第二話・苛立ち
〈これまでのあらすじ〉
(第一章の詳しいあらすじは、第二章一話をご覧下さい)
ホノルルを震撼させた切り裂きジャップこと、河野由樹とヒイアカは、多くの犠牲者を出したが、壮絶な追跡劇の末にマノア滝で最期を迎える。
その場に立ち会った、ホノルル警察の捜査官で日系四世の、ジャスティン・ナカノは以来、毎夜犯人達の過去に関係するかのような夢を見るようになった。問題は夢だけでなく、日常生活を浸食する、自分の苛立ちだった。
犯人が死んだからといって、事件が全て終わった訳ではない。
調査は続行されるし、作らなければならない書類は山ほどある。クリストファーが自分のデスクに戻って行くのを見ながら、ジャスティンは自分のEメールを開けた。
遅々として進まなかった日本の警察との連絡が、国際警察機構と総領事館の援護を得て、ようやく滑らかになり始めた。最初に殺されたヒロミ・コーノは別として、トレジャーアイランドで殺されたシゲル・エトーと、妻、マリコについての問い合わせは既にしてあり、その返事が転送されて来ているはずだった。
問い合わせ先は、夫婦が住んでいたオーサカの警察署だ。オーサカ・シティーは大きな街だそうで、直接調査をしてくれたのは管内のスミヨシ警察という機関だった。
数通あるメールの一覧を見て、多分これだろうと思いながら、開く代わりにジャスティンはメールをゴミ箱へ移動した。続いて、メールを完全に消去させるコマンドをクリックする。
ゴミ箱が空になった表示が出て、やっと我に返った。
今、俺は何をした。
自分のしたことに呆然となる暇もなく、ジャスティンはメールを転送してくれた担当者に連絡を取り、まだ先ほどのメールがあるかを尋ねて、再送してくれるように頼むのに追われた。
「どうやったら、あんな大事なメールを、読まずに消去出来るってんだね?」
内線電話で話した担当者は苦笑していたけれど、それがジャスティンの無能さを嘲笑っているように響き、もう少しでメールなんかいらないと怒鳴るところだった。誰にだって間違いはある。
電話を切って間もなく、担当者から再びメールが転送されて来た。今度こそ間違いなく開けてみると、やけに仰々しい言葉遣いで報告がなされている。
オーサカはトーキョーと並んで大きな都市だと聞いているが、さぞや礼儀にうるさい土地なんだろう。
現在のところ、被害者が犯人と面識があったとは思えない。それは、被害者の家族および知人の証言によるものである、としてあった。
キイボードの脇に肘鉄砲をついて、ジャスティンは考え込んだ。
犯人達は深夜、エトー夫妻の部屋へ行ってドアを開けさせている。被害者がドアを開けたのは、犯人がホテルの人間のふりをしたとも考えられるし、室内に入れたのは、銃を突き付けられたからかもしれない。
しかし、なぜ犯人は、エトー夫妻がそこに泊まっているのを知っていたのだろう。もしかしたら犯人と被害者は、家族も知らない場所で面識があったのではないか。
悶々と考えているジャスティンに、クリストファーが声を呑気そうな声をかけた。
「おい、君は今日、マシュー・ヘンダーソンの知り合いに会いに行くんじゃなかったか。何時だ?」
椅子から二インチは確実に飛び上がった。
肘を突いていた場所から、わずか五インチばかりの所に、自分用のメモ用紙が貼りつけてある。「テッド・ヒル。カネオヘ、十時」
二人一組行動が捜査課の原則だけれども、人手の足りない今は、簡単な用件ならば一人で行動することもある。
壁の時計は十時半になろうとしていた。
電話を入れて、急な事件が起こったと言い訳をする。今から行くと断り、大慌てで署を飛び出した。
カネオヘはビーチハウスでの事件のあったカイルアの隣の街だ。リケリケ・ハイウェイを飛ばしながら、ジャスティンは複雑な気分になっていた。
間抜けなミスを繰り返すなんて、自分はどうかしている。捜査課に配属されて以来というよりも、警官になって以来の大きな事件ですっかり調子が狂ってしまったのだ。
峠を越えて、下り坂のカーブを幾度か曲がると、今度は別の声が聞こえ出した。
それにしても腹が立つ。あの親父、クリストファー。俺の行動を一々監視してやがる。ミスをするのを待ち受けているんだろう。
「彼はそんな男じゃないぞ」
わざわざ言葉に出して否定したものの、胸の中の声は消えなかった。
テッド・ヒルはカネオヘの家で息子家族とのんびり暮らしている、引退したパイロットだ。マノアで殺害されていたマシュー・ヘンダーソンとは、時折ゴルフを一緒にする仲だったそうだ。
白人にしては小柄な老人は、ヘンダーソンとゴルフ場で知り合い、一緒にプレイするようになるまでの経緯を、思い出話を取り混ぜつつ語った。
何よりも収穫は、彼が被害者と四月二十日の日曜日に、ゴルフを一緒にする予定だったという話だ。
その日、約束の時間にクラブハウスに現れなかったヘンダーソンを心配して、ヒルは自宅に電話をかけてみたが、誰も出なかった。ヘンダーソンは携帯電話を持っていなかった。
ヘンダーソン夫妻の遺体は犯人によって解体され、扱いが普通でなかったため、正確な死亡推定の日時が確定出来ていない。ヒルの話は重要な鍵になる。
もしも、四月二十日にはすでにヘンダーソン夫妻が殺害されていたのならば、犯人達はかなり早い時期に、マノアのヘンダーソン家を拠点としていたという事だ。
勢い込んで色々と尋ねてはみたものの、ヒルはそれ以上の収穫をジャスティンにもたらさなかった。
ホノルルへ戻る道は、急ぐ必要はなかった。
ジャスティンはスピードを出さずにリケリケ・ハイウェイを走りながら、ヒルの話を思い出していた。
「仲が良かったってわけじゃない」と、ヒルははっきり言った。ヘンダーソンが誘うからゴルフも一緒にしただけで、それ以外では付き合いたいと思うタイプの人間ではなかったとも。
ヘンダーソン夫妻の近所の男が言った言葉は、外れてはいなかった。マシュー・ヘンダーソンは同じ白人の眉も顰めさせるほど、人種差別に囚われた人間だった。
「一緒に回る仲間が三人しか集まらない時にね、クラブハウスに顔見知りがいたりして、でもそれがアジア系だったり、アフリカ系だったりすると、彼は絶対に嫌だと言ったもんだ。私は彼のそういう部分が好きになれなかった」
その差別主義者とゴルフだけでも付き合っていた理由を問うと、ヒルは渋い顔をしてから薄く笑った。
「人種差別っていうのはね、呪いだと思うんだ。小さい頃から『こうだ』と教えられていると、たとえ頭ではイカン事だと分っても、体に染みついてしまって人生まで左右する。私の祖父母がそうだった。だから、彼の歪んだ価値観は彼だけの責任じゃないだろうと思ったからだ。しかし、それを矯正しようとするほどには、私は若くなかった」
話を聞いている時は、そういうものかと思っただけだけれど、今、ハンドルを握りながら思い返すと違った感想が湧き出て来る。
ヒルは、自分は人種差別に反対だという姿勢を見せていたが、実際はどうなんだ。何だかんだと言いつつも、ヘンダーソンと楽しく一緒にゴルフをしていたじゃないか。「人種差別は良くない」と言いながらも、どこかで白人優位主義を否定し切れないのじゃないか。
ヘンダーソンやヒルのような人間が多過ぎる。
すっかり泡立った感情を抱えて、ジャスティンは本署に戻った。
まだ午後も早い時間なのに既に一日の仕事を終えたような疲労感があった。
本来なら直属の上司であるクリストファーに、口頭で聞き込みの報告をし、その後報告書を作成すべきなのだが、ジャスティンはさっさと自分のデスクへ座った。
怪訝そうな顔のクリストファーを見ないようにして、コンピューターに向かう。
日本からのメールと、先程の事情聴取をまとめなければならない。その他にもペーパーワークは山積みだった。
午後中ジャスティンはコンピューターの画面を睨んで過ごした。
自分でも呆れるほどに集中出来ず、作り始めた書類も書いては消しを繰り返した。席を蹴りたい衝動にも何度か駆られたけれど、実際にそうして、誰かに咎められたり心配されたりするのは面倒だった。
退庁の時間には、くたくたに疲れていた。
「ジャスティン、今日はシンコ・デ・マヨじゃないか。飲みに行こう」
ライアンが明るく誘いを投げてきた。五月五日はメキシコの独立記念日のシンコ・デ・マヨだ。
三月十七日のセント・パトリックスデーに大騒ぎするのがアイルランド系だけでないように、シンコ・デ・マヨに大酔するのは決してメキシコ系とは限らない。
「いいわねぇ、でも飲酒運転はだめよ」
先ほど出勤してきたジェイミーが、わざと羨ましそうな表情を作る。
羽目を外す人間が増えそうな夜に、夜勤に当たるのは誰も喜ばない。
基本的に強行および殺人担当班には夜勤がない事になっているが、人手不足の折から巡査長・巡査部長は順番に夜勤に付く。警部補や警部にしたところで、事件が起これば何時であろうと呼び出されるのだから、不平を言う者はいなかった。
ジャスティンはライアンに向かって首を振った。
「ごめん、調子が悪いんだ。他の奴を誘ってくれ」
大した事もしていないのに、体がスポンジになったかのように力が出ない。飲みに行くのなんてとんでもない。
行ったところで、女の子を眺めたり、下らない馬鹿話をして酒を飲むだけだ。何で今までそんな事に時間と金を遣っていたのか、さっぱり分からない。
「へぇ、珍しい。大丈夫かい」と言うライアンに生返事をし、クリストファーにはろくに挨拶もせずに署から出た。五月の太陽は沈むのが遅い。
まだ暗くなる気配も見せずに照り輝く太陽が、無性に忌々しかった。
アパートに辿りついた後も、苛立ちと不快感は消えなかった。カーテンは朝から開けてもいない。それでも充分に明るいのが、さらに腹立たしい。
服を脱ぎ捨て、下着だけになってジャスティンは冷蔵庫から缶ビールを出した。一息に半分流し込んでから、朝、コーヒーを飲んで以来何も口にしていなかった事を思い出した。相変わらず食欲はない。しかし、ビールは美味いと感じた。
四本目のビールを開ける頃に、やっと日が沈んだ。
柔らかい闇が電気を点けていない室内に立ち込めてきて、それで体と心がほぐれた。
魚が水に戻ったような気になって、ジャスティンは深呼吸した。固形物は欲しくなかったけれど、胃はアルコールを欲しがっていた。
眠りに落ちた感覚はなかった。