第一話・事件の名残
第一章のあらすじ。
北本祐司が働くホノルルのホテルを訪ねて日本から来た友人、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかった。警察は由樹が妻を殺害した後、入水したと断定したが、その後も不可解かつ残忍な殺人事件が続く。
担当捜査官クリストファーが、相棒のジャスティンと共に捜査を進め、犯人は河野と謎の女性、ヒイアカと判明するが、彼らの足取りは掴めない。観光客、ドラッグ・ディーラー、地元民と関連性のない人々が、次々に殺されて行き、オアフ島はパニック状態になる。
前代未聞の殺人鬼が起こした事件現場、あるいは突然北本祐司にかかった電話で、説明のつかない奇妙な事象が指摘される中、犯人達は襲った相手から反撃を受けて、手負いの暴走状態になる。
犠牲者を出す壮絶なカーチェイスの果てに、山中に追い詰められた河野とヒイアカは、滝つぼで拳銃自殺を遂げ、多くの謎だけが残された。
目覚ましが鳴った時、自分が眠っていたことに初めて気がついた。
自分が自分である事を確認しながら、ジャスティン・ナカノは寝汗で濡れた体を起こした。眠りにつく前よりも心身ともに疲弊し切っている気がするのは、夢のせいだ。
一体どういう訳なんだろうとベッドから足を下ろして、すぐには立ち上がる気力も起きなかった。
突如ホノルルに現れた稀代の殺人鬼は、ちょうど一週間前に世を去っている。報道陣の数は日を追う毎に少なくなっているが、警察はまだ後始末やその後の捜査に追われていた。
あの日、切り裂きジャップと仇名されたヨシキ・コーノが自分の頭を銃で撃ち抜く直前、ジャスティンを指差して奇怪な笑い顔をした。
それから、ジャスティンの内側に何かが棲みついた。
最初の一日二日は、事件の異常性によるものだろうと大して気にも留めなかった。しかし、毎夜の夢に加えて、周囲に対して理由のない苛立ちを覚える事もしばしばだ。
ジャスティンは一度起こした上半身を、だるさに任せて再びベッドに投げ出した。このベッドで誰かと眠ったのはずっと前だ。サンドラ――。
付き合ったのは一年ほどだった。警察官の不規則な仕事を理解してくれる優しい女性だと思ったのに、何の事はない、公務員となら安定した生活が出来るという腹だっただけだ。
だから本土から来た弁護士と近付きになった後は、さっさと彼を頼ってシアトルへ行ってしまった。
「ジャスティンは真面目でいい人だけど、出世はしないと思うの」
というのが、サンドラがジャスティンを捨てた理由だ。
本土へ行く前に、彼女はそれを自分の女友達に言い。華やかな生活に向かって飛び立った彼女に嫉妬気味の女友達は、わざわざジャスティンにそれを伝えた。
「畜生、性悪女」
そのつもりはなかったのに、我知らず大声で怒鳴っていた。サンドラが去ったのは一年近く前なのに、なぜ今頃そんな事を思い出して腹が立つのか。
夢の中で、ジャスティンは誰かを空港で見送った。誰だったかは覚えていない。
ただ相手が薄着だったから、飛行機の中は涼しいだろうと着ていたジャケットを脱いで渡した。相手は泣きそうな顔で何か言った。多分「ありがとう」と言ったのだ。
もしかしたら、自分はサンドラを送ってやりたかったのかもしれない。彼女が本土へ行ってしまった当初は落ち込みもしたが、女友達から話を聞かされた時には、むしろそれならあっさり別れられて良かったと思ったくらいだ。
出世が早くない自覚はあったが、いつか、それでもいいと言ってくれる人が現れるだろう、と思えるほどには楽天的だったのだ。
しかし、今は到底そんな風には考えられない。出世が出来ない事よりも、無能な上司にあれこれと指図されるのは真っ平だ。
今回の事件は犯人逮捕に手間取り、その間多数の犠牲者が出た事で、担当班の人間として辛い思いをした。けれども、ついには犯人達を逃がさずに、事件を終結させた点については、署長からも褒められたではないか。
それなのにクリストファーは、自分達の手柄ではないと言い張り、おまけに犯人達を単独で追ったジャスティンの無謀ぶりについて小言まで垂れた。あんな男の下で働くのはもう御免だ。
はっとした。
今のは、本当に自分の思考だろうか。
犯罪捜査課に配属され、クリストファーと一緒に働くようになってから、ただの一度だってそんな事を思った事はない。
よく思い出せ、クリストファーは小言を垂れたんじゃない。
「奴らを追いかけてる途中、名前を呼んだんだ。返事がなかった時には生きた心地もしなかったよ。お互い、まあ、無事で良かった」
彼は心配してくれたのだ。
自分はどうかしている。
起き上がってジャスティンは頭を振った。しかし、別の声が「そりゃ、部下を死なせたら自分の失点になるもの。心配するよな」と、意地悪く囁く。
もう一度頭を振り、ジャスティンはバスルームに向かった。シャワーを浴びればすっきりするだろう。
熱めの温度に設定して、頭から湯を浴びる。シャンプーを頭髪に擦りつけようとした時、じゃりっという感触がしてジャスティンは総毛立った。
昨夜見た別の夢を思い出した。
夢の中で、ジャスティンは女だった。闇夜だったせいで正確な場所は何処だか判然としない。海に近い林の中で、小山のような大男に殴られた。眩暈と耳鳴りがするほど何度も殴られ、鼻血が着ているTシャツを濡らした。
悪態を吐きながら散々女を殴った男は、確かに女の名前を呼んだ筈なのだが覚えていない。ぐったりした女を、男はその場で犯した。
長い髪が地面に擦れる感触、下半身から来る苦痛、上になった男の顔。全てが吐きそうだった。何度も乱暴な真似をされたが、口からは悲鳴も洩れない。
恐怖と絶望が心にぴったりと蓋をしていた。助けなんか来ない――。
身の内に残る不快感にぞっとしながら、ジャスティンは更にシャワーの温度を上げた。
髪の中に、砂は入ってはいない。当たり前だ、夢なんだからと自分に言い聞かせ、頭と体を洗う。背中を洗った際に、ボディシャンプーが微かに沁みた。何だろうと思いながら、手早く体を流す。
洗面所で体を拭きながら、鏡に映した背中を見て、ジャスティンは再び寒気に襲われた。背中には所々、軽い擦り傷のようなものが出来ていた。
熱いシャワーを浴びた甲斐もなく鳥肌の立った体を、急いでシャツで包む。リビングルームへ行くと壁の時計は既に七時四十分を指していた。急がないと遅刻だ。ジャスティンは必要な物だけポケットに押し込んでアパートを飛び出した。
ダウンタウンに近いマキキのアパートを借りたのは、サンドラと付き合うようになってからだ。それまでは島の中央の小さな街、ワヒアワから通っていた。
車のエンジンをかけると、ラジオから陽気な音楽が流れた。同時にまた、小さい声が胸の中から聞こえる。今日もまたクソつまらない一日になるなぁ。
ハンドルを切って駐車場から車を出しながら、ジャスティンは声に引き摺られて考え事を始めた。
俺の人生は本当につまらない。
実家はジャスティンが生まれる前から、地元民相手の小さなレストランをしている。観光ガイドに取り上げてもらえる様な、小洒落たレストランなんかではない。小さい時は、ホノルルの「街」に連れて行って貰えるのが何よりも楽しみだった。
同じ地区で小学校から高校まで行き、やはり一番近い二年制のコミュニティー・カレッジへ仕事をしながら通った。本当はハワイ大学へ行きたかったけれど、そんな金が家にない事も知っていた。
州や市の仕事に就くには、強力なコネクションがなければ難しいと言われる中、警官に採用された時は本当に嬉しかった。
今はその喜びは欠片も残ってはいないけれど。
警察内部での人事でも、コネクションと学歴が大きくものを言う。スピード違反のチケットを切るかわりに、若い女性ドライバーに電話番号を聞いたりするような同僚が早々と巡査長になる中、ジャスティンは取り残された気分を味わった。
やっと試験を受けて合格し、次いで刑事部の犯罪捜査課に配属された時は、これで運が向いて来たと思ったが、どうやらそれは間違いだったらしい。
つまらない人生。
こんなちっぽけな島の、更にちっぽけな街に生まれて、ハワイ州から出たのはたったの二回だ。就職してから友人達とラスベガスへ行った。それだって、ルーレットやスロットマシンで金をすっただけで楽しいとは思わなかった。
本当はどこかに、もっとましな人生を送れる場所があるような気がする。たった一度の人生がこれでは最悪だ。
今はまだ知らないどこかで……、誰かと……。
激しいクラクションの音で、ジャスティンは我に返った。
毎日通っている道なのに、ストップ・サインを見落として車を進めていたのだ。急ブレーキを踏んだドライバーが何か怒鳴っている。
ジャスティンの車は個人の物だが、警察の仕事で使用することが許可されていて、そのためのサイレン等も取り付けられている。一目で警察関係だと分かるはずだが、相手はよほど腹が立ったらしい。
ジャスティンは無視してアクセルを踏み込んだ。
捜査課には遅刻ギリギリに飛び込んだ。
「おや、寝坊かい。遅刻寸前じゃないか」
声をかけて来たクリストファーに、考えるよりも早く言い返していた。
「ギリギリですけど、遅刻じゃありませんよ」
冗談ぽく言ったつもりなのに、クリストファーは面食らった顔をして「分かってるよ」と短く言い、部屋を出て行ってしまった。
そういえば昨夜、目覚ましをかける時に、何となくいつもより遅い時間にセットした。あれは何故だったのだろう。
自分のデスクのコンピューターを起動させ、さて今朝、まずしなければならない事は何だったっけ、と頭を捻る。事件終結以前には絶対になかった現象だ。頭がすっかり仕事から離れている。
脇からコーヒーが差し出された。部屋を出て行ったクリストファーが、コーヒーを持って来てくれたのだ。いつもなら自分の役目だ。
さすがに恐縮しながらコーヒーを受け取る。
「最近、疲れてるみたいだな。事件の後始末が片付いたら、休暇を取るのもいいかもしれないぞ」
慰めるような口調に、口先では「そうですね、ありがとうございます」と言いながら、腹の中の誰かが悪態を吐く。
休暇を取ったってどこで何をしろってんだ。行く場所なんかありゃしない。
顔に出ないようにと、ジャスティンは作り笑いを浮かべてコーヒーを口に運んだ。
「不味い、砂糖の入れ過ぎだ。こいつ、さっき俺がほんのちょっと言い返しただけで、意趣返しに砂糖を山ほど入れやがった。糖尿にでもするつもりか」腹の中の悪罵は止まらない。
それを意味不明な笑顔で押しやりながら、ジャスティンは書類を作成するふりをした。