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吠える島  作者: 宮本あおば
第二章
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第三話・暴発

〈これまでのあらすじ〉

(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)

 ホノルルを震撼させた切り裂きジャップこと、河野由樹とヒイアカは、多くの犠牲者を出したが、壮絶な追跡劇の末にマノア滝で最期を迎える。

 その場に立ち会った、ホノルル警察の捜査官で日系四世の、ジャスティン・ナカノは以来、毎夜犯人達の過去に関係するかのような夢を見るようになった。日常でも説明の付かない苛立ちに襲われ、仕事のミスが目立ち始める。


 ――みーん、みーんという音が聞こえた。何の音だろう。

 自分は木の下に本を抱えて立っている。日陰なのに蒸し暑い。

 目の前にはグラウンドが広がり、十数人の少年がサッカーボールを蹴っていた。全員アジア系だ。いや、日本人らしい。

 その中の一人で十四番を付けた少年がジャスティンに気が付き、駆け寄って来た。

 紺と白のユニフォームが粋だ。上気した顔で、ジャスティンの肩を叩く。その顔に見覚えがあった気がした。

 何か嬉しそうに喋り、自分の手の中の本を取り上げてもっと嬉しそうな顔をする。それで自分もひどく楽しいのだ。

 場面が変わった。

 紺のスーツを着た若い女がビルの玄関にいて、ジャスティンはそれを後ろから見ている。外は雨が降っている。女は傘を持っていないから困っているのだ。傘なら自分が持っている。

 でも長いことロッカーに放り込んであるから、埃まみれだし、古くて汚くて彼女には似合わない。彼女があの傘を差すことを考えただけで、火照るような恥ずかしさを感じる。といって紺のスカートからのぞく、清潔なふくらはぎに泥が飛ぶのは、耐えられない気がする。

 どうしようと迷っている内に、肩を叩かれた。サッカーをしていた少年だ。今はジャスティンと同じような白いシャツを着ている。

 自分が何か言うと、彼は破顔して、走って傘を取りに行ってくれた。女に傘を渡すのも、彼がしてくれた。

 古い傘を差して遠ざかって行く後姿を見ながら、まだ恥ずかしかった。少年が何と言ったのか分からないけれど、傘は自分のものに違いないから。

 あの女にふさわしいような男になりたい。新しくてきれいな傘を渡せるだけじゃない。傘を差しかけて一緒に歩く。そして誰もそれを不自然に感じないような。

 白い、汚れのない彼女を、自分もきれいな心で守れるようになりたい。

 再び場所が変わった。

 四方八方からスーツ姿の男達に恐ろしい勢いで押される。これは何だ、怪我をしてしまうと声を出す直前に、自分は電車に乗っているのだと気が付いた。なんて混み具合だ。

 誰かが偉そうに説教している。

 どうも日本の会社のようだ。自分は馬鹿みたいに頭を下げる。今度は別の誰かが何かを言う。こいつも偉そうな態度だ。自分はそいつに向かって、また頭を下げる。

 腹に嫌な物が溜まっていく。

 夜になって、家に帰ったらしいジャスティンを美しい女が迎える。この女もどこかで見た気がする。

 チリ一つなく掃除され整えられたアパートで、手の込んだ食事を出され、落ち着いて良い気分になってもよさそうなものなのに、自分の中に不安が広がって行く。

 ベッドに入る段になると、その不安は益々膨れ上がる。女が自分を欲しがっているのは食事の時から知っている。

 しかし、それは出来ない。自分の身体も欲していないし、してはいけないのだ。

 ベッドで女は、ジャスティンを優しく慰め、涙を零し、それからなじった。悲しい気分をこらえて謝り、無理矢理微笑む。

 怒りや不愉快さを表に出す方法は、忘れた。

 女が背を向けて寝息を立てはじめた闇の中で、ジャスティンは何かを思い出した。

 白っぽい病室だ。鼻から管を入れられて横たわっている病人は、初老の女だった。女は自分の手を握ってしきりと何かを訴える。瞳がジャスティンにすがっていた。

 苦しそうな息の下から吐き出される言葉に、いきなりジャスティンの血の気が引く。

 何を言っているのだろう。脳貧血でも起こしたかのように視界がぐるぐると回った。


 情景がまた一転した。

 狭くて暗い小屋の中にジャスティンはいた。土は冷たくて湿っている。

 身に着けているものといっては腰みの一つで、胃がひりつくほど腹が減っているのだけれど、小屋の戸には鍵がかかっていて外に出られない事も知っている。

 もっと強い力が欲しかった。外にいる奴らは火を焚いて温まり、何かいいもので胃袋を満たしている筈だ。

 突然、生温かい風が吹いてジャスティンは立ち上がった。

 小屋の中なのにどうして風が吹くのだという疑問は起こらなかった。体中に力がみなぎったような気がして、小屋の戸に向かって体当たりをする。実にあっけなく戸は壊れ、ジャスティンは土の上に転がった。

