第三十話・行き止まりの滝
〈これまでのあらすじ〉
ホノルルのホテルで働く北本祐司を訪ねて日本から来た、河野由樹の妻、広美が惨殺死体で見つかり、警察は当初、無理心中と判断する。しかしその後次々と起こった殺人事件も河野と、共犯者ヒイアカの仕業だった事が判明する。
関係者の嘆きをよそに、河野らは島の東側で更に三人を殺害する。生存者の証言や、河野が祐司に電話で言った言葉、新たな被害者の証言、それぞれに謎が残る中、神官からの霊的な指摘がある。祐司と被害者の娘、アリシアの元にも魔除けの葉が持ち込まれる状況で、河野発見の一報が入る。犯人二人は市内を通って山中の滝へと向かい、捜査班は必死に追う。
前方にようやく滝が見えて来た。
こんな場所にこれほど高い岩壁があり、そこから滔々と水が流れているのは奇蹟のようにも思える。普段なら飛沫となって落ちてくる白い水に見惚れるところだが、今はそれどころではない。
滝へ続く最後の階段を上りながら、クリストファーはやっと見慣れたシャツが立っているのを見つけた。
クリストファーが声をかけるより早く、緊張したその背中から声が響いた。
「逃げられないぞ、諦めろ」
ジャスティンは滝壺ではなく、反対の左手の方を向いている。滝壺の周囲は岩場になっているが、その手前は小さな平地になってベンチなども設けられている。
ジャスティンは階段の最上段に立って銃を構えていた。
二、三段階段を上って状況が分った。
滝の周囲には、事故を警戒した立ち入り禁止のロープが張ってある。大人なら一またぎのロープの内側の、滝が流れ落ちている絶壁と直角に、左側は急斜面の土手になっている。山中に入られないように金網が張ってあるが、端がわずかに破れている。その破れ目から犯人達は逃げようとしていた。
ヒイアカが土手をよじ登ろうとしており、コーノはヒイアカの足の下に右肩を差し入れて支えてやりつつ、左手に持った銃をジャスティンに向けていた。
ヒイアカが足を置いた肩が赤く染まっている。ここまでたどり着く途中で怪我をしたのはヒイアカなのだろう。コーノが水色のシャツを着ていた事に、クリストファーは初めて気が付いた。
人一人の体重を支えながら、きちんと狙いがつけられる訳がない。とっさにそう判断したのは、頭のどの部分か分らない。
クリストファーは自分の銃を抜き、ヒイアカの頭上目がけて発射した。同時にジャスティンを後ろから押さえつけて伏せさせる。
相手がはっきりと害意を持って武器を用いている状況以外で、警官が銃を使用することは許されていない。
それがどうした。
体を低い姿勢に持って行くまでの一秒足らずの間に、クリストファーはヒイアカが土手から滑り落ちるのを見た。
弾が当たったわけではない。驚いてバランスを失ったのだ。
ムウムウと漆黒の長い髪がひるがえって、撃ち落とされた南国の鳥のようだった。上がった悲鳴は思いの外に高い声だった。それまで支えてやっていたコーノが抱き止めようとし、逆に自分も地面に倒れ込んだ。
宙に向けて彼の銃が火を噴いた時、渓流の流れる谷間全体がざわっと揺れたような気がした。
「今ですよ」
腕の下でわめいたジャスティンを制しつつ、クリストファーはゆっくりと体を起こした。背後の応援が追いついている事を確認してから、慎重に銃を構え直す。
「ヨシキ・コーノとヒイアカだな。銃を捨てなさい。君達は逃げられない」
重なって地面に倒れた二人は、低い声で何か喋っていた。小さい声なので、それが英語か日本語かは分らない。
コーノが急に、機械じみた動きと速さで上半身を起こした。左手の銃はそのままで、銃口がはっきりとこちらに向いている。
遮蔽物のないこんな場所で撃ち合うのは自殺行為だが、彼らはそれを望んでいるのかもしれない。ヒイアカを支えてやっていた時は、張り詰めた表情をしていたコーノは、今は明らかに憤怒の形相をたたえている。
ロープを挟んで、クリストファーとコーノは睨み合った。
滝壺のそばの平地は決して広くない。クリストファーとジャスティンが階段の上で止まっているために、応援の警官達は犯人達を包囲するための展開が出来ないでいる。
しかし、下手に動けば危うい均衡は一気に崩れる。コーノの銃に弾がどれほど残っているかは分からない。
自分一人ならばともかく、相棒や他の警官を犠牲にするわけにはいかない。
宵闇が谷を包もうとしている。鼻に皺を寄せて敵を睨み付けるコーノの後ろで、ヒイアカが動いた。
土手に上ろうとしている時には気が付かなかったが、右腕が動いていない。やはり、ランディ・タナカが打ち据えたのはヒイアカに間違いなかったと思った刹那、コーノが低く唸りながら息を吐いた。
獰猛な獣が唸るのと同じ声だ。
瞳が光った。
薄暮の中でそれが猫の目のように光を発したのは一瞬だったが、クリストファーの体は自制を失って一歩後退した。すぐ隣から動揺したジャスティンの空気も伝わった。
その間にヒイアカは、土手とは逆の岩場へ足を踏み入れていた。岩場は平地よりもずっと狭い。そこを伝ってはどこへも逃げられない。滝が流れ込んでいる渓流は、大して広くも深くもないし、滝の左手は土手になっているが、右手は絶壁だ。
ヒイアカは水の中に歩を進める。膝が隠れる程になって、彼女はコーノに何か告げ、今度はコーノがじりじりと後退し始めた。つられるようにして、ジャスティンが一歩前に出る。
鋭い声が上がった。
「近寄るな」
滝の飛沫を受けて立っているヒイアカだった。
乱れ放題の髪もそのままに、水の中で両足を踏ん張っている。土手から落ちた時とは打って変わった低い声だ。地元訛でもない、独特のアクセントだった。
顔に掛かった髪の間から今にも瞳が光るのではないかと思いながら、クリストファーは怒鳴り返した。
「逃げられないと言っているんだ。水から上がりなさい。観念して罪を償うことを考えろ」
返事の代わりにヒイアカは水に向かって唾を吐いた。こちらに銃を向けたままのコーノも今や水の中に入り、ヒイアカに近付こうとしている。小さな滝壺の底は、岩だらけで足場は悪い筈だ。コーノは狙いが付けにくい。
射殺するなら今だぞ、と誰かがクリストファーに囁いた。クリストファーがコーノを仕留めればいいのだ。
「俺を殺したいんだな? だけど俺は死なないよ」
クリストファーの心を読んだようにコーノが初めて口を利いた。日本語訛は強かったが聞き取れた。
ぎょっとしてコーノの顔を見ると、彼は薄笑いを浮かべてクリストファーではない何かを見ていた。
ははは、と乾いた声でコーノは笑い、空いた手で自分の胸を指し、その指をこちらに突きつけた。真っ直ぐに伸びた人差し指の先にいるのは、クリストファーではない。
彼はジャスティンを指差していた。ヒイアカがふふふ、とさもおかしそうに笑った。
彼らの神経は焼き切れる寸前かもしれない。今、指を差したのはジャスティンを道連れにするという意味か。
コーノの腕が動いた。クリストファーはジャスティンの前に飛び出そうとし、逆に押しのけられた。ジャスティンの銃口はひどく震えている。
この若造が、と罵る暇もなかった。
コーノが銃を向けたのはヒイアカの額だった。
しかも彼女は水の中で膝を曲げて、自ら待ち受ける風をしている。躊躇なくコーノは引き金を引いた。
飛沫を上げて、ヒイアカは後ろに倒れ、即座にコーノは銃口を自分のこめかみに当てる。
止める術はなかった。
二発目の銃声が響いて、コーノの体が水の中に飛沫を上げた時、谷全体を地鳴りのようなものが襲った。
軍の音速機が通ったのかとも思ったが、そんな可愛い物ではない。地面がかすかだが揺れていた。
階段の下に鈴生りになっている警官達からも「何だ、何だ」と驚愕した声がする。切り立った周囲の崖から大勢の人間の声も聞こえた。
地鳴りと共に聞こえ始めたその声は、叫び声のように聞こえ、次第に大きくなり、最後に爆発するような笑い声になって、急に消えた。
同時に地鳴りも止まった。
谷は静まり返った。
「今の、地震ですか? 私は地震に遭った経験がないので」
ジャスティンが放心したような顔で話しかけて来て、クリストファーは我に返った。
「知るもんか。おい、それよりコーノとヒイアカだ。だめだろうけどな」
慌ててジャスティンは階段の下方を向き、「皆、上がって来てくれ」と警官達を呼び寄せた。その間にクリストファーは滝壺に近寄った。
水に血が混じり始めている。ヒイアカは仰向けに、コーノは顔を下にして揺れていた。
これで彼ら自身の口から犯行の動機や、共犯となったきっかけを聞き出すのは不可能となった。しかし、市民の恐れる「切り裂きジャップ」はもういない。そう思うと、その場に座り込んでしまいたいほどの疲労を覚えて、クリストファーは腰を屈めて膝に手を突いた。
ズボンの膝に血がにじんでいる。ここへ来る途中に滑って転び、出来たものだ。この傷を見てよく頑張ったと言ってくれるのは妻だけだろう。
泣きたいような、笑いたいような気分を抱えて、クリストファーは膝から手を離し、腰を伸ばした。犯人達がこれ以上人を傷付ける事はないが、ホノルル警察はまだまだ整理し、調べる事があるのだ。