酔っ払いなるものは存在しない。ジャスティンはそう思ったが、クリストファーの表情は見えなかった。

「お知り合いですか?」

 ジェイクと呼ばれた男を連行している警官が、渋い顔をクリストファーに向けた。

「こんな昼間っから酔っ払い運転ですよ。カピオラニ・ブルバードを蛇行運転してたんです。危ないったらないですよ」

 ここまで連行するのに、相当苦労したんだろう。続いて言った言葉には溜息が混じっていた。ジェイクは体をよじって大声を上げた。

「俺は、酔っちゃいないって言ってるだろう」

 手錠が耳障りな音を立てる。どうするのかと見守っている内に、クリストファーは右手を振って警官を促した。

「連れて行って、酔いが醒めるまで放り込んでおいてくれ」

 まだ大声で何か叫んでいる男と警官を見送って、クリストファーは頭に手をやり、呟いた。

「やれやれ、レインに電話して教えてやった方がいいかな」

「レインってどなたです」

「弟だよ。今の男は弟と高校の同級だったんだ。どうしちまったんだろう」

 そういえば、以前、クリストファーには年の離れた弟がいるとは耳にした事があった。今は確か、本土にいる筈だ。

 男の話題はそれきりになり、二人はジャスティンの車でアパートへ向かった。


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