 予想していた焚き火はなく、代わりに月の光が体を包んだ。

 気持ちがいい。

 立ち上がったジャスティンは叫び声を上げて走り出した。腹の底から声を出す事、手足を力一杯動かす事が途方もない快感だった。小屋があった林はなだらかな斜面になっていて、そこを駆け下りて行くうちに焚き火を見つけた。

 なんて奴らだ。火なんか焚かなくても充分明るいってのに、臆病者め。自分を小屋に閉じ込めて、美味いものを食いやがって。

 手近にあった木の枝を折り取って、ジャスティンは焚き火の前の人影に殴りかかった。

 血飛沫と絶叫。逃げ惑う何人かを追いかけては殴り、木の枝を突き刺した。奴らの動きは笑えるほど鈍かった。

 楽しくて楽しくて仕方がない。

 倒れた一人の頭をつかんで岩に打ち付けると、砕ける感触と一緒に血と何かが飛び散った。戯れに取り上げて口に入れると、何とも甘い味がした。

 自分以外に動くものがなくなってから、ジャスティンは火を消し、地面に寝そべって月を見上げた。くすくすと笑いが洩れる。

 小屋の中で小さくなっていた自分は消えてしまった――。


 頭が重かった。目の前にあるのは見覚えのあるテレビと、コーヒーテーブルだ。という事はここは自分のアパートのリビングルームに違いない。

 いつの間にか眠ってしまっていた。周囲はすっかり明るい。

 カウチで眠ったためか、背中が痛い。夢の中で体験した飛ぶような動きは、やはり夢でしかない。テレビの脇にある時計を見て目を剥いた。遅刻寸前だ。

 立ち上がったジャスティンは、しかし体の重さにまたカウチに腰を下ろした。

 今から急いで仕事に行って、それで何だというのだ。もっとも仮病を使って休む気もしない。家にいてする事も思い付かないからだ。

 アパートの部屋を出る時には、時計も見なかった。駐車場の車に体を滑り込ませ、エンジンをかけようとして、助手席のグローブボックスが開いているのに気がついた。

 車両荒らしかと思ったのはほんの一瞬だ。ドアを開ける際に解除したセキュリティーシステムは問題なかった。多分、自分が昨日開けて、そのままにしたのだろう。

 グローブボックスからは、擦り切れた布の小袋がのぞいていた。まだヨシキ・コーノ達が逃げ回っていて、事件現場で怪現象が見られた頃、わざわざ実家に行って借りて来た物だ。祖父がヨーロッパ戦線を転戦して、無事に帰って来たのはその小袋のお蔭だといつも言っていた。

 その祖父も亡くなって久しい。

「祖父ちゃん、俺の人生はつまんないよ」

 何気なく袋を手に取り、話しかけた。元々は青色だったらしい布はすっかり色褪せている。口に出した事で、益々馬鹿々々しさが募った。ジャスティンは、乱暴に車を出した。

 予想に反してクリストファーは、大遅刻のジャスティンを怒るような素振りは見せなかった。

「携帯電話、どうした? 何度も電話したぞ」

 電源を切った覚えはなかったけれど、充電した覚えもない。シャツのポケットに入れてある携帯電話はバッテリーが切れていた。生憎、予備のバッテリーも充電してない。

「すみません、充電するのを忘れてました」

 アイムソーリーと言った時に、嫌な感覚が胸を過ぎった。昨夜の夢だ。

 馬鹿みたいに頭を下げる自分。

 クリストファーは小言めいた事は言わず、自分のデスクのひきだしからバッテリーを一つ出して、ジャスティンに手渡した。

「なきゃ困るだろう。後で返してくれ」

 はい、ありがとうございます。我ながら誠意のない言い方になったけれど、クリストファーは何も言わなかった。

 自分の席に着き、コンピューターの電源を入れる。またあの報告書と格闘するのかと、うんざりしながらファイルを開いて、異変に気がついた。文書がないのだ。

 即座に考えたのは、誰かが文書を消去したという事だった。頭が煮え立った。

 誰だと大声で怒鳴りたいのを辛うじて堪え、必死で考える。

 ジャスティンのファイルには本人でないとアクセス出来ないように、パスワードを打ち込むようになっている。捜査課内にそのパスワードを知る者がいるとは思えないが、HPD全体のコンピューターの管理を行っている者達が調べれば分かるだろう。

 誰かがジャスティンに悪意を抱いている。

「あれ、どうしたんだい」

 画面を前に硬直しているジャスティンに、通りかかったブランドンが声をかけた。

「文書が、消去されちまってるんだ」

 荒くなる鼻息を抑えながら答えると、ブランドンは、やぁ、そりゃ大変だ、と大袈裟な声を出した。

「USBには取って置かなかったのか。いつもお前はそうしてるだろ」

 言われてはっとした。どんな小さな文書でもバックアップを作っておくのはジャスティンの癖だ。昨日はそれをしなかった。

 いや、そもそも作った報告書をきちんと保存したのか。

 まるで十年も昔の事のように感じる昨日の事を、懸命に思い出す。プログラムを終了する時に、「文書は変更されているが、保存するか?」というサインが出たのは覚えている。保存する場所を指定した覚えがないから、自分はもしかすると、「ノー」を選択したのかもしれなかった。

 そんな間抜けな間違いを仕出かしたのは初めてだ。肘を突いて頭を抱える。

 耳鳴りがして来た。

 一時的なものだろうと思っていた耳鳴りは、午後になっても一向に止まなかった。

 困ったのは電話だ。相手が言っている事が聞き取れない。いきおい自分の話す声も大きくなる。三時を回った頃、オペレーターが外線を回して来た。オーサカのスミヨシ警察だと言う。昨日のメールについてだろう。少し躊躇して、ジャスティンは電話に出た。

 大都市の警察のことだから、英語を話す人間には不足しないだろうとは思っていたが、電話の相手はかなりアクセントがきつかった。しかも、ハワイの人間なら誰でも馴れている日本語のアクセントだけではない。イギリスに行っていた事でもあるのか、イギリス英語のアクセントと言い回しが多い。

 酷くなった耳鳴りと、電話の相手の独特な英語に悩まされ、ジャスティンは受話器を叩き付けたくなった。相手は、送ったメールに足りない部分があったと言っているのだが、それが何なのかが伝わらない。

 ついにジャスティンは根を上げた。

「回線がおかしいみたいなんです。メールにして下さい」

 言うだけ言って、一方的に電話を切った。そして気がついた。よほど大きな声で喋っていたらしい。捜査課員達の目がジャスティンに注がれていた。

「ジャスティン、ちょっと話がある」

 クリストファーが立ち上がった。それを合図のように、皆がまた自分の仕事に戻る。嫌ですと言うわけにもいかず、ジャスティンも渋々席を立った。

 捜査課の部屋を出て、会議室へ向かうクリストファーの後ろをジャスティンはとぼとぼと従った。

 昨日は会いに行く参考人との約束を忘れた。今日は遅刻して、本来ならとっくに提出すべき書類は、間抜けなミスのお蔭でまだ出来上がっていない。これで捜査課から外されて、保安部に逆戻りだろうか。

 実際、クリストファーがそう言えば、人事課はすぐにも手配をするだろう。

 耳鳴りがひどくなった。

 会議室は、捜査会議や講習会などに使用される。事件の目撃者などから話を聞くこともある。

 大小のいくつかの内、クリストファーは最も小さい一つにジャスティンを誘った。署の中は空調が効いてはいるが、ブラインドを下ろしていない窓からは強い光が差し込んで会議室は少し暑かった。

「ここのところ、君は本当に変だよ。体調も良くないだろう。今朝、鏡を見たかい」

 ジャスティンを座らせ、自分は立ったままでクリストファーはそう言った。変な夢のせいですとも言えず、ジャスティンは首を振る。

 事件以後小さなミスが続いている。確かに、今回の事件は誰にとってもショッキングな事件だったし、身体的にも消耗は激しいだろう。しかし、それを乗り越えてもらわなければ、一人前の警官としてやってはいけない。さっきのように、協力を要請している機関に失礼な態度を取ったりするのは論外だ。体の調子が悪いなら、医者に行くのもいいし、休暇を取ってもいい。

 耳鳴りを縫って、クリストファーの声は何とかジャスティンの耳に届いた。

 ひたすら謝ればいいんだ。すみません、犯人が死んだ事で気が緩んでいました。もう遅刻もしませんし、文書も消去しません。

 謝れ。ジャスティンは自分で自分に言い聞かせた。夢の中でも俺は必死に頭を下げていたっけ。

 だけど、あの後の、焚き火をしていた奴らを殺した時の爽快感といったら。

 急に顔を上げたジャスティンに、クリストファーは言葉を止めて、その顔を覗きこんだ。

「分かってもらえるかな」

 ええもう、すみません。と言う代わりに、ジャスティンの口からは別の言葉が飛び出した。

「黙れよ」

 言ったのと、腰を浮かせて右手でクリストファーの顔を殴りつけたのは同時だった。

 不意打ちを食って倒れ込んだクリストファーに、ジャスティンは飛びかかった。クリストファーは倒れる時にも反射的に受身を取っている。それが小憎らしかった。

 体を起こす隙を与えずに、馬乗りになる。クリストファーはまだ何が起きたか分からないような顔をしていた。見覚えのある表情。

 そうだ、夢の中の奴らは息が止まる寸前にこんな表情をした。自分に何が起こっているか見当もつかない顔だ。馬鹿め。

 両腕を使って顔をブロックする事も忘れているクリストファーに、さらに一撃を加えようとした時に、後頭部で何かが炸裂した。

 気が遠くなった。


